第12話 伝えられなかった言葉と、明日の出発
朝食の湯気がまだ食卓の上に残っているのに、シュウの意識は完全に一枚の古い手紙へ奪われていた。
百年近く前に書かれた紙は端が茶色く変色し、ところどころ文字も薄れている。それでも最後に記された一文だけは十分に読み取れた。
――北の森については、私から伝えるべきことが残っている。明日の朝、二人だけで話そう。
三代前の当主アルバート・アルヴェインが、息子であり次代の当主となるオスカーへ宛てた言葉だった。
その話が実際に行われたのかは分からない。
ただ、現在のアルヴェイン家には北の封所に関する知識が残っていない。六代前のエドワルドから五代前グレゴール、四代前エルネストへと継承され、三代前アルバートも少なくとも九十六年前までは西監視所へ足を運んでいた。
そこまでは追えた。
問題は、その先だった。
「座れ、シュウ」
ローデリックの声で、シュウはようやく自分が椅子の横に立ったままだったことへ気づいた。
「あ……うん」
腰を下ろしても、視線は手紙から離れない。
向かいに座ったエレノアが、そんな息子の前へスープの皿を少し押した。
「冷めますよ」
「今これ読んでるんだけど」
「読みながらでも食べられます」
「母さん、昨日は食事中に考えるなって言ってなかった?」
「昨日は昨日です」
「強い」
反論する余地がない。
シュウはスプーンを取った。
隣ではレイモンドも手紙を読んでいる。兄の表情はいつもと大きく変わらないが、視線が同じ一文の上で何度も止まっていることから、やはり気になっているのだろう。
「父上」
レイモンドが手紙から顔を上げた。
「これは原本ではなく、写しなのですね?」
「ああ。アルバート本人が書いた手紙は残っていない。これは当時、重要な家内文書として記録係が内容を転記したものらしい」
「日付は間違いありませんか?」
「他の記録と照合した。アルバートが亡くなる二日前だ」
ローデリックはパンを一口食べてから続けた。
「死因も確認した。病死だ」
「急に?」
シュウが尋ねる。
「少なくとも公的な記録ではな。数か月前から体調を崩していた」
「じゃあ、死ぬ二日前なら相当悪かったんじゃない?」
「可能性は高い」
「それなら翌朝に話せなかったとしても不思議じゃないか」
シュウはスープを一口飲んだ。
昨夜、書庫火災と管理継承の途絶を知ったときには、どこかに意図的なものがあるのではないかと疑った。
けれど、今ある情報だけなら別の可能性も十分にある。
アルバートは病気だった。
息子へ伝えようとした。
その前に容体が悪化した。
話せなかった。
それだけかもしれない。
「でも、二日前に亡くなったわけじゃないよね?」
シュウは手紙を見る。
「この手紙を書いた二日後に亡くなったんだよね?」
「ああ」
「なら、翌朝はまだ生きてた」
「そうなる」
「会えなかった理由の記録は?」
「まだ見つけていない」
ローデリックはそこでシュウを見る。
「だから朝食後に調べる」
「分かった」
先走らない。
昨日から何度も繰り返している。
分からないものを、都合のいい答えで埋めない。
黒い森の異変を見たせいで、何もかもが怪しく感じられてしまう。しかし百年近く前の親子が、単に予定どおり話せなかっただけという可能性だってある。
シュウがそう考えていると、頭の中へ静かな声が響いた。
《適切な判断です》
『アルカディアに褒められた』
《不満でしょうか》
『いや。最近まともなこと言うなと思って』
《私は以前から合理的な助言を行っています》
『黒歴史を読み上げるのも?』
《記録情報の提示です》
『頼んでない情報まで出してるよね』
《関連性がある場合に限っています》
『昨日の漆黒帝国の税制、どこに必要だったんだよ』
《領地運営に関する話題でした》
『関連性の判定が緩すぎる』
朝から相変わらずだった。
ただ、こうして頭の中でやり取りしていると、古い手紙ばかり見て硬くなっていた気持ちが少し緩む。
「またアルカディアですか?」
エレノアが尋ねた。
「分かる?」
「急に難しい顔をしたあと、少し呆れた顔になりましたから」
「俺、表情読まれすぎじゃない?」
「十七年見ています」
母は当然のように答える。
レイモンドがパンをちぎりながら小さく笑った。
「学院では気をつけた方がいいかもしれないな」
「何を?」
「一人で表情を変えていると、不思議がられる」
「それ、俺も思ってる」
アルカディアとの会話は他人には聞こえない。
学院で何度も反応していれば、確かに妙な人間に見えるだろう。
《必要であれば、会話頻度を低下させます》
『できるの?』
《可能です》
意外だった。
『じゃあ学院では少し――』
《ただし、マスターが重大な判断ミスを行おうとした場合、警告を優先します》
『それはして』
《また、黒歴史設定と高い関連性を持つ事象が発生した場合――》
『それは黙ってて』
《優先順位の設定が必要ですね》
『最優先で黙って』
今度は本当に口元が引きつった。
エレノアに気づかれる前に、シュウはスープへ意識を戻した。
◇
朝食が終わるころ、屋敷の正面から馬の蹄が近づいてくる音が聞こえた。
食堂の窓から直接は見えないものの、間もなく玄関側が慌ただしくなる。しばらくして扉が叩かれ、ローデリックの許可を受けて一人の騎士が入ってきた。
「旦那様。北部森林外周の朝の報告です」
「聞こう」
騎士は胸元から折り畳んだ紙を取り出した。
「夜間を通して外周部に新たな黒化は確認されていません。昨日まで変色していた草木についても、確認できる範囲では回復傾向が続いております」
シュウは無意識に息を吐いた。
昨日の帰路で見た回復が、夜を越えても続いている。
少なくとも異常が急速に領都側へ広がっている様子はない。
「根、霧、地下振動は?」
ローデリックが尋ねる。
「外周監視では確認されておりません。ただし、森内部へは入っていないため、内部の状況は不明です」
「それでいい。入るな」
「はい」
「リース村は?」
「異常なしとのことです。昨夜の鐘に関する追加報告以外、人的被害もありません」
ローデリックは頷いた。
「監視を継続。ただし人員を疲弊させるな。交代を予定どおり行え」
「承知しました」
騎士が一礼する。
そのまま退室しようとしたところで、ローデリックが呼び止めた。
「リース村のボルグへの聞き取りは?」
「これから二名向かわせる予定です」
「待て。質問事項を渡す」
「はい」
騎士が再び姿勢を正す。
シュウは父を見る。
自分も何か聞いておきたい。
昨日までなら、その場で思いついたことを口にしたかもしれない。けれど、今は一度頭の中で整理してから手を上げた。
「父さん」
「何だ」
「俺からも聞いてほしいことがある」
「言ってみろ」
「ボルグさんのお祖父さんが『森底の鐘』の話をしたとき、鐘が鳴ったらどうなるって言ってたのか。音の話だけだったのか、それとも何かしてはいけないとか、森へ近づくなとか、そういう話が一緒になかったか」
ローデリックはすぐに否定せず、少し考えた。
「いい。加えよう」
「それと、どの季節に鳴るとか、何年に一回とか」
「本人が知っていれば、だな」
「うん」
レイモンドも口を開く。
「呼び方も確認した方がいいでしょう。『森底の鐘』がボルグ本人の言い方なのか、祖父がそう呼んでいたのか。それ以前から伝わっていた呼称なのか」
「加える」
エレノアは少し考え、騎士へ視線を向けた。
「昔話を聞くのでしたら、急かさないようにしてください。七十二歳なのでしょう?」
「はい、奥様」
「正確な年や順番を覚えていなくても、それを間違いだと決めつけず、本人が覚えている形で聞いてください」
シュウは母を見る。
「なるほど」
「何です?」
「いや、俺だったら『いつ? 何年前?』って聞きまくってたかも」
「質問は必要ですが、昔の記憶は順番どおりに出てくるとは限りませんから」
ローデリックも頷き、聞き取りへ向かう騎士に伝えるべき項目を紙へまとめた。
鐘の音。
森底の鐘という名称。
いつ、誰から聞いたのか。
鐘が鳴ると何が起きると伝わっていたのか。
森へ入ることに関する禁忌や注意。
場所。
季節。
過去に実際に聞いた者の名前。
覚えている言葉があれば、そのまま記録すること。
「聞き取りが終わり次第、戻れ。夕方になっても構わん」
「承知しました」
今度こそ騎士が退室した。
扉が閉じる。
「これで一つ」
シュウが言う。
「ああ」
ローデリックは席を立った。
「次は百年前だ」
◇
朝の書庫は、昨夜よりずっと明るかった。
東側の高い窓から差し込む光が、棚の上に積もった細かな埃まで浮かび上がらせている。夜には古文書そのものが秘密を抱えているように見えたが、朝になると、そこにあるのは何代もの人間が残した生活と仕事の積み重ねなのだと感じられた。
シュウは昨日まとめた紙を机へ広げた。
六代前エドワルド。
五代前グレゴール。
四代前エルネスト。
三代前アルバート。
二代前オスカー。
現時点で、封所の管理が確認できている最後はアルバートだ。
「まず、アルバートが亡くなる直前の記録」
ローデリックが役割を振り分ける。
「レイモンドは領主家の日誌。エレノアは医師と使用人の記録が残っていないか見てくれ。俺はオスカー側の手記を探す」
「俺は?」
「騎士団記録だ。アルバートとオスカーが会う予定だった日の警備や移動が分かるかもしれん」
「分かった」
シュウは指定された棚へ向かった。
昨日のように手当たり次第ではない。
日付が分かっている。
アルバートが死ぬ二日前に手紙を書いた。
翌朝、息子と二人で話す予定だった。
なら調べるべきは、その日と翌日だ。
古い騎士団の記録を一冊ずつ机へ運ぶ。
紙は乾いて脆くなっている。
乱暴に開けば破れそうだ。
慎重にページをめくる。
警備交代。
門。
巡回。
来客。
護衛。
目的の日付を探す。
「……あった」
シュウは椅子へ座り直した。
アルバートが手紙を書いた翌日。
朝。
領主私室前の警備。
特別な記載はない。
次。
午前。
当主アルバートの体調悪化により、医師を招集。
「父さん」
「見つけたか?」
「たぶん」
三人が集まる。
「手紙を書いた次の日の朝、アルバートの体調が悪化してる」
ローデリックが記録を読む。
「時刻は?」
「日の出から二刻ほどあと」
「予定していた話が何時だったかは分からんな」
「うん」
それだけでは、会話が行われなかった証明にはならない。
早朝に既に話していた可能性もある。
「続き」
シュウはページを追った。
「午前後半、医師二名。午後……オスカーが領外から帰還」
指が止まった。
「帰還?」
レイモンドが聞き返す。
「うん。『嫡男オスカー、東部街道より帰還』」
ローデリックの眉が寄る。
「前日から屋敷にいなかったのか」
「じゃあ翌朝に二人で話すって、どういうこと?」
シュウは手紙を思い出す。
――明日の朝、二人だけで話そう。
しかし、その翌日の午後までオスカーは領外にいた。
「予定では朝までに戻るはずだったのかもしれない」
レイモンドが言う。
「何かで遅れた?」
「それを調べる」
父の言葉に、シュウは頷いた。
まだ答えではない。
ただ、管理継承が途切れた理由として、偶然の積み重なりが見え始めた。
病床の父。
領外にいた息子。
伝える予定だった朝。
間に合わなかった帰還。
「アルバートは?」
エレノアが尋ねる。
「午後には?」
「医師の記録を見てみます」
母が持ってきた別の帳面を開く。
当時の屋敷医師が残した簡単な診療記録。
病名は、現代の呼び方とは違う。
高熱。
呼吸困難。
意識混濁。
「午後には、会話が難しい状態だったようですね」
エレノアが静かに言った。
シュウは紙を見た。
「じゃあ……」
「オスカーが帰ってきたときには、もう伝えられなかった可能性が高い」
レイモンドが続ける。
書庫の空気が変わった。
派手な陰謀ではない。
誰かが秘密を奪ったわけでもない。
少なくとも、今の記録から見えるのはもっと単純で、もっと取り返しのつかないすれ違いだった。
「そんなことで?」
シュウの口から、思わず言葉が漏れた。
「そんなことで、百年近く忘れられたの?」
責める相手がいるわけではない。
だから余計に、やるせない。
アルバートは伝えるつもりだった。
手紙にも残した。
翌朝に話そうとした。
オスカーも帰ってきた。
ただ、間に合わなかった。
「大事なことほど、いつでも伝えられると思うものかもしれんな」
ローデリックの声は低かった。
「アルバートも、病状がここまで急変するとは思っていなかったのだろう」
「でも手紙には『伝えるべきことが残っている』って」
「だから翌朝話すつもりだった」
「……そうだよね」
シュウは椅子の背へ身体を預けた。
たった半日。
オスカーの帰還が半日早ければ。
アルバートの容体悪化が半日遅ければ。
北の封所は今も管理されていたかもしれない。
そう考えると、百年という時間が妙に脆いものに思えた。
「まだ確定ではないぞ」
ローデリックが言う。
「オスカーが別の形で知った可能性もある」
「うん」
「そこを確認する」
シュウは姿勢を戻した。
感情だけで結論へ行かない。
次はオスカーだ。
◇
二代前オスカー・アルヴェインの記録は、アルバートより多く残っていた。
書庫火災のあとに当主となったため、彼の治世中に書庫が再整理されている。領地運営に関する文書も年代順にまとめられ、読む側としてはありがたい。
ただし。
「ないね」
シュウは三冊目を閉じた。
「北部森林の記録自体はある」
レイモンドが別の帳面を見る。
「伐採区域の変更、魔物討伐、薬草採取許可、西監視路の補修……しかし石室も封所も白樹も出てこない」
「西監視所には行ってない?」
「少なくとも当主本人が向かった記録は、今のところない」
ローデリックは地図へ小さな印をつける。
「オスカーの時代、西監視所は普通の森林監視施設として扱われているように見える」
「もう知らなかった?」
「可能性は高くなった」
シュウは黙って帳面を見た。
それでも、どこかに一文くらい残っていないかと探してしまう。
父から聞いていなかったとしても。
手紙の「北の森について伝えるべきこと」という言葉を見れば、何か調べなかったのだろうか。
「この手紙の写し」
シュウが尋ねる。
「オスカーは読んでたのかな」
「分からん」
「本人宛てなんだよね?」
「ああ。ただし原本が本人へ渡されたか、写しを後から読んだかは記録がない」
レイモンドが少し考える。
「父が亡くなった直後なら、領主交代の方が優先された可能性もある。書庫火災の後処理も完全には終わっていなかったでしょうし」
「そうか」
領主が死ぬ。
次の当主が立つ。
領地全体を止めるわけにはいかない。
葬儀。
引き継ぎ。
税。
騎士団。
村々。
問題は北の森だけではない。
オスカーが何も知らなかったのなら、普通の見張り小屋に見える場所をわざわざ調べる理由も薄い。
「秘密って、こうやって消えるんだな」
シュウは小さく言った。
「誰かが隠さなくても」
レイモンドが弟を見る。
「人から人へ渡さなければ、そこで終わる」
「怖いね」
「ああ」
兄の返事は短かった。
その横でローデリックが、昨日から作っていた家系の紙を見つめている。
「父さん?」
「いや」
彼は少し間を置いた。
「俺も考えていた」
「何を?」
「お前たちへ何を伝えていないか」
シュウとレイモンドが同時に父を見る。
「領主として知っていること。家のこと。土地のこと。昔から聞いていること。俺にとって当たり前になっているから、わざわざ話していないことがどれだけあるのかとな」
レイモンドの表情が少し真剣になる。
次期当主。
兄にとっては他人事ではない。
「全部書き残すのは無理だ」
ローデリックは続けた。
「だが、『いつか話せばいい』で済ませるのも危険だということだろう」
シュウは百年前の手紙を見る。
明日の朝。
たったそれだけ先へ延ばした言葉が、届かなかった。
「父さん」
「何だ」
「変な秘密ないよね?」
「急に軽くするな」
「いや、今のうちに聞いとこうと思って」
「少なくとも、お前が今すぐ知る必要のある『地下に何かを封じている』類の秘密は、俺が知る限り他にはない」
「『俺が知る限り』が怖いんだけど」
「今回の件で俺も怖くなった」
父が真顔で言う。
シュウは思わず笑った。
レイモンドも堪えきれなかったようで、肩を揺らした。
エレノアはそんな三人を見てから、静かに息を吐く。
「それなら今回を機会に、家の記録を整理した方がよさそうですね」
「そうだな」
「レイモンド」
「はい」
「お前とやる」
「分かりました」
シュウは兄を見る。
「俺は?」
「学院へ行け」
「即答?」
「お前まで残したら、さっきの話をした意味がないだろう」
正論だった。
◇
昼前。
書庫調査はいったん区切られた。
現時点で分かったことは、完全な証明ではない。それでも北の封所の管理継承が途絶えた時期は、かなり明確になった。
三代前アルバートまでは管理されていた。
彼は息子オスカーへ北の森について伝える予定だった。
その朝、オスカーはまだ領外から戻っていなかった。
アルバートは急激に容体を悪化させ、午後には会話が困難になった。
オスカーはその日の午後に帰還。
二日目、アルバートは死亡。
以降、オスカーの記録には封所、石室、白樹に関する記載が確認できない。
少なくとも現時点では、そこで継承が切れたと考えるのが自然だった。
ただし、なぜアルバートがもっと早く伝えなかったのか。
封所の管理がどの程度の頻度で必要だったのか。
管理が途絶えて約九十年もの間、なぜ大きな問題が起きなかったのか。
そして今になって、なぜ鐘が鳴ったのか。
そこは何も分かっていない。
「九十年放置して、今?」
書庫を出ながらシュウが呟く。
「それが気になるな」
ローデリックも同意した。
「もし管理が毎年必要なら、とっくに何か起きていてもおかしくない」
「エドワルドは『今年も確認』って書いてたよね」
「ああ。ただ、確認することと、毎年何かを施すことは違う」
「見るだけだった?」
「その可能性もある」
白樹に異常がないか。
扉が閉じているか。
森の底が静かか。
確認だけなら、封印そのものは何十年、何百年と自動的に機能する仕組みだった可能性もある。
「白樹が役目を果たしてるって書いてた」
シュウが思い出す。
「なら、あの小屋の白い魔力がそれ?」
「可能性はあるな」
「昨日もまだ残ってた」
「ああ」
なら封印は完全に壊れたわけではないのかもしれない。
しかし黒い異常は発生した。
何かが弱っているのか。
別の場所で問題が起きたのか。
開く木と地下階段は何なのか。
考えるほど、まだ森へ戻る段階ではないと思えてくる。
以前なら、分からないから見に行きたいと思った。
今も見たい気持ちはある。
でも、見に行けば分かるとは限らない。
むしろ今ある情報を整理してから行った方が、安全で得られるものも多い。
「父さん」
「何だ?」
「今日は森、行かないんだよね」
「行かない」
即答だった。
「明日も?」
「現状なら行かない」
「じゃあ、学院は?」
ローデリックが足を止めた。
廊下の窓から昼前の光が入っている。
庭では使用人が洗濯物を運び、厩舎の方では馬車の車輪を確認する音がしていた。
学院へ向かうため、もともと準備されていた馬車だ。
「今夜まで異常がなければ」
父はシュウを見る。
「明日の朝、王都へ向かえ」
胸の奥が大きく動いた。
「明日?」
「ああ」
「本当に?」
「行きたくないなら延期してもいいぞ」
「行く!」
答えは早かった。
自分でも驚くほどだった。
ローデリックの口元が少し上がる。
「なら決まりだ」
「でも、今日じゃなくていいの?」
「昨日森から戻ったばかりのお前を、今日すぐ馬車へ詰め込む気はない」
「詰め込むって」
「それに、リース村からの返事も待ちたい。お前も聞いてから行きたいだろう」
「うん」
それは間違いない。
「だから明日だ。今日は家で過ごせ」
その言葉を聞いた瞬間、シュウの中で何かが切り替わった。
昨日までの「学院へ行けるかもしれない」ではない。
明日。
この家を出る。
王都へ向かう。
王立魔法学院へ行く。
十七年間暮らした家を、初めて長期間離れる。
「……明日か」
口に出すと急に現実味が増した。
「急に不安になったか?」
「ちょっと」
「行くのをやめてもいいぞ」
「それは嫌」
「なら、その程度の不安は持っていけ」
ローデリックは軽くシュウの肩を叩いた。
「楽しみだけで家を出られる人間なんて、そう多くない」
父はそのまま先へ歩く。
シュウは肩に残った感触を確かめるように一度触れ、それから後を追った。
◇
昼食後、シュウは自室で学院の荷物をもう一度広げていた。
「昨日確認したのに」
《再確認は有効です》
「アルカディアが言うと母さんみたいだな」
《光栄です》
「そこは否定しないんだ」
ベッドの上には衣類。
机には筆記具。
床には鞄。
一つずつ確認する。
今度こそ薬もある。
予備の靴紐もある。
学院から届いた書類もある。
そして、財布。
「お金、これで足りるかな」
《現在の所持額を基準とした王都の物価情報が不足しています》
「そうなんだよね」
王都は領都より物価が高いと聞いている。
寮生活なので基本的な食事や生活には困らないはずだが、外へ出れば金は必要になる。
シュウは財布を見ながら考えた。
「父さんにもう少しもらう?」
《必要性があるなら相談すべきでしょう》
「でも昨日、兄さんに借金相談はするなって言われた気がする」
《第一話時点では、レイモンド様から「困ったら連絡しろ。ただし借金相談は断る」との趣旨の発言がありました》
「覚えてるんだ……」
《記録しています》
「怖いな」
アルカディアは、自分が忘れていることまで覚えている。
今のところ最も恐ろしい使い方が、十四歳の黒歴史を完全保存していることなのが困る。
「そういえば」
シュウは手を止めた。
「学院で能力、どうしよう」
《質問の意図を確認します》
「今は《生命回帰》だろ?」
《はい》
「選んだのが昨日の朝だから、明日の出発前には二十四時間過ぎてる」
《その認識で問題ありません》
次の能力を選べる。
学院へ向かう旅。
何日か馬車。
道中で何があるか分からない。
「《心装武器》に戻すのが無難かな」
《汎用性では優れています》
「炎、水、風、雷、光、闇。戦えるし、防げるし、移動にも少し使える」
《はい》
「でも、旅向きの能力って他にある?」
《多数存在します》
嫌な予感がした。
「普通のやつで」
《条件が曖昧です》
「恥ずかしくないやつ」
《検索条件に該当する能力を――》
少し間が空く。
「おい」
《主観判定が困難です》
「絶対いっぱい変なのあるじゃん」
《マスターが十四歳当時に登録された能力の大半には、詳細な名称、発動文、設定背景が付与されています》
「知ってた」
シュウは額を押さえた。
「明日の朝考える」
《合理的です》
「あと、旅だからって変な移動能力を勧めるなよ」
《四界踏――》
「言うな!」
反射的に声が出た。
廊下から足音が止まる。
「シュウ様?」
使用人の声。
「何でもない!」
「……承知しました」
足音が遠ざかる。
シュウは両手で顔を覆った。
「学院でこれやったら終わる」
《先ほど会話頻度の調整について提案しました》
「本気で頼む」
《承知しました》
本当に理解しているのか不安だった。
◇
午後は、思っていたより穏やかに過ぎた。
北部森林から緊急報告はない。
領都も普段どおり動いている。
昨日、領主と騎士たちが北へ向かったことは既に広まっていたが、行方不明者が全員救助されたという知らせも同時に伝わり、住民の不安は少しずつ落ち着いていた。
ただし、北部森林への立入禁止は正式に告知された。
薬師組合。
木こり組合。
狩人。
冒険者。
周辺村。
それぞれへ通達が出される。
シュウは父の執務室へ書類を届けに行った際、その作業を少しだけ見た。
森へ入らないこと。
黒く変色した植物を見つけても触れないこと。
黒い霧、液体、根を見た場合は近づかず離れること。
異常な冷感、痺れ、皮膚下の黒紫色の変色が出た場合は、すぐ治療師または領主館へ報告すること。
不用意に浄化魔法を試すため接近しないこと。
情報は共有する。
けれど恐怖を煽りすぎない。
その書き方について、ローデリックとレイモンドが何度も文章を直していた。
「『正体不明の異常』って書かないの?」
シュウが尋ねると、レイモンドが顔を上げた。
「必要以上に不安を煽る」
「でも正体不明じゃん」
「そうだ。だから具体的に、何を見たらどう行動するかを書く」
兄は書類の一文を指す。
「住民が必要なのは、我々が分かっていないことの一覧ではなく、自分たちが何をすれば安全なのかだ」
「なるほど」
「もちろん、危険性を隠すわけではない。森林内部で異常が発生していることは明記する」
シュウは文面を読み直した。
同じ事実でも、伝え方がある。
昨日、領都へ帰ったとき父が住民へ簡潔に説明していたことを思い出した。
「領主って大変だね」
「今さらか?」
「最近よく思う」
「なら代わるか?」
「遠慮します」
即答した。
レイモンドが笑う。
「お前は世界を見たいんだろう」
「うん」
「なら見てこい」
兄は再び書類へ視線を落とした。
「領地は俺が見る」
その言葉に、シュウは少しだけ胸が温かくなった。
「兄さん」
「何だ?」
「格好いいこと言った」
「そうか?」
「うん」
「なら覚えておけ」
「アルカディアみたいなこと言うなよ」
「何だそれは」
シュウは笑いながら執務室を出た。
明日。
本当に行くのだ。
◇
夕方が近づいたころ、リース村へ向かった騎士たちが戻ってきた。
報告を聞くため、ローデリックの執務室へ家族が集まる。
聞き取りを担当した騎士は、泥のついた外套を脱いでから机の前へ立った。長い距離を馬で往復した疲れは見えるが、記録は丁寧にまとめられている。
「ボルグ殿から聞けた範囲をご報告します」
「頼む」
シュウも椅子へ座り、自然と姿勢を正した。
「まず『森底の鐘』という呼び方ですが、これはボルグ殿の祖父が実際に使っていた言葉だそうです」
レイモンドが記録を取る。
「祖父本人が聞いた?」
「いいえ。祖父は、そのまた祖父から聞いた昔話としてボルグ殿へ語ったそうです」
何代前になるのか。
正確な年代はもう分からない。
「内容は?」
「かなり曖昧です。ただ、ボルグ殿が覚えている言葉を、できる限りそのまま記録しました」
騎士が紙を読む。
「『森の底で鐘が鳴ったら、北の古木へ行ってはいけない』」
シュウの指先が僅かに動いた。
北の古木。
エドガーが見た、大人二人でも抱えきれない古い木。
「続けて」
ローデリックの声が低くなる。
「『道が開いても入るな。森が人を呼んでも返事をするな。白い家が眠らせている間は、鐘は一度で止まる』」
部屋の空気が静まり返った。
シュウはすぐには言葉を出せなかった。
道が開く。
エドガーの見た木の中の階段。
白い家。
旧西監視路の見張り小屋。
白樹材。
白い魔力。
「白い家……」
レイモンドが呟く。
「見張り小屋を指す可能性があるな」
ローデリックも同じところを見ていた。
「まだ断定はできませんが」
騎士が続ける。
「ボルグ殿自身は、白い家がどこを指すか知りません。祖父も場所までは教えなかったそうです」
「鐘は一度で止まる」
シュウが口にする。
「今回、エドガーさんが聞いたのも一回。村の人も一回って言ってた」
「そうだな」
父が頷く。
「じゃあ、白い家はまだ……」
役目を果たしている。
百八十一年前のエドワルドの手記と同じ言葉が、頭に浮かんだ。
――白樹は未だ役目を果たしている。
「他には?」
ローデリックが促す。
「もう一つあります」
騎士の表情が僅かに硬くなった。
「ボルグ殿は、祖父からこの話を聞いたとき、最後にこう言われたそうです」
紙を見て、一字ずつ確かめるように読む。
「『二度目の鐘を聞いたら、森から離れろ』」
シュウの背中に冷たいものが走った。
「二度目?」
「はい」
「一日に二回って意味?」
「そこは分かりません。ボルグ殿も尋ねたことがあるそうですが、祖父は『一度で止まっているなら心配するな』としか答えなかったと」
部屋の誰もすぐには話さなかった。
窓の外から、夕方の鳥の声が聞こえる。
領都は平穏だ。
北部森林も、外周では回復が続いている。
鐘は三日前に一度だけ。
それ以降、聞かれていない。
「現時点で二度目はない」
ローデリックが言った。
その声は落ち着いている。
「だから、今すぐ状況を変える必要はない」
シュウは父を見る。
怖くないわけではないはずだ。
それでも、伝承を聞いた瞬間に騎士を森へ突入させたりはしない。
「監視は?」
「継続する。リース村にも、鐘のような音を聞いた場合は時刻と回数を記録して、すぐ知らせるよう伝えろ」
「既に伝えてあります」
「よし」
ローデリックは少し考え、続けた。
「他の北部集落にも同じ指示を出す。ただし『二度目の鐘』の話をそのまま広める必要はない。鐘のような異音を聞いたら報告。それで十分だ」
「承知しました」
騎士が一礼する。
報告が終わり、彼が退出したあとも、家族はしばらくその場に残った。
「白い家が眠らせている間は」
シュウがゆっくり言う。
「鐘は一度で止まる」
「古い伝承が事実ならな」
ローデリックが答える。
「昨日の小屋の白い魔力。石室。白樹材。エドワルドの『あれは眠り続ける』」
レイモンドが紙へ並べていく。
「かなり繋がってきました」
「うん」
シュウもそう思う。
ただし、まだ中心だけが抜けている。
何を眠らせているのか。
なぜ鐘が鳴るのか。
北の古木とは何なのか。
そして、黒い異常魔力は何なのか。
「父さん」
「何だ」
「明日、俺が行っても大丈夫?」
学院へ。
そう言わなくても伝わった。
ローデリックは息子を見た。
「今の報告を聞いて、残りたくなったか?」
シュウは考えた。
怖い。
二度目の鐘。
もし明日鳴ったら。
もし自分が王都へ向かったあと、森でまた異変が起きたら。
その想像は消えない。
けれど。
「気にはなる」
正直に言う。
「でも、残らなきゃいけないとは思ってない」
昨日とは少し違う。
「父さんたちがいるし、監視もしてる。今すぐ森へ行く必要もない。それに、学院で調べられることもある」
ローデリックは何も言わず聞いている。
「だから行きたい」
今度は迷わなかった。
「王都へ行く。学院へ行く」
数秒の沈黙。
そのあと父が頷いた。
「なら、明日の朝出発だ」
「うん」
エレノアの表情が僅かに揺れた。
笑っている。
けれど、その目には少し寂しさもある。
シュウは初めて、それに気づいた。
自分が家を離れるのは、自分だけの出来事ではない。
「母さん」
「何です?」
「……明日、ちゃんと起こして」
「いつも起こしています」
「そうだけど」
言いたかったのは、それではない。
けれど上手く言葉にできなかった。
エレノアはしばらく息子を見てから、小さく笑った。
「分かりました」
たぶん。
母には伝わっていた。
◇
その日の夕食は、昨日より少しだけ豪華だった。
シュウが明日出発することが正式に決まったため、厨房が急遽いくつか料理を増やしたらしい。
「別に普通でよかったのに」
シュウが言うと、料理長から「こういう日は作らせてください」と返された。
長く屋敷に仕えている使用人たちも、食堂へ料理を運ぶたび、どこかいつもと違う顔をしている。
「シュウ様、王都でもお身体にお気をつけください」
「ありがとう」
「食事を抜かないようにしてくださいね」
「分かってる」
「薬も」
「それ、みんな母さんから聞いた?」
使用人が笑った。
「奥様が三度ほど確認されていましたので」
「母さん!」
食卓の向こうでエレノアが平然とスープを飲んでいる。
「大切なことです」
「もう入れたよ!」
「今夜もう一度確認します」
「まだやるの!?」
ローデリックが笑い、レイモンドも肩を揺らした。
シュウは恥ずかしかった。
けれど、嫌ではなかった。
明日からしばらく、こういう食卓はない。
父の冗談も。
母の確認も。
兄の笑いも。
使用人たちの声も。
なくなるわけではない。
ただ、毎日は聞けなくなる。
そう思うと、いつものスープの味まで少し違って感じられた。
食後。
シュウは一人で庭へ出た。
夜風は冷たすぎず、昼間の暖かさを少しだけ残している。空には星が見え、領都の家々にも明かりが灯っていた。
十七年間見てきた景色。
明日、この町を出る。
「いよいよだな」
小さく呟く。
《はい》
アルカディアが答える。
『なあ』
《はい》
『俺、ちゃんとやれるかな』
何を。
学院生活を。
家族と離れることを。
新しい人間関係を。
自分の能力を隠しながら生活することを。
全部だ。
《未来の結果について断定はできません》
『そこは「大丈夫です」って言うところじゃない?』
《根拠のない保証は推奨できません》
『お前、本当にそういうところあるよな』
シュウは笑った。
でも。
《ただし》
アルカディアが続ける。
《マスターは本日までに、未知の異常へ遭遇し、複数名を救助し、状況に応じて能力選択を行い、撤退判断にも従いました》
『うん』
《学院生活が北部森林以上に危険である可能性は、現時点では高くありません》
『比較対象おかしくない?』
《したがって、過度な懸念は不要と判断します》
『……そっか』
妙な励まし方だ。
けれど、少し楽になった。
『ありがと』
《どういたしまして》
夜の庭に風が吹く。
シュウは空を見上げた。
王都は、ここからずっと先にある。
まだ見たことのない場所。
そこには王立魔法学院がある。
知らない教師。
知らない生徒。
知らない魔法。
知らない世界への入口。
楽しみだ。
怖い。
その両方でいい。
明日、自分はここを出る。
北部森林には謎を残したまま。
百年前の伝承にも答えを出さないまま。
けれど、それは逃げることではない。
自分の道を進みながら、必要なときに戻ればいい。
シュウは庭から屋敷へ戻った。
明日の朝は早い。
最後の荷物確認が待っている。
そして《生命回帰》の二十四時間が終われば、王都への旅に持っていく次の能力を選ぶことになる。
廊下へ入る直前。
シュウは北の空を一度だけ見た。
鐘の音は聞こえない。
夜は静かだった。
今は、それで十分だった。




