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『黒歴史ノートが異世界で最強の魔導書になっていました』  作者: 伊佐波瑞樹


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第96話 合同実習の準備で、俺の黒歴史がまた余計なことを言い始めた


 夕方の男子寮は、授業を終えた生徒たちの声でいつもより賑やかだった。廊下の向こうからは誰かが笑う声が聞こえ、開け放たれた窓から入り込む風が、壁に掲げられた学院の行事予定表を小さく揺らしている。俺は部屋の扉に鍵をかけると、隣に立つエリオットと並んで階段へ向かった。


「合同実習の班が決まっただけなのに、ずいぶん慌ただしくなったな」


 エリオットが階段の手すりに手を添えながら言った。下の階では、実習に必要な筆記具を買い足すべきか相談している生徒がいて、その声に別の誰かが、まだ持ち物すら発表されていないだろうと笑っている。


「みんな気になるんだろ。俺だって、何をするのか分からないまま準備しろって言われたら、ちょっと落ち着かないし」


「君の場合は、準備の方向を間違えないか心配だ」


「どういう意味だよ」


 エリオットは俺の顔を見て、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「必要以上に難しく考えて、一人で何とかしようとすることがあるだろう。今日、みんなからも言われていたじゃないか」


 反論しようとした俺は、結局、口を開きかけたまま黙ってしまった。昼休みの中庭で、フィンたちから順番に心配されてしまった光景が思い浮かんだからだ。


(そんなに頼りなく見えるのか、俺って……いや、頼りないというより、何でも抱え込もうとするところが問題なのか)


『自己分析としては、おおむね正確かと存じます』


 頭の中に、聞き慣れた落ち着いた声が響いた。


『しかしご安心ください、マスター。かつての設定によれば、あなたは世界中の軍勢を一人で統率し、あらゆる危機を事前に察知し、すべての民を幸福へ導く存在でした』


(その設定を今ここで持ち出す必要ある!?)


『現在の課題と深い関連がございます。特に《絶対統率王》の項目には、配下の思考を完全に把握し、最適な命令を瞬時に与えると記載されております』


(やめろ。お願いだから、その名前を繰り返さないでくれ)


 俺が内心で頭を抱えていると、エリオットが不思議そうにこちらを見た。どうやら、知らないうちに眉間へ皺を寄せていたらしい。


「何か気になることでも?」


「いや、昔の自分の考え方を思い出して、ちょっと反省してただけだ」


「それなら、悪いことじゃないと思うよ」


 エリオットはそれ以上追及せず、食堂へ続く廊下に視線を戻した。こういうところが、俺にとってはありがたい。


 前世の記憶も、アルカディアの存在も、誰にも話していない。もちろん、目の前の友人に対しても同じだ。


 それでもエリオットは、俺が何かを考え込んでいるとき、無理に答えを聞き出そうとはしない。必要なら話せばいいという距離感を保ってくれる。


(……こういう相手にまで、一人で全部抱え込もうとする必要はないんだよな)


 食堂の扉を開けると、焼いた肉と温かいスープの匂いが漂ってきた。長い窓の向こうでは夕日が学院の屋根を赤く染め、食事を受け取った生徒たちが、思い思いの席へ向かっている。


 俺たちは夕食を受け取って窓際の空席へ向かったが、腰を下ろしたところで、向かい側から勢いのある声が飛んできた。


「おっ、シュウ! エリオット! ちょうどよかった!」


 フィンだった。


 その後ろにはユリウスがいて、二人とも食事の載った盆を持っている。フィンは俺たちの返事を待つ間もなく近づいてきたが、ユリウスが先に空いている席を確かめ、周囲の邪魔にならない位置へ盆を置いた。


「お前、もう少し落ち着いて歩けよ。さっきもスープをこぼしかけただろう」


「こぼしてないんだから問題ないって!」


「こぼさなかったことと、危なかったことは別だ」


 ユリウスの冷静な指摘に、フィンは一瞬だけ言葉を詰まらせた。俺とエリオットが顔を見合わせると、フィンは照れ隠しのように笑いながら椅子を引いた。


「それでさ、合同実習のことなんだけど、明日の放課後、みんなで少し集まらないか? 何をするかはまだ分からないけど、今のうちに話しておけることもあるだろ?」


「いいと思う。ただ、正式な説明があるまでは、勝手に実習内容を決めつけない方がいいな」


 エリオットが答えると、ユリウスも頷いた。


「俺も同じ意見だ。今日の話で決まっているのは協力班の構成と、ほかの班との情報共有が必要になるという点くらいだろう。今の段階で複雑な作戦を立てても、当日の課題と合わなければ意味がない」


「分かってるって。だから、作戦じゃなくて準備の相談だよ」


 フィンはそう言いながらパンを一口かじったが、その表情には期待が隠しきれていなかった。


 合同実習という言葉を聞いてから、彼はずっと楽しそうだ。複数の班が協力し、それぞれ異なる情報を持ちながら課題を進めるという説明は、冒険者に憧れるフィンにとって魅力的なのだろう。


「ミリアとセシリアには、もう声をかけたのか?」


 俺が尋ねると、フィンは少しだけ得意そうに胸を張った。


「食堂に来る前に会ったからな。二人とも都合が合えば参加するってさ。ミリアは図書室で確認したい資料があるらしいけど、それが終わってからでもいいって」


「じゃあ、無理のない時間にしよう。集まる場所も、あとで確認した方がいいな」


 俺が答えると、ユリウスは意外そうに眉を上げた。


「シュウが最初に時間と場所の確認を言い出すとは思わなかった」


「おい、どういう意味だよ」


「悪い意味じゃない。昼に話したことを、もう意識しているんだと思っただけだ」


 そう言われると、かえって照れくさい。


 俺はスープを口に運び、湯気の向こうへ視線を逃がした。隣ではエリオットが静かに笑っていて、フィンまで楽しそうにこちらを見ている。


『素晴らしい進歩でございます、マスター。かつての《絶対統率王》が、集合時間の確認から始める存在へと成長なさいました』


(だから、その名前を出すなって!)


『なお、当時の設定では、マスターが一声発するだけで十万の軍勢が整列したそうです』


(十万人の集合時間なんか、絶対に管理したくない……)


 思わず深いため息をつくと、フィンが首を傾げた。


「どうした、シュウ? そんなに合同実習が心配か?」


「いや……人数が多いと、いろいろ大変そうだなって思っただけだ」


「確かにな。でも、だからこそ面白いんじゃないか?」


 フィンは笑ってそう言ったが、その隣でユリウスが小さく肩をすくめた。


「面白いかどうかは、当日にならないと分からない。ただ、連絡の取り方を決めておくのは悪くないと思う」


 夕食の間、俺たちは具体的な実習内容を想像しすぎないよう気をつけながら、事前に相談できることを整理した。


 誰かが新しい情報を聞いたときは、まずその情報が正式な説明なのか、ほかの生徒から聞いた話なのかを区別すること。確認できない内容は、確定した事実として広めないこと。そして、誰か一人に判断を任せきりにせず、必要な場面では互いに確認すること。


 どれも特別な作戦ではない。


 それでも、これまでの授業や実習で経験した失敗を思い返すと、決して軽く扱っていいことではなかった。


 以前の俺なら、もっと強い魔法を使えば何とかなると考えていたかもしれない。実際には、強い魔法が必要な場面ばかりではないし、魔法を使わない方が安全な場合だってある。


 何より、仲間がいる。


 その当たり前の事実を、俺は少しずつ実感し始めていた。


     ◇


 翌朝、学院の廊下には合同実習に関する話題が広がっていた。


 まだ詳細が発表されていないこともあって、生徒たちの想像はさまざまだった。広い演習場で班同士が競争するのではないかと言う者もいれば、複数の場所を巡って課題を解くのではないかと予想する者もいる。


 俺はエリオットと並んで教室へ向かいながら、その会話を何となく聞いていた。


「噂って、すぐ広がるんだな」


「情報が少ないと、みんな自分の知っている実習に当てはめて考えるんだろうね」


 エリオットは廊下の掲示板に目を向けた。そこには普段の授業予定や施設利用に関する案内が並んでいたが、合同実習の詳しい説明はまだ掲示されていない。


「昨日の時点では、正式に発表されたこと以外は分からない。今はそれを忘れない方がいいと思う」


「そうだな。変な噂を信じて準備しても仕方ないし」


 俺たちが教室へ入ると、すでに何人かの生徒が席についていた。窓際ではフィンが別の生徒と楽しそうに話していて、ユリウスはその少し離れた場所で教科書を開いている。


 ミリアとセシリアも教室に来ていた。


 ミリアは机の上に小さなノートを広げ、何かを書き込んでいる。隣のセシリアがそれを覗き込みながら話していたが、俺たちに気づくと柔らかく微笑んだ。


「おはよう、シュウ君、エリオット君」


「おはよう。二人とも早いな」


「ミリアちゃんが、昨日の話を少し整理してきたんです。私も見せてもらっていたところで」


 セシリアに促され、ミリアが少し恥ずかしそうにノートをこちらへ向けた。


 そこには、合同実習について現時点で分かっていることと、まだ分からないことが分けて書かれていた。


「まだ、そんなに書けることはないんですけど……。でも、分からないことを分からないままにしておくのも、準備の一つかなと思って」


 ミリアの声は控えめだったが、以前よりもはっきりしていた。


 俺はノートへ目を落とし、丁寧に区切られた項目を順番に読んだ。協力班の構成、複数班での情報共有、教員による監督、安全確認の必要性。どれも昨日の説明と一致している。


 その下には、実習場所、実施日、具体的な課題、使用する道具などが未確認事項として並んでいた。


「すごく分かりやすいな。こうして見ると、今できる準備と、まだできない準備がはっきりする」


 俺が素直に感想を伝えると、ミリアは少し驚いたように顔を上げた。


「本当ですか?」


「うん。俺だったら、気になることを全部一緒に書いて、あとから混乱しそうだ」


 その言葉に、セシリアが小さく笑った。


「でも、シュウ君は気づいたことをすぐ行動に移せるでしょう? ミリアちゃんは整理するのが得意ですし、みんなで補い合えばいいんだと思います」


 ミリアもゆっくり頷いた。


「私、実習で知らない人と話すのは、まだ少し緊張します。でも、何を確認すればいいのか分かっていたら、落ち着いて話せるかもしれないので」


 以前のミリアなら、こうした不安を口にすることさえためらっていたかもしれない。今は自分が苦手なことを認めながら、それでも何かできる方法を考えている。


 俺はその変化を頼もしく感じた。


「じゃあ、放課後の相談でも、そのノートを使わせてもらおうか。もちろん、ミリアがよければだけど」


「はい。私も、みんなの意見を聞いて書き足したいです」


 ミリアの表情が少し明るくなったところで、教室の前方から椅子を引く音が聞こえた。リディア先生が入ってきたのだ。


 俺たちはそれぞれの席へ戻り、授業の準備を始めた。


     ◇


 午前の授業は、魔力の安定した運用と周囲への影響についてだった。


 実技を担当するセレナ先生は、演習室の中央に置かれた小さな魔導具を示しながら、魔法の出力だけでなく、発動した後に残る魔力の状態にも注意する必要があると説明した。


「魔法は発動した瞬間だけを見ればよいものではありません。使用した場所、対象、周囲の魔導具によって、残留する魔力の状態が異なる場合があります」


 俺はその言葉を聞きながら、以前の標的装置を思い出していた。


 あのとき、俺が放った魔法の出力は安定していた。それでも、測定器の表示には小さな揺らぎが生じていた。


 原因は分かっていない。


 同じ型の装置でも似たような記録が見つかったと聞いたばかりだが、測定条件が十分に残っていない以上、簡単に結論を出すことはできなかった。


「シュウ、今の説明、気になる?」


 隣に立つエリオットが、周囲に聞こえない程度の声で尋ねた。


「少しな。でも、今の話だけで何か分かるわけじゃない」


「そうだね。装置の状態と魔法の性質を分けて考える必要がある」


 俺たちはそれ以上話さず、先生の説明へ意識を戻した。


 セレナ先生は続けて、魔導具の点検記録が重要になる理由を説明した。使用者が同じ魔法を使ったつもりでも、装置側の状態が異なれば測定結果が変わることがある。逆に、装置が正常でも、魔力の流れに個人差が生じる場合もある。


 どちらか一方だけを見て原因を決めつけるのは危険だという。


(……やっぱり、まだ何も決められないんだよな)


『その認識は適切でございます、マスター』


 アルカディアの声が、頭の奥で静かに響いた。


『もっとも、過去の設定におけるマスターは、あらゆる魔力の本質を一目で看破する存在でしたが』


(今、その話は必要ないだろ)


『比較対象として有用かと存じます』


(比較対象が極端すぎるんだよ!)


 俺は表情を変えないよう注意しながら、先生が示した点検記録の項目をノートへ書き写した。


 使用日時、使用者、装置の状態、発動した魔法の種類、出力、測定条件、異常が確認された場合の対応。


 並べてみれば当たり前に思える項目ばかりだが、どれか一つが抜けただけでも、あとから状況を正確に再現することは難しくなる。


 古い資料に残された曖昧な記録も、同じ問題を抱えているのかもしれない。


 ただし、それはあくまで考え方の共通点だ。


 北の森に関係する古い物資台帳と、学院の標的装置に直接のつながりがあると分かったわけではない。


 俺はその区別を忘れないよう、ノートの余白へ小さく線を引いた。


 授業の後半では、生徒たちが二人一組になり、簡単な魔法を発動して互いの魔力の流れを観察することになった。


 俺とエリオットは向かい合って立ち、まずエリオットが小さな水球を作った。


 淡い青色の水が空中に浮かび、ゆっくりと回転する。彼は魔力の流れを一定に保ちながら、その形を崩さないよう慎重に維持していた。


「どう見える?」


「安定してる。外側の流れもほとんど揺れてないと思う」


「じゃあ、少しだけ出力を下げるよ」


 エリオットが魔力を抑えると、水球はわずかに小さくなった。それでも形は保たれ、表面に生じた小さな波紋もすぐに収まった。


 俺はその変化を見つめながら、自分が同じことをするときの感覚と比べていた。


 魔力量が多いことと、細かく扱えることは別だ。


 俺は常時使える身体強化や魔力感知のおかげで、普通の生徒よりも有利な部分がある。けれど、だからといって、細かな調整まで最初から完璧にできるわけではない。


 エリオットの水球が消えたところで、今度は俺の番になった。


 俺は普通の水魔法を使い、手のひらの上へ小さな水球を浮かべた。特別な能力を選択したわけではなく、授業で扱う範囲の魔法だ。


 水球の表面が静かに揺れ、窓から差し込む光を受けて淡く輝く。


「出力は安定していると思う。ただ、少し密度が高い感じがするね」


 エリオットが観察しながら言った。


「密度?」


「うん。同じくらいの大きさでも、君の方が魔力を詰め込んでいるように見える。悪いこととは限らないけど、今回の目的なら、もう少し薄くしてもいいかもしれない」


 俺は言われた通り、魔力の流れを少しずつ緩めてみた。


 すると、水球の輪郭が一瞬だけ揺らぎ、表面から小さな水滴が落ちかけた。慌てて魔力を戻そうとしたところで、エリオットが穏やかに声をかけてきた。


「急に戻さなくていい。今の揺れを見ながら、少しずつ整えてみて」


 その言葉に従い、俺は呼吸を整えた。


 魔力を増やすのではなく、流れの偏りを小さくする。水球の内側へ意識を向けると、先ほどまで無意識に押し込んでいた魔力が、必要以上に集中していたことに気づいた。


 俺はその部分を少しずつ緩め、水球全体へ均等に行き渡らせるよう調整した。


 しばらくすると、揺れていた表面が落ち着いてきた。


「……こんな感じか?」


「うん。さっきより自然だと思う」


 エリオットの言葉に、俺はようやく肩の力を抜いた。


 周囲ではほかの生徒たちも同じ課題に取り組んでいた。水球を維持できずに何度も作り直している者もいれば、炎の大きさを調整するのに苦戦している者もいる。


 セレナ先生は一組ずつ様子を見て回り、魔力の扱い方について助言を与えていた。


 俺たちのところへ来た先生は、水球の状態を確認すると、小さく頷いた。


「シュウ、今の調整は悪くありません。最初から必要以上の魔力を込める癖には注意してください」


「はい」


「エリオットも、観察した内容を具体的に伝えられていました。相手が何を直せばよいか分かる説明は、実習でも重要になります」


 先生はそう言って、次の組へ向かった。


 俺は水球を静かに消しながら、エリオットへ目を向けた。


「助かった。自分じゃ、最初の密度の違いに気づいてなかった」


「君は魔力の量に余裕があるから、少し多く使っても形が保てるんだと思う。でも、それがいつでも最適とは限らないだろうね」


「そうだな。もっと細かく扱えるようにならないと」


 エリオットは頷いたが、その表情にはいつもの落ち着きがあった。


「焦らなくていいと思う。今みたいに、違いに気づいて直せれば十分進歩しているよ」


 俺はその言葉を聞きながら、先ほどの水球の感覚をもう一度思い返した。


 大きな力を持っていることと、その力を正しく使えることは違う。


 その違いを教えてくれる相手がいることも、今の俺にとっては大きかった。


     ◇


 昼休み、俺たちはいつものように食堂へ集まった。


 フィンは午前の授業で炎の大きさを調整する課題に苦戦したらしく、席につくなり、自分の手の動きを再現しながら説明を始めた。


「いや、ちゃんと小さくしたつもりだったんだよ。でも、少し抑えたら急に弱くなってさ。今度は戻そうとしたら、思ったより大きくなって……」


「だから、急に変えすぎなんだって」


 ユリウスが呆れたように言った。


「先生にも同じことを言われただろう。お前は一度に動かす魔力の量が多すぎるんだ」


「分かってるって。でも、細かく調整するのって難しいんだよな」


 フィンは苦笑いしながらパンをちぎった。


 その様子を見ていたセシリアが、少し考えてから口を開いた。


「私は、魔力を抑えるときに、無理に止めようとしない方がうまくいく気がします。流れを小さくするというか、少しずつ細くしていく感じでしょうか」


「なるほどな。止めるんじゃなくて、細くするのか」


 フィンは興味深そうに頷いた。


 ミリアも会話に加わり、自分が記録を取るときに気をつけていることを話し始めた。


「私も、急に変えたときの方が記録が取りにくいです。少しずつ変えてもらうと、どの段階で変化したのか分かりやすくて……」


「それ、合同実習でも使えそうだな」


 俺が言うと、ミリアは顔を上げた。


「どういうことですか?」


「誰かが何かを試すとき、一度にいろいろ変えたら、何が原因で結果が変わったのか分からなくなるだろ。魔法でも、道具でも、連絡の取り方でも同じかもしれない」


 ユリウスが静かに頷いた。


「確かに。特に複数の班が関わるなら、情報が増える分だけ混乱しやすくなる。何を変えたのか記録しておくことは大事だと思う」


 フィンはしばらく考え込んでいたが、やがて明るい表情になった。


「じゃあ、俺が何かやらかしたときも、何を変えたか記録しておけばいいわけだな!」


「最初からやらかす前提で考えるな」


 ユリウスの即座の指摘に、周囲から笑いが起こった。


 俺も思わず笑ってしまったが、フィンはまったく気にした様子がない。


「いや、失敗したときにちゃんと分かるのは大事だろ? 何も起きないのが一番だけどさ」


 その言葉に、セシリアが穏やかに頷いた。


「そうですね。失敗したことを隠さずに伝えられるのも、大切だと思います」


 ミリアも小さく微笑んだ。


「私も、分からなかったことをそのまま書いておけるようにしたいです」


 六人の会話は、いつの間にか合同実習の準備へつながっていた。


 まだ当日の課題は分からない。


 それでも、互いの得意なことや苦手なことを知っておくことはできる。


 俺は仲間たちの顔を見渡しながら、少しだけ安心していた。


(こういう時間も、ちゃんと準備になるんだな)


『ええ、マスター。なお、かつての設定では、あなたは仲間の能力を瞬時に把握し、最適な配置を自動的に決定できる存在でした』


(だから、今はそういう話じゃないんだって)


『しかし現実には、会話によって互いを理解する必要がございます。実に興味深い変化でございますね』


 いつもの皮肉めいた言い方だったが、その声にはどこか柔らかい響きがあった。


 俺は内心で苦笑しながら、目の前の会話へ意識を戻した。


     ◇


 放課後、俺たちは中庭の一角に集まった。


 昼間の賑わいが少し落ち着いた学院では、遠くの演習場から魔法の発動音がかすかに聞こえていた。石畳の脇には低い植え込みが並び、その向こうでは数人の生徒が授業の復習をしている。


 俺たちは人の通行を妨げない場所を選び、ベンチとその周囲に分かれて座った。


 ミリアがノートを開くと、フィンが興味深そうに身を乗り出した。


「おお、ちゃんと整理してある!」


「まだ、みんなに確認してもらっていないので……」


「いや、これだけでも十分すごいって」


 フィンの率直な言葉に、ミリアは少し照れたように笑った。


 エリオットはノートの内容を確認しながら、まず今日の相談で決められることを整理した。


「実習内容はまだ分からないから、具体的な役割を固定するのは避けよう。ただ、情報を受け取ったときの確認方法や、誰かが困ったときの伝え方は話し合えると思う」


「それなら、まずは情報の出どころを確認することかな」


 ユリウスが答えた。


「先生から直接聞いたのか、ほかの班から伝えられたのか、それとも誰かの予想なのか。そこを区別しないと、間違った判断につながる可能性がある」


 ミリアはその言葉を聞きながら、ノートへ新しい項目を書き加えた。


 セシリアは少し考え込んだ後、静かに口を開いた。


「それと、誰かが困っているとき、すぐに助けられるようにしたいです。前の救助訓練でも、周りを見ている人がいたから気づけたことがありましたよね」


「そうだな。あのときも、全員が同じことをしていたら、足元の変化に気づくのが遅れたかもしれない」


 俺が頷くと、エリオットも同意した。


「だからこそ、役割を決めても周囲を見る余裕は必要だと思う。担当していることだけに集中しすぎると、ほかの変化を見落とす可能性があるから」


 フィンは腕を組み、少し難しそうな顔をした。


「うーん、でも、あれもこれも気にしてたら動けなくならないか?」


「全部を一人で見ようとする必要はないんじゃないかな」


 俺が答えると、フィンがこちらを見た。


「例えば、誰かが前を見ているなら、別の誰かが後ろを確認する。情報を記録している人がいたら、ほかの人はその間に周囲の様子を見ておく。そうやって分担すれば、一人で全部抱え込まなくて済むだろ」


 言い終えてから、俺は少しだけ気恥ずかしくなった。


 昨日まで、まさに自分が一人で抱え込むことを心配されていたのだ。


 フィンも同じことを思ったらしく、にやりと笑った。


「おっ、シュウがいいこと言った!」


「なんだよ、その反応」


「いや、昨日みんなで言ったこと、ちゃんと覚えてるんだなって」


「覚えてるよ。そんなに忘れっぽくないって」


 俺が苦笑すると、セシリアとミリアも楽しそうに笑った。


 ユリウスは少しだけ表情を和らげながら、話を続けた。


「今の考え方はいいと思う。ただ、当日の状況によって役割は変わるかもしれない。最初から誰が何をするか決めすぎない方が柔軟に対応できるだろう」


「そうですね。私も、記録を取ることだけに集中しすぎないようにしたいです」


 ミリアが答えると、エリオットが頷いた。


「記録は大切だけど、危険な場面では安全が優先だからね。必要なら途中で役割を変えてもいいし、記録できなかったことは、あとから確認できる範囲で整理すればいい」


 その言葉を聞いたミリアは、少し安心したように息をついた。


 彼女は記録を丁寧に取ることが得意だが、その分、正確に書かなければならないという気持ちも強いのだろう。


 俺は以前、図書室で一緒に資料を調べたときのことを思い出した。


 古い記録に残された小さな印を見つけたときも、ミリアは意味を決めつけず、まず見えている事実を丁寧に整理していた。


 その慎重さは、きっと合同実習でも役に立つ。


 ただし、それを彼女一人の負担にしてはいけない。


「じゃあ、記録が必要なときも、ミリアだけに任せるんじゃなくて、みんなで確認するようにしよう」


 俺がそう言うと、ミリアは少し驚いたように目を瞬かせた。


「でも、私、書くのは好きなので……」


「うん。それは頼りにしてる。でも、ミリアが困ったときは、俺たちも手伝えるようにしたいんだ」


 しばらく考えた後、ミリアは小さく頷いた。


「……ありがとうございます。そうしてもらえると、安心します」


 その声には、以前よりもはっきりした温かさがあった。


 俺は自然と笑みを返し、仲間たちの顔を見渡した。


 全員が同じ能力を持っているわけではない。


 得意なことも、苦手なことも違う。


 それでも、だからこそ一緒にできることがあるのだと思う。


     ◇


 相談が一段落したころ、空の色は少しずつ夕方へ近づいていた。


 中庭を通り抜ける風が涼しくなり、植え込みの葉がかすかに揺れている。遠くでは授業を終えた生徒たちが寮へ戻り始め、石畳を歩く足音が途切れずに聞こえていた。


 ミリアはノートを閉じる前に、今日決まったことをもう一度読み上げた。


 正式な情報と予想を区別すること。確認した内容には、できる範囲で時間や場所を添えること。危険がある場合は記録より安全を優先すること。そして、役割を固定しすぎず、必要に応じて互いに補い合うこと。


 どれも、当日の課題が分からない今だからこそ決められる内容だった。


「これで、少しは準備になったかな?」


 フィンが尋ねると、ユリウスは頷いた。


「少なくとも、何も考えずに当日を迎えるよりはいいと思う。あとは正式な説明を待つしかないな」


「そうだね。詳しいことが分かったら、また相談しましょう」


 セシリアが穏やかに言った。


 俺たちはそれぞれ荷物をまとめ、帰り支度を始めた。


 ミリアはノートを鞄へしまいながら、少しだけ名残惜しそうに周囲を見渡していた。以前なら、こうした相談の場で自分から意見を出すことに緊張していた彼女が、今日は何度も発言していた。


 フィンも、いつものように勢いだけで話を進めるのではなく、ほかの人の意見を聞こうとしていた。


 ユリウスは冷静に問題点を整理し、セシリアは仲間の負担や安全へ目を向けていた。


 そしてエリオットは、誰かの考えを否定するのではなく、必要なところで補足してくれた。


(……本当に、いい仲間に恵まれたんだな)


 俺はそんなことを考えながら、鞄を肩へかけた。


『マスター』


 アルカディアの声が、静かに響いた。


『かつてのあなたは、世界のすべてを一人で背負う存在として設定されておりました』


(……また黒歴史の話か?)


『はい。しかし、現在のあなたは、他者へ役割を委ね、意見を受け入れ、共に判断することを学んでおられます』


 いつものように余計な名前を読み上げられるのかと思ったが、アルカディアはそこで少しだけ間を置いた。


『その変化は、過去の設定には存在しなかったものでございます』


 俺は思わず足を止めかけた。


 夕方の風が制服の裾を揺らし、前を歩いていたフィンが何か楽しそうに話している。隣ではエリオットがその言葉に答え、少し離れたところでミリアとセシリアが笑っていた。


(……そうかもしれないな)


 前世の俺がノートに書き込んだ最強の存在は、何でも一人でできることになっていた。


 誰よりも強く、誰よりも賢く、誰にも負けず、すべてを思い通りにできる。


 当時は、それが格好いいと思っていた。


 けれど、今の俺は違う。


 分からないことがあるし、失敗することもある。仲間に助けてもらうこともあれば、自分の考えが間違っていたと気づくことだってある。


 それでも、そうした毎日を悪いものだとは思わなかった。


 むしろ、誰かと一緒に考え、少しずつできることを増やしていく時間の方が、今の俺にはずっと大切だった。


『もっとも、マスター』


 アルカディアの声が、再びいつもの調子へ戻った。


『過去の設定には、仲間との絆によって無限の力を得るという記述もございます』


(……結局、そういう話になるのかよ!)


『正確には、絆が深まるほど世界の法則を超越する、と記載されております』


(お願いだから、それ以上詳しく説明しないでくれ!)


 俺は内心で頭を抱えながらも、思わず笑ってしまった。


 隣を歩いていたエリオットが、不思議そうにこちらを見る。


「どうした、シュウ?」


「いや、ちょっと昔の自分を思い出してさ」


「また?」


「またって言うなよ。俺だって、いろいろ反省することがあるんだ」


 エリオットは少しだけ笑った。


「それなら、今の君は前より成長しているんだろうね」


 その何気ない言葉に、俺は一瞬だけ返事を忘れた。


 前世の記憶も、黒歴史ノートの存在も知らない友人が、そんなことを自然に言ってくれる。


 俺は少し照れくさくなりながら、夕暮れの学院を見渡した。


「……そうだといいな」


 エリオットはそれ以上何も言わず、俺と並んで歩き続けた。


 合同実習がどんなものになるのかは、まだ分からない。


 古い記録に残された謎も、標的装置に生じた魔力の揺らぎも、答えが出たわけではない。


 それでも、俺たちは少しずつ学び、考え、次へ進む準備をしている。


 前世の俺が夢見た最強の存在とは、随分違う。


 けれど、今の俺は、そんな毎日を大切にしたいと思っていた。


 そして、その思いだけは、どんな黒歴史の設定よりも確かなものだった。


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