第八十六話 婚約解消、保留
食卓いっぱいに皿が並ぶ。
以前のドラクール家の食堂とは比べ物にならない程に狭く、小さな円テーブルは四人で囲めば満席だ。まるで、庶民の家だな。これが領地を失うという事か。
「ジルベールは、どうした? 姿が見えないが、まさか……」
「ご心配召されるな。ジルベールなら、リヴーサのリアンジオンにおります。ドラクール領に居りました人間たちをそちらに移住させましてな。その地の管理を任せておるのですよ」
「リヴーサって……。ドラクール領の対岸じゃないか。そんな近くにいて、危険はないのか? トリスタン派の奴らに見つかったら……」
「あの子は変化術が得意ですから、心配ありませんわ。術がとけてしまう満月の晩にはこちらに来られるようにユーゴ様が迎えに行ってくださいますし」
「ルネ様も、いまのお兄様の姿を見たら、きっとビックリしましてよ? すっかり庶民の人間ですもの」
そうか、無事ならよかった。
「料理が冷めてしまいますわ。ひとまず乾杯いたしましょう」
エミールが立ち上がりグラスを掲げる。
「我が妻との百十九回目の記念に!」
「「「乾杯!」」」
これは何の血だ? 山羊や牛とは違うな。豚や鳥でもないし……。
何か混ぜ物がしてあって、余計にわからないな。口に張り付く青臭さとほのかな甘み。それに、酒精。血の味なんてほとんど消し飛んでしまっている。
「これは……、なんとも不思議な香りの……」
「ルネ様、それはスッポンという異世界の生き物の血を使った薬酒ですわ」
「結婚記念日の事をタツキ様にお話ししたところ、お祝いにとご用意くださったんですのよ。異世界の人間たちが滋養強壮に飲むものだそうで」
へぇ、異世界人も血を飲むのか。スッポンというのはわからないが、滋養に良いのであれば、知能が高い生き物なのだろうな。
「時にルネ様。先ほどのお話ですが、エステルとの婚約を解消なさるおつもりだと?」
うっ……。エミールの奴、普段ヘラヘラしてるくせに真剣な顔をすると、ちょっと怖いな。
「そ、それは……。婚約は家同士の物で……、もうベルゼビュートの領地も無いし、婚約を決めたおじい様もお亡くなりになったし……」
エミールはグイッと薬酒を飲み干すと、メイドに新しく注がせ、その瓶を僕の前に置いた。
「吾輩は、そんな事を聞きたいのではありませんよ。ルネ様はエステルを愛しておられないのか? と伺っておるのです」
「あ、愛⁉ あ……い、なんて。そんな……。ぼ、僕とエステルの婚姻には、ヴァンパイア族全体の今後に関わる、高度に政治的な意味合いを含む事柄で、各人の個人的感情に左右されるなどという事は、あってはならない事で……」
「領地もなく、リシャール様もご逝去なされたと、ルネ様が仰ったではありませんか? 家と家の取り決めという枷がないのなら『各人の個人的感情』が尊重されるべきでは?」
そ、そんなこと言ったって……。
「ルネ様。愛というのは社会すべての根本にあるべき素晴らしいものですぞ? 誰かを愛し、愛されることで、誰もが自身と他者を尊重しえるのです。愛なくして、豊かさは得られません。愛を知らねば、豊かさに気づくことも出来ませんからな。吾輩はアンリエットを百十九年愛し続けております。故に、我が家は領地や屋敷を失っても、豊かである。そう自信をもって言えるのです」
そんなに『愛』を連呼するなよ。こっちが恥ずかしくなるじゃないか。
「今一度お聞きします。ルネ様はエステルを愛しておられますか?」
「そ、そ、それは……。あ、あい……って言うのは……」
「エミール、冗談はもうおよしなさいな。ルネ様はまだお若いのですし、ベルゼビュート家は厳格な家柄ですもの、愛に身を任せるなんてお考えに至らないのですわ」
冗談だと? また僕をからかったのか?
「いやはや、少々度が過ぎましたかな? しかし、ルネ様がエステルを愛しているか明言できずとも、大切に考えてくださっているのはわかっているつもりですよ。なぁ? エステル」
「えぇ、お父様」
そりゃあ、僕はベルゼビュートだから、ヴァンパイアは全て大切な配下であって……。
「ルネ様がエステルをお嫌いになったのでなければ、他に好意を寄せるお相手がいらっしゃらないのであれば、婚約解消のお話は保留としていただけませんか?」
「保留?」
「えぇ。吾輩も、妻も、ルネ様とエステルが婚約をして以降、不敬ながら息子が一人増えたような心持でおりました。あなた様の行方がしれないと知ってからの十年。どれだけ我々がルネ様の身を案じていたか……。ようやくこうして再開できたのです。どうか、もう少し、愛する義息子の無事を噛みしめさせてくだされ」
僕は政治的な家の取り決めの婚約だと思っていたのに……。
そうか、エミールは僕を息子と思って見てくれてたのか。
「わかった。婚約解消は一時保留とする。ただし、この保留は双方が対等に合意したこととする。もし、今後エステルが別の者と添う事を望んだ時は、僕に遠慮せずに申し出るように」
エステルがアンリエットと顔を見合わせて、ゆったりと笑った。
エミールは再びグラスを掲げると「ルネ様に!」と叫ぶ。
エステルとアンリエットが、それに続いた。
これで、エステルに掛かったチャームが解けても問題が起きずに済むだろう。
「ルネ様。クロード様の事は覚えておいでですか?」
僕の飲みさしのグラスに薬酒を継ぎ足しながら、エミールはジッと僕の顔を見た。
僕の顔に何かを探るような、それでいてとても穏やかで優しい目だ。
「父上の事は、ほとんど覚えていない。僕はベルゼビュート家に連れてこられた前後の事はあまり覚えていないんだ。グレッツェンが言うには、当時の僕は目がよく見えていなかったそうで、だから父上の顔も知らない。……ただ、大きな腕が僕を抱く感触は覚えている」
「リシャール様の生前には、クロード様の話は禁忌とされていて、お伝え出来なかったが……。聞きたいですか?」
父上の話? エミールは父上を知っているのか?
「聞きたい!」
「では、お聞かせしましょう。クロード様と吾輩は一年違いで生れました。我々が幼い頃は幼年期学園がありませんでしたから、マルティーヌ様とシャルル様はお屋敷で勉強をなさっていたんです。その間、クロード様がお二人の邪魔をしないようにと、ドラクール家にてお過ごしになっていまして、吾輩と二人でよく遊びました」
「幼馴染か。僕とエステルみたいだな」
「左様ですな。他家には同じ年頃の子どもがいませんでしたから、吾輩が丁度いい遊び相手だったのでしょうな。お互いに教育係を付けられる歳になっても、魔術修学院へ進学してからも、吾輩とクロード様は何かと理由を付けては交流を欠かしませんでした。まぁ、平たく言えば、大人の目を盗んではいたずらに興じていたというところですがね」
「父上が……。そうか、そうだよな。父上にも子どもの頃があって、友だちがいて、学校に行ったり遊んだりしてたんだ」
そんな当たり前のことが、実際に当時を知っている者から聞くと、より鮮やかに現実として感じられる。
「ベルゼビュート家は長子優先世代継承とでも言いましょうか? 他家にはない独特の継承順位がございます。継承権の第一位は当主に最も年が近い弟妹。弟妹の次が当主の子の生まれ順となり、その次が第一位の者の子となります。当時はリシャール様が継承権第一位。クロード様はリシャール様の三番目の子でしたが、当時の継承権順位は六位。本人も周囲の者も、ベルゼビュートを継ぐことはないだろうと思っておった物ですからな。クロード様は比較的自由に青春を謳歌していたのですよ」
父上が六位って事は、おじい様に兄弟がいたのか。その方たちは、どうしたんだろう? 僕が連れてこられたって事は、お亡くなりになってたんだろうか?
「父上は、何かの研究をなさっていたと聞いたが、詳しくは教えてもらえなかった。エミール、父上は何を研究していたんだ? ベルゼビュート家を離れた理由は研究のためだったのか?」
エミールは口ひげを弄びながら、視線を落とした。
「クロード様が研究しておられたのは『人間を食べないヴァンパイア』ですよ」
「人間を食べないヴァンパイア⁉ そんなの……、存在するわけがないじゃないか。ヴァンパイア族は人間の血肉を糧とする生き物だ。量の多い少ないはあっても、全く人間を摂取せずに生きることは出来ない。ニドッグ族はドラゴンを食い、ネフィリム族はエルフを食う。それが悪魔族のあるべき姿だ」
「ルネ様は、人間を食べていないではありませんか?」
「それは! だって……」
「敗戦により定まった条約のため。その通りです。ですがね、クロード様は大戦が起きるずっと前から考えておられた。まるで、こんな時代が来ることを知っていたかのようです。クロード様は『人間をいつまでも食べ続けることは出来ない』と口癖のように仰っていました。我がドラクール家は人間の血を飲みますが、月に数回グラスに一杯程度も飲めれば充分。あとはバラを主食として生きております。その食生活が、クロード様の思いに影響を与えたのかもしれません」
父上はエミールと食事を共にしていたのか。
いまの僕と同じように、同じテーブルをドラクール家の者たちと囲み、同じ皿に違う料理を盛り付けられる。自分だけに用意される豪奢な肉料理を前に特別感はない。あるのは疎外感だ。父上も同じように感じていたのだろうか?
「そうだわ! エミール、食事が終わったらルネ様にキセキの部屋を見せて差し上げたらいかが?」
アンリエットがパンッと手を叩く。
なんだ? また何か始まるのか?
「おぉ! それは素晴らしい考えだ、アンリエット。さすが、我が最愛の妻。ぜひ見ていただこう! 我がドラクール家の愛とキセキのパラダイスを!」
嫌な予感しかしない。




