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『黒歴史ノートが異世界で最強の魔導書になっていました』  作者: 伊佐波瑞樹


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第94話 合同実習の準備をするだけなのに、俺の魔力がまた問題になっているんですが?


 王立魔法学院の図書館には、朝の授業が始まる前から、紙をめくる微かな音が響いていた。


 高い窓から差し込む陽射しが長机の表面を照らし、書架の間には古い紙と革表紙の匂いが漂っている。普段なら利用者の少ない時間帯だが、今日は合同実習の準備をしているらしい学生が何人かいて、閲覧席の一角では二人組が地図を広げながら小声で相談していた。


 俺はその様子を横目に、隣を歩くエリオットへ声をかけた。


「思ったより人がいるな。みんな、合同実習のことを調べに来てるのかな」


「そうかもしれないね。昨日までの授業でも情報伝達や役割分担を練習していたし、何か準備しておきたいと思う人は多いんじゃないかな」


 エリオット・ファーレンはそう答えながら、手に持ったノートを軽く持ち直した。


 俺たちが図書館へ来た理由は、合同実習そのものではない。以前から調べている北方の古い物資管理記録について、参考になる資料がないか確認するためだった。


 北方の帳簿には、《白材》《導材》《夜見》という用途の分からない記載があり、返納理由の欄の近くには、小さな印のようなものも残されていた。


 それらが何を意味しているのか、今のところ答えは出ていない。


 さらに、古い設備保守の記録には、外見上の損傷がなくても内部の部品に変化が生じる場合があると書かれていた。以前、実技で使った標的装置に異常が見られたこともあって、俺とエリオットは記録の扱い方について少しずつ調べていた。


 ただし、古い帳簿と標的装置の間に関係があるという証拠はない。


 そこを混同しないようにすることが、俺たちの間ではすっかり共通の約束になっていた。


「シュウ、あそこにミリアがいるよ」


 エリオットが示した先には、窓際の閲覧机でノートを開いているミリア・ハーゼンの姿があった。


 彼女は薄い資料の一部分を指で押さえながら、丁寧な字で何かを書き留めている。近づいて声をかけると、少し驚いたように顔を上げ、それから柔らかく微笑んだ。


「……おはよう、二人とも。今日は早いんだね」


「おはよう、ミリア。前に調べてた記録のことで、マティアスさんに相談しようと思ってさ」


「……そうなんだ。私もちょうど、返納記録の書き方について調べていたところなの」


 ミリアはそう言って、机の上の資料を少しこちらへ寄せてくれた。


 そこには、物資の受け渡しを記録する際の注意事項がまとめられている。


「……この資料だと、欄外に印を付けること自体は珍しくないみたい。でも、その意味は記録を作った場所や時期によって違うことがあるんだって」


 彼女が指差した文章を読み、俺は頷いた。


「なるほど。じゃあ、似た印を別の帳簿で見つけても、同じ意味だとは限らないんだな」


「……うん。だから、あの印だけで何かを判断するのは難しいと思う」


 エリオットも資料を覗き込み、しばらく考えてから口を開いた。


「同じ時期に作られた記録があれば比較できるかもしれないけど、それでも作成者が違えば意味が変わる可能性はあるね。まずは、あの帳簿がどういう目的で使われていたのかを確かめる必要がありそうだ」


 ミリアは嬉しそうに頷き、ノートの端へ短い補足を書き加えた。


 以前の彼女なら、自分の見つけた情報を伝えるとき、もう少し遠慮していたかもしれない。けれど今は、分からないことを分からないまま説明し、そのうえで次に調べるべきことを考えられるようになっている。


 俺はその変化を頼もしく感じながら、資料を元の位置へ戻した。


「ありがとう、ミリア。俺たちもマティアスさんに聞いてみるよ」


「……うん。もし何か分かったら、私にも教えてね」


「もちろん」


 俺たちは司書のいる返却台へ向かった。


 マティアス・レンは返却された本を分類しているところだったが、俺たちに気づくと作業の手を止めてくれた。


「おはようございます。今日はどのような資料をお探しですか?」


「以前見せてもらった北方の帳簿について、同じ年代の管理記録がないか調べたいんです。欄外の印がどういう意味なのか、比較できるものがあればと思って」


 俺が説明すると、マティアスさんは少し考えるように視線を落とした。


「同じ年代の資料はありますが、必ずしも同じ施設で使われたものではありません。比較する際は、その点に注意が必要ですね」


「はい。今のところ、意味を決めつけるつもりはありません」


 エリオットがそう答えると、マティアスさんは穏やかに頷いた。


「それなら、管理手引の補足資料を確認してみましょう。ただ、現在整理中のものもありますので、すぐにお渡しできるとは限りません」


「分かりました。ありがとうございます」


 俺たちは礼を言い、図書館をあとにした。


 廊下へ出ると、授業開始を知らせる鐘が遠くから響いてきた。窓の外では朝の光が中庭の石畳を照らし、教室へ急ぐ学生たちの足音が少しずつ増えている。


「今日は新しい資料を読めなかったけど、調べる方向は少し整理できたね」


 エリオットが言った。


「そうだな。急いで答えを出そうとしても、間違ったら意味がないし」


 俺はそう答えながら、歩く速度を少し上げた。


 そのとき、頭の中に聞き慣れた声が響いた。


《マスター。未知の記録に対する慎重な姿勢は、適切であると考えられます》


(ありがとう。アルカディアにそう言われると、ちょっと安心するな)


《ただし、旧設定のマスターであれば、記録を一目見ただけで作成者の思考、使用目的、過去の出来事まで完全に把握できたことになっております》


(……またそんな設定か)


《《万象記憶解析》。あらゆる情報の真実を読み解き、隠された歴史さえ白日の下にさらす能力でございます》


(名前だけは妙に格好いいけど、そんなものがあったら調査する意味がないだろ)


《当時のマスターは、謎を解く過程よりも、すべてを知った状態で周囲を驚かせることを重視していたようです》


(……昔の俺、絶対に推理小説の犯人を最初から知ってる側になりたかったんだな)


 俺は心の中で苦笑した。


 今の俺にとって、分からないことを調べる時間は決して無駄ではない。


 エリオットやミリアと意見を交わしながら、少しずつ情報を整理していくこと自体が、思っていた以上に楽しかった。


 だからこそ、答えだけを手に入れる能力があったとしても、今はあまり使いたいと思わない。


     ◇


 午前の授業が始まる前、第三組の教室には普段より落ち着かない空気が漂っていた。


 午後に合同実習の追加説明が予定されているため、学生たちの関心は自然とそちらへ向いているらしい。


 窓際の席ではフィン・ラデルがユリウス・ベルンと話しており、机の上には昨日までの授業で使ったノートが広げられていた。


「おっ、シュウ! エリオット! ちょうどよかった!」


 俺たちに気づいたフィンが、勢いよく手を振った。


「おはよう。どうしたんだ?」


「今日の合同実習の説明さ、もしかしたら班の組み合わせも発表されるんじゃないかって話してたんだよ」


 フィンは期待を隠しきれない様子で笑っている。


 その隣で、ユリウスが少し困ったように肩をすくめた。


「僕は、発表されるかどうか分からないって言ったんだけどね。フィンはもう、自分がどんな役割をするか考え始めているみたいなんだ」


「だって、考えるだけならいいだろ? もちろん、実際の役割は状況を見て決めるつもりだけどさ」


 フィンの言葉に、俺は思わず笑った。


 以前の彼なら、得意な火属性魔法を使う役割を真っ先に希望していたかもしれない。


 けれど、最近は自分の得意なことだけでなく、周囲が何を必要としているかも考えるようになっている。


「そうだな。考えておくのは悪くないと思うよ。ただ、どんな実習なのか分かってからの方が、具体的には決めやすそうだな」


「うん。俺もそこは分かってる。前みたいに勢いだけで動いたら、また先生に注意されそうだし」


 フィンは少し照れたように頭をかいた。


 その様子を見て、ユリウスが穏やかに微笑んだ。


「そうやって自分で気づけるようになったなら、いい変化だと思うよ」


「なんだよ、ユリウスまで先生みたいなこと言って」


 フィンが笑いながら返すと、近くの席にいた学生たちも小さく笑った。


 そのとき、教室の扉が開き、セシリア・ノールとミリアが入ってきた。


 二人は俺たちのところへ近づくと、朝の挨拶を交わした。


「みんな、おはよう。もう合同実習の話をしていたのね」


 セシリアがそう言うと、フィンは頷いた。


「おはよう! 今日の説明で何が分かるかなって話してたんだよ」


「そうなのね。私も少し気になっているわ。途中で状況が変わることもあるって聞いているし、準備の仕方が難しそうだから」


 セシリアはそう言いながら、手に持っていたノートを机へ置いた。


 ミリアも小さく頷いた。


「……私も、情報を整理する練習をしておきたいな。前の救助訓練では、みんなが聞いてくれたから指示を出せたけど、知らない人がいる場面でも同じようにできるかは、まだ少し不安だから」


 その言葉を聞き、俺は彼女へ視線を向けた。


 ミリアは以前より自分の意見を伝えられるようになっているが、それでも慣れない相手との会話には緊張することがあるらしい。


「無理に全部一人で説明しようとしなくてもいいと思うよ。分からないところがあれば確認してもらえばいいし、俺たちだって最初から上手くできたわけじゃないんだから」


 俺がそう言うと、ミリアは少し安心したように微笑んだ。


「……うん。ありがとう、シュウ」


 そのやり取りを見ていたセシリアも、優しい表情で頷いた。


「そうね。大切なのは、間違えないことだけじゃなくて、間違いに気づいたときに直せることだと思うわ」


 俺たちはそんな話をしながら、授業開始を待った。


     ◇


 午後の合同実習説明は、実技棟の大きな講義室で行われた。


 第三組の学生たちが席へ着くと、前方にはリディア・フェルン先生、ガルド・ベイル先生、ローディン・ヘルツ先生の姿があった。


 三人の先生が並んでいるだけでも、普段の授業とは少し違う雰囲気がある。


 学生たちの話し声が静まったところで、リディア先生が口を開いた。


「皆さん、これから予定している合同実習について、今日は進め方と安全上の注意を説明します」


 先生は黒板へ、情報確認、役割分担、安全管理、記録という四つの項目を書き込んだ。


「今回の実習では、複数の学生が協力して与えられた状況へ対応してもらいます。魔法の威力を競うものではなく、必要な情報を集め、適切な判断を行うことが目的です」


 その説明に、学生たちは真剣な表情で頷いた。


 俺もノートを開き、先生の言葉を書き留める。


 続いて、ガルド先生が前へ進んだ。


「実習では、複数の確認地点を設ける予定だ。それぞれの地点で得られる情報は、必ずしも同じではない。自分たちが確認した内容を整理し、必要に応じてほかの班へ伝えてもらう」


 先生はそう言って、黒板の端に簡単な図を描いた。


 四角い枠の中に、いくつかの丸印が置かれている。


「これは実際の配置ではないが、考え方の例だ。ある地点では通路の状態が分かり、別の地点では魔力反応の情報が得られるとする。片方の情報だけでは、安全な行動を決められない場合もある」


 俺はその説明を聞きながら、昨日の位置確認の授業を思い出していた。


 自分では正確に位置を理解していても、相手へ伝えるときに共通の基準がなければ、誤解が生まれる。


 今回の実習では、その難しさがさらに大きくなるのだろう。


「また、途中で状況が変化する場合もある。最初に立てた計画が最後まで正しいとは限らないから、必要に応じて判断を見直すこと」


 ガルド先生は学生たちを見渡した。


「ただし、勝手な判断で危険な行動を取ることは認めない。魔法を使用する場合も、担当教員の指示と安全基準を守ることが前提だ」


 俺は静かに頷いた。


 合同実習という言葉から、もっと自由に動き回るものを想像していた学生もいるかもしれない。


 けれど、実際には安全を確保したうえで、判断や連携を練習することが目的らしい。


 そのことが分かり、少し安心した。


 続いて、ローディン先生が説明を引き継いだ。


「今回の実習では、情報を伝える側だけでなく、受け取る側にも責任がある。説明が曖昧なら確認すること。分からないことを分かったふりで進めるのは、最も避けてほしい行動の一つだ」


 先生はそう言って、学生たちの顔を一人ずつ見渡した。


「例えば、通路が安全だという報告を受けたとする。しかし、その情報がいつ確認されたものなのか分からなければ、今も安全だとは限らない。情報には内容だけでなく、確認した時刻や状況も必要になる」


 俺はその言葉を聞き、ノートへ新しい項目を書き加えた。


 情報の内容、確認した人物、確認した時刻。


 どれも当たり前のことのように思えるが、実際に動いているときには忘れてしまう可能性がある。


 だからこそ、今のうちから意識しておく必要があるのだろう。


     ◇


 説明が一段落すると、学生たちから質問が出始めた。


 最初に手を挙げたのはユリウスだった。


「先生、役割分担は事前に決めておくのでしょうか。それとも、当日の状況を確認してから決めるのでしょうか」


 リディア先生は頷いた。


「基本的には、当日の状況に応じて判断してもらいます。ただし、自分や仲間の得意なことを把握しておくのはよい準備です」


 ユリウスは礼を言い、ノートへ書き込んだ。


 続いて、フィンが手を挙げた。


「先生、魔法を使う場面では、得意な属性を使ってもいいんですか?」


「もちろんです。ただし、その魔法が状況に適しているかを確認してください。得意だからという理由だけで使用するのは、適切な判断とは言えません」


 フィンは真剣な表情で頷いた。


「分かりました。ちゃんと考えて使います」


 その答えに、ガルド先生が少し満足そうな表情を浮かべた。


 俺はその様子を見ながら、フィンが以前より慎重になっていることを改めて感じた。


 そのあとも、いくつかの質問が続いた。


 記録は誰が取るのか。


 途中で役割を変更してもよいのか。


 情報が不足している場合はどうするのか。


 先生たちは一つずつ丁寧に答えていった。


 そして、最後にリディア先生が黒板の隅へ、新しい項目を書き加えた。


『実習用魔導具の取り扱い』


 その文字を見た瞬間、俺は少しだけ背筋を伸ばした。


 以前の標的装置のことが、頭をよぎったからだ。


「今回の実習では、必要に応じて訓練用の魔導具を使用する可能性があります。そのため、今日はセレナ先生からも注意事項を説明していただきます」


 リディア先生がそう言うと、講義室の扉が開いた。


 入ってきたのは、セレナ・ヴァイス先生だった。


 彼女は教卓の上へ小さな木箱を置き、学生たちへ向き直った。


「皆さん、こんにちは。今日は実習で使用する可能性がある魔導具について、基本的な確認方法を説明します」


 先生は箱を開き、中から手のひらほどの大きさの魔導具を取り出した。


 金属の枠に小さな結晶が組み込まれた、簡単な構造の装置だった。


「こうした道具を使用する場合、魔力を供給する前に外観や接続部分を確認することが必要です。異常を感じた場合は、無理に使用を続けず、担当教員へ報告してください」


 俺はその説明を聞きながら、以前の実技を思い出していた。


 あのとき、俺とエリオットが使用した標的装置では、実技の終了後に中心の結晶が不安定な反応を示した。


 その後の確認では、魔力を一時的に保持する補助部品が、通常よりゆっくり魔力を放出していることが分かった。


 ただし、外見上の大きな損傷はなく、俺が過剰な魔力を流したという証拠もなかった。


 さらに、別の測定器で行った低出力の確認では、エリオットの水属性魔法には安定した反応が見られた一方、俺が同程度の出力で水属性魔法を使った際には、表示がわずかに揺れた。


 それが使用者による違いなのか、装置の個体差なのか、それとも別の要因なのかは、まだ分かっていない。


 セレナ先生は学生たちへ向けて説明を続けた。


「魔導具の反応が普段と異なる場合、それが使用者の魔力によるものなのか、装置の状態によるものなのかは、すぐには判断できません。必要な確認を行わずに原因を決めつけないことが大切です」


 俺は静かに頷いた。


 先生は特定の誰かを見て話しているわけではない。


 けれど、俺にとっては少し身近な内容だった。


(……やっぱり、あの標的のことも気になるな)


《マスター。以前の測定結果について、現時点で確定できる情報は限られております》


(そうだな。俺の魔力が原因だって決まったわけじゃないし)


《はい。観測された揺らぎと装置の状態との関連は、現時点では不明です》


 アルカディアの返答は、いつになく慎重だった。


 普段ならここで昔の黒歴史設定を持ち出してきそうなものだが、今回は余計な冗談を言わない。


 それがかえって、俺の胸に小さな引っかかりを残した。


(……アルカディアにも分からないんだな)


《申し訳ございません。現在の情報だけでは、正確な判断はできません》


(謝らなくていいよ。分からないなら、調べればいいんだから)


 俺は心の中でそう答え、先生の説明へ意識を戻した。


     ◇


 講義が終わり、学生たちが席を立ち始めたころだった。


「シュウ・アルヴェインさん。少しお時間をいただけますか?」


 セレナ先生に名前を呼ばれ、俺は思わず足を止めた。


 隣にいたエリオットも、こちらを振り返る。


「はい。何でしょうか?」


「以前の標的装置について、追加で確認したいことがあります。長くはかかりませんので、少しこちらへ来てください」


 俺は頷き、教卓の方へ向かった。


 エリオットも一緒に残ろうとしたが、セレナ先生はそれを特に止めなかった。


 以前の実技で同じ装置を使い、確認にも立ち会っていたのだから、不自然なことではないのだろう。


 講義室の学生たちが少しずつ減り、周囲が静かになってから、先生は手元の記録用紙を開いた。


「以前の標的装置についてですが、補助部品の放出時間が通常より長かったことは覚えていますね」


「はい。外側に大きな損傷はなくて、原因はまだ分かっていないと聞いています」


 俺が答えると、先生は頷いた。


「そのとおりです。現在も、原因を一つに絞れる状態ではありません。ただ、同じ型の装置を使った記録を確認したところ、似たような遅れが報告された例が一件ありました」


 俺は思わずエリオットと顔を見合わせた。


「……同じような遅れ、ですか?」


「ええ。ただし、完全に同じ現象かどうかは分かりません。記録に残されている測定条件が十分ではなく、比較できる範囲が限られているからです」


 先生は記録用紙の一部分を指差した。


 そこには、同型装置の点検時に、補助部品の放出時間が通常より長くなったという報告が記されていた。


 しかし、そのときの使用者や魔力の種類、装置の使用回数については、詳しい情報が残っていないらしい。


「つまり、以前にも似た反応があった可能性はあるけれど、原因まで同じとは言えないということですね」


 エリオットが確認すると、先生は頷いた。


「そうです。だからこそ、今は条件を揃えた比較が必要だと考えています」


 俺は記録を見つめながら、少し考え込んだ。


 同じ型の装置で、似た反応があった。


 それだけなら、装置の特性や経年変化による可能性もある。


 俺の魔力が特別な影響を与えたと決めつける理由にはならない。


 むしろ、以前から同じような現象が報告されていたのなら、装置そのものに原因がある可能性も考えられる。


「先生、その記録の装置は、今も残っているんですか?」


 俺が尋ねると、セレナ先生は少し首を振った。


「現時点では確認できていません。記録が残っていることと、実物が保管されていることは別ですから」


「そうなんですね……」


 俺は少し残念に思ったが、すぐに気持ちを切り替えた。


 今の段階で大切なのは、確認できた事実を整理することだ。


 先生は記録用紙を閉じ、俺たちへ視線を向けた。


「それと、もう一点。以前の低出力測定で、シュウさんの魔力を供給した際に表示がわずかに揺れた件ですが、あれについても追加の比較を行う予定です」


 俺は思わず背筋を伸ばした。


「……俺の魔力について、ですか?」


「はい。ただし、何か問題があると判断したわけではありません。魔力の出力が安定していても、測定器の表示に差が出ることはあります。装置の状態や測定条件を確認しなければ、原因は分かりません」


 先生の声は落ち着いていた。


 責めるような様子も、必要以上に警戒する様子もない。


 それでも、自分の魔力が調査対象になっているという事実に、胸の奥が少し落ち着かなくなった。


(……やっぱり、普通の魔力とは違うのかな)


 俺はそう考えかけ、すぐに思い直した。


 まだ何も分かっていない。


 ここで勝手に結論を出すのは、先生が繰り返し注意していたことと同じだ。


「分かりました。必要なら協力します」


 俺がそう答えると、セレナ先生は少し安心したように微笑んだ。


「ありがとうございます。ただし、今すぐ何かをしていただく必要はありません。測定器の状態を確認し、比較に適した条件が整ってから、改めてお知らせします」


 俺は頷いた。


 そのとき、エリオットが静かに口を開いた。


「先生、合同実習で使う魔導具についても、同じような確認を行うんでしょうか?」


「もちろんです。実習で使用する装置は、事前に点検します。ただし、今回の標的装置と合同実習で使用する道具が同じ種類になるとは限りません」


 先生はそう答え、少しだけ表情を引き締めた。


「それから、二人とも覚えておいてください。異常が確認された装置を、原因が分からないまま実習へ戻すことはありません。安全を確保することが、最優先です」


 その言葉を聞き、俺は胸の奥にあった緊張が少し和らぐのを感じた。


 先生たちは、きちんと調べてくれている。


 俺が一人で何かを抱え込む必要はないのだ。


「ありがとうございます、先生」


 俺たちは礼を言い、講義室をあとにした。


     ◇


 実技棟の廊下へ出ると、夕方の光が窓から差し込んでいた。


 学生たちの姿はすでに少なくなっており、遠くの階段から話し声が聞こえてくる。


 俺とエリオットはしばらく無言で歩いていたが、階段の手前まで来たところで、エリオットが口を開いた。


「シュウ、さっきの話、少し気になるね」


「うん。でも、似た反応があった記録が見つかったってだけで、原因が分かったわけじゃないんだよな」


「そうだね。むしろ、比較できる情報が足りないってことが、はっきりしたんだと思う」


 エリオットはそう言って、手に持ったノートへ視線を落とした。


「僕たちが調べている古い記録も、似たようなところがあるね。何か共通点がありそうに見えても、条件が違えば意味も変わるかもしれない」


「……確かに」


 俺は頷いた。


 北方の古い帳簿。


 設備保守の記録。


 標的装置の補助部品。


 そして、俺自身の魔力に見られた小さな揺らぎ。


 それぞれ気になる情報ではあるが、今のところ、すべてが同じ原因につながっているという証拠はない。


 だからこそ、焦らずに調べる必要がある。


「エリオット、今日の話も記録しておこうか。先生から聞いたことと、俺たちが考えたことを分けてさ」


「うん。その方がいいと思う。あとで見返したときに、何が確認された情報なのか分からなくならないようにしたいね」


 俺たちはそう決め、男子寮へ向かって歩き始めた。


 中庭へ出ると、夕方の風が少し冷たく感じられた。


 木々の葉が揺れ、石畳の上には長い影が伸びている。


 俺はその景色を眺めながら、頭の中でアルカディアへ話しかけた。


(なあ、アルカディア。さっきの話、どう思う?)


《現時点では、測定器の表示の揺らぎと、マスターの魔力の性質との関連を断定することはできません》


(やっぱりそうだよな)


《はい。ただし、今後の比較によって新しい情報が得られる可能性はございます》


 俺は小さく頷いた。


 アルカディアは俺の中に存在する魔導書であり、前世の黒歴史ノートに書かれた能力や設定を知っている。


 けれど、今の世界で起きるすべての現象を理解しているわけではない。


 彼女にも分からないことがある。


 それは、少し意外でありながら、どこか安心できることでもあった。


(……もし俺の魔力に何か特徴があるとしても、今は普通に調べてもらうしかないな)


《その判断を支持いたします、マスター》


(ありがとう。……ところで、今日は珍しく黒歴史の話をしないんだな)


《必要であれば、関連する旧設定をご紹介できます》


(いや、必要とは言ってない!)


《例えば、マスターの魔力は通常の魔力とは異なり、世界そのものを構成する根源の力であるという記述がございます》


(……やっぱりあったか、そういう設定)


《名称は《原初絶対魔力》。あらゆる魔力の上位に位置し、通常の魔導具では測定できないことになっております》


 俺は思わず足を止めそうになった。


(ちょっと待て。それ、今の俺の魔力と関係あるのか?)


《不明です。旧設定にそのような記述が存在することと、現在の現象に関連があることは別問題です》


(……そうだよな。危うく勝手に結びつけるところだった)


《なお、旧設定では、マスターの魔力を測定しようとした装置は、その偉大さに耐えきれず、感動の涙を流しながら機能を停止することになっております》


(魔導具に涙を流させるな! しかも、それじゃ測定できないだろ!)


《当時のマスターは、測定不能という結果そのものを、絶対的な強さの証明と考えていたようです》


(……昔の俺、数字で負けるのが嫌だっただけじゃないのか?)


 俺は心の中で深いため息を吐いた。


 隣を歩くエリオットが不思議そうにこちらを見たので、慌てて表情を整える。


「シュウ、どうかした?」


「ああ、何でもない。ちょっと考え事をしてただけだよ」


 エリオットは少し首を傾げたあと、穏やかに微笑んだ。


「そうなんだ。でも、あまり一人で考え込みすぎないでね。分からないことがあれば、僕にも相談してくれていいんだから」


 その言葉に、俺は少しだけ胸が温かくなった。


「……ありがとう、エリオット」


 俺はそう答え、再び歩き始めた。


     ◇


 男子寮317号室へ戻ると、俺たちはそれぞれ机へ向かった。


 窓の外では夕陽が学院の建物を赤く染め、廊下からは夕食へ向かう学生たちの話し声が聞こえている。


 俺はノートの新しいページを開き、今日の出来事を整理し始めた。


 合同実習については、複数の確認地点が設けられる予定であること。


 各地点で得られる情報が異なる可能性があり、必要に応じて共有しなければならないこと。


 途中で状況が変化する場合もあるため、最初の判断に固執しないこと。


 そして、魔導具を使用する場合は、必ず事前の確認と安全管理を行うこと。


 そこまで書き終えたところで、俺は一度ペンを止めた。


 次のページには、セレナ先生から聞いた標的装置の追加情報を記録する。


 同じ型の装置で、似た放出時間の遅れが報告された記録が一件見つかったこと。


 ただし、測定条件が十分に残っておらず、同じ現象かどうかは判断できないこと。


 俺自身の魔力についても、今後比較を行う予定だが、現時点では異常の原因が確定していないこと。


 俺は書き終えた文章を見直し、少しだけ息を吐いた。


(……こうして整理すると、分かってないことの方が多いな)


《マスター。未知の情報が多いことは、必ずしも悪いことではございません》


(そうだな。少なくとも、何を調べればいいかは少しずつ分かってきたし)


《はい。今後の調査において、確認された事実と仮説を区別することが重要であると考えられます》


 俺は頷いた。


 前世の俺が書いた黒歴史ノートには、最初からすべてを知っている最強の存在が登場していた。


 どんな敵も倒せて、どんな謎も解けて、誰からも尊敬される。


 そんな存在になりたいと思っていたのだろう。


 けれど、今の俺は少し違う。


 分からないことがあれば調べる。


 間違えたら修正する。


 困ったときには仲間へ相談する。


 それは、昔の俺が考えていた最強の姿とは違うかもしれない。


 でも、今の俺には、そうやって少しずつ進んでいく方がずっと大切に思えた。


「シュウ、そろそろ夕食へ行こうか」


 エリオットが声をかけてきた。


「ああ、そうだな。ちょうどノートもまとめ終わったところだよ」


 俺は立ち上がり、机の上を片づけた。


 合同実習の詳しい内容は、まだすべてが分かったわけではない。


 古い記録の謎も、標的装置の不具合も、今のところ答えは出ていない。


 それでも、今日一日で確かめられたことはあった。


 少なくとも、俺たちは何も知らないまま立ち止まっているわけではない。


 そう思うと、少しだけ気持ちが軽くなった。


《マスター。最後に一点、申し上げてもよろしいでしょうか》


(……何だよ。今度はどんな黒歴史だ?)


《旧設定のマスターは、あらゆる試練を開始前に攻略する《絶対事象先行支配》を有していることになっております》


(……またそんな能力かよ)


《この能力により、マスターが試練へ挑むと決めた時点で、試練そのものが敗北を認めることになっております》


(試練に意思を持たせるな! それに、始まる前に終わったら何も学べないだろ!)


《当時のマスターは、それを究極の効率と考えていたようです》


(……昔の俺、絶対に面倒なことを避けたかっただけだな)


 俺は心の中でそう呟き、苦笑した。


 エリオットが不思議そうにこちらを見たので、俺は笑って首を振った。


「何でもないよ。行こう、エリオット」


「うん。今日は何が出るかな」


 俺たちは並んで部屋を出た。


 廊下には夕食へ向かう学生たちの声が響き、窓の外には、ゆっくりと夜の色が広がり始めている。


 前世の俺が夢見た最強の存在とは、随分違う。


 けれど、今の俺は、そんな毎日を大切にしたいと思っていた。


 そして、その思いだけは、どんな黒歴史の設定よりも確かなものだった。

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