第11話 忘れたのは、誰だったのか
書庫の扉を閉めても、百八十一年前の言葉はシュウの頭から離れなかった。
――我らが忘れぬ限り、あれは眠り続ける。
夕方の廊下には、西側の窓から橙色の光が長く差し込んでいた。古い床板を踏むたびに小さな音が響き、少し先を歩くエレノアの影と、その後ろを歩くローデリックとレイモンドの影が重なったり離れたりしている。
つい先ほどまで書庫に籠もっていたせいか、シュウには屋敷の空気が妙に明るく感じられた。
厨房の方からは焼いた肉の匂いが漂ってくる。使用人たちが夕食の準備を進める音も聞こえ、どこかの窓から入り込んだ風が廊下に飾られた古い布飾りを静かに揺らしていた。
いつもの家だ。
北部森林で黒い根に追われたことも、その地下に得体の知れない魔力が動いていることも、この屋敷の中だけを見ていれば遠い出来事のように思えてしまう。
「シュウ」
前を歩いていたエレノアが振り返った。
「はい?」
「考えるのは食事のあとにしなさい」
「顔に出てた?」
「あなたは昔から、何か考え込むと眉間に力が入りますから」
そう言われ、シュウは指先で眉間を触った。
確かに少し皺が寄っていたらしい。
「母さん、よく見てるね」
「母親ですから」
「俺は気づかなかったぞ」
ローデリックが口を挟む。
エレノアが夫へ視線を向けた。
「あなたはシュウが五歳のころ、熱を出しているのに『今日は随分静かだな』で済ませた人でしょう」
「十年以上前の話を持ち出すのか?」
「あのとき三十八度以上ありました」
「ちゃんと医者は呼んだ」
「私が呼びました」
「……そうだったか?」
ローデリックの声が少し弱くなる。
レイモンドが何も言わず父から目を逸らした。
「兄さん、笑ってる?」
「笑っていない」
「口元」
「気のせいだ」
「お前たちは誰の味方なんだ」
ローデリックが息子二人を交互に見る。
シュウとレイモンドはほぼ同時にエレノアを見た。
「母さん」
「母上です」
「即答するな」
廊下の端で花瓶を整えていた若い使用人が肩を震わせた。こちらの視線に気づくと慌てて頭を下げたものの、エレノアは咎めることなく、そのまま食堂へ向かっていく。
ほんの数分前まで、百八十年以上前の封印について話していた。
それでも家族で歩けば、こういう会話になる。
シュウはそのことに、少しだけ救われていた。
森で起きていることは怖い。分からないことが多すぎて、放っておけば何か大変なことになるのではないかという不安もある。
けれど、だからといって朝から晩まで緊張していればいいわけではない。
父が何度も言っていた。
今日やらなくていいことまで、今日やる必要はない。
食堂へ入ると、既に夕食の支度は整っていた。
普段より少し遅い時間になったため、窓の外には薄い藍色が混じり始めている。卓上には野菜の煮込みと焼いた鶏肉、柔らかな白パンが並び、湯気の立つスープから香草の匂いが漂っていた。
シュウが席へ着くと、急に空腹を自覚した。
「……腹減った」
「昼もちゃんと食べたでしょう?」
「食べたけど、森歩いたし」
「ならたくさん食べなさい」
エレノアの許可を得たので、遠慮なくパンへ手を伸ばす。
ローデリックも席へ着き、レイモンドが向かいへ座った。使用人たちが飲み物を注いでから一歩下がると、ようやく遅い夕食が始まった。
最初の数分、会話はほとんどなかった。
シュウはスープを口へ運び、思っていた以上に身体が食事を欲していたことへ気づく。昼食も取ったはずなのに、温かなものが胃へ入るたび、森から帰ってきた実感がもう一段深くなっていく。
『栄養摂取を確認しました』
『食事くらい普通にさせてくれ』
《本日は活動量が通常より多いため、十分な摂取を推奨します》
『それは分かってる』
《十四歳当時のマスターは「真の強者は食事すら魔力へ変換する」と――》
『ご飯食べてるときまで黒歴史出してこないで』
《食事に関連する設定でしたので》
『関連検索するな』
思わず鶏肉を噛む力が強くなる。
向かいのレイモンドが怪訝そうに見た。
「硬いか?」
「いや。昔の俺が硬い」
「何だ、それは」
「気にしないで」
最近、この言葉を家族へ言う回数が増えている気がする。
原因はほぼ一冊の魔導書だった。
それからしばらくは、森とは関係のない話が続いた。
領都のパン屋が新しい窯を入れたこと。
南側の畑で春小麦の生育が良いこと。
レイモンドが数日前に受け取った税務書類の数字が一箇所合わず、担当者と二時間かけて確認したところ、単なる書き写し間違いだったこと。
どれも平凡な話だ。
だからこそシュウは、食事をしながら何度も窓の外へ目を向けた。
明日。
本来なら、この屋敷を出る予定だった。
王都へ向かう。
王立魔法学院へ入る。
十七年間暮らしたアルヴェイン領から離れ、初めて長期間家族と別れて生活する。
二日前までは、そのことばかり考えていた。
荷物。
学院。
王都。
どんな魔法を学べるのか。
どんな人間がいるのか。
友達はできるのか。
卒業したら冒険者になれるのか。
世界を見て回れるのか。
それが今では、頭の半分を北部森林が占めている。
「明日のことですが」
エレノアが、ちょうどシュウの考えていたことへ触れた。
卓上の空気が少しだけ変わる。
シュウはパンを置いた。
「学院?」
「ええ」
母はローデリックを見る。
「どうするのです?」
「まだ決めていない」
「出発予定は明日の朝でしたね」
「ああ。ただ、一日程度なら余裕はある」
王都までは馬車で数日かかる。
入学手続き当日に到着するような予定ではなく、何かあった場合を考えて余裕を持った日程が組まれていた。
「一日遅らせても間に合う?」
シュウが尋ねる。
「問題ない」
「二日なら?」
「急げば間に合うが、勧めん」
「三日」
「お前、どこまで試すつもりだ」
父に睨まれた。
「確認してるだけ」
「なら一日だ。明日の状況を見て、遅くとも明後日には出す」
その言葉に、シュウの胸が僅かに揺れた。
出す。
つまり父は、森の問題が完全に解決していなくても、自分を学院へ行かせるつもりなのだ。
「父さん」
「何だ」
「本当にいいの?」
ローデリックはすぐには答えなかった。
食器を置き、息子を見る。
「何がだ?」
「俺が行って」
言葉にすると、自分でも何を気にしているのか分かってきた。
「今日、俺がいなかったらガレスさんたちを完全に治せなかった。エドガーさんも、どうなってたか分からない。黒い魔力が見えるのも、たぶん今のところ俺だけだし」
それは自慢したいわけではない。
むしろ逆だった。
自分が必要なのではないか。
自分がいない間に何か起きたら。
そんな考えが、森から帰ってからずっと胸の奥に残っている。
「だから、俺が行ったあとに森でまた何かあったらって考えると……」
言葉が少し弱くなる。
エレノアは口を挟まなかった。
レイモンドも同じだ。
ローデリックだけが、しばらくシュウを見ていた。
「お前がいれば助かることはある」
否定しなかった。
「今日の救助は、お前がいたから成功した部分が大きい。《生命回帰》も、異常な魔力を見る力も、今の我々には代わりがない」
「じゃあ」
「だが、それとお前が残り続けなければならないことは別だ」
ローデリックはそこで一度言葉を切り、卓上に置いていた手を組んだ。
「領主が考えるべきなのは、一人の特別な人間がいなければ成り立たない方法ではない。その人間がいなくても被害を出さない方法だ」
「俺がいなくても?」
「ああ。森へ入らせない。外から監視する。異常が出たら近づかず報告させる。光属性魔法が一定の抑制効果を持つことも分かった。治療師にも異常魔力汚染の特徴を共有する。お前ほど見えなくても、ディーンやニナの症状を知っていれば早く疑える」
今日までに得た情報を、シュウ一人の能力へ依存しない形へ変える。
父が考えていたのは、そういうことらしい。
「それに、北の封所がアルヴェイン家の問題なら」
レイモンドが静かに続けた。
「次期当主は俺だ」
「兄さん」
「お前だけの問題ではない。むしろ家の責任という意味なら、俺や父上の方が先に背負うべきだろう」
レイモンドの声に強さはあったが、弟を責める響きはない。
「シュウ。お前は今日、十分やった」
「でも」
「十分だ」
兄に重ねられる。
「それでも気になるなら、王都で調べてくれ。学院へ行くことが逃げることになるわけじゃない」
シュウは黙った。
逃げる。
自分は、どこかでそう感じていたのかもしれない。
森で大変なことが起きているのに、自分だけ学院へ行く。
楽しいことをしに行く。
そんな後ろめたさが、ほんの少しあった。
「シュウ」
今度はエレノアだった。
「あなたが学院へ行くのを楽しみにしていたことを、私たちは知っています」
「母さん」
「昨日と今日で大変なことが起きたからといって、それまで楽しみにしていた気持ちまで無かったことにする必要はありません」
母の表情は穏やかだった。
「誰かを心配する気持ちと、自分の人生を楽しみにする気持ちは、一緒に持っていていいのです」
シュウは返事をしようとして、すぐには声が出なかった。
嬉しい。
安心した。
そういう言葉だけでは少し足りない。
前世で働いていたころ。
誰かに迷惑をかけるから。
自分が休むと仕事が回らないから。
今は忙しいから。
そうやって自分の予定を後ろへ回したことは、何度もあった。
もちろん、それが全部悪かったわけではない。
社会人なら必要な場面もある。
けれど、この世界でも同じように、自分がやらなければと考え始めていたのかもしれない。
「……学院、行きたい」
ようやく言えた。
声は思っていたより素直に出た。
「行きたいよ。王都も見たいし、学院で魔法も習いたい。友達も作りたいし、そのあと冒険者になって色んなところに行きたい」
話しているうちに、少し恥ずかしくなった。
十七歳の少年らしい夢だ。
前世の記憶を持つ自分が口にすると、子供っぽく感じる部分もある。
それでも今の自分は十七歳だ。
「なら、行け」
ローデリックが言った。
「森のことは俺たちが調べる」
レイモンドも頷く。
「王都側で分かったことがあれば手紙を寄越せ」
「うん」
「ただし」
エレノアが続けた。
「明日の朝すぐに出るかは、今夜の調査を終えてから決めます」
「そこは決定じゃないんだ」
「当然です」
母はにこりと笑った。
「それと荷物をもう一度確認します」
「昨日やったよ?」
「薬を忘れていました」
「……確認します」
反論できなかった。
◇
夕食後、シュウたちは再び書庫へ戻った。
ただし、今度はエレノアも一緒だった。
「母さんも調べるの?」
「四人の方が早いでしょう」
「それはそうだけど」
「私では役に立ちませんか?」
「そういう意味じゃないよ」
むしろ、こういう細かい確認は父より母の方が得意そうな気がする。
書庫にはランプがいくつも灯され、昼間とは違う雰囲気になっていた。棚の間に柔らかな黄色い光が落ち、古い紙の影が机の上へ重なっている。
窓の外はもう暗い。
時折、屋敷の外を巡回する騎士の足音が聞こえる。
北部森林へは入らない。
それでも今夜から警戒は強化されている。
「六代前がエドワルド」
レイモンドが紙へ家系を書き出す。
「そこから五代前、四代前と追えば、どこで北の封所に関する記録が消えたか分かるかもしれない」
「記録が残ってればね」
シュウは棚から古い帳面を一冊抜き取った。
「それが問題だ」
ローデリックも別の棚を確認している。
「火事や水害で失われた記録もある。全部揃っているわけではない」
「火事あったの?」
「九十年ほど前に書庫の一部が焼けている」
「それ怪しくない?」
シュウがすぐに反応すると、父は呆れたように振り返った。
「何でも事件へ結びつけるな」
「でも封印の記録がなくなってるんだよ?」
「火事で消えた可能性はある。だから調べる。最初から『誰かが証拠を燃やした』と決めるな」
「そこまで言ってないけど」
「顔が言っていた」
「俺、そんなに顔に出る?」
「出ますよ」
母にまで言われた。
シュウは諦めて帳面を開く。
まず五代前。
名前はグレゴール・アルヴェイン。
約百五十年前。
領内の橋を改修した記録や、北側の村で魔物被害があった記録が残っている。
北部森林。
その言葉を探す。
数ページ。
さらに数ページ。
「あった」
シュウの声に三人が寄ってくる。
「何だ?」
「北部森林の巡回記録」
日付は約百五十七年前。
シュウは古い文字を追った。
「『西監視所を確認。白樹の劣化なし』」
ローデリックの目が細くなる。
「封所という言葉は?」
「このページにはない」
「続きは?」
「『石室については前年と変化なし。長子エルネストを伴い、手順を伝える』」
四人の間に沈黙が落ちた。
「伝えてる」
シュウが呟く。
「この代までは確実だな」
ローデリックが紙へ書き込む。
「グレゴールは息子へ手順を継承した」
「長子エルネストが四代前?」
「そうだ」
レイモンドが家系図へ線を引く。
「なら次はエルネストの記録です」
探す対象が絞られた。
四人で棚を分担する。
エレノアは背表紙が読めなくなった本を一冊ずつ丁寧に確認し、レイモンドは年代別にまとめられた公文書を追う。ローデリックは当主個人の手記を探し、シュウは北部森林関連の記録を片端から開いていった。
時間が過ぎる。
最初は勢いよく調べていたシュウも、似たような記録が続くうちに目が疲れてきた。
税収。
雨。
街道。
収穫。
魔物。
橋。
また税収。
「昔の領主って、税金の話ばっかりしてない?」
「領地を運営するなら重要だからな」
「もっと秘密の封印とか書いててよ」
「普通は秘密の封印より麦の収穫量の方が生活には重要だ」
「夢がない」
「領主の仕事に何を求めている」
父の返事は冷静だった。
シュウは次の帳面を開く。
『マスター』
『何?』
《十四歳当時のマスターが設定した「漆黒帝国」では税率が――》
『待って。俺、国まで作ってたの?』
《はい》
『聞かなかったことにする』
《税制についてはかなり詳細に――》
『なんで中学生が架空国家の税率決めてんだよ!』
《「民を知らずして王を名乗る資格なし」と記されています》
『ちょっと格好いいのが腹立つな!』
しかも今の話題と妙に噛み合っている。
十四歳の自分は、いったい何を目指していたのだろう。
「シュウ」
レイモンドの声で意識を戻す。
「今度は何と戦っていた?」
「漆黒帝国の税制」
兄が数秒黙った。
「……聞かない方がよさそうだな」
「正解」
父が「漆黒帝国?」と反応したが、シュウは聞こえないふりをした。
◇
四代前エルネストの手記が見つかったのは、それから半刻ほど経ったころだった。
見つけたのはエレノアだった。
「これではありませんか?」
棚の最下段から取り出した革張りの本。
表紙の内側に、エルネスト・アルヴェインの名がある。
「母さん、すごい」
「あなたたちが上ばかり探しているからです」
父と息子二人が同時に棚を見る。
確かに下段はあまり確認していなかった。
「……母さん連れてきて正解だったね」
「そうだな」
「同感です」
三人が認めると、エレノアは少しだけ得意そうに笑った。
机へ戻り、慎重にページを開く。
エルネストが当主となったころから読む。
最初の数年。
封所の記録はない。
しかし、父グレゴールから手順を教わったという記録がある以上、知らなかったとは考えにくい。
「毎年書くとは限らない」
ローデリックが言う。
「重要な変化がなければ記録しなかった可能性もある」
さらに進む。
十年。
十五年。
「……あった」
レイモンドが指を止めた。
約百三十八年前。
「『北の石室を確認』」
シュウが身を寄せる。
「封所?」
「その言葉はない」
兄が続けて読む。
「『白樹に変化なし。扉は閉じたまま。父より受けた手順に従い確認を終える』」
「じゃあ、この代も管理してる」
「ああ」
ローデリックが記録する。
六代前。
五代前。
四代前。
少なくともここまでは続いている。
「次は三代前」
シュウが家系図を見る。
「アルバート?」
「そうだ」
エルネストの長男。
約百十年前から八十年前にかけて当主だった人物。
「書庫が焼けたの、九十年前だよね?」
シュウが確認する。
「ああ」
「ちょうどこの人の時代?」
「後半だ」
ローデリックの表情が少し硬くなる。
偶然かもしれない。
けれど、管理記録が失われた時期と書庫火災が重なる可能性が出てきた。
「まず記録を探そう」
父はそれ以上推測しなかった。
シュウも頷く。
焦らない。
決めつけない。
今日だけで何度も教わったことだ。
アルバートの記録は、なかなか見つからなかった。
公的な文書はいくつもある。
しかし個人の手記がない。
「火事で焼けた?」
「可能性はある」
レイモンドが当時の資料一覧を確認する。
「父上。この年代だけ、私的記録が極端に少ないです」
「火災の被害一覧は?」
「探します」
別の棚。
九十年前。
書庫火災。
今度はシュウも慎重に探した。
やがて、ローデリックが一枚の束を見つける。
「これだ」
火災後に作られた被害確認記録。
書庫西側の一部焼失。
人的被害なし。
原因。
「……ランプの転倒」
シュウが読む。
「夜間に記録整理をしていた使用人が、誤ってランプを倒した」
「普通だね」
「記録上はな」
父の言い方に、シュウは眉を上げる。
「父さんも疑ってるじゃん」
「疑うのと決めつけるのは違う」
「便利だな、その言い方」
「覚えておけ。使えるぞ」
領主教育を受けた気がする。
被害を受けた資料一覧。
土地台帳。
古い裁判記録。
当主私記。
「当主私記……」
レイモンドが指で追う。
「アルバートのものが含まれています」
やはり焼失している。
「じゃあ、ここで分からなくなる?」
シュウの声が少し沈んだ。
「まだだ」
ローデリックは資料を閉じない。
「当主本人の手記がなくても、公的な支出や騎士団の巡回記録が残っているかもしれん」
そう言って次の束へ手を伸ばす。
シュウも気持ちを切り替えた。
探す。
当主の記録だけではない。
北の封所を維持していたなら、人が動く。
物も使う。
何かしら痕跡が残る。
「白樹材の補修とか?」
「あり得る」
「騎士の同行記録」
レイモンドが加える。
「食料や馬の記録もですね」
エレノアが言った。
シュウは母を見る。
「食料?」
「森へ何日か入るなら必要でしょう?」
「ああ」
考えてみれば当然だ。
封印という言葉に引っ張られて、特別な記録ばかり探していた。
実際に人間が管理していたなら、もっと普通の記録に痕跡があるかもしれない。
「母さん、探偵みたいだね」
「何です、それは?」
「前世……じゃなくて」
危ない。
口が滑りかけた。
「本で読んだ職業」
「そのような職業があるのですか?」
「似たようなのは」
シュウは誤魔化しながら別の帳面へ手を伸ばした。
今の家族へ前世のことを話していない。
話せないと思っているわけではない。
ただ、十七年間必要がなかった。
自分はシュウ・アルヴェインだ。
それで困っていなかった。
アルカディアが現れてから、前世の記憶が以前より身近になっている。
それが少し不思議だった。
◇
「これじゃない?」
シュウが見つけたのは、九十六年前の騎士団物資記録だった。
北部森林。
保存食。
油。
縄。
補修用木材。
通常の巡回にしては量が多い。
「行き先は?」
ローデリックが尋ねる。
「西監視所」
「人数」
「騎士六名、領主家一名……」
そこでシュウの指が止まる。
「領主家一名?」
「名前は?」
「書いてない」
レイモンドが別の記録を持ってくる。
「同じ月の騎士勤務表を見れば分かるかもしれない」
机の上が資料で埋まっていく。
四人で照合する。
九十六年前。
当主アルバートの時代。
西監視所へ騎士六名と領主家一名。
「父上」
レイモンドが勤務記録を見つけた。
「同行責任者の欄に、アルバート本人の名があります」
シュウは息を吐いた。
「じゃあ、この時点ではまだ知ってる」
「ああ」
ローデリックが家系図へ印をつける。
約九十六年前。
管理は続いていた可能性が高い。
「火事が九十年前」
「その六年後だね」
シュウは書庫を見回す。
ランプの明かり。
木製の棚。
乾いた紙。
確かに火が出れば簡単に燃える。
事故だったとしても不思議ではない。
しかし、その火災でアルバートの私記が失われた。
「そのあと」
エレノアが家系図を見る。
「アルバート様は何年当主を?」
「火災の三年後までだ」
ローデリックが答える。
「九十年前に火災。八十七年前に死去。長男オスカーが継いだ」
「その三年間に継承したかどうか」
「そこだな」
三代前アルバートから二代前オスカーへ。
封所の知識が渡ったのか。
四人の視線が、次の年代の棚へ向いた。
シュウの疲れは一度消えていた。
あと少し。
管理が途絶えた場所が見えるかもしれない。
しかし。
「今日はここまでです」
エレノアの声が静かに落ちた。
「え?」
シュウが振り返る。
「母さん、今いいところ」
「もう遅い時間です」
「あと一冊」
「先ほども夕食前に同じようなことを言いました」
「でも、あと一代調べたら」
「明日でも記録は逃げません」
シュウは父を見る。
「父さん」
「……あと一冊くらいなら」
「あなた」
「今日はここまでだ」
早い。
シュウは呆然と父を見た。
「今、絶対続けようとしたよね?」
「何のことだ」
「母さん見た瞬間変えたよね?」
「領主には状況判断が必要だ」
「それ状況判断って言うの!?」
レイモンドが口元を押さえる。
「兄さんも笑わないでよ」
「すまない。だが父上の判断は正しい」
「母さんがいると全員そっち行くじゃん」
「当然でしょう」
エレノアだけが平然としていた。
けれどシュウも、本気で不満なわけではない。
目が疲れている。
肩も少し重い。
明日のこともある。
「……分かった」
渋々帳面を閉じる。
「ただ、これだけまとめてから」
「それは構いません」
許可が出たので、今日判明したことを一枚の紙へ整理する。
六代前エドワルド。
北の封所を管理。
白樹。
石室。
森の底。
五代前グレゴール。
管理継続。
長男エルネストへ手順を伝達。
四代前エルネスト。
父から受けた手順で石室を確認。
三代前アルバート。
少なくとも九十六年前には本人が西監視所へ向かっている。
九十年前。
書庫火災。
アルバートの私記を含む資料焼失。
八十七年前。
アルバート死去。
二代前オスカーへ家督継承。
「ここ」
シュウが紙を指す。
「途切れたとしたら、アルバートからオスカーの間が一番怪しい」
「現時点ではな」
ローデリックが訂正する。
「明日、オスカーの記録を調べれば変わるかもしれん」
「分かってる」
決めつけない。
何度目か分からないが、少しずつ身についてきた。
「明日の朝、続き?」
「朝食後だ」
「学院の出発は?」
「その結果と、森からの夜間報告を見て決める」
「分かった」
それなら納得できる。
書庫を出る。
今度はシュウも素直に自室へ向かった。
◇
部屋へ戻ると、ベッドの脇に大きな鞄が置いてあった。
「……あ」
学院用の荷物。
昨日まで何度も確認したものだ。
服。
筆記具。
学院から指定された教材。
日用品。
少額の現金。
家から持たされた保存食。
そして。
「薬」
母に指摘された。
鞄を開ける。
ない。
「……入れてなかった」
『昨日も同様の結論へ到達されていました』
『分かってるよ』
《マスターは「たぶん入れた」と発言されました》
『覚えてる』
《結果として入っていませんでした》
『分かったから!』
机の引き出しから常備薬を取り出す。
小さな包み。
今の自分には高い毒耐性も自然治癒もある。
《生命回帰》を選んでいる今なら、薬どころではない治療までできる。
それでも鞄へ入れた。
母との約束だから。
「これでよし」
《確認を推奨します》
「何を?」
《他の荷物です》
「昨日した」
《薬も昨日確認したはずでは?》
「……」
反論できない。
「アルカディア」
《はい》
「荷物一覧、見れる?」
《マスターの記憶および現在視認可能な範囲であれば》
「手伝って」
《承知しました》
まさか黒歴史ノートに荷造りを手伝ってもらう日が来るとは思わなかった。
服。
ある。
下着。
ある。
筆記具。
ある。
学院書類。
ある。
金。
ある。
薬。
今入れた。
タオル。
ある。
予備の靴紐。
「……靴紐?」
《指定一覧に存在します》
「そんなのあったっけ」
《母君が追加されています》
「母さんだなあ」
苦笑しながら確認する。
荷物を一つずつ触っているうちに、明日か明後日には本当に出発するのだという実感が戻ってきた。
王都。
学院。
知らない人たち。
新しい生活。
楽しみだ。
同時に少し怖い。
十七年間、この家で暮らしてきた。
前世の記憶があるからといって、今の人生で初めて親元を長く離れることに変わりはない。
『アルカディア』
《はい》
『お前も来るんだよな』
《私はマスターの魂に格納されていますので、物理的に置いていくことは困難です》
『そういう言い方じゃなくて』
《では、はい》
短い返事。
シュウは鞄の中を見たまま、少し笑った。
『一緒に行く』
《はい、マスター》
それだけだった。
けれど、悪くない。
黒歴史そのものみたいな存在だとしても。
自分の恥ずかしい設定を無慈悲に読み上げるとしても。
学院で一人になるわけではない。
そう思えた。
「よし」
荷物を閉じる。
今夜は寝よう。
森のことは明日。
記録の続きも明日。
学院のことも明日決める。
ランプを消そうとした、そのときだった。
廊下を走る足音が聞こえた。
シュウの手が止まる。
騎士の足音。
速い。
しかし、叫び声はない。
緊急なのか。
ただ急いでいるだけなのか。
シュウは扉を開けた。
ちょうど廊下の向こうから、若い騎士が歩調を落としながら近づいてくる。シュウを見つけると一度立ち止まり、頭を下げた。
「シュウ様」
「何かあった?」
「北部森林の監視から報告です。旦那様へお伝えするところです」
胸が少し緊張する。
「異常?」
「いえ」
騎士は首を振った。
「今のところ、逆です」
「逆?」
「日没後まで監視を続けましたが、森の外周に異常は確認されていません。昼間まで黒く変色していた木も、外から確認できる範囲では色が戻りつつあるそうです」
シュウの肩から少し力が抜ける。
「よかった……」
「ただ」
騎士の表情には、まだ何か残っていた。
「何?」
「森の北側から、別の報告が届いています」
シュウは黙って続きを待った。
「リース村へ向かった伝令が、村の手前で住民と合流しました。エドガー殿のご家族も無事です」
「それなら――」
「はい。ただ、リース村でも三日前の昼ごろ、森の方角から音を聞いた者が複数いたそうです」
「鐘?」
「そのようです」
エドガーだけではない。
シュウの表情から安堵が少し消えた。
「何人くらい?」
「詳しい聞き取りは明日になります。ただ、少なくとも村の住民数名が、普段聞かない低い鐘のような音を一度だけ聞いたと」
「そのあと何かあった?」
「村そのものにはありません」
騎士はそこで一度息を整えた。
「ですが、村の古い猟師が妙なことを言っているそうです」
「妙なこと?」
「子供のころ、祖父から同じ音の話を聞いたことがある、と」
シュウの呼吸が少し止まる。
「いつの話?」
「そこまでは伝令では分かりません。明日、改めて確認するとのことです」
「分かった」
シュウは騎士を止めない。
「父さんに伝えて」
「はい」
騎士は再び頭を下げ、廊下の奥へ急いでいった。
シュウは扉の前に立ったまま、その背中が見えなくなるまで見送った。
三日前。
鐘が鳴った。
エドガーが聞いた。
リース村の住民も聞いた。
そして、古い猟師は祖父から同じ音の話を聞いたことがあるという。
今回が初めてではない可能性が出てきた。
『アルカディア』
《はい》
『昔にも同じことが起きてたのかな』
《現時点では判断できません。ただし、調査すべき過去情報が一つ増えました》
『また増えた』
《はい》
「……全然減らないな」
思わず声に出した。
けれど、以前のように今すぐ父のところへ走ろうとは思わなかった。
報告は届く。
父も知る。
明日、猟師へ聞けばいい。
今夜の森は静かだ。
少なくとも、今すぐ誰かが助けを求めているわけではない。
シュウは部屋へ戻った。
扉を閉め、今度こそランプへ手を伸ばす。
『寝る』
《推奨します》
『何か緊急の変化があったら起こして』
《私が認識可能な範囲であれば》
『うん』
明かりを消す。
暗くなった部屋の中でベッドへ入ると、窓の外から虫の声が聞こえた。
森のこと。
封所のこと。
学院のこと。
頭にはまだ色々浮かぶ。
それでも今日は、目を閉じた。
◇
翌朝。
シュウが目を覚ましたとき、最初に聞こえたのは鳥の声だった。
カーテン越しに朝の光が差し込んでいる。
身体を起こし、いつもの癖で枕元へ手を伸ばしかけて止まった。
「……スマホないって」
何年経っても、たまにやる。
『スマホとは、前世で使用されていた携帯情報端末ですね』
「朝一番に説明しなくていいよ」
《おはようございます、マスター》
「おはよう」
ベッドから降りる。
「夜、何かあった?」
《私が認識できる範囲ではありません》
「そっか」
着替えを済ませ、窓を開ける。
春の終わりの朝風が入ってきた。
屋敷の庭では使用人が掃除を始めている。厩舎の方から馬の声も聞こえ、いつもと変わらない朝が動き出していた。
机の横。
学院用の鞄。
昨日より少しだけ存在感が大きく見える。
「今日、決まるかな」
《学院への出発ですか?》
「うん」
《マスターは行くことを希望されています》
「そうだね」
もうそこは迷っていない。
問題は今日行くのか。
明日なのか。
その前に何を確認するのか。
シュウは部屋を出た。
食堂へ向かう途中、階段下でレイモンドと会った。
「おはよう」
「おはよう、兄さん」
「よく眠れたか?」
「思ったより」
「ならよかった」
兄の手には紙が数枚ある。
「それ何?」
「朝一番で届いた北部森林の報告だ」
シュウの視線が紙へ向く。
「どう?」
「外周異常なし。黒化していた植物の一部はさらに回復。昨夜、根や黒い霧の目撃報告なし」
「よかった」
「それとリース村の件も届いている」
「鐘の話?」
「聞いたのか」
「夜、伝令の騎士と会った」
「なら早いな」
レイモンドは紙を一枚めくる。
「猟師の名前はボルグ。七十二歳。祖父から鐘の話を聞いたのは幼いころだそうだ」
「祖父が聞いたってこと?」
「違う」
兄の表情が少し変わった。
「祖父から、さらに昔の話として教えられたらしい」
「どれくらい昔?」
「本人も正確には知らない。ただ」
レイモンドは紙へ視線を落とす。
「その鐘を、こう呼んでいたそうだ」
シュウは続きを待った。
「『森底の鐘』」
昨日読んだ言葉が、頭の中で重なる。
――森の底も静かである。
「兄さん」
「ああ」
「同じ言葉だ」
「父上もそう考えている」
胸の奥がざわつく。
偶然かもしれない。
けれど、百八十一年前のエドワルドの手記にあった「森の底」。
リース村に口伝として残っていた「森底の鐘」。
繋がりが一つ増えた。
「朝食後、書庫?」
「その予定だ」
「オスカーの記録を調べる?」
「それもだが」
レイモンドが紙を折り直す。
「父上は、先にボルグ本人から話を聞くことにした」
「ここへ呼ぶの?」
「いや」
兄は首を振った。
「七十二歳の老人を、朝から馬車で何時間も揺らして呼びつける必要はないだろう」
「じゃあ、こっちから?」
「騎士を送る。聞く内容をまとめてな」
シュウは少し考える。
「俺たちは行かない?」
「少なくとも今日は」
「そっか」
昨日までなら、自分で聞きに行きたいと言ったかもしれない。
でも。
今は分かる。
話を聞くだけなら、信頼できる騎士へ質問を持たせればいい。
自分が何でも現場へ行く必要はない。
「シュウ」
「何?」
「少し変わったな」
兄が突然言った。
「昨日から?」
「ああ」
「老けた?」
「なぜそうなる」
「変わったって言われると」
「そうではない」
レイモンドは小さく笑った。
「前なら、今の話を聞いた瞬間に『俺も行く』と言った気がしただけだ」
「……俺も今それ考えてた」
「そうか」
「でも、聞くだけなら騎士の人でもできるし」
「父上の影響か」
「たぶん」
「悪くない」
兄にそう言われると、少し照れくさい。
「まあ、森に行くって言われたら行きたいけど」
「そこは変わっていないな」
「気になるものは気になるから」
「それでいいだろう」
二人で食堂へ向かう。
階段を下りた先から、朝食の匂いが漂ってきた。
今日も家族で食卓を囲む。
そのあと、古い記録を調べる。
森底の鐘について、リース村へ聞き取りを頼む。
そして。
学院へ出発する日を決める。
シュウは食堂の扉へ手をかける前に、廊下の窓から外を見た。
朝日が屋敷の庭を照らしている。
北部森林は、ここからは見えない。
それでも昨日ほど、そこへ自分の意識を引っ張られてはいなかった。
森の問題は消えていない。
自分が知らなければならないことも多い。
けれど、それだけが自分の人生ではない。
十七歳のシュウ・アルヴェインには、森の向こうにも行く場所がある。
そのことを忘れずにいられるようになっただけでも、昨日森へ入る前とは少し違っていた。
食堂へ入る。
ローデリックとエレノアは、既に席に着いていた。
「おはよう」
シュウが言うと、二人からほぼ同時に返事が返る。
「おはよう、シュウ」
「おはようございます」
いつもの朝だった。
ただし、ローデリックの手元には一枚の古い紙が置かれている。
シュウは席へ向かいながら、その紙に気づいた。
「父さん。それ何?」
「今朝、書庫で少し確認した」
「俺たちより先に?」
「目が覚めたからな」
ローデリックは紙を持ち上げる。
「オスカーの時代の記録だ」
シュウの足が止まりかける。
「見つけたの?」
「封所そのものの記録ではない」
「じゃあ?」
父は紙を机へ置いた。
「アルバートが死ぬ二日前に、オスカーへ宛てた手紙の写しだ」
「二日前……」
死の直前。
レイモンドも父の隣へ回る。
「何が書いてあるんです?」
「短い」
ローデリックの指が、一箇所を示した。
古い文体。
それでも読める。
シュウはゆっくり文字を追った。
領地のこと。
家族のこと。
後継者への言葉。
そして最後。
そこにあった一文で、視線が止まった。
『北の森については、私から伝えるべきことが残っている。明日の朝、二人だけで話そう』
シュウは何も言えなかった。
アルバートが死んだのは、その二日後。
なら。
「この話……できたの?」
「それが分からない」
ローデリックが答える。
「ただ、オスカーの記録には、今のところ北の封所に関するものが見つかっていない」
書庫火災でアルバートの私記が焼けた。
それでも彼自身は生きていた。
六年後ではない。
火災から三年後まで当主を務めた。
そして死の直前、息子へ北の森について伝えるべきことがあると手紙に残した。
「もし」
シュウは紙を見つめた。
「この話をする前に、何かあったなら」
ローデリックは答えない。
まだ決めつけられないからだ。
けれど、管理が途絶えた場所はかなり狭まった。
三代前アルバート。
二代前オスカー。
その間。
百年近く前。
そして今、北部森林で再び鐘が鳴った。
シュウは椅子へ座ることも忘れたまま、古い手紙を見つめていた。
学院へ向かう前に確認すべきことが、もう一つだけ増えた。




