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『黒歴史ノートが異世界で最強の魔導書になっていました』  作者: 伊佐波瑞樹


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第90話 学院からの新しい課題と、俺だけが知っている魔導書の秘密



 王立魔道学院の朝は、窓の外から聞こえてくる鳥の声と、廊下を行き交う学生たちの足音によって始まった。


 男子寮317号室の窓から差し込む陽射しは、机の上に置かれた教科書やノートを柔らかく照らしている。俺は寝台から起き上がると、まだ少し眠気の残る頭を振り、昨日の救助訓練で使ったノートへ目を向けた。


 昨日は、ローディン・ヘルツ先生の指導のもと、模擬負傷者を安全な場所まで運ぶ訓練を行った。


 魔法の威力を競うのではなく、周囲の安全を確認し、仲間と役割を分担しながら行動するという内容だったが、思っていた以上に学ぶことが多かった。


 特に印象に残っているのは、担架を運んでいる途中で、前後の歩幅がずれかけたことだ。


 俺とフィンは前方を見ながら進んでいたが、後ろを支えていたエリオットとユリウスには、少し速く感じられていたらしい。


 誰か一人が問題ないと思っていても、全員にとって安全とは限らない。


 その当たり前のことを、実際に身体を動かして学べたのは大きかった。


「シュウ、起きた?」


 隣の寝台からエリオットの声が聞こえた。


 彼はすでに制服へ着替え始めており、寝台の脇には綺麗に揃えられた靴が置かれている。


「おはよう、エリオット。今日は早いな」


「おはよう。昨日の課題を少し見直しておこうと思ってね。救助訓練で気づいたことは書いたけど、もう少し整理しておきたいんだ」


 エリオットはそう言って、机の上に置いたノートへ目を向けた。


 俺も昨日のうちに課題は終わらせていたが、彼の言葉を聞いて、もう一度確認しておくのも悪くないと思った。


「俺も見直そうかな。昨日は色々あったし、あとから気づくこともありそうだ」


「うん。それに、今日の授業でも関係する内容が出てくるかもしれないから」


 エリオットは穏やかに微笑んだ。


 俺は制服へ着替えながら、今日の授業予定を思い出した。


 午前には通常の講義があり、午後には学級ごとの連絡時間が設けられている。


 その連絡時間については、昨日の授業が終わるころ、担任のリディア・フェルン先生から、全員が必ず出席するようにと伝えられていた。


 ただし、詳しい内容までは説明されていない。


(……何か新しい予定でもあるのかな)


 俺はそんなことを考えながら、制服の襟を整えた。


《おはようございます、マスター》


 頭の中へ響いたアルカディアの声は、いつもどおり落ち着いていた。


(おはよう。今日は朝から妙な黒歴史を持ち出さないでくれよ)


《承知いたしました。なお、昨日の救助訓練に関連する設定について、追加で確認された事項がございます》


(待て。今、持ち出さないでくれって言ったばかりだろ)


《マスターがかつて設定された《絶対救済領域》には、救助対象が存在しない場合、自動的に救助を必要とする状況を創出するという補助機能が記載されておりました》


 俺は思わず動きを止めた。


(……は?)


《救済の対象が存在しなければ、救済者としての存在意義を証明できない。そのため、必要に応じて世界へ試練を与えるという設定です》


(それ、救済者じゃなくて完全に災厄の元凶じゃねえか!)


《当時のマスターは、試練を与えることもまた慈悲であると記述されております》


(中学生の俺、何を考えてたんだよ……!)


 俺は額へ手を当て、深く息を吐いた。


 世界を救うために世界へ危機を作り出すなど、どう考えても本末転倒だ。


 それなのに、当時の俺はきっと真剣な顔でノートへ書き込んでいたのだろう。


 想像しただけで、今すぐ寝台へ戻って毛布を頭から被りたくなる。


「シュウ、大丈夫?」


 エリオットが心配そうにこちらを見ていた。


 俺は慌てて顔を上げ、何でもないように笑った。


「ああ、大丈夫。ちょっと昔のことを思い出してただけだよ」


「昔のこと?」


「うん。……まあ、あまり思い出したくないことだけど」


 エリオットは少し不思議そうな表情になったが、それ以上は追及しなかった。


「そういうこともあるよね。僕も子どものころの失敗を思い出すと、今でも恥ずかしくなることがあるし」


 その言葉に、俺は思わず彼の方を見た。


「エリオットにも、そういうことあるんだ?」


「もちろん。僕だって失敗するよ。小さいころ、魔法の練習で水を出しすぎて、家の廊下を水浸しにしたことがあるんだ。家族にはしばらくその話をされたよ」


 彼は少し照れたように笑った。


 俺もつられて笑ったが、内心では複雑な気分だった。


(……エリオットの失敗、何て平和なんだろう)


 水を出しすぎて廊下を濡らした程度なら、むしろ微笑ましい思い出だ。


 それに比べて、俺の黒歴史は世界の法則を書き換えたり、存在しない危機を創出したりしている。


 同じ子どものころの失敗でも、規模が違いすぎる。


《マスター。比較対象が不適切ではございませんか》


(それはこっちの台詞だよ!)


 俺は心の中で反論しながら、朝食へ向かう準備を終えた。


     ◇


 朝の食堂は、いつもどおり多くの学生で賑わっていた。


 焼きたてのパンの香りと温かいスープの匂いが漂い、窓際の席には朝の陽射しが差し込んでいる。


 俺とエリオットが料理を受け取って席を探していると、少し離れた場所からフィンの声が聞こえてきた。


「おーい、シュウ! エリオット! こっち空いてるぞ!」


 振り向くと、フィンが大きく手を振っていた。


 その隣にはユリウスが座っており、向かい側にはセシリアとミリアの姿もある。


 俺たちは二人の方へ歩いていき、空いている席へ腰を下ろした。


「おはよう、みんな」


「おはよう、シュウ。昨日はお疲れさま」


 セシリアが柔らかく微笑んだ。


 ミリアも小さく頷き、手元のカップを置いた。


「……おはよう。昨日の訓練、腕は大丈夫?」


「ああ、平気だよ。担架を運んだときは少し疲れたけど、今朝は特に問題ないかな」


 俺が答えると、フィンが楽しそうに笑った。


「俺も平気だぜ。まあ、昨日は思ったより腕を使ったけどな。あれだけ慎重に動くのって、普通の体力訓練とは違う疲れ方するんだな」


「そうだね。力を入れるだけじゃなくて、同じ姿勢を保つ必要もあったから」


 ユリウスがそう答えた。


 彼はパンを一口食べてから、少し考え込むように視線を落とした。


「それに、担架を持っている間は、足元だけじゃなくて周囲も気にしなきゃいけなかった。普段の実技とは違う難しさがあったと思う」


「うん。私もそう思う」


 セシリアは頷き、続けて口を開いた。


「怪我をした人を助けるときは、焦ってしまうこともあるでしょうし、昨日みたいに落ち着いて判断できるようになりたいわね」


 その言葉に、ミリアも静かに頷いた。


 彼女は昨日、模擬負傷者を担架へ移す際、全員の準備を確認する役割を担っていた。


 最初は少し緊張していたが、実際の作業では落ち着いて声をかけてくれた。


「……私も、昨日はみんなが聞いてくれたから、ちゃんと指示を出せたと思う」


 ミリアがそう言うと、フィンが大きく頷いた。


「いやいや、あれはミリアの指示が分かりやすかったからだって。俺、ああいうの苦手だから助かったよ」


 ミリアは少し照れたように笑った。


 その様子を見ながら、俺は仲間たちの関係が少しずつ変わっていることを感じていた。


 最初のころは、それぞれが自分の得意なことを中心に行動していた。


 けれど、今は互いの長所を認め合い、足りない部分を補おうとする姿勢が自然に生まれている。


 俺にとっても、それは嬉しい変化だった。


「そういえば、今日の午後って何か連絡があるんだよな?」


 フィンが思い出したように尋ねた。


 ユリウスが頷いた。


「うん。リディア先生が、全員出席するように言ってたね。詳しい内容は聞いてないけど」


「何だろうな。新しい訓練でもあるのかな」


「可能性はあると思うけど、今の段階では分からないよ」


 エリオットがそう答えた。


 俺も同じことを考えていた。


 学院へ入学してから、授業や訓練の予定は少しずつ増えている。


 魔法の基礎を学ぶだけでなく、野外活動や救助判断など、実際の場面を想定した授業も行われるようになってきた。


 もしかすると、これからさらに実践的な課題が増えるのかもしれない。


「まあ、午後になれば分かるだろ!」


 フィンはそう言って笑い、残っていたパンを口へ運んだ。


 俺たちもそれ以上は考え込まず、朝食を続けた。


     ◇


 午前の講義は、魔法の運用における判断についての内容だった。


 教室の前方には、複数の魔法陣を描いた板が置かれている。


 担当教員はそれぞれの術式を示しながら、同じ目的を達成する場合でも、周囲の状況によって適切な魔法が変わることを説明していた。


 例えば、倒れた木を移動させる場合。


 単純に強い風魔法で吹き飛ばすこともできるが、周囲に人がいれば危険がある。


 土属性魔法で地面を整えて移動しやすくする方法もあれば、複数人で安全に持ち上げるという選択肢もある。


 重要なのは、魔法を使えるかどうかではなく、その方法が状況に適しているかどうかだ。


 俺は昨日の救助訓練を思い出しながら、教員の説明を聞いていた。


(……やっぱり、昨日の訓練とつながってるんだな)


 魔法の威力だけで判断しない。


 周囲の安全を確認する。


 必要な範囲だけへ魔力を使う。


 どれも最近の授業で繰り返し学んでいることだった。


 しかし、同じ内容を聞いているようでも、実際に経験したあとでは受け取り方が違う。


 昨日、土属性魔法で段差を整えたときも、俺は必要な部分だけを動かすことを意識した。


 それでも、地面の柔らかさまでは完全に確認できていなかった。


 エリオットが気づいてくれたからこそ、踏み固める作業を追加できたのだ。


 俺はノートへ、そのことを書き加えた。


 授業の途中、担当教員は学生たちへ問いかけた。


「では、皆さんに質問します。強い魔法を使えば短時間で障害物を取り除ける場合と、時間はかかるものの安全性の高い方法がある場合、どちらを選ぶべきでしょうか」


 教室のあちこちで、小さな話し声が起こった。


 すぐに答えられるようでいて、状況によって判断が変わりそうな問いだった。


 俺は少し考えた。


 負傷者の状態が悪く、一刻も早く救助する必要がある場合なら、時間を優先しなければならないかもしれない。


 しかし、急ぐことで新たな危険が生まれるなら、かえって救助が難しくなる可能性もある。


 教員は学生たちの反応を見ながら、穏やかに説明を続けた。


「答えは、状況によります。重要なのは、何を優先すべきかを判断するための情報を集めることです。危険が差し迫っているのか、時間的な余裕があるのか、周囲にどのような影響が出るのか。それらを確認せず、速さだけで方法を選んではいけません」


 俺はその言葉に頷いた。


 以前の俺なら、強い魔法を使えば何とかなると考えていたかもしれない。


 けれど、今は違う。


 少なくとも、そう考えられるようになりたいと思っている。


《マスター。判断能力の向上は、今後の行動において有益でございます》


(そうだな。俺も、ちゃんと考えて行動できるようになりたいよ)


《なお、旧設定におけるマスターは、あらゆる選択肢の未来を同時に観測し、必ず最善の結果を選ぶことが可能でした》


(……それ、もう判断の練習にならないだろ)


《完全なる存在に試行錯誤は不要である、との記述がございます》


(昔の俺、成長する楽しさを全部捨ててるじゃねえか……)


 俺は心の中でため息をついた。


 失敗しないことは、確かに便利かもしれない。


 しかし、失敗したり、仲間に助けられたりしながら成長していくことにも、大切な意味があると思う。


 少なくとも、今の俺はそう感じていた。


     ◇


 昼食を終えたあと、俺たちは教室へ戻った。


 午後の連絡時間が始まるまで、まだ少し余裕がある。


 窓際では数人の学生が授業内容について話しており、教室の後方ではフィンがユリウスと何か相談していた。


 俺は席へ座り、午前の講義で取ったノートを見直していた。


 すると、隣の席に座ったエリオットが、小さな声で話しかけてきた。


「シュウ、昨日の標的の件、少し気になってる?」


 俺は顔を上げた。


 彼が言っているのは、先日の実技で確認された訓練用標的の異常についてだろう。


 標的内部の補助部品で、魔力反応が消えるまでの時間が通常より長くなっていた。


 俺たちはセレナ先生から聞き取りと簡単な魔力測定を受けたが、原因はまだ分かっていない。


「……まあ、少しは気になるかな。でも、先生が調べてくれてるし、今は待つしかないと思ってる」


「そうだね。僕も、勝手に調べるようなことはしない方がいいと思う」


 エリオットは頷いた。


 彼は少し考え込んでから、続けて口を開いた。


「ただ、あのときの魔力の変化と、以前に調べた保持材の記録が関係しているのかどうかは、まだ分からないよね」


「うん。似ているように感じる部分はあるけど、同じ原因だとは限らないし」


 俺はそう答えた。


 図書館で調べてきた古い保持材の研究記録には、長期間使用された材料の内部が劣化する可能性や、環境条件の変化によって魔力の安定性が変わることが記されていた。


 しかし、それは古い研究記録の話だ。


 現在の訓練用標的に使われている補助部品と、同じ仕組みなのかどうかさえ分からない。


 まして、北方の古い物資記録や森で見つけた異変と結びつける根拠は、まだ何もない。


「今のところ、分かっていることだけ整理しておくのがよさそうだな」


 俺がそう言うと、エリオットは安心したように微笑んだ。


「うん。僕もそう思う。気になるからって、全部を一つにつなげて考えるのは危ないしね」


 その言葉を聞いて、俺は静かに頷いた。


 最近、俺たちは図書館で古い記録を調べることが増えていた。


 ミリアも協力してくれるようになり、帳簿の余白に残された小さな印についても確認している。


 しかし、その印が何を意味しているのかは分かっていない。


 記録の書き込みなのか、後から付けられた印なのか、あるいは複写の際に生じた汚れなのかさえ判断できない状態だ。


 調べれば調べるほど、新しい疑問が増えていく。


 だからこそ、確かなことと推測を分けて考える必要があるのだろう。


 俺はノートを閉じ、教室の前方へ目を向けた。


 ちょうどそのとき、廊下から足音が近づいてきた。


 教室の扉が開き、リディア・フェルン先生が入ってきた。


「皆さん、席についてください。これから今後の学院活動について連絡します」


 教室に広がっていた話し声が、少しずつ静かになった。


     ◇


 リディア先生は教卓へ資料を置き、全員が席についていることを確認した。


 その表情はいつもどおり落ち着いていたが、今日は普段より少しだけ真剣に見える。


「今日お伝えするのは、今後予定されている学院内の合同実習についてです」


 その言葉を聞き、教室のあちこちで小さなざわめきが起こった。


 合同実習。


 俺はその言葉に、自然と背筋を伸ばした。


 これまでにも班ごとの訓練や野外活動は経験してきたが、合同実習という名称はあまり聞き慣れない。


 リディア先生は学生たちの反応を見ながら、説明を続けた。


「今回の実習では、複数の班が同じ訓練区域で活動し、それぞれに与えられた課題を協力して達成してもらいます。目的は、魔法の運用だけでなく、情報共有や役割分担、予期しない状況への対応を学ぶことです」


 俺はその説明を聞き、昨日の救助訓練を思い出した。


 複数人で協力することの難しさは、すでに実感している。


 それが今度は、複数の班で行われるらしい。


 フィンが少し身を乗り出した。


「先生、合同実習って、別の班と一緒に行動するってことですか?」


「そうです。ただし、最初から全員が一つの班になるわけではありません。各班にはそれぞれ役割が与えられ、必要に応じて情報を交換しながら行動してもらいます」


 リディア先生はそう答えた。


 続けて、実習の具体的な内容について説明があった。


 訓練区域には複数の課題が設けられ、各班は指定された地点を確認しながら進む。


 途中では、通行できない場所や、魔法を使う際に注意が必要な場所が用意される予定らしい。


 また、班ごとに得られる情報が異なる場合もあるという。


 そのため、自分たちだけで判断するのではなく、ほかの班と情報を共有することが重要になる。


「今回の実習では、速く課題を終えることだけを評価するわけではありません。安全確認、情報の正確さ、仲間との協力、そして状況に応じた判断を重視します」


 先生はそう言って、学生たちを見渡した。


「特に、確認できていない情報を事実として伝えないことが重要です。推測である場合は、そのことを明確にしてください」


 その言葉を聞いた瞬間、俺はエリオットと顔を見合わせた。


 つい先ほど、俺たちが話していたことと同じだった。


 古い記録を調べるときも、訓練で情報を共有するときも、確かなことと推測を分ける必要がある。


 俺はその共通点を少し不思議に感じながら、先生の説明を聞き続けた。


「なお、実習は教員の監督下で行います。危険な行動や、許可されていない魔法の使用は禁止です。詳細な班編成や実施場所については、準備が整い次第、改めて連絡します」


 そこで、リディア先生は一度説明を区切った。


 学生たちの間には、期待と緊張が入り混じったような空気が広がっていた。


 俺も少しだけ胸が高鳴っていた。


 複数の班が協力する実習なら、普段とは違う経験ができるかもしれない。


 しかし、同時に、これまで以上に慎重な判断が求められることも分かる。


(……面白そうだけど、簡単ではなさそうだな)


《マスター。複数の集団による協同作業は、情報伝達の正確性が重要になります》


(うん。今回はちゃんと考えて動きたいな)


《なお、旧設定におけるマスターは、あらゆる軍勢を完全に統率する《絶対支配指揮権》を保有しておりました》


(……また物騒な能力が出てきたな)


《配下となった者は、マスターの意思を完全に理解し、命令を受ける前に最適な行動を実行します》


(それ、もう協力じゃなくて支配だろ!)


《当時のマスターは、真の指揮官には言葉すら不要であると記述されております》


(いや、言葉でちゃんと伝える練習をしようって授業なんだけど!)


 俺は心の中で全力で突っ込みながら、何とか表情を保った。


 もし今ここで笑い出したり、突然頭を抱えたりすれば、周囲の学生たちに不審がられてしまう。


 アルカディアは俺の秘密を守るうえで頼りになる存在だが、こういうときだけは少し静かにしていてほしい。


     ◇


 連絡が終わると、教室には再び話し声が広がった。


 学生たちはそれぞれ、合同実習について感想を交わしている。


 俺もエリオットと一緒に席を立ち、フィンたちの方へ向かった。


「いやあ、合同実習か! 何だか面白そうだな!」


 フィンはすでに期待でいっぱいという表情だった。


 ユリウスはそんな彼を見ながら、少し苦笑している。


「面白そうではあるけど、今回は普段より情報の共有が重要になりそうだね。自分たちの班だけで分からないことも出てくるみたいだし」


「そうだな。でも、そういうのも楽しそうじゃないか。ほかの班と協力して課題を達成するって、何か冒険者の仕事みたいだし」


 フィンはそう言って笑った。


 俺はその言葉に、少しだけ心を動かされた。


 冒険者。


 それは、俺がこの世界でいつか経験してみたいと思っているものの一つだ。


 学院を卒業したあと、仲間たちと一緒に外の世界へ出て、さまざまな場所を旅する。


 そんな未来を想像すると、自然と胸が高鳴る。


 もちろん、今はまだ学生だ。


 学ばなければならないことも多いし、実際の冒険者がどれほど大変な仕事をしているのかも、十分には知らない。


 それでも、少しずつ経験を積んでいけば、いつかその未来へ近づけるかもしれない。


「シュウはどう思う?」


 フィンが尋ねてきた。


 俺は少し考えてから答えた。


「楽しみだよ。でも、今回はほかの班との協力も必要みたいだし、いつも以上に周りを見て行動しないとな」


「そうだな。俺も、前みたいに勢いだけで動かないようにするよ」


 フィンはそう言って笑った。


 その言葉に、ユリウスも穏やかに頷いた。


「うん。最近のフィンなら大丈夫だと思うよ。昨日の救助訓練でも、ちゃんと周りの意見を聞いてたし」


「お、珍しく褒めてくれるじゃないか」


「珍しくっていうほどでもないと思うけど」


 ユリウスは少し呆れたように笑った。


 俺たちもつられて笑い、教室の空気が少し和らいだ。


 そのとき、セシリアがミリアへ目を向けた。


「ミリアはどう? 合同実習、少し緊張する?」


 ミリアは少し考え込んだあと、小さく頷いた。


「……うん。知らない人と情報を交換することもあるかもしれないから、少し緊張すると思う」


 彼女はそこで一度言葉を区切り、手元のノートへ視線を落とした。


「でも、昨日の訓練で、ちゃんと確認してから話せばいいって分かったから。前よりは、少し頑張れそうな気がする」


 その言葉に、セシリアが嬉しそうに微笑んだ。


「そうね。私も、ミリアなら大丈夫だと思うわ」


 俺も頷いた。


「うん。ミリアは記録を整理するのも得意だし、情報を共有する場面では頼りになると思う」


 ミリアは少し驚いたように俺を見た。


 そして、頬をわずかに赤くしながら、小さく微笑んだ。


「……ありがとう。私も、みんなの役に立てるように頑張るね」


 その言葉を聞いて、俺は自然と笑みを浮かべた。


 合同実習の班編成はまだ分からない。


 それでも、こうして互いに励まし合える仲間がいることは、俺にとって大きな安心につながっていた。


     ◇


 放課後になると、俺とエリオットは教室を出て、男子寮へ向かう廊下を歩いていた。


 窓の外では、午後の陽射しが学院の中庭を明るく照らしている。


 遠くには実技訓練を終えた学生たちの姿が見え、風に乗って楽しそうな話し声が聞こえてきた。


 俺はそんな光景を眺めながら、今日の連絡について考えていた。


「合同実習、どんな内容になるんだろうな」


 俺がそう言うと、エリオットは少し考えた。


「詳しいことはまだ分からないけど、情報を共有する練習が中心になるんじゃないかな。先生も、確認できていないことを事実として伝えないようにって強調してたし」


「そうだな。図書館で調べてることにも通じる話だよな」


「うん。僕もそう思った」


 エリオットは頷いた。


 俺たちはしばらく歩きながら、最近調べている古い記録について話した。


 北方の物資帳簿に残された小さな印。


 返納という言葉が、未使用品だけでなく、破損品や交換後に取り外された部品にも使われる場合があるという記録。


 そして、古い保持材の内部劣化や、魔力の安定性に関する研究。


 それぞれの情報は少しずつ集まっている。


 しかし、まだ分からないことの方が多い。


「……やっぱり、あの帳簿の印が何なのかは気になるな」


 俺がそう言うと、エリオットも頷いた。


「うん。でも、今のところは印の意味を判断できる資料がないからね。似たような記録が見つかれば比較できるかもしれないけど」


「そうだな。無理に結論を出すより、次に調べるときは、比較できる資料があるか探してみようか」


「うん。それがいいと思う」


 エリオットはそう答えた。


 俺たちはそこで一度会話を区切り、廊下の角を曲がった。


 その先には、男子寮へ続く渡り廊下がある。


 石造りの床には午後の光が斜めに差し込み、窓の外では中庭の木々が静かに揺れていた。


 俺はその光景を眺めながら、少しだけ考え込んだ。


 最近、学院ではさまざまなことが起きている。


 森で見つけた異変。


 古い記録に残された謎。


 訓練用標的の反応異常。


 そして、これから予定されている合同実習。


 それらが互いに関係しているのかどうかは、まだ分からない。


 むしろ、無関係な出来事である可能性も十分にある。


 だからこそ、俺は一つひとつを慎重に考えていきたいと思っていた。


(……焦っても仕方ないよな。今できることを、ちゃんとやっていこう)


《その判断を支持いたします、マスター》


 アルカディアの声が、頭の中へ静かに響いた。


(ありがとう。今日は珍しく、普通に励ましてくれるんだな)


《もちろんでございます。マスターが着実に成長されることは、私にとっても望ましいことです》


 その言葉に、俺は少しだけ驚いた。


 アルカディアは普段、俺の黒歴史を容赦なく掘り返してくる。


 しかし、こうして真面目に助言してくれることもある。


 俺はそのことを少し嬉しく思った。


(……そっか。じゃあ、これからもよろしくな)


《承知いたしました、マスター》


 彼女は静かに答えた。


 そして、ほんの少し間を置いてから、いつもの調子で言葉を続けた。


《なお、旧設定におけるマスターは、成長という概念を超越した完全存在であり、あらゆる能力が誕生時点で最大値に到達しておりました》


(……今、いい雰囲気だっただろ!)


《事実確認でございます》


(そんな事実、確認しなくていいんだよ!)


 俺は心の中で全力で突っ込みながら、思わず苦笑した。


 やっぱり、アルカディアはアルカディアだった。


     ◇


 男子寮317号室へ戻ると、俺たちはそれぞれ机へ向かい、今日の授業内容を整理し始めた。


 窓の外では夕方の光が少しずつ濃くなり、学院の建物が柔らかな橙色に染まっている。


 俺はノートを開き、今日の連絡で聞いた合同実習について書き留めた。


『複数の班による協力』


『情報共有と役割分担』


『確認できた事実と推測を区別する』


『安全確認を優先する』


 そこまで書いたところで、俺はペンを止めた。


 これらは、最近の授業で何度も学んできたことだ。


 しかし、今度は複数の班が関わる実習になる。


 自分たちだけで完結する課題ではない以上、情報を伝える相手が増え、判断も複雑になるだろう。


 俺は少し考えてから、ノートへもう一つ書き加えた。


『自分が知らないことを、知らないと認める』


 その文字を見つめ、俺は静かに頷いた。


 前世の俺が作った最強の主人公なら、きっとこんなことは考えなかっただろう。


 あらゆる知識を持ち、すべての未来を見通し、どんな問題でも一瞬で解決する。


 そんな存在に憧れていた。


 けれど、今の俺は違う。


 知らないことがあるからこそ、調べる。


 できないことがあるからこそ、練習する。


 そして、一人では分からないことがあるからこそ、仲間と協力する。


 その過程が、今の俺には大切に思えた。


「シュウ、何を書いてるの?」


 エリオットが隣の机から声をかけてきた。


 俺はノートを少し傾け、彼にも見えるようにした。


「今日の合同実習について、気をつけたいことをまとめてたんだ」


 エリオットはノートへ目を向け、最後の一文を見て少し微笑んだ。


「……いい言葉だね。僕も、分からないことを無理に分かったふりしないようにしたいな」


「うん。俺もそう思う」


 俺たちは顔を見合わせ、小さく笑った。


 そのあと、エリオットは自分のノートへ戻り、俺も残りの課題を進めた。


 部屋の中には、ペンが紙の上を滑る音だけが静かに響いていた。


 しばらくして、俺は窓の外へ目を向けた。


 夕方の学院は穏やかで、遠くの尖塔が淡い光を受けている。


 今日もまた、新しいことを学んだ一日だった。


 そして、これから始まる合同実習には、きっと今までとは違う経験が待っているのだろう。


 俺は少しだけ胸を高鳴らせながら、ノートを閉じた。


 今の俺には、まだ分からないことがたくさんある。


 それでも、焦る必要はない。


 仲間たちと一緒に、一つずつ学んでいけばいい。


 そう思えることが、何よりも嬉しかった。


《マスター。最後に一つ、確認してもよろしいでしょうか》


 アルカディアの声が、頭の中へ響いた。


(……何だよ。今度はどんな黒歴史だ?)


《旧設定における《絶対支配指揮権》には、配下となった者の思考を完全に共有し、すべての判断を自動的に最適化する機能がございます》


(だから、それは協力じゃなくて支配だって言ってるだろ)


《しかし、今回の合同実習においては、極めて効率的な能力であると考えられます》


(効率がよくても使わないからな! そもそも、みんなが自分で考える意味がなくなるだろ!)


《承知いたしました。では、マスターは今後も非効率的な方法を選択されるということでしょうか》


 俺は少しだけ考えた。


 確かに、仲間と相談することは時間がかかる。


 意見が分かれることもあるし、失敗することもあるだろう。


 けれど、それでもいいと思う。


(……そうだな。たとえ時間がかかっても、みんなで考えて進む方が、俺は好きだよ)


 アルカディアは、しばらく黙っていた。


 そして、いつもより少しだけ柔らかな声で答えた。


《理解いたしました、マスター》


 俺はその言葉を聞き、静かに微笑んだ。


 前世の俺が夢見た最強の力は、確かにこの世界で現実になっている。


 しかし、その力をどう使うかは、今の俺が決めることだ。


 誰かを支配するためでも、世界へ自分の存在を誇示するためでもない。


 大切な人たちと一緒に、これからの時間を歩いていくために。


 俺はそんなことを考えながら、夕暮れの学院を眺めていた。


 そして、明日もまた、仲間たちと一緒に学べることを楽しみに思った。

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