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『黒歴史ノートが異世界で最強の魔導書になっていました』  作者: 伊佐波瑞樹


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第98話 古い帳簿の余白に残された印と、俺たちが見落としていたこと


 王立魔法学院の図書室へ足を踏み入れたとき、俺は真っ先に、窓際の閲覧席に差し込む夕方の光へ目を向けた。


 午後の授業が終わってから、まだそれほど時間は経っていない。高い窓の向こうには薄い雲が広がり、傾き始めた陽光が長机の端を淡い金色に染めていた。書架の間には紙と革装丁の匂いが漂い、奥の席からは、筆記具が紙を擦る乾いた音がときおり聞こえてくる。


 隣を歩くエリオットは、いつものように落ち着いた表情をしていた。ただ、右手に持った筆記帳には何枚もの紙片が挟まれており、歩くたびに端がわずかに揺れている。


「今日は、あまり新しい資料を増やさない方がいいかもしれないね」


 エリオットが小声で言った。


「俺もそう思ってた。今まで調べたこと、そろそろ一回整理しないと、何が分かってるのか分からなくなりそうだし」


「それに、今日の合同実習の説明を聞いて、少し気になったことがあるんだ。情報が正しいかどうかだけじゃなくて、いつ、どんな条件で確認されたものなのかを考える必要があるって話」


「ああ。道が安全だって聞いても、誰がいつ確認したのか分からなければ、そのまま信じちゃいけないってやつだな」


 俺が頷くと、エリオットは筆記帳を軽く持ち上げた。


「古い記録にも、同じことが言えるんじゃないかな。僕たちは書かれている言葉の意味を調べてきたけど、その記録がどういう目的で作られたのかまでは、まだ十分に確かめられていない気がする」


 俺は足を緩めた。


 北部の物資管理に関する古い帳簿。


 そこに残された、白材、導材、夜見という意味の分からない記述。


 さらに、返納理由の欄の近くに見つかった、小さな余白の印。


 どれも以前から調べているものだが、確かな答えにはたどり着いていない。


(確かに、書かれてる言葉ばっかり気にしてたかもしれないな。そもそも、何のための帳簿だったのかも、まだ全部は分かってないんだよな)


『マスター、資料の成立条件を確認するという判断は適切でございます』


 頭の中に、アルカディアの声が響いた。


 俺の前世、神代修司が中学生時代に書き散らした黒歴史ノート。その内容を現実にしてしまった、とんでもない魔導書《禁書アルカディア》だ。


 現在は俺の魂と同化しているため、外から姿を見ることはできない。声も俺にしか聞こえないので、こうして人前で会話を始められると、俺だけが妙な反応をしそうになる。


(今日はまともなこと言うんだな)


『私は常に合理的でございます。なお、かつてのマスターは、未知の文字列を一瞥するだけで成立年代、筆記者、隠された真意まで理解する《万象記憶解析》を設定されておりました』


(それが今使えるって話じゃないんだろ?)


『その能力が現在の選択可能な権能として成立しているとは確認されておりません』


(だったら、地道に調べるしかないな)


『まことに残念ながら、その結論になります』


 残念なのは俺の方だ。


 そもそも、昔の俺は何でも分かる能力を考える前に、分からないことを調べる努力について考えた方がよかったんじゃないだろうか。


 そんなことを思いながら、俺たちは閲覧席へ向かった。


 机の上に鞄を置き、エリオットが筆記帳を開く。俺も自分の記録を取り出して、これまでに確認した資料名を並べた。


 『北部保持材研究録』。


 『旧式物資管理手引』。


 そして、北部の物資管理に関する古い帳簿の閲覧記録。


 それぞれに書かれている内容は、少しずつ重なっているように見える。


 けれど、その重なりが本当に同じ意味を持つのかどうかは、まだ分からない。


「まず、分かっていることだけを別の紙に書こう」


 エリオットの提案に、俺は頷いた。


「じゃあ、最初は北部の帳簿からだな」


 俺たちは声を落とし、確認済みの事実だけを一つずつ書き出し始めた。


     ◇


 作業を始めてしばらくすると、思っていた以上に難しいことが分かった。


 分かっていることを書くだけなら簡単だと思っていたのに、いざ筆記帳を見返してみると、事実と推測が混ざっている箇所がいくつも見つかったのだ。


「この『交換された部品の可能性』って書き方、ちょっと危ないな」


 俺が自分の記録を指さすと、エリオットが覗き込んだ。


「どうして?」


「いや、交換された部品だったって確認できたわけじゃないだろ? 古い手引きに、返納には取り外した部品も含まれる場合があるって書いてあっただけだし」


「そうだね。可能性としては残せるけど、確認済みの欄には入れない方がいい」


 エリオットは新しい紙を取り出し、中央に一本の線を引いた。


 左側に『確認できたこと』、右側に『考えられること』と書き込む。


「こうして分けておけば、あとから読み返したときにも混同しにくいと思う」


「それ、ミリアが昼に話してたやり方にも似てるな」


「うん。彼女の提案は、今回の調査にも使えると思ったんだ」


 俺は自分の記録を見直した。


 北部の古い帳簿に、意味の分からない記述が存在する。


 返納理由の欄の近くに、小さな印がある。


 その印が誰によって、いつ書かれたものなのかは分からない。


 古い手引きによれば、返納という言葉は、未使用品の返却だけを意味するとは限らない。


 ここまでは、資料から確認できた内容だ。


 しかし、印が交換部品を示しているのではないか、あるいは別の帳簿との照合に使われたのではないかという考えは、まだ推測にすぎない。


「……俺、結構勝手につなげて考えてたかもしれない」


 思わずそう呟くと、エリオットは首を横に振った。


「考えること自体は悪くないと思うよ。ただ、考えたことと確かめたことを分けておけばいいんじゃないかな」


「そうだな。じゃあ、推測の方には、何を確認すれば確かめられるのかも書いておこう」


「それはいいね。答えが分からないままでも、次に調べる方向が見えるから」


 俺たちはもう一枚紙を用意した。


 そこには『次に確認したいこと』と書く。


 余白の印が、ほかの帳簿にも存在するか。


 存在するなら、同じ形なのか。


 同じ形だった場合、同じ意味で使われていると判断できる根拠があるか。


 記録が作られた時期や管理主体を確認できるか。


 書き始めると、調べるべきことは次々に出てきた。


(これ、全部調べるだけでも相当時間がかかりそうだな……)


 俺が小さく息を吐いたところで、エリオットが筆記具を止めた。


「シュウ、一つ確認してもいい?」


「ん?」


「僕たちが最初に見つけた余白の印だけど、あれが元の帳簿に書かれていたものなのか、後から写されたものなのかも、まだ分かっていないよね」


 俺は思わず顔を上げた。


「……ああ、そうだな」


「もし写しだったら、印がどの段階で付けられたのかも分からない。元の記録にあったのかもしれないし、写した人が何かを確認するために付けたのかもしれない」


 その言葉を聞いた瞬間、俺は自分が見落としていたことに気づいた。


 これまで俺たちは、余白の印に何か意味があるのではないかと考えていた。


 けれど、そもそもその印が、元の帳簿を書いた人によるものなのかどうかさえ確認できていない。


「……そう考えると、印の意味を調べる前に、どの段階で付けられたものなのか確認しないといけないのか」


「うん。もちろん、今ある資料だけでは判断できないかもしれないけど」


 エリオットは落ち着いた声で答えた。


 俺は筆記帳へ新しい項目を書き加えた。


 『余白の印の成立時期は未確認。原本由来か、写本作成時の追加か不明』


 それを書き終えると、少しだけ気持ちが軽くなった。


 答えが見つかったわけではない。


 ただ、何が分からないのかを、前より正確に言葉にできた気がした。


     ◇


「お待たせしました」


 聞き慣れた控えめな声がして、俺たちは顔を上げた。


 ミリアが鞄を胸の前で抱え、机のそばに立っていた。


 彼女は周囲の閲覧者へ気を配りながら椅子を引き、俺たちの向かい側へ腰を下ろした。


「少し、資料を探していて遅くなってしまいました」


「いや、ちょうど整理してたところだよ」


 俺が答えると、ミリアはほっとしたように微笑んだ。


 彼女は鞄から薄い冊子を取り出し、机の端へ置いた。


「前に見つけた余白の印について、何か参考になるものがないか探してみたんです。はっきりした答えではないんですけど、古い帳簿の整理方法を説明した資料がありました」


 エリオットが冊子の表紙を確かめる。


「帳簿の書式についての説明なんだね」


「はい。印の形や意味は、時代や施設によって違うことがあるそうです。それから、後から確認した人が、余白に印を加える場合もあると書かれていました」


 俺とエリオットは顔を見合わせた。


 つい先ほど話していた疑問と、重なる部分があったからだ。


「ミリア、実は今、似たことを話してたんだ」


「えっ?」


「俺たちが見つけた印が、元の帳簿にあったものなのか、後から写した人が付けたものなのか分からないって」


 ミリアは驚いたように目を瞬かせ、それから冊子を開いた。


「そうだったんですね。私も、これを読んで少し気になったんです」


 彼女が示した箇所には、古い帳簿を整理する際、後年の管理者が確認用の印を加える場合があると説明されていた。


 ただし、そこに描かれている例は、俺たちが見つけた印と完全に一致しているわけではない。


「……これだけじゃ、同じ意味だとは言えないな」


 俺が呟くと、ミリアは頷いた。


「はい。むしろ、同じ形に見えても意味が違う場合があると書かれていました。だから、似ている印を見つけても、すぐに結びつけない方がいいと思います」


 エリオットは自分の筆記帳へ視線を落とした。


「じゃあ、比較するときには、印の形だけじゃなくて、帳簿が使われていた時期や施設も確認する必要があるね」


「そうですね。それから、できれば原本なのか写しなのかも……」


 ミリアはそこまで言って、少し困ったように笑った。


「確認することが、どんどん増えてしまいますね」


「本当にな」


 俺も苦笑した。


 それでも、ミリアが持ってきた資料は無駄ではなかった。


 むしろ、今まで何となく考えていた疑問を、具体的に整理する手がかりになっている。


「ありがとう、ミリア。これ、かなり参考になるよ」


 俺がそう伝えると、彼女は少し驚いたように顔を上げた。


「本当ですか?」


「ああ。少なくとも、印を見つけたからって特別な意味があると決めつけちゃいけないって分かったし」


「それに、比較するときに何を確認すればいいのかも見えてきたよ」


 エリオットが続けると、ミリアはようやく安心したように微笑んだ。


「よかったです。私、資料を探すのは好きなんですけど、見つけたものが本当に役に立つのか、いつも少し不安で……」


「十分役に立ってると思うよ」


 俺は素直に答えた。


「少なくとも、俺一人だったら、そこまで気づかなかったと思う」


 ミリアは頬を少し赤くしながら、視線を筆記帳へ落とした。


 その仕草を見て、俺は余計なことを言っただろうかと一瞬考えたが、彼女の口元には小さな笑みが残っていた。


 どうやら、嫌な気持ちにさせたわけではないらしい。


     ◇


 それから俺たちは、ミリアが持ってきた冊子と、以前確認した記録を見比べ始めた。


 作業を進めるうちに、俺はあることに気づいた。


 これまでの調査では、古い帳簿に残された言葉や印の意味を探すことに意識が向いていた。


 しかし、帳簿というものは、そもそも何かを管理するために作られる。


 誰かが物を受け取り、使い、返し、必要に応じて交換する。


 その過程を残すために、決められた欄や記号が使われていたはずだ。


 ならば、記録の意味を知るためには、その管理方法を理解する必要がある。


「なあ、二人とも」


 俺は声を落として話しかけた。


「俺たち、今まで言葉の意味を調べることばっかり考えてたけど、帳簿がどういう順番で書かれていたのかも確認した方がいいんじゃないか?」


 エリオットが顔を上げた。


「どういうこと?」


「例えば、物資を受け取ったときに書く欄と、返したときに書く欄があるだろ? もし後から確認するための印が付けられていたなら、その印がどの作業に対応していたのか分かるかもしれない」


 俺が説明すると、ミリアは少し考え込んだ。


「……確かに、帳簿の書き方には順番があるはずです。でも、今ある資料だけで分かるでしょうか」


「そこが問題なんだよな」


 俺は肩をすくめた。


「ただ、古い手引きには、返納の処理について説明があっただろ? あれをもう一回確認してみたい」


 エリオットが頷いた。


「いいと思う。返納という言葉が何を含むのかだけじゃなくて、どの段階で記録するのかも分かるかもしれない」


 俺たちは以前確認した『旧式物資管理手引』を、改めて閲覧することにした。


 書架へ向かう途中、俺は少しだけ胸が高鳴るのを感じていた。


 何か重大な答えが見つかると期待しているわけではない。


 ただ、これまでとは違う角度から資料を見られるかもしれない。


 その小さな変化が、妙に嬉しかった。


(……こういうの、前世じゃあんまり経験しなかったな)


『マスターはかつて、謎を解く過程を省略して結論へ到達する存在を理想とされておりました』


(まあ、そういう設定を考えてたのは否定しないけどさ)


『現在は、結論へ至るまでの過程そのものを楽しんでおられるように見受けられます』


(……それは、ちょっとあるかもしれないな)


 俺は心の中でそう答えながら、書架の背表紙を目で追った。


 分からないことを調べるのは、面倒だ。


 けれど、誰かと一緒に考え、少しずつ整理していく時間は、思っていたほど悪くない。


 むしろ、今の俺は、そういう時間を楽しみ始めているのかもしれなかった。


     ◇


 『旧式物資管理手引』を閲覧席へ戻し、該当する部分を確認していると、マティアス先生が書架の奥から姿を現した。


 先生は数冊の書物を抱えており、俺たちの机の近くで足を止めた。


「今日も熱心ですね。何か新しいことが分かりましたか」


 エリオットが立ち上がりかけると、先生は軽く手を上げて制した。


「そのままで結構ですよ。図書室ですから、あまり大きな声を出さないようにだけ気をつけてください」


「はい。ありがとうございます」


 俺たちは声を落とし、現在の調査について説明した。


 余白の印が元の記録にあったものなのか、後から加えられたものなのか分からないこと。


 似た印があっても、時代や施設によって意味が異なる可能性があること。


 そして、帳簿の書式や管理方法そのものを確認したいと考えていること。


 マティアス先生は、最後まで黙って話を聞いていた。


「なるほど。以前よりも、調べたいことが具体的になってきましたね」


 先生は穏やかに頷いた。


「ただし、古い帳簿を読むときには、もう一つ注意しておくとよいことがあります」


「何でしょうか」


 ミリアが尋ねると、先生は机の上の手引きへ視線を向けた。


「同じ名称の欄であっても、時代や管理主体によって、記入される内容が異なる場合があるということです。例えば、返納という処理が、未使用品の返却を意味する場合もあれば、使用後の部品を戻すことを意味する場合もあります」


 俺は頷いた。


 その点については、以前にも教わっている。


 しかし、先生はさらに言葉を続けた。


「また、記録が残されていないからといって、必ずしも処理が行われなかったとは限りません。帳簿が失われている場合もあれば、別の書類へ記録されていた場合もあります」


 その説明を聞きながら、俺は少し考え込んだ。


 俺たちは、今残っている資料をもとに調べている。


 けれど、それが当時使われていた記録のすべてだとは限らない。


「つまり、今ある帳簿だけで、当時の管理方法を全部理解するのは難しいってことですね」


「その通りです」


 先生は頷いた。


「だからこそ、比較資料が重要になります。同じ時代の別の帳簿や、記録の作成方法を説明した手引きがあれば、読み方の手がかりになるかもしれません」


 エリオットが顔を上げた。


「以前、同じ時代の資料を確認できるかもしれないとおっしゃっていましたよね」


「ええ。現在、古い資料の整理を進めています。すぐに閲覧できるとは限りませんが、比較に使えそうなものがあるかどうかは確認してみましょう」


「ありがとうございます」


 俺たちが礼を言うと、先生は少しだけ微笑んだ。


「ただし、期待しすぎないようにしてください。似た記録が見つかったとしても、それが同じ意味を持つとは限りません。資料の成立条件を確かめながら、慎重に比較することが大切です」


 その言葉は、今日の授業でリディア先生が話していたことと重なっていた。


 情報を受け取るときには、誰が、いつ、どのような条件で確認したものなのかを考える。


 古い資料の調査でも、まったく同じことが求められているのだろう。


 マティアス先生は最後に、閲覧した資料を元の位置へ戻すよう念を押し、書架の奥へ戻っていった。


 俺たちはその背中を見送り、しばらく黙っていた。


「……結局、簡単には分からないな」


 俺が呟くと、エリオットが頷いた。


「うん。でも、何を確認すればいいのかは、前よりはっきりしたと思う」


「そうですね」


 ミリアも静かに答えた。


「少なくとも、今ある資料だけで答えを決めつけない方がいいことは分かりました」


 俺は二人の言葉を聞きながら、机の上の記録を見つめた。


 白材、導材、夜見。


 意味の分からない言葉は、相変わらずそこに残されている。


 余白の印も、何を示しているのか分からない。


 しかし、だからといって、何も進んでいないわけではなかった。


     ◇


 調査を続けているうちに、窓から差し込む光が少しずつ傾き始めた。


 図書室の奥では、閲覧を終えた生徒が静かに椅子を引き、書架へ本を戻している。


 俺たちもそろそろ切り上げようかと話していたとき、ミリアが筆記帳を見つめたまま、小さく声を上げた。


「あの……一つ、確認してもいいですか?」


「もちろん」


 俺が答えると、彼女は少しだけ迷うように視線を動かした。


「今日、私たちが整理した内容なんですけど……合同実習の準備にも使えると思いませんか?」


 エリオットが頷いた。


「僕もそう思っていたよ。情報を確認済みと未確認に分ける方法は、実習でも役に立ちそうだね」


「はい。それから、何を確認すれば判断できるのかも、記録しておいた方がいいと思うんです」


 ミリアはそう言って、筆記帳の一ページを示した。


 そこには、今日の調査で整理した内容が、三つの項目に分けて書かれていた。


 確認できたこと。


 まだ分からないこと。


 次に確認したいこと。


 俺はその書き方を見て、思わず頷いた。


「これ、かなり分かりやすいな」


「本当ですか?」


「ああ。例えば実習中に、どこかの道が通れるって情報をもらったとしても、確認した時間が分からなければ、まだ分からないことの欄に書けるだろ?」


「はい。そうすれば、何を確認すればいいのかも分かると思います」


 エリオットも微笑んだ。


「それなら、六人で共有する記録の形として提案してみようか」


 ミリアは少し驚いたように目を瞬かせた。


「私の書き方を、ですか?」


「うん。もちろん、実習の内容が分からないから、当日そのまま使えるとは限らないけど、考え方としては役に立つと思う」


 ミリアは少し考えてから、ゆっくりと頷いた。


「……ありがとうございます。みんなにも見てもらいたいです」


 その声には、以前よりも少しだけ自信が感じられた。


 俺はその変化を嬉しく思いながら、筆記帳を閉じた。


 今日の調査で、謎が解けたわけではない。


 けれど、ミリアの提案によって、合同実習に向けた準備が一つ進みそうだった。


 古い記録を調べていたはずなのに、気づけば今度の実習にもつながっている。


 何だか不思議な気分だった。


     ◇


 図書室を出るころには、学院の廊下が夕方の光に染まっていた。


 窓の外では中庭の木々が風に揺れ、遠くの演習場からは、まだ訓練を続けている生徒たちの声が聞こえてくる。


 ミリアは途中で別の用事があると言って、俺たちと別れた。


 彼女が角を曲がるまで見送ってから、俺とエリオットは男子寮へ向かって歩き始めた。


「今日は、思ってたより頭を使ったな」


 俺が肩を回すと、エリオットが小さく笑った。


「魔法の実技より疲れた?」


「正直、ちょっとな。魔法なら、何をするか分かってれば練習できるけど、古い資料はそもそも何を調べればいいのか分からなくなるし」


「でも、今日はそこが少し整理できたと思うよ」


「そうだな」


 俺は頷いた。


 調査を始めたころは、古い記録に残された言葉の意味さえ分かれば、何かが見えてくると思っていた。


 しかし、実際にはそんなに単純な話ではない。


 言葉の意味を調べるには、その言葉が使われた時代や状況を知らなければならない。


 余白の印についても、誰がいつ書き込んだものなのか分からなければ、正しい意味を判断できない。


 分からないことが増えるたびに、調べるべきことも増えていく。


(……昔の俺なら、こんな面倒なこと、全部一瞬で解決できる設定にしてたんだろうな)


『その通りでございます、マスター』


 アルカディアが、どこか誇らしげに答えた。


『かつてのマスターは、あらゆる記録の真実を見抜き、失われた歴史すら瞬時に理解する存在として設定されておりました』


(便利すぎるだろ、その設定……)


『しかし、現在のマスターは、仲間と協力して一つずつ情報を確かめておられます』


(まあ、そうだな)


『それは、かつての設定とは異なる成長の形でございます』


 俺は少しだけ考え込んだ。


 前世の俺が考えた最強の存在は、誰にも頼らず、すべてを理解し、どんな問題も簡単に解決する主人公だった。


 けれど、今の俺には、分からないことが山ほどある。


 その代わり、一緒に考えてくれる仲間がいる。


 それは、昔の俺が思い描いたものとは、まるで違う。


 それでも、悪くないと思えた。


「シュウ?」


 隣を歩くエリオットが、こちらを見た。


「何か考え事?」


「ああ。ちょっとな」


「合同実習のこと?」


「それもあるけど……今日みたいに、みんなで調べるのも悪くないなって思ってさ」


 俺がそう答えると、エリオットは少し驚いたように目を瞬かせた。


 それから、穏やかに笑った。


「僕もそう思うよ。分からないことを一緒に考えるのは、嫌いじゃないから」


「そうだな」


 俺たちは並んで歩き続けた。


 合同実習の詳しい内容は、まだ分からない。


 北部の古い記録に残された謎も、標的装置で確認された魔力の揺らぎも、答えが出たわけではない。


 それでも、俺たちは少しずつ準備を進めている。


 分かっていることと、分からないことを分ける。


 必要な情報を確かめる。


 そして、一人で抱え込まず、仲間と相談する。


 そんな当たり前のことを、今の俺は少しずつ学んでいるのだと思う。


 夕方の風が廊下の窓から吹き込み、制服の裾を軽く揺らした。


 俺はその風を感じながら、明日もまた、できることから一つずつ進めていこうと考えた。


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