第13話 十七年間暮らした家を、今日出ていく
王都へ向かう朝だからといって、アルヴェイン男爵家の屋敷に何か特別な音が鳴るわけではなかった。
まだ日の出からそれほど経っていない時刻、シュウが目を覚ましたときに聞こえてきたのは、庭の木々に集まった鳥の声と、廊下の遠くを歩く使用人の足音だった。薄いカーテン越しに差し込む朝日は昨日までと何も変わらず、寝台の脇に置かれた学院用の大きな鞄だけが、今日がいつもの朝ではないことを主張している。
しばらく天井を眺めてから、シュウはゆっくり上体を起こした。
「……今日か」
《おはようございます、マスター》
「おはよう、アルカディア」
頭の中に響いた声も、普段と同じだった。
シュウは寝台から足を下ろし、床へ立つ。昨日の北部森林で負った疲労はほとんど残っていないが、胸のあたりには身体とは別の重さがあった。
嫌なのではない。
むしろ行きたい。
王都を見たい。学院で魔法を学びたい。同年代の人間と知り合いたい。その先では冒険者になって、この領地の外にある世界を自分の目で見てみたい。
その気持ちは昨夜より強くなっている。
けれど、今日からしばらく、この部屋で朝を迎えることはない。
「変な感じだな」
《何がでしょうか》
「この部屋」
シュウは見慣れた室内を眺めた。
壁際の本棚には、幼いころから少しずつ増えた本が並んでいる。剣術の基礎書もあれば、魔法の入門書もあり、子供のころに読んでいた冒険物語まで残っていた。
机の端には、小さな傷がある。
七歳のころ、木剣を室内へ持ち込んで振り回し、エレノアに叱られたときにつけたものだ。前世の記憶を持っていたくせに何をしていたのかと思うが、この世界で子供として育っているうちに、普通に子供らしい失敗もたくさんしてきた。
窓枠にも小さな傷がある。
こちらは十歳のころ、庭から飛んできたレイモンドの練習球を受け損ねてできた。
「兄さん、あのとき俺のせいにしようとしたんだよな」
《記憶情報を確認。最終的にはレイモンド様が自ら申告されています》
「そうそう。母さんに二人とも怒られた」
そんなことまでアルカディアが参照できるらしい。
前世の黒歴史だけでなく、この世界での記憶にもある程度アクセスしている。その事実にはまだ慣れない部分があるものの、今は問い詰める気にはならなかった。
「……ちゃんと帰ってくる部屋なんだよな」
《はい》
アルカディアの返事は短かった。
けれど、それで十分だった。
シュウはカーテンを開けた。
朝の光が一気に室内へ入り、昨夜確認した鞄の金具が小さく輝く。庭では使用人が掃き掃除を始めており、厩舎の前では二人の男が馬車を確認していた。
今日、自分を王都へ運ぶ馬車だ。
「よし」
いつまでも感傷に浸っているわけにもいかない。
顔を洗い、服を着替える。学院の制服は入学後に受け取ることになっているため、今日は旅に向いた普段着だ。
腰には剣。
魔法が使えるからといって、これまで身につけてきた剣術を捨てるつもりはない。
鏡の前で襟を整えていると、扉が二度叩かれた。
「シュウ、起きていますか?」
母だった。
「起きてるよ」
返事をすると扉が開き、エレノアが顔を覗かせた。
視線がまずシュウへ向かい、それから部屋の中を確認する。最後に鞄を見たところで、シュウには母が何を考えているのか分かった。
「薬も入ってる」
「まだ何も言っていません」
「顔が言ってた」
「あなたも人の表情を読めるようになりましたね」
「母さん限定かもしれない」
エレノアは部屋へ入り、鞄の前でしゃがんだ。
「開けてください」
「やっぱり確認するんじゃん」
「当然です」
「昨日二回やったよ?」
「今日の朝はまだでしょう?」
「一晩で薬が逃げるの?」
「あなたなら、夜中に何か思いついて鞄を開け、別のものを出したついでに置き忘れる可能性があります」
「信用がない」
「信用しているから、あなたの性格も信用しています」
「それ、いい言葉っぽくしてるだけじゃない?」
文句を言いながらも、シュウは鞄を開けた。
母と二人で中身を確認する。
着替え。
学院関係の書類。
筆記具。
日用品。
薬。
保存食。
財布。
予備の靴紐。
昨夜と何も変わっていない。
「はい。大丈夫ですね」
「でしょ?」
「よくできました」
「十七歳に言う?」
「何歳でも息子は息子です」
エレノアは立ち上がった。
いつもなら、ここでそのまま部屋を出ていくはずだった。
けれど今日は、少し違った。
母は窓の方へ目を向けたあと、シュウの机、本棚、寝台と順に見ていく。何かを確かめるような視線だった。
「母さん?」
「……静かになりますね」
その一言で、シュウは返事に詰まった。
自分が寂しいことばかり考えていた。
家を出る側だから。
でも、残る側にも同じ時間がある。
「兄さんいるじゃん」
「レイモンドは、あなたほど騒ぎません」
「ひどくない?」
「事実です」
エレノアは笑った。
けれど、その笑顔の奥にある寂しさを、今度のシュウは見落とさなかった。
「……手紙書くよ」
「ええ」
「学院で何があったとか。王都で何食べたとか」
「食事の報告は特にお願いします」
「そこ?」
「ちゃんと食べているか確認できますから」
「じゃあ書かない方がいいかも」
「シュウ」
「書く。書きます」
母の声が少し低くなっただけで即座に訂正する。
エレノアは満足そうに頷いた。
「それから」
「まだある?」
「困ったときは、困ったと言ってください」
先ほどまでの軽い調子が少し消えた。
「あなたは自分で何とかできることが多くなりました。今回の森でもそうです。でも、できることが多い人ほど、誰かへ助けを求めるのが遅くなることがあります」
シュウは黙って母を見る。
「学院には先生もいるでしょう。友人もできるでしょう。私たちへ手紙を送ることもできます。何かあったとき、自分だけで解決しなければならないと思わないでください」
「……うん」
「約束できますか?」
「できる」
今度は迷わず答えた。
北部森林で学んだこととも重なる。
自分に力がある。
だからこそ、自分一人で全部やればいいわけではない。
「じゃあ母さんも」
「私も?」
「何かあったら手紙に書いて。森のことも」
「もちろんです」
「隠さないでね」
「あなたを心配させないために、必要のないことまで送るつもりはありませんよ」
「それは分かるけど、必要なことは」
「伝えます」
エレノアは約束してくれた。
それから一歩近づき、シュウの襟元を直す。
自分で整えたはずなのに、母から見ると少し曲がっていたらしい。
「十七年間、あっという間でした」
「俺は結構長かったよ」
「育てる側からすると、早いものです」
母の指が襟から離れる。
「楽しんできなさい、シュウ」
その言葉に、シュウは少し目を見開いた。
勉強しなさいでもない。
立派になりなさいでもない。
「……うん」
胸の奥が温かくなる。
「行ってくる」
「まだ朝食前ですよ」
「雰囲気!」
エレノアが声を上げて笑った。
シュウも笑う。
少しだけ湿りかけた空気が、それでいつもの親子のものへ戻った。
◇
朝食の席には、既にローデリックとレイモンドが揃っていた。
シュウがエレノアと一緒に入ると、父が一度だけ顔を上げる。
「遅かったな」
「母さんの荷物検査」
「薬は?」
「入ってる!」
なぜ父まで最初にそこを聞くのか。
レイモンドが笑いながらパンを取った。
「これで王都までに薬を忘れたら伝説になるな」
「鞄ごとなくさない限り大丈夫だよ」
「その発言は覚えておこう」
「嫌な予言みたいに言うな」
席へ着く。
今朝の食事は、昨日の夕食ほど特別ではなかった。
温かいスープ。
卵料理。
パン。
焼いた野菜。
果物。
いつもの朝食だ。
だからこそ、シュウは一つ一つをいつもより意識して食べた。
王都にも美味しいものはたくさんあるだろう。
学院の食堂も楽しみだ。
それでも、この味はここにしかない。
「北部森林は?」
食事が半分ほど進んだところで、シュウは父へ尋ねた。
「朝の報告では変化なしだ」
「鐘も?」
「確認されていない」
「そっか」
胸の奥に残っていた小さな緊張が和らぐ。
森底の鐘。
二度目を聞いたら森から離れろ。
昨夜聞いた古い伝承は気になるが、今のところ二度目はない。
「予定どおり出発していい?」
「昨日決めただろう」
「最終確認」
「行け」
父の答えは変わらなかった。
「森について何かあれば手紙を送る。お前も学院側で白樹材、古代文字、北の封所に繋がりそうな記録を見つけたら知らせろ。ただし」
「調査ばっかりするな?」
「分かっているならいい」
ローデリックはスープを口へ運んでから、少しだけ表情を緩めた。
「学院へ行く一番の目的は、学院生活を送ることだ」
「勉強じゃないの?」
「勉強も含めてだ」
レイモンドが口を挟む。
「友人を作ることも忘れるな」
「そこ、結構不安なんだよね」
「お前なら大丈夫だろう」
「兄さんの根拠のない信頼が怖い」
「子供のころから領都の人間とは普通に話していただろう」
「学院って貴族も多いじゃん」
「平民もいる」
「身分とか面倒じゃない?」
この世界で十七年生きてきた以上、貴族社会の仕組みを知らないわけではない。
アルヴェイン家は男爵家。
下級貴族に分類される。
領内では領主家として上の立場だが、王都へ行けば伯爵、公爵、侯爵といったはるかに高い身分の人間がいる。
「面倒な人間はいる」
ローデリックがあっさり認めた。
「いるんだ」
「身分に関係なくな」
「それもそうか」
「必要な礼儀は守れ。だが、必要以上に卑屈になるな。お前はアルヴェイン家の人間だ」
父はシュウをまっすぐ見る。
「同時に、男爵家の息子だから偉いとも思うな」
「うん」
「相手の肩書きだけで人間を見るな。自分の肩書きだけで相手へ接するな。それで十分だ」
簡単に聞こえる。
けれど、実際には難しいことなのだろう。
「父さん、学院行ったことある?」
「ある」
「初めて聞いた」
「王都の貴族教育機関に二年いただけだ。王立魔法学院ではない」
「どうだった?」
ローデリックの手が止まった。
何か思い出したらしい。
「……面倒な奴はいた」
「何されたの?」
「毎朝、髪型に一刻近く使う男が同室だった」
「そこ?」
「共同の鏡を独占するんだぞ」
父の声が本気だった。
「父上にも学生時代があったんですね」
レイモンドまで興味を示す。
「当たり前だ」
「その人とは仲悪かったの?」
「卒業まで一緒にいた」
「仲いいじゃん」
「今でも年に一度は手紙が来る」
「めちゃくちゃ仲いいじゃん!」
思わぬ父の昔話に、食卓の空気が柔らかくなる。
エレノアは知っていたらしく、楽しそうに笑っていた。
「その方、今でも髪に時間をかけているそうですよ」
「母さんも知ってるの?」
「結婚式にも来てくださいましたから」
「知らなかった……」
自分が知らない父の人生がある。
当たり前なのに、少し不思議だった。
もしかすると学院へ行けば、自分にも何十年後まで手紙を送り合うような相手ができるのかもしれない。
そう思うと、友達を作れるかという不安が、ほんの少し楽しみに変わった。
◇
朝食を終えると、出発まで一刻ほど時間があった。
馬車は既に正面玄関前へ回されている。
御者と護衛を務める騎士たちが荷物を積み、車輪や馬具を最終確認していた。王都まで一直線に走るわけではなく、途中の宿場町で宿泊しながら数日かけて進む予定だ。
シュウも外へ出た。
朝の空気は少し冷たく、空には薄い雲が流れている。雨の気配はなく、旅立ちには悪くない天気だった。
「シュウ様!」
厩舎の方から声をかけられる。
振り向くと、若い厩務員が手を振っていた。
「王都のお土産、期待してます!」
「何がいい?」
「王都の酒!」
「俺まだ飲まないんだけど」
「旦那様用ってことにして買えば大丈夫ですよ!」
「おい、聞こえているぞ」
玄関前にいたローデリックの声が飛ぶ。
厩務員は慌てて仕事へ戻った。
周囲の使用人たちから笑いが漏れる。
昨日まで北部森林のことで緊張していた屋敷に、こうした笑いが戻っていることがシュウには嬉しかった。
料理長からは道中用の焼き菓子を追加で渡された。
侍女からは小さな裁縫道具を持たされた。
門番からは「王都でも無茶をしないように」と言われた。
「なんか荷物増えてない?」
馬車の横に積まれていく包みを見て、シュウは呟く。
《出発前に荷物が増加する現象は、家族・使用人からの好意によるものと推測します》
『分析しなくても分かる』
《なお、十四歳当時のマスターは旅立ちに際して――》
『今はやめよう。頼むから』
《まだ内容を提示していません》
『絶対恥ずかしいやつだろ』
《「旅立つ我に別れの言葉は不要。再会は世界の終焉の後に」》
『読んだ!』
しかも全力で格好つけている。
今から家族に「再会は世界の終焉の後に」と言って馬車へ乗る自分を想像してしまい、シュウは両手で顔を覆いたくなった。
『十四歳の俺、家に帰る気ないじゃん』
《当時の設定では「孤高の放浪者」でした》
『今の俺、焼き菓子と裁縫道具持たされてるんだけど』
《設定との差異は大きいですね》
『言うな』
現実の旅立ちは、黒歴史ノートに書いたものよりずっと生活感に満ちていた。
でも、シュウはこちらの方が好きだった。
「シュウ」
兄に呼ばれる。
レイモンドは小さな革袋を持っていた。
「これ」
「何?」
「持っていけ」
受け取ると、硬貨の重みがある。
「お金?」
「予備だ」
「昨日確認したよ。足りるって」
「足りるかどうかは使い方次第だ。これは緊急用」
袋を開けようとすると、兄に止められた。
「今見るな」
「なんで?」
「金額を知ると、お前は通常予算へ組み込みそうだからだ」
「俺のことどう思ってるの?」
「弟」
「答えになってない」
「本当に困ったときだけ開けろ」
レイモンドの表情を見る限り、冗談ではないらしい。
シュウは革袋を鞄の奥へしまった。
「ありがとう」
「ああ」
「ちゃんと返すよ」
「返さなくていい」
「でも」
「兄から弟への餞別だ」
その言い方をされると、それ以上断れなかった。
「じゃあ、いつか俺も何か返す」
「土産でいい」
「何がいい?」
「面白い話」
予想していなかった答えだった。
「物じゃなくて?」
「王都で何を見たとか、学院でどんな奴と知り合ったとか、そういうのでいい」
レイモンドは馬車へ視線を向ける。
「俺はしばらく領地を離れられないからな」
次期当主として。
兄には兄の道がある。
「いっぱい見てくる」
「そうしろ」
「変な奴がいたら手紙に書く」
「お前自身が変な奴扱いされないようにな」
「……気をつける」
アルカディアと突然会話し始める問題があるので、強く否定できなかった。
◇
出発時刻が近づく。
荷物の積み込みも終わった。
御者が馬の状態を確認し、護衛の騎士二名も準備を整えている。
そのとき。
《マスター》
アルカディアの声が少しだけ変わった。
『何?』
《《生命回帰》の固定選択期間が終了しました》
シュウは瞬きをした。
『今?』
《はい。選択から二十四時間が経過しました》
昨日の朝。
ディーンを助けるために選んだ能力。
その後、森へ入り、ミーナとガレスを治療し、帰路ではエドガーを救った。
たった一日。
けれど、もっと長く使っていたような気がする。
『解除された?』
《選択枠は空欄へ移行しました。《生命回帰》は再選択しない限り使用できません》
シュウは自分の内側へ意識を向けた。
確かに、昨日まで感じていた生命回帰特有の白緑色の感覚が薄れている。
恒常的な魔力。
身体能力。
魔力感知。
《漆黒魔力》。
それらは変わらない。
ただ、選択能力だけが空いている。
「ちょうど出発前か」
小声で呟く。
「どうした?」
近くにいたローデリックが反応した。
「《生命回帰》の二十四時間が終わった」
父の表情が変わる。
「次を選べるのか?」
「うん」
その言葉を聞いたレイモンドとエレノアも近づいてきた。
使用人たちは少し離れた場所にいるが、何人かはこちらを気にしている。
「昨日話してたやつだね」
シュウはアルカディアへ意識を向けた。
『候補』
《王都までの移動を主目的とする場合、複数候補があります》
『だから普通のやつな』
《「普通」の基準が未定義です》
『名前を聞いた瞬間、俺が死にたくならないやつ』
《生命活動に影響するほどの羞恥反応が想定される名称は――》
『比喩だから!』
危うく声に出しかけた。
「シュウ?」
「アルカディアと相談中」
「そうか」
父は慣れてきたらしい。
『《心装武器》は?』
《汎用性は非常に高いです。六形態により近接戦闘、防御、遠距離攻撃、属性対応が可能。既にマスターが実戦運用を経験している点も利点です》
『やっぱりそれかな』
旅の途中で何があるか分からない。
北部森林ほどの異常に遭遇するとは思わないが、魔物や盗賊の可能性はある。
使い慣れた能力。
しかも六種類。
安全を優先するなら悪くない。
《ただし》
『何?』
《王都への街道は整備されており、護衛騎士も同行します。戦闘能力のみを基準とする必要性は高くありません》
『じゃあ他には?』
《移動補助能力》
『四界なんとかは却下』
《まだ名称を提示していません》
『昨日言いかけたから覚えてる』
《《四界踏破》》
『言うなって!』
心の中で叫ぶ。
アルカディアは淡々と続けた。
《地、水、空、影の四種移動形態を――》
『説明もいらない。馬車あるから』
《では、広域探知能力》
昨日までの森を考えれば便利だ。
しかし王都へ向かうだけなら、常に周囲を探り続ける必要はない。
『治療なら?』
《《生命回帰》の再選択も可能です》
『同じのもう一回もできるんだ』
《禁止設定は存在しません》
それなら安全性は高い。
ただ、昨日まで使っていた能力をもう一度選ぶより、学院へ向かう旅では別の能力を試したい気持ちもある。
「シュウ」
エレノアが声をかける。
「急いで決める必要はあるのですか?」
「いや」
「なら、今選ばなくてもいいのでは?」
シュウは止まった。
「……あ」
そうだ。
選択枠が空いたからといって、即座に何かを入れなければならないわけではない。
「選ばないままでもいい?」
《可能です》
「先に言ってよ!」
今度は声に出た。
使用人たちがこちらを見る。
シュウは咳払いした。
「……アルカディアが」
「何か問題か?」
父が尋ねる。
「選択能力、今すぐ決めなくてもいいって」
「なら必要になってから決めればいいだろう」
「そうなんだけどさ」
「お前、妙なところで律儀だな」
ローデリックは笑った。
シュウとしては、ゲームの装備欄が空いているような落ち着かなさがあっただけなのだが、説明しても伝わらないだろう。
『空欄で』
《承知しました》
『何かあったら、その状況に合わせて選ぶ』
《合理的判断です》
これでいい。
強い能力を持っているからといって、常に使う必要はない。
昨日までなら、枠が空いた瞬間に一番強そうなものを選んでいたかもしれない。
少しだけ自分の力との付き合い方が分かってきた気がした。
◇
「そろそろだな」
ローデリックが空を見て言った。
出発の時間。
馬車の扉は開いている。
シュウは屋敷を振り返った。
見慣れた石造りの壁。
何度も通った玄関。
庭。
窓。
使用人たち。
昨日までは、今日になれば何か特別な言葉が出てくるような気がしていた。
でも実際には、何を言えばいいのか分からない。
「父さん」
「何だ」
「……行ってきます」
「ああ。行ってこい」
ローデリックはそれだけ言った。
それから少し考え、シュウの肩へ手を置く。
「失敗してこい」
「え?」
「学院へ行くんだ。全部上手くやろうとするな」
シュウは父を見る。
「間違えて、恥をかいて、喧嘩して、仲直りしてこい。困ったら考えろ。それでも駄目なら誰かを頼れ」
父の手に少し力が入る。
「家へ帰りたくなったら帰ってこい。ここはなくならん」
胸が詰まりそうになった。
シュウは一度だけ唇を結び、それから頷いた。
「うん」
次はエレノア。
母は何か言おうとしたようだった。
けれど結局、言葉より先にシュウを抱きしめた。
十七歳になってから母に抱きしめられることなど、ほとんどない。
一瞬どうしていいか分からず腕が止まったが、シュウもゆっくり母の背へ手を回した。
「身体に気をつけて」
「うん」
「無理をしないで」
「うん」
「食事を――」
「ちゃんと食べる」
「薬を――」
「持った」
「手紙を」
「書く」
先回りして答えると、エレノアが小さく笑った。
「なら大丈夫ですね」
身体が離れる。
母の目が少し潤んでいるように見えたが、シュウは何も言わなかった。
自分の目も少し危なかったからだ。
「兄さん」
「ああ」
レイモンドとは向かい合う。
握手でもするのかと思った。
しかし兄は右手を上げ、そのままシュウの頭を少し乱暴に撫でた。
「ちょ、何すんだよ」
「弟が家を出るのでな」
「子供扱いするな」
「十七歳は十分子供だ」
「兄さんだってそんなに変わらないだろ」
「俺の方が兄だ」
「便利だな、それ!」
髪を整えながら睨む。
レイモンドは笑っている。
「シュウ」
そして最後だけ、真面目な声になった。
「楽しんでこい」
「……うん」
「お前が見たいと言っていたものを、ちゃんと見てこい」
「分かった」
家族三人。
誰も「立派になって帰れ」とは言わなかった。
それがシュウには嬉しかった。
「じゃあ」
馬車へ向かう。
一歩。
二歩。
そこで、背後から声が飛んだ。
「シュウ様ー!」
振り返る。
使用人たちが並んでいた。
「いってらっしゃいませ!」
一人の声をきっかけに、他の者たちも続く。
「お気をつけて!」
「お帰りをお待ちしております!」
「王都のお酒!」
「お前はあとで来い!」
最後の厩務員にローデリックの声が飛び、笑いが起きた。
シュウも笑った。
「行ってきます!」
今度は大きな声で返した。
馬車へ乗り込む。
扉が閉じられる。
窓を開けたままにしておく。
御者が合図を出すと、馬車がゆっくり動き始めた。
車輪が石畳を踏む。
屋敷が少しずつ離れる。
シュウは窓から身体を少し乗り出すようにして、家族を見た。
父。
母。
兄。
使用人たち。
みんなまだそこにいる。
門を抜ける。
角度が変わる。
屋敷が見えなくなる直前まで、シュウは振り返っていた。
やがて石壁に遮られた。
見えなくなる。
胸の奥に、ぽっかりと何かが空いた。
寂しい。
はっきりそう思った。
でも同時に、前方から吹き込んでくる風には、今まで知らなかった場所へ向かう匂いがあるような気がした。
『アルカディア』
《はい》
『行くか』
《はい、マスター》
シュウは座席へ座り直した。
馬車は領都の大通りへ入る。
◇
朝の領都は既に動き始めていた。
店先へ商品を並べる商人。
荷車を引く職人。
井戸から水を運ぶ人々。
通りの向こうでは焼きたてのパンを売る店から香ばしい匂いが漂っている。
男爵家の紋章がついた馬車に気づき、何人かが道を空けた。
その中から、シュウを見つけた者がいた。
「あれ、シュウ様じゃないか?」
「今日、王都へ行くんだろ?」
「学院だって聞いたぞ」
声が聞こえる。
シュウは少し迷ってから窓越しに手を振った。
すると、思っていた以上の反応が返ってきた。
「頑張ってください!」
「お気をつけて!」
「帰ってきたら話聞かせてくださいよ!」
八百屋の主人。
パン屋の女性。
何度か剣の稽古を見に来た子供たち。
知らない人までいる。
「シュウ様ー!」
子供の声が大きく響いた。
十歳くらいの少年が、母親らしき女性の横で手を振っている。
「すっごい魔法、覚えてきてー!」
シュウは苦笑した。
「もう十分すごいのあるんだけどな……」
《同意します》
『お前が言うと嫌な予感するから黙ってて』
馬車はゆっくり進む。
領都の人々が、自分を知っている。
男爵家の次男だから。
それだけではない。
幼いころから町へ出ていた。
祭りにも参加した。
買い物もした。
父に連れられて領内を回ったこともある。
十七年間、自分はこの町で生きてきた。
前世の記憶を持つ転生者。
それは事実だ。
けれど、だからといってこの世界での十七年間が仮の人生になるわけではない。
ここが故郷だ。
今さらながら、そのことを強く感じた。
町の中心を抜ける。
建物が少しずつ減っていく。
外門が近づく。
門を守る騎士たちが馬車へ気づき、姿勢を正した。
「シュウ様!」
隊長格の男が声をかける。
「王都までお気をつけて!」
「ありがとう!」
「学院でアルヴェインの名を轟かせてきてください!」
「それ父さんに怒られるやつじゃない!?」
周囲の騎士たちが笑った。
「ほどほどにしてきます!」
「それがよろしいかと!」
門を抜ける。
町の石畳から、街道の固い土へ車輪の音が変わった。
振り返れば、アルヴェイン領都を囲む壁が見える。
さらに向こうには、屋敷の一部が小さく見えた。
「……出た」
シュウは呟いた。
何度も町の外へ出たことはある。
狩り。
訓練。
近隣村への同行。
昨日だって北部森林まで行った。
でも今日は違う。
帰宅予定が今日の夕方ではない。
数日後でもない。
学院へ入れば、長期休暇まで帰らない可能性もある。
街道が前へ伸びている。
王都へ。
その先へ。
馬車の速度が少し上がった。
◇
領都を出て半刻ほど。
シュウは早くも一つの問題に直面していた。
「暇だ」
《出発から約一時間です》
「分かってる」
窓の外には畑が広がっている。
最初の十分は楽しかった。
領都が遠ざかる景色。
街道沿いの農地。
遠くに見える森。
空。
全部、旅立ちの日だから新鮮に見えた。
しかし、一時間も馬車に揺られていると慣れる。
護衛騎士は前後を馬で進んでいる。
御者へ話しかけ続けるわけにもいかない。
同乗者はいない。
「本持ってくればよかった」
《鞄に二冊あります》
「あるの?」
《荷物確認時に確認しています》
「そうだった」
自分で入れたのに忘れていた。
鞄から一冊取り出す。
王都案内。
学院へ行く前に読んでおこうと思って持ってきたものだ。
「ちょうどいいか」
ページを開く。
王都の人口。
主要地区。
王城。
貴族街。
商業区。
職人街。
冒険者ギルド。
王立魔法学院。
「冒険者ギルド……」
そこだけ声が少し弾んだ。
《卒業後の進路候補ですね》
「うん」
学院を卒業したら。
仲間を作って。
冒険者になる。
依頼を受けながら世界を回る。
前世ではできなかった生き方だ。
「楽しみだな」
《はい》
ページをめくる。
王都の冒険者ギルドは国内最大級。
高位冒険者も多い。
魔物素材の取引市場もある。
「行ってみたい」
《学院在学中でも登録可能か、現地規定の確認を推奨します》
「学生でも冒険者できるのかな」
授業に支障がなければ、休みの日に簡単な依頼を受けるのも楽しそうだ。
ただし、今決めることではない。
まず学院。
友人。
授業。
生活に慣れる。
それからだ。
「焦らない」
《北部森林での学習成果でしょうか》
「そうかも」
自分で言って少し笑う。
たった数日前まで、黒歴史ノートが本物になったことに頭を抱えていた。
それが今では、その力で人を救い、森の異常へ立ち向かい、家族へ能力の一部まで知られている。
人生は分からない。
そのとき。
馬車がゆっくり速度を落とした。
「ん?」
シュウは本から顔を上げる。
前を走っていた護衛騎士が手を上げている。
道の先に何かあるらしい。
緊張が身体へ戻る。
昨日までのこともあり、無意識に魔力感知を広げた。
異常な黒紫色。
なし。
強い魔物反応。
少なくとも感じない。
「シュウ様」
護衛騎士の一人が馬を寄せてきた。
「少々お待ちください」
「何かあった?」
「街道の先で荷馬車が止まっております」
「事故?」
「確認します」
騎士が前へ向かう。
シュウは窓から様子を見た。
百メートルほど先。
一台の荷馬車が道の端へ寄せられている。
人影が三つ。
襲われている様子ではない。
やがて護衛騎士が戻ってきた。
「車輪が外れたようです」
「怪我人は?」
「ありません」
その言葉を聞き、シュウの肩から力が抜けた。
「ならよかった」
「道を半分塞いでおりますので、修理まで少し時間がかかるかもしれません」
「手伝えない?」
騎士は一瞬考えた。
「確認してまいります」
シュウも馬車を降りた。
北部森林とは違う。
ただの街道。
ただの荷馬車の故障。
それだけなのに、妙に新鮮だった。
近づくと、荷馬車の持ち主らしい中年男性が困り果てた顔で車輪を見ている。
「すみません、すみません。すぐどかしますんで」
「急がなくていいよ。怪我してない?」
「はい……って」
男がシュウの服装と護衛を見比べる。
「も、もしかしてアルヴェイン家の……」
「シュウです」
「申し訳ありません!」
「謝らなくていいって」
シュウは外れた車輪を見る。
車軸そのものは折れていない。
留め具が破損しているようだ。
「直せそう?」
護衛騎士が確認する。
「予備部品があれば」
荷馬車の男が困った顔になる。
「それが、留め金の予備を昨日使っちまって……次の町で買うつもりだったんです」
シュウは荷物を見る。
野菜と布。
危険物ではない。
「どうする?」
「我々の馬車に予備部品があります。規格が合えば使えるでしょう」
護衛騎士が答えた。
「あるの?」
「長距離移動ですので、最低限の修理部品は積んでおります」
「さすが」
騎士が苦笑する。
「旦那様から、シュウ様の馬車は特に念入りに確認するよう命じられております」
「父さん……」
家を出ても父の準備が効いている。
部品を持ってきて合わせる。
完全に同じではないが、応急修理には使えるらしい。
「よし」
騎士二人と荷馬車の男たちが作業を始める。
シュウも車輪を支えようとした。
「シュウ様はお待ちを」
「俺も持てるよ」
「それは存じておりますが」
「人数いた方が早いでしょ」
騎士は少し困った顔をしたが、最終的には折れた。
四人で車輪を持ち上げる。
強化された身体能力を使えば、シュウ一人でも持ち上げられる重量だった。
ただし、必要以上に力を見せるつもりはない。
「せーの」
掛け声に合わせる。
車輪を軸へ戻す。
部品を取り付ける。
十分ほど。
荷馬車は再び走れる状態になった。
「本当にありがとうございます!」
中年男性が何度も頭を下げる。
「部品代を――」
「いいよ」
「ですが」
「困ったときはお互い様ってことで」
シュウが答えると、男は少し戸惑ったあと、深く頭を下げた。
「王都へ向かわれるんですか?」
「うん。学院に」
「それは……どうかお気をつけて。うちの息子もいつか学院へ行けたらなんて言ってまして」
「何歳?」
「十二です」
「じゃあ五年後かな」
「魔法の才能があれば、ですけどね」
男は笑った。
その横で、十二歳より少し幼く見える少年が荷台から顔を出していた。
父親の手伝いで同行しているらしい。
シュウと目が合うと、すぐに隠れる。
「息子さん?」
「ええ。人見知りでして」
シュウは少し笑った。
「俺も学院で人見知りするかもしれないから、お互い頑張ろうって言っといて」
「シュウ様がですか?」
「知らない人ばっかりだからね」
荷台から少年がもう一度顔を出す。
今度は隠れなかった。
小さく手を振っている。
シュウも振り返した。
それだけ。
大事件は起きない。
黒い根も出ない。
封印もない。
誰かを最強の治癒魔法で救う必要もない。
ただ道端で困っている人の車輪を直した。
シュウは馬車へ戻りながら、なぜか少し気分が良かった。
『こういうのでいいんだよな』
《何がでしょうか》
『旅』
世界を旅するというと、前世の自分が想像していたのは、もっと派手なものだった。
魔物。
秘境。
遺跡。
強敵。
それもあるだろう。
でも、知らない道を進んで、知らない人と会って、困っていれば少し手伝う。
そういうものも旅だ。
《マスター》
『何?』
《十四歳当時の旅の定義を提示しますか?》
『しなくていい』
《「我が旅路に平穏なし。歩む先すべてが伝説となる」》
『だから読むなって!』
アルカディアは今日も容赦がなかった。
◇
昼が近づくころ、馬車は小さな街道宿へ到着した。
王都までの最初の休憩地点だ。
木造の宿と食堂、馬へ水を与える設備が並び、旅商人や冒険者らしい者たちが何人か休んでいる。
シュウが馬車から降りると、腰と背中を伸ばした。
「馬車って疲れるな……」
「初日は特にそうです」
護衛騎士が馬から降りながら答える。
「数日で慣れますよ」
「数日後には王都着くんだけど」
「では、到着するころに慣れます」
「意味ないなあ」
騎士が笑った。
食堂へ入る。
焼いた肉と豆の煮込みの匂いが漂っている。
アルヴェイン領都の店とは違う。
まだ領内ではあるが、旅人向けの食事らしく、味付けも少し濃い。
「三人分」
護衛騎士が注文しようとする。
「御者さんは?」
「馬の世話を終えてから交代で食べます」
「じゃあ四人分頼んで、持っていけるようにしてもらおう」
シュウが言うと、騎士が少し驚いた。
「どうしたの?」
「いえ」
「変?」
「旦那様に似ていると思いまして」
「父さんに?」
「こういうところが」
騎士はそれ以上説明しなかった。
シュウとしては、御者だけ後で一人で食べるのも嫌だろうと思っただけだ。
料理が運ばれてくる。
豆の煮込み。
厚めに切られた肉。
黒パン。
王都への旅、最初の外食。
「いただきます」
一口。
味が濃い。
でも美味い。
「これ好きかも」
《塩分濃度は屋敷の料理より高いと推定されます》
『今、栄養指導いらない』
向かいの騎士が笑う。
「アルカディアですか?」
「もう分かるようになった?」
「シュウ様が急に少し嫌そうな顔をされるので」
「みんな俺の顔読みすぎじゃない?」
「分かりやすい方だとは思います」
家族だけではなかった。
学院で本当に大丈夫だろうか。
シュウは黒パンをちぎりながら、少しだけ不安になった。
それでも。
知らない場所の料理を食べている。
知らない道を進んでいる。
朝まで家にいたのに、もう旅の途中だ。
その事実がじわじわと胸へ染み込んでくる。
窓の外。
街道はさらに南へ続いている。
その先に王都がある。
そして王立魔法学院がある。
北部森林では、まだ分からないことが山ほど残っている。
森底の鐘。
北の封所。
白樹。
地下の石扉。
開く古木。
眠っている「あれ」。
全部、置いてきた。
でも捨ててきたわけではない。
父と兄が調べている。
自分は別の場所から調べられる。
それでいい。
「午後も長いな」
シュウは窓の向こうを見ながら言った。
「次の宿場までは三刻ほどです」
「三刻……」
思ったより長い。
《読書を推奨します》
『途中で寝そう』
《睡眠でも問題ありません》
『旅立ち初日に昼寝ってどうなの?』
《十四歳当時のマスターであれば「真なる旅人に休息は不要」と――》
『今の俺は寝るかもしれない』
《成長ですね》
『絶対褒めてないだろ』
シュウは笑った。
護衛騎士がまた不思議そうにこちらを見る。
今度は気にしなかった。
昼食を終えれば、また馬車へ乗る。
王都はまだ遠い。
学院もまだ見えない。
新しい仲間にも、まだ出会っていない。
何が待っているのかも分からない。
それでも、十七年間暮らした家を出た最初の日。
シュウ・アルヴェインの世界は、確かに昨日までより少しだけ広くなっていた。
そして今のところ、その旅路には世界の終焉も、伝説になるような戦いも起きていない。
道端で車輪を直して、濃い味の豆を食べただけだ。
シュウには、それがたまらなく楽しかった。




