第6話 強い力より、今日必要な力を選ぶ
ディーンのいる客室を出たころには、屋敷の東側から差し込む朝日が廊下の床を明るく照らし始めていた。
深夜に響いた苦しげな声も、黒紫色の魔力に覆われた客室の異様な空気も、今はひとまず落ち着いている。窓の外から聞こえてくる鳥の声や、一階を行き交う使用人たちの足音だけを聞いていれば、昨日から領内で起きている出来事など嘘のような穏やかな朝だった。
けれど、シュウの頭の中には、ディーンから聞いた話が残り続けていた。
旧西監視路。古い見張り小屋。普通の木々の間に点在していた十本を超える黒い木と、地面から何度切っても現れた黒い根。夜になってから聞こえた地中の音と振動、壁の隙間から入り込んできた黒い霧。
そして、その小屋には今もガレスとミーナが残されている可能性がある。
ディーンが森を出た時点では二人とも生きていた。ガレスは右肩を負傷し、ミーナは脚を傷つけていたものの、意識はあり、自分で動くこともできていたという。
それが何時間前なのかを考えると、胸の奥が落ち着かなかった。
「シュウ」
前を歩いていたローデリックが足を緩めたため、考え込んでいたシュウは危うく父の背中へぶつかりそうになった。慌てて一歩下がると、ローデリックはそんな息子の様子を見て、僅かに眉を上げる。
「朝食だと言ったはずだが、聞いていたか?」
「聞いてたよ。ちゃんと食べる」
「ならいい。考えるのは食べながらでもできるが、食べるのを忘れて考えるのはやめろ」
「父さん、俺のことをどれだけ食事忘れる人だと思ってるの?」
「昨日からのお前を見た範囲で判断している」
「一日で信用がなくなってる……」
シュウが肩を落とすと、ローデリックは僅かに笑った。
その表情には昨夜からの疲れが残っている。目元にも普段より薄い影があり、シュウが数時間眠っていた間も、父は騎士たちから報告を受けたり、森について調べさせたりしていたのだろう。
「父さんこそ食べるんだよね?」
「もちろんだ」
「寝た時間は?」
「必要な程度には寝た」
「それ、母さんに聞かれても同じこと言える?」
ローデリックの返事が少し遅れた。
「……朝食へ行くぞ」
「誤魔化した」
「行くぞ、シュウ」
「はいはい」
父の背中を追いながら、シュウは少しだけ笑った。
自分が心配されているのと同じように、父だって無理をしている。領内で異常が起きている以上、領主として休んでばかりはいられないのだろうが、それでも家族としては気になる。
食堂へ入ると、すでにエレノアとレイモンドが席に着いていた。
焼きたてのパンに卵料理、野菜と燻製肉の入った温かなスープ、それから薄く切った果物が並べられている。普段なら朝から十分すぎるほど食欲を刺激される光景なのだが、今日は食卓の端に置かれた数枚の紙がどうしても気になった。
「おはよう、シュウ」
「おはよう、母さん。兄さんも」
「ああ。少しは眠れたか?」
「アルカディアに起こされなかったから、結構寝られたと思う」
答えてから、シュウは一瞬だけ口を閉じた。
アルカディアという名前そのものは、すでに家族の前でも使っている。禁書の正体までは話していないが、特殊な魔導書に意思があり、自分の能力を管理・補助していることまでは知られていた。
エレノアは特に気にした様子もなく、シュウの前へスープを寄せた。
「それならよかったわ。まず食べなさい。話はそのあとでもできますから」
「父さんにも同じこと言われた」
「あなた」
エレノアの視線が夫へ向く。
ローデリックは椅子へ座りながら、何事もなかったようにパンへ手を伸ばした。
「俺も食べる」
「そういう意味で見たわけではありません。昨夜、何時間眠りました?」
「必要な程度には」
「シュウと同じことを言っていますよ」
「ほら」
思わずシュウが口を挟むと、ローデリックが息子を睨む。
「お前はどちらの味方なんだ?」
「今日は母さん」
「昨日は俺だっただろう」
「状況によって選ぶのが大事だって父さんが教えたんじゃん」
レイモンドが堪えきれず吹き出した。
エレノアも口元へ手を添えて笑っている。
ローデリックだけが何とも言えない顔をしていたが、しばらくすると諦めたように息を吐いた。
「……妙なところだけ覚えるのが早いな」
「いい教えだったからね」
「なら、今日も忘れるな」
冗談めいた空気の中にも、その言葉だけには少し違う重さがあった。
シュウもそれを感じ取り、素直に頷いた。
食事が始まると、しばらくは誰も森の話をしなかった。エレノアが意図してそうしているのかもしれず、シュウも急いで話題を戻そうとはしなかった。
温かなスープを口にすると、胃の奥へ熱が広がっていく。昨夜も食事はしたはずなのに、夜中に起きて魔力を使ったせいなのか、身体は思っていた以上に空腹だった。
パンを半分ほど食べたところで、レイモンドが食卓の端に置かれた紙へ視線を向けた。
「父上。そちらが昨夜集めた記録ですか?」
「ああ。まだ全部ではないがな」
ローデリックは食事の手を止めずに答えた。
「三日前に北部森林へ入った木こりが四人。二日前には薬草採取者が少なくとも三組、それから狩人が二人入っている。今のところ、異常な木や根を見たという報告はない」
「ディーンたちが入った場所とは?」
「完全には重なっていない。木こりはもっと東側だ。薬草採取者の一組が旧西監視路に近い場所まで入っているが、古い見張り小屋までは進んでいないらしい」
シュウはスープの器を置いた。
「じゃあ、異変がいつ始まったのかはまだ分からないんだね」
「そうだ。三日前にはなかった、とも言い切れない。森は広いからな」
「黒い木が最初は奥の方にしかなかった可能性もあるしね」
「ああ。それに、異常が常に見える状態だったとも限らん」
ローデリックは昨日の街道を思い出しているようだった。
普通の人間には見えなかった黒紫色の魔力が、濃くなったことで初めてローデリックにも糸として見えるようになった。森でも同じなら、異常が存在していても気づかず通り過ぎた者がいる可能性はある。
「ディーンさんが言ってた採取人は、まだ見つかってない?」
「薬師組合へ確認に行かせた。そろそろ返事が来るだろう」
「無事だといいけど」
「そうね」
エレノアが静かに応じた。
「森から出られていたとしても、何か影響が残っていないとは限らないでしょう?」
シュウは昨夜のディーンを思い出した。
「確かに。見た目が普通でも、あとから黒い魔力が増える可能性がある」
「採取人が見つかったら、治癒術師にも診てもらおう」
ローデリックがそう決めたところで、シュウの胸の奥からアルカディアの声が届いた。
《マスター》
『どうした?』
《《心装武器》固定時間終了まで三十八分です》
『まだそれくらいあるのか』
《はい》
焦る必要はない。
そう思っているのに、残り時間を知らされると気持ちが前へ進みたがる。
《生命回帰》を選べば、ディーンの身体に残る異常魔力を取り除ける可能性が高い。森でガレスとミーナを見つけたときにも、生きてさえいれば助けられる。
一方で、その二十四時間は《心装武器》を使えない。
昨日の黒い樹木のようなものが再び現れても、炎の槍も、水の盾も、風の銃も、雷のアックスも、光のバスターソードも、闇の双剣も使えない。
残るのは恒常的な身体能力と武器適性、それに《漆黒魔力》。
戦えないわけではない。
だが、昨日ほど多くの状況には対応できなくなる。
「また考え込んでいるな」
ローデリックの声に、シュウは顔を上げた。
「次の能力のこと?」
「ああ」
「《生命回帰》にしようと思ってる。でも、本当にそれでいいのかはまだ考えてる」
「理由を聞いてもいいか?」
父に問われ、シュウは昨夜書いた三つの候補を頭の中で整理した。
「《万象探知》なら人を探すのには一番向いてる。でも、ディーンさんから二人が古い見張り小屋にいるって聞けたから、昨日より必要性は下がったと思う」
「小屋に今もいるとは限らないぞ」
「うん。そこは分かってる。でも、少なくとも最初に探す場所は決まった」
ローデリックが頷く。
「《心装武器》なら昨日みたいにいろんなことができる。でも、二人とも怪我してるし、ディーンさんと同じ黒い霧を吸ってるかもしれない」
「だから治癒を優先する?」
「そう。戦う人なら俺以外にもいるけど、《生命回帰》みたいな治療は俺にしかできないから」
言い終えてから、シュウは父の反応を待った。
ローデリックはすぐに肯定しなかった。
否定もしない。
食卓の上で指を組み、少し考えてから問い返した。
「もし森で昨日の木が十体出てきたらどうする?」
「戦わない」
自分でも驚くほど早く答えられた。
「二人を連れて逃げる。無理なら救助隊全体で退く」
「では、小屋に二人がおらず、周囲にも見つからなかったら?」
「探せる範囲だけ探す。でも深追いしない。場所が分からないなら一回戻って、《万象探知》を選べる日にもう一度行く方法もある」
「異変の中心らしき場所を見つけた場合は?」
「今日は行かない」
ローデリックの口元が僅かに緩んだ。
「昨日よりは考えるようになったな」
「昨日の俺、そんなに駄目だった?」
「駄目だったとは言っていない。ただ、力を得たばかりの人間らしく、できることへ目が向きすぎていた」
痛いところを突かれた。
シュウ自身にも心当たりがある。
《心装武器》を手にした朝、木製の訓練人形を軽い一撃で破壊したときは驚いた。それでも心のどこかでは、こんな力があるなら大抵のことは何とかできるのではないかと思っていた。
街道で巨大な黒い樹木と戦い、その考えは早くも変わり始めている。
力が強くても、周囲を巻き込めない状況では使えないものがある。防御できると思った攻撃が盾を侵食することもあり、助けたい相手の身体へ異常が残れば、戦闘に勝っただけでは終われない。
「俺は《生命回帰》でいいと思う」
シュウは改めて言った。
「戦うためじゃなくて、今日は二人を連れて帰るために行くなら、その方がいい」
「なら、俺から反対する理由はない」
ローデリックは静かに頷いた。
「ただし、その力があるから無理に負傷者のところまで行ける、とは考えるな。《生命回帰》を使う者が先に倒れれば意味がない」
「分かってる」
「本当に?」
エレノアから疑うような声が飛んできた。
「母さんまで疑わないでよ」
「昨日の今日ですから」
「ちゃんと逃げるよ。危なくなったら父さんたちの言うことも聞く」
「それならいいけれど……」
エレノアはまだ完全には納得していないようだった。
無理もない。
昨日まで学院へ送り出す準備をしていた息子が、突然得体の知れない異変の起きた森へ行こうとしているのだ。
シュウは母の顔を見て、少し迷ったあとに続けた。
「怖くないわけじゃないよ」
エレノアの視線が止まる。
「昨日の木だって、実際に攻撃されたときは怖かった。森の中に何があるか分からないのも怖いし、正直、行かなくていいならその方が楽だと思う」
言葉にしてみると、胸の奥にあったものが少しだけ形になった。
「でも、俺には黒い魔力が見える。それに、次の能力を選べば二人を治せるかもしれない。だったら行きたいと思ってる」
エレノアはすぐには答えなかった。
心配が消えたわけではないのだろう。けれど、昨日のように「危険だから行かないで」とも言わなかった。
「帰ってくることを、一番大事にしてください」
やがて返ってきたのは、それだけだった。
「うん」
「二人を助けられなかった場合でも、あなたまで戻ってこなくていい理由にはなりません」
「分かってる」
「それから、お父様の指示を聞くこと。勝手に一人で先へ行かないこと。怪我や体調の変化を隠さないこと」
「……増えてきたね」
「まだありますよ?」
「分かった。全部守るから」
シュウが苦笑すると、エレノアもようやく少しだけ表情を緩めた。
そのとき食堂の扉が叩かれた。
「旦那様、失礼いたします」
ローデリックが入室を許可すると、朝早く薬師組合へ向かった騎士が姿を見せた。その後ろには四十代ほどの男性と、二十代前半くらいに見える女性が立っている。
二人とも旅装に近い服を着ていた。
女性の方は右手に布を巻いている。
シュウはその姿を見た瞬間、食事の手を止めた。
「見つかったのか?」
「はい。ディーン殿が護衛していた採取人二名で間違いありません」
騎士が一礼する。
「こちらが薬師のバルト殿、その助手のニナ殿です。昨夕には領都へ戻っていたそうですが、北門から入ったあと直接薬師工房へ戻ったため、昨夜の時点では事情を把握できていませんでした」
ローデリックが立ち上がった。
「二人とも、朝早くからすまない。まずは無事でよかった」
「いえ、男爵様。こちらこそ……」
バルトと呼ばれた男性は深く頭を下げたが、顔には疲労が色濃く残っていた。
「ディーンたちは……?」
「ディーンは屋敷で保護している。今朝、意識も戻った」
その言葉を聞いた瞬間、ニナの肩から力が抜けた。
「よかった……」
小さな声だった。
しかし安心したのも束の間、彼女はすぐに顔を上げる。
「ガレスさんとミーナさんは?」
「まだ森にいる可能性が高い。今から救助の準備を進める」
ニナの表情が再び曇った。
バルトも唇を結び、俯きかけたが、ローデリックは二人を責めるようなことは言わなかった。
「座ってくれ。食事は?」
「いえ、まだ……」
「なら食べながらでいい。話せる範囲で森のことを聞きたい」
「ですが、私たちは……」
「腹を空かせた人間から急いで話を聞いても、正確なことを思い出せん。こちらも食事中だ。気にするな」
ローデリックの言葉に、使用人たちがすぐ二人分の椅子と食事を用意し始めた。
シュウはその様子を見ながら、やっぱり父は領主なのだと思った。
相手が焦っているからこそ、急がせない。
ディーンから話を聞いたときも同じだった。
二人が席に着き、温かなスープを少し飲んで落ち着くまで、ローデリックは森について尋ねなかった。
やがてバルトの顔色が少し戻ったところで、話が始まった。
「ディーンから、旧西監視路を通って薬草採取へ入ったと聞いた。間違いないか?」
「はい。目的は月白草です。今の時期、古い見張り小屋の南側にある湿った土地でよく採れるので」
バルトは両手で器を包みながら答えた。
「去年も同じ場所へ行きました。危険な魔物が多い区域ではありませんが、念のため冒険者の護衛をお願いしていました」
「森へ入った直後に異常はあったか?」
「ありませんでした。少なくとも、私にはいつもと変わらないように見えました」
隣のニナも頷いた。
「鳥も鳴いていましたし、小さな獣も見ました。道にも変わったところはなかったと思います」
「黒い木を最初に見たのは?」
今度はニナが少し考えた。
「お昼より少し前だったと思います。月白草の群生地へ着く少し手前で、ガレスさんが見つけました」
「その時点では一本?」
「はい。でも、そこから先へ進むと、何本かありました」
ディーンの証言と一致する。
「近づいたか?」
「いいえ。ディーンさんが止めました」
バルトが答えた。
「見たことのない状態だから触れない方がいいと。それで採取場所を少し変えることにしたのですが……」
男性の指が器の縁で止まった。
「月白草そのものにも異常が?」
「いいえ。薬草は普通でした。ただ、土の一部が黒くなっていたんです」
シュウは眉を寄せた。
「土?」
思わず口を挟むと、二人の視線がシュウへ向いた。
ローデリックが簡単に紹介する。
「次男のシュウだ。昨日、街道でディーンを救助した際に異常を直接見ている。話を聞かせてやってくれ」
「あなたが……」
ニナの表情が変わった。
「ありがとうございます。ディーンさんを助けてくださって」
「俺だけじゃないです。父さんたちも一緒でしたから」
シュウがそう返すと、バルトも深く頭を下げた。
「それでも、本当にありがとうございます。私たちが先に逃げられたのは、あの三人が残ってくれたからです」
その言葉に含まれた重さを感じ、シュウはすぐに返事ができなかった。
ディーンも、自分だけ逃げてきたことを気にしていた。
採取人たちも、自分たちだけ先に逃がされたことを気にしている。
誰か一人が悪かったから起きたことではないのに、助かった側はそれぞれ自分の中に何かを抱えている。
「二人も無事に戻れてよかったです」
シュウは少し間を置いてから答えた。
「ディーンさんも、二人を逃がしたことは後悔してないと思います。だから、今はガレスさんとミーナさんを助けるために、知ってることを教えてください」
ニナは唇を結び、ゆっくり頷いた。
「はい」
ローデリックが話を戻す。
「黒くなっていた土について、詳しく聞きたい」
「最初は湿っているだけだと思いました。でも、踏んだ場所だけ妙に柔らかくて……」
ニナは右手に巻かれた布へ目を落とした。
「私、転びそうになって手をついたんです」
食堂の空気が変わった。
シュウの視線も自然にその右手へ向く。
「その手、怪我してるんですか?」
「少し擦っただけです。昨日、工房で洗って薬も塗りました」
「治癒術師に見てもらいましたか?」
「そこまでは……」
シュウは父を見る。
ローデリックも同じことを考えていた。
「食事が終わったら、二人とも治癒術師の診察を受けてくれ。念のためだ」
「ですが、私は本当に――」
「昨夜、ディーンは一度容体が悪化した。見た目だけでは判断しない方がいい」
その説明で、ニナも反論をやめた。
シュウは無意識に目へ力を込める。
魔力を知覚する。
昨日までなら意識しなければ気づかなかったほど微かなものまで、今は以前より自然に感じ取れる。
バルトからは特に異常を感じない。
ニナも全身を包む魔力は普通に見えた。
ただし右手だけは違った。
布の下。
ほんの僅かだった。
黒紫色の、小さな点。
「……待って」
シュウの声に、食卓にいた全員が止まった。
「ニナさん。その手、今は触らないでください」
「え?」
女性の顔から血の気が引く。
「シュウ?」
エレノアが不安そうに息子を見る。
シュウは怖がらせないよう、できるだけ落ち着いた声を意識した。
「すごく小さいけど、黒い魔力みたいなものが見える。ディーンさんほどじゃない。本当に点みたいな感じ」
「私……」
ニナが右手を胸元へ引き寄せようとしたため、バルトが慌てて止めた。
「触るなと言われただろう」
「ご、ごめんなさい」
「大丈夫です。今すぐ何か起きる感じじゃないと思います」
シュウはそう言ったものの、自分だけの判断では安心できない。
『アルカディア。見える?』
《確認しています。対象者右手に微量の異常魔力反応を検出しました。ディーン氏に確認されたものと類似しています》
『増えてる?』
《現時点の短時間観測では増加を確認できません》
『北と繋がってる?』
《明確な流入は確認できません》
昨夜のディーンとは違う。
それでも、無関係ではなさそうだった。
「今は増えてないみたい。それに、ディーンさんみたいに森から魔力が流れ込んでる感じもない」
「それなら……大丈夫なんでしょうか?」
「まだ分かりません。だから先生に診てもらいましょう」
シュウが答えると、ニナは不安そうに自分の手を見つめた。
エレノアが席を立ち、女性のそばまで歩いていく。
「怖いでしょうけれど、今は一人ではありません。治癒術師もいますし、異常が見えるシュウもここにいます。まずは確認しましょう」
穏やかな声に、ニナの強張っていた肩が少し下がった。
「……はい」
シュウはその様子を見ながら、胸の中で次に選ぶ能力への迷いがさらに薄れていくのを感じていた。
ガレスとミーナだけではない。
ニナにも異常魔力が残っている。
ディーンにも残っている。
昨日の森に入った人間へ、どの程度の影響が出ているのか分からない。
戦うための力より、今必要な力。
父に言われたことが、少しずつ具体的な意味を持ち始めていた。
◇
朝食を終えたあと、ニナとバルトは治癒術師のもとへ案内された。
シュウたちはその間に、屋敷の一階にある小会議室へ移動した。
領内の地図が広げられた大きな机を囲み、ローデリック、レイモンド、シュウ、それからアルヴェイン家に仕える騎士団の副長が集まっている。
騎士団長は領内南部の巡回へ出ており、帰還まで時間がかかるため、今日は副長が現場指揮を担当することになった。
副長の名はハインツ。
四十歳を少し過ぎた大柄な男で、シュウが子供のころからアルヴェイン家へ仕えている。剣の稽古をつけてもらったこともあり、シュウにとっては見知らぬ騎士ではなかった。
「まさか、坊ちゃんと森へ入る日がこんな形で来るとは思いませんでしたな」
地図を覗き込みながらハインツが言う。
「坊ちゃんはやめてよ。もう十七だよ」
「私からすれば、庭で木剣を振り回して転んでいたころと大して変わりません」
「それ何年前の話?」
「つい昨日のようなものです」
「父さん、この人、俺を戦力として見てない気がする」
「戦力として見ているから連れていくか検討している。坊ちゃん扱いは諦めろ」
「そこは助けてくれないんだ……」
ハインツが低く笑った。
緊張感のある話し合いではあるが、知っている相手がいることでシュウも少し肩の力を抜けた。
ローデリックが地図上の一点を指す。
「ここが旧西監視路の入口だ。領都から馬で一時間弱。そこから古い見張り小屋までは、通常なら徒歩で二時間ほどかかる」
「負傷者を連れて戻るなら、倍は見た方がいいでしょう」
ハインツが答えた。
「担架を使うならなおさらです。森の中では馬車を入れられませんからな」
「馬は?」
「監視路の入口までは使えます。そこから先は道幅が狭く、木の根も多い。異常が起きているなら馬を連れて入らない方がいいでしょう」
シュウは地図を見る。
今まで何度か入ったことのある北部森林だが、古い見張り小屋まで行った経験はない。子供のころに父や兄と入ったのは、もっと浅い場所だけだった。
「人数は?」
ローデリックの問いに、ハインツはすでに考えていたらしい。
「私を含め騎士六名。それにシュウ様を加えた七名を提案します」
「多すぎない?」
シュウが尋ねる。
「むしろ少ないくらいです。ただ、旦那様から『救助であって討伐ではない』と言われていますからな」
ハインツは地図上の道を指で辿った。
「二人を発見した場合、担架を運ぶ人間が必要です。最低でも二名ずつ。周囲の警戒も必要となれば、四人や五人では足りません」
「なるほど」
「ただし十人以上で入れば動きが鈍くなる。異常な根が狭い道へ出るという証言もありますから、人数が多ければ安全とも限りません」
シュウは頷いた。
昨日なら、強い騎士をたくさん連れていけばいいのではないかと思ったかもしれない。
だが人数が増えれば、その全員を守りながら撤退しなければならない。
「俺も行く」
ローデリックが言った。
シュウが顔を上げる。
「父さんも?」
「当然だ。領内で正体不明の異変が起きているうえ、息子まで同行させるのに屋敷で待っているつもりはない」
「領主が危険な場所に行く方がまずくない?」
「その判断も含めてハインツと話した。森の異常が大規模なものだと判明した場合、その場で領主判断が必要になる可能性がある」
ハインツも頷く。
「旦那様には後方寄りにいていただきます。何かあれば私が引きずってでも連れて帰りますので」
「俺の意思は?」
「ございません」
今度はシュウが笑う番だった。
「父さんも同じ扱いじゃん」
「笑うな」
「いや、ちょっと安心した」
ローデリックが不満そうに眉を寄せる。
その横でレイモンドが地図を見ながら口を開いた。
「なら、俺も――」
「お前は残れ」
父から即座に止められた。
レイモンドの表情が固くなる。
「理由を聞いても?」
「俺とシュウが出る。お前まで出れば、屋敷と領都側の指揮を執る者がいなくなる」
「ですが」
「ディーンの監視も必要だ。ニナにも異常魔力が見つかった以上、森へ入った他の者にも同じものが残っている可能性がある。こちらで何か起きた場合、お前に判断してもらう」
レイモンドはすぐには納得しなかった。
シュウには分かる。
兄だって行きたいのだ。
昨日は街道で一緒に戦い、夜もディーンの状態を見ていた。弟と父だけを危険な森へ送り出して、自分だけ残ることを簡単に受け入れられるはずがない。
「兄さん」
シュウが呼ぶ。
レイモンドがこちらを見る。
「こっち頼むよ」
「お前まで父上と同じことを言うのか?」
「だって、ディーンさんもニナさんもいるし、逃げた採取人が他にもいたって話になったら、その人たちも調べないといけないでしょ」
「それはそうだが……」
「それに、俺が《生命回帰》を選んで森へ行ったら、屋敷にいる人はすぐ治せない」
そこでレイモンドの表情が変わった。
《生命回帰》は強力だが、シュウが森へ行けば屋敷には存在しない。
ディーンやニナの容体が急変した場合、治癒術師と騎士たちで対応しなければならない。
「何かあったら、戻ってきた俺に教えて。そうしたら治せるかもしれないから」
「……分かった」
レイモンドはゆっくり息を吐いた。
「ただし、お前が戻ってくることが前提だ」
「うん」
「二人を見つけても、見つけられなくても戻れ」
「分かってる」
「一人で勝手に走るな」
「母さんにも言われた」
「怪我を隠すな」
「それも言われた」
シュウが苦笑すると、レイモンドもようやく少しだけ笑った。
「なら、母上の言いつけを守れ」
「兄さんの言いつけじゃないんだ」
「母上の名前を出した方がお前は守るだろう」
「信用ないなあ」
軽口を交わしていても、兄の目には心配が残っていた。
シュウはそれ以上ふざけなかった。
「ちゃんと帰るよ」
「ああ」
短いやり取りのあと、ローデリックが地図へ視線を戻した。
「撤退条件を決めておく」
部屋の空気が再び引き締まる。
「第一に、昨日街道で現れた規模の変異体が複数出現した場合。戦えるかどうかではなく撤退する」
シュウも頷く。
「第二に、黒い霧が広範囲へ出ている場合。シュウが治せるとしても、全員が汚染される前提で進むことは許可しない」
「分かった」
「第三に、旧西監視路そのものが通行不能なほど変質していた場合。無理に別経路を探して森の深部へ入らない」
ハインツが続ける。
「第四に、ガレス殿とミーナ殿を確保した時点で原則撤収。異変の中心らしきものを見つけても追跡しない。よろしいですな、シュウ様?」
「なんで俺を見て言うの?」
「最も追いかけそうだからです」
「否定しにくい……」
「なら覚えておいてください」
ハインツは笑わなかった。
冗談ではないのだ。
シュウも真面目に頷いた。
「分かった。今日は救助だけ」
「それで結構です」
話し合いが続き、装備も決めていく。
騎士たちは通常の剣だけでなく、長柄の武器も持つ。黒い根へ不用意に近づかず対処するためだ。
火は最低限にする。
昨日シュウが炎の槍を使わなかったのと同じ理由で、森の中で大規模な火を使えば異常とは別の災害を起こしかねない。
光属性魔法を扱える騎士も二人同行する。
ディーンへの再接続を遅らせられた実績がある以上、黒い霧や異常魔力に対して何らかの抑制効果を期待できる。
担架は二つ。
水と食料。
包帯や止血用の薬。
縄。
予備の外套。
そして、黒い液体や霧へ直接触れないための厚手の革手袋。
昨日の経験が、一つずつ準備へ変わっていく。
シュウはその様子を見ながら、冒険という言葉に抱いていた印象が少し変わるのを感じていた。
前世で異世界ものを読んでいたころは、冒険と聞けば剣や魔法で魔物と戦う場面を思い浮かべることが多かった。
この世界へ生まれてからも、冒険者という職業にはどこかそんな印象を持っていた。
けれど、本当に誰かを助けに行くとなれば、その前に必要なことがいくらでもある。
道を確認する。
人数を決める。
怪我人を運ぶ方法を用意する。
何が起きたら逃げるのかを決める。
戦いに勝つ方法より先に、生きて戻る方法を考える。
それが少し新鮮だった。
『マスター』
アルカディアの声が届く。
《《心装武器》固定時間終了まで五分です》
シュウは地図から顔を上げた。
「父さん」
「時間か?」
「あと五分」
ローデリックが頷く。
「なら、選択前にもう一度確認する。今日の目的は?」
「ガレスとミーナの救助。見つけたら連れて戻る」
「異変の原因は?」
「追わない」
「危険な相手が出たら?」
「戦う必要がなければ避ける。救助を続けられないなら撤退する」
「《生命回帰》を選べば、《心装武器》は使えない。それでもいいか?」
シュウは少しだけ黙った。
怖くないと言えば嘘になる。
炎の槍も、風の銃も、光のバスターソードも使えない。
昨日一日で、シュウはすでに《心装武器》の万能さに何度も助けられていた。
それを自分から手放して森へ入る。
けれど、目の前の机には担架が二つ必要だと書かれた準備表がある。
ガレスは肩を負傷している。
ミーナは脚を負傷している。
黒い霧に触れている可能性もある。
ディーンの腕には今も黒紫色の筋が残っている。
ニナの手にも小さな異常魔力が見つかった。
今日必要なのは、一番派手な力ではない。
「いい」
シュウは父を見て答えた。
「今日は《生命回帰》を選ぶ」
ローデリックは息子の顔をしばらく見つめ、それから頷いた。
「分かった」
◇
数分後、《心装武器》の二十四時間固定が終了した。
身体の中から何かが失われたわけではない。
それでも、昨日からずっと胸の奥にあった六つの武器へ繋がる感覚が、薄い膜の向こうへ移動したように感じられた。
『終了した?』
《はい。《心装武器》の選択固定期間が終了しました。新たな選択能力を指定可能です》
『じゃあ、《生命回帰》を選ぶ』
《承認しました》
シュウは一度、会議室にいる全員を見た。
ローデリックとレイモンド、ハインツ。
能力選択にはアルカディアを物理的に顕現させる必要がある。
家族にはすでに存在を知られている。
ハインツには事前に、シュウが特殊な魔導書を持っていることだけ説明してあった。
「出すよ」
シュウが告げると、三人が少し距離を取った。
胸の奥へ意識を向ける。
そこに存在するアルカディアへ手を伸ばすように魔力を動かすと、シュウの身体の前へ黒い光が集まり始めた。
空気が僅かに震える。
黒い粒子が渦を巻き、その中心から一冊の本がゆっくり姿を現した。
黒い表紙。
銀色の装飾。
中央には暗い赤色の宝石。
昨夜初めて見たときと変わらない《禁書アルカディア》が、シュウの目の前で宙に浮かんでいる。
ハインツが目を見開いた。
「これは……」
「詳しいことは俺も分かってないから、聞かないで」
「まだ何も聞いておりませんが」
「先に言っておこうと思って」
ハインツはしばらくアルカディアを見つめたあと、感心したように息を吐いた。
「随分と古い魔導書に見えますな。装飾にも意味がありそうだ」
「お願いだから分析しないで」
「なぜです?」
「俺のため」
意味が分からないという顔をされた。
シュウは視線を逸らす。
中央の赤い宝石も、銀色の装飾も、おそらく十四歳の自分が格好いいと思って決めたものだ。
そこへアルカディアの声が意識へ届いた。
《該当記録があります。表紙中央の宝玉は『滅びた十三世界の血涙を――』》
『絶対読むな』
《承知しました》
危ないところだった。
アルカディアの表紙が開く。
誰も触れていないのに紙が一枚ずつ捲れ、やがて途中のページで止まった。
そこに描かれていた文字を見た瞬間、シュウは嫌な予感を覚えた。
大きく書かれた《生命回帰》の文字。
その周囲には、十四歳の自分が一生懸命考えたらしい装飾的な魔法陣が描かれている。
『アルカディア』
《はい》
『確認なんだけど、これも発動するとき台詞いるよね?』
《当然です》
『当然かあ……』
忘れていたわけではない。
魔眼系を除けば、黒歴史ノート由来の能力には基本的に発動のための言葉が設定されている。
《心装武器》でもそうだった。
当然、《生命回帰》にもある。
『長い?』
《通常使用時は比較的短い部類です》
『比較的って怖いんだけど』
《選択処理を継続します》
『誤魔化したな?』
問い返しても答えはない。
開かれたページから柔らかな白緑色の光が溢れ始めた。
昨日の《心装武器》とはまったく違う感覚だった。
熱くない。
重くもない。
春の日差しの中へ手を差し出したときのような温かさが、指先から腕へ伝わってくる。
光はシュウの胸へ吸い込まれ、そのまま身体の奥へ静かに広がっていった。
傷ついているわけでもないのに、呼吸が少し楽になったように感じる。
《選択能力《生命回帰》の固定を完了しました。以後二十四時間、他の選択能力への変更はできません》
『分かった』
アルカディアのページが閉じる。
黒い魔導書は再び粒子となり、シュウの胸へ吸い込まれるように消えていった。
会議室に静けさが戻る。
最初に口を開いたのはハインツだった。
「……美しい魔導書ですな」
「やっぱりそうなるの?」
「何がです?」
「いや、何でもない」
誰も笑わない。
本気で格好いいと思っている。
それが一番恥ずかしい。
レイモンドまで真面目な顔で頷いている。
「今の光も治癒系らしい穏やかな魔力だった。昨日の武器とはかなり違うな」
「兄さんまで感想言わなくていいから」
「褒めているんだぞ?」
「知ってるから困ってるんだよ」
ハインツが不思議そうにローデリックを見る。
「シュウ様は昔から褒められるのが苦手でしたか?」
「いや。ここまでではなかった」
「父さん、余計なこと言わないで」
昨日から何度同じ目に遭っているのだろう。
それでも少しだけ、慣れてきた気もする。
慣れたくはない。
「それで」
ローデリックが話を戻した。
「実際に使えるか、出発前に確認した方がいいのではないか?」
「ディーンさんに使おうと思ってる」
「俺もそれがいいと思う。森へ入る前に、能力が本当に説明通り働くのか確認できる」
シュウは頷いた。
いくらアルカディアが使えると言っても、実際に《生命回帰》を使うのは初めてだ。
しかも対象は異常魔力に侵されている。
ディーンを治すことができれば、ガレスとミーナにも有効である可能性が高くなる。
「行こう」
会議室を出ようとしたところで、廊下から足音が近づいてきた。
扉が叩かれ、治癒術師が入ってくる。
「旦那様。ニナさんの診察が終わりました」
「どうだった?」
「右手の傷そのものは浅いものです。ただ、シュウ様が仰った通り、私にも微かな異質魔力を感じました」
治癒術師の表情は硬い。
「ディーンさんほどではありません。身体全体への影響も今のところ確認できませんが、通常の浄化魔法では消えませんでした」
「バルトは?」
「異常は確認できません」
シュウは胸の奥に宿った新しい力を意識した。
「先生。《生命回帰》を選びました」
治癒術師が目を見開く。
「では……」
「まずディーンさんに使います。そのあと、問題なければニナさんにも使いたい」
「私も賛成です。ただし、可能なら使用中の状態を見せていただけませんか?」
「もちろん」
治癒術師の目には、純粋な興味だけではなく責任感があった。
未知の治療を患者へ使う以上、自分でも状態を確認したいのだろう。
一行はそのまま客室へ向かった。
ディーンは起きていた。
先ほどより身体を少し起こし、背中に枕を重ねてもらっている。顔色はまだ悪いが、昨夜のような苦しげな呼吸はなくなっていた。
「男爵様」
「そのままでいい」
起き上がろうとしたディーンをローデリックが止める。
シュウは寝台のそばへ進んだ。
「ディーンさん。さっき話した治癒魔法、使えるようになりました」
「もう……?」
「二十四時間の制限が終わったので」
ディーンはシュウを見たあと、自分の左腕へ目を落とした。
黒紫色の筋は今も残っている。
「俺より……二人に」
「それ、さっきも言いましたよね」
シュウが少し困ったように笑うと、ディーンは口を閉じた。
「初めて使う力なんです。だから、本当に異常魔力まで治せるか確認したい。ディーンさんに効けば、ガレスさんとミーナさんにも使える可能性が上がります」
それなら意味が違う。
ディーンも理解したらしい。
「……分かりました」
「ありがとうございます」
シュウは寝台の脇へ立った。
『アルカディア』
《はい》
『使い方は?』
《対象者を認識し、生命状態を把握したうえで発動句を宣言してください。直接接触は必須ではありませんが、初回使用であることを考慮し、対象者の手または腕へ触れることを推奨します》
『黒いところに触って大丈夫?』
《《生命回帰》選択中のマスターには高位の生命保護が付与されています。また恒常耐性も存在します。ただし未知の異常魔力であるため、正常部位への接触を推奨します》
シュウはディーンの右手へ自分の手を重ねた。
少し冷たい。
生きている人間の手だ。
その感触を確かめた瞬間、能力の意味が急に現実味を帯びた。
生きているなら戻せる。
十四歳の自分は、どんな気持ちでこの能力を考えたのだろう。
最強だから。
どんな傷でも治せたら格好いいから。
たぶん、その程度だったのかもしれない。
けれど今は、その馬鹿みたいに都合のいい設定を本気で必要としている人が目の前にいる。
『発動句』
《提示します》
頭の中へ言葉が流れ込んできた。
シュウの頬が僅かに引きつる。
『これで短い方?』
《はい》
『……分かったよ》
逃げても仕方がない。
ディーンを治すために必要なら言う。
昨日までなら恥ずかしさで小声になっていたかもしれないが、今は違った。
シュウは一度息を吸い、目の前の男へ意識を集中させた。
「失われしものよ、命ある限り本来の姿へ還れ。傷も穢れも我が前に留まることを許さない――《生命回帰》」
言い終えた瞬間、客室を白緑色の光が満たした。
眩しいはずなのに、目を閉じたくなるような強さではない。
春の木漏れ日を何倍にも濃くしたような柔らかな光がシュウの手からディーンへ流れ込み、男の全身をゆっくり包んでいく。
治癒術師が息を呑んだ。
ローデリックもレイモンドも、何も言わず見守っている。
光がディーンの左腕へ届いた。
黒紫色の筋が反応する。
昨夜、光のバスターソードを近づけたときには逃げるように縮んだ異常魔力が、今度は逃げる暇さえ与えられなかった。
黒い筋の端から、少しずつ色が薄くなる。
肘。
前腕。
手首。
それだけではない。
シュウの目には、ディーンの身体の奥に残っていた黒紫色の魔力まで、白緑色の光へ溶かされるように消えていくのが見えた。
『アルカディア』
《異常魔力反応、急速に低下しています》
『ディーンさんの身体は?』
《生命活動の正常化を確認。衰弱、微細損傷、魔力消耗についても回復進行中です》
シュウは手を離さなかった。
光が弱まるまで待つ。
やがて最後に残っていた黒紫色の点が消え、ディーンの左腕から黒い筋が完全になくなった。
客室を満たしていた光も、ゆっくり薄れていく。
静かになった室内で、ディーンが自分の左手を見つめた。
指を曲げる。
開く。
もう一度握る。
「……力が入る」
声が震えていた。
治癒術師がすぐに脈を取り、額へ手を当て、呼吸を確認する。
しばらく誰も話さなかった。
シュウ自身も、結果を待っていた。
やがて治癒術師がゆっくり顔を上げる。
「熱が下がっています。脈も……正常です」
信じられないものを見るような目だった。
「昨日からの衰弱も、ほとんど感じません。魔力も回復している。少なくとも私が確認できる範囲では、健康な人間と変わりません」
「本当に?」
シュウが聞き返す。
「はい」
その一言を聞いて、シュウの肩から力が抜けた。
成功した。
能力の説明を聞いていたのだから、成功する可能性が高いことは分かっていた。
それでも実際に目の前の人間が回復するまで、安心はできなかった。
「よかった……」
自然に漏れた声だった。
ディーンはまだ自分の腕を見ている。
やがて顔を上げた。
「シュウ様」
「様はいらないですよ」
「でも……」
「俺、冒険者でも治癒術師でもないし、まだ学院にも入ってないんで」
「それでも、命を助けてもらいました」
ディーンは寝台の上で深く頭を下げようとした。
シュウは慌てて止める。
「本当にいいですって。それより、身体が治ったからって今すぐ森に行くのは駄目ですよ」
ディーンの動きが止まった。
図星らしい。
ローデリックが腕を組む。
「今、行こうと考えたな?」
「……少し」
「駄目だ」
「ですが、俺なら小屋までの道が分かります」
ディーンの表情には焦りが戻っていた。
「二人がどこにいるかも、最後に見た場所も知っています。身体が動くなら、俺も――」
「ディーンさん」
シュウはその言葉を遮るように名前を呼んだ。
「俺も行きたい気持ちは分かります」
昨日から何度も、自分も同じようなことを言っている。
だから、簡単に無茶だと切り捨てる気にはなれなかった。
「でも、今のディーンさんが行ったら、ガレスさんとミーナさんはどう思います?」
ディーンの表情が止まる。
「二人は、ディーンさんを逃がしたんですよね。外に知らせるために」
「……はい」
「それで戻ってきたら、怒るんじゃないですか?」
しばらく沈黙があった。
ディーンの右手がシーツを握る。
「……ガレスは、怒るでしょうね」
「ミーナさんは?」
「もっと怒ると思います」
ほんの少しだけ、ディーンが笑った。
苦い笑いだった。
けれど、先ほどまでの焦りだけの顔ではない。
「なら、俺たちに任せてください。道は地図と目印を教えてもらう。二人を連れて帰ってきます」
「……お願いします」
ディーンはもう一度頭を下げた。
今度はシュウも止めなかった。
その気持ちまで否定する必要はないと思った。
客室の窓から差し込む朝日は、すでにかなり高くなっている。
救助隊の準備も進んでいる。
《生命回帰》も使えることが確認できた。
あとは森へ向かうだけだった。
ただし、急がない。
焦らない。
何もかも解決しようとしない。
シュウは昨日から何度も教えられたことを、もう一度胸の中で確かめた。
今日の目的は、ガレスとミーナを助けること。
黒い森の正体を暴くことではない。
世界を救うことでもない。
たった二人を連れて帰る。
それが今日、自分たちがやるべきことだった。
屋敷の外では、出発準備を進める騎士たちの声と、馬のいななきが聞こえ始めていた。




