第86話 タウンクライヤーの知らせ
アルスは階段を登ると、その先にいるはずのディレアの姿を探した。
小さな窓越しに、風に流される鳶色の髪の毛を見つけ、廊下横の雨戸に似た扉へ手をかけた。
狭苦しい間口から露台へと出たアルスは、自身の存在を気づかせるようにディレアの隣へ立つ。
視線を合わせないまま彼女と同様に外の景色を眺めながら話しかけた。
「ディレア、あんまりな暴力は程々にしておいたほうがいいと思う」
特別責めるつもりはなかった。アルスは揶揄いを含むかように微笑してみせる。
それを横目で見たディレアが、投げやりに鼻を鳴らした。
「安易なキスで誤魔化そうとした奴の、舌噛んで何が悪いっていうの」
絶句した。
怪訝な顔で覗き込んできたディレアへ、アルスはなんとか平静を保つようにぼそぼそと口を動かす。
「テッドは、顎を殴られて、舌を噛んだとしか、言ってなかったんだが」
「……っ、ああそう。……じゃあ、そうなんでしょう」
ディレアは、一瞬声を上擦らせると感情を消し、淡々と言い切った。
すっかり赤面してしまったアルスは、手すりを握る自分の手元を見下ろすしかなかった。
隣で頭痛がするかのように頭を抱えはじめたディレアが、仰々しくため息をつく。
「……あんたがお子様っての忘れてたわ」
「不慣れなのは否定しないが、そういう言い方をされると俺も怒る」
お互いきまずい空気を刷新する話題が浮かばないまま時が過ぎる。
先ほどから俯くたびに目にはいる木製の手すりは、木骨造りの家を支える黒みがかかった木軸よりは幾分明るい色で、この露台が景色を楽しむために後から増築されたものなのだろうと推察できた。
事実、ここから臨む光景は、時間を潰すには最適だった。
ぽつりぽつりと数えられるほどには過ぎる人々と、川を滑りゆく小型の船で変化に富んでいる。
「――なにがあったか、聞かないの?」
「俺は他人のことに首を突っ込むのも、突っ込まれるのも苦手なんだ」
「そういう割に心配して追いかけてきてくれたんだ」
アルスは、ディレアから切り出して来たことに感謝した。
ディレアの表情は今、穏やかにみえる。
多少の強がりはあれども、いつも通りの会話はできそうなディレアにアルスはほっとした。
「聞いても構わないのか?」
「何があったかって? そうねえ、強いていうと、何もない、が正解なのかもね」
アルスは、寂しげに目を伏せたディレアの言葉の続きを黙って待った。
「なんかさ、テッドはあるとき急に、ふっといなくなりそうだなって思うの」
ディレアは手すりを背後にして、もたれかかると、首をそらせるように上空を見上げた。
「家族の仇だのなんだのって、昔の嫌なこと思い出すような夢に散々うなされたものだけど。最近はみんなが居なくなって一人置き去りにされるような、そういう夢が増えたなあ」
具体的に悩みを相談してきたというよりは掴みどころのない気持ちの吐露だった。
しかし、アルスはディレアの抱える思いを知っている気がした。
「……軽くしか事情を知らないが、家族を突然何人も亡くしたんだろう。俺も……多少は似たような経験があるし、何かの折に不安を誘発してくる夢も覚えがある」
幼少期に母親を亡くし、“先生”がいなくなったこともそうだが、ディレアたちと出会う直前のことも、自身の孤独感を思い起こさせるには十分なものだった。
「昔、俺の師がよく言っていたんだが『夢は、自分の歴史に向き合うようなものだ』と」
それは十歳になる前に聞かされてきたものだったというのに、いまだ度々蘇る。
知識を得て思考を重ねた今は、尚更しっくりと意味が沁みてきていた。
「過去、自分が直面した出来事、今の思いや考え、不安が、無防備に暴かれる瞬間なんだと。――どうした?」
ディレアが驚いたようにこちらへ向き直ってきたので、アルスは戸惑った。
「ううん、それ、この前テッドの口からも似たようなこと聞いたなあって。珍しく自分のこと話してたから覚えてる。テッドも昔、世話になった人から言われたって。……なんか、たまにあんたたち、ちょっと似てる時あるよね」
「テッドと俺が……?」
自分とテッドに似てるところがあるという指摘は意外すぎて、アルスにはあまりにピンとこなかった。
「あんたもさ。突然いなくなるのは勘弁してよね。複雑な事情を抱えてそうなことくらいはなんとなくわかるし。困ったことがあったら相談くらいはしてほしい」
心配していたはずが、むしろそれを返され、アルスは立場を隠す自身の悩みを拾われた気分になった。
このまま全てを伝えてしまいたくもなるが、アルス個人の責任では済まないので安易に吐くわけにはいかない。
「……ありがとう」
アルスは、ただ静かに噛みしめるようにして、単純なひとことへ気持ちを込めた。
ディレアは、こちらを見守るように微笑したあと、徐々に顔を歪める。
そして、彼女は腕をあげて伸び上がった。
「あーあ。あんたのこと好きになればよかったかな」
ディレアの横顔は、急にすっきりと晴れやかに見えた。
少しだけ吊り上がるはっきりとした勝気な瞳と目が合い、ディレアが魅力的な女性なのだと素直に納得した。
アルスは照れを隠すように、やれやれとそっぽを向き抗議する。
「その言葉、もし俺がお前のこと好きだったとしたらどうするんだ」
「ないでしょ」
「……ないな」
あまりに即答してくるさまに、アルスも笑いそうになりながら同意する。
「悪く思ってるわけじゃないが、せいぜい姉のようにしか思えない」
「あはは、あたしもそれ」
数多の恋愛話がそこらじゅうに転がっており、会話や文字として触れることはあっても、アルスには未だぴんとくるものがなかった。
元々人間関係が自由な立場でないこともあるかもしれない。
ただそのような関係でなくとも、友情や親愛が通じる相手がいることは何にも変え難いということはよくわかっていた。
アルスにとって、クロードのことも、テッドやディレアのことも、それぞれに繋がる感情は特別に大切なものだった。
いつかこの関係が過去として遠ざかってしまうであろう諦観のよぎる反面、温かさと切なさが入り混じる今の思いを、アルスはこの先もずっと忘れない気がした。
* * *
冬の始まりという季節柄、既に日は沈み、空は暗い。
それでも地上は煌々とガス灯に照らされ、街はまだ眠る様子がなかった。
パトリックの家の使用人たちから城砦へと送り届けられる馬車の道のりは、いつもより渋滞していた。
社交のシーズンも終わり、華やかで頭数も多いこの馬車の格を考えると、比較的優遇を受けて通れるはずだが、人や馬の多い王都の街は少しのきっかけで身動きがとれなくなる。
不意にヴィルワースの名が聞こえた気がしたアルスは、窓の外へ耳を澄ませた。
どうやら道端で、目立つ赤い外套と大きな三角帽を纏わせた街の触れ役が特別な公告を行っているところらしかった。
周りに人が集まってきている。
(何か大きな事件があった……?)
先代が亡くなり、家督を継いだばかりのヴィルワース辺境伯の家の話題は、世間のみならずアルスの身近な人間を騒がせたばかりだ。
いい話であるとは思えない。
連絡窓を開け、御者に様子を尋ねようとした時、街の触れ役の一際張り上げた声がアルスのいる車内にまで飛び込んできた。
「ヴィルワース辺境伯の首が、フルーディ川沿いの北の境界石に晒された――!」
その事件は、三日と経たないうちに張り巡らされた鉄道と電信網によってリンデル全土に知れ渡った。
いわゆる、冬のリンデル内戦——父子戦争のはじまりとされる出来事である。
アルスはまさか、わずか数ヶ月の間で自分がその戦いの中心に立ち、王家の紋章を掲げることになるなど、この時点では想像だにしていないのであった。




