第85話 ずるい男
城砦の島を囲うポレ湖は、王都を臨む遠景として東部の大半を占めていた。
そこからぐるりとうねる川が、大きく栄えた都市を北部へ向かって抜けていく。
歩く視界の左手に流れているその川の名はフルーディ川だ。
緑の川という古代語が変化したと伝えられているが、川は緑というよりただの溝のように暗い。
テッドは、赤の守護者の店の前へたどり着き、立ち止まる。
扉へ手をかけると、服に染みついた煙草の匂いがふわりと昇ってきた。
――気にされるだろうか。
一瞬頭によぎる。
ここは酒場だ。ディレアだって、煙管を吸っている。
そもそも、躊躇う理由もなかったとあっさり切り替えるが、その冷めた感情こそ責められるべきな気がした。
中にいたのはディレアだけだった。
シルビに連れ出されてからこれまで、一時間経ったかどうかだ。
テッドがなんとなく感じたのは、ディレアは自分のことを待っていただろうということ。
「ただいま」
カウンターの奥で、ディレアは困ったような笑みを返してきた。
「会いに来た彼女は?」
「もう別れた。どこに行ったかもわからない。多分当分また会わないね」
「よかったの?」
「もちろん。用はあったけど会いたかったわけじゃないからね」
できるだけいつも通りにと、声音を柔らかくおどけて見せる。
テッドはディレアへ近づいた。
吐息に混じるであろう香りのことが再度よぎり、少しだけ距離を詰めきれずに立ち止まる。
煙草に気づかれることが怖いのではない。
普段とは違う自分を見て、傷つくかもしれないディレアが可哀想だと考えてしまった。
蝋燭の炎により、辺りが橙色に揺らぐ。
テッドが笑いかけると、ディレアは目を泳がせ俯いた。
彼女はすぐに顔を上げ、話題を引っ張り出すように口にする。
「最近誰かから見張られてる気がするんだけど」
「最近っていつから?」
「……ラウロアたちが来た後くらい、かな」
「オレは特に感じないな。あんなことがあったし、気が張ってるだけじゃない?」
「そう、かも」
結局話は続かず、不自然なほどに静寂が漂った。
暖炉で燃える石炭が、小さく音を鳴らし、下ろした手元をべたつくように焼いてくる。
テッドは口火を切るのは自分であるべきだと思った。
「――ごめん」
「……なんで、謝るの?」
ディレアの硬い表情をみて、罪悪感が渦巻く。
「なんか不安にさせたかなって。一応さ、前に話した一緒に旅してたやつの一人っていうか。なんだろうな。仲の悪い姉みたいな。そういうやつなんだ」
普段ほど、会話が滑らかに出てこない自覚はある。
真実であるのにまるで言い訳のようだ。
きっと他の人間であれば、簡単に押し切れる。
だというのに、ディレア相手ではわずかに調子が狂う。
テッドは鳶の瞳が抱える、しっとりと潤んだ睫毛の震えをはっきりと見た。
「――だって、不安になる」
伝えられた言葉は、直接的だった。
ディレアは流さずに向き合う覚悟がある。
彼女のことを可哀想と思うなど、傲慢なことだ。
ディレアは十分強い女性だった。
自分など、どれだけの月日を費やしても、己と向き合う勇気を持てないというのに。
テッドは息が詰まったが、一呼吸おいて冷静に理由を紡ぐ。
「ごめん。関係を確定させたくないんだ」
冷淡なほどに、きっぱりとした口調で宣言する。
「きっと、君にとっていいことがない」
「何それ。馬鹿に……っ!」
勢いよく手が振り上げられる。
テッドはそれを、視線だけで追いかけた。
だが、予測した痛みなど、結局やってこなかった。
「……しないで、って、叩かれたいの?」
テッドの頬にはそっとディレアの手が添えられていた。
寒空の下で冷えきっていた体にとっては、熱すぎるほどの熱が手のひらから伝わってくる。
真っ直ぐに表される好意は、いつだって衝動を引きずり出す。
自分にとって捨てがたい執着になるのだとよく知っていた。
これまで、それを向けてきた相手は、決して彼女だけではなかったのだから。
* * *
「馬鹿……ッ!」
「――ッた!」
よろけた拍子にぶつかった椅子が派手に音を響かせ倒れた。
静まり返っていた空間が、どたどたと賑やかに動き出す。
テッドは床に座り込み、口元を抑えて、階段を登っていくディレアの後ろ姿を見つめる。
「なんだなんだ、喧嘩か?」
「どうした、大丈夫かテッド」
ディレアと入れ替わる様に、クロードとアルスが部屋へ雪崩れてきた。
「い、痛……っ、ちょっと顎殴られて、舌かんだ……」
「お……おう。そりゃ、まあ、お大事に」
「何をしたんだ、お前は」
同情と呆れをそれぞれ口にする二人に見下され、テッドは座った状態のまま苦笑する。
「いやあ、参ったな……泣かせてしまった」
「泣いてたか?」
クロードが不審げに首を傾げる。
アルスの方は、冷静にテッドへ尋ね直してきた。
「"怒らせた"じゃなく?」
「まあ、表面上はね」
「追いかけて話さなくていいのか?」
「どうだろ。どうしようもないっていうか、どう考えてもオレが悪いからなぁ」
状況に不釣り合いなほど朗らかに笑う自身の言葉は、軽率に響いたかもしれない。
テッドはゆっくりと立ち上がり、やれやれと倒れた椅子を起こしにかかった。
「お前、すべきことを理解しているのに、それをやらない類の人間だろう」
アルスから投げかけられた指摘に、テッドは動きを止める。
「何か理由があるんだろうが、見ていてもどかしい」
そう言い残したアルスは、ディレアを追うように上階へと向かっていった。
アルスは表現こそ不器用だが、直面した物事を放置しておけない所がある。
本人に自覚がないであろうお節介さだが、頼もしさすら感じてしまった。
テッドは椅子に手をかけたまま項垂れ、盛大なため息を漏らす。
「流石に、ちょっと情けなかったかなあ……」
じっと成り行きを見守っていたクロードが、近くの椅子に座り、おずおずとテッドへ話しかけてきた。
「……お前さ、ディレアとどこまで行ってんの?」
「それは……ご家族に話すには気まずい話を降るね」
「いや、生々しい話聞かせろって言ってんじゃねえわ。俺だって聞きたくねえ」
クロードが苦々しげに手を払った。
「で? 好きなのか?」
「んー、まあ、それは、多分そうだね。そう思う」
それについてはテッドの中で特に隠すような事柄ではない。
起こした椅子に腰掛けながらあっさりと答えると、クロードは面食らった様子だった。
ただし言葉尻にはしっかり食い下がる。
「多分って何だ、多分って」
「あんまり明確に言いたくないっていうか。曖昧なままがいいっていうか」
「はあ? ディレアがお前のこと好きなのわかってんだろ? それでお前も好きなのに曖昧がいいって、何? お前他に相手でもいんの?」
テッドは返事に詰まり、中途半端な笑みを浮かべた。
その反応から、わっと声をあげそうになったクロードを抑え込むように、慌てて否定を加える。
「待った、そういうのじゃない! そういうのとはちょっと違うけど……。ごめん、最低なのわかってるから」
直情的なこの姉弟は下手に濁すと逆効果かもしれない。
言えることと言えないことを選り分けながら、テッドはできるだけ真実に近い言葉を探り出す。
「ずっと、一緒にいる関係じゃないと思うんだよね。なんというか、いつかきっと裏切ることになる」
「はあ?」
クロードは、ぽかんとした表情でしばらく考えていたようだが、その口からもどかしさと苛立ちの混じったような呻き声があがって来る。
「くそ、俺にはお前の話、さっぱりわかんねえわ」
「……殴る?」
「は?」
「いや、だって今の話聞いて最低じゃん?」
「……確かに最低かもしんねーけど」
テッドはぼそぼそと言い淀むクロードの横顔を見た。
クロードは、背もたれにだらしなく寄りかかり、遠目の床を見つめたまま真面目な顔で呟きはじめる。
「別に今は殴んねぇよ。お前はイイヤツだからな」
「へ?」
「結果的にディレア泣かせるとしても、お前は別に好き好んで傷つける奴じゃねぇだろ。そりゃ瞬間的には怒るかもしんねえけど、俺はお前のこと信用してる」
テッドは返す言葉が浮かばない。
「殴るなら、理由を聞いた後にしたいから、ちゃんと言えよ」
それ以降しばらく会話が止まったが、徐々にテッドの肩が小刻みに揺れだした。
抑えきれない笑い声が、クロードへついに届いてしまう。
「君は、本当に馬鹿だなあ」
「なんだよ、おい! 喧嘩売るなら殴るぞ!」
テッドは額を手のひらで覆い、陰に顔を隠して笑う中、弱り果てていた。
――ディレアを裏切るってことは、君のことも裏切るってことなのに。




