第83話 ボードゲームと旅行と美女
冬間際の貴重な昼間だが、外を出歩く気は起きなかった。
王都ログスティリア一帯は、空を燻す煙突の排煙すら見えぬほど視界が悪い。
霧に囲われ冷えきった空気が沈んでいる。
酒場——赤の守護者。
本日昼間の時間に営業はなく、夕方まで客は入らない。
木骨造りの店は窓が少なく、薄暗いため、所々蝋燭が灯されている。
その一角の最も暖炉に近い席にて、アルスとクロードは、ボードゲームで時間を潰していた。
数字の書かれた回転コマを回し、出た数だけマスを進める単純なゲームだ。
広げられた紙には大陸の地図が描かれており、旅行を模して土地を移動していく。
自分の手番として、駒を進め終わったクロードが、肘をつき気だるげに呟く。
「なあ、どう思う?」
「勝負は最後までわからない。まだお前の番だろ、早くしろ」
アルスは、待機指示の書かれたマスに拘束されている最中だ。
遊びとはいえ不機嫌さが声に滲む。
「ちっげえよ、そのことじゃなくて」
舌打ちし、小声ながらも語気を強めるクロードに、アルスはようやく顔を上げた。
クロードが首の動きで誘導した方を仕方なく見ると、親密に談笑しているディレアとテッドがいる。
二人の距離は近い。
木箱に詰まった酒瓶を抱えようとしたディレアを、テッドが静止し穏やかに微笑む。
「これ食糧庫? 持っていくよ」
「あ、ありがとう」
カウンターの奥に消えたテッドを、視線で追いかけるディレアの頬はどうにも熱っぽく紅潮しているように思えてしまう。
光がさほど入らない酒場の店内。
実際、そこまでわかるわけがないから勝手な想像なのだが。
アルスが向き直ると、同意を求めるかのようにクロードの眉が引き上がる。
「あれだよ」
「仲がいいのはいいことだろう」
神妙な面持ちでディレアを見つめるクロードの意図が読めない。
「なあ、俺は邪魔か」
「……お前は一体何を気にしているんだ」
アルスは脱力した。
つい、手持ち無沙汰に指先で弄っていた回転コマを机の下に落としてしまう。
鈍い動きのまま拾いあげるアルスの頭上で、クロードはぼそぼそと喋り出す。
「最近、しばらく旅にでも出たほうがいいのかとか考えんだよ」
落ち着かないクロードの蒼の瞳は、目の前に広げられた地図上の駒で止まった。
どちらの駒もリンデル王国から遠く離れた外国にいる。
アルスは煩わしい思いを抱えつつも、クロードを宥める言葉を探る。
「気を使いすぎじゃないのか。邪険にされてるわけでもないだろう。むしろ旅なら二人の方を送り出してやったらどうだ」
「どう言い訳すんだ?」
「知るか。日頃の感謝でも手紙に書いて、それを読み上げながら旅券でも渡せばいいんじゃないか」
二人の間で時間が止まる。
「……俺が?」
「やめた方がいいな。頭でも打ったんじゃないかと心配される。旅に出るならやはりお前が行け」
どう考えてもクロードらしさがない。
しばらくうんうん唸って悩んでいたクロードだが、それも長くは続かなかった。
ぐんと後ろに倒れそうなほど両腕を突き出し、伸び上がる。
「あー! もういいや、めんどくせぇ!」
クロードは、さっぱりと明るい顔で、アルスへ再び声をかける。
「な、お前旅行いくならどこ行きたい?」
「はあ?」
「一人よりは二人の方がなにかと便利で楽しいだろ。外国はともかく国内ならまだ行けそうじゃん。いく時は付き合えよ」
話の主旨が変わった。
アルスは呆れた態度を返したが、内心悪い感情は抱かなかった。
自由に旅に出かけるなど考えたこともなかった。
本や新聞では広い世界があることを知っているものの、実際に足を踏み入れた場所などほんの一部だ。
昨今、鉄道の発達で労働者階級のものすら余暇として旅に熱を上げる時代なのだ。
新聞に掲載されるツアー企画の広告はいつだって目を惹く。
気軽に出かける立場でないことはわかっていても、想像するだけで楽しい。
クロードと二人、勝負を忘れ、架空で突拍子もない旅計画が広がっていく。
徐々に大きくなった二人の声を咎めるようにディレアが睨んできたところで、唐突に光が差し込んだ。
会話が止まる。店の入り口が開いたのだ。
「……ぁ、ええと、悪ぃな、お姉さん、今日は夜だけの営業だ」
普段、初対面の人間に対してだろうと遠慮のないクロードの声に動揺が混じる。
それどころか慌てて姿勢を正している様子をみて、アルスはそれも当然だと思った。
目の前に現れたのは、率直な印象で言うと気の強そうな美女だった。
彼女のゆったりと長い緋色の髪に、アルスは一瞬自分の母親を思い出す。
少し紫がかったようにも見えるその髪は、微かな光を従えて神秘的に輝いている。
クロードの指摘が耳に入らなかったのか、気に留めるつもりがなかったのか。
女性は、堂々と靴音を響かせ室内へ立ち入ってくる。
鮮やかな口紅の引かれた大きめの唇が開いた。
「テッドって名前の男はいる?」
掠れたようにざらつきながらも、深みのある声が店内に通る。
カウンターの奥からディレアがそっと話しかけた。
「あの……どなた?」
ディレアは落ち着かず背後を気にしている。
食糧庫にいるテッドを呼びに向かうか、迷っているのだろう。
「つまり、いるってことで合ってるわね。悪いけどさっさと連れてきてくれない?」
アルスは、ディレアの様子をじっと窺う。
どうやら、不快と言うより困惑が浮かんでいるようだ。
硬直した空気が溶けるより早く、本人が現れる。
「どうしたの? なんかあっ——」
お気楽な調子で戻ってきたテッドの表情が固まる。
「シルビ……」
テッドの異質な反応により、周囲に動揺が走る。
名を呼ぶ様子からも知人であることは間違いなさそうだ。
「ひっさしぶりぃ。ねえ、150年ぶりくらいだっけ?」
「お……」
見開かれたテッドの翡翠の瞳が揺らぎ唇が震えている。
皆の注目が集まったところで、テッドの言葉が一気に吐き出される。
「お前、今まで一体どこ行ってやがった! こっちはさんざん探したんだぞ!」
アルスたちは呆気に取られた。
口調も態度もあまりにテッドらしくない。
「知ったこっちゃないわよ。あんたがそんなに私を恋しがってるなんて思わなかった」
「気色悪いこと言うんじゃねえ! 誰が好き好んでお前の顔なんかみたいと思うんだ! 用があったからに決まってんだろ!」
「だからわざわざ来てあげたんじゃない。早く済ませましょう」
女性は、踵を返し店から出て行こうとする。
「おい……」
「何突っ立ってんのよ。早くついて来なさいよ」
「お前、自分勝手にも程があるだろ」
「はあ? あんたが呼び出しておいてなにぐちぐち言ってんの。あんまりごねるなら、ここであんたの秘密バラす」
「……っ!」
女性が堂々と腕を組み、不遜な態度でじろりとアルスたちを眺め回してきた。
その振る舞いにはっとしたテッドが、余裕のない表情をなんとか整え、穏やかに笑う。
「ごめん、古い知り合いなんだ。ちょっと出てくるよ」
「え……、ええ」
ディレアがなんとか返事をしたものの、残された三人は呆然とするばかりだった。
二人が出て行った店の扉は、あっという間にぴったりと閉まってしまった。
アルスは、ぼうっと扉を見つめ続けるディレアが気になって仕方ない。
「……なに、修羅場?」
ぽつりと口にしたクロードの足元を、アルスは顔を顰めて蹴り飛ばした。




