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『黒歴史ノートが異世界で最強の魔導書になっていました』  作者: 伊佐波瑞樹


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第93話 合同実習の準備をするだけなのに、どうして俺の魔法が一番心配されているんだ?


 王立魔道学院の朝は、今日も鐘の音とともに始まった。


 男子寮三階の廊下には、朝食へ向かう学生たちの足音が響いている。窓から差し込む陽射しはまだ柔らかく、夜の間に冷えた石造りの床には、わずかにひんやりとした空気が残っていた。


 俺は制服の袖を整えながら、机の上に置いたノートへ目を向けた。


 昨日、リディア・フェルン先生から説明された合同実習の注意事項が、そこには書き留められている。


 情報共有、役割分担、安全確認、判断理由の記録。


 たった四つの項目だが、実際にやろうとすると、考えることは意外に多い。


「シュウ、準備できた?」


 隣の机で鞄を閉じたエリオット・ファーレンが、こちらを振り返った。


「ああ、もう大丈夫。昨日の説明を見直してただけだよ」


「僕も少し考えてたんだ。合同実習の詳しい内容はまだ分からないけど、情報を伝える練習なら、今のうちからできるかもしれないね」


 エリオットはそう言って、自分のノートを持ち上げた。


 そこには、昨日の説明で先生が黒板へ書いた四つの項目が、俺のものより少し細かく整理されている。


「情報を受け取った人が、どこまで確認できているのか分かるようにするだけでも、ずいぶん違うと思うんだ」


「なるほどな。例えば、誰かから聞いた話なのか、自分で見たことなのかを分けるとか?」


「うん。それに、情報を聞いた時間も大事かもしれない。状況が変わっていたら、古い情報だけで判断するのは危ないからね」


 俺は頷いた。


 昨日の説明でも、先生は情報の出所を確認することが重要だと話していた。


 古い記録を調べているときにも似たようなことを考えたが、実際の行動に使う情報となれば、さらに慎重になる必要があるのだろう。


(……やっぱり、こういうことはエリオットの方が得意だよな)


《マスター。情報整理能力については、エリオット様の慎重な判断が有効であると考えられます》


(そうだな。俺も見習わないと)


《なお、旧設定のマスターは、世界中の情報を一瞬で把握する《万象絶対情報掌握》を有していることになっております》


(……朝から嫌な予感がしてたんだよ)


《その能力により、マスターは他者から説明を受ける必要がございません。すべての情報は、世界の側から自動的に報告されます》


(世界を部下みたいに扱うなよ! それに、そんな能力があったら授業を受ける意味がないだろ!)


《当時の設定では、授業へ出席する行為そのものが、世界への慈悲とされておりました》


(授業に出るだけで何でそんな大げさな話になるんだ!)


 俺は思わず額へ手を当てた。


 前世の俺は、どうして普通に勉強するという発想を持てなかったのだろう。


 最強の存在なら、何も学ばなくてもすべてを知っている。


 そういう設定が格好いいと思っていたのかもしれないが、今の俺には少し退屈な生き方に思える。


 知らないことを知る楽しさも、誰かと相談する面白さも、全部なくなってしまいそうだからだ。


「シュウ?」


 エリオットが不思議そうに首を傾げた。


「ああ、ごめん。ちょっと考え事をしてた」


「そうなんだ。じゃあ、朝食へ行こうか。今日は少し早めに教室へ行って、昨日の説明をみんなと確認してもいいかもしれないね」


「うん、そうしよう」


 俺は鞄を肩へ掛け、エリオットと一緒に部屋を出た。


 廊下には、朝の支度を終えた学生たちが行き交っている。


 その何気ない光景を見ながら、俺は少しだけ笑った。


 世界中の情報を知っている必要なんてない。


 今の俺には、隣で一緒に考えてくれる友人がいる。


 それだけで十分だと思えた。


     ◇


 朝食を終えて第三組の教室へ向かうと、すでに何人かの学生が席へ着いていた。


 窓際ではフィン・ラデルがユリウス・ベルンと話しており、二人の机には昨日の合同実習の説明を書き留めたノートが広げられている。


「おっ、シュウ! エリオット! ちょうどよかった!」


 俺たちに気づいたフィンが、勢いよく手を振った。


「おはよう。どうしたんだ?」


「いや、昨日の説明を見直してたんだけどさ。役割分担って、実際にはどう決めるのがいいのかなって思って」


 フィンはそう言いながら、ノートの一部分を指差した。


 そこには、記録担当、周囲確認担当、情報伝達担当、魔法使用担当という例が書かれている。


「俺、魔法を使う担当なら結構自信あるんだけど、状況によっては別の人の方がいいって話もあっただろ? だから、最初から決めつけない方がいいのかなって」


 その言葉を聞き、俺は少し驚いた。


 以前のフィンなら、自分が得意な魔法を使える役割を真っ先に選んでいたかもしれない。


 けれど、今はその役割が本当に必要なのかを考えている。


「そうだな。まだ実習の内容も班編成も決まってないし、今のうちに固定する必要はないと思うよ」


 俺がそう答えると、ユリウスも頷いた。


「僕もそう思う。例えば、魔法を使う必要がない場面なら、魔法使用担当を置く意味は薄いかもしれない。逆に、複数の場所で同時に作業するなら、情報伝達の役割が重要になるだろうね」


「なるほどなあ。そう考えると、役割って一つずつ決めれば終わりじゃないんだな」


 フィンは少し考え込むように腕を組んだ。


 俺はその様子を見ながら、昨日の先生の説明を思い出した。


 特定の一人へ判断や作業を集中させないこと。


 それは、誰かの得意なことを否定する意味ではない。


 むしろ、得意なことを活かしながら、ほかの人も状況を理解しておくことが大切なのだろう。


「そういえば、シュウはどうするつもりなんだ?」


 フィンがこちらを見た。


「どうするって?」


「もし魔法を使う場面があったらさ。やっぱりシュウが担当するのが一番安心かなって思うんだけど」


 その言葉に、俺は思わず苦笑した。


「いや、まだ何をするのかも分からないだろ。俺が向いてるとは限らないよ」


「でも、シュウって色んな属性を使えるし、魔力の調整も上手いじゃないか」


 フィンは悪気のない笑顔でそう言った。


 ユリウスも少し考えるように頷いた。


「確かに、シュウの対応力は頼りになるね。ただ、必要な魔法が決まっていない以上、誰が適任かは判断できないと思うよ」


「そうそう。俺も全部自分でやるつもりはないし、みんなで考えた方がいいと思う」


 俺がそう答えると、フィンは納得したように笑った。


「分かった。じゃあ、実習の内容が決まってから考えようぜ」


 そのとき、教室の扉が開き、セシリア・ノールとミリア・ハーゼンが入ってきた。


 二人は俺たちに気づくと、穏やかな笑顔で近づいてきた。


「おはよう、みんな。もう合同実習の話をしていたのね」


 セシリアがそう言うと、フィンは頷いた。


「おはよう! 今、役割分担について考えてたんだよ」


 ミリアは少し興味深そうにノートを覗き込んだ。


「……役割分担って、最初から全部決めておくものじゃないんだね」


「うん。状況によって変える必要があるかもしれないって話をしてたんだ」


 エリオットが答えると、ミリアは小さく頷いた。


「……それなら、誰が何をできるかだけじゃなくて、今どんな情報を持っているかも大事になるのかな」


 その言葉に、俺たちは少し考え込んだ。


 確かに、同じ能力を持っている人が二人いたとしても、状況をよく知っている人の方が適切に判断できる場合もある。


「そうね。例えば、危険な場所を確認した人がいるなら、その人の説明を聞いてから動いた方が安全だと思うわ」


 セシリアがそう続けると、ミリアは少し安心したように微笑んだ。


「……うん。私も、そういうことをちゃんと考えられるようになりたいな」


 俺はそのやり取りを見ながら、自然と口元が緩んだ。


 仲間たちは、それぞれ少しずつ成長している。


 俺も負けていられない。


 そう思いながら、俺たちは授業開始の鐘を待った。


     ◇


 午前の授業では、魔力を使った簡単な位置確認の練習が行われた。


 担当はガルド・ベイル先生だった。


 教室ではなく、学院の実技棟にある広めの演習室が使用され、床には複数の目印が置かれている。


 部屋の中央には、低い台の上に小さな魔導具が設置されていた。


 ガルド先生は学生たちを集め、今日の練習内容を説明した。


「今日は、目標物の位置を確認し、その情報を正確に伝える練習を行う。魔法の出力を競うものではない。必要な情報を、相手が理解できる形で伝えることが目的だ」


 先生はそう言って、台の上の魔導具を示した。


 それは、一定の範囲に弱い魔力反応を発生させる訓練用の装置らしい。


 学生たちは二人一組となり、一人が魔力反応の位置を確認し、もう一人がその情報をもとに指定された地点を選ぶことになった。


 ただし、確認する側は、相手に直接位置を指差してはいけない。


 言葉だけで情報を伝える必要があるという。


「なるほど。これなら、情報伝達の練習になるな」


 俺が呟くと、エリオットが頷いた。


「うん。位置を知っている人と、実際に動く人が別になるからね。伝え方が曖昧だと、間違った場所を選んでしまうかもしれない」


 俺たちは二人一組となり、順番を待つことにした。


 最初に挑戦したのは、フィンとユリウスだった。


 フィンが魔力反応を確認し、ユリウスがその情報をもとに床の目印を選ぶ。


 フィンは装置の前に立ち、しばらく目を閉じて魔力の流れを探った。


「えっと……右の方に反応があるな。いや、ちょっと奥か?」


 その説明を聞いたユリウスは、すぐには動かなかった。


「右というのは、僕から見て右かな? それともフィンから見て右?」


 フィンは一瞬きょとんとしたあと、慌てて答えた。


「あっ、そうか! 俺から見て右だ。ユリウスからだと左になるな」


「分かった。じゃあ、奥というのは、入口から離れた方でいい?」


「そうそう。そこから少しだけ手前……いや、もうちょっと奥かな」


 フィンは説明を続けたが、途中で自分でも混乱してしまったらしい。


 ユリウスは苦笑しながらも、落ち着いて質問を重ねた。


 最終的に、二人は正しい目印を選ぶことができた。


 ガルド先生はその結果を確認し、頷いた。


「最初の説明には曖昧な部分があったが、確認しながら修正できたのはよかった。情報を受け取る側も、分からないことをそのままにしない姿勢が重要だ」


 フィンは少し照れたように頭をかいた。


「いやあ、思ったより難しいな。見えてるものを言葉で説明するだけなのに、こんなに迷うとは思わなかった」


「でも、途中で確認できたからよかったよ。僕も最初の説明だけで動いていたら、違う場所を選んでいたと思う」


 ユリウスがそう答えると、フィンは納得したように頷いた。


 そのやり取りを見ながら、俺は少し緊張していた。


 自分で魔力を感じ取ることはできる。


 けれど、その感覚を相手に伝えるとなると、話は別だ。


 普段は無意識に理解していることを、言葉へ変える必要がある。


(……これ、俺も結構苦手かもしれないな)


《マスター。魔力感知能力そのものに問題はございません》


(いや、そうじゃなくてさ。感じたことを相手に説明するのが難しそうなんだよ)


《なるほど。旧設定では、マスターの意思が直接世界へ伝達されるため、言語による説明は不要とされております》


(だから、その設定は便利すぎるんだって!)


《《絶対意思伝達》でございます。なお、マスターが言葉を発した場合、聞いた者はその意味を完全に理解し、感動の涙を流すことになっております》


(説明するだけで泣かせるな! しかも、相手が理解したかどうか確認できないだろ!)


 俺は心の中で突っ込みながら、順番が来るのを待った。


     ◇


 やがて、俺とエリオットの番になった。


 最初は俺が魔力反応を確認し、エリオットが位置を選ぶことになった。


 俺は装置の前に立ち、ゆっくりと意識を集中させた。


 周囲には、弱い魔力の流れがいくつか感じられる。


 その中で、訓練用の魔導具が発生させている反応を探す。


 しばらくすると、床の目印の一つに、ほかとは少し異なる魔力の揺らぎがあることに気づいた。


「……見つけた」


 俺はそう呟き、エリオットへ向き直った。


 彼は床の中央付近に立ち、こちらの説明を待っている。


「エリオット、今いる場所から、入口の方へ二歩進んでくれ。それから、窓側へ一歩半くらい移動したところに反応があると思う」


 エリオットは頷き、慎重に歩き始めた。


 しかし、途中で足を止めた。


「シュウ、一歩半って、どのくらいの幅を想定してる?」


 その質問に、俺は少し考え込んだ。


 確かに、一歩の幅は人によって違う。


 俺が普段歩くときの感覚で説明しても、エリオットには正確に伝わらないかもしれない。


「ああ、ごめん。そうだな……床の目印を基準にした方がいいか」


 俺は床へ視線を落とし、目印の配置を確認した。


「入口側へ二つ目の目印まで進んで、そこから窓側にある隣の目印を見てくれ。その少し手前に反応がある」


 エリオットはその説明を聞き、位置を確認した。


「分かった。じゃあ、この目印かな」


 彼が示した場所は、俺が感じ取った反応の位置と一致していた。


 ガルド先生が装置を確認し、頷いた。


「正解だ。最初の説明は歩幅に依存していたが、途中で共通の基準へ変更できたのはよかった」


 俺はほっと息を吐いた。


 魔力を感じ取ること自体は難しくなかった。


 けれど、それを伝えるためには、相手と共有できる基準が必要だったのだ。


「なるほど……こういうことか」


 俺が呟くと、エリオットが微笑んだ。


「うん。僕も最初は一歩半って言われて少し迷ったけど、目印を基準にしてくれたから分かりやすかったよ」


「ありがとう。次は最初からそう説明できるようにするよ」


 俺はそう答え、エリオットと役割を交代した。


 今度は彼が魔力反応を確認し、俺が位置を選ぶ番だ。


 エリオットは装置の前で静かに目を閉じ、魔力の流れを探った。


 しばらくしてから、彼は落ち着いた声で説明を始めた。


「シュウ、まず入口から見て右側の列にある、手前から三つ目の目印を確認して。その目印から、窓側へ一つ隣の場所に反応があると思う」


 俺は説明を聞き、床の目印を確認した。


 今度は迷わず位置を選ぶことができた。


 ガルド先生は結果を確認し、満足そうに頷いた。


「よし。二人とも、相手が理解できる基準を使うことが重要だと分かったようだな。今後の実習でも、その点を意識するといい」


 俺たちは先生へ礼を言い、ほかの学生たちが練習する様子を見守った。


 その間にも、教室ではさまざまなやり取りが行われていた。


 ある組は方向の説明で混乱し、別の組は距離の伝え方に苦労していた。


 しかし、先生の助言を受けながら、少しずつ正確に情報を伝えられるようになっていく。


 その様子を見ていると、魔法を使う能力だけではなく、相手へ伝える力も大切なのだと実感できた。


     ◇


 午前の授業が終わるころには、学生たちの間に少し疲れたような空気が漂っていた。


 魔力の消費は少ない練習だったが、普段とは違う種類の集中力が必要だったからだろう。


 俺たちは実技棟を出て、食堂へ向かった。


 廊下の窓からは明るい陽射しが差し込み、外では風に揺れる木々の葉がきらきらと光っている。


「いやあ、今日の授業は思ったより難しかったな」


 フィンがそう言うと、ユリウスが頷いた。


「でも、いい練習になったと思うよ。自分が分かっていることを、相手も同じように分かっているとは限らないからね」


「そうそう。俺、最初は右って言えば通じると思ってたけど、立ってる向きが違えば逆になるんだよな」


 フィンは少し照れたように笑った。


 その横で、セシリアが穏やかに微笑んだ。


「私も、ミリアと組んでみて分かったことがあったわ。魔力の反応を感じる位置って、言葉だけだと説明しにくいのね」


 ミリアは小さく頷いた。


「……うん。でも、目印を使うようにしたら、少し伝えやすくなったと思う」


「そうね。最初から完璧にできなくても、途中で直せることが大事なんだと思うわ」


 俺はその会話を聞きながら、今日の授業で感じたことを思い返していた。


 自分では分かっているつもりでも、相手には伝わっていないことがある。


 だからこそ、確認する必要がある。


 それは、合同実習だけではなく、普段の生活でも大切なことなのだろう。


     ◇


 昼食のあと、俺たちは中庭のベンチで少し休むことにした。


 空はよく晴れており、木々の間を通り抜ける風が心地よい。


 ベンチの周囲には、昼休みを過ごす学生たちの姿があった。


 俺たちは日陰になっている場所へ座り、午前の授業について話していた。


「そういえば、シュウって魔力の反応を見つけるのが早かったよな」


 フィンが何気なくそう言った。


 俺は少し驚いて彼を見た。


「そうか? そんなに変わらなかったと思うけど」


「いや、俺が見てたときは、結構すぐに見つけてたぞ。先生も特に驚いてなかったけど、やっぱりシュウはすごいなって思った」


 その言葉に、俺は少し困ってしまった。


 魔力感知は、今の俺にとって比較的自然に使える能力だ。


 けれど、それが周囲からどう見えているのかまでは、普段あまり考えていない。


「まあ、魔力の反応を探すのは得意なのかもしれない。でも、説明するのは結構難しかったよ」


 俺がそう答えると、エリオットが頷いた。


「うん。最初は歩幅で説明してたからね。でも、途中で目印を使うように変えてくれたから、僕も分かりやすかったよ」


「そうそう。俺も、ああいうふうに途中で説明を変えられるようになりたいな」


 フィンは素直にそう言った。


 その様子を見ながら、ユリウスが少し考えるように口を開いた。


「シュウは魔力を扱うのが得意だけど、それでも情報を伝える部分では練習が必要なんだね。そう考えると、合同実習で求められる能力って、一つだけじゃないんだと思う」


「そうだな。魔法が得意だからって、何でも一人でできるわけじゃないし」


 俺はそう答えた。


 その言葉に、セシリアが穏やかに微笑んだ。


「そうね。誰か一人が全部を抱え込まなくてもいいように、みんなで協力することが大切なんだと思うわ」


 ミリアも小さく頷いた。


「……私も、記録を取るだけじゃなくて、必要なときにはちゃんと意見を言えるようになりたいな」


 俺はその言葉を聞き、少し嬉しくなった。


 ミリアは以前より、自分の考えを言葉にすることが増えている。


 それは、彼女自身が少しずつ自信を持ち始めている証拠なのかもしれない。


「ミリアの意見、いつも助かってるよ。古い記録を調べてるときも、俺たちが気づかなかったところを見つけてくれるし」


 俺がそう言うと、ミリアは少し驚いたように目を瞬かせた。


「……ありがとう。そう言ってもらえると、嬉しい」


 彼女は小さく微笑み、手元のノートを抱え直した。


 その様子を見て、俺も自然と笑顔になった。


     ◇


 午後の授業は、魔導具の基本構造についての講義だった。


 担当はセレナ・ヴァイス先生で、教室の前方にはいくつかの訓練用魔導具が並べられていた。


 先生はそれぞれの道具を示しながら、魔力を受け取る部分と、術式を動かす部分の役割について説明した。


「魔導具は、使用者が魔力を供給すれば必ず同じ反応を示すとは限りません。内部の状態や、使用されている部品の特性によって、反応が変わる場合があります」


 その説明を聞き、俺は以前の標的装置のことを思い出した。


 実技中に反応が不安定になった標的は、内部の補助部品が魔力を保持する時間に、通常とは異なる状態が見られていた。


 けれど、その原因はまだ分かっていない。


 俺自身の魔力を別の測定器で確認したときにも、わずかな表示の揺らぎが見られたが、それが標的の不具合と関係している証拠はなかった。


 だから、今の段階で何かを決めつけるべきではない。


 セレナ先生は、教卓の上に置かれた小さな魔導具を持ち上げた。


「例えば、同じ種類の魔力を供給しても、内部の接続が緩んでいる場合と、部品が正常な状態にある場合では、反応が異なることがあります。見た目だけで判断せず、必要な確認を行うことが重要です」


 先生はそう説明し、魔導具の外側にある金属部分を指差した。


 俺はノートへ内容を書き込みながら、以前の整備実習を思い返した。


 あのときも、魔導具の不具合を調べるために、部品の状態を一つずつ確認した。


 見た目に大きな異常がなくても、接続部分に問題がある場合がある。


 逆に、表面が変色していても、それだけで故障の原因とは限らない。


 そうしたことを学んだ経験が、今日の説明を理解する助けになっていた。


 授業の後半では、学生たちが小さな魔導具の構造図を見ながら、どの部分に不具合があると、どのような反応が起こる可能性があるかを考える練習が行われた。


 俺はエリオットと一緒に図を確認し、いくつかの可能性を書き出した。


「ここで魔力の流れが弱くなった場合、出力が安定しなくなる可能性があるのかな」


 俺が尋ねると、エリオットは図の別の部分を指差した。


「そうかもしれない。でも、ここにある調整部分が正常なら、ある程度は補える可能性もあると思う。実際にどうなるかは、部品の状態を確認しないと分からないね」


「なるほど。じゃあ、ここだけを原因だと決めつけるのは早いか」


「うん。先生が言ってたみたいに、複数の可能性を考えておく必要があるんだろうね」


 俺たちはそう話しながら、構造図へ書き込みを加えていった。


 その作業は、派手な魔法を使う授業とは違っていた。


 けれど、魔法を安全に使うためには、こうした知識も必要なのだと感じられた。


     ◇


 授業が終わったあと、セレナ先生は教室を出ようとしていた学生たちへ声をかけた。


「皆さん、今日の内容は合同実習にも関係する可能性があります。魔導具を使用する場面があるかどうかは、まだ確定していませんが、道具の状態を確認する習慣は身につけておいてください」


 学生たちは頷き、それぞれ教室を出ていった。


 俺とエリオットも鞄を持ち、廊下へ向かった。


 その途中、エリオットが小さな声で話しかけてきた。


「シュウ、今日の授業を聞いて、前に調べた古い設備保守の記録を思い出したよ」


「俺もだ。部品の状態って、見た目だけじゃ分からないことがあるんだよな」


「うん。だから、古い帳簿に書かれている返納の理由も、単純に故障したからとは限らないのかもしれないね」


 俺は頷いた。


 以前、図書館で確認した『旧式物資管理手引』では、返納という言葉が、未使用品や損傷品、交換された部品など、複数の状況で使われる場合があると説明されていた。


 ただし、それが北方の古い帳簿にも同じように当てはまるとは限らない。


「そうだな。今度また図書館へ行くときは、当時の記録の書き方をもう少し調べてみようか」


「うん。ミリアにも相談してみたいね」


 俺たちはそう決め、男子寮へ向かうことにした。


     ◇


 夕方の学院には、授業を終えた学生たちの穏やかな話し声が広がっていた。


 中庭を抜ける風は少し冷たくなっていたが、空にはまだ明るさが残っている。


 俺とエリオットは石畳の道を歩きながら、今日の授業を振り返っていた。


「情報を伝える練習も、魔導具の構造を考える授業も、合同実習につながってるのかもしれないな」


 俺がそう言うと、エリオットは頷いた。


「そうだね。でも、実習の内容が分からないうちに、何でも結びつけすぎない方がいいかもしれない」


「それもそうか。今は、授業で習ったことをちゃんと覚えておくくらいでいいんだろうな」


 俺はそう答え、空を見上げた。


 夕方の光に照らされた雲が、ゆっくりと流れている。


 その穏やかな景色を眺めていると、今日一日の疲れが少しずつ和らいでいくようだった。


(……こういう普通の日が続くのも、悪くないな)


《マスター。現在の生活について、満足度が高いようですね》


(うん。授業は難しいけど、みんなと一緒に学べるのは楽しいよ)


《旧設定のマスターは、学習という行為を必要としない絶対存在でした》


(……またその話か)


《しかし、現在のマスターは、他者と知識を共有しながら成長することに価値を見いだしているようです》


 俺は少し驚いた。


 アルカディアが、いつものように黒歴史を読み上げるのではなく、今の俺の考えを理解しようとしているように感じられたからだ。


(……そうだな。昔の俺とは、随分変わったと思う)


《その変化を、私は否定いたしません》


(ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいよ)


 俺は心の中でそう答えた。


 しばらくの間、アルカディアは何も言わなかった。


 その静けさが少し心地よく感じられたころ、彼女の声が再び響いた。


《ただし、旧設定のマスターは、学習を必要としないにもかかわらず、世界最高峰の学院へ入学し、全科目で満点を取得することになっております》


(……結局、そういう設定はあるんだな)


《なお、試験問題はマスターの存在を前に自ら正解へ書き換わることになっております》


(試験問題に意思を持たせるな! それじゃ勉強する意味がないだろ!)


 俺は心の中で叫びながら、思わず苦笑した。


 隣を歩くエリオットが不思議そうにこちらを見たので、俺は慌てて表情を整えた。


「……どうしたの、シュウ?」


「ああ、何でもない。ちょっと昔の自分に呆れてただけだよ」


 エリオットは少し考えるように首を傾げたあと、穏やかに微笑んだ。


「昔の自分と今の自分が違うって、悪いことじゃないと思うよ。僕も学院へ入ってから、考え方が変わったことはあるし」


「そうだな。俺も、今の自分の方が好きかもしれない」


 俺がそう答えると、エリオットは嬉しそうに笑った。


 その笑顔を見ながら、俺も自然と笑みを返した。


     ◇


 男子寮317号室へ戻ると、俺たちはそれぞれ机へ向かい、今日の授業で学んだことを整理し始めた。


 窓の外では夕暮れの光が少しずつ薄れ、学院の建物が淡い影に包まれている。


 廊下からは、食堂へ向かう学生たちの足音が聞こえていた。


 俺はノートの新しいページを開き、今日の位置確認の練習で気づいたことを書き込んだ。


 自分が理解している位置でも、相手へ伝えるには共通の基準が必要になること。


 説明が曖昧だった場合は、途中で確認し、修正すること。


 魔力を感じ取る能力と、その情報を正確に伝える能力は、必ずしも同じではないこと。


 書き終えたところで、俺はペンを置いた。


(……こうして見ると、今日は結構色々学んだな)


《そのとおりです、マスター。魔力の感知能力に加え、情報伝達の精度を高めることは、今後の行動において有益であると考えられます》


(うん。合同実習でも役に立つといいな)


《ただし、旧設定のマスターは、言葉を発するだけで全世界の人々へ意思を伝達できることになっております》


(……もういいって、その設定は)


《《絶対王命伝達》でございます。なお、マスターの発言を聞いた者は、その内容を完全に理解し、感動の涙を流しながら従うことになっております》


(だから、何で毎回泣かせるんだよ! 普通に話を聞いてくれればいいだろ!)


 俺は思わず額へ手を当てた。


 前世の俺は、どうして他人に何かを伝えるだけで、そこまで大げさな反応を求めていたのだろう。


 今の俺には、分からないことを聞き返してくれる相手の方が、ずっとありがたく感じられる。


 エリオットが今日の練習で、俺の曖昧な説明を確認してくれたように。


 フィンが分からないことを素直に質問し、ユリウスが落ち着いて整理してくれたように。


 セシリアやミリアが、自分の考えを言葉にしてくれたように。


 そうしたやり取りの積み重ねが、今の俺にとって大切なものになっている。


「シュウ、そろそろ夕食へ行こうか」


 エリオットが声をかけてきた。


「ああ、そうだな。ちょうどノートもまとめ終わったところだよ」


 俺は立ち上がり、机の上を片づけた。


 今日も、特別な事件が起きたわけではない。


 合同実習の詳しい内容が発表されたわけでもなく、古い記録の謎が解けたわけでもない。


 それでも、俺たちは少しずつ学び、考え、次へ進む準備をしている。


 そのことが、今の俺には嬉しかった。


《マスター。最後に一点、申し上げてもよろしいでしょうか》


 アルカディアの声が、頭の中へ静かに響いた。


(……何だよ。今度はどんな黒歴史だ?)


《旧設定のマスターは、仲間と協力する必要がない絶対存在でありながら、世界中の人々から最も信頼される存在とされております》


(……また矛盾してるな)


《なお、マスターが「任せた」と一言告げるだけで、すべての者が自らの能力を限界以上に発揮することになっております》


(便利すぎるだろ! しかも、それじゃ俺が何もしてないじゃないか!)


《当時のマスターは、それを真の指導者の資質と考えていたようです》


(……昔の俺、絶対に面倒なことを人任せにしたかっただけだろ)


 俺は心の中でそう呟き、苦笑した。


 エリオットが不思議そうにこちらを見たので、俺は笑って首を振った。


「何でもないよ。行こう、エリオット」


「うん。今日は何が出るかな」


 俺たちは並んで部屋を出た。


 廊下には夕食へ向かう学生たちの声が響き、窓の外には、ゆっくりと夜の色が広がり始めている。


 明日もきっと、授業があって、仲間たちとの会話があって、まだ知らないことを少しずつ学んでいくのだろう。


 前世の俺が夢見た最強の存在とは、随分違う。


 けれど、今の俺は、そんな毎日を大切にしたいと思っていた。


 そして、その思いだけは、どんな黒歴史の設定よりも確かなものだった。

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