第八十七話 キセキの部屋
「心の準備はよろしいですかな?」
『キセキの部屋のドア』と呼ばれるごく一般的な木製の扉の前で、エミールはさも大事が起きるかのようにふるまう。
心の準備も何も……、キセキの部屋とだけ言われても何のことやら。
「では、開きますぞ」
ギ、ギギギ、ギ―
なんだ。大層なことを言うから身構えてしまったが、ただの書庫じゃないか。
扉の建付けが悪い以外は、何も変わった様子は見られない。
「さぁ、見てくだされ! この黄金の書棚を! ここに収められているのは全て吾輩の日記。アンリエットと出会い、今日に至るまでの愛の軌跡がすべてここにあるのです! さぁ、どうぞ手に取って! 吾輩のおすすめは百九十二章の『愛、それは闇夜の神秘編』。これは傑作でしてな!」
え⁉ 日記? エミールの日記を読めと?
「あぁ、あと、『青春! 夏のキラメキ編』。あぁ、それから『愛しのマ・ベール編』は是非とも読んでいただかなければ」
エミールは書棚から出した日記帳を僕の手の上に次々と積んでいく。
他人の日記を読ませられるなんて、なんの拷問だ?
というか、恥ずかしくないのか? このオッサンは。
「ルネ様! 今度はこちらの書棚に来て下され! こちらはエステルが生れてからこれまでの思い出の品が収めてあるのです。これはエステルが生れた時の記録。こちらはエステルが初めて描いた吾輩の似顔絵……」
「嫌ですわ、お父様! 恥ずかしいじゃありませんか!」
「いいじゃないか、エステル。ほら、これはエステルが生れて初めて描かせた家族の肖像画だ! この時のお前は画家の前で眠ってしまってな。いくら起こしても起きなくて……」
「もう! そんなに昔の事はいいじゃありませんか!」
肖像画の中にはエミールの腕に抱かれた赤ん坊のエステル。アンリエットと手をつなぐ幼いジルベール。
エステルを中心に、家族が笑顔を称えている。
目の前で、次々とエステルの思い出の品を取り出すエミールと、恥ずかしがって抵抗するエステル。それを微笑みながら眺めているアンリエット。
この家は、騒々しくて、緊張感がなくて……、確かに愛に溢れている。
僕の家とは、やっぱり違うな。
「エミール。違いますでしょう? ルネ様に見ていただかなくてはいけないのは、こちらの棚ですわよ」
アンリエットは僕の手を取ると優しく微笑み、書庫の奥へ進んだ。
最奥の棚は、他の棚とは違い派手な装飾はなかったが、特に大きく、上質な素材で作られているようだった。
観音開きに取り付けられた扉を、エミールは意味ありげに僕を見下ろしながら開く。
「リシャール様に見つかれば、処分せよと申しつけられてしまうでしょうから、ずっとこの棚に隠してあったのですよ。『これは他の棚と同じドラクール家の思い出の品である』と嘘をついて。さぁ、ご覧くだされ。ルネ様とクロード様の肖像画ですぞ」
僕と父上の?
額に入れらることもなく、それでも保護紙に丁寧に包まれている。
「見ても、いいのか?」
「もちろん」
エミールとエステル、アンリエットが見守る中、僕はゆっくりと保護紙を剥がした。
「これが、父上。随分と、その……痩せておられる」
僕と同じ白い肌。白い髪は寝ぐせだらけ。頬がこけ、筋が浮き、まるで病人のようだ。
それでも赤ん坊の僕を抱く腕は力強く、赤い瞳は正面ではなく、幼い僕に向けられている。
「普通、肖像画は本人よりも見栄えよく描くものですがね、クロード様はありのまま描かなければ意味がないという方でしたので……」
「なぜ、エミールがこれを?」
「クロード様はベルゼビュート家を離れた後も、吾輩にだけは手紙を送ってくださいました。クロード様の使い魔が手紙を運んできて、吾輩が返事を持たせて帰すという方法で、クロード様がどこにいるのかはわかりませんでしたが……。この絵も手紙と一緒に送ってくださったのですよ。『息子が生れたから、お前に見せたくて画家に描かせた』と手紙が添えられていました」
父上が、僕を見せたくて?
僕を、幼馴染であるエミールに見せたかったと?
「ルネ様、クロード様はあなたを愛しておられた。あなたが初めて笑った日、あなたが初めて座った日、初めて立った日。全て手紙で知らせてくださいました。あなたが泣き止まない。何も食べない。ケガをしてしまったときも、どうすればいいか? と尋ねる手紙が頻繁に送られてきました。日に三回も使い魔をよこしたこともありましたな」
「全然、知らなかった」
頬を暖かいものが伝う。
おじい様は父上の話をしてくれなかった。屋敷に、父上が残した品は何一つなかった。
なぜ僕には両親がいなくて、なぜ僕にはおじい様しかいなくて、なぜ僕の家はいつも静謐に包まれているのか? なぜ、エステルや同級生たちの家のように笑い声が聞こえないのか?
考えてはいけない気がして、いつも疑問に蓋をしてきた。
『僕は両親から捨てられた』との答えに行きつくのが怖かった。
僕はベルゼビュートだから、下級貴族や庶民とは違うから、これが普通なんだと思い込もうとした。
絵の中で父上が僕を見つめている。
僕は、ちゃんと愛されていたのか。他の子たちと同じように。
「この絵を、もらってもいいか? 寮の部屋に飾りたい」
「もちろんです! クロード様もさぞかしお喜びになるでしょう」
エミールは続けて、棚から一冊の本を取り出し僕に手渡した。
「これは?」
「クロード様がお書きになられた物ですよ。『悪魔族の生態、その多様性を考える』。ちょうど、クロード様が今のルネ様くらいの年頃にお書きになった物ですな」
「僕と同じ年頃⁉」
「トロキオ国内を回って各地の種族を研究しましてな。吾輩もよくお供をいたしました。著者は齢九十前の子どもでしたが、当時の悪魔族生態研究学会から大きな評価を得まして、魔術修学院の大図書館に収められることになったのです。今でも高等魔術学院の研究資料として活用されておるはずですぞ」
「父上って……、そんなに凄い方だったのか?」
「そりゃあ、もう! クロード・ヴァンピール・ド・ベルゼビュートと言えば、稀代の天才と謳われ、国内数多の研究室から助言を請われるほどでしてな。我々が魔術修学院に入学したときなど、凛とした佇まいと端正なお顔立ちも相まって女悪魔たちが放っておいてくれませんでなぁ、毎日寮に女学生が殺到したものですよ。仕方がありませんから、好みのタイプの数人を幹部に『クロード様後援会』を作らせまして、その者達だけを部屋に招き入れてですな……」
ん? なんだか背後から冷たい空気が……。
「エミール。あなたって人は……」
「お父様、不潔ですわ」
怒りに震えるアンリエットとエステルの声が、僕の後ろから響く。
これは、振り向けない……。
「あ、いや、これは昔の事で、若気の至りというか……。ルネ様、なんとか仰ってくだされ!」
「僕に振るな! 僕は何も知らん!」
「あなた」
「お父様」
「「お覚悟!」」
ビリビリビリビリ! チュドーン‼
「うぎゃー‼」
これが雷電魔術か。
勉強になるなぁ。
「おい、エミール? 大丈夫か? 生きてるか?」
「……、ルネ様。女悪魔を怒らせては、なりません……ぞ」
死んだか。
「この部屋は『軌跡』の部屋なんだな。エミールの人生が詰まってる」
「以前はもっと広く、蔵書も多くございました。亜空間に避難する際に屋敷に置いてきたものもたくさんありますわ。お父様は何でも取っておくのがお好きですから。失ったら二度と手に入らない物だけを、ここに持ってきたのです。わたくしやお兄様が小さい頃に着た服やおもちゃ、お父様とお母様が結婚記念日のたびに贈り合った宝飾品などは全て置いてきました」
「そんな……。高価な物だろうに」
「値段ではないのです。お金を積めばまた買える物よりも、ただ一つしかない物の方が大切でしょう? 屋敷に居た頃は『思い出の部屋』と呼ばれておりました。ここへ来て『キセキの部屋』としたのは、今こうして残っている事が『奇跡』だからなのです。……ユーゴ様が来てくださらなければ、ここの物もすべて燃えていた。わたくしたち自身も……」
「エステル……。すまない。ベルゼビュート家がベルゼブラ家に隙を与えてしまったから、こんな事になった。なのに、父上の絵や本も大切に守ってくれていたなんて、どう詫びれば良いのか……言葉が見つからない」
僕の肩にアンリエットが手を置く。
「ルネ様、わたくしたちは謝って欲しいなんて微塵も思っておりませんわ。だって、ルネ様やリシャール様のせいだなんて思っていませんもの。それでも気が咎めるというのであれば、わたくし共の願いを聞き入れてくださいませ」
「願いとは?」
アンリエットが跪いて僕を抱き寄せた。フワッと香るバラの香り。
「また、ここへ来てくださいませ。わたくし共の大切な家族として」
「……わかった。必ず」
「我々が再会できたのも、また『奇跡』ですからな!」
エミール、生きてたか。




