第9話 帰り道は、来たときと同じではなかった
帰ってきた。
その意味だけが、妙に鮮明にシュウの胸へ残っていた。
声を聞いたわけではない。耳に届いた音もなければ、誰かの姿を見たわけでもない。それなのに、古びた見張り小屋から伸びてきた淡い白の魔力へ触れた瞬間、そうとしか受け取れない何かが意識へ流れ込んできた。
しかも、それを感じたのはシュウだけではない。
『本当に同じだったんだよな?』
《はい。私が受け取った意味情報も「帰ってきた」に相当します》
『俺がそう思ったから、アルカディアにも伝わったとかじゃなくて?』
《可能性を完全には否定できません。しかし、私が観測した魔力変動はマスターの思考が生じるより僅かに先行していました》
『……じゃあ、やっぱりあの光から?』
《現時点では、その可能性が最も高いと判断します》
そこまで聞いても、疑問が減るどころか増えるばかりだった。
誰が帰ってきたのか。
どこへ帰ってきたのか。
そもそも、あの小屋にシュウは一度も来たことがない。幼いころから北部森林へ入った経験は何度もあるが、旧西監視路の奥まで足を延ばした記憶はなかった。
前世なら、なおさらだ。
神代修司として生きていた世界に、アルヴェイン領など存在しない。
「シュウ」
肩に置かれていた父の手へ、僅かに力が加わった。
シュウは小屋へ向けていた視線を戻す。ローデリックの顔には驚きと警戒が混ざっていたが、それ以上に息子の状態を確かめようとする色が強かった。
「身体に異常はないか?」
「ないよ。痛くもないし、苦しくもない」
「気分は?」
「普通。びっくりしただけ」
「魔力は?」
シュウは自分の身体へ意識を向けた。
《生命回帰》を選択している感覚は変わらない。恒常的に使える《漆黒魔力》も、身体能力や魔力知覚にも異常は感じられなかった。
『アルカディア、俺自身に何か変化ある?』
《確認できる範囲ではありません。生命活動、魔力循環、選択能力の固定状態、恒常能力のいずれも接触前との差異は検出していません》
「大丈夫みたい」
シュウが答えると、ローデリックはすぐには手を離さなかった。
「本当にか?」
「本当に」
「何か少しでもおかしいと思ったら言え」
「うん」
「言いづらいことでもだ」
「分かってるって」
ようやく父の手が離れた。
少し離れた場所では、ハインツたちがガレスとミーナを運ぶ準備を続けている。二人とも《生命回帰》によって身体そのものは正常な状態へ戻っていたが、目覚めたばかりであり、森の異常に長時間晒された精神的な疲労まで無視して歩かせる理由はなかった。
特にミーナは、見張り小屋を何度も振り返っている。
身体が治ったからといって、あそこで過ごした時間まで消えるわけではない。
床下から響いた音。
黒い根。
意識を失っていく仲間。
その記憶は残っている。
「男爵様」
ハインツが声をかけた。
「撤収準備が整います。ガレス殿とミーナ殿は交代で担架を使用。状態が安定しているため、帰路の状況次第では本人たちに歩いていただくことも可能でしょう」
「ああ。ただし無理はさせるな」
「承知しました」
「それから小屋には誰も近づけるな」
ハインツは一瞬だけ建物を見る。
「調査は?」
「しない」
ローデリックの返事は揺らがなかった。
「予定通り帰る」
その言葉に、シュウは無意識に小屋へ視線を戻した。
知りたい。
正直に言えば、ものすごく知りたい。
床下にある石の扉。
そこへ刻まれていたというアルヴェインの名。
建材そのものに残る白い魔力。
黒い異常を拒む性質。
そして、自分へ伝わってきた「帰ってきた」という意味。
少し床を調べるだけなら。
石の扉を見るだけなら。
文字だけ確認するなら。
そんな考えが頭の中へ次々浮かぶ。
「気になるか?」
父に見透かされた。
「……かなり」
「俺もだ」
「父さんも?」
「自分の家名が森の地下に刻まれていると言われて、気にならない当主がいると思うか?」
「それはそうか」
ローデリックは苦笑したものの、すぐに表情を戻した。
「だからこそ、今日は見ない」
シュウは父を見る。
「気になるから?」
「ああ。気になっているときほど、自分に都合のいい理由で予定を変えやすい。石扉を見るだけ、文字を確認するだけ、少し床を外すだけ。そうやって一つずつ理由をつけていけば、気づいたときには地下へ降りているかもしれん」
「……ありそう」
「お前は特にな」
「なんで俺だけ?」
「自覚がないのか?」
「あるけど」
「なら聞くな」
近くで聞いていたハインツが小さく咳払いした。
笑いを隠したように聞こえたが、シュウは指摘しなかった。
「帰ってから記録を調べる」
ローデリックは続ける。
「領主家の古文書、監視所の建設記録、北部森林の旧地図。この小屋にアルヴェイン家が関わっていたなら、何か残っている可能性はある」
「何もなかったら?」
「そのとき改めて考える」
父の答えは、ひどく地味だった。
けれど昨日からの出来事を経験したシュウには、その地味さが以前より理解できる。
強い魔法があれば何でも解決できるわけではない。
分からないなら調べる。
危険なら準備する。
今日やらなくていいことは、今日やらない。
「分かった」
シュウは小屋から身体ごと向きを変えた。
「帰ろう」
その言葉に、ローデリックが小さく頷いた。
◇
帰路の隊列は、来たときとは形が変わっていた。
先頭をハインツと騎士二人が進み、その後ろにミーナを乗せた担架が続く。中央にはシュウとローデリック、その少し後ろにはガレスの担架があり、最後尾を残る騎士たちが警戒していた。
《生命回帰》によって傷も衰弱も消えているため、二人を担架へ固定する必要はない。それでも森を出るまでは体力を温存してもらうことになり、ガレスは何度か「歩ける」と主張したものの、ハインツに「救助された方の仕事は無事に帰ることです」と押し切られていた。
「すみません……」
担架の上でガレスが申し訳なさそうに言う。
「こんな大人数に」
「謝る必要ないですよ」
シュウが横を歩きながら答えた。
「そもそも助けに来たんだから」
「ですが、シュウ様にまで来ていただいたとは……」
「俺は異常魔力が見えるから」
「それだけではありません」
ガレスは少し身体を起こしかけ、担架を運ぶ騎士から静かに止められた。
「ディーンも、ミーナも、俺も……シュウ様が治してくださったと聞きました」
「まあ、それは」
「ありがとうございます」
真正面から言われると、どう返せばいいのか少し困る。
《生命回帰》を選んだのは自分だ。
使ったのも自分。
だから礼を言われること自体はおかしくない。
けれど、シュウ自身はまだ、その力を自分の実力として素直に受け止めきれていなかった。
元を辿れば十四歳の神代修司がノートへ書いた能力である。
しかも、確か設定文には――。
『読み上げましょうか?』
『絶対やめろ』
《まだ何も申し上げていません》
『今の流れで分かるよ!』
《「我が慈悲の前では死神すら――」》
『やめろって言ったよね!?』
シュウの眉間へ力が入る。
ガレスが心配そうにこちらを見た。
「どうかされましたか?」
「何でもないです」
「先ほどから、ときどき難しい顔をされていますが……」
「俺にも色々あるんです」
主に十四歳の自分との戦いが。
それを説明するわけにもいかず、シュウは曖昧に笑った。
「それより、ガレスさん。小屋の下の扉を見つけたときのこと、もう少し聞いてもいいですか?」
少し前を歩いていたローデリックが振り返る。
止めはしなかった。
帰りながら聞ける範囲なら情報を集めておきたいのだろう。
「はい」
ガレスは一度目を閉じ、記憶を整理するように間を置いた。
「見つけたのは、森がおかしくなってからです」
「黒い木を見たあと?」
「そうです。俺たちは月白草を採りに来ていました。いつもの場所へ着く少し前に、最初の黒い木を見つけました」
ニナから聞いた話とも合っている。
「最初は病気かと思いました。木の病気なら領主様へ報告した方がいいとディーンが言って、それで近づきすぎない範囲から見ていたんです」
「そのときは根、動いてなかった?」
「見ている間は。ただ、地面から妙な音がしました」
「地中を何かが動くような?」
「はい」
ガレスの表情が僅かに強張る。
身体の傷は消えていても、その音を思い出すことは楽ではないらしい。
「それで帰ろうとしたんですが、来た道の方にも黒い木が増えていました。行きにはなかったはずなのに」
シュウの足が僅かに遅くなる。
「どれくらいの時間で?」
「正確には分かりません。月白草の場所まで入ってから異変に気づくまで、半刻も経っていなかったと思います」
短い。
もし見落としでなければ、黒化はかなり速く進む場合がある。
「そのあと根に襲われた?」
「はい。最初は一本でした。俺たちが逃げると地面の下を追ってきて……その途中で見張り小屋を見つけました」
ガレスは後方を振り返ろうとしたが、木々に遮られて小屋はもう見えない。
「扉を閉めたあと、根が壁まで来たんです。でも入ってこなかった。壁を叩くこともなく、小屋の周りを何度か動いたあと離れていきました」
「白い光は見えた?」
「そのときは見ていません」
「魔力を感じたりは?」
「俺は魔法が得意ではないので……」
ガレスが申し訳なさそうに答える。
「謝らなくていいですよ」
シュウはすぐに言った。
「俺も昨日までは、あんな魔力が見えるなんて思ってなかったから」
正確には魔力知覚そのものは以前からあったが、アルカディアとの同期で感覚が大きく鋭くなっている。
そこまで話す必要はない。
「石の扉は?」
今度はローデリックが尋ねた。
「いつ見つけた?」
「小屋へ入ってしばらくしてからです。ミーナが脚を傷めていたので、横になれる場所を作ろうと床の荷物を動かしていました。古い棚が倒れていて、その下の床板が一枚ずれていたんです」
「最初から床が壊れていた?」
「はい。俺たちが壊したわけではありません」
「続けろ」
「板を戻そうとしたとき、その下に空間があると気づきました。床下自体は浅いんですが、そこだけ石が敷かれていて……土を少し払ったら、四角い継ぎ目が見えました」
「それが扉」
「だと思います。取っ手のようなものはありませんでした。ただ、中央に丸い窪みがあって、その周りに文字が刻まれていました」
「文字は読めなかったんだよね?」
「はい。見たことのない文字でした」
シュウは少し考える。
「じゃあ、なんで最後に『アルヴェイン』だけ読めたの?」
「それが、俺にも分かりません」
ガレスの顔に戸惑いが浮かんだ。
「最初に見たときは、本当に一文字も読めなかったんです。でも、黒いものが床下から出てきたあと……小屋が白く光ったでしょう?」
「俺たちが助け出したときも光った」
「同じものかもしれません。その光が石の扉にも走って、文字の一部だけ形が変わったように見えたんです」
「形が変わった?」
「そう見えました」
ガレスは自信がないのか、言葉を慎重に選ぶ。
「読めない文字だったものが、知っている文字になったというか……俺が読める形になったというか。意識もかなり朦朧としていたので、間違いかもしれません」
「いや」
ローデリックが静かに言った。
「今は判断しない。見たままを覚えている範囲で話してくれればいい」
「はい」
そのやり取りを聞きながら、シュウは自分が白い魔力から受け取ったものを思い出した。
言葉ではなかった。
なのに意味が分かった。
ガレスも、読めない文字の意味を何らかの形で理解させられたのだとしたら。
『アルカディア』
《関連性は考えられます》
『まだ何も聞いてないんだけど』
《マスターの思考を認識していますので》
『便利だけど、たまに怖いな』
《私はマスターの魂内に存在しています》
『改めて言われるともっと怖い》
《今さらでは?》
それもそうだった。
◇
見張り小屋を離れて三十分ほど経ったころ、ミーナが自分で歩きたいと申し出た。
治療後から時間が経ち、顔色もすっかり戻っている。何度か休憩を挟むことを条件にハインツが許可し、担架から降りたミーナは最初こそ慎重に右脚へ体重をかけたものの、痛みがないことを確かめると驚いたように何度も足首を動かした。
「本当に……何ともない」
巻かれたままの布の下には、もう傷がない。
血だけが残っている。
「さっきも確認したでしょう」
ガレスが苦笑する。
「分かってるけど、あれだけ裂けてたのよ?」
ミーナは自分の脚を見たあと、シュウへ視線を向けた。
「これ、王都の大司祭様でもできるんですか?」
「えっ」
聞かれても分からない。
シュウが知っているこの世界の治癒魔法は、傷を塞いだり回復を促したりするものが中心だ。重傷になれば複数回の治療が必要で、欠損した身体まで完全に元へ戻すような魔法は少なくとも一般的ではない。
「どうなんだろう」
素直に答える。
「俺、王都の大司祭様に治してもらったことないし」
「それはそうでしょうけど……」
ミーナが困ったように笑った。
「でも、すごい魔法でした」
「ありがとう」
「名前もすごかったです」
嫌な方向へ来た。
「……名前?」
「《生命回帰》、でしたよね?」
「そうですね」
「命そのものを元へ帰すから《生命回帰》……」
ミーナは感心したように繰り返す。
やめてほしい。
解説しないでほしい。
「それに、あの言葉も」
「言葉?」
「『失われしものよ、命ある限り本来の姿へ還れ』って」
「そこ覚えてるんですか?」
「もちろんです」
ミーナはむしろ、なぜ忘れると思ったのかという顔をした。
「すごく綺麗な言葉でした。傷だけじゃなくて、私の中に入っていた気持ち悪いものまで、本当に全部元へ戻してくれた感じがして」
シュウは前を向いた。
耳が熱い。
『好評ですね、マスター』
『黙れ』
《なお、原案作成時の欄外には「この詠唱を聞いた瀕死の美少女は俺を生涯忘れない」と――》
『黙れって言ったよな!?』
「シュウ様?」
ミーナが不思議そうに覗き込む。
「何でもないです。本当に何でもないです」
「顔が赤いですが」
「森の中、暑いですね」
全然暑くない。
木陰には涼しい風まで流れている。
ガレスが首を傾げ、騎士の一人が少し笑った。
シュウはそれ以上何も言わず歩いた。
どうしてこの世界の人たちは、黒歴史の核心部分ばかり的確に褒めてくるのだろう。
アルカディアが目覚めてからまだ数日しか経っていない。
それなのに、この調子で学院へ行ったらどうなるのか。
嫌な想像しかできなかった。
◇
短い笑いがあったことで、隊列の緊張は僅かに和らいでいた。
それでも警戒は解いていない。
森は静かなままだ。
往路で確認した黒い木を避け、目印として打った杭を頼りに同じ道を戻る。シュウは前方だけでなく左右の地面へも意識を配り、黒紫色の魔力が動いていないかを確かめ続けた。
最初の異変に気づいたのは、往路で黒い根に襲われた場所へ近づいたころだった。
「待って」
シュウが声をかける。
ハインツが即座に停止の合図を出した。
「どうしました?」
「……あの木」
往路で半分ほど黒くなっていた木。
全員が見る。
今度は、魔力を見ることのできない騎士たちにも違いが分かった。
「黒い部分が……減っている?」
ハインツが目を細める。
「来たときは、もっと上まで黒かったよね」
「はい。少なくとも幹の半分近くは変色していました」
今は三分の一ほど。
緑の葉も増えたように見える。
シュウは魔力知覚へ集中する。
黒紫色の魔力は残っている。
しかし、明らかに薄い。
『アルカディア』
《往路観測時との比較。対象樹木内部の異常魔力反応は約四割低下しています》
『自然に消えた?』
《原因不明です》
「黒い魔力も減ってる」
シュウが皆へ伝える。
ローデリックが木へ近づこうとはせず、その場から観察する。
「時間が経てば戻るのか?」
「分からない。でも昨日の街道の木は《聖澄浄界》を使わないと戻らなかった」
「なら、別の理由か」
「たぶん」
シュウは周囲を見る。
一本だけではない。
往路で異常魔力を感じた別の木にも目を向ける。
「あっちも薄い」
「こちらもですか?」
「うん」
さらに奥。
もう一本。
「これも」
ハインツの表情が険しくなる。
「森全体の異常が弱まっている?」
「まだ分からない」
シュウは父から教えられたばかりの言葉を意識して答えた。
「この辺だけかもしれない」
ローデリックが僅かに頷く。
「その答えでいい」
原因を決めつけない。
ただ、変化は記録する。
騎士の一人が携帯していた小さな帳面へ場所と状態を書き込む。
「旦那様。少し確認しますか?」
「長居はしない。シュウ、地下は?」
聞かれ、足元へ意識を向ける。
往路では黒紫色の魔力が地面の下を移動していた。
今は。
「……薄い」
「なくなった?」
「なくなってはいない。でも、動きが少ない」
『アルカディア』
《同意します。往路と比較して周辺地下の異常魔力活動は低下しています》
何かが変わった。
問題は、いつ。
自分たちが見張り小屋へ着いたあと。
ガレスとミーナを助けたあと。
小屋の白い魔力が強く光ったあと。
あるいは、もっと別の理由。
「小屋と関係あるのかな」
シュウが呟く。
「可能性は考えておく」
ローデリックはそう答えただけだった。
ここで答えを出そうとはしない。
「進むぞ」
救助隊は再び歩き出した。
しかし、そこから先でも同じ変化が続いた。
往路で黒紫色の魔力が入り込んでいた木。
薄い。
地面の黒い染み。
色が少し戻っている。
地下の反応。
弱い。
森そのものが、ゆっくり息を取り戻しているようにも見えた。
そして。
「……鳥」
ミーナが足を止めそうになった。
遠くから小さな鳴き声が聞こえる。
一度。
少し間を置いて、別の方向からもう一度。
来るときにはほとんど聞こえなかった音。
シュウは思わず空を見上げた。
枝葉の隙間を、小さな鳥が一羽横切る。
「戻ってきてる?」
騎士の一人が呟く。
「かもしれない」
誰も喜びすぎなかった。
昨日から、分からないものを何度も見てきたからだ。
それでもシュウの胸には、小さな安堵が生まれた。
森が元へ戻っているならいい。
原因が何であれ、異常が弱まっているなら。
『アルカディア』
《はい》
『このまま全部消えてくれたら楽なんだけどな』
《可能性はあります》
『珍しく優しい答え』
《ただし、異常魔力が消滅しているのではなく、別地点へ移動している可能性もあります》
『一瞬で台無しにするなよ』
《楽観のみを提供することは、唯一無二の理解者として不適切です》
『十四歳の俺、面倒な性格に設定したな……』
《当時のマスターは「ただ肯定するだけの者は真の理解者ではない」と――》
『それ以上は聞きたくない』
十四歳にしては妙にまともなことを書いているのが、逆に腹立たしい。
◇
さらにしばらく進み、救助隊は最初に微量の異常魔力を見つけた木まで戻ってきた。
ここまで来れば旧西監視路の入口も遠くない。
騎士たちの表情にも僅かな安堵が見え始めている。
ガレスとミーナは二人とも歩いていた。
担架は畳まれ、騎士が背負っている。
「あと少しですね」
ミーナの声にも力が戻っていた。
「馬のところまで行けば、そこから領都まではずっと楽ですよ」
シュウが答える。
「ディーンさんも待ってると思う」
「……早く会いたいです」
ミーナの表情が柔らかくなる。
ガレスも隣で頷いた。
「心配をかけました」
「ディーンさんも同じこと言うんじゃない?」
「言いそうですね」
二人が小さく笑う。
その姿を見て、シュウもようやく救助できた実感が湧いてきた。
三人とも生きている。
ディーン。
ガレス。
ミーナ。
誰も置いてこなかった。
今日の目的は達成できた。
そう思ったとき。
『マスター』
アルカディアの声が変わった。
シュウはすぐに足を止める。
「止まって」
先頭のハインツが振り返る。
「異常ですか?」
「アルカディアが……」
言いかけて止める。
存在を隠す。
その方針を忘れかけた。
「何か感じた」
言い直す。
「少し待って」
『何?』
《前方に異常魔力反応》
シュウは目を凝らす。
旧西監視路の先。
木々の向こう。
まだ肉眼では何も見えない。
『黒いやつ?』
《はい》
『さっきまで薄くなってたのに?》
《これは周辺に残留している反応とは異なります》
『どう違う?』
《移動しています》
背中が冷える。
「前に何かいる」
シュウが告げる。
騎士たちが武器へ手をかける。
「距離は?」
「まだ遠い」
『アルカディア』
《推定百二十から百五十メートル》
「百メートル以上。こっちに動いてる」
ハインツがすぐに隊列を組み直す。
「ガレス殿、ミーナ殿は中央へ。シュウ様も前へ出ないでください」
「分かってる」
今は《心装武器》がない。
さっきの失敗を繰り返すつもりもない。
恒常の《漆黒魔力》は使える。
身体能力もある。
しかし、救助対象を連れた状態で積極的に戦う理由はない。
「避けられるか?」
ローデリックが尋ねる。
「動く方向を見ます」
シュウは集中する。
黒紫色の魔力。
近づいている。
速くはない。
人が歩く程度。
「こっちに来てる」
「こちらを狙っている?」
「分からない」
「左右へ避けるのは?」
道の外を見る。
森の異常は弱まっている。
それでも地下に反応は残っている。
「大きく外れるのは怖い」
「なら、少し戻って開けた場所を使う」
ハインツが判断する。
先ほど通過した場所に、木の間隔が広い地点があった。
「全員、後退。走るな。足元を確認しろ」
一行は来た道を戻る。
ガレスとミーナを中央へ。
騎士たちが周囲を囲む。
シュウは何度も前方を振り返った。
近づく。
黒紫色の反応。
百メートル。
八十。
六十。
「見える」
木々の間。
何かが動いた。
人影。
「人?」
騎士の一人が呟く。
確かに人のように見える。
二本の脚で歩いている。
背丈も成人程度。
けれど。
「待って」
シュウの喉が強張る。
人間なら、あんなふうに見えるはずがない。
全身に黒紫色の魔力がまとわりついている。
ディーンたちのように体内へ入り込んでいるだけではない。
身体の外まで溢れている。
「誰かいる!」
ハインツが大声で呼びかけた。
「アルヴェイン男爵家の騎士団だ! 聞こえるなら返事を!」
人影は止まらない。
ゆっくり歩いてくる。
「返事をしろ!」
もう一度。
反応はない。
距離が縮まる。
四十メートル。
木陰から姿が見える。
男だった。
衣服は泥だらけ。
上着の袖が裂けている。
武器は持っていない。
頭を下げたまま、ふらつくように歩いている。
「怪我人か?」
騎士が言う。
「近づかないで!」
シュウは強く止めた。
「あの人、黒い魔力が多すぎる」
男が一歩進む。
さらに一歩。
その足元。
地面の下にある黒紫色の魔力も、一緒に動いている。
「……繋がってる」
「何?」
「地下の魔力と、あの人が繋がってる!」
昨日のディーンを思い出す。
倒れていた身体から地面へ伸びていた黒い糸。
けれど今回は違う。
細い糸ではない。
男の両脚から地面へ黒紫色の魔力が流れ、そのまま地下の何かへ続いている。
人が歩いているというより。
地面の下にあるものが、人を歩かせているように見えた。
『生きてる?』
《生命活動を確認》
『治せる?』
《《生命回帰》の適用対象である可能性は高いと判断します》
なら助けられる。
その考えが浮かんだ直後。
《ただし、接触は推奨しません》
『なんで?』
《対象者内部の異常魔力と地下反応が継続的に接続しています。治療を実行しても、外部から即座に再流入する可能性があります》
ディーンの夜と同じだ。
外から流れ込み続けている。
「父さん」
「ああ」
「あの人、生きてる。でも今治しても、地面からまた黒い魔力が入るかもしれない」
「接続を切れるか?」
「今は《心装武器》がない」
光閃なら切れたかもしれない。
風なら距離を取って引き離せたかもしれない。
けれど今日は《生命回帰》。
強力な治療能力。
その代わり、他の選択能力は使えない。
「黒い魔力なら攻撃できる」
「人間ごとか?」
父の一言で、シュウは黙った。
《漆黒魔力》は強い。
だが、異常だけを綺麗に切り離せる保証はない。
「……無理」
「なら撃つな」
「うん」
男との距離は二十メートルほどになった。
ハインツたちが盾を構える。
「止まれ!」
呼びかけても男は止まらない。
十七メートル。
十五。
そのとき。
「……たす……」
声がした。
シュウの目が見開かれる。
「今、喋った?」
「聞こえました」
ハインツも答える。
男の顔が少し上がる。
頬は痩せ、目の下は黒い。
唇が震える。
「たす……け……」
生きている。
意識も完全には失われていない。
シュウの足が前へ出そうになる。
「シュウ」
ローデリックの声で止まった。
「分かってる」
助けたい。
だからこそ、考える。
近づいて治すだけでは駄目。
地下との接続をどうにかしなければならない。
「その場で止まってください!」
シュウが男へ呼びかける。
「助けます! だから止まって!」
男の足が一瞬だけ鈍った。
止まれる。
まだ自分の意思が残っている。
「そう! そのまま!」
男の身体が震える。
右脚が前へ出ようとする。
本人は止めようとしているらしく、膝が不自然に揺れた。
「……むり……」
「大丈夫! ゆっくりでいい!」
「ちが……」
男の声が掠れる。
「にげ……」
シュウの背筋が冷えた。
「え?」
男が顔を上げる。
恐怖。
その表情だけは、はっきり分かった。
「にげろ……!」
次の瞬間。
男の背後で地面が盛り上がった。
「全員、下がれ!」
ローデリックの声が響く。
黒い根が地面を突き破る。
一本ではない。
二本。
三本。
男の背後から次々に現れる。
騎士たちが盾を構え、ガレスとミーナをさらに後ろへ下げる。
シュウは男を見る。
根は彼を襲っていない。
むしろ。
「……守ってる?」
男を中心に広がるように、黒い根が地面から立ち上がっている。
『アルカディア!』
《異常魔力反応急増。対象者と根状構造の接続強度も上昇しています》
『どうすれば切れる!?』
《現在選択能力のみでは、安全な切断手段を確定できません》
歯を食いしばる。
今朝、自分で選んだ。
《生命回帰》。
その選択が間違いだったとは思わない。
ディーンを治した。
ミーナを治した。
ガレスを治した。
三人を救えた。
けれど今。
目の前にいる人を助けるために必要なのは、治す力だけではない。
「シュウ様!」
ハインツの声。
黒い根が動く。
一本が地面を叩いた。
土が跳ねる。
騎士たちは下がる。
男も一緒に前へ進む。
「来るぞ!」
シュウは右手へ《漆黒魔力》を集める。
攻撃するためではない。
何かあったとき、根を止めるため。
だが。
その瞬間。
胸の奥に、別の感覚が生まれた。
「……え?」
《生命回帰》。
選択している能力。
その力が、目の前の男へ反応している。
『アルカディア』
《確認しています》
『これ、何?』
《《生命回帰》の対象認識です》
『でも触ってない』
《はい》
シュウは男を見る。
距離は十数メートル。
これまでディーン、ミーナ、ガレスへ使ったときは触れていた。
触れた方が確実だから。
だが、能力そのものが接触必須だと確認したわけではなかった。
『届く?』
《理論上、発動可能です》
胸が強く鳴る。
『じゃあ治せる!』
《待ってください》
アルカディアの声が鋭くなる。
《対象者を治癒した場合、地下からの再汚染が予測されます》
『分かってる』
《では――》
『だから、治し続けたら?』
アルカディアが黙った。
『一回治して終わりじゃなくて、入ってくるたびに戻す』
《……》
『《生命回帰》って、今日一日何回でも使えるんだろ?』
《はい》
『なら、あの人の中に黒い魔力が入るたびに消す。向こうが諦めるか、繋がりが弱くなるまで』
《魔力消費が発生します》
『俺が先に尽きる可能性は?』
《不明です》
『向こうがどれだけあるか分からないから?』
《はい》
勝てる保証はない。
けれど。
「父さん!」
シュウが叫ぶ。
「試したいことがある!」
「危険は?」
「ある!」
即答した。
「でも、あの人を攻撃しなくていい方法!」
ローデリックは息子を見る。
その間にも根は動いている。
「説明しろ!」
「遠くから《生命回帰》を使う! 黒い魔力がまた入ってきても、入るたびに治す!」
「いつまでだ!」
「分からない!」
「お前の魔力が先に尽きたら?」
「それも分からない!」
言っていて無茶なのは分かる。
けれど、分からないことを分かったふりはできない。
ローデリックは数秒だけ考えた。
「一度だ!」
「え?」
「まず一度使え! 効かなければ別の方法を考える。最初から消耗戦にするな!」
なるほど。
シュウは自分が最初から最後まで決めようとしていたことに気づいた。
「分かった!」
右手を男へ向ける。
触れていない。
それでも《生命回帰》が対象を認識している。
白緑色の魔力が掌へ集まり始める。
男が苦しそうに顔を上げた。
「待ってて」
シュウは呼吸を整えた。
恥ずかしい詠唱。
今はそんなことを気にしている場合ではない。
「失われしものよ、命ある限り本来の姿へ還れ。傷も穢れも我が前に留まることを許さない――《生命回帰》!」
白緑色の光が放たれた。
これまでのように触れた場所から広がるのではない。
光の帯が十数メートルの距離を走り、男の身体を包み込む。
「う……あ……!」
男が声を上げる。
黒紫色の魔力が消えていく。
顔。
胸。
腕。
脚。
身体の外へ溢れていたものまで、白緑色の光に洗われるように薄れていった。
「効いてる!」
騎士の声が上がる。
男の姿勢が変わる。
俯いていた顔が上がり、濁っていた目に僅かな光が戻る。
そして。
足元。
男と地面を繋いでいた黒紫色の魔力が、初めてはっきり見えるほど強く浮かび上がった。
『接続部を確認!』
アルカディアの声が響く。
『切れた?』
《いいえ!》
黒い魔力が地下から流れ込む。
治ったばかりの男の脚へ。
「また来る!」
シュウは構える。
もう一度《生命回帰》を。
そう思った瞬間。
流れ込んだ黒紫色の魔力が、男の足首へ触れる直前で止まった。
「……え?」
黒い魔力が揺れる。
進まない。
何かに阻まれている。
『アルカディア?』
《対象者表面に《生命回帰》の残留魔力を確認》
『それが止めてる?』
《可能性があります》
白緑色の光。
治療後に残っていた僅かな魔力が、黒紫色の侵入を拒んでいる。
男の足元で、二つの魔力がぶつかる。
黒紫。
白緑。
押し合う。
根が激しく揺れた。
「全員警戒!」
ハインツが叫ぶ。
一本の根がシュウへ向かう。
騎士が盾で受ける。
重い音。
「ぐっ!」
騎士の身体が押される。
シュウは右手へ《漆黒魔力》を集める。
「そこから離れて!」
男が叫んだ。
今度ははっきりした声だった。
意識が戻っている。
「俺は大丈夫です! だから――」
言葉の途中。
男の足元で白緑色の光が強くなった。
黒紫色の魔力が押し返される。
地面へ。
地下へ。
根が一斉に止まった。
「何が……」
シュウ自身が驚く。
《《生命回帰》による正常状態の固定が、外部異常魔力の再侵入へ抵抗していると推測》
『そんな効果、設定にあった?』
《明文化されていません》
『え?』
《《生命回帰》の設定は「命ある限り、対象を完全なる正常状態へ回帰させる」です》
『それだけ?』
《詳細欄には二十七項目ありますが》
『多いな!?』
《読み上げますか?》
『今はいい!』
それより。
男と地下を繋いでいた黒い魔力が細くなっていく。
一本。
また一本。
そして。
切れた。
男の身体が前へ倒れる。
「ハインツさん!」
「行く!」
根が止まっている。
ハインツと騎士一人が走り、男を抱えてこちらへ引き戻す。
十メートル。
五メートル。
戻ってくる。
誰も根に襲われない。
男が隊列の内側へ入った。
「生きてる?」
「意識あり!」
シュウが駆け寄る。
男は地面へ座らされ、大きく息をしていた。
顔色は戻っている。
黒紫色の魔力もない。
「大丈夫ですか?」
「あ……ああ……」
男はシュウを見る。
「あなたが……?」
「話はあとで。どこか痛いところは?」
「ない……」
男は自分の手を見る。
「何も……痛くない」
成功した。
シュウの肩から力が抜ける。
その直後。
地面の下で何かが動いた。
大きい。
これまでとは比較にならない。
「……っ!」
シュウは立ち上がる。
『アルカディア!』
《広域異常魔力反応!》
黒紫色の魔力が地下を走る。
男から離れていく。
北へ。
いや。
「逃げてる?」
《移動方向、北北東》
黒い根も次々に地面へ引っ込んでいく。
一本。
二本。
三本。
すべて。
森が静かになる。
シュウは北北東を見る。
木々しかない。
それでも魔力知覚には分かる。
地下の何かが遠ざかっていく。
「追うな」
ローデリックの声がした。
シュウは父を見る。
「でも」
「追うな」
もう一度。
「今日は救助だ」
シュウは口を閉じる。
そうだった。
原因を追わない。
調べすぎない。
全員で帰る。
「……うん」
北北東へ向けていた身体を戻す。
男はまだ地面へ座っている。
新しい救助対象が一人増えた。
「名前を聞いても?」
ローデリックが男へ尋ねる。
「はい……」
男はまだ混乱している様子だったが、ゆっくり答えた。
「エドガーです。エドガー・レム……木こりをしています」
「どこの村だ?」
「北の……リース村です」
ハインツの表情が変わる。
「リース村?」
「知ってるの?」
シュウが尋ねる。
「北部森林を挟んだ向こう側にある小村です。ここからなら、森を抜けてもかなり距離があります」
エドガーが頷く。
「三日前……森に入って……」
「三日前?」
ガレスが驚く。
自分たちは昨日だ。
「何があった?」
ローデリックが尋ねる。
エドガーは両手で頭を押さえた。
「分からない……途中から……覚えてない」
「最後に覚えていることは?」
「木を切ってました。いつもの場所で……それで……」
眉間へ深い皺が寄る。
「音がした」
シュウの胸がざわつく。
「地面の下から?」
「違う」
エドガーは首を振った。
「もっと遠くから」
「どっち?」
男は震える指を上げた。
北北東。
さっき黒紫色の魔力が逃げていった方向。
「森の奥から……鐘みたいな音がしたんです」
誰も言葉を挟まない。
「一回だけ。それを聞いたあと、木が……」
「黒くなった?」
「いいえ」
エドガーの顔に恐怖が戻る。
「開いたんです」
意味が分からなかった。
「木が?」
「幹が、真ん中から」
エドガーは自分の胸の前で両手を左右へ開いた。
「扉みたいに」
シュウの頭へ、見張り小屋の地下にある石扉が浮かんだ。
しかし同じものとは限らない。
「中に何があった?」
エドガーの唇が震える。
「階段です」
森の奥。
開いた木。
その中に下へ続く階段。
「そこから……黒い霧が出てきた」
風が木々を揺らした。
久しぶりに戻ってきていた鳥の声が、どこか遠くで聞こえる。
森は少しずつ元へ戻っているように見える。
けれど。
地下の異常魔力は北北東へ逃げた。
その先には、エドガーが見たという場所がある。
そして自分たちの背後には、アルヴェインの名が刻まれた石扉が眠っている。
「父さん」
「ああ」
「増えたね」
「何がだ」
「調べなきゃいけないこと」
ローデリックはしばらく黙ったあと、深く息を吐いた。
「お前はそういうときだけ嬉しそうな顔をするな」
「してないよ」
「している」
「怖いのも本当だから」
「なら、その怖さも忘れるな」
父は北北東へ一度だけ目を向けた。
「全部、帰ってからだ」
シュウも頷いた。
学院へ出発するはずだった日の直前。
北部森林で始まった異変は、ようやく弱まり始めた。
救助するはずだった二人は見つかった。
途中で新たな一人も助けた。
誰も失わずに済んだ。
それでも事件は、終わるどころか輪郭すらまだ見えていない。
見張り小屋の地下にある、アルヴェインの名を刻んだ石扉。
シュウへ「帰ってきた」と告げた白い魔力。
北北東へ逃げた黒紫色の異常魔力。
そして森の奥で、扉のように開いた木と、その中に現れた地下への階段。
シュウはそれらを頭の中で並べかけ、途中でやめた。
今考えても、材料が足りない。
だからまず帰る。
それでいい。
「行こう」
今度はシュウから言った。
ローデリックが頷き、ハインツが隊列を整える。
救助隊はエドガーを新たに中央へ加え、再び旧西監視路の出口を目指して歩き始めた。
しばらく進むと、木々の向こうから馬のいななきが微かに聞こえた。
待機していた騎士たちがいる。
森の出口は、もう近い。
その音を聞いた瞬間、シュウは自分でも気づかないうちに長く息を吐いていた。
帰れる。
全員で。
そう思えたことが、今は何より嬉しかった。




