第92話 合同実習の説明を聞いていただけなのに、どうして俺が危険な役割を任されそうになっているんだ?
翌朝、王立魔道学院の男子寮317号室では、窓から差し込む柔らかな陽射しが、机の上に置かれた二冊のノートを照らしていた。昨夜のうちに片づけたはずの机には、魔法実技の記録用紙と、古い設備保守の資料についてまとめた覚え書きが並んでいる。
俺は制服の上着を羽織りながら、その二つを見比べていた。
昨日の実技では、魔力を必要な場所へ正確に届ける難しさを学んだ。午後にはエリオットと図書館へ行き、古い設備保守の記録に欄外の補足が書かれている例を確認したものの、以前見つけた北方物資帳簿の小さな印との関係は分かっていない。
どちらも地味な成果だったが、俺としては悪くない一日だったと思う。
(……こういう普通の学院生活が続いてくれたら、それが一番なんだけどな)
《おはようございます、マスター。現在の発言について、一点確認してもよろしいでしょうか》
聞き慣れた声が頭の中へ響き、俺は上着のボタンを留める手を止めた。
(おはよう、アルカディア。確認って何だよ)
《マスターがおっしゃる普通の学院生活とは、世界を滅ぼすほどの魔力を秘めた存在が、一般学生に紛れて学習する生活を指すのでしょうか》
(言い方! 何でそんな物騒な説明になるんだよ!)
《事実関係を整理したまででございます。もっとも、旧設定においては、マスターが一般学生として生活すること自体が《神域潜行計画》の一部とされておりました》
(普通に学校へ通うことまで計画にするな!)
《世界の均衡を保つため、真の力を封印した絶対存在が人々の暮らしを観察する、という設定です。なお、一般学生としての成績は常に首席でありながら、目立たないために意図的に平均点を取得することになっております》
(平均点を取ってたら首席じゃないだろ! 設定の中で矛盾してるじゃねえか!)
俺は思わず額へ手を当てた。
前世の俺は、最強であることと目立たないことを、どうしても両立させたかったらしい。しかも、そのために必要な理屈を考えるより先に、格好よさそうな名前を付けて満足していたようだ。
当時の自分に会えるなら、一度だけ聞いてみたい。
お前、本当にその設定で物語が成立すると思っていたのか、と。
「シュウ、何か忘れ物でもした?」
隣の机で鞄を整えていたエリオットが、こちらを振り返った。彼はすでに身支度を終えており、今日の授業予定が書かれた紙を確認している。
「いや、忘れ物じゃないよ。ちょっと考え事をしてただけ」
「そうなんだ。昨日の図書館の資料についてなら、僕も気になってるところがあるんだけど、朝食のあとで話してもいいかな」
「ああ、もちろん。何か気づいたことがあったのか?」
俺が尋ねると、エリオットは机の上に置かれたノートを開いた。
「昨日見た設備保守の記録って、原本をそのまま載せたものじゃなかったよね。後からまとめられた資料だから、欄外の書き込みがどの段階で付けられたものなのか、分からない部分もあると思うんだ」
その指摘に、俺は頷いた。
マティアス・レンさんも、あの冊子は後年に編纂された資料だと説明していた。だから、掲載された例を見ただけで、当時の記録方法をすべて理解したつもりになるのは危険だ。
「確かにそうだな。北方の帳簿にあった印と比較するなら、書かれた時期だけじゃなくて、誰がどういう目的で記録したのかも考えないといけないんだろうな」
「うん。ミリアにもその点を伝えておきたいと思って。僕たちだけで結論を出すより、記録の見方について相談した方がいいかもしれない」
「そうしよう。昼休みにでも話せるといいな」
俺たちはそう決めて、朝食へ向かうことにした。
部屋を出る前、俺は机の上に置いていたノートを鞄へ入れた。合同実習については、今日も新しい説明があるかもしれない。
昨日までに分かっているのは、複数の班が異なる情報を持ち寄り、協力しながら課題を進めるということだけだ。
何をするのか、どこへ行くのか、誰と組むのか。
まだ分からないことは多い。
けれど、今の俺は、その状態を以前ほど不安には感じていなかった。
◇
朝食を終えて教室へ向かうと、第三組の学生たちは普段より少し落ち着かない様子だった。
教室の前方には、まだ授業が始まる前だというのに数人の学生が集まっている。彼らが見つめていたのは、黒板の横に掲示された一枚の紙だった。
「おっ、シュウ! エリオット! ちょうどいいところに来たな!」
先に教室へ入っていたフィン・ラデルが、俺たちに気づいて手を振った。彼の隣にはユリウス・ベルンも立っており、二人とも掲示物を確認していたらしい。
「おはよう、フィン。何かあったのか?」
「合同実習の追加連絡だってさ。まだ全部決まったわけじゃないみたいだけど、今日の授業が終わったあとに説明があるらしいぞ」
その言葉を聞き、俺とエリオットは掲示物へ近づいた。
紙には、複数班合同実習に関する事前説明を、本日の午後の授業終了後に行うと記されていた。対象は一年生の該当クラスで、説明場所は普段使用している教室となっている。
ただし、実習そのものの日時や場所については、まだ記載されていなかった。
「なるほど。今日は説明だけなんだな」
俺が呟くと、ユリウスが頷いた。
「そうみたいだね。正式な実施日が決まる前に、準備することを伝えておきたいのかもしれない。何にしても、先生の話を聞いてから考えた方がよさそうだよ」
「俺はもう少し具体的なことが書いてあると思ったんだけどな。どんな場所でやるのかとか、どんな課題があるのかとかさ」
フィンは少し残念そうだったが、その表情には期待も混じっていた。
彼は新しい実習を楽しみにしているらしい。
「まあ、実習の内容を全部先に教えたら、情報を集める練習にならないかもしれないしな」
俺がそう言うと、フィンは納得したように頷いた。
「それもそうか。じゃあ、今日は何を準備すればいいのか聞けるだけでも十分だな」
そのとき、後ろから穏やかな声が聞こえてきた。
「おはよう、みんな。もう掲示を見たのね」
振り返ると、セシリア・ノールとミリア・ハーゼンが教室へ入ってきたところだった。
セシリアはいつものように落ち着いた表情を浮かべており、ミリアは手にした小さなノートを胸元へ抱えている。
「おはよう。今日の放課後に説明があるみたいだよ」
エリオットがそう伝えると、ミリアは掲示物を見上げ、内容を確認した。
「……本当に、まだ実習の日程は書いてないんだね。準備の時間を取ってくれるのはありがたいけど、どんなことを確認しておけばいいのかな」
「昨日話していた、記録の取り方なんかは役に立つかもしれないわね。でも、必要な道具が決まっていないなら、今のうちに何でも用意するのは難しそう」
セシリアの言葉に、俺たちは頷いた。
そのあと、エリオットが昨日の図書館で確認した資料について簡単に話した。
ミリアは興味深そうに耳を傾け、欄外の補足がある記録例を見つけたことを聞くと、少しだけ目を輝かせた。
「……そういう例があるんだね。でも、北方の帳簿と同じものかどうかは、まだ分からないんだよね?」
「うん。年代も組織も完全には一致していないから、参考例として記録しただけなんだ」
エリオットが答えると、ミリアは安心したように微笑んだ。
「それなら、今度一緒に確認してみたいな。私は、書き込みの位置だけじゃなくて、元の欄にどんな情報があったのかも気になるから」
「いいと思う。次に図書館へ行くとき、時間が合えば一緒に見よう」
俺がそう答えると、ミリアは小さく頷いた。
その会話を聞きながら、俺は少し不思議な気分になった。
最初はエリオットと二人で始めた調査だったが、今ではミリアの視点も加わり、以前なら気づかなかった部分へ目が向くようになっている。
もちろん、彼女には森の秘密石扉のことを話していない。
俺とエリオットだけが知っている情報と、仲間たちと共有できる資料の内容は、きちんと分けて考える必要がある。
その境界を曖昧にしないことも、今の俺たちには大切だった。
◇
午前の授業は、魔法の基礎理論に関する講義だった。
教室の窓からは明るい陽射しが差し込み、黒板の文字が少し白く浮かび上がって見える。学生たちはそれぞれノートを開き、教師が説明する魔力の流れと術式の安定性について書き留めていた。
今日の内容は、複数の魔法が近い場所で使用された場合に、どのような注意が必要になるかというものだった。
教師は黒板へ二つの術式図を描き、それぞれが独立して動作する場合と、魔力の流れが近づきすぎた場合の違いを説明した。
「魔法を使う際には、自分の術式だけが正しく成立していればよいとは限りません。周囲で別の術式が使用されている場合、位置や距離、魔力の流れ方によっては、意図しない影響が生じる可能性があります」
俺はその説明を聞きながら、昨日の実技を思い出していた。
金属板の中央へ魔力を届けるだけでも、供給量の調整が必要だった。
もし複数人が同じ場所で魔法を使うなら、それぞれが自分の操作に集中するだけでは足りないのだろう。
「特に、魔法を使用する位置が近い場合は、互いの術式が干渉しないように注意してください。ただし、魔法の属性が異なるからといって、必ず干渉するわけではありません。実際の条件を確認せずに、属性だけで危険性を判断することはできません」
教師はそう続け、黒板の術式図へ線を加えた。
俺はノートへ説明を書き込みながら、心の中で頷いた。
(……結局、何が起きるかを決めつけないことが大事なんだな)
《その理解は適切です、マスター。魔力の干渉は、術式の構造や出力、距離など複数の条件に左右されます》
(うん。こういう話は、ちゃんと覚えておいた方がよさそうだ)
《もっとも、旧設定のマスターは、あらゆる術式を一瞬で解析し、干渉を完全に無効化することになっております》
(……また出たな、昔の俺の便利設定)
《《万象術式絶対支配》でございます。敵対する魔法は、マスターの許可なく成立することができません》
(魔法に許可制を導入するなよ! それじゃ相手が何もできないだろ!)
《当時のマスターは、それを圧倒的な威厳の証明と考えていたようです》
(威厳じゃなくて、ただの理不尽だろ……)
俺は小さく息を吐き、黒板へ意識を戻した。
アルカディアが話しているのは、あくまで前世の俺がノートに書き込んだ設定だ。
今の俺がその能力を自由に使えると確認されたわけではない。
それでも、名前を聞くだけで頭が痛くなるような設定が次々と出てくるあたり、昔の俺の想像力は本当に底が知れなかった。
授業の後半では、学生たちが二人一組になり、術式図を見ながら安全な配置を考える練習を行った。
俺はエリオットと組み、黒板に示された条件をもとに、二つの魔法を使用する位置について話し合った。
「こっちの術式は範囲が広いから、少し離した方がいいと思うんだけど、どうかな」
エリオットが図へ指を置くと、俺はその位置を確認した。
「そうだな。ただ、離しすぎると今度は連携が難しくなるかもしれない。使う順番を決めておけば、もう少し近くても大丈夫なんじゃないか?」
「なるほど。じゃあ、同時に使う場合と、順番に使う場合で分けて考えてみようか」
俺たちはそうして、二つの案をノートへ書き込んだ。
どちらが正しいかは、与えられた条件だけでは決めきれない部分もあった。
けれど、理由を説明できる形で整理しておけば、先生に確認することができる。
その考え方は、最近の俺たちにとって自然なものになりつつあった。
◇
昼休みになると、食堂では合同実習の話題があちこちから聞こえてきた。
まだ正式な内容が発表されていないにもかかわらず、学生たちはそれぞれ想像を膨らませているらしい。
野外での移動訓練になるのではないかという者もいれば、魔導具を使った共同作業になるのではないかと予想する者もいた。
中には、複数の班が競い合う形式になるのではないかと話している学生もいたが、それを裏づける情報は何もなかった。
「何だか、みんな色々考えてるみたいだな」
俺が料理を受け取りながら言うと、フィンが楽しそうに笑った。
「そりゃそうだろ。合同実習なんて、普段の授業より大がかりになりそうだしさ。俺もちょっと期待してるんだよ」
「期待するのはいいけど、内容が分からないうちに決めつけるのは避けた方がいいと思うよ」
ユリウスがそう答えると、フィンは肩をすくめた。
「分かってるって。今日はちゃんと先生の説明を聞くよ」
俺たちは窓際の席へ座り、昼食を取り始めた。
しばらくすると、セシリアとミリアも合流した。
ミリアは手にしたノートを開き、午前の講義で気になった部分を確認している。
「……今日の授業で、魔法の使う順番によっても安全な配置が変わるって話があったでしょう? 合同実習でも、そういうことを考える場面があるのかな」
彼女が尋ねると、ユリウスは少し考えてから答えた。
「可能性はあると思うけど、まだ分からないね。ただ、複数の班が協力するなら、互いの行動を確認することは大切になるんじゃないかな」
「そうね。魔法を使うかどうかだけじゃなくて、誰が何を確認するのかも決めておいた方がよさそう」
セシリアがそう言うと、フィンがパンを置いて頷いた。
「俺、前の救助訓練で思ったんだけどさ。みんなが同じことを考えてても、誰も声に出さなかったら、結局うまく伝わらないんだよな」
その言葉に、俺は少し驚いた。
ローディン・ヘルツ先生の救助訓練では、模擬負傷者を担架で運ぶ際に、歩調を合わせることや、移動前の確認が重要だった。
シュウとフィンが前方、エリオットとユリウスが後方を担当し、ミリアが移動準備を確認していた。
あのとき、誰か一人が勝手に動けば、担架の安定を保つことは難しかったはずだ。
「確かにそうだな。分かってるつもりでも、ちゃんと伝えないと意味がないんだよな」
俺が頷くと、フィンは少し照れたように笑った。
「そうそう。俺、前は自分が先に動けば何とかなるって思ってたけど、最近はそれだけじゃ駄目なんだって分かってきたんだ」
「フィンがそう考えるようになったのは、いい変化だと思うわ」
セシリアが穏やかに言うと、フィンは嬉しそうに笑った。
その様子を見ながら、俺は仲間たちの成長を改めて感じていた。
学院へ入学したころは、それぞれが自分の得意なことを見せようとしていた。
今では、相手が何を考えているのか、どんな役割を担えるのかを自然に気にするようになっている。
それは、派手な魔法を使えるようになることとは違う種類の成長だった。
けれど、俺にはとても大切なものに思えた。
◇
午後の授業が終わると、第三組の学生たちは教室へ戻り、合同実習の事前説明が始まるのを待っていた。
窓の外では、昼間より少し強くなった風が木々の枝を揺らしている。教室の中には学生たちの話し声が広がっていたが、前方の扉が開くと、その声は自然に小さくなった。
入ってきたのは、担任のリディア・フェルン先生だった。
先生は数枚の資料を教卓へ置き、教室全体を見渡した。
「皆さん、授業お疲れさまでした。今日は、先日お知らせした複数班合同実習について、現時点で決まっている内容を説明します」
学生たちは一斉に姿勢を正し、ノートを開いた。
俺も鞄から筆記具を取り出し、先生の言葉へ耳を傾けた。
「今回の実習では、複数の班がそれぞれ異なる情報を持ち、協力しながら指定された課題を進めます。各班に与えられる情報は同じではありませんので、自分たちが知っていることだけで判断しない姿勢が必要になります」
先生はそう説明し、黒板へ簡単な図を描いた。
図には三つの班が示され、それぞれが異なる地点にいるような配置になっている。
ただし、それは実際の実習場所を表したものではなく、情報の流れを説明するための例だった。
「例えば、ある班は通行できる道を知っていても、別の班はその道に障害があることを確認しているかもしれません。また、ある班が安全だと判断した場所でも、別の班が新しい情報を持っている場合があります」
先生は黒板の線を指しながら、ゆっくり説明を続けた。
「重要なのは、自分たちの情報がすべてではないと理解することです。確認できた事実と、そこから考えた推測を区別し、必要な情報を正確に伝えてください」
その言葉に、俺は思わず頷いた。
最近の図書館での調査でも、同じことを何度も考えていたからだ。
古い帳簿に印があることは事実だ。
けれど、その印が何を意味するのかは、まだ分からない。
それを勝手に決めつければ、調査そのものが間違った方向へ進んでしまうかもしれない。
(……授業で習ってることと、図書館でやってることって、案外つながってるんだな)
《知識の整理と情報の伝達は、状況判断の基礎となります。マスターがその重要性を理解し始めていることは、望ましい変化です》
(ありがとう。今日は珍しく素直に褒めてくれるんだな)
《ただし、旧設定のマスターは、他者から情報を得る必要がございません。世界に存在するあらゆる情報が、常にマスターの意識へ集約されることになっております》
(……やっぱりそう来るか)
《《森羅万象情報統合王権》でございます。なお、情報を提供しなかった者は、世界の意思によって自動的に謝罪することになっております》
(情報を知らなかっただけで謝罪させるな! 昔の俺、どんだけ偉そうなんだよ!)
俺は心の中で突っ込みながら、何とか表情を保った。
その間にも、リディア先生の説明は続いていた。
「また、今回の実習では、魔法の使用そのものが目的になるとは限りません。状況によっては、魔法を使わない方が適切な場合もあります。強い魔法を使えることだけで、高い評価が得られるわけではありません」
その言葉を聞いた瞬間、教室のあちこちで小さなざわめきが起こった。
魔法学院の実習と聞けば、どうしても魔法を使う場面を想像してしまう学生が多いのだろう。
俺も少し意外に感じたが、先生の説明を聞くうちに納得できた。
救助訓練でも、必要なのは大きな魔法を使うことではなかった。
担架を安定させ、仲間と歩調を合わせ、危険な場所を避けることが重要だったのだ。
「もちろん、魔法を使用する場面も考えられます。その場合は、使用する理由と、周囲への影響を確認してください。必要な力を必要な範囲で使うことが大切です」
先生はそう付け加え、黒板へ新しい項目を書き込んだ。
そこには、情報共有、役割分担、安全確認、判断理由の記録という四つの言葉が並んでいた。
「今回の実習では、結果だけでなく、そこへ至る過程も確認します。途中で判断を変更した場合は、その理由を説明できるようにしてください。最初の判断が間違っていたとしても、新しい情報をもとに適切に修正できたのであれば、それは大切な学習成果です」
俺はその言葉を聞きながら、ノートへ四つの項目を書き写した。
最初から完璧な判断をすることよりも、状況が変わったときに対応できることが大切なのだろう。
それは、今の俺にとっても必要な考え方だった。
◇
説明の途中、リディア先生は学生たちから質問を受け付けた。
最初に手を挙げたのは、教室の前方に座っていた学生だった。
「先生、今回の実習では、班同士で競争することになるんですか?」
その質問に、先生は首を横へ振った。
「現時点では、班同士の順位を競う形式として説明しているわけではありません。協力して課題を進めることが中心になります。詳しい評価方法については、実施前に改めて説明します」
続いて、別の学生が実習場所について尋ねた。
しかし、先生はまだ最終的な調整が終わっていないため、現段階では発表できないと答えた。
俺はその説明を聞き、少し安心した。
実習場所が決まっていないなら、森の秘密石扉と関係するような話を、今ここで心配する必要はない。
そもそも、合同実習が森で行われると決まったわけでもないのだ。
(……何でもかんでも森のことと結びつけるのは、よくないよな)
《その判断は妥当です、マスター。関連性が確認されていない事象を、同一の原因によるものと扱うべきではありません》
(そうだな。今は先生の説明をちゃんと聞こう)
そのとき、フィンが勢いよく手を挙げた。
「先生! もし実習中に道が塞がれていたら、魔法で障害物をどかしてもいいんですか?」
教室の何人かが、興味深そうに彼へ視線を向けた。
リディア先生はすぐには答えず、少しだけ考えるような間を置いた。
「状況によります。障害物が何なのか、周囲に人がいないか、動かすことで別の危険が生じないかを確認する必要があります。また、そもそも別の道を選んだ方が安全な場合もあります」
先生はそう説明し、フィンへ穏やかな視線を向けた。
「フィンさん。あなたなら、どのような場合に魔法を使うと判断しますか?」
突然問い返されたフィンは、少し驚いたように目を瞬かせた。
しかし、すぐに答えようとはせず、黒板の図を見ながら考え込んだ。
「えっと……障害物をどかさないと進めなくて、周りに危険がなくて、ほかの方法も難しいとき……でしょうか」
「よい考え方ですね。ただし、その条件を確認するためには、ほかの班からの情報が必要になるかもしれません。自分たちだけで判断できない場合は、情報を集めることも大切です」
フィンは納得したように頷いた。
「分かりました。まず状況を確認してから考えます」
そのやり取りを聞いていた俺は、少し感心した。
以前のフィンなら、障害物を見つけた瞬間に魔法で何とかしようとしていたかもしれない。
けれど、今は先生の問いに対して、ちゃんと条件を考えて答えている。
彼自身はそれほど意識していないかもしれないが、確かに成長しているのだと思う。
続いて、ミリアが控えめに手を挙げた。
「先生、情報を記録するとき、自分たちが確認したことと、ほかの班から聞いたことは分けて書いた方がいいですか?」
リディア先生は、少し嬉しそうに微笑んだ。
「とてもよい質問ですね。可能であれば、情報の出所を区別して記録してください。誰が、いつ、どこで確認した情報なのかが分かれば、あとから状況を整理しやすくなります」
ミリアは小さく頷き、ノートへ何かを書き込んだ。
その横でセシリアが穏やかに微笑んでいるのが見えた。
俺も何となく嬉しくなり、ミリアへ軽く頷いてみせた。
彼女は少し照れたように視線を落としたが、すぐにまた先生の説明へ集中していた。
◇
質問が一段落したところで、リディア先生は一枚の資料を取り上げた。
「では、最後に役割分担について説明します。今回の実習では、班の中で役割を決める場面があります。ただし、最初に決めた役割を最後まで変えてはいけないということではありません」
先生は黒板へ、記録担当、周囲確認担当、情報伝達担当、魔法使用担当という例を書き込んだ。
それぞれの役割は固定されたものではなく、状況に応じて兼任や交代も考えられるという。
「重要なのは、誰が何をしているのかを、班の全員が理解していることです。特定の一人へ判断や作業が集中しすぎないようにしてください」
その説明を聞いたとき、俺は少しだけ嫌な予感がした。
魔法使用担当。
その言葉を見た瞬間、なぜか周囲から視線が集まったような気がしたのだ。
もちろん、実際に誰がこちらを見ていたのかまでは分からない。
けれど、隣に座るエリオットが小さく笑いをこらえているのを見て、俺は眉を寄せた。
「……何だよ、エリオット」
小声で尋ねると、彼は少し申し訳なさそうに微笑んだ。
「いや、魔法使用担当って聞いたら、シュウが向いてるって思う人は多いだろうなと思って」
「ちょっと待て。俺、別に何でも魔法で解決したいわけじゃないぞ」
「分かってるよ。ただ、シュウの魔法が頼りになるのは事実だからね」
エリオットはそう答えた。
その言葉には、からかうような響きはなかった。
だからこそ、俺は少し困ってしまった。
(……頼りにされるのは嬉しいけど、何でも俺が担当することになったら困るんだよな)
《マスター。旧設定において、すべての役割を単独で遂行することは可能とされております》
(それはもう班じゃないだろ!)
《《完全独立全能遂行》でございます。なお、仲間はマスターの偉業を称えるために同行することになっております》
(仲間を観客扱いするな! それじゃ一緒に実習する意味がないだろ!)
俺は心の中で強く反論した。
アルカディアは少し間を置いてから、いつもの落ち着いた声で答えた。
《現在のマスターが、その設定を望んでいないことは理解しております》
(……そうだよ。俺は、みんなと一緒にやりたいんだ)
そう返したところで、俺は少しだけ胸の奥が温かくなるのを感じた。
前世の俺は、何でも一人でできる存在に憧れていた。
けれど、今の俺は違う。
誰かと一緒に考え、助け合いながら進むことを、ちゃんと楽しいと思えるようになっていた。
それは、昔の俺が想像していた最強の姿とは違うかもしれない。
それでも、今の俺にとっては大切な変化だった。
◇
事前説明が終わると、学生たちはそれぞれノートを閉じ、教室の中で感想を話し始めた。
実習の詳細はまだ発表されていないものの、準備しておくべき考え方は少しずつ見えてきた。
俺たちも教室の後方へ集まり、今日の説明について話すことにした。
「いやあ、思ったより頭を使う実習になりそうだな」
フィンがそう言うと、ユリウスが小さく笑った。
「魔法を使う場面もあるかもしれないけど、それだけじゃないってことだね。むしろ、どう判断したかを説明する方が大変かもしれない」
「そうね。情報を集めるだけじゃなくて、それをどう伝えるかも大事になると思うわ」
セシリアがそう続けた。
ミリアはノートを開き、先生が黒板へ書いた四つの項目を確認している。
「……記録担当って、ただ書けばいいわけじゃないんだね。あとから見た人が分かるように、整理しておかないといけないんだ」
「そうだな。俺たちが図書館で古い記録を調べてるときも、書いた人が何を意味してたのか分からなくて困ることがあるし」
俺がそう答えると、ミリアは頷いた。
「……うん。だから、今のうちから分かりやすく書く練習をしておきたいな」
その言葉に、エリオットが微笑んだ。
「ミリアなら、きっと上手にできると思うよ。今までの調査でも、細かいところによく気づいてくれてたし」
ミリアは少し驚いたように目を瞬かせたあと、頬を赤くして俯いた。
「……ありがとう。でも、私もまだ分からないことが多いから、みんなと相談しながらやりたいな」
「それでいいと思うわ。全部を一人で抱える必要はないもの」
セシリアが穏やかに言うと、ミリアは安心したように微笑んだ。
俺はそのやり取りを見ながら、自然と口元が緩んだ。
誰かが得意なことを持っているからといって、その人だけに任せきりにする必要はない。
むしろ、得意な人が中心になりながら、ほかの人も支えることが大切なのだろう。
その考え方は、俺自身にも当てはまる。
「そういえば、シュウは魔法使用担当になったらどうする?」
突然フィンに尋ねられ、俺は思わず顔を上げた。
「えっ? いや、まだ役割が決まったわけじゃないだろ」
「それはそうだけどさ。もし魔法が必要になったら、やっぱりシュウが一番頼りになると思うんだよ」
フィンは悪気のない笑顔でそう言った。
その隣でユリウスも少し考えるように頷いた。
「確かに、シュウの魔法は頼りになるね。ただ、状況によっては別の人が担当した方がいい場合もあると思うよ。使う属性や必要な範囲によって、向いている人は変わるだろうし」
「そうだな。俺も、全部自分でやろうとは思ってないよ」
俺はそう答え、仲間たちを見渡した。
「フィンの火魔法や土魔法が役に立つ場面もあるだろうし、エリオットの水魔法や風魔法が必要になることもあると思う。セシリアの回復魔法だって大事だし、ユリウスやミリアの判断が助けになることも多いだろ?」
その言葉に、フィンは少し照れたように笑った。
「まあ、そう言われると嬉しいけどさ。俺も、今度は勢いだけで動かないようにするよ」
「それが一番助かるかもしれないな」
俺が笑いながら言うと、フィンも声を上げて笑った。
教室の中には、授業を終えた学生たちの話し声が広がっている。
俺たちはしばらく、合同実習でどんなことが必要になりそうかを話し合った。
ただし、具体的な役割分担を決めることはしなかった。
実際の班編成がどうなるのかも、まだ分からないからだ。
今は、互いの得意なことを理解し、必要なときに相談できるようにしておく。
それだけでも、十分な準備になると思えた。
◇
教室を出るころには、廊下の窓から夕方の光が差し込んでいた。
俺とエリオットは男子寮へ向かいながら、今日の説明についてもう一度確認していた。
「結局、実習の詳しい内容はまだ分からなかったね」
エリオットがそう言うと、俺は頷いた。
「そうだな。でも、何を大事にする実習なのかは分かった気がするよ。情報を集めて、相談して、必要なことを判断する。言葉にすると簡単だけど、実際にやるのは難しそうだ」
「うん。特に、班ごとに違う情報を持っているなら、自分たちの考えが正しいと思い込まないことが大切なんだろうね」
エリオットはそう答え、少し考えるように視線を落とした。
「僕たちが調べている古い記録も、似たところがあると思うんだ。分かっていることだけで考えをまとめると、知らない情報を見落としてしまうかもしれないから」
「そうだな。だから、今は無理に答えを出さない方がいいんだろうな」
俺はそう答えながら、窓の外へ目を向けた。
学院の中庭では、夕方の風に揺れる木々が長い影を落としている。
遠くの実技場からは、まだ練習を続けている学生たちの声が聞こえていた。
その光景を眺めながら、俺はふと考えた。
もし昔の俺が、今の俺を見たらどう思うだろう。
最強の力を持ちながら、授業で魔力の調整を練習し、古い記録を少しずつ調べ、仲間と相談しながら実習の準備をしている。
きっと、もっと派手な活躍をしろと言うに違いない。
けれど、今の俺は、この時間を嫌だとは思わなかった。
(……最強って、何でも一人でできることじゃないのかもしれないな)
《マスター。その考え方は、以前の設定とは大きく異なります》
(そうだろうな。昔の俺は、誰にも頼らないことが格好いいと思ってたみたいだし)
《旧設定では、仲間を必要としないことが、絶対存在の証明とされておりました》
(……今の俺には、ちょっと寂しい考え方に思えるよ)
俺は心の中でそう答えた。
アルカディアはすぐには返事をしなかった。
その沈黙が少し意外だったが、俺はあえて何も言わなかった。
やがて、彼女の落ち着いた声が響いた。
《現在のマスターが、仲間との協力を重要視していることは理解しております。その変化について、私は否定する理由を持ちません》
俺は少し驚いた。
アルカディアが、こんなふうに素直な言葉を返してくることは珍しい。
(……ありがとう。そう言ってもらえると、何だか嬉しいよ)
《ただし、旧設定のマスターは、孤独であることを最大の美徳としながら、同時に百人以上の忠実な配下を従えておりました》
(結局、一人じゃなかったのかよ!)
《配下は仲間ではなく、マスターの偉大さを称えるための存在とされております》
(それ、余計に寂しいだろ! しかも百人も必要なのかよ!)
俺は思わず苦笑した。
前世の俺が考えた設定は、どこまでいっても自分中心だったらしい。
それでも、今の俺には仲間がいる。
俺の力を頼りにしてくれる人たちがいて、俺もまた、彼らの力を頼りにしている。
それだけで、昔の俺が想像していた最強の姿より、ずっと満たされた気持ちになれるのだった。
◇
男子寮317号室へ戻ると、俺たちはそれぞれ机へ向かい、今日の説明をノートへ整理し始めた。
窓の外では夕暮れの光が少しずつ薄れ、学院の建物が淡い影に包まれている。廊下からは食堂へ向かう学生たちの足音が聞こえていたが、部屋の中は落ち着いた静けさに満ちていた。
俺はノートの新しいページを開き、黒板へ書かれていた四つの項目を改めて書き込んだ。
『情報共有』
『役割分担』
『安全確認』
『判断理由の記録』
その下へ、今日の説明で印象に残ったことを書き加えていく。
自分たちが知っている情報だけで判断しないこと。
新しい情報が得られた場合は、必要に応じて判断を修正すること。
魔法を使う場合は、その理由と周囲への影響を確認すること。
そして、特定の一人へすべての役割を集中させないこと。
書き終えたところで、俺はペンを置いた。
(……こうして見ると、全部当たり前のことみたいだけど、実際にやるとなると難しいんだろうな)
《そのとおりです、マスター。知識として理解していることと、状況に応じて実行できることは異なります》
(うん。だからこそ、実習で練習するんだろうな)
俺はそう答え、窓の外へ目を向けた。
明日になれば、また新しい授業が始まる。
合同実習の詳しい日程や場所が発表されるのは、もう少し先かもしれない。
それでも、今の俺たちには準備できることがある。
俺はノートを閉じ、隣の机で記録を整理しているエリオットへ声をかけた。
「エリオット、今日の説明で分からなかったところってある?」
彼は顔を上げ、少し考えてから答えた。
「分からなかったというより、実際にどんな情報が渡されるのか気になるかな。班ごとに違う情報を持つなら、伝える順番や方法も大事になりそうだし」
「そうだな。俺も、情報を聞いたときにすぐ判断するんじゃなくて、まず整理するようにしたいと思ってる」
エリオットは穏やかに微笑んだ。
「それなら、実習が始まる前に、みんなで確認しておくといいかもしれないね。どんな情報を優先して伝えるかとか、危険があったときにどう知らせるかとか」
「うん。正式な班編成が決まってから、相談してみよう」
俺たちはそう決め、今日の記録を片づけ始めた。
机の上に残ったノートを重ね、筆記具をしまう。
その何気ない作業をしながら、俺は少しだけ笑った。
最強の魔導書を持っているからといって、何もかも一人で解決する必要はない。
むしろ、仲間と一緒に考え、失敗し、少しずつ学んでいくことこそ、今の俺が大切にしたい時間だった。
《マスター。最後に一つ、確認してもよろしいでしょうか》
アルカディアの声が、頭の中へ静かに響いた。
(……何だよ。今度はどんな黒歴史だ?)
《旧設定におけるマスターは、仲間を必要としない絶対存在でありながら、孤独を理解する唯一の存在として、全世界の人々から愛されることになっております》
(……もう、その時点で孤独じゃないだろ)
《なお、マスターが一人で食事を取る際には、世界中の人々が同時に祈りを捧げる設定でございます》
(食事ぐらい静かにさせてくれ! 世界中を巻き込むなよ!)
俺は心の中で全力で突っ込み、思わず額へ手を当てた。
エリオットが不思議そうにこちらを見たので、俺は慌てて笑ってごまかした。
「……何でもない。ちょっと昔の自分に呆れてただけだから」
「また昔の自分?」
「ああ。今の俺とは、随分考え方が違ってたみたいでさ」
エリオットは少し考えるような表情になったあと、穏やかに微笑んだ。
「でも、考え方が変わるのは悪いことじゃないと思うよ。僕だって、学院へ入ってから色々変わった気がするし」
その言葉を聞き、俺は静かに頷いた。
「そうだな。俺も、今の自分の方が好きかもしれない」
エリオットは少し驚いたように瞬きをしたが、すぐに嬉しそうに笑った。
俺もつられて笑いながら、窓の外へ目を向けた。
夕暮れの学院には、今日も穏やかな時間が流れている。
まだ分からないことは多い。
解けていない謎も、これから挑む実習もある。
それでも、俺は明日を楽しみに思っていた。
前世の俺が夢見た最強の存在とは、きっと違う。
けれど、今の俺には、隣で笑ってくれる友人がいる。
そして、一緒に考え、歩いていける仲間たちがいる。
そのことが、何より嬉しかった。
《……なお、旧設定のマスターは、自分の笑顔一つで世界中の争いを終結させることが可能とされております》
(だから、最後に余計な設定を追加するなって!)
俺は心の中で叫びながら、結局、今日も昔の自分の黒歴史に振り回されていることを思い知らされた。




