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『黒歴史ノートが異世界で最強の魔導書になっていました』  作者: 伊佐波瑞樹


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第97話 合同実習の説明を聞いたら、俺たちの役割が予想以上に難しかった件


 王立魔法学院の鐘楼から朝を告げる音が響いてきたとき、俺は男子寮三一七号室の机に向かい、昨夜書き残した一枚の紙を眺めていた。


 窓の外には薄い雲が広がっていたが、雲間から差し込む陽光は十分に明るく、中庭を囲む石造りの建物を柔らかな金色に染めている。開け放した窓からは、朝の冷たい空気とともに、早くから訓練へ向かう生徒たちの話し声が流れ込んできた。


 机の上にあるのは、合同実習に向けて俺たち六人で話し合った内容を整理したものだ。


 情報の出どころを確かめること。分からないことを勝手に補わないこと。危険を感じたら、課題を進めるよりも先に周囲へ知らせること。そして、誰か一人に判断を任せきりにしないこと。


 どれも文字にしてみれば難しい内容ではない。けれど、実際に複数の班が動き、それぞれ異なる情報を持っていた場合、どこまで確認すれば十分なのかという問題が残る。


(昨日は、みんなで相談できたからよかったんだよな。これが実習中で、時間も限られていたら、同じように落ち着いて考えられるのか……)


 俺は紙の余白に小さく印をつけた。


 まだ何が起こるのか分からない実習について、あれこれ心配しすぎても仕方がない。それでも、準備できることと、実際に始まってから判断するしかないことは、区別しておきたかった。


『マスター、たいへん素晴らしい心構えでございます』


 聞き慣れた声が頭の中に響いた。


 俺の前世、神代修司が中学生のころに書き散らした黒歴史ノート。その内容を現実にしてしまう、とんでもない魔導書《禁書アルカディア》だ。


 現在は俺の魂と同化しているため、外から姿を見ることはできない。声も俺にしか聞こえず、こうして朝から遠慮なく話しかけてくる。


(お前が素直に褒めると、逆に警戒するんだけど)


『失礼な。私はマスターの成長を心より喜んでおります。かつてのマスターであれば、合同実習の開始前に《六芒星絶対統率陣》を展開し、参加者全員の行動を完全に掌握するという設定でございましたから』


(なんで学校の実習にそんな物騒なものが必要なんだよ!)


『全員が最適な判断を行うためです。なお、統率陣に逆らった者は自動的に闇の牢獄へ――』


(その時点で教育じゃなくて支配だろ!)


 思わず顔をしかめたところで、背後から椅子を引く音が聞こえた。


「シュウ、朝から難しい顔をしているけど、何か気になることでもあった?」


 振り返ると、制服に着替えたエリオットが、自分の机の上で筆記具を揃えていた。


 彼は俺と同じ三一七号室で暮らす友人だ。第二班に所属し、普段から物事を冷静に考える性格で、最近では俺が何かに悩んでいると、こちらから話しかける前に気づくことも多い。


「合同実習の準備を見直してたんだ。昨日みんなで話したこと、実際にやろうとすると難しそうだなって」


「そうだね。僕も少し考えていたよ」


 エリオットは机の引き出しから薄い筆記帳を取り出し、こちらへ歩いてきた。


「例えば、誰かから道が安全だと聞いたとしても、その人がいつ確認したのか分からなければ、今も安全だとは限らない。僕たちは情報の出どころを確認しようって話したけど、それだけでは足りない場合もありそうだ」


「なるほど。いつ確認した情報なのか、ってことか」


「うん。それに、何を見て安全だと判断したのかも大事だと思う。荷物を持っていない人が通れた道でも、重い物を運ぶときには危険かもしれないから」


 その例を聞いて、以前の救助訓練で運搬用の担架を扱ったときのことが頭に浮かんだ。


 足元の状態を確認し、速度を調整しながら進んだあの経験は、単に怪我人を運ぶ技術だけでなく、同じ場所でも状況によって危険が変わることを教えてくれた。


「それ、今日の相談でみんなにも話してみようか」


「いいと思う。ただ、まだ実習の詳しい内容は発表されていないから、準備の方向を決めつけないようにしたいね」


「そうだな。せっかく準備しても、全然違う課題だったら困るし」


 俺が笑うと、エリオットも穏やかに頷いた。


 彼は俺の抱えている最大の秘密を知らない。


 前世の記憶も、アルカディアの存在も、俺が自分の黒歴史と毎日戦っていることも。


 けれど、学院で起きた出来事については、これまで何度も一緒に考えてきた。北の森で見つけた石扉のことを知っているのも、今のところ俺とエリオットだけだ。


 だからこそ、話せることと話せないことの境界を、俺自身がきちんと守らなければならない。


 俺たちは支度を終えると、朝の人通りが増え始めた廊下へ出た。


 階段を下りる途中、前を歩く生徒たちが合同実習について話している声が聞こえてくる。


「上級生も参加するって聞いたぞ」


「いや、俺は班ごとに別の演習場へ行くって聞いたけど」


「魔導具を使った連絡訓練らしいって話もあるよな」


 それぞれの話には妙な確信が込められていたが、情報源を尋ねられたら、どれも曖昧な答えになりそうだった。


 エリオットと目が合い、俺たちは思わず苦笑する。


「噂の方が、実習より先に始まってるな」


「みんな楽しみなんだと思うよ。僕も、どんな内容なのか気にはなっているし」


「まあ、俺もだけどさ」


 廊下の窓から見える中庭では、朝の清掃を終えた職員が道具を片づけていた。


 その向こうにある演習棟の屋根を眺めながら、俺は今日こそ何か詳しい説明があるのだろうかと考えた。


 期待と不安のどちらが大きいのか、自分でもまだ分からなかった。


     ◇


 午前の教室は、いつもより少し騒がしかった。


 俺とエリオットが席につくころには、フィンがすでに近くの生徒と話し込んでおり、身振り手振りを交えながら何かを説明していた。


「だからさ、もし森の中で複数の班が協力するなら、俺たちが先に障害物を片づけて――」


「フィン、まだ森でやるとは決まっていないだろう」


 隣にいたユリウスが、教科書から顔を上げずに指摘した。


「分かってるって! 例えばの話だよ、例えば!」


「それなら、最初にそう言った方がいい。聞いている方は確定した情報だと勘違いするかもしれないからな」


 フィンは一瞬だけ言葉に詰まり、それから照れくさそうに頭をかいた。


「……それもそうか。昨日、みんなで話したばっかりだったな」


 俺は二人のやり取りを聞きながら席に鞄を置いた。


「おはよう。朝からずいぶん盛り上がってるな」


「おう、シュウ! 合同実習のこと考えてたんだよ。俺たち、また六人で協力するんだろ? だったら何かできることがないかなって」


「その気持ちは分かるけど、内容が分からないうちは難しいよな」


 俺がそう答えると、フィンは大きく頷いた。


 彼の積極性は頼もしい。以前なら、思いついたことをそのまま行動に移してしまう場面もあったが、最近はユリウスの指摘に耳を傾け、自分でも一度考え直そうとしている。


 その変化は、近くで見ているからこそ分かるものだった。


 少し離れた席では、ミリアがセシリアと筆記帳を見比べていた。


 ミリアは俺たちに気づくと、小さく手を振った。


「おはようございます。昨日の相談で決めたことを、少し整理してみたんです」


「もうまとめたのか。すごいな」


「いえ、まだ自分用の覚え書きです。実習の内容が分からないので、何を準備すればいいのか迷ってしまって……」


 ミリアはそう言いながら、少し困ったように笑った。


 彼女は記録や資料の整理が得意で、慎重に考える性格だ。以前は大勢の前で発言することを苦手としていたが、最近は自分が気づいたことを少しずつ言葉にできるようになっている。


「無理に全部決めなくてもいいと思うよ」


 セシリアが隣から声をかけた。


「昨日も、分からないことは分からないままにしておこうって話したでしょう? 準備できるところだけで十分だと思う」


「……そうですね。ありがとうございます」


 ミリアの表情が少し和らいだ。


 俺はその様子を見ながら、自分たちの関係が少しずつ変わってきたことを感じていた。


 最初から息の合った仲間だったわけではない。


 それぞれ得意なことも、苦手なことも違う。


 けれど、実習や授業を重ねるうちに、誰がどんな場面で力を発揮するのか、少しずつ分かるようになってきた。


(こういうのって、単に強い魔法が使えるだけじゃ身につかないんだろうな)


『マスターはすでに、圧倒的な力によって全員を導く資格を――』


(今はいい話をしてるんだから、余計な設定を挟むな!)


 頭の中で抗議したところで、始業の鐘が鳴った。


 教室の扉が開き、リディア先生が入ってくる。


 先生は普段より厚い書類の束を抱えており、それを教壇へ置くと、教室全体を見渡した。


「皆さん、おはようございます。授業の前に、合同実習について追加の説明を行います」


 その言葉を聞いた瞬間、教室の空気が変わった。


 さっきまで机に頬杖をついていた生徒が背筋を伸ばし、筆記具を持っていなかった生徒が慌てて鞄を開ける。


 フィンも勢いよく前を向いたが、ユリウスに何か言われたのか、今度は騒がずにノートを開いた。


「先日、協力班の編成をお伝えしました。今回の実習では、その編成をもとに、複数の班が同じ訓練区域内で課題に取り組みます。ただし、普段の所属班が変更されるわけではありません。あくまで合同実習のための一時的な編成です」


 俺はその説明を聞きながら、ノートへ要点を書き留めた。


 この部分は、すでに俺たちも理解している。


 問題は、その先だった。


「今回の実習では、各協力班に与えられる情報が必ずしも同じではありません。ある班が知っていることを、別の班が知らない場合もあります。また、最初に伝えられた情報だけでは、判断できない場面も想定されています」


 先生は黒板へ向かい、六つの言葉を書いた。


 状況確認。情報共有。役割分担。安全判断。記録。報告。


「これらが、今回の実習で特に重視される項目です。魔法の威力や課題を終える速さだけで評価するものではありません」


 教室の後方で、誰かが小さく息をついた。


 強い魔法を披露する機会だと思っていた生徒もいたのだろう。


 俺はむしろ、その説明に少し安心していた。


 魔法の威力だけを競うなら、俺は力の加減に相当気を遣わなければならない。だが、今回は別の難しさがあるらしい。


「例えば、ある班が道の安全を確認したとします。その情報を別の班へ伝えた場合、受け取った側は、何を確認する必要があるでしょうか」


 先生の問いかけに、教室のあちこちから手が挙がった。


 最初に指名された生徒は、通行できる人数を確認すると答えた。


 次の生徒は、荷物を持って通れるかどうかを挙げた。


 先生はどちらの答えも認めたうえで、さらに問いかける。


「では、その道が一時間前には安全だったとして、現在も同じ状態だと断言できますか」


 教室が少し静かになった。


 俺は朝、エリオットと話したことを思い出した。


 情報には、確認された時間や条件がある。


 正しい情報であっても、状況が変われば使えなくなる可能性があるのだ。


「そうですね。情報が正確であることと、現在の状況に適していることは、必ずしも同じではありません。皆さんには、その違いを意識してほしいのです」


 先生は黒板の『情報共有』という文字の下へ、確認時刻、確認条件、伝達先という三つの項目を書き加えた。


「情報を受け取ったときには、誰が、いつ、どのような条件で確認したものなのかを考えてください。また、自分たちが伝える側になった場合も同様です。相手が判断するために必要な情報を、省略しないようにしてください」


 俺はペンを動かしながら、以前の救助訓練を思い返していた。


 不安定な斜面を避け、運搬経路を選び直したとき、俺たちは実際に足元を確認していた。


 だが、もしその場にいなかった別の班へ情報を伝えるなら、ただ「こちらの道が安全だった」と説明するだけでは不十分なのだろう。


 どの地点を通ったのか。どの程度の荷重がかかっていたのか。確認した後に何か変化があったのか。


 それらを伝えなければ、相手は自分たちと同じ条件で判断できない。


(……思ってたより、ずっと難しいな)


 俺が小さく息を吐くと、隣のエリオットも真剣な顔でノートを書いていた。


 彼の筆記帳には、先生の説明に加えて、朝に話した内容も整理されている。


 その様子を見て、俺は少しだけ心強く感じた。


 自分一人では見落とすことも、誰かと考えれば気づけるかもしれない。


 それこそが、今回の実習で求められていることなのだろう。


     ◇


「次に、役割分担について説明します」


 リディア先生は黒板の文字を指し示しながら、話を続けた。


「協力班の中で、最初から最後まで同じ役割を担当しなければならないわけではありません。状況に応じて役割を変更することも認められます。ただし、変更した場合は、関係する相手へ必ず伝えてください」


 先生はそこで一度言葉を区切り、生徒たちの様子を確かめた。


「例えば、記録を担当していた生徒が別の作業へ移った場合、誰が記録を引き継ぐのか決めていなければ、重要な情報が残らない可能性があります。また、指示を出す担当者が変わったことを全員が知らなければ、異なる指示が同時に出されることも考えられます」


 俺は思わず顔を上げた。


 役割を分ければ、それで終わりだと思っていた。


 けれど、実際には役割を変えるときの方が難しいのかもしれない。


「役割を決めること自体が目的ではありません。誰が何を担当しているのか、全員が理解している状態を維持することが重要なのです」


 その説明を聞きながら、俺は昨日の六人の話し合いを思い返した。


 ミリアは記録が得意だ。


 セシリアは周囲の体調や安全へ気を配ることができる。


 フィンは行動力があり、ユリウスは判断の根拠を整理するのが得意だ。


 エリオットは状況を冷静に観察できる。


 そして俺には、普通の魔法に加えて、ほかの人には説明できない力がある。


 ただし、その力を使えば何でも解決するという考え方は、今回の実習ではむしろ危険なのだろう。


(誰が何をできるかだけじゃなくて、今その人が何をしているかも把握しないといけないのか)


『まことに合理的な指導でございます、マスター』


 アルカディアが珍しく真面目な声で応じた。


『複数の者が協力する場合、役割の重複や空白は、全体の効率を低下させる要因となります』


(おお、今日はまともだな)


『かつてのマスターが設定された《絶対支配指揮権》であれば、配下の役割を瞬時に最適化し、命令を受けた者は自らの意思にかかわらず――』


(やっぱりまともじゃなかった!)


 俺は顔に出さないよう気をつけながら、ノートへ視線を落とした。


 アルカディアが話しているのは、あくまで昔のノートに書かれた設定だ。


 それが現在の俺に使用できる能力だというわけではないし、そもそもそんな力が使えたとしても、学院の実習で使いたいとは思わない。


 自分の意思で考え、仲間と協力することを学ぶ場で、相手の意思を奪ってしまったら本末転倒だ。


「さらに、今回の実習では、判断を誤った場合の対応も評価対象になります」


 先生の言葉に、俺は再び顔を上げた。


「もちろん、安全規則に反する行動は認められません。しかし、判断の誤りに気づいた後、どのように修正し、関係する相手へ伝えたかも重要です。間違いを隠したり、最初の判断に固執したりすることの方が、状況を悪化させる場合があります」


 教室の後方から、一人の生徒が手を挙げた。


「先生、判断を間違えた時点で、課題は失敗になるんでしょうか」


 その質問には、周囲の生徒たちも関心を向けていた。


 リディア先生はすぐには答えず、質問した生徒を見つめてから、落ち着いた声で話し始めた。


「課題によります。ただし、今回の合同実習は、皆さんが一度も間違えないことだけを求めるものではありません。必要な情報が揃っていない状況で、どう判断するか。そして、新しい情報によって判断を変える必要が生じたとき、どう対応するかを学んでもらうためのものです」


 俺はその言葉を聞いて、少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。


 完璧な判断を続けることだけが正解ではない。


 間違いに気づき、それを認め、必要な相手へ伝えることにも意味がある。


 それは、今の俺にとって、妙に心に残る考え方だった。


(昔の俺が考えた最強の主人公なら、最初から全部分かってるんだろうけどな)


『その通りでございます。かつてのマスターは、あらゆる事象の結末を理解したうえで行動する存在として記載されております』


(便利すぎるだろ、その設定……)


『なお、理解したうえであえて失敗することも可能とされております』


(それ、失敗したときの言い訳を用意しただけじゃないか?)


 頭の中でそう返したところで、俺は思わず笑いそうになった。


 危うく声が出そうになり、慌てて口元へ手を当てる。


 隣のエリオットが不思議そうにこちらを見た。


「シュウ、大丈夫?」


「うん。ちょっと考え事してただけ」


「それならいいけど。先生の話、かなり大事なところだと思うよ」


「分かってる。ちゃんと聞いてるって」


 俺が小声で答えると、エリオットは少しだけ笑って前を向いた。


 その横顔を見ながら、俺は内心で反省する。


 合同実習が始まったら、こんな調子でアルカディアの言葉に振り回されているわけにはいかない。


 もちろん、あいつが黙っていてくれる保証など、どこにもないのだが。


     ◇


 説明の終盤、リディア先生は安全に関する注意事項を改めて確認した。


 実習中は担当教員の指示に従うこと。許可されていない魔法や行動を行わないこと。危険を感じた場合は課題の進行を止め、安全確保を優先すること。


 特に、強力な魔法を使えば状況を一度に解決できると考えないよう、先生は繰り返し注意していた。


「例えば、進路を塞いでいる障害物があった場合、強い攻撃魔法で破壊することが最善とは限りません。周囲の設備や人員に影響を与える可能性がありますし、そもそも、その障害物を取り除く必要があるのかどうかも確認しなければなりません」


 俺は思わず、以前の救助訓練でフィンと一緒に倒木を動かした場面を思い出した。


 あのときは、担当教員の許可を得てから行動した。


 力任せに障害物を取り除けばよいわけではないと、実際の経験を通して学んだばかりだ。


「強い魔法を使えることは、一つの能力です。しかし、使う必要がない場面で使用しない判断も、同じくらい重要です」


 その言葉が教室に響いたとき、なぜか近くの生徒が俺の方へ視線を向けた。


 別の席からも、何となくこちらを見られている気配がする。


(……待ってくれ。今の話、別に俺のことじゃないよな?)


『マスターの潜在能力を考慮すれば、極めて重要な教訓でございます』


(お前までそう言うのかよ!)


『仮に《絶対破壊》を使用した場合、障害物のみならず周囲の地形まで消滅する可能性が――』


(仮に、の話でも怖すぎるからやめろ!)


 俺は何事もなかったようにノートへ視線を戻した。


 幸い、先生は俺を名指しすることなく説明を続けている。


 ただ、フィンがこちらを見て少し楽しそうに笑っていたのは気になった。


 あとで何か言われそうな予感がする。


 やがて説明が終わり、質問の時間になった。


 実習中にほかの協力班と直接会って情報を交換してよいのか、魔導具による連絡が認められるのか、記録を担当する人間は固定しなければならないのか。


 生徒たちからは、思っていた以上に具体的な質問が出された。


 リディア先生は、それぞれの質問に丁寧に答えたが、まだ決まっていない内容については明言しなかった。


「連絡方法は、当日の指示に従ってください。直接会って情報を交換する場合もあれば、指定された手段を用いる場合もあります。ただし、課題ごとの条件は、現時点ではお伝えできません」


 その答えを聞いて、俺は昨日の相談で連絡方法を決めつけなかったことを思い出した。


 もし勝手に方法を決めていたら、当日の指示と食い違っていたかもしれない。


 準備とは、何もかも先に決めておくことではないのだろう。


 必要なときに判断できるよう、考え方を整えておくこと。


 今回の実習では、それが重要なのかもしれない。


 先生は最後に、実習区域や具体的な課題については、改めて正式な説明を行うと告げた。


 日程についても、確定した内容を学院から知らせるという。


 つまり、まだ俺たちには分からないことが残っている。


 それでも、今日の説明によって、準備の方向は少し見えてきた。


     ◇


 昼休みになると、俺たち六人は食堂の窓際に集まった。


 大きな窓からは中庭の木々が見え、柔らかな風に揺れる葉が、午後の陽光を受けてきらきらと光っている。


 食堂の中はいつも通り賑やかだったが、今日はあちこちの席で合同実習の話題が聞こえてきた。


 俺たちの席でも、フィンが食事を始める前から話し始めていた。


「いやあ、思ってたより難しそうだな! 俺、てっきり班ごとに課題を解いて、早く終わったところが勝ちみたいな実習だと思ってたんだけど」


「だから、最初から決めつけるなと言っただろう」


 ユリウスが呆れたように返した。


 ただし、その表情には少し楽しそうな色もある。


「でも、正直なところ、僕も予想以上だった。情報を確認するだけじゃなくて、いつ確認したのかまで考える必要があるとは思わなかったからな」


「俺もそこは驚いたよ」


 エリオットが頷いた。


「朝、シュウとも似た話をしていたんだけど、先生の説明を聞いて、やっぱり大事なことなんだと思った」


 その言葉に、ミリアが顔を上げた。


「私も、そこが気になりました」


 彼女は手元の筆記帳へ視線を落とし、少し考えてから言葉を続けた。


「古い資料を読むときも、書かれた時期や、そのときの状況が分からないと判断が難しいことがありますよね。今回の実習でも、同じようなことが起こるのかなと思って……」


 俺はその言葉に頷いた。


 ミリアと一緒に古い記録を調べたとき、まさに似た問題に直面している。


 北部の物資管理に関する古い資料には、意味のはっきりしない記述や、記入された理由が分からない欄があった。


 ただし、その話をここで詳しく持ち出すわけにはいかない。


 北の森で見つけた石扉のことを知っているのは、俺とエリオットだけだ。ミリアは資料の調査には協力してくれているが、俺たちが森で何を見つけたのかまでは知らない。


「確かに、資料でも同じことがあるな」


 俺は話せる範囲で答えた。


「書かれている内容だけじゃなくて、いつ、どういう目的で残された記録なのかを考えないと、勘違いすることもありそうだ」


「はい。だから、今回の実習でも、確認した時間や条件を記録できるようにしておきたいです」


 ミリアはそう言って、小さく微笑んだ。


 その表情には、以前よりも少し自信が感じられた。


 彼女はまだ大勢の前で話すことを得意としていない。けれど、自分の考えを言葉にするとき、必要以上に遠慮することは少なくなってきている。


 セシリアも穏やかに頷いた。


「私は、間違いに気づいた後の対応が大切だという話が印象に残りました。誰かが失敗したとき、責めるより先に、どうすれば安全に直せるか考えたいです」


「それは大事だな」


 エリオットが答えた。


「特に複数の班が関わるなら、間違いを隠した方が危険になるかもしれない。自分たちだけで済む問題とは限らないからね」


 フィンはその話を聞きながら、珍しく真面目な顔になった。


「……俺、勢いで動いちゃうことあるからな。もし何か間違えたら、ちゃんとみんなに言うよ」


 その言葉に、ユリウスが少し驚いたように顔を上げた。


「お前が自分からそう言うとは思わなかった」


「何だよ、その反応! 俺だって反省くらいするって!」


「反省することと、次に生かすことは別だからな」


「分かってるよ! だから、今度はちゃんと考えてから動くって言ってるだろ!」


 二人のやり取りに、セシリアが小さく笑った。


 ミリアも口元を緩め、エリオットは呆れたように肩をすくめている。


 俺はその光景を見ながら、少しだけ不思議な気持ちになった。


 最初から、こんなふうに自然に話せたわけではない。


 学院へ来たばかりのころは、誰がどんな性格なのかもよく分からなかった。


 それが今では、フィンが勢いよく話し始めればユリウスが冷静に指摘し、ミリアが迷っていればセシリアがさりげなく支え、エリオットは全体の話を落ち着いて整理してくれる。


 それぞれが、自分の得意なことを少しずつ理解し始めているのだ。


(……俺は、何ができるんだろうな)


 魔法の力だけなら、ほかの生徒よりもずっと多くの選択肢を持っている。


 しかし、今回の実習では、それだけでは足りない。


 仲間の言葉を聞くこと。必要な情報を整理すること。自分の判断が間違っている可能性を考えること。


 そうしたことは、どれだけ強い魔法を使えても、自動的に身につくわけではないのだろう。


「シュウ?」


 エリオットの声で、俺は顔を上げた。


「何か考えていた?」


「ああ。今日の説明を聞いて、昨日決めたことを少し直した方がよさそうだと思って」


 俺はテーブルの上に置かれたミリアの筆記帳へ目を向けた。


「情報の出どころだけじゃなくて、確認した時間や条件も意識すること。それから、判断を変えたときは、何が変わったのかをちゃんと伝えること。そこを追加しておかないか?」


 ユリウスがすぐに頷いた。


「いいと思う。特に、判断を変更した理由は残しておいた方がいいな。あとから別の班に説明するときにも必要になるはずだ」


「私も賛成です」


 ミリアが答え、セシリアも微笑んだ。


「それから、誰かが不安を感じたとき、遠慮せずに伝えられるようにしたいです。危険かどうか確信が持てなくても、気になることを言ってもらえた方が安心できますから」


「それも大事だな」


 エリオットが頷くと、フィンが明るい声を上げた。


「よし! じゃあ、俺は何か気になったらすぐ言う!」


「お前は、言う前に一度考えることも覚えろ」


 ユリウスの指摘に、また笑いが起こった。


 ただ、その笑いの中で、ミリアだけは少し考え込むように筆記帳を見つめていた。


 やがて彼女は、控えめに手を挙げる。


「あの……一つ、提案してもいいですか?」


「もちろん」


 俺が答えると、ミリアは少しだけ背筋を伸ばした。


「記録を取るとき、分かったことと、まだ確認できていないことを分けて書いた方がいいと思うんです。全部を同じように並べると、あとから見た人が勘違いしてしまうかもしれませんから」


 その言葉を聞いて、俺は思わず頷いた。


「それ、すごくいいな」


「僕も賛成だよ」


 エリオットが続けた。


「確認できていないことを残しておけば、次に何を調べればいいのかも分かるからね」


 ミリアは少し驚いたように目を瞬かせた。


 それから、ほっとしたように笑った。


「ありがとうございます。じゃあ、その形で整理してみます」


 彼女が筆記帳へ文字を書き加える様子を見ながら、俺は小さく息を吐いた。


 六人で考えるというのは、こういうことなのだろう。


 誰か一人が完璧な答えを出すのではなく、それぞれが気づいたことを持ち寄り、少しずつ考えを整えていく。


 それは、俺が前世のノートに書いた最強の主人公とは、まるで違うやり方だった。


     ◇


 昼休みの終わりが近づいたころ、ミリアは筆記帳を閉じ、少しだけ不安そうな表情を浮かべた。


 俺が気づくより先に、セシリアがその変化を察したらしい。


「ミリア、どうかしましたか?」


「いえ、その……今回の実習では、ほかの班の人たちとも話すことになるかもしれませんよね」


 ミリアはそう言って、視線を少し下げた。


「みんなとなら、前より落ち着いて話せるようになったと思うんです。でも、初めて話す人に説明するとなると、ちゃんと伝えられるか不安で……」


 その声は小さかったが、途中で途切れることはなかった。


 俺は彼女の言葉を聞きながら、以前のミリアなら、その不安を口にすること自体をためらっていたかもしれないと思った。


 セシリアはすぐに励まそうとはせず、少し考えてから答えた。


「不安なのは、きちんと伝えたいと思っているからですよね。私は、ミリアが整理した説明は分かりやすいと思います」


「でも、相手が急いでいたら、うまく話せないかもしれません」


「それなら、短く伝える練習をしてみるのはどうでしょう」


 エリオットが穏やかに提案した。


「最初に結論を伝えて、それから必要な条件を説明する。全部を一度に話そうとしなくてもいいと思うよ」


 ユリウスも頷いた。


「相手に確認してほしいことがあるなら、最後にそれを伝えればいい。話す順番を決めておけば、少しは落ち着けるんじゃないか?」


 ミリアは二人の言葉を聞き、ゆっくりと頷いた。


「……そうですね。何を伝えるかだけじゃなくて、どういう順番で伝えるかも考えてみます」


「それなら、俺も練習相手になるぞ!」


 フィンが勢いよく言った。


「知らない相手のつもりで聞けばいいんだろ? 俺、そういうの得意だと思う!」


「お前の場合、途中で余計な質問をしそうだけどな」


 ユリウスの指摘に、フィンは不満そうな顔をした。


 けれど、ミリアは小さく笑った。


「ありがとうございます。フィンさんが相手なら、いろいろな質問が来ても練習になりそうです」


「だろ? 任せてくれ!」


 胸を張るフィンを見て、俺たちはまた笑った。


 その様子を眺めながら、俺は少しだけ安心していた。


 ミリアが不安を感じていること自体は、まだ変わらない。


 けれど、彼女はその不安を言葉にできた。


 そして、周囲の仲間も、それを無理に消そうとするのではなく、どうすれば少しずつ乗り越えられるのかを考えている。


 それだけでも、以前とは違うのだと思う。


     ◇


 午後の授業が終わるころには、学院の空に薄い雲が広がり始めていた。


 窓から差し込む光は午前よりも柔らかくなり、廊下には授業を終えた生徒たちの足音が響いている。


 俺とエリオットは教室を出ると、図書室へ向かう途中の廊下で立ち止まった。


「シュウ、今日の説明を聞いて、何か気になることはあった?」


 エリオットが尋ねた。


「合同実習のことなら、情報の扱い方かな。思ってた以上に、確認することが多そうだ」


「うん。僕もそう思った」


 彼は少し考えてから、声を落とした。


「それと、以前の標的装置の件についても、もう少し整理しておきたい。合同実習とは別の話だけど、今日の説明を聞いて、情報の条件を確認することが大切だと思ったから」


 俺は頷いた。


 以前、セレナ先生の授業で使用した標的装置には、魔力の反応を保持する補助部品が使われていた。


 その部品では、通常よりも魔力の放出が遅いという現象が確認されている。


 また、俺が低出力の水魔法を使った際、測定器の表示に小さな揺らぎが生じたこともあった。


 ただし、それらが同じ原因によるものなのかは、まだ分からない。


 まして、北部の古い資料に残された記録と関係していると断言できる段階ではない。


「そうだな。でも、今は先生の調査を待つしかない部分もあるし、俺たちにできるのは資料を正確に読むことくらいかな」


「それで十分だと思う。無理に結論を出す必要はないよ」


 エリオットはそう言って、廊下の先へ視線を向けた。


「図書室へ行くなら、前に見つけた記録の整理を続けようか。ミリアも、時間があれば来るって言っていたし」


「うん。今日は新しいことを探すより、今までの情報を確認する方がよさそうだな」


 俺たちは並んで歩き始めた。


 図書室へ続く廊下は、午後の光を受けて静かに明るんでいる。


 窓の外では中庭の木々が風に揺れ、遠くの演習場からは、まだ実技を続けている生徒たちの声が聞こえていた。


 その景色を眺めながら、俺はふと考えた。


 合同実習でも、古い資料の調査でも、結局は同じことが求められているのかもしれない。


 分かっていることを正確に扱い、分からないことを勝手に補わない。


 そして、一人で抱え込まず、必要な相手と情報を共有する。


(……最強の力があっても、こういうことは自分で学ばないといけないんだな)


『まさにその通りでございます、マスター』


 アルカディアの声が響いた。


『もっとも、かつての設定には《万象完全理解》という能力が存在し、あらゆる情報を瞬時に解析できると記載されておりますが』


(またそれかよ!)


『現在のマスターは、情報を一つずつ確認し、仲間と相談しながら判断しておられます。設定上の最強とは異なる方法ですが、興味深い成長でございます』


 俺は内心で苦笑した。


 昔の俺が考えた最強の存在なら、こんな面倒な準備など必要なかったのだろう。


 しかし、今の俺には、面倒なことを一緒に考えてくれる仲間がいる。


 それは、前世のノートには書かれていなかったものだ。


 図書室の扉が近づくと、エリオットがこちらを見た。


「シュウ、どうしたの? 少し笑ってるけど」


「いや、今の生活も悪くないなって思ってさ」


 俺がそう答えると、エリオットは少し驚いたように目を瞬かせた。


 それから、穏やかに笑った。


「僕もそう思うよ」


 その言葉を聞きながら、俺は図書室の扉へ手を伸ばした。


 合同実習の詳しい課題は、まだ分からない。


 標的装置の魔力の揺らぎも、古い記録に残された謎も、答えが出たわけではない。


 それでも、俺たちは少しずつ準備を進めている。


 強い魔法を使うことだけが、前へ進む方法ではない。


 仲間の言葉を聞き、知らないことを認め、必要な情報を確かめる。


 そんな当たり前の積み重ねが、今の俺たちには必要なのだと思う。


 そして俺は、かつて自分が考えた最強の存在とは違う道を、少しずつ歩き始めていた。

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