第10話 帰ってきた者たちと、百八十年前の記録
木々の向こうから聞こえた馬のいななきは、森を出るまでの距離がもう長くないことを教えてくれた。
その音を耳にした途端、隊列の空気がほんの少しだけ緩んだ。先頭を歩くハインツたちは武器から手を離していないし、最後尾の騎士たちも何度も背後を確認している。それでも、見張り小屋の周辺や黒い根と遭遇した場所にいたときとは、呼吸の深さが違っていた。
シュウ自身も同じだった。
森へ入ってからずっと、視界の端に黒紫色の魔力が現れないかを探していた。木を見るたび、地面を見るたび、何かが動いていないか確かめる。それを意識して続けていたつもりだったが、いつの間にか身体へ力が入り続けていたらしい。
「……肩、痛い」
小さく呟きながら首を回す。
『外傷は確認していません』
『分かってる。緊張してたんだよ』
《筋肉疲労であれば《生命回帰》による正常化も可能ですが》
『それくらいで使いたくないよ』
《能力は一度選択すれば二十四時間以内に複数回使用可能です。使用回数を節約する必要性はありません》
『そういう問題じゃなくてさ』
疲れたから最強治癒能力。
少し肩が凝ったから生命回帰。
そんな使い方を始めたら、人として何か大事な感覚を失う気がする。
《十四歳当時のマスターは「俺に疲労という概念は存在しない」と記述しています》
『じゃあなんで肩凝ってるんだよ』
《現実との齟齬が発生しています》
『設定負けしてるじゃん』
危うく声に出して笑いそうになり、シュウは口元を押さえた。
その動きを見ていたローデリックが眉を上げる。
「どうした?」
「ちょっと昔の自分に負けてた」
「何の話だ?」
「気にしないで」
父は怪訝そうな顔をしたものの、追及はしなかった。
シュウのすぐ後ろでは、救助したエドガーが騎士に支えられながら歩いている。《生命回帰》によって身体は正常な状態へ戻っているため、怪我や衰弱そのものは残っていない。
それでも足取りは慎重だった。
三日間。
本人の記憶が正しいなら、その間ずっと森の異常魔力へ影響されていたことになる。
身体が治ったからといって、失われた三日間への戸惑いまで消えるはずがない。
「エドガーさん、大丈夫?」
シュウが振り返る。
「あ、はい」
エドガーは少し遅れて答えた。
「身体は、本当に何ともありません。ただ……」
「記憶?」
「はい」
彼は自分の両手を見る。
「三日前、木を切っていたところまでは覚えています。鐘みたいな音がして、木が開いて……そこから黒い霧が出てきて……」
言葉が途切れる。
「次に覚えているのが、さっきなんです」
シュウが《生命回帰》を使ったあと。
その間がない。
「無理に思い出さなくていい」
ローデリックが前を向いたまま言った。
「領都へ戻ってから、体調を確認した上で必要なことだけ聞く。今は森を出ることを考えろ」
「……ありがとうございます、男爵様」
「礼は帰ってからでいい」
ローデリックの声は普段と変わらない。
それがエドガーには安心できたらしい。
少しだけ肩から力が抜けた。
シュウはその様子を見ながら、もう一度周囲へ意識を向けた。
黒紫色の魔力は残っている。
完全に消えたわけではない。
けれど、往路と比べれば明らかに薄い。
黒く変色していた木も、少しずつ本来の色へ戻っている。
地面の下を動いていた反応も少ない。
鳥の声も聞こえるようになった。
異変が収まりつつある。
そう思いたくなる。
ただ、エドガーを操っていたものは北北東へ逃げていった。
消えたのではない。
移動した。
そこだけは忘れてはいけない。
「出口です!」
先頭の騎士が声を上げた。
木々が途切れる。
光が強くなる。
旧西監視路の入口。
森の外。
その向こうに馬と二人の騎士が見えた。
「旦那様!」
待機していた騎士たちがこちらへ駆け寄ってくる。
最初は七人だった。
戻ってきた人数が増えていることに気づき、二人の表情が変わった。
「ガレス殿とミーナ殿ですか!?」
「ああ」
ハインツが答える。
「二名とも救助した。それからもう一名いる」
騎士の視線がエドガーへ向く。
「森の中で発見した。詳細は帰還後だ」
「承知しました!」
馬たちも人の気配に落ち着かない様子で首を動かしていたが、近づいた騎士が手綱を取り、鼻面を撫でると少しずつ静かになった。
シュウは森から完全に一歩出る。
足元が土から草へ変わる。
頭上を覆っていた枝葉がなくなり、青空が広がった。
「……出た」
たったそれだけのことなのに、胸の奥から息が漏れた。
振り返る。
森は普通に見える。
外から見れば、やはり何も起きていないようにしか見えない。
緑の木々。
風に揺れる葉。
鳥の声。
昨日までと変わらない北部森林。
その奥に、黒い木がある。
地面の下には黒紫色の異常魔力が残っている。
古い見張り小屋の床下には、アルヴェインの名が刻まれた石の扉がある。
そして、さらに北北東。
木の中に地下へ続く階段が現れたという場所がある。
「シュウ」
「うん?」
「戻るぞ」
ローデリックが馬の手綱を受け取りながら言う。
「森を見るのは帰ってからでもできる」
「屋敷からは見えないけど」
「そういう意味ではない」
「分かってる」
シュウも自分の馬へ近づいた。
そのとき、ミーナが森の入口で足を止めていることに気づく。
彼女は何も言わず、木々の奥を見つめていた。
「ミーナさん?」
声をかける。
ミーナは少し遅れて振り返った。
「あ……すみません」
「大丈夫?」
「はい。ただ……本当に出られたんだなって」
その声に、シュウは何も返せなかった。
ミーナは森へ入ったとき、まさか戻れなくなるとは思っていなかったはずだ。
いつもの薬草採取。
いつもの護衛。
いつもの森。
それが途中から、道を塞がれ、根に追われ、仲間が傷つき、古い小屋へ逃げ込むことになった。
ディーンを外へ送り出したあと、残った二人は救助が来る保証もないまま夜を越した。
「ディーン、怒るかな」
ミーナが小さく言う。
「なんで?」
「私たちが残ったから」
「ディーンさんも同じことしてたと思うよ」
「そうでしょうね」
少し笑った。
その笑顔は、ようやく森を出た人間のものだった。
◇
帰りの道では、来たときより速度を落とした。
救助した三人を無理に歩かせる必要はない。
ガレスとミーナには馬を使ってもらい、エドガーも騎士の後ろへ乗せた。
シュウたちも騎乗し、領都を目指す。
森から離れるにつれて、景色が少しずつ日常へ戻っていった。
草原。
低い丘。
畑。
遠くで作業する人々。
風に運ばれてくる土と草の匂い。
森の中ではあれほど神経を尖らせていたのに、農具を振るう人の姿が見えるだけで妙に安心する。
「人がいるっていいな……」
シュウが呟く。
隣を進むローデリックが聞き取った。
「森にもいたぞ」
「そういう意味じゃなくて」
「分かっている」
「じゃあ言わなくていいじゃん」
「お前の反応が面白い」
「父さん、アルカディアと同じことするようになってない?」
「誰だ、それは」
「何でもない!」
しまった。
思いきり名前を出した。
シュウは前を向く。
ローデリックの視線が横から刺さる。
「今、アルカディアと言ったか?」
「言ってない」
「言ったな」
「気のせい」
「昨日、お前が説明した特別な魔導書の名か?」
逃げられなかった。
シュウは小さく息を吐く。
「……そう」
「なるほど」
ローデリックはそれ以上驚かなかった。
「いい名だな」
「そういうのいいから」
「何がだ?」
「いや……何でもない」
予想通りだった。
この世界では普通に格好いいらしい。
『高評価ですね』
『黙ってて』
《《禁書アルカディア》という名称は、十四歳当時のマスターが七十六案から――》
『そんなに考えたの!?』
《はい》
『知りたくなかった……』
頭が痛くなりそうだった。
「また難しい顔をしているぞ」
「昔の俺に殴られてる」
「今日は妙なことを言うな」
「今日はじゃなくて、これから増えるかもしれない」
「学院で友人ができるか心配になってきた」
「父親がそれ言う?」
少し前を進むハインツの肩が揺れた。
今度は明らかに笑っている。
シュウは抗議しようとしたが、やめた。
森を出た。
救助した。
帰れる。
その安心があるから、こういう会話ができる。
それだけで十分だった。
◇
領都の北門が見えてきたころには、昼をかなり過ぎていた。
門の周辺には普段より人が多い。
行きに領主と騎士団が北へ向かう姿を見た住民たちが、何があったのか気にしていたのだろう。騎士が不用意に集まらないよう伝えていたらしいが、それでも商店や家の前からこちらを見ている人は少なくなかった。
「戻ってきた!」
誰かが声を上げた。
ざわめきが広がる。
「男爵様だ」
「怪我人は?」
「人が増えてないか?」
「助かったのか?」
視線が一斉に集まる。
シュウは少し居心地が悪くなった。
自分たちが森へ入ったことを、思っていた以上に多くの人が知っている。
ローデリックは馬を止めなかった。
ただ、門を通るところで速度を落とした。
「北部森林で行方の分からなくなっていた者は救助した」
大声ではない。
それでも周囲が静かになっていたため、よく通った。
「現在、確認できている救助者は全員生存している。森の異常についてはまだ調査中だ。正式な知らせが出るまで、北部森林の奥へは入らないでほしい」
住民たちの間から安堵の息が漏れる。
誰かが「よかった」と言った。
別の場所からも同じ言葉が聞こえる。
ガレスとミーナは馬上で何度も頭を下げていた。
エドガーは、自分がどこにいるのか確かめるように町並みを見回している。
「本当に……アルヴェインの町だ」
彼が呟く。
「三日前から記憶ないんだよね」
シュウが声をかける。
「はい」
「リース村には家族いる?」
エドガーの表情が変わった。
「妻と、娘が」
声が詰まる。
「俺が三日も帰ってないなら……」
ローデリックがすぐにハインツを見る。
「リース村へ伝令を出せ」
「はい」
「エドガー・レムを保護した。本人は無事だと家族へ伝えろ。森を通るな。東回りの街道を使え」
「承知しました」
騎士が一人、隊列から離れる準備をする。
「男爵様……」
エドガーの目が赤くなっていた。
「ありがとうございます」
「まだ礼は早い」
ローデリックは前を向いたまま答える。
「家族に会ってから言え」
シュウは父を見た。
領主。
昨日から何度も、その姿を見ている。
自分にとっては昔から父親だった。
朝食で薬を持ったか確認され、兄と一緒に冗談を言い、母に怒られる父。
けれど、領民にとっては違う。
こういうときに判断する人なのだ。
シュウは学院へ行ったあと、自分が何になるのかまだ決めていない。
冒険者にはなりたい。
世界も見たい。
ただ。
人を助けるということが、強い魔法を使うことだけではないと、この二日で何度も見せられている気がした。
◇
屋敷へ到着すると、玄関前にはエレノアとレイモンドが待っていた。
朝に見送ったときと同じ場所。
ただし、今度のエレノアはシュウの姿を確認すると、周囲の目も気にせずまっすぐこちらへ歩いてきた。
「シュウ」
「ただいま」
馬から降りる。
言い終わるより先に、母の両手がシュウの肩へ触れた。
顔。
腕。
外套。
怪我がないかを目で確かめている。
「怪我は?」
「ない」
「本当に?」
「本当」
「能力で治したのではなく?」
「自分には使ってないよ」
そこまで答えて、シュウは少し笑った。
「ちゃんと無傷で帰ってきた」
エレノアの肩が僅かに下がった。
「……そう」
短い返事だった。
けれど、声に混じった安堵は隠せていない。
「約束守ったよ」
「ええ」
母は一度だけ目を閉じ、それからシュウの頬へ手を当てた。
「お帰りなさい」
「ただいま」
今度は、ゆっくり返した。
その横からレイモンドが近づく。
「父上は?」
「無事」
「無茶は?」
「したような、してないような」
「シュウ」
後ろからローデリックの低い声が飛んできた。
「何?」
「正確に答えろ」
「じゃあ、俺をちゃんと止めてた」
「ならよし」
レイモンドが頷く。
「父上にしては上出来だ」
「お前たち、帰って早々俺への扱いが酷くないか?」
「普段の積み重ねでしょう」
エレノアが淡々と言った。
ローデリックが黙る。
騎士たちの何人かが顔を逸らした。
笑っている。
屋敷の使用人たちも、主人一家のやり取りを見て緊張を解いたようだった。
その空気が変わったのは、ガレスとミーナが前へ出たときだ。
「男爵様」
二人は揃って頭を下げようとした。
「やめろ」
ローデリックが止める。
「まず中へ入れ。話はそれからだ」
「ですが――」
「森から戻ったばかりの人間を玄関先で立たせて礼を聞く趣味はない」
ガレスは何か言おうとして、諦めた。
「……ありがとうございます」
「それもあとだ」
今度こそ二人は小さく笑った。
エドガーについても事情が説明され、使用人が休める部屋へ案内する。
その途中。
屋敷の奥から声が聞こえた。
「ガレス!?」
全員が振り返る。
客室側の廊下から、一人の男が走ってきた。
ディーンだった。
「ミーナ!」
「ディーン!」
ミーナが駆け出す。
今度は誰も止めなかった。
二人の距離が縮まり、ミーナが勢いよくディーンの胸を叩いた。
「痛っ!」
「馬鹿!」
「なんで俺が殴られるんだよ!?」
「一人で行くとか言うから!」
「お前らが行けって言ったんだろ!」
「それでも!」
もう一度叩く。
ディーンは困った顔をした。
けれど、離れない。
ガレスもゆっくり近づく。
「ディーン」
「……ガレス」
二人はしばらく見つめ合った。
言葉が出ない。
先にディーンが拳を出した。
ガレスも拳を合わせる。
「遅えよ」
「お前が早すぎるんだ」
「俺、街道で倒れたんだぞ」
「なら大して早くないな」
「お前なあ……」
声が震えている。
笑っているのに、目は赤い。
ミーナも泣いていた。
三人が揃った。
シュウは少し離れた場所から、その光景を見ていた。
ディーンが昨日言っていた。
二人を助けてほしい。
自分だけ逃げてきた。
ガレスとミーナは、ディーンを外へ送り出した。
誰か一人でも知らせなければ、全員が森の中で消えるかもしれなかったから。
結果として、その判断が三人を繋いだ。
「よかったね」
隣に来たエレノアが小さく言った。
「うん」
シュウは素直に頷く。
「本当に」
これでいい。
森の謎が残っていても。
石扉が何なのか分からなくても。
今日は三人が揃った。
それだけで、森へ行った意味は十分にあった。
◇
遅めの昼食と短い休憩を挟んだあと、ローデリックは関係者を小会議室へ集めた。
参加したのはローデリック、エレノア、レイモンド、シュウ、ハインツ。それにディーン、ガレス、ミーナ、エドガーもいる。
救助された四人については、全員が休息後に改めて治療師の診察を受けている。
ディーンを含め、身体的な異常は確認されなかった。
《生命回帰》で消えた黒紫色の魔力も戻っていない。
それを確認できたことは大きかった。
「まず」
ローデリックが机の上へ広げた地図を見る。
「分かっていることだけを並べる。推測はあとだ」
地図には北部森林と周辺の道が描かれている。
ハインツが往路と帰路で記録した位置を印していく。
「最初に異常が確認されたのは、ディーンたちが月白草の採取地へ向かっていた途中」
黒い木。
地中の音。
増える黒化。
追ってくる根。
古い見張り小屋。
「見張り小屋周辺では、黒い根が内部へ侵入しにくい」
シュウが続ける。
「小屋の木材に、黒いのとは違う白っぽい魔力が残ってた」
「その白い魔力は、床が破られそうになったとき強く発光した」
ハインツが補足する。
「黒い液状のものを押し戻すような反応を確認しています」
ローデリックが記録へ書き込む。
「床下には石扉」
「はい」
ガレスが答える。
「中央に丸い窪み。その周囲に読めない文字です。白く光ったとき、その一部がアルヴェインと読めました」
「小屋の光は、シュウにも反応した」
エレノアの視線が息子へ向く。
その話は帰還直後に簡単に伝えてある。
「『帰ってきた』、だったわね?」
「うん」
「アルカディアも同じ意味を受け取った」
言ってから、シュウは少し気まずくなる。
もう家族には名前まで知られている。
レイモンドが興味深そうに見る。
「アルカディアというのが、その魔導書の名か」
「そう」
「禁書アルカディア?」
「なんで禁書まで知ってるの?」
「父上から聞いた」
シュウが父を見る。
「父さん!」
「家族内で共有しておいた方がいいだろう」
「名前まで!?」
「立派な名ではないか」
レイモンドが真面目に頷く。
「俺もそう思う」
「お願いだから今は森の話しよう」
これ以上掘られたくない。
エレノアまで「響きが綺麗ですね」と言い始めたため、シュウは強引に地図へ視線を戻した。
『ご家族から高い評価を――』
『アルカディアも黙って』
《承知しました》
会議は続く。
「次にエドガー」
ローデリックが地図の北側を見る。
「リース村から森へ入り、三日前に異常へ遭遇した」
「はい」
エドガーが自分の入った場所を指す。
旧西監視路とはかなり離れている。
「いつもの伐採場所は、この辺りです」
「そこで鐘のような音を聞いた」
「はい。一度だけ」
「そのあと木が開いた」
「……はい」
エドガーは今でも信じられないような表情をしていた。
「幹が左右に割れました。割れたというより、本当に扉みたいに開いたんです」
「木はどれくらいの大きさだった?」
「大人二人でも抱えきれないくらいです。あの辺りでは一番古い木の一つだと思います」
「中に階段」
「下へ続いていました」
「降りたのか?」
「いいえ」
エドガーはすぐ首を振る。
「近づく前に黒い霧が出てきました。そこから先は……」
「覚えていない」
「はい」
ローデリックが地図へ印をつける。
旧西監視路の見張り小屋。
エドガーの伐採場所。
二つは離れている。
「シュウ。帰路で異常魔力が逃げた方向は?」
「北北東」
「この地図なら?」
シュウは少し考え、アルカディアにも確認する。
『方向、合わせられる?』
《往路および帰路の移動情報から概算可能です》
頭の中へ方角の感覚が示される。
シュウは地図の一点を指した。
「たぶん、こっち」
ハインツが眉を寄せる。
「エドガー殿の伐採場所に近い」
「うん」
完全に一致するわけではない。
それでも同じ方向だ。
「ここから先は推測だ」
ローデリックが全員を見る。
「黒い異常の中心がエドガーの見た場所にある可能性はある。しかし、まだ決めつけない」
誰も異論を挟まない。
「もう一つ」
シュウが手を上げる。
「帰り道で、黒い木が戻り始めてた」
「そうだったな」
「地面の魔力も弱くなってた。鳥も戻ってきてた」
「原因は?」
「分からない」
シュウははっきり答える。
「見張り小屋が光ったからかもしれないし、別の理由かもしれない。エドガーさんを治したあと、黒い魔力が北北東へ逃げたから、それで周りが薄くなった可能性もある」
「よし」
ローデリックが頷く。
「分からないことを分からないまま記録する」
地図の横へ複数の項目が並ぶ。
見張り小屋。
白い魔力。
石扉。
アルヴェイン。
帰ってきた。
黒い木。
根。
黒い液体。
北北東。
鐘。
開く木。
地下階段。
並べれば並べるほど、シュウには一つの事件というより、複数の謎が重なっているように見えた。
「これ、明日調べに行くの?」
シュウが尋ねる。
部屋の空気が僅かに変わる。
明日。
本来なら。
「お前は学院へ出発する予定だった」
ローデリックが言った。
「……うん」
忘れていたわけではない。
でも、頭の隅へ追いやられていた。
王立魔法学院。
入学。
王都。
つい二日前までは、それが自分にとって一番大きな出来事だった。
「延期できる?」
シュウが尋ねる。
エレノアが息子を見る。
レイモンドも何も言わない。
ローデリックはすぐに答えなかった。
「お前は残りたいのか?」
逆に聞かれる。
「……分からない」
シュウは正直に答えた。
「森は気になる。アルヴェインって書いてあるなら、家のことかもしれないし。俺に『帰ってきた』って言ったのも気になる」
机の下で手を握る。
「でも、学院にも行きたい」
王都を見たい。
魔法を学びたい。
友人も作りたい。
その先で冒険者になって、世界を回りたい。
それは異変が起きる前から自分が望んでいたことだ。
「残らなきゃいけないって言われたら残る。でも、自分から全部やめたいわけじゃない」
言葉にしてみると、少しだけ気持ちが整理された。
ローデリックは黙って聞いていた。
「なら、今は決めなくていい」
「え?」
「今日中に古い記録を調べる」
父は机上の地図を指で軽く叩く。
「森への立ち入りは禁止する。騎士団には外周の監視だけさせる。異変が再び広がる兆候がなければ、明日すぐ再調査する必要はない」
「でも」
「お前がいなければ何もできない領地では困る」
その言葉は強かった。
「異常魔力を見る力は確かに役立つ。治癒能力もそうだ。だが、だからといって十七歳の息子を領地へ縛りつけていい理由にはならん」
シュウは父を見る。
「学院へ行くことも、お前の人生だ」
隣でエレノアが小さく頷いた。
「まだ行かないと決まったわけではありません」
「……うん」
「それに」
レイモンドが口を開く。
「お前が学院へ行けば、王都で調べられることもある」
「王都で?」
「古い魔法、古代文字、領地史。王立魔法学院には、うちの書庫より遥かに多くの資料があるだろう」
「あ」
考えていなかった。
「石扉の文字を写せれば、学院で調べられる?」
「可能性はある」
「でも、まだ扉見てない」
「だから順番だ」
ローデリックが言う。
「今日、記録を調べる。必要なら次の調査隊を組む。お前が参加するかはそのとき決める。学院の出発を一日程度ずらす必要があるなら、それも考える」
「分かった」
今すぐ全部決めなくていい。
それだけで少し楽になった。
◇
会議が終わったあと、ローデリックとレイモンドはそのまま屋敷の書庫へ向かった。
シュウも当然ついていこうとした。
「お前は休め」
「なんで!?」
「森から帰ったばかりだからだ」
「父さんだって一緒に行ったじゃん!」
「俺は領主だ」
「便利だな、その言葉!」
「便利だから使っている」
正面から言われた。
シュウはエレノアを見る。
助けを求める。
「休みなさい」
「母さんまで」
「一刻だけです」
「一刻も?」
「では二刻」
「増えた!」
「三刻にしますか?」
「一刻でお願いします」
勝てない。
シュウは自室へ戻された。
身体は疲れている。
認めたくないが、ベッドへ腰を下ろした瞬間にそれが分かった。
「……あー」
そのまま後ろへ倒れる。
柔らかな寝具が身体を受け止める。
天井。
見慣れた自室。
朝ここを出たときは、森から戻った自分が何を考えているのか想像もできなかった。
『アルカディア』
《はい》
『今日、結構すごかったな』
《具体的にはどの事象を指しますか?》
『色々』
ガレスとミーナを見つけた。
二人を治した。
エドガーを助けた。
《生命回帰》が離れた相手にも届くと分かった。
治療後の残留魔力が、異常魔力の再侵入を拒むこともあった。
白い魔力。
石扉。
アルヴェイン。
帰ってきた。
頭の中に並べるだけで疲れる。
『俺、本当に明日学院行くのかな』
《希望されているのでしょう?》
『行きたいよ』
《では、行く方向で考えることを推奨します》
『森は?』
《マスター一人が解決しなければならない理由はありません》
父と同じことを言われた。
『でも俺しか見えないものもある』
《それは事実です》
『じゃあ』
《見えることと、すべてを背負うことは同義ではありません》
シュウは黙った。
アルカディアの言葉にしては、妙にまともだった。
『それも十四歳の俺が書いた?』
《いいえ》
すぐ返ってきた。
シュウは少しだけ目を開く。
『……アルカディアが考えたの?』
《現在得られている情報から判断しました》
『そっか』
《何か問題が?》
『いや』
ない。
ただ。
アルカディアはノートに書いた設定をそのまま読み上げるだけの存在ではないのかもしれない。
そんなことを思った。
けれど、それについて考える前に瞼が重くなる。
『一刻経ったら起こして』
《承知しました》
『絶対だぞ』
《はい》
『二刻とか寝かせるなよ』
《マスターの母君から追加命令を受けることはできませんので》
『それなら安心……』
そこで意識が途切れた。
◇
《マスター》
「……ん」
《起床を推奨します》
「あと五分」
《五分という単位はこの世界では一般的ではありません》
「前世の感覚で分かるだろ……」
《理解はしています》
「じゃあ五分……」
《一刻経過しました》
シュウは目を開けた。
「……本当に起こした」
《命令でしたので》
窓から入る光が少し傾いている。
身体を起こす。
短く眠っただけなのに、かなり楽になっていた。
「父さんたちは?」
《私はこの部屋の外部情報を限定的にしか取得できません》
「そうだった」
ベッドから降りる。
顔を洗い、服を整える。
廊下へ出ると、ちょうど使用人が歩いてきた。
「シュウ様」
「父さん、まだ書庫?」
「はい。旦那様とレイモンド様が調べておられます」
「母さんは?」
「救助された皆様の様子を確認されています」
「ありがとう」
シュウは書庫へ向かう。
屋敷の西側。
普段あまり使わない廊下の先に、アルヴェイン家の書庫がある。
豪華なものではない。
領地経営の記録。
税。
作物。
災害。
魔物。
道路。
代々の当主が残した文書。
古いものになるほど整理が怪しくなる。
扉を開けると、紙と埃の匂いがした。
「来たか」
レイモンドが振り返る。
机の上には何冊もの古い記録帳が積まれている。
「何かあった?」
「まだ決定的なものはない」
「まだ?」
その言い方が気になった。
ローデリックは奥の棚から一冊の分厚い帳面を取り出している。
「北部森林の監視所については記録があった」
「本当!?」
シュウは机へ近づく。
「旧西監視路が整備されたのは、およそ百八十年前。当時は今より北部森林の魔物が多く、領都へ近づく個体を監視するため、複数の小屋が建てられた」
「じゃあ、あの見張り小屋も?」
「年代は一致する」
「白い魔力のことは?」
「今のところない」
「地下の扉は?」
「それもない」
期待した分、少し落ち込む。
「じゃあ普通の見張り小屋?」
「表向きの記録ではな」
レイモンドが一枚の紙を差し出した。
「これを見ろ」
古い記録の写しらしい。
文字は読める。
建設された監視所の場所。
使われた木材。
必要な人員。
費用。
「……普通じゃない?」
「ここ」
兄が指す。
建材の欄。
シュウは読む。
「北部森林産の……白樹材?」
「現在、この領地で白樹材という名称の木材は使われていない」
「昔の名前?」
「その可能性はある」
ローデリックが別の記録を机へ置いた。
「だが、もっと妙なのはこちらだ」
古い支出記録。
監視小屋の建設費。
いくつか数字が並んでいる。
シュウには何がおかしいのか分からない。
「高いんだ」
父が言った。
「どれくらい?」
「普通の見張り小屋の三倍近い」
「なんで?」
「分からん」
ローデリックは記録を指でなぞる。
「しかも、旧西監視路の他の小屋は通常の費用だ。高いのは、お前たちが今日行った場所に建てられた一棟だけ」
シュウは紙を見る。
「白樹材だから?」
「それも可能性の一つだ」
「でも、なんで見張り小屋一個だけ高い木を使うの?」
「それを調べている」
なるほど。
まだ答えではない。
ただ、手掛かりはあった。
「百八十年前か……」
シュウは呟く。
「そのころの当主って?」
「俺から六代前だ」
ローデリックが棚を見る。
「エドワルド・アルヴェイン」
「その人の記録は?」
「今探している」
シュウも棚へ目を向ける。
百八十年前。
六代前の当主。
白い魔力を帯びた木材。
普通の三倍の建設費。
床下に隠された石扉。
「手伝う」
「休んだのか?」
「一刻きっちり」
「ならいい」
許可が出た。
シュウは別の棚へ向かう。
「何探せばいい?」
「エドワルドの治世記録。北部森林、監視所、白樹材、その辺りだ」
「分かった」
三人で探す。
紙をめくる音。
本を動かす音。
埃で何度かくしゃみをする。
派手さはない。
魔法も使わない。
それでもシュウは、森で戦っていたときとは違う意味で集中していた。
一冊。
違う。
二冊。
税の記録。
三冊目。
魔物討伐。
「これも違う」
棚へ戻す。
さらに奥。
背表紙の文字が消えかけた薄い本。
手に取る。
開く。
最初の数ページは領内の井戸整備。
次は橋。
その次。
「……北部森林」
シュウの手が止まる。
「父さん」
「何かあったか?」
「これ」
二人が寄ってくる。
ページ上部。
年号。
百八十二年前。
エドワルド・アルヴェインの時代。
内容を読む。
「北部森林西域における……旧施設の再利用?」
シュウが声に出す。
ローデリックの表情が変わった。
「再利用?」
「うん」
続ける。
「既存の……石室を……」
文字が薄い。
紙も傷んでいる。
それでも読める。
「覆う形で監視小屋を建設する」
書庫が静かになった。
シュウは顔を上げる。
「小屋より先に、地下があった?」
「ああ」
ローデリックが記録を受け取る。
慎重に読む。
「見張り小屋を建てたときに石室を作ったんじゃない」
レイモンドも覗き込む。
「元から存在した石室を隠すように小屋を建てた」
シュウの胸が高鳴る。
「続きは?」
「待て」
父が読み進める。
記録には数行しかない。
旧施設。
石室。
白樹材。
監視小屋。
そして。
ローデリックの指が止まった。
「何?」
「ここだ」
シュウとレイモンドが見る。
古い文字。
少し崩れている。
「何て書いてある?」
ローデリックがゆっくり読む。
「『北の封所は、アルヴェインの血統により管理を継続する』」
シュウは息を止めた。
「封所?」
「そう書いてある」
「何を封じてるの?」
「分からん」
記録はそこで終わっている。
次のページは別の話だ。
「待って。じゃああの石扉って」
「可能性は高い」
ローデリックの声が低くなる。
「見張り小屋の地下にあるものが、この『北の封所』なのかもしれん」
「アルヴェインの血統で管理……」
シュウはその言葉を繰り返す。
白い魔力が自分へ触れた。
帰ってきた。
そう伝わった。
自分はアルヴェイン家の人間だ。
なら。
「俺に反応したのって……」
「血統を認識した可能性はある」
レイモンドが言う。
シュウは兄を見る。
「兄さんでも反応する?」
「それは分からん」
「父さんも?」
「分からん」
ローデリックは記録から目を離さない。
「調べる価値はある。だが、今すぐ森へ戻る気はないぞ」
「分かってる」
先に釘を刺された。
シュウはもう一度記録を見る。
百八十二年前。
北の封所。
アルヴェインの血統。
「他に記録ないの?」
「探す」
三人で再び棚を見る。
今度は探す言葉が増えた。
封所。
石室。
血統。
エドワルド。
北部森林。
そして、しばらくして。
「父上」
レイモンドが一冊の小さな帳面を見つけた。
先ほどの公的な記録とは違う。
革張り。
かなり古い。
「これ、エドワルド本人の手記かもしれません」
ローデリックが受け取る。
表紙を開く。
最初のページ。
そこには名前があった。
エドワルド・アルヴェイン。
「当たりだ」
シュウが身を乗り出す。
「読もう」
「待て。古い。破くな」
「触ってないよ」
三人で机へ移動する。
慎重にページを開く。
日常的な記録が続く。
領内の作物。
家族。
騎士。
北部森林。
数ページ。
十数ページ。
そして。
「……あった」
ローデリックの指が止まる。
日付。
百八十一年前。
文章は短い。
けれど、そこに書かれた一文を読んだ瞬間、シュウの背筋へ冷たいものが走った。
「何て?」
ローデリックは黙っていた。
「父さん?」
数秒後。
ようやく口を開く。
「『今年も北の封所を確認。白樹は未だ役目を果たしている』」
白樹。
小屋に使われた木材。
「続きは?」
「『扉に異常なし。森の底も静かである』」
シュウは眉を寄せる。
「森の底?」
「分からん」
さらに次。
「『我らが忘れぬ限り、あれは眠り続ける』」
そこで文章が途切れる。
次の日付は数日後。
全く別の内容。
「……あれって何?」
「書いていない」
「なんで!」
「俺に怒るな」
「百八十年前のご先祖に言ってる!」
シュウは頭を抱えたくなった。
こういう記録に限って、一番知りたいことを書いていない。
『物語的には典型的な情報制限ですね』
『誰目線だよ』
《なお、十四歳当時のマスターも「古文書には全てを書かず謎を残すべし」と――》
『ご先祖と十四歳の俺を一緒にするな!』
頭の中で叫ぶ。
けれど。
ローデリックは笑わなかった。
手記を見つめている。
「父さん?」
「これが事実なら」
声が低い。
「俺たちの代まで、管理が引き継がれていなければならなかった」
シュウも表情を戻す。
そうだ。
百八十年前には、アルヴェイン家が北の封所を管理していた。
それなのに現当主のローデリックは知らない。
「どこかで途切れた?」
「そういうことになる」
「いつ?」
「それを調べる」
レイモンドが手記を慎重に閉じる。
「父上。六代前から順番に当主の記録を追いましょう」
「ああ」
「今日は全部?」
シュウが尋ねる。
「できるところまでだ」
「俺もやる」
「夕食までだぞ」
「分かってる」
書庫の窓から差し込む光は、すでに夕方の色へ近づき始めていた。
学院へ出発する予定だった前日。
本来なら荷物の最終確認をして、家族とゆっくり夕食を取るだけの日だったはずだ。
それが今。
百八十年前の先祖の手記を囲んでいる。
シュウは改めてページを見る。
北の封所。
白樹。
森の底。
眠り続ける「あれ」。
そして、今の森で起きている黒い異常。
関係があるのかは、まだ分からない。
勝手に繋げてはいけない。
ただ。
『アルカディア』
《はい》
『「帰ってきた」って、やっぱり俺がアルヴェインだからかな』
《可能性は上昇しました》
『断定は?』
《できません》
『だよな』
それでいい。
まだ分からない。
だから調べる。
シュウは次の記録へ手を伸ばした。
そのとき、書庫の扉が開いた。
「あなたたち」
エレノアだった。
三人が揃って振り返る。
「夕食です」
「もうそんな時間?」
シュウが窓を見る。
「そんな時間です」
「あと少しだけ――」
「シュウ」
「はい」
反射的に返事をした。
エレノアは夫と長男も見る。
「ローデリック。レイモンド」
「分かった」
「すぐ行きます」
二人とも早い。
「俺だけ扱い違わない?」
「普段の積み重ねだ」
父から、朝に自分が言われた言葉を返された。
「根に持ってたの!?」
「何の話だ?」
とぼけている。
シュウは呆れながら立ち上がった。
今日はもう十分だ。
森へ入り。
三人を連れて戻り。
古い記録まで見つけた。
続きは食事のあとでもいい。
明日でもいい。
何でも今すぐやる必要はない。
書庫を出る前。
シュウは一度だけ振り返った。
机の上には、百八十一年前の手記が置かれている。
その開かれたページ。
最後に見えた一文。
――我らが忘れぬ限り、あれは眠り続ける。
けれど。
アルヴェイン家は、その存在を忘れていた。
そして今。
北部森林では、何かが目を覚まそうとしているのかもしれない。
それでもシュウは、まだ知らない。
明日、自分が予定通り王都へ向かうことになるのか。
もう一度森へ入ることになるのか。
あるいは、この百八十年前の記録が、そのどちらとも違う道を示すのか。
答えは、まだ書庫のどこかに眠っていた。




