第8話 助けるために、近づけない
「全員、待って!」
シュウの声が、開け放たれた見張り小屋の扉から薄暗い室内へ響いた。
先ほどまでガレスとミーナのもとへ駆け寄ろうとしていた騎士たちが、その場で足を止める。ハインツも扉から半身を入れた姿勢のまま動きを止め、すぐ後ろまで来ていたローデリックは息子の声色からただ事ではないと察したらしく、理由を問いただすより先に周囲へ鋭い視線を走らせた。
小屋の中には、二人の人間が倒れている。
壁際に座り込むような姿勢で意識を失っている大柄な男が、おそらくガレスだ。右肩には血の染みた布が巻かれており、そのすぐそばではミーナと思われる女性が横向きに倒れている。彼女の脚にも応急処置らしい布が巻かれていた。
二人とも生きている。
それはアルカディアが確認している。
けれど、その二人のすぐ下。
古びた床板の向こう側に、シュウはこれまでより濃い黒紫色の魔力を感じていた。
「床の下にいる」
シュウは声を抑えながら告げた。
「昨日の根と同じような魔力。でも、ここまで来る途中で見たものより濃い」
ハインツは足元へ視線を落としたものの、当然ながら床板の下までは見えない。彼は一歩だけ後ろへ下がり、扉の外へ身体を戻した。
「動いていますか?」
「少し」
シュウは小屋から目を離さないまま答える。
魔力知覚へ意識を集中すると、床板越しでも黒紫色の反応が分かった。
一本の根がある、という単純な形ではない。
何かが床下の一点に集まっている。
そこから細いものが何本か伸び、また引っ込み、別の方向へ動いているように感じられた。
『アルカディア。もっと詳しく分からない?』
《解析を継続しています。床下の異常魔力反応は複数の細長い構造を形成しています》
『やっぱり根?』
《形状のみを基準とするなら類似しています。ただし、直接観測できていないため断定は推奨しません》
『二人と繋がってる?』
シュウが最も知りたかったことだった。
返答までに僅かな間がある。
《対象者二名の体内に異常魔力反応があります。しかし現時点では、床下反応との直接的な接続を確認できません》
『じゃあ、ディーンさんのときみたいに繋がってるわけじゃない?』
《確認できない、という回答です。接続されていないと断定したわけではありません》
『……分かった』
こういうところでアルカディアは曖昧な安心を与えてくれない。
今はその方がありがたかった。
分からないものを大丈夫だと思い込む方が怖い。
「シュウ?」
ローデリックが呼ぶ。
「何か分かったか?」
「床下に、根みたいな細長い反応がいくつかある。でも、本当に根なのかはまだ分からない。それと、二人の中にも黒い魔力がある」
「床下と二人は繋がっているのか?」
「そこも分からない。今は繋がってるのを確認できないだけ」
ローデリックは息子の言葉を聞き、すぐにハインツを見る。
「誰も中へ入れるな」
「承知しました」
ハインツが後方の騎士へ手で合図する。
小屋の左右を警戒していた騎士たちも、扉へ近づきすぎない位置まで戻った。
シュウは唇を噛みそうになり、意識して力を抜いた。
二人は目の前にいる。
数歩進めば届く。
《生命回帰》を使えば治せる可能性も高い。
なのに近づけない。
昨日の街道でディーンを見つけたときもそうだった。
倒れている人間が見えているのに、周囲の黒い魔力が邪魔をして、すぐには触れられなかった。
あのときは風の銃があった。
遠くから風を操り、ディーンを引き寄せることができた。
今はない。
《心装武器》を選んでいない。
さっき黒い根が飛び出したとき、反射的に「転装、光」と叫んで何も起こらなかったことを思い出し、こんな状況なのに僅かに頬が熱くなる。
あれは忘れたい。
できれば同行している全員にも忘れてほしい。
《マスター》
『何?』
《先ほどの無効な転装命令について、記録を――》
『今それを言うな』
《承知しました》
本当に性格が悪くなっている気がする。
ただ、そのやり取りのおかげで焦りが僅かに薄れたのも事実だった。
シュウはもう一度小屋を見る。
ガレス。
ミーナ。
まず、助ける方法を考える。
「ハインツさん。縄で引っ張るのは?」
「可能ではありますが、誰かが縄を二人へ結ばなければなりません」
「そっか……」
風の銃なら、その部分まで風で何とかできたかもしれない。
今はできない。
「長槍で服を引っかけるのは危険ですな。傷を悪化させる可能性があります」
ハインツは扉の位置から二人までの距離を測るように目を細めた。
「ガレス殿までは五歩か六歩。ミーナ殿はさらに少し奥です。床が安全なら簡単なのですが」
「その床が分からないんだよね」
「ええ」
答えながら、ハインツは悔しそうに奥歯を噛んだ。
目の前に救助対象がいる。
騎士である彼にとっても、動けないことは相当に歯痒いのだろう。
「小屋の外側から床下を確認できないか?」
ローデリックが周囲を見る。
「建物が浮いていれば隙間から見えるかもしれん」
「確認します。ただし壁際へ近づく前に、シュウ様に異常を見ていただいた方がよろしいでしょう」
「そうだな」
ハインツは騎士二人へ指示を出し、小屋の外周を調べる準備を始めた。
シュウも扉の前から少し離れ、建物全体を見る。
そこで改めて、奇妙さを感じた。
森の中に残された古い小屋。
壁は色褪せ、屋根の一部には苔が生えている。何年も本格的な補修を受けていないことは、建築に詳しくないシュウにも分かった。
それなのに、この小屋の周囲だけ黒い木がない。
黒紫色の異常魔力も薄い。
代わりに、白に近い淡い魔力が建物の周辺へ残っている。
強力な結界のようには見えない。
むしろ消えかけている。
長い時間をかけて薄くなり、それでも完全には消えていない何か。
『アルカディア。白い方、やっぱり分からない?』
《既知の魔法体系との照合を継続しています》
『この世界の魔法全部知ってるわけじゃないもんな』
《はい。私はマスターが前世において記述した情報を基礎として成立しています。この世界固有の歴史、魔法体系、古代技術について完全な知識を有しているわけではありません》
『そこは期待してないよ』
《ありがとうございます》
『褒めてないけど』
《理解しています》
シュウは少しだけ眉を寄せた。
アルカディアは強い。
自分へ与えられた能力も、今のところ常識外れとしか言いようがない。
それでも何でも知っているわけではない。
この森で起きていることについては、シュウたちと同じように観察して考えるしかない。
それが妙に安心できた。
もしアルカディアが何もかも知っていて、聞けば答えが出てくる存在だったなら、自分はきっと考えることをやめてしまう。
「シュウ様」
小屋の左側へ回ろうとしていた騎士が呼んだ。
「こちらはどうでしょう?」
「待って」
シュウはその方向を見る。
小屋から三メートルほど離れた場所までは、黒紫色の魔力は薄い。
それより外へ行くと、地面の下に細い反応がある。
「壁沿いなら大丈夫そう。でも、そこから二メートルくらい外には出ないで」
「了解」
騎士は慎重に進んだ。
もう一人は反対側へ回る。
シュウは左右を交互に確認しなければならず、自然と呼吸が浅くなった。
右は大丈夫。
左も今は動いていない。
床下の濃い反応は?
まだある。
ガレスとミーナは?
動かない。
生きていると分かっていても、意識がないままなのは不安だった。
「左側、床下が見えます!」
騎士の声が上がった。
全員の注意がそちらへ向く。
小屋は地面へ直接建てられているわけではなく、石を基礎にして床が僅かに持ち上げられているらしい。長い年月で土が積もり、外からはほとんど隙間が見えなくなっていたが、一部だけ土が崩れて床下を覗ける場所があった。
「何が見える?」
ハインツが尋ねる。
「暗くてよく……魔力灯を使います」
「待て」
ローデリックが止める。
「シュウ。光を入れて問題は?」
「確認する」
『アルカディア』
《白色魔力と黒紫色異常魔力の双方について、通常の魔力灯光に対する危険反応は現時点で予測されません。ただし保証はできません》
「絶対とは言えないけど、昨日は光属性で黒い方を抑えられた。普通の魔力灯なら大丈夫だと思う」
「なら、直接手を入れずに照らせ」
騎士が長槍の先端近くへ魔力灯を括り付ける。
その場にいる誰も、もう素手で何かへ近づけようとはしない。
灯りが隙間へ差し込まれた。
「……これは」
騎士の声が低くなる。
「何がある?」
「根です。かなりあります」
シュウの背中に冷たいものが走った。
「黒い?」
「はい。ただ……」
騎士は顔をさらに低くして覗き込む。
「小屋の真下へ入っているものと、入っていないものがあります」
「どういうことだ?」
「太い根は外側にあります。そこから細い根が何本も小屋の下へ伸びていますが……途中で止まっているように見えます」
シュウは小屋を包む淡い白の魔力を見る。
黒い根が入ってこない。
ディーンが言っていたことと一致する。
だが、床下には黒紫色の高密度反応がある。
「止まってる根と、俺が見えてる魔力の場所が違うのかな」
『アルカディア。床下の黒い反応、根そのもの?』
《再解析します》
シュウは待つ。
その間に右側を確認していた騎士からも報告が入る。
「こちらにも根があります。ただし、やはり小屋の中心までは入っていません」
ローデリックが顎へ手を当てる。
「なら、シュウが感じている床下の反応は何だ?」
「分からない」
シュウは正直に答えた。
「でも、かなり濃い」
《マスター》
『分かった?』
《床下反応の一部について、形状解析が完了しました》
『根じゃない?』
《根状構造ではありません》
胸が嫌な音を立てた気がした。
『じゃあ何?』
《液状、あるいは半流動性物質へ異常魔力が高密度に蓄積している可能性があります》
「……液体?」
思わず声に出した。
ローデリックが振り返る。
「何だ?」
「床の下にある濃いやつ、根じゃないみたい。液体か、それに近いものに黒い魔力が溜まってるかもしれないって」
「昨日、根を切ったときに出た黒い液体か?」
「似てる可能性はある」
小屋の中を見る。
床板。
その下に黒い液体が溜まっている。
もしそうなら。
「床、壊したらまずいかも」
シュウが言う。
「下に溜まってるものが出てくるかもしれない」
「なら床板は触らない」
ローデリックは即座に決めた。
「救助する二人も、引きずって床を傷つける方法は避ける」
ハインツが腕を組む。
「となると、人が中へ入って抱えて出るしかありませんな」
「でも、中に入って大丈夫なの?」
シュウが尋ねる。
「危険がないとは言えん」
ローデリックの返答は厳しかった。
「だから確認している」
焦るな。
また、その言葉が頭へ浮かぶ。
二人は生きている。
今この瞬間にも治療を必要としているかもしれない。
それでも、安全確認を飛ばして救助者まで倒れたら意味がない。
「白い魔力が黒い根を止めてるなら、小屋の中はむしろ外より安全なのかな」
シュウが呟く。
「可能性はありますな」
ハインツが答える。
「ディーン殿たちも、それでここへ逃げ込んだのかもしれません」
「本人たちは知らなかったみたいだけどね」
「偶然であっても、助けられたのならありがたいことです」
シュウはもう一度、白い魔力を見る。
建物全体を包むほど綺麗な結界ではない。
壁。
床。
柱。
ところどころに染み込んでいる。
「……建物そのもの?」
「何か分かったか?」
「白い魔力、外側に壁みたいに張ってあるんじゃない気がする」
シュウは近くの柱を見る。
「木の中に残ってる」
ローデリックも柱へ目を向ける。
「建材に?」
「たぶん」
『アルカディア』
《マスターの認識を支持します。淡色魔力は建物を構成する複数の木材内部に残留しています》
「小屋を作った木そのものに魔力が残ってるみたい」
ハインツが眉を寄せる。
「魔力を帯びた木材……魔木でしょうか?」
「この辺りで使われるものか?」
ローデリックの問いに、ハインツは首を振った。
「少なくとも現在のアルヴェイン領では、見張り小屋へ使うようなものではありません。魔木は加工にも金がかかります」
「なら、昔は違ったのかもしれん」
ローデリックはそれ以上追わなかった。
今調べても答えは出ない。
シュウも気になる気持ちを押さえた。
小屋が何なのかはあとでいい。
「俺、中に入る」
シュウが言った。
すぐに複数の視線が集まった。
「駄目だ」
ローデリックの返事は早かった。
「でも、二人を治すなら俺が近づかないと」
「《生命回帰》は接触しなければ使えないのか?」
「絶対じゃない。でも初めて森の中で使うし、アルカディアは触れた方がいいって」
「なら、安全を確認してからだ」
「どうやって?」
少し強い声になってしまった。
シュウ自身、それに気づいた。
ローデリックも怒らない。
ただ、息子を見る。
「シュウ」
「……ごめん」
「謝る必要はない。焦っているんだろう」
その言い方が余計に効いた。
シュウは小屋の中を見る。
ガレスの胸は、よく見れば僅かに上下している。
ミーナも生きている。
近くにいる。
手が届きそうなのに。
「早く治したい」
「ああ」
「二人とも、ディーンさんより長く森にいる」
「ああ」
「黒い魔力も入ってる」
「分かっている」
ローデリックは否定しない。
だからシュウも続けられた。
「もし、待ってる間に悪くなったらって思うと……」
言葉がそこで止まった。
父は少しだけ黙った。
森の風が小屋の壁へ当たり、古い板が小さく軋む。
「その気持ちは忘れるな」
ローデリックが言った。
「だが、その気持ちだけで動くな」
シュウは父を見る。
「昨日、俺がお前へ言ったことを覚えているか?」
「強い力があるからって、何にでも使えばいいわけじゃない」
「それもある」
ローデリックは小屋へ視線を戻した。
「助ける側が倒れれば、助けられる人間まで減る。俺たちは二人を救うために来た。三人目の救助対象を増やすためではない」
「三人目って俺?」
「お前以外に誰がいる」
「ハインツさんかもしれない」
「私を巻き込まないでいただきたい」
ハインツが真顔で返した。
シュウは思わず口元を緩めた。
それだけで、胸の中の焦りが少し薄くなる。
「分かった。勝手に入らない」
「それでいい」
ローデリックが頷いた。
ハインツは小屋の中をもう一度確認する。
「まず、入口から床を調べます。長槍で軽く圧をかけ、強度と異常反応を確認する。問題がなければ私が入ります」
「俺が見てる」
「お願いします」
ハインツが長槍を持つ。
刃先ではなく石突きを使い、入口すぐ内側の床板を軽く押した。
軋む。
シュウは床下を見る。
「今は変化なし」
次の板。
「大丈夫」
さらに一枚。
小屋は古いが、床が腐り落ちるほどではない。
少しずつ。
本当に少しずつ進む。
シュウには、それがひどく長く感じられた。
あと数歩。
それだけなのに。
「次」
ハインツがガレスへ近づく。
床板を押す。
その瞬間だった。
黒紫色の魔力が揺れた。
「止まって!」
ハインツが動きを止める。
床下。
液体のような反応が、ゆっくり移動している。
ガレスの真下から。
ミーナの方へ。
「動いてる」
「こちらへ?」
「違う。二人の下を移動してる」
シュウは息を詰める。
何をしている?
『アルカディア』
《異常魔力反応の移動を確認》
『二人に入ってる魔力は?』
《変動あり》
『増えてる?』
《ミーナ氏の体内反応が微増》
「ミーナさんの中の黒い魔力が増えてる!」
空気が一気に張り詰めた。
「床下からか?」
「分からない。でも、床下のやつがミーナさんの近くへ動いたのと同時!」
ローデリックの表情が変わる。
慎重に確認する時間が、無限にあるわけではない。
安全を確かめている間にも、救助対象の状態は変わる。
「ハインツ」
「はい」
「入れ。ただしミーナだけだ。抱えてすぐ出ろ」
「承知!」
判断が下された瞬間、ハインツは迷わなかった。
確認済みの床だけを踏み、ミーナのもとへ進む。
シュウは魔力を見続ける。
「右は大丈夫! そのまま!」
ハインツが女性のそばへ膝をつく。
首へ指を当てる。
「脈あり! 呼吸もあります!」
「持ち上げて!」
シュウの声が少し震えた。
ハインツがミーナの背中と膝裏へ腕を入れる。
そこで一瞬止まった。
「脚の傷が深い」
「治せる!」
「分かりました」
女性の身体を抱き上げる。
その瞬間。
床下の黒紫色の魔力が大きく動いた。
「来る!」
シュウが叫ぶ。
小屋の床板が下から一度だけ持ち上がった。
ドン、と鈍い音が響く。
ハインツが振り返らず入口へ向かう。
二歩。
三歩。
もう一度、床が鳴った。
今度は一枚の板に亀裂が入る。
「急いで!」
騎士二人が入口へ寄る。
ただし中には入らない。
ハインツが最後の一歩を踏み、ミーナを抱えたまま小屋の外へ出た。
「離れろ!」
ローデリックの指示で全員が小屋から距離を取る。
十メートル。
十五メートル。
淡い白の魔力が残る範囲ぎりぎりまで下がったところで、ハインツがミーナを地面へ横たえた。
「シュウ!」
「うん!」
今度は止められない。
治すために安全な場所へ連れ出したのだ。
シュウは女性のそばへ膝をついた。
近くで見ると、ミーナは二十代後半ほどに見えた。土と汗で顔は汚れ、額には乾いた血がついている。呼吸は浅く、右脚へ巻かれた布は血で黒ずんでいた。
それ以上に問題なのが、黒紫色の魔力だった。
ディーンより多い。
脚から腹部へ。
細い糸のような魔力が何本も入り込んでいる。
「ミーナさん」
呼びかける。
反応はない。
「聞こえますか?」
瞼も動かない。
『アルカディア。状態は?』
《生命活動低下。右下腿部に裂傷。出血による衰弱、軽度の脱水を確認。異常魔力汚染はディーン氏救助時より高濃度です》
『治せる?』
《《生命回帰》の適用対象です》
それだけで十分だった。
シュウはミーナの手へ触れる。
冷たい。
ディーンのときより明らかに冷えている。
胸が締めつけられる。
それでも慌てない。
呼吸を整える。
自分が失敗したら困る。
発動句は、もう分かっている。
恥ずかしいかどうかを考える余裕はなかった。
「失われしものよ、命ある限り本来の姿へ還れ。傷も穢れも我が前に留まることを許さない――《生命回帰》」
白緑色の光が溢れた。
森の薄暗さの中で、柔らかな光がミーナの身体を包む。
周囲の騎士たちが息を呑む。
ハインツも、初めて間近で見る力から目を離さなかった。
光が右脚へ集まる。
血で濡れていた布の下。
裂けていた肉が閉じていく。
失われた血液による衰弱が戻る。
乾いていた唇へ僅かに色が戻る。
そして黒紫色の魔力が、白緑色の光に触れた場所から消えていく。
『アルカディア』
《異常魔力反応、低下中》
一本。
また一本。
身体の奥に入り込んでいた黒い糸が消える。
最後に腹部付近へ残っていた小さな反応が消失した。
《異常魔力反応、消失。生命活動正常化》
シュウは息を吐いた。
光が収まる。
「ミーナさん?」
もう一度呼びかける。
今度は違った。
女性の眉が僅かに動く。
ゆっくり瞼が開いた。
「……ん……」
「聞こえますか?」
焦点の合わない目が、シュウを見る。
「ここ……」
「見張り小屋の外です。助けに来ました」
ミーナは何度か瞬きをした。
その目が周囲を動く。
騎士。
ローデリック。
ハインツ。
そして。
「……ガレス」
掠れた声だった。
シュウの胸が詰まる。
「まだ小屋の中です」
ミーナの目が大きく開いた。
「だめ……!」
起き上がろうとする。
「待って!」
シュウが肩を支える。
身体そのものは《生命回帰》で回復している。
それでも、目覚めたばかりで混乱している。
「ガレスが……下に……!」
「分かってる。床の下に何かいるんですよね?」
「違う……」
ミーナの指がシュウの腕を掴んだ。
力が強い。
治療が成功している証拠でもある。
けれど、その顔には安堵などなかった。
「下じゃない」
「え?」
「小屋の……下じゃない」
ミーナは息を整えようとする。
ローデリックも近づいた。
「落ち着いて話せ。何を見た?」
女性は何度か呼吸し、震える声で答えた。
「床の下から……来たんじゃないんです」
シュウは小屋を見る。
床下には今も黒紫色の魔力がある。
「じゃあ、どこから?」
「ガレスが……見つけたんです」
ミーナの視線が、小屋の中へ向いた。
「あの小屋……床の下に、古い扉があるんです」
誰もすぐには言葉を返さなかった。
シュウは理解するまで数秒かかった。
「扉?」
「はい……」
「地下室ってこと?」
「分かりません」
ミーナは首を振る。
「私たちも、最初は床板が外れただけだと思って……でも、その下に石の蓋みたいなものがあって……ガレスが、文字を見つけて……」
「開けたのか?」
ローデリックの声が低くなる。
「開けてません」
ミーナは強く首を振った。
「開かなかったんです。ガレスとディーンが二人で動かそうとしても、びくともしなかった。それに、あの黒い根が小屋に入ってこなかったから……ここなら安全だと思って……」
彼女の手が震えた。
「でも、夜になってから……扉の向こうで音がしたんです」
森の空気が冷えたように感じた。
「どんな音?」
シュウが尋ねる。
ミーナは答える前に、小屋の床を見つめた。
「叩く音です」
風が止んだ。
少なくともシュウには、そう感じられた。
「下から、ずっと……ゆっくり」
ミーナの指が、自分の膝の上で動いた。
一度。
間を置いて。
もう一度。
「最初はガレスが、根が床へ当たってるだけだって言いました。でも違った。根は小屋の中へ入ってこなかったから」
「そのあと黒い霧が?」
ローデリックが確認する。
「はい。でも、霧は扉から出たんじゃありません。壁の隙間から入ってきました。だから……私たちも、森の外から来てるんだと思ってました」
ディーンの証言と矛盾しない。
彼は黒い霧が壁の隙間から入ってきたと言っていた。
だが、その前から床下で音がしていた。
「ガレスさんは、なんで中に残ってるんですか?」
シュウが尋ねる。
ミーナの顔が歪んだ。
「私を……庇ったから」
その一言だけで終わらせず、彼女は震える息を整えながら続けた。
「夜中に床の一部が割れたんです。そこから黒いものが出てきて、私の脚に絡んで……ガレスが切ってくれました。でも、今度はガレスの肩に刺さって……」
右肩の傷。
ディーンから聞いていたものだ。
「ディーンが一人で外へ知らせに行くって言ったとき、ガレスはまだ動けてました。私は脚が駄目で……だから二人でここに残ったんです」
「そのあと?」
「朝なのか夜なのか、途中から分からなくなりました」
ミーナは目を閉じた。
「ガレスが何度も起こしてくれた。でも、だんだん声が聞こえなくなって……最後に覚えてるのは、床の下からまた音がして……ガレスが私を壁の方へ引っ張って……」
そこで記憶が途切れているらしい。
シュウは小屋を見る。
中にはガレスが残っている。
そして床下には、黒紫色の高密度反応。
「ガレスさんを出さないと」
「ああ」
ローデリックも否定しなかった。
ただし、その顔は先ほどより険しい。
「だが、今の話で床下の危険がはっきりした」
「でも、ガレスさんは生きてる」
「分かっている」
「なら――」
シュウが続けようとしたとき。
音がした。
全員が止まった。
小屋の方から。
ゴン。
古い木材が軋む音とは違う。
もっと重い。
下から何かが当たったような音。
ミーナの顔から血の気が引く。
「……これ」
誰も動かない。
数秒。
もう一度。
ゴン。
小屋の床下。
シュウには黒紫色の魔力が動くのが見えた。
『アルカディア』
《床下高密度反応、増大》
ガレスはまだ中にいる。
「ハインツさん」
「分かっています」
副長が長槍を握り直す。
ローデリックが止めるより先に、ハインツは言った。
「今度は私一人では運べません。ガレス殿は体格が大きい。補助が必要です」
「俺が行く」
騎士の一人が前へ出る。
ローデリックは二人を見る。
「床が割れ始めたら、ガレスを置いてでも出ろ」
厳しい言葉だった。
ミーナが息を呑む。
シュウも父を見る。
ローデリックは表情を変えない。
「助けるために行かせる。二人追加で失うためではない」
誰も反論できなかった。
ハインツと騎士が小屋へ向かう。
シュウは魔力を追う。
「入口までは大丈夫!」
二人が入る。
確認済みの床を進む。
ガレスのところまで。
床下の黒い反応が動く。
「急いで!」
ハインツがガレスの上半身を抱える。
騎士が脚を持つ。
大柄な男の身体が床から持ち上がった。
ゴン。
音がする。
今度は大きい。
床板の一枚が浮いた。
「来る!」
二人が入口へ向かう。
床板が持ち上がる。
隙間から黒いものが見えた。
根ではない。
黒い液体。
粘つくようなそれが、板の隙間から僅かに盛り上がる。
「走れ!」
ハインツたちがガレスを抱えたまま外へ飛び出す。
その直後。
小屋の床が内側から大きく持ち上がった。
何枚もの板が外れる。
しかし、飛び散らない。
途中で止まった。
白い光。
淡い。
これまで建物へ染み込んでいるだけだった魔力が、初めてはっきりと光った。
柱。
壁。
床。
小屋全体に白い筋が走る。
黒い液体が押し戻される。
「……結界?」
シュウが呟く。
《類似反応を確認。しかし一般的な結界術式とは構造が異なります》
アルカディアにも分からない。
ハインツたちはガレスを安全な場所まで運んだ。
「シュウ様!」
「今行く!」
シュウはガレスへ駆け寄る。
男の顔色はミーナ以上に悪い。
右肩の布は黒く染まり、その周囲から首筋へ向けて黒紫色の線が広がっている。
『状態は?』
《生命活動低下。異常魔力汚染、高度。右肩部損傷。複数の内臓機能に低下を確認》
『治せる?』
《生存を確認しています。《生命回帰》適用可能》
その答えに迷いはなかった。
シュウはガレスの左手を握る。
冷たい。
けれど、生きている。
「失われしものよ、命ある限り本来の姿へ還れ。傷も穢れも我が前に留まることを許さない――《生命回帰》」
白緑色の光が広がった。
今度は誰も驚きの声を上げなかった。
全員がガレスを見ている。
光が肩へ集まる。
黒い線が消えていく。
傷が閉じる。
身体の奥に入り込んでいた異常魔力が、一つずつ白緑色の光へ溶けていった。
シュウは治療へ集中する。
焦らない。
最後まで。
《異常魔力反応、消失》
アルカディアの声が届く。
《生命活動、正常化》
シュウはようやく息を吐いた。
「ガレスさん?」
男の瞼が僅かに動く。
ゆっくり開いた。
「……ここは……」
「見張り小屋の外です」
シュウが答える。
「ディーンさんは領都に戻ってます。ミーナさんもここにいる」
「ミーナ……?」
「ガレス!」
少し離れたところからミーナの声がした。
治療直後だからと騎士に止められていた彼女が、今にもこちらへ来そうな顔をしている。
ガレスはその姿を見た。
目を閉じる。
長く息を吐いた。
「……よかった」
その声には、力がなかった。
けれど安堵だけははっきり伝わった。
シュウも少し笑った。
「二人とも助けられました」
言葉にした瞬間、胸の奥にあったものがようやく少し軽くなった。
今日の目的。
ガレスとミーナを助ける。
達成した。
なら、あとは帰る。
原因を追わない。
小屋の下に何があるとしても、今日は調べない。
そのはずだった。
「……男爵様」
ガレスが掠れた声を出した。
ローデリックが近づく。
「無理に話すな。身体は治っているらしいが、目覚めたばかりだ」
「いえ……今、言わないと……」
ガレスは身体を起こそうとした。
シュウとハインツが支える。
「小屋の下の……石の扉」
「ミーナから聞いた」
「違うんです」
ガレスの呼吸が少し速くなる。
「俺たちが見つけたときは……文字があった」
「文字?」
「古くて、読めなかった。でも……さっき」
ガレスが小屋を見る。
白い光はすでに弱くなっている。
「意識がなくなる前……あれが光ったとき、一つだけ読めたんです」
シュウは何も言わず続きを待った。
ガレスの喉が動く。
「アルヴェイン」
ローデリックの表情が変わった。
「何?」
「扉に……そう書いてありました」
森の中に残された古い見張り小屋。
黒い根を拒む、正体不明の白い魔力。
その床下に隠された石の扉。
そして、そこに刻まれていたという名前。
アルヴェイン。
シュウは父を見る。
ローデリックも小屋を見つめていた。
けれど、その顔に答えを知っている様子はなかった。
「父さん……知ってる?」
「知らん」
返事はすぐだった。
「少なくとも、俺はこの場所について何も聞かされていない」
ローデリックはしばらく小屋を見つめたあと、視線を救助隊へ戻した。
「だが、予定は変えない」
シュウは目を瞬いた。
「調べないの?」
「今日はな」
父の声には迷いがなかった。
「二人を助けた。なら帰る。小屋の下に何があるのか、なぜアルヴェインの名が刻まれているのかは、準備を整えてから調べればいい」
シュウはもう一度、小屋を見る。
知りたい。
ものすごく知りたい。
自分の家名が、どうしてこんな場所の地下にあるのか。
白い魔力は何なのか。
黒い異常と関係があるのか。
十四歳のころの自分なら、間違いなく今すぐ扉を開けに行っただろう。
いや、十七歳の今でも行きたい。
けれど。
「……うん」
シュウは小屋へ向いていた身体を戻した。
「帰ろう」
《賢明な判断です、マスター》
『アルカディアに褒められるとなんか腹立つな』
《では、訂正します》
『しなくていい』
胸の中で返しながら、シュウはガレスのそばへ置かれた担架へ手を伸ばした。
救助は終わった。
謎は増えた。
それでいい。
少なくとも今日は。
ところが、騎士たちが撤収の準備を始めた、そのときだった。
シュウの視界の端で、小屋を包んでいた白い魔力が僅かに揺れた。
「……ん?」
振り返る。
誰も触れていない。
小屋の中へも、もう誰もいない。
それでも白い光は、壁から柱へ、柱から床へと細く流れている。
まるで何かを確認するように。
やがて、その一部が小屋の入口から外へ伸びた。
地面を這う。
ほんの一筋。
シュウの方へ。
「父さん」
ローデリックも気づいた。
「動くな」
シュウは止まる。
白い光が近づいてくる。
黒紫色の魔力とは違う。
怖さよりも、どこか懐かしいような感覚があった。
理由は分からない。
光がシュウの靴先まで届く。
『アルカディア』
《警戒しています》
『危ない?』
《敵性反応は検出していません。ただし未知の魔力です》
シュウは動かなかった。
白い光が靴へ触れる。
その瞬間。
胸の奥。
アルカディアがいる場所とは少し違うところで、何かが小さく脈打った。
「っ……」
「シュウ!」
「大丈夫!」
痛くない。
苦しくもない。
ただ。
頭の中へ、一つの音が届いた。
声なのかどうかも分からない。
言葉として聞こえたわけではない。
それでも、なぜか意味だけは理解できた。
――帰ってきた。
シュウは目を見開いた。
白い光はすぐに靴から離れ、小屋へ戻っていく。
「シュウ、何があった?」
ローデリックが肩を掴む。
「今……」
シュウは答えようとして、止まった。
聞き間違いかもしれない。
自分の思い込みかもしれない。
『アルカディア。今の、分かった?』
返事がない。
『アルカディア?』
数秒後。
《……はい》
いつもの即答ではなかった。
『何だった?』
《言語情報としては取得していません》
『でも、何か感じた?』
《はい》
アルカディアが少しだけ間を置く。
《私にも、同一の意味情報が伝達されました》
シュウの喉が乾く。
『何て?』
《「帰ってきた」と》
同じだった。
偶然ではない。
「シュウ?」
父がもう一度呼ぶ。
シュウは小屋を見た。
古びた壁。
傷んだ屋根。
その下にある、アルヴェインの名が刻まれた石の扉。
「……帰ってきたって」
「何?」
「今の光に触れたとき、そう感じた」
ローデリックの手が、シュウの肩の上で止まった。
ハインツも黙っている。
森は相変わらず静かだった。
鳥の声はない。
遠くに黒い木が立ち、地面の下には正体不明の異常魔力が広がっている。
それでも、小屋だけは白い魔力に守られていた。
そして、その場所はシュウへ告げた。
帰ってきた、と。
けれどシュウには、この小屋へ来た記憶など一度もなかった。




