第7話 いつもの森が、いつもの森ではなくなる場所
ディーンの客室を出て玄関広間まで降りてくると、開け放たれた正面扉の向こうから、馬のいななきと騎士たちの声が聞こえてきた。
朝食を取っていたころにはまだ柔らかかった日差しも、今では屋敷前の石畳を明るく照らしている。空はよく晴れ、薄い雲が西から東へゆっくり流れていた。こんな日なら本来、領都の外へ出る人々は天候に恵まれたと喜ぶはずだった。
それなのに、屋敷の前に集まった者たちの表情は硬い。
二頭の馬には荷物が分けて積まれ、その横では騎士が担架の固定具を確認している。別の騎士は長柄の槍を手に刃先を点検し、光属性魔法を扱える二人は魔力を通した小型灯具を腰へ取り付けていた。
七人。
父ローデリック、騎士団副長ハインツ、騎士五人、そしてシュウ。
正確には監視路の入口まで馬を扱う騎士が二人同行するため、屋敷を出る時点ではもう少し人数がいる。しかし森へ入るのは、会議で決めた七人だけだった。
シュウが玄関前へ出ると、ハインツがこちらへ振り返った。
「シュウ様。装備の確認をお願いします」
「分かった」
渡された革製の背負い袋を受け取る。
水。
保存食。
包帯。
止血薬。
厚手の革手袋。
予備の布。
それから小さな魔力灯。
荷物そのものは騎士たちよりかなり軽い。自分も持てると言ったのだが、ハインツから「救助時に動けなくなっては困る」と却下された。
シュウの役割は荷物運びではない。
異常魔力を見つけること。
そして負傷者を治すこと。
胸の奥には、先ほど選択した《生命回帰》の感覚が残っている。
ディーンへ使ったときの白緑色の光と、黒紫色の異常魔力が消えていった光景も鮮明に覚えていた。
『アルカディア。ディーンさん、本当にもう大丈夫なんだよね?』
《直近の確認では異常魔力反応は検出されていません。生命活動も正常範囲です》
『ならよかった』
《ただし、《生命回帰》による治癒後に未知の外部要因から再汚染を受けた場合まで保証するものではありません》
『それはそうだよな』
治したから二度と異常魔力の影響を受けない、という能力ではない。
元の正常な状態へ戻す。
あくまで治療だ。
そこを勘違いしてはいけない。
「シュウ」
母の声に振り返る。
エレノアとレイモンドが玄関から出てきていた。
エレノアの手には小さな布袋がある。
「これを」
「何?」
「追加の食べ物と薬です」
「薬は持ってるよ?」
「こちらはあなた用です」
「俺用?」
「頭痛、腹痛、切り傷、虫刺され。使わないで帰ってくるのが一番ですが、持っていなければ使うこともできません」
布袋を受け取る。
思ったより重い。
「母さん、俺、《生命回帰》使えるんだけど」
「だから何です?」
「いや……自分も治せるんじゃないかなって」
「使える力があるから薬を持たなくていい、という理由にはなりません」
「はい」
反論の余地がなかった。
少し離れたところでローデリックが笑っている。
「父さんも持たされてる?」
「当然だ」
「仲間だね」
「俺は最初から文句を言わず受け取った」
「裏切られた」
緊張していた騎士の一人が小さく笑った。
その声を聞いて、シュウも少し肩の力が抜ける。
けれど、エレノアは笑ったあとも息子から目を離さなかった。
シュウの外套の襟を直し、留め具がきちんとかかっているかを確認する。その手つきは学院へ向かう息子を見送る母親というより、幼いころに森へ遊びに行こうとしていた自分へしていたものとほとんど変わらない。
「シュウ」
「うん」
「昨日から何度も言っていますから、もう同じことは言いません」
「……うん」
「でも、忘れないでください」
母の手が襟元から離れる。
「助けたいと思うことと、自分まで帰らなくていいと思うことは、まったく違います」
シュウはすぐには答えなかった。
昨日、街道で倒れていたディーンを見つけたとき。
巨大な黒い樹木が現れたとき。
夜中にディーンの身体へ異常魔力が流れ込んでいたとき。
そのたびに自分は、何ができるかを先に考えていた。
それ自体が悪いわけではない。
けれど、自分ができるから自分がやる、という考えだけで進めば、いつか引き返せなくなるのかもしれない。
「ちゃんと帰ってくるよ」
シュウは母の目を見て答えた。
「ガレスさんとミーナさんを見つけても、見つけられなくても。今日は帰ってくる」
「約束ですよ」
「うん」
エレノアはようやく頷いた。
今度はレイモンドが近づいてくる。
「俺からは一つだけだ」
「兄さんまで?」
「母上ほど多くは言わん」
そう言ってから、レイモンドはシュウの肩へ手を置いた。
「父上が無茶をしたら止めろ」
「おい」
少し離れたところからローデリックの声が飛んできた。
シュウは思わず笑う。
「了解」
「了解するな」
「でも兄さんから頼まれたから」
「お前たちは俺を何だと思っている?」
「昨日ほとんど寝てないのに『必要な程度には寝た』って言った人」
ローデリックが黙った。
ハインツが口元を押さえている。
「副長。笑っている場合か」
「申し訳ありません、旦那様。ただ、反論がないようでしたので」
「お前まで……」
屋敷前に短い笑いが広がった。
それはほんの僅かな時間だったが、シュウにはありがたかった。
これから向かうのは、昨日まで知っていた森とは違うかもしれない場所だ。
怖さがなくなるわけではない。
だからこそ、出発前まで張り詰め続けるより、この程度の笑いがあった方が呼吸をしやすかった。
やがてハインツが全員を見渡す。
「準備完了しました」
その言葉で空気が切り替わった。
ローデリックが頷く。
「出るぞ」
◇
アルヴェイン家の屋敷を出た一行は、領都の北門を目指した。
石畳の道を進む馬の蹄が、朝の町に規則的な音を響かせる。
普段なら市場へ向かう荷車や、畑仕事へ出る住民の姿が増えてくる時間だ。パン屋からは焼きたての小麦の香りが流れ、通りの端では店先へ品物を並べる商人たちが忙しく手を動かしている。
シュウにとっては見慣れた光景だった。
十七年間暮らしてきた町。
王立魔法学院へ行けば、しばらく離れることになる場所でもある。
ほんの数日前までなら、ここを通るときに考えていたのは学院のことばかりだった。
王都はどんなところなのか。
学院にはどんな生徒がいるのか。
自分の魔法はどれくらい通用するのか。
卒業したら冒険者になって、どこへ行こうか。
それが今は、北門の向こうにある森のことを考えている。
「男爵様?」
道沿いの商店から声が上がった。
店主らしい男が、ローデリックと騎士たちを見て驚いている。
その声につられ、周囲の住民もこちらへ視線を向け始めた。
領主本人と複数の騎士が装備を整えて北へ向かっているのだ。何もないと思う方が難しい。
「何かあったんですか?」
「北の方へ行くみたいだぞ」
「昨日、騎士が何人か出てたって聞いたけど……」
小さなざわめきが広がる。
ローデリックは馬を止めなかった。
ただし、住民を完全に無視もしなかった。
「北部森林で確認したいことがある。現時点で領都に危険が迫っているわけではない。正式な情報は戻り次第知らせる」
必要以上に安心させない。
必要以上に怖がらせない。
それだけを伝える。
住民たちはまだ不安そうだったが、領主自身が落ち着いているためか、騒ぎが急激に広がることはなかった。
シュウは父の背中を見ながら、自分にはできない対応だと思った。
『父さんって、やっぱり領主なんだよな』
《アルヴェイン男爵である以上、当然かと》
『そういう意味じゃないよ』
《理解しています》
『じゃあ言わなくていいだろ』
《会話を継続するためです》
『最近ちょっと性格悪くなってない?』
《設定上、私は「冷静沈着にして主へ時に辛辣な真実を告げる唯一無二の理解者」と――》
『その先はいらない』
《承知しました》
朝から黒歴史を掘り返されそうになった。
危ない。
こんな状況でもアルカディアは平常運転らしい。
北門へ近づくと、門番が一行を見て姿勢を正した。
その脇に、一人の騎士が待っている。
「旦那様!」
昨日から情報確認に回っていた者だ。
「追加報告があります」
「歩きながら聞く」
騎士は一行へ合流した。
「昨夜から今朝にかけて、北部森林から戻った者を確認しました。薬草採取人二名については、今朝屋敷へお連れした方々以外に該当者はいません。ただ、昨日の昼前に旧西監視路の東側から戻った狩人が一人います」
「異常は?」
「本人は黒い木を見ていないとのことです。しかし、一つ気になる証言が」
ローデリックが騎士を見る。
「何だ?」
「森が静かだった、と」
シュウは無意識に手綱を握る指へ力を入れた。
「静か?」
「はい。普段なら鳥や小動物の気配がある区域で、昨日はほとんど鳴き声を聞かなかったそうです。本人は天候か大型魔物の影響だと思い、早めに戻ったと」
ニナは、森へ入った直後には鳥も鳴いていたと言っていた。
時間。
場所。
どちらの違いなのか。
「その狩人が戻ったのは?」
「昼前です」
「ディーンたちが黒い木を見つけたのも、そのころだったはずだ」
ローデリックの声が低くなる。
ハインツも表情を引き締めた。
「異変が広がり始めた時刻と重なっている可能性がありますな」
「まだ決めつけるな。ただの偶然もある」
「承知しております」
シュウは北門を抜けながら、遠くに見える森林へ目を向けた。
朝日を浴びた木々は緑色だった。
ここから見る限り、黒い森などどこにもない。
あの中で何かが起きているとは思えないほど、いつもの景色だ。
だからこそ、気味が悪かった。
◇
領都を出てからしばらくは、畑の間を通る道が続いた。
秋ほどではないが、春の終わりを迎えた畑には青々とした作物が並び、ところどころで農民たちが作業をしている。騎士の一団が通ると手を止める者もいたが、領都から離れるにつれて人の姿は減っていった。
やがて畑が途切れ、草原と低い丘が増える。
北部森林は、そのさらに先に広がっていた。
馬上で揺られながら、シュウは何度も森を見る。
魔力知覚を使っても、まだ異常は感じない。
『アルカディア』
《はい》
『ここからでも何か分かる?』
《通常知覚範囲外です。マスターの恒常魔力知覚も、距離が離れた状態で森林内部の微細な魔力を識別する用途には適していません》
『《万象探知》なら分かった?』
《選択していれば、現在より広範囲かつ高精度の探索が可能でした》
『やっぱ便利だな、それ』
《はい》
選ばなかった能力を惜しいと思う気持ちはある。
だが後悔はしていない。
《生命回帰》でディーンを治せた。
これからガレスとミーナを見つけたときにも、同じように治せる。
何でもできる能力はない。
一つ選べば、一つ諦める。
十四歳の自分が設定した制限なのに、実際に使うと妙に現実的だった。
『そういえば、なんで二十四時間なんだろ』
《記録を読み上げますか?》
『いや、やっぱいい』
《「最強の力を持つ者に必要なのは無限の力ではない。限られた選択肢の中から正解を選ぶ王の判断力――」》
『読んでるじゃん!』
《途中で停止しました》
『止めるなら最初から言うなよ!』
思わず顔をしかめる。
前を走っていたハインツが振り返った。
「どうしました?」
「何でもない」
「腹でも痛みましたか?」
「違う。もっと精神的なやつ」
「でしたら休憩を?」
「大丈夫。本当に大丈夫だから」
ハインツは不思議そうにしながら前へ向き直った。
シュウは小さく息を吐く。
『アルカディア』
《はい》
『帰ったら覚えてろよ』
《私はマスターの魂内に存在するため、帰宅後も常にご一緒しております》
『そういう意味じゃない』
《理解しています》
絶対にわざとだ。
そう確信しながらも、少しだけ緊張が和らいだ。
しかし、それも長くは続かなかった。
森へ近づくにつれ、道の周囲から人の気配が消えていく。
木々が近くなる。
風が枝葉を揺らす音が聞こえる。
森そのものはまだ普通に見えた。
入口付近には黒い木もない。
地面も変色していない。
黒紫色の魔力も感じない。
それでもシュウは、何かが気になった。
「……静かだね」
口にしたのは無意識だった。
ローデリックがこちらを見る。
「お前もそう思うか?」
「うん」
風の音はする。
葉が擦れる音もする。
馬の蹄が土を踏む音も、自分たちの装備が揺れる音も聞こえている。
なのに、それ以外が少ない。
鳥。
虫。
小動物。
森に来たとき当たり前のように聞こえていたものが、ほとんどない。
ハインツが手を上げた。
一行が速度を落とす。
「ここから先が旧西監視路へ続く分岐です」
道の脇に、古びた木製の標識が立っていた。
文字は雨風でかなり薄れているが、シュウにも見覚えがある。
昔、この辺りには小規模な監視所が置かれていた。
魔物の活動が今より活発だった時代、領都へ近づく個体を監視するために使われていたらしい。現在は森の管理が進み、監視所としての役割は終えている。
ディーンたちが避難した古い見張り小屋は、そのころの施設の一つだ。
「ここで馬を残します」
ハインツの指示で全員が降りた。
同行してきた二人の騎士が馬を預かる。
「予定通り、我々が戻るまでここで待機します。異常があった場合は?」
「領都へ戻り報告。一人は可能ならここに残る。ただし危険が迫った場合は二人とも退避しろ」
「承知しました」
ローデリックが答える。
シュウも自分の荷物を背負い直した。
足元は乾いた土。
少し先から細い道が森へ伸びている。
昨日までなら、何の不安もなく入れたはずの道だった。
「シュウ様」
ハインツが近づいてくる。
「ここからは隊列の中央にいてください」
「前じゃなくていいの?」
「異常を見つける役目だからこそです。最前列で何かに襲われて倒れられては困ります」
「でも、俺が見えないと――」
「見える範囲で構いません。異常を探すために危険へ最初に触れる必要はないでしょう」
言われてみればその通りだった。
「分かった」
「旦那様も中央寄りに」
「分かっている」
「本当に?」
「お前まで疑うな」
「レイモンド様から、旦那様が無茶をした場合は止めるよう申しつかっております」
「いつの間に」
シュウが吹き出した。
「兄さん、ちゃんと保険かけてる」
「笑うな」
ローデリックが呆れた顔をする。
だが、そのやり取りも森へ入るまでだった。
ハインツを先頭に、騎士二人。
その後ろにローデリックとシュウ。
さらに後方を騎士三人が守る。
七人は旧西監視路へ入った。
◇
最初の十分ほどは、何も起きなかった。
道は狭いが歩ける。
地面から張り出した木の根を跨ぎ、低い枝を避けながら進む。
春の終わりの森は本来なら生命に満ちている。
木々の葉は濃さを増し、ところどころに白や黄色の小さな花が咲いていた。日差しは枝葉に遮られ、地面へ落ちるころには細かな光の斑点になっている。
見た目だけなら、いつもの北部森林だ。
しかし音が少ない。
それが進むほど気になってくる。
「鳥がいませんね」
前を歩く騎士が小声で言った。
「見張り中に喋るな、と言いたいところだが……俺も気になっていた」
ハインツが答える。
「虫はいる」
別の騎士が道脇を示した。
葉の裏に小さな羽虫が止まっている。
完全に生き物が消えたわけではない。
シュウは周囲へ意識を広げた。
魔力知覚。
木。
草。
土。
自然界にも微かな魔力はある。
この世界で十七年生きてきたシュウには、それが特別なものではなかった。
ところが、しばらく進んだところで足が止まった。
「待って」
声を上げる。
全員が即座に止まった。
剣へ手をかける者もいる。
「何か見えたか?」
ローデリックが尋ねる。
「……まだ分からない」
シュウは道の左側を見る。
木が一本立っている。
普通の木だ。
幹は茶色。
葉も緑色。
昨日の巨大樹木のような黒い変色はない。
それでも違和感がある。
『アルカディア』
《確認しています》
『あの木』
《微量の異常魔力反応を検出しました》
やっぱり。
「この木、少し変だ」
シュウは近づこうとした。
「そこで止まれ」
ローデリックに止められる。
父が先に言うとは思わず、シュウは足を止めた。
「近づく必要はあるか?」
「……ない」
昨日までなら近くで確認しようとしたかもしれない。
だが見えているなら、それでいい。
「黒くはなってない。でも、昨日の黒い魔力と似たものが少し入ってる」
騎士たちの視線が木へ集まる。
しかし、彼らには普通の木にしか見えていないらしい。
「どの程度だ?」
「すごく少ない。昨日の街道の木とは比べものにならないくらい」
「危険性は?」
「分からない」
シュウは正直に答えた。
「触らない方がいいと思う」
「全員聞いたな。この先、植物へ不用意に触れるな。枝を避ける必要がある場合も、素手では触るな」
ハインツの指示が飛ぶ。
騎士たちが応じる。
木には目印として、少し離れた地面へ小さな杭を打った。
帰りに状態を確認するためだ。
隊列は再び進み始めた。
そこから、異常は少しずつ増えていった。
二本目。
三本目。
まだ黒くはない。
しかし、シュウには微かな黒紫色の魔力が見える。
道の右。
左。
一本だけではない。
「広がってる……?」
シュウが呟く。
「断定はするな」
ローデリックが言う。
「昨日から増えたのか、昨日もこの状態だったのかは分からない」
「うん」
分からないことを、分かったつもりにならない。
それも大事だ。
さらに二十分ほど進んだ。
古い監視路は緩やかな下りへ入る。
地面が少し湿ってきた。
月白草が採れるという場所へ近づいているのかもしれない。
シュウは歩きながら何度も周囲を見る。
そして、道の端にあるものへ気づいた。
「止まって」
今度は声が少し強くなった。
ハインツが即座に拳を上げる。
全員が停止する。
「どこです?」
「あそこ」
シュウが指したのは、道から三メートルほど外れた場所だった。
一見すると何もない。
落ち葉と土。
その中に、小さな黒い染みがある。
騎士の一人が目を細める。
「土が……黒い?」
「ニナさんが言ってたのと同じかもしれない」
シュウは魔力を見る。
さっきの木より濃い。
黒紫色の魔力が、地面の下から薄く滲み出している。
『アルカディア』
《異常魔力反応を確認。地表より地下の反応が高密度です》
『どれくらい深い?』
《現在の知覚情報のみでは正確な深度測定は困難です》
『動いてる?』
僅かな間があった。
《……微弱な変動を確認》
シュウの背中が冷える。
「父さん」
「何だ?」
「地面の下の方が濃い。それと……少し動いてるかもしれない」
騎士たちの表情が一斉に硬くなった。
昨日、ディーンが言っていた。
地中から何かが動くような音がした。
「全員、道の中央へ寄れ」
ハインツが低い声で指示する。
長柄武器を持つ騎士が前へ出る。
シュウも足元を見る。
今立っている道の下は?
『アルカディア。俺たちの真下は?』
《現時点で顕著な異常反応はありません》
少しだけ安心する。
だが、完全ではない。
「ここは大丈夫そう。でも、道の外には出ない方がいい」
「そうしましょう」
ハインツが頷いた。
「先を急ぎますか?」
騎士の問いに、ローデリックはすぐ答えなかった。
周囲を見る。
引き返す条件にはまだ達していない。
黒い霧はない。
道も通れる。
敵も現れていない。
目的地の小屋まではまだ先だ。
「進む。ただし速度を落とす。足元も確認しろ」
「了解」
一行は再び歩き出した。
今度は誰も雑談をしなかった。
土を踏む音。
装備が擦れる音。
風が葉を揺らす音。
それだけが続く。
シュウは何度も自分の呼吸を意識した。
怖い。
昨日の戦闘とは違う怖さだった。
敵が目の前にいれば、まだ何を警戒すればいいか分かる。
今は地面の下に何かがある。
どこまで広がっているか分からない。
自分たちを見ているのかどうかさえ分からない。
それでも足を止めないのは、先に二人がいるからだった。
ガレス。
ミーナ。
顔も知らない。
声も知らない。
けれどディーンが何度も名前を呼んでいた。
自分を逃がしてくれた二人を助けてほしいと、苦しそうに頼んでいた。
シュウは胸の奥にある《生命回帰》の感覚を確かめる。
生きていれば治せる。
だから、まず会わなければならない。
◇
旧西監視路へ入ってから一時間ほど経ったころ、森の空気が明確に変わった。
最初に気づいたのは匂いだった。
「……これ」
シュウは鼻を押さえた。
焦げ臭いわけではない。
腐敗臭とも違う。
湿った土へ鉄を混ぜたような、昨日の街道でも感じた妙な匂い。
ハインツも気づいたらしい。
「昨日の現場と同じですか?」
「似てる」
シュウは周囲を見る。
そして見つけた。
「前」
道の先。
二十メートルほど離れたところに一本の木が立っている。
黒い。
幹の半分ほどが、墨を塗ったように変色していた。
完全な黒ではない。
まだ茶色い部分も残っている。
葉も半分ほどは緑色だ。
それが余計に気味悪く見えた。
普通の木が、今まさに別の何かへ変わっている途中のようだった。
「全員停止」
ハインツの声が森へ響く。
騎士たちが武器を構える。
シュウは目を凝らした。
黒紫色の魔力が見える。
昨日の巨大樹木ほどではない。
だが、これまで見つけた木とは明らかに濃度が違う。
根元。
幹。
枝。
魔力がゆっくり上へ流れている。
「地面から入ってる」
「何?」
「黒い魔力。根から木の中へ上がってる」
ローデリックの視線が地面へ落ちる。
「なら、木そのものが発生源ではない?」
「少なくとも、この木は違うと思う」
『アルカディア?』
《マスターの推測を支持します。当該樹木内部の異常魔力は根部から流入しています》
昨日の分析とも合う。
普通の木へ外から異常魔力が入っている。
問題は、どこから。
「迂回できますか?」
騎士が尋ねる。
ハインツは左右を見る。
道の右側は斜面。
左側には低木が密集している。
「シュウ様。周囲の地面は?」
聞かれ、シュウは魔力を探る。
右。
黒紫色。
左にもある。
道の中央だけが比較的薄い。
「道から外れない方がいい」
「なら、このまま進むしかありませんな」
「木には近づかないで」
黒い木は道の端にある。
中央を通れば数メートルは離れられる。
「動く可能性は?」
「分からない」
「昨日は動いたんですよね?」
「昨日のは完全に変わってた。これはまだ途中みたいに見える」
ハインツが少し考える。
「私が先に通ります」
「待って」
シュウが止める。
「俺が――」
「中央にいる約束でしょう」
「でも異常が見えるの俺だけだよ」
「だから、あなたの指示を聞いて私が進みます」
言い返せなかった。
ハインツは長槍を構え、慎重に前へ出る。
一歩。
二歩。
黒い木まで十五メートル。
変化はない。
「地面は?」
「今は大丈夫」
十メートル。
まだ動かない。
ハインツが木の正面へ近づく。
シュウは黒紫色の魔力を見続ける。
そのときだった。
「止まって!」
木の根元で魔力が膨らんだ。
ハインツが即座に後ろへ跳ぶ。
次の瞬間、道の端から黒い根が飛び出した。
太さは人の腕ほど。
地面を破り、槍のように空を突く。
騎士たちが一斉に武器を構えた。
シュウも反射的に右手を前へ出した。
「――転装、光!」
声が森へ響く。
何も起きなかった。
「…………あ」
ほんの一瞬。
全員がシュウを見る。
シュウ自身も、伸ばした右手を見つめた。
そうだった。
今は《心装武器》ではない。
《生命回帰》を選んでいる。
光のバスターソードは出ない。
「シュウ様?」
「ごめん! 癖!」
死ぬほど恥ずかしい。
しかもこんな緊迫した場面で。
アルカディアの冷静な声が追い打ちをかける。
《現在の選択能力は《生命回帰》です》
『分かってるよ!』
《なお、《心装武器》への転装命令は無効です》
『今説明しなくていい!』
だが、黒い根は待ってくれない。
地面を叩き、こちらへ向きを変える。
「前衛、構えろ!」
ハインツの指示で二人の騎士が前へ出る。
シュウもすぐ気持ちを切り替えた。
武器がなくても、何もできないわけではない。
右手へ魔力を集める。
黒い。
濃密な魔力が掌を包む。
恒常的に使える、自分自身の魔力。
《漆黒魔力》。
能力を選ぶ前から存在し、今も失われていない力。
「シュウ、前へ出るな!」
「分かってる!」
ローデリックの声に答えながら、シュウは隊列中央から手を向ける。
黒い根が騎士へ伸びる。
騎士が長槍で受け流す。
完全には止まらない。
根が地面を擦り、再び持ち上がる。
シュウは狙いを定めた。
昨日のような派手な力はない。
だからこそ、今あるものを使う。
黒い魔力を圧縮する。
ただ撃ち出すだけなら、難しくはない。
「行け!」
掌から黒い魔力弾が放たれた。
根の中央へ直撃する。
鈍い音が響き、黒い表皮が大きく抉れた。
「効いてる!」
騎士の声が上がる。
だが切断には至らない。
根が激しく揺れる。
ハインツが踏み込んだ。
長槍を突き刺し、抉れた場所へ刃を食い込ませる。
もう一人の騎士も剣を振るう。
二人の攻撃が重なり、根がようやく切断された。
黒い液体が飛び散る。
「離れろ!」
昨日の経験がある。
誰も触らない。
騎士たちはすぐ後退した。
黒い液体が地面へ落ち、落ち葉がじわりと変色する。
切断された根は数度大きく痙攣したあと、地面の穴へ引き戻されていった。
静かになる。
誰もすぐには武器を下ろさなかった。
シュウも周囲を見る。
『アルカディア。他は?』
《周辺地下の異常魔力反応に変動あり》
『増えた?』
《局所的に移動しています》
嫌な答えだった。
「まだいる」
シュウが告げる。
「地下で魔力が動いてる」
「こちらへ?」
「分からない。でも、さっきより動きがある」
ハインツの顔から先ほどまでの余裕が消えた。
「旦那様」
「ああ」
ローデリックも地面を見る。
「ここで長く留まる方が危険だ。道が通れるなら進む。ただし、次に複数出たら撤退する」
「承知しました」
黒い木の脇を通る。
今度は全員が距離を取り、足元を確認しながら一人ずつ進んだ。
シュウも通過する。
木のそばへ来た瞬間、胸の奥がざわついた。
黒紫色の魔力。
昨日よりはっきり見える。
地面から根へ。
根から幹へ。
幹から枝へ。
まるで何かが木を内側から塗り替えている。
それでも立ち止まらなかった。
今日は調べる日ではない。
助ける日だ。
木を通り過ぎてからも、何度か後ろを振り返った。
追ってはこない。
少なくとも今は。
◇
さらに進んだところで、森の景色は少しずつ変わっていった。
黒い木が一本だけではなくなる。
遠くに二本。
さらに奥に一本。
完全に変色したものもあれば、半分だけ黒くなったものもある。
シュウが見える範囲だけでも、異常魔力は点ではなくなりつつあった。
「ディーンさんの言ってた通りだ……」
十本以上。
あの証言は大げさではなかった。
むしろ、彼が見た範囲だけで十本以上だったのだとしたら、森全体に何本あるのか分からない。
それでも救助隊は進む。
道がまだ残っているから。
黒い霧がないから。
複数の根に囲まれていないから。
決めた撤退条件へ達していない。
やがて先頭のハインツが片手を上げた。
「見えました」
シュウは前方へ目を向けた。
木々の間。
古びた木造の建物がある。
壁の一部には蔦が這い、屋根もかなり傷んでいる。
小さな見張り小屋。
「……あれ?」
「地図とディーン殿の説明が正しければ、あれです」
ようやく着いた。
胸が強く鳴る。
「ガレスさん! ミーナさん!」
思わず呼びそうになったところで、ハインツが腕を出して止めた。
「待ってください」
「でも」
「周囲を見てからです」
シュウは口を閉じる。
そうだった。
焦るな。
小屋が見えたからといって、安全とは限らない。
周囲へ目を向ける。
そして、すぐに気づいた。
「……変だ」
小屋の周囲だけ。
黒い木がない。
それどころか。
「黒い魔力も、すごく薄い」
森のあちこちに見えていた黒紫色の魔力が、見張り小屋を中心とした狭い範囲だけ避けるように弱くなっている。
ローデリックが眉を寄せた。
「ディーンも言っていたな。根が小屋の中には入ってこなかったと」
「うん」
『アルカディア。分かる?』
《解析中です》
いつもなら比較的すぐ答えが返ってくる。
今回は違った。
数秒。
十秒。
アルカディアが黙っている。
『アルカディア?』
《小屋周辺に、微弱な別系統の魔力反応を確認しました》
『別系統?』
《黒紫色の異常魔力とは一致しません》
シュウは小屋を見る。
古い。
誰も使っていないはずの建物。
「父さん」
「何だ?」
「小屋の周りに、黒いのとは別の魔力があるみたい」
「危険なものか?」
「まだ分からない」
答えながら、シュウは目を凝らした。
言われて初めて分かるほど薄い。
小屋を囲むように残っている、淡い魔力。
色を言葉にするなら、白に近い。
魔法陣のような形は見えない。
けれど、確かにそこにある。
そして黒紫色の魔力は、その範囲へほとんど入り込んでいない。
「昔の監視所に何か防護魔法があった可能性は?」
ハインツが尋ねる。
ローデリックは首を振った。
「俺の知る限り、この小屋に特別な結界があるという記録はない。ただ、かなり古い施設だ。建てられた当時の記録まですべて残っているわけではない」
「調べますか?」
「今は後だ」
ローデリックは迷わなかった。
「まず二人だ」
シュウも頷く。
その判断には完全に同意できる。
小屋の謎は気になる。
どうして黒い根が入らないのか。
白い魔力は何なのか。
けれど、それを調べるために来たのではない。
ハインツが騎士二人を前へ出す。
「私が扉へ行く。二人は左右を警戒。シュウ様はここから周囲の異常魔力を見てください」
「分かった」
「旦那様も残ってください」
「分かっている」
ハインツたちが進む。
十メートル。
五メートル。
異常はない。
小屋の前へ到着する。
扉は閉まっている。
ハインツが耳を当てた。
しばらく動かない。
そして扉を軽く叩いた。
「アルヴェイン男爵家の者だ! 中に人がいるなら返事を!」
森に声が響く。
返事はない。
シュウの胸が沈む。
もう一度。
「ガレス殿! ミーナ殿! 救助に来た! 聞こえるなら返事を!」
静寂。
風が葉を揺らす。
返事がない。
シュウは拳を握った。
『アルカディア。中の人、分からない?』
《現在選択中の《生命回帰》には広域生命探知機能はありません》
『そうだよな……』
《万象探知》なら。
そんな考えが一瞬浮かぶ。
すぐに消した。
今持っていない力を考えても仕方がない。
ハインツが扉の取っ手へ手を伸ばす。
「待って」
シュウは声をかけた。
「扉そのものには変な魔力ない?」
『アルカディア』
《扉表面に顕著な異常魔力反応なし》
「大丈夫そう」
ハインツが頷き、厚手の手袋越しに取っ手を握る。
ゆっくり開く。
古い蝶番が軋んだ。
暗い小屋の中へ、外の光が細く差し込む。
ハインツが中を確認する。
その身体が止まった。
「……いた」
シュウの心臓が跳ねる。
「二人とも?」
すぐに走り出したくなる。
だが約束を思い出し、その場に踏みとどまった。
ハインツが小屋へ半身を入れ、内部を確認する。
「二名確認! 男女一名ずつ! 呼びかけへの反応なし!」
騎士たちが動く。
「シュウ!」
ローデリックの声。
「行くぞ。ただし俺より前へ出るな」
「うん!」
シュウは父と一緒に小屋へ向かった。
距離が縮まる。
十メートル。
五メートル。
扉の向こうが見える。
薄暗い室内。
床に二人の人間が倒れている。
一人は壁へ背中を預けるように座り込み、頭を垂れている大柄な男。
もう一人はそのすぐ横で横向きに倒れた女性。
ガレス。
ミーナ。
おそらく二人だ。
シュウは息を呑んだ。
そして。
「……生きてる」
魔力知覚とは違う。
《生命回帰》を選択しているためなのか、近くまで来た瞬間、二人の生命の揺らぎを微かに感じた。
『アルカディア!』
《二名とも生命活動を確認》
胸の奥が一気に熱くなる。
「二人とも生きてる!」
シュウの声に、騎士たちの空気が変わった。
安堵。
しかし、それはほんの一瞬だった。
《マスター》
アルカディアの声が低くなる。
《注意してください》
『何?』
《二名の生命活動を確認。同時に、両名の体内から異常魔力反応を検出》
『《生命回帰》で治せる?』
《治療対象として認識可能です》
『なら――』
《ただし》
アルカディアが言葉を続ける。
《小屋の床下に別の反応があります》
シュウの足が止まった。
『黒いやつ?』
《異常魔力反応です。しかし、これまで観測した根部反応より高密度》
視線が床へ落ちる。
古びた板。
その下。
シュウ自身にも見え始めた。
黒紫色の魔力。
小屋を囲む淡い白の魔力に押さえ込まれるようにしながら、それでも床下の一点に集まっている。
そして。
ゆっくりと。
動いた。
「全員、待って!」
シュウの声が小屋の中と森へ響く。
ガレスとミーナは目の前にいる。
二人とも生きている。
《生命回帰》なら治せる。
ここまで来た。
あと少しで助けられる。
けれど、その二人が倒れている床のすぐ下で、昨日から追い続けてきた黒紫色の異常魔力が、これまでより濃い反応を示していた。
救助は、まだ終わっていなかった。




