第89話 普通の救助訓練のはずなのに、俺の黒歴史だけ世界を救う気満々なんですが
王立魔道学院の朝は、いつもどおりの鐘の音とともに始まった。
男子寮317号室の窓から差し込む陽射しは柔らかく、昨日まで風に揺れていた中庭の木々も、今朝は比較的穏やかな様子を見せている。俺は制服の襟を整えながら机の上に置いた授業予定表を確認し、午前の欄に書かれた文字を見て、思わず首を傾げた。
『野外活動における救助判断と魔法運用』
担当教員の名前は、ローディン・ヘルツ先生だった。
以前の野外訓練でも安全確認や救助に関する指導を受けたことがある。あのときは実際に足場の悪い場所を歩き、周囲の状況を見ながら行動することの難しさを思い知らされた。
今回も、ただ魔法を使うだけの授業ではなさそうだ。
「エリオット、今日の救助訓練って、何をするか聞いてる?」
隣の机で鞄を整理していたエリオットは、俺の問いかけに顔を上げた。
「詳しい内容は聞いてないけど、前の野外訓練で学んだことを使うんじゃないかな。昨日の実技でも魔法の強さより制御が大切だって教わったし、そういう技術を実際の場面でどう使うか考える授業かもしれないね」
「なるほど。救助ってことは、誰かを安全な場所へ運んだりするのかな」
「可能性はあると思う。ただ、実際に怪我人を運ぶなら、魔法を使う前に確認することも多いはずだよ」
エリオットはそう言いながら、机の端に置いていた小さな手帳を鞄へしまった。
昨日、俺たちはセレナ先生に呼ばれ、訓練用標的の異常について聞き取りと簡単な魔力測定を受けている。標的内部の補助部品で反応が消えるまでの時間が通常より長くなっていたことは確認されたものの、その原因はまだ分かっていなかった。
俺の魔力にも測定具の上で細かな変動が見られたが、それが標的の異常と関係しているかどうかは不明のままだ。
セレナ先生からは、教員側で調査を進めるので、俺たちは普段の授業を優先するようにと言われている。
(……気になることはあるけど、今日は今日の授業に集中しないとな)
《その判断を支持いたします、マスター》
頭の中に響いたアルカディアの声に、俺は少しだけ安心した。
(珍しく普通のことを言うじゃないか。今日は黒歴史の話をしないでくれると助かるんだけど)
《承知いたしました。ただし、本日の授業内容に関連する旧設定が存在することは、あらかじめお伝えしておきます》
(……何だよ、その不穏な前置き)
《かつてのマスターは、世界中のあらゆる負傷者を同時に救済する《万象救済の絶対王》として設定されておりました》
(世界を滅ぼす設定だけじゃ飽き足らず、今度は世界を救い始めたのかよ!)
《破壊と救済の双方を完全に支配することが、当時のマスターの理想だったようです》
(そんな大げさなこと考える前に、普通の応急手当でも勉強しておけよ、昔の俺……)
俺は額に手を当てながら、小さく息を吐いた。
前世の中学生だった俺は、どうして何でも世界規模にしたがったのだろう。今となっては理解しがたいが、あのころはきっと、それが格好いいと思っていたに違いない。
「シュウ、今日は何だか考え込んでるね。救助訓練が心配?」
エリオットが気遣うように尋ねてきた。
俺は慌てて顔を上げ、できるだけ自然に笑った。
「いや、大丈夫。実際に誰かを助けることになったら、何を優先するべきなのかなって考えてただけだよ」
「それなら、授業でしっかり確認しよう。僕も、知識として分かっていることと、実際にできることは違うと思ってるから」
その言葉に、俺は頷いた。
確かに、俺には強い魔力がある。
けれど、怪我をした人を前にして、何を確認し、誰へ連絡し、どう動くべきなのかについては、まだ学ばなければならないことが多い。
俺たちは準備を終え、朝食を取るために部屋を出た。
廊下にはすでに何人もの学生が行き交っており、窓から入る朝の光が石造りの床を明るく照らしている。今日もまた、学院での一日が始まろうとしていた。
◇
朝食を終えて指定された屋外訓練場へ向かうと、そこには普段の魔法実技とは少し違う光景が広がっていた。
広い訓練場の一角には木製の柵が設けられ、その内側に低い足場や丸太、布を張った仕切りが配置されている。地面の一部には砂利が敷かれ、別の場所には緩やかな傾斜を持つ土の斜面が作られていた。
さらに、訓練場の端には担架や毛布、水の入った容器、簡単な応急処置用の道具が並べられている。
俺はそれらを眺めながら、少しだけ緊張した。
「……思ってたより本格的だな」
隣にいたエリオットも、訓練場を興味深そうに見渡している。
「うん。あの足場、森の中で道が崩れた場所を想定してるのかもしれないね」
「そうかもしれない。前の野外訓練でも、道の状態が変わることがあったしな」
俺たちが話していると、少し離れたところからフィンの声が聞こえてきた。
「おーい、シュウ! こっちだ!」
振り向くと、フィンが大きく手を振っていた。
その隣にはユリウスがおり、セシリアとミリアも一緒に立っている。俺たちは二人の方へ歩いていき、自然と同じ場所へ集まった。
「何か面白そうなものがいっぱいあるよな。あの丸太、飛び越える練習でもするのかな」
フィンが楽しそうに言うと、ユリウスが足場の配置を確認しながら首を傾げた。
「救助訓練だから、飛び越えるより安全に通る方法を考えるんじゃないかな。あの斜面も、わざと歩きにくくしてあるみたいだし」
「なるほど。じゃあ、足場を確認しながら進むってことか」
フィンはそう言って頷いた。
以前の彼なら、真っ先に丸太を飛び越えてみたいと言っていたかもしれない。しかし、最近は仲間の指摘を聞いてから行動を考えることが増えている。
セシリアも訓練場を見つめながら、少し真剣な表情になった。
「担架があるということは、怪我をした人を運ぶ練習もするのかしら。もしそうなら、運ぶ前に状態を確認しないといけないわね」
「そうだね。急いで動かした方がいい場合と、動かさない方がいい場合もあるだろうし」
エリオットが答えると、ミリアが小さく頷いた。
「……周りの安全を確認することも必要だと思う。助けようとして近づいた人まで怪我をしたら、もっと大変になるから」
俺はその言葉を聞き、以前の野外訓練を思い出した。
あのときも、足場が不安定な場所で無理に進まないことが重要だった。誰かを助けるために行動するなら、なおさら自分たちの安全を確認する必要があるのだろう。
やがて、訓練場の前方からローディン・ヘルツ先生の声が響いた。
「全員、こちらへ集合してください。これから救助判断と魔法運用の訓練を始めます」
学生たちは会話をやめ、先生の前へ集まった。
ローディン先生は全員が揃ったことを確認すると、背後に設けられた訓練区域を示した。
「今日の目的は、強い魔法を使うことではありません。野外で事故や負傷者を発見したとき、状況を確認し、安全を確保したうえで、必要な行動を選ぶことです」
先生の声は落ち着いていたが、一つひとつの言葉には重みがあった。
「実際の救助では、目の前の人を助けたいという気持ちだけで動くと、かえって危険を増やすことがあります。足場が崩れかけている場所へ飛び込んだり、負傷の状態を確認せずに人を動かしたりすれば、被害が広がるかもしれません」
俺はその説明を聞きながら、訓練区域へ目を向けた。
丸太や斜面、仕切りの配置には、それぞれ意味があるのだろう。
「今回の訓練では、模擬負傷者として人形を使用します。実際の負傷者はいませんが、皆さんには本当に人が倒れていると想定して行動してもらいます」
先生は担架の近くに置かれた人形を示した。
それは布と木材で作られた成人ほどの大きさの人形で、関節部分がある程度動くようになっている。見た目は簡素だったが、持ち上げるにはそれなりの重さがありそうだった。
「魔法の使用は認めますが、使えるのは授業で許可された一般的な魔法だけです。強い攻撃魔法や、周囲の状況を大きく変える魔法は禁止します。また、訓練区域には安全確認のための教員が配置されていますので、異常があれば必ず報告してください」
俺はその説明に頷いた。
特別な能力を使う必要はなさそうだし、そもそも使うつもりもない。
今日は普通の魔法と仲間との協力だけで、課題を達成することが目標になる。
(……よし。これなら落ち着いて取り組めそうだ)
《マスター。現在の課題内容であれば、通常魔法による対応が適切と判断いたします》
(だよな。間違っても世界を救うような魔法は使わないからな)
《承知しております。ただし、旧設定における《絶対救済領域》であれば、負傷者の状態確認を必要とせず、あらゆる損傷を瞬時に修復可能です》
(だから、その設定を持ち出すなって! 今は救助の手順を勉強してるんだよ!)
俺は心の中で反論しながら、先生の説明へ意識を戻した。
ローディン先生は続けて、今日の訓練が複数人での協力を前提としていることを伝えた。
役割は固定ではなく、状況に応じて相談しながら決めるらしい。
そして、何より重要なのは、最初に見えた状況だけで判断しないことだと強調された。
「負傷者を発見したら、まず周囲を確認してください。近づける場所なのか、地面は安定しているのか、ほかに危険はないのか。それらを確かめてから、救助の方法を考えます」
先生はそこで一度言葉を区切り、学生たちの顔を見渡した。
「救助において、最も危険なのは、自分だけで何とかできると思い込むことです。必要なら仲間へ助けを求め、教員や専門の担当者へ連絡してください」
その言葉が、俺の胸に静かに残った。
前世の俺が作った最強の主人公なら、きっと一人ですべてを解決しようとしただろう。
けれど、今の俺には仲間がいる。
そのことを忘れずにいたかった。
◇
訓練は数人ずつの班に分かれて行われた。
今回、俺はエリオット、フィン、セシリア、ミリア、ユリウスと同じ班になった。普段から一緒に過ごすことの多い顔ぶれだったが、実際の救助を想定した訓練では、それぞれがどのように動くかが重要になる。
俺たちが案内されたのは、緩やかな斜面と低い木柵が組み合わされた区域だった。
入口には開始位置を示す杭が立てられ、その先には布で作られた仕切りが設置されている。仕切りの向こう側は入口から直接見えないようになっており、何が置かれているのかは分からなかった。
担当の教員が、俺たちへ簡単な状況説明を行った。
「皆さんは、野外活動中に仲間とはぐれた人を探していると想定してください。この先で負傷者を発見した場合、安全を確認し、必要な対応を選んでください」
教員はそれだけ説明すると、俺たちが相談する時間を与えてくれた。
フィンが最初に口を開いた。
「よし、じゃあ俺が先頭に立って見てくるか。足場が悪くても、ある程度なら動けるし」
その言葉に、ユリウスがすぐに首を横に振った。
「一人で先へ行くのは避けた方がいいと思う。入口から見えない場所があるし、何か起きてもすぐに連絡できないかもしれない」
「そうか。じゃあ、二人で確認するか?」
フィンは素直に考え直した。
俺は周囲を見渡しながら、少し考えた。
入口付近の地面は平らだが、仕切りの先には斜面がある。全員で一度に進めば、足場が狭くなって動きにくくなるかもしれない。
「まず、ここから見える範囲を確認しよう。エリオットと俺で前の状況を見て、ほかのみんなは入口で待っててもらうのはどうかな」
俺が提案すると、エリオットが頷いた。
「いいと思う。ただ、僕たちも無理に奥へ進まず、危険がないところまでにしよう」
「そうだな。何かあったらすぐ戻るよ」
セシリアも頷き、続けて口を開いた。
「私は救助に必要な道具を確認しておくわ。負傷者の状態によっては、すぐに運ばない方がいいかもしれないし」
「じゃあ、私も一緒に確認する。必要なものを取りに戻る時間が減るかもしれないから」
ミリアがそう言うと、セシリアは嬉しそうに微笑んだ。
フィンとユリウスは入口付近で周囲の状況を確認し、必要なら支援できるように待機することになった。
役割が決まると、俺とエリオットはゆっくりと仕切りの方へ歩き始めた。
地面には細かな砂利が敷かれており、靴底が触れるたびに小さな音がする。斜面の手前には木製の杭がいくつか立っていて、足を引っかけないよう注意する必要があった。
俺たちは互いの位置を確認しながら進み、仕切りの端から奥を覗き込んだ。
そこには、模擬負傷者の人形が横たわっていた。
人形は斜面の途中に置かれ、片足の近くには赤い布が巻かれている。さらに、その周囲には大小の石が散らばっており、足元の一部は砂利が崩れやすそうに見えた。
「……いたな」
俺が小さく呟くと、エリオットも頷いた。
「うん。でも、あの場所へそのまま近づくのは危ないかもしれない。斜面の下側、砂利が少し動いてるように見える」
俺は足元へ目を向けた。
確かに、斜面の一部には細かな砂利が集まっており、踏み込めば滑りそうだった。
俺たちは無理に近づかず、いったん入口へ戻った。
フィンがすぐに声をかけてきた。
「どうだった? 負傷者はいたか?」
「ああ。斜面の途中に人形がある。ただ、足元の砂利が崩れやすそうだから、近づき方を考えた方がいい」
俺が説明すると、ユリウスが少し考え込んだ。
「斜面の上側から回り込めないかな。入口から見えた木柵の外側に、平らな場所があったと思うんだけど」
「確かに、そっちなら足場が安定してるかもしれないね」
エリオットが答えた。
ミリアは手元の簡単な配置図を見ながら、周囲へ目を向けた。
「……でも、木柵の向こう側はまだ確認してないよね。安全だと決めつけずに、先に見てからの方がいいと思う」
「そうだな。じゃあ、今度はそっちを確認してみよう」
フィンはそう言って頷いた。
俺たちは担当教員へ現在の状況を報告し、木柵の外側を確認してもよいか尋ねた。
教員は頷き、安全な範囲を示してくれた。
その指示に従い、俺たちは別の方向から斜面を確認することにした。
◇
木柵の外側には、細いながらも比較的平らな通路があった。
ただし、途中には丸太が置かれており、そのままでは担架を運びにくそうだった。さらに、通路の一部には低い段差があり、足元を確認せずに進めばつまずく可能性もある。
俺たちは通路を慎重に確認しながら、救助の方法を相談した。
「この道なら、斜面の下側を通るより安全そうだな。でも、担架を運ぶなら丸太が邪魔になるか」
フィンがそう言うと、ユリウスが丸太へ目を向けた。
「丸太そのものは動かせるかもしれないけど、勝手に触っていいかは確認した方がいいね。訓練用の障害物だろうし」
「確かに。先生に聞いてみよう」
俺たちは担当教員へ確認した。
すると、丸太は訓練の一部として動かしてもよいが、周囲の安全を確認したうえで、無理な方法を使わないよう指示された。
フィンはその説明を聞き、少し嬉しそうに笑った。
「よし、それなら俺の出番だな。力仕事なら任せてくれ」
彼は丸太へ近づこうとしたが、その前にユリウスが声をかけた。
「待って。持ち上げる前に、どこへ動かすか決めよう。通路の端へ寄せるだけなら、無理に高く持ち上げる必要はないと思う」
「なるほど。確かに、勢いよく持ち上げたら危ないか」
フィンは足を止め、丸太の周囲を確認した。
俺も近づき、丸太の下に手を入れられる場所があるか確かめた。
木材は乾いていて、表面には少しざらつきがある。長さはそれほどでもないが、一人で無理に持ち上げれば姿勢を崩しそうだった。
「俺も手伝うよ。二人で少しずつ端へ動かそう」
「おう、頼む!」
俺とフィンは互いに声をかけながら、丸太をゆっくりと持ち上げた。
ユリウスは周囲に人が近づいていないことを確認し、エリオットは足元の段差を見てくれている。俺たちは丸太を通路の端へ移動させ、転がらないように安定した場所へ置いた。
作業を終えると、フィンが満足そうに笑った。
「よし、これで通れるな。やっぱり二人だと楽だな」
「そうだな。無理に一人でやる必要はなかったな」
俺が答えると、フィンは少し照れたように笑った。
「……前だったら、俺一人で何とかしようとしてたかもしれないけどな」
その言葉に、ユリウスが穏やかに頷いた。
「今みたいに相談してから動ける方が、安全だと思うよ」
フィンは少しだけ肩をすくめたが、嬉しそうな表情を隠してはいなかった。
俺はそんな二人の様子を見ながら、仲間と一緒に行動することの大切さを改めて感じていた。
強い力があれば、丸太を一人で動かすこともできたかもしれない。
けれど、だからといって、一人でやる必要があるわけではない。
(……こういうことなんだろうな。先生が言ってたのは)
《マスター。協力による作業効率の向上は、合理的な判断でございます》
(うん。今日は本当に勉強になるよ)
《なお、旧設定では、マスターは指先一つで山脈を移動させることが可能でした》
(丸太一本動かす話をしてるんだよ! 何で山脈が出てくるんだ!)
《比較対象として適切ではございませんでしたか》
(適切なわけあるか!)
俺は心の中で全力で突っ込みながら、何でもない顔で仲間たちの方へ向き直った。
◇
通路の安全を確認したあと、俺たちは模擬負傷者の近くへ向かった。
人形は斜面の途中に横たわっており、片足に巻かれた赤い布が負傷箇所を示しているらしい。担当教員からは、意識はあり、呼吸も安定しているが、足に強い痛みがあって自力では歩けないという設定が伝えられた。
俺たちはその説明を聞き、すぐに動かすべきかどうかを相談した。
「足を痛めてるなら、無理に立たせるのはよくないよな」
フィンがそう言うと、セシリアが頷いた。
「ええ。どの程度の負傷か分からないから、まずは状態を確認して、必要なら固定することを考えた方がいいと思うわ」
セシリアは人形の足元へ視線を向け、担当教員へ確認しながら、模擬的な状態確認を進めた。
彼女は回復魔法を扱えるが、今回は魔法で負傷を治すことが目的ではない。実際の救助では、回復魔法を使える人が必ず近くにいるとは限らないし、負傷の状態によっては専門的な処置が必要になることもある。
そのため、先生からは応急処置の手順を優先するよう指示されていた。
「まず、足を動かさないようにして、周囲の安全を確保しましょう。担架へ移すときも、急に姿勢を変えない方がいいと思う」
セシリアがそう説明すると、ミリアが手元の道具を確認した。
「……固定用の布と、支えに使える板があるよ。これを使えば、足が動きにくくなると思う」
「ありがとう、ミリア。じゃあ、それを使ってみましょう」
二人は担当教員の指示を受けながら、模擬負傷者の足を固定する練習を始めた。
俺たちはその間、周囲の足場を確認し、担架を置く位置を相談した。
斜面の途中では担架が傾きやすいため、できるだけ平らな場所へ移動させてから人形を乗せる必要がある。
ただし、負傷者を動かす前に、移動する経路を十分に確認しておかなければならない。
「シュウ、あそこの段差、担架を持ったままだと少し危ないかもしれないね」
エリオットが通路の一部を指さした。
俺はその場所へ目を向けた。
確かに、丸太を動かしたことで通路は広くなったが、途中にある低い段差はそのままだった。担架を運ぶ人間が足を取られれば、乗せている負傷者にも危険が及ぶ。
「そうだな。土属性の魔法で少しだけ平らにできないかな」
俺がそう言うと、ユリウスが考え込んだ。
「できるかもしれないけど、地面を大きく動かすと周囲の足場まで変わるかもしれない。まず先生に確認した方がいいね」
俺たちは担当教員へ相談した。
教員は段差を小さく整える程度の土属性魔法なら使用してよいと説明し、周囲の地面へ影響を与えないよう注意した。
俺は頷き、段差の前へ立った。
土属性の魔法は、俺にとって扱えないものではない。
ただし、地面そのものを動かす魔法は、力の加減を間違えると予想以上に広い範囲へ影響を与える可能性がある。
俺は昨日の標的制御演習を思い出しながら、魔力を慎重に集めた。
(……必要なのは、この段差を少しだけ整えることだ。周りまで動かす必要はない)
《マスター。対象範囲を限定し、出力を低く保つことを推奨いたします》
(分かってる。昨日の授業で習ったことを試してみるよ)
俺は足元の土へ意識を向け、ゆっくりと魔力を流した。
「――大地よ、静かに応え、我が意に従え」
地面の表面がわずかに動き、段差の高い部分から少量の土が移動していく。
俺は魔力を必要以上に流さないよう注意しながら、足を置く場所だけを整えた。
やがて、段差は緩やかな傾斜へ変わった。
俺はすぐに魔法を止め、足元の状態を確認した。
「……こんな感じでどうかな」
エリオットが近づき、整えた地面を慎重に踏んでみた。
「うん。さっきより歩きやすくなったと思う。ただ、土が少し柔らかいから、踏み固めた方がいいかもしれないね」
「確かに。見た目が平らでも、足元が安定してないと危ないよな」
俺は頷き、担当教員へ確認した。
教員は地面の状態を確かめ、踏み固める作業を行うよう指示した。
俺たちは協力して土をならし、実際に歩いても問題がないか確認した。
その作業を終えると、ユリウスが少し感心したように口を開いた。
「シュウ、今の土属性魔法、かなり細かく調整してたね。必要なところだけ動かしてた」
「ありがとう。でも、エリオットが言ってくれなかったら、土が柔らかいことに気づかなかったかもしれない」
俺がそう答えると、エリオットは少し照れたように笑った。
「僕も、シュウが段差を整えてくれたから気づけたんだよ。最初から全部分かってたわけじゃないし」
俺たちは顔を見合わせ、小さく笑った。
誰か一人が完璧である必要はない。
それぞれが気づいたことを伝え合えば、より安全な方法を見つけられる。
そのことを、俺は今日の訓練で何度も感じていた。
◇
模擬負傷者の固定が終わると、いよいよ担架へ移す作業が始まった。
担当教員は、負傷者の身体を無理に曲げたり、急に持ち上げたりしないよう注意したうえで、複数人が声を合わせて動く方法を説明してくれた。
俺たちは教員の指示に従い、人形の周囲へ配置された。
フィンと俺が身体を支える役割を担当し、エリオットとユリウスが担架の位置を調整する。セシリアは負傷した足が動かないよう確認し、ミリアは全体の動きを見ながら、必要な声かけをすることになった。
「じゃあ、合図を決めよう。みんなが準備できてから動かした方がいいよね」
ミリアがそう言うと、俺たちは頷いた。
彼女は少し緊張した様子だったが、すぐに深く息を整えた。
「……まず、全員が準備できているか確認するね。シュウとフィンは身体を支えられる?」
「ああ、大丈夫だよ」
「俺も準備できてるぞ」
俺とフィンが答えると、ミリアは続けてエリオットたちへ目を向けた。
「エリオットとユリウスは、担架の位置は大丈夫?」
「うん。ここなら安全に乗せられると思う」
「僕も問題ないよ」
最後にセシリアが足の固定を確認し、全員が準備できたことを伝えた。
ミリアは一度だけ頷き、落ち着いた声で合図を出した。
「それじゃあ、ゆっくり動かします。せーの」
俺たちは声を合わせ、人形の身体を慎重に持ち上げた。
思っていたよりも重さがあり、腕へじわりと負担がかかる。
しかし、急いで動かす必要はない。
俺たちは互いの動きを確認しながら、少しずつ人形を担架へ移していった。
その途中、フィンの足元で砂利が小さく動いた。
「……おっと」
彼はすぐに足を止め、姿勢を整えた。
俺も人形を支える力を少し調整し、全員が安定するまで動きを止めた。
「フィン、大丈夫?」
ミリアが尋ねると、フィンは真剣な表情で頷いた。
「ああ、平気だ。ちょっと足元が滑りかけただけ。もう大丈夫だから、ゆっくり続けよう」
俺たちは改めて姿勢を確認し、作業を再開した。
やがて、人形は無事に担架へ乗せられた。
セシリアが固定した足の位置を確認し、エリオットとユリウスが担架の支えを調整する。
俺はそこでようやく、少しだけ息を吐いた。
「……思ってたより難しいな」
俺が呟くと、フィンも頷いた。
「だな。持ち上げるだけなら何とかなるけど、相手を揺らさないようにするのが大変だ」
「そうね。負傷している人だったら、少し動かすだけでも痛みが出るかもしれないもの」
セシリアがそう言うと、ミリアも頷いた。
「……だから、合図を合わせることが大切なんだと思う。誰か一人だけ先に動いたら、身体が傾いちゃうから」
その言葉を聞いて、俺はミリアへ目を向けた。
彼女は最初、全員へ指示を出すことに少し緊張していた。
けれど、実際に作業が始まると、一人ひとりの状態を確認しながら、落ち着いて声をかけてくれていた。
「ミリア、さっきの合図、すごく分かりやすかったよ」
俺がそう言うと、彼女は驚いたように目を見開いた。
「……本当?」
「うん。誰が準備できてるか確認してくれたから、安心して動けた」
エリオットも頷いた。
「僕もそう思う。全員が同じタイミングで動けたのは、ミリアが確認してくれたおかげだよ」
ミリアは少し照れたように視線を落とした。
しかし、その口元には嬉しそうな笑みが浮かんでいた。
「……ありがとう。私も、ちゃんと声を出せてよかった」
その様子を見て、セシリアも優しく微笑んだ。
俺はそんな仲間たちの姿を眺めながら、今日の訓練が単なる魔法の練習ではないことを改めて感じていた。
◇
担架を運ぶ段階になると、さらに慎重な判断が必要になった。
通路はある程度整えられていたが、途中には緩やかな曲がり角があり、担架を水平に保ちながら進むには全員の協力が欠かせない。
俺たちは担当教員の指示に従い、担架を持つ人間と周囲を確認する人間に分かれた。
俺とフィンが前側を担当し、エリオットとユリウスが後ろ側を支える。
セシリアは人形の状態を確認しながら横を歩き、ミリアは進行方向の足場を見てくれることになった。
担架を持ち上げると、先ほどとは違う重さが腕へ伝わってきた。
ただ人形を運ぶのではなく、身体をできるだけ揺らさないようにしなければならない。
俺たちは歩幅を合わせ、ゆっくりと通路を進み始めた。
「前方、少し右へ曲がるよ。急に向きを変えないで、ゆっくり進んで」
ミリアの声が聞こえた。
俺は頷き、フィンと目を合わせた。
「フィン、少しずつ右へ向きを変えよう」
「おう。急がずいこうぜ」
俺たちは声をかけ合いながら、担架の向きをゆっくりと変えた。
後ろ側のエリオットとユリウスも歩幅を調整し、人形が大きく揺れないように支えてくれている。
曲がり角を抜けると、少し広い場所へ出た。
そこまで来たところで、担当教員が一度停止するよう指示した。
「ここで少し確認しましょう。皆さん、担架を安定させたまま止まってください」
俺たちは声を合わせ、ゆっくりと足を止めた。
先生は担架の状態を確認すると、穏やかに頷いた。
「ここまでの運搬は良好です。ただし、前側の二人は少し歩幅が大きくなりかけていましたね。後ろ側との距離を意識してください」
「はい。気をつけます」
俺とフィンは素直に頷いた。
確かに、前方が見えやすくなったことで、少しだけ歩く速度が上がっていたかもしれない。
俺は後ろ側へ目を向けた。
「エリオット、ユリウス。歩く速さ、大丈夫だった?」
エリオットは少し考えてから答えた。
「少しだけ速く感じたけど、無理なほどじゃなかったよ。ただ、次はもう少しゆっくりだと助かるかな」
「僕も同じかな。曲がり角のあとで、少しだけ担架が前へ引かれる感じがした」
ユリウスもそう言って頷いた。
俺は二人の言葉を聞き、改めて自分の動きを振り返った。
前側にいると、どうしても進む方向ばかり見てしまう。
けれど、担架を運んでいるのは俺一人ではない。
後ろ側の仲間がどのように感じているのかも、確認する必要がある。
「分かった。次はもっと歩幅を合わせるよ」
俺がそう答えると、フィンも頷いた。
「俺も気をつける。こういうの、思ってた以上に難しいな」
先生はそのやり取りを見て、少しだけ微笑んだ。
「今のように、互いの状態を確認することが大切です。救助では、誰か一人が無理をしてもよい結果にはなりません」
その言葉に、俺たちは頷いた。
そして、再び担架を持ち上げ、出口へ向かって歩き始めた。
今度は最初から歩幅を小さくし、全員の動きが揃っていることを確認しながら進んだ。
やがて、俺たちは無事に訓練区域の出口へ到着した。
担架を指定された場所へ下ろすと、担当教員が終了を告げた。
「お疲れさまでした。全員、最後まで安全を意識して行動できていましたね」
その言葉を聞いた瞬間、フィンが嬉しそうに笑った。
「よっしゃ! 無事に終わったな!」
俺たちも自然と笑みを浮かべた。
大きな魔法を使ったわけではない。
派手な戦闘があったわけでもない。
それでも、仲間たちと協力して一つの課題を達成できたことが、俺にはとても嬉しかった。
◇
訓練が終わったあと、俺たちは日陰に設けられた休憩場所へ移動した。
木製の長椅子がいくつか並べられ、その近くには飲み水の入った容器が置かれている。午前の陽射しは少し強くなっていたが、屋根の下には涼しい風が通り抜けていた。
俺は水を一口飲み、ゆっくりと息を吐いた。
「……思ってた以上に疲れたな」
隣に座ったフィンが、同じように水を飲みながら頷いた。
「分かる。魔法を撃つ授業より、何か疲れた気がするぞ」
「ずっと周りを確認してたからじゃないかな。身体だけじゃなくて、頭も使ってたし」
エリオットがそう言うと、ユリウスも頷いた。
「それに、今回は一人の判断だけで動けなかったからね。全員の状態を確認する必要があったし、普段とは違う難しさがあったと思う」
セシリアは少し離れた場所で、ミリアと一緒に道具の確認をしていた。
二人は使った固定用の布を丁寧に畳み、担当教員へ返却する準備を進めている。
俺はその姿を見ながら、今日の訓練を思い返した。
最初に模擬負傷者を発見したとき、俺はすぐに近づいて助けたいと思った。
しかし、エリオットが足場の危険に気づいてくれたことで、無理に進まずに済んだ。
丸太を動かすときも、フィンの力だけに頼らず、ユリウスの提案を聞いて安全な方法を選んだ。
そして、負傷者を担架へ移すときには、セシリアとミリアの判断が大きな助けになった。
(……本当に、みんながいてくれてよかったな)
俺はそんなことを考えながら、仲間たちの方へ目を向けた。
フィンはユリウスと何か話しており、エリオットは今日の訓練で気づいたことを手帳へ書き込んでいる。
セシリアとミリアも作業を終え、こちらへ戻ってきた。
「みんな、お疲れさま。担架を運ぶの、思っていたより大変だったわね」
セシリアがそう言うと、フィンが大きく頷いた。
「本当にな。でも、ちゃんと運べてよかったよ。途中で足元が滑りかけたときは、ちょっと焦ったけどな」
「でも、すぐに止まって確認できたからよかったと思う」
ミリアがそう言うと、フィンは少し照れくさそうに笑った。
「そう言ってもらえると助かるな。前だったら、勢いで何とかしようとしてたかもしれないし」
その言葉に、俺たちは自然と笑った。
以前のフィンを知っているからこそ、彼が少しずつ変わっていることが分かる。
そして、それは俺自身にも言えることだった。
以前の俺なら、強い魔法を使えば何とかなると考えていたかもしれない。
けれど、今日の訓練では、魔法の強さよりも大切なことがたくさんあった。
誰かの話を聞くこと。
周囲の状況を確認すること。
自分だけで判断しないこと。
そして、仲間を信頼すること。
その一つひとつが、救助を成功させるために必要だった。
◇
休憩のあと、ローディン先生は全員を集め、今日の訓練について振り返りを行った。
先生は各班の行動を確認しながら、よかった点と改善すべき点を説明していった。
俺たちの班については、最初に周囲の安全を確認したこと、無理に斜面へ近づかなかったこと、担架を運ぶ前に通路を整えたことが評価された。
一方で、担架の運搬中に前後の歩幅がずれかけた点については、今後の課題として指摘された。
「皆さん、今日の訓練で分かったと思いますが、救助に必要なのは魔法の強さだけではありません」
ローディン先生はそう言って、学生たちの顔を見渡した。
「もちろん、魔法が役立つ場面はあります。障害物を動かしたり、足場を整えたり、負傷者の状態を安定させたりすることもできるでしょう。しかし、魔法を使えば必ず安全になるわけではありません」
俺はその言葉を聞き、今日の土属性魔法を思い返した。
段差を整えたとき、見た目は平らになった。
しかし、エリオットが確認してくれなければ、土が柔らかいままだったかもしれない。
魔法で何かを変えたあとも、その結果が安全かどうかを確認する必要がある。
「また、救助においては、周囲の人間へ助けを求めることをためらわないでください。自分一人で解決しようとするより、適切な役割分担を行う方が安全な場合は多いのです」
先生はそこで少しだけ声を和らげた。
「皆さんはまだ学生です。できないことがあるのは当然ですし、分からないことがあれば教員へ相談してください。今日の訓練は、その判断を学ぶためのものでもあります」
その言葉が、俺の胸に静かに響いた。
前世の俺が作った主人公は、何でも一人でできる存在だった。
誰よりも強く、誰よりも賢く、どんな問題でも一瞬で解決できる。
けれど、今の俺は、そんな存在になりたいとは思わない。
仲間たちと相談し、失敗しそうになったら助け合い、少しずつ成長していく。
その方が、ずっと自然で、ずっと楽しい。
(……昔の俺が聞いたら、何て言うんだろうな)
《マスター。旧設定におけるマスターは、他者の助力を必要としない完全なる存在でございました》
(だろうな。でも、今の俺は違うよ)
《そのようでございます》
アルカディアの声は、いつもより少しだけ静かだった。
俺はそのことを不思議に思いながらも、先生の説明へ意識を戻した。
授業の最後には、今日の訓練で気づいたことを簡単にまとめる課題が出された。
俺はノートへ書き込む内容を頭の中で整理しながら、仲間たちと一緒に訓練場を後にした。
◇
昼食の時間になると、食堂はいつも以上に賑やかだった。
救助訓練を終えた学生たちが、それぞれの班で起きた出来事について話している。担架を運ぶのが難しかったという声もあれば、魔法を使わずに障害物を動かす方法を考えたという話も聞こえてきた。
俺たちは窓際の卓へ座り、料理を食べながら今日の訓練を振り返っていた。
「それにしても、ミリアの指示、分かりやすかったよな」
フィンがそう言うと、ミリアは少し驚いたように顔を上げた。
「……私の?」
「そうそう。担架へ人形を乗せるとき、誰が準備できてるか一人ずつ確認してくれただろ。あれがなかったら、俺、先に動いちゃってたかもしれない」
フィンは笑いながらそう言った。
ミリアは少し照れたように視線を落としたが、すぐに小さく頷いた。
「……ありがとう。私も、ちゃんと伝えられてよかったと思ってる」
セシリアが柔らかく微笑んだ。
「ミリアは、周りをよく見ているもの。今日みたいな場面では、そういうところがとても頼りになると思うわ」
「うん。僕もそう思う」
エリオットが頷いた。
俺も同じ気持ちだった。
ミリアは以前、自分の考えを口にすることを少しためらうことがあった。
けれど、図書館での調査や授業を通じて、少しずつ自信を持てるようになっている。
今日の訓練では、その変化がはっきりと表れていた。
「ミリア、今度またこういう訓練があったら、ぜひ一緒にやりたいな」
俺がそう言うと、彼女は嬉しそうに笑った。
「……うん。私も、みんなと一緒なら頑張れそう」
その言葉を聞いて、俺は自然と笑みを浮かべた。
仲間たちと過ごす時間が、少しずつ大切なものになっている。
それは、俺がこの世界へ生まれ変わったときには想像していなかったことだった。
前世の俺は、最強の力を持つ主人公に憧れていた。
しかし、今の俺が嬉しいと感じるのは、誰かに褒められたときや、仲間と一緒に課題を達成できたときのような、ごく普通の瞬間なのだ。
俺はそんなことを考えながら、温かいスープを口へ運んだ。
◇
午後の授業を終え、男子寮へ戻るころには、空が少しずつ夕方の色へ変わり始めていた。
俺とエリオットは317号室へ戻ると、それぞれ机へ向かい、今日の救助訓練についての課題をまとめ始めた。
窓の外では中庭の木々が静かに揺れ、遠くから学生たちの話し声が聞こえてくる。
俺はノートを開き、今日の訓練で学んだことを書き留めた。
『負傷者を発見したら、まず周囲の安全を確認する』
『救助する側が危険な場所へ無理に入らない』
『魔法を使ったあとも、結果が安全かどうか確認する』
『仲間と役割を分担し、動く前に合図を合わせる』
『分からないことは、教員や専門の担当者へ相談する』
そこまで書いたところで、俺はペンを止めた。
今日の訓練では、特別な能力を使う必要はなかった。
強い魔法で障害物を吹き飛ばすことも、負傷者を一瞬で回復させることもなかった。
それでも、俺たちは無事に課題を達成できた。
(……こういうの、何かいいな)
《マスター。どの点が特に有益であったとお考えでしょうか》
(うーん。やっぱり、みんなで考えて動けたことかな。一人じゃ気づかなかったことも、仲間が教えてくれたし)
《確かに、本日の訓練では複数の判断が相互に補完されておりました》
(そうなんだよ。俺が強い魔法を使えるからって、何でも一人でできるわけじゃないしな)
俺はそう考えながら、ノートへ目を落とした。
すると、アルカディアが少しだけ間を置いてから口を開いた。
《マスター。旧設定における《万象救済の絶対王》は、世界中の負傷者を同時に救う存在でした》
(……またその話かよ)
《しかし、本日のマスターは、目の前の一人を安全に運ぶため、仲間と協力されました》
(まあ、そうだな。世界中の人を救うなんて、今の俺には想像もつかないし)
《それでも、マスターは本日の訓練に満足されているようです》
その言葉に、俺は少しだけ考え込んだ。
確かに、今日の俺は満足している。
派手な魔法を使ったわけでもないし、誰かから特別な称号を与えられたわけでもない。
けれど、仲間たちと協力して一つの課題を達成できたことが、素直に嬉しかった。
(……たぶん、こういうのが今の俺にとって大事なんだろうな)
《理解いたしました》
アルカディアは静かに答えた。
俺はその声を聞きながら、少しだけ笑った。
しかし、次の瞬間、彼女はいつもの調子で言葉を続けた。
《なお、旧設定における《絶対救済領域》は、発動と同時に世界中の負傷者を完全回復させるだけでなく、負傷という概念そのものを消滅させることが可能でした》
(……ちょっと待て。負傷って概念を消したら、どうなるんだよ)
《あらゆる存在が負傷しなくなります》
(それ、もう世界の仕組みが変わってるだろ!)
《当時のマスターは、完全なる救済を実現するためには、世界の法則そのものを変更する必要があるとお考えだったようです》
(救助訓練の話から、どうして世界の法則を変えるところまで飛ぶんだよ!)
俺は思わず額を押さえた。
隣の机ではエリオットが、今日の訓練について真剣にノートをまとめている。
彼は俺の心の中で繰り広げられている黒歴史との戦いを知らない。
それでも、こうして同じ部屋で勉強している時間は、俺にとって大切な日常だった。
「シュウ、今日の課題、もう少しで終わりそう?」
エリオットが顔を上げ、穏やかに尋ねてきた。
俺は慌てて姿勢を整え、ノートへ目を向けた。
「ああ、あと少し。今日の訓練で気づいたことをまとめてるところだよ」
「そうなんだ。僕も、担架を運ぶときの歩幅について書いてた。次に同じような訓練があったら、もっと上手にできるようになりたいね」
「うん。俺もそう思う」
俺たちは顔を見合わせ、小さく笑った。
今日の訓練で学んだことは、きっとこれからの学院生活でも役立つだろう。
そして、いつか冒険者として外の世界へ出ることになったときにも、こうした経験が大切になるのかもしれない。
俺はそんなことを考えながら、ノートへ最後の一文を書き加えた。
『強い魔法を使うことより、必要な行動を正しく選ぶことが大切』
その文字を見つめ、俺は静かに頷いた。
前世の俺が作った最強の主人公なら、きっとこんなことは書かなかっただろう。
けれど、今の俺は、この言葉を忘れずにいたいと思っている。
俺はノートを閉じ、窓の外へ目を向けた。
夕方の学院には穏やかな光が広がり、遠くの尖塔が淡い橙色に染まっている。
今日もまた、特別な事件が起きたわけではない。
それでも、俺にとっては大切な一日だった。
仲間たちと一緒に学び、少しずつできることを増やしていく。
そんな普通の学院生活を、俺はこれからも大切にしていきたい。
ただし、アルカディアだけは、最後まで普通ではなかった。
《マスター。念のため申し上げますが、旧設定では、マスターが救助活動へ参加した場合、周囲の人々は感動のあまり跪き、《慈悲深き終焉の王》と呼ぶことになっておりました》
(……救助してるのに終焉って付くの、絶対おかしいだろ)
《破壊と救済を統べる存在であることを示すための称号です》
(そんな称号で呼ばれたら、助けられた人も不安になるわ!)
俺は心の中で全力で突っ込みながら、深いため息をついた。
どうやら、俺の黒歴史は今日も元気らしい。
それでも、明日もまた新しい一日が始まる。
俺は仲間たちと過ごす時間を少し楽しみに思いながら、静かな夕方の学院で、残りの課題を片づけていった。




