第14話 初めての旅は、思ったより普通で面白い
昼食を終えて街道宿を出たとき、空には朝よりも厚い雲が増えていた。
雨が降りそうな暗さではないものの、春の終わりらしい柔らかな日差しは薄れ、街道を渡る風にも少しだけ冷たさが混じっている。馬へ水を飲ませていた御者が空を見上げ、「夕方までは持ちそうですね」と言ったので、シュウもつられるように南の空を眺めた。
「天気まで見ながら進むんだな」
「長い旅では大切ですよ」
護衛騎士のハンスが、馬具の締まりを確認しながら答えた。
今朝、屋敷を出てから護衛として同行している二人の騎士のうち、年上の方だ。三十代半ばで、父ローデリックにも長く仕えている。
もう一人は二十代前半のカイル。
こちらは今回初めて王都までの護衛を任されたらしく、本人は平静を装っているものの、ハンスから何度も「肩に力を入れるな」と言われていた。
「雨だとそんなに変わる?」
シュウが尋ねると、ハンスは街道へ視線を向けた。
「この辺りはまだ整備されていますから、小雨程度なら大きな問題はありません。ただ、強く降れば道がぬかるみますし、川の水量も増えます。馬も疲れますからね」
「なるほど」
「それに雨の中で野営する羽目になると最悪です」
横からカイルが真顔で加えた。
「経験あるの?」
「あります。去年、領内東部の巡回で」
「どうだった?」
「靴の中まで全部濡れました」
「うわ」
「翌朝になっても乾きませんでした」
「うわあ……」
「さらに夕食を作ろうとしたら火がつかず、保存食を水で流し込みました」
「もういい。旅への期待が減る」
シュウが止めると、ハンスが声を上げて笑った。
「今日は宿を取っていますから大丈夫ですよ。旦那様が、初日から野営させるなと念を押しています」
「父さん、どこまで指示してるの?」
「かなり細かく」
「聞くの怖くなってきた」
家を離れたはずなのに、まだ父の手のひらの上にいる気がする。
けれど不思議と嫌ではなかった。
むしろ、初めての長旅で何を準備すればいいか分からない自分のために、父が見えないところまで整えてくれていたのだと思うと、少しだけ胸が温かくなる。
「そろそろ出ましょう」
御者が声をかけた。
「はい」
シュウは馬車へ戻る。
扉を閉める前、先ほど車輪の修理を手伝った荷馬車が街道宿の反対側で準備をしているのが見えた。人見知りだという少年がこちらに気づき、父親の背中から半分だけ顔を出している。
シュウが手を振る。
少年は一瞬迷ってから、小さく手を振り返した。
それだけの別れだった。
名前すら聞いていない。
おそらく二度と会わない可能性の方が高い。
それでも、旅とはこういう出会いが増えていくことなのかもしれない。
「出します!」
御者の声。
馬車がゆっくり動き始めた。
街道宿が後方へ流れていく。
シュウは座席へ深く腰を下ろし、膝の上へ王都案内の本を置いた。
「午後三刻か……」
《正確な到着時間は道路状況、馬の疲労、休憩時間によって変動します》
『分かってる』
《退屈への対策として読書を推奨します》
『さっきも言ってたな』
ページを開く。
王都の地図。
王城を中心として広がる巨大な都市。
アルヴェイン領都とは比較にならない規模だ。
「学院、結構端なんだな」
《地図上では王都北東部に位置しています》
『寮も敷地内?』
《案内書の記載では、男子寮および女子寮が学院敷地内西側に存在します》
「でか……」
声が漏れた。
学院そのものが一つの町のように見える。
講義棟。
訓練場。
図書館。
研究棟。
食堂。
寮。
魔法実験施設。
さらに学生が自由に使える中庭や運動場まであるらしい。
「楽しそうだな」
ページをめくる手が自然に速くなる。
入学後、最初の数日は新入生向けの案内期間。
授業開始前に魔力量や属性適性の確認も行われる。
「……魔力量測定」
シュウの手が止まった。
《何か問題でしょうか》
『問題しかなくない?』
自分の中には、《禁書アルカディア》の影響で明らかに普通ではない力がある。
恒常能力。
漆黒魔力。
さらに一日一つ選べる、黒歴史由来の能力。
『これ、測ったらどうなる?』
《測定方式が不明なため断定できません》
『壊れたりしないよな?』
《可能性を否定できません》
『否定してほしかった』
入学初日に測定器を爆発させる自分の姿が頭へ浮かぶ。
嫌すぎる。
『抑えられる?』
《通常魔力であれば、マスター自身による出力調整が可能です。《漆黒魔力》についても意図的に流さなければ、常時外部へ放出される性質ではありません》
『じゃあ普通に測ればいい?』
《測定対象が通常魔力のみであれば》
『そこが分からないのか』
《はい》
シュウは案内書を閉じかけた。
けれど、もう一度開く。
学院へ行く以上、避けられない。
「まあ、そのとき考えるか」
《合理的です》
『最近そればっかり言ってない?』
《マスターが以前より合理的な判断を行う頻度が増加しています》
『褒められてる?』
《はい》
少し嬉しい。
だが素直に喜ぶと、すぐ黒歴史を持ち出されそうなので黙っておいた。
◇
午後の街道は、午前とは少し景色が違っていた。
領都周辺に広がっていた大きな農地は少しずつ減り、代わりに低い丘と雑木林が増えていく。街道そのものは二台の馬車がすれ違えるほど広く、ところどころに旅人向けの標識が立てられていた。
シュウは何度か本から顔を上げ、窓の外を眺めた。
旅商人の荷馬車。
数人組の冒険者。
王都方面から来る乗合馬車。
徒歩で移動する旅人。
領都の中では見かけない服装の人間もいる。
「本当に人が行き来してるんだな」
知識としては知っていた。
街道があり、町と町を繋ぎ、人と物が移動する。
当たり前のことだ。
けれど実際に自分がその流れの中へ入ると、見え方が違う。
すれ違う荷馬車には、自分の知らない町の商品が積まれているのかもしれない。
向こうから歩いてくる冒険者は、どこか遠くの魔物を討伐して帰ってきたところかもしれない。
世界が広い。
十七年間アルヴェイン領で暮らしてきたシュウには、その当たり前の事実が妙に新鮮だった。
「お」
街道脇に小さな石碑が見えた。
馬車が近づく。
刻まれた文字を読む。
――アルヴェイン領境まで十二里。
「もうそんなところまで来たんだ」
まだ領内だ。
しかし今日の宿泊予定地は、領境を越えた先にある町だと聞いている。
つまり数時間後。
自分は生まれて初めて、アルヴェイン領の外へ出る。
王都までの旅を考えれば最初の一歩にすぎない。
それでもシュウには大きなことだった。
『アルカディア』
《はい》
『前世では、こういうの何とも思わなかったな』
《行政区域を越えることについてでしょうか》
『うん』
電車。
車。
仕事。
旅行。
県境を越えることなど、いちいち意識しなかった。
今は違う。
この世界で生まれ、育ち、十七年間ほとんど一つの領地の中で暮らしてきた。
馬車で移動する世界では、距離の感覚そのものが前世と違う。
『なんか、本当に旅してる感じする』
《現在、実際に旅をされています》
『そういう意味じゃなくてさ』
《理解しています》
『分かってて言っただろ』
《はい》
「性格悪いな」
小さく呟いた。
馬車の前方から、御者の笑い声が聞こえた気がした。
◇
それから一刻ほど進んだところで、街道は緩やかな林の中へ入った。
北部森林ほど木々は密集していない。
道幅も十分にあり、昼間なので暗さもない。
それでも昨日まで森で黒い異常を見ていたせいか、シュウの身体は無意識に少し緊張した。
窓の外へ意識を向ける。
魔力感知。
木。
土。
小動物。
普通の魔力。
異常なし。
「……大丈夫」
《北部森林由来の異常魔力は検知されません》
『分かってる』
《マスターの心拍数が僅かに上昇したため補足しました》
『そこまで分かるの?』
《魂格納状態にあるため、一定範囲の生体情報を把握可能です》
『プライバシーないな』
《排泄情報などの詳細記録は――》
『言わなくていい!』
最悪の方向へ話が進みそうだった。
シュウは窓の外へ顔を向ける。
林の中には鳥の声がある。
昨日の北部森林では消えていた音だ。
枝が揺れる。
風。
鳥。
虫。
普通の森。
その普通さに、逆に安心する。
昨日までは、森に入るだけでこんな感覚になるとは思わなかった。
あの事件は終わっていない。
父たちが調べている。
自分も学院で何か情報を探す。
けれど今はここにいる。
そう意識を切り替えたところで、馬車の前からカイルの声がした。
「ハンスさん」
「ああ」
短い返事。
馬車の速度が僅かに落ちる。
シュウはすぐ窓を開いた。
「何かある?」
カイルが馬を寄せてくる。
「前方に人がいます」
「旅人?」
「おそらく冒険者ですが……少し様子がおかしいですね」
シュウも前を見る。
街道の左側。
三人。
一人は立っている。
一人は座っている。
もう一人は地面に横たわっていた。
その近くに、倒された魔物らしきものがある。
「怪我人?」
「その可能性があります」
胸が反応する。
昨日までなら《生命回帰》が使えた。
しかし今は選択枠が空いている。
『アルカディア』
《はい》
『状態見える?』
《距離があるため詳細判定不能。ただし生命反応は確認できます》
『三人とも?』
《はい》
全員生きている。
まず、それだけで少し安心した。
「近づきますが、シュウ様は馬車の中でお待ちください」
ハンスが言う。
「分かった」
今回は素直に従った。
自分が飛び出す必要はない。
護衛騎士二人が先に確認する。
馬車は少し離れた場所で停止した。
シュウは窓から様子を見る。
立っていた冒険者がこちらに気づいた。
男。
二十代後半くらい。
革鎧。
剣。
敵意はない。
むしろ助かったという顔をしている。
「すみません! 治療薬を持っていたら分けてもらえませんか!」
声が届いた。
ハンスが状況を確認する。
倒れている仲間。
左腕から血。
意識はあるらしい。
近くの魔物は、大型の猪に似た姿をしていた。
「シュウ様」
しばらくしてハンスが戻ってきた。
「魔物との戦闘で一人が負傷しています。命に関わる傷ではなさそうですが、出血が多い」
「薬は?」
「彼らの分を使い切ったようです。こちらの止血薬を分ければ対応できると思います」
シュウは頷きかけた。
そこで止まる。
「《生命回帰》なら一発で治せる」
ハンスはシュウを見た。
「選択できるのですか?」
「できる」
「ですが」
騎士の視線が、シュウの背後にある荷物へ向く。
「王都まではまだ数日あります」
シュウも分かっていた。
《生命回帰》を選べば、そこから二十四時間は他の選択能力を使えない。
昨日は命に関わる人間が複数いた。
だから迷わず選んだ。
今回は違う。
怪我人はいる。
だが通常の治療で対応可能。
「……薬で治せるんだよね」
「おそらく」
「なら薬を使おう」
言ってから、自分の中にほんの少し引っかかりが残った。
治せる力があるのに使わない。
冷たい判断ではないか。
そんな感覚。
『マスター』
『分かってる』
《まだ何も申し上げていません》
『たぶん同じこと考えてるから』
シュウは馬車を降りた。
今回はハンスも止めなかった。
怪我人のところへ向かう。
倒れていたのは若い女性だった。
二十歳前後。
軽装の革鎧。
左腕を布で縛り、出血を抑えている。
顔色は少し悪いが、意識ははっきりしていた。
「すみません……」
「喋らなくていいよ」
シュウはしゃがみ込む。
傷を見る。
魔物の牙か何かで裂かれたらしい。
深い。
でも、腕そのものが失われているわけではない。
異常な魔力も感じない。
「ハンス」
「はい」
「薬お願い」
止血薬。
傷薬。
包帯。
護衛騎士が手慣れた動きで処置を始める。
シュウも必要なものを渡した。
女性は痛みに顔を歪めたが、やがて出血が落ち着いてくる。
「大丈夫そう?」
「はい」
ハンスが頷く。
「次の町までなら問題なく移動できるでしょう。そこで治療師に診せれば」
「よかった」
シュウは息を吐いた。
すると、冒険者の男が何度も頭を下げた。
「助かりました。本当にありがとうございます」
「薬を渡しただけだから」
「その薬がなかったら困ってました」
もう一人の冒険者も座り込んだまま頭を下げる。
「まさかホーンボアが二頭いるとは思わなくて……」
「二頭?」
シュウは倒れている魔物を見る。
一頭しかいない。
「もう一頭は?」
「逃げました」
空気が少し変わった。
ハンスとカイルが同時に周囲を見る。
「方向は?」
「林の奥です」
男が指す。
街道から離れる方向。
「追ってくる可能性は?」
「傷は負わせました。向こうも逃げるのに必死だったので、多分……」
多分。
その言葉だけでは安心できない。
ハンスがシュウを見る。
「少し警戒してから出ましょう」
「うん」
怪我人を冒険者たちの荷物の上へ座らせる。
彼らは徒歩らしい。
「次の町までどれくらい?」
「歩けば二刻くらいです」
負傷者を連れて二刻。
厳しい。
シュウは自分たちの馬車を見る。
四人が乗る大型馬車ではない。
シュウ一人が長旅をするためのもので、荷物も積んでいる。
それでも一人くらいなら。
「怪我した人、乗せられない?」
御者が荷物を確認する。
「少し詰めれば大丈夫です」
「じゃあ次の町まで」
「えっ」
冒険者の男が驚いた。
「そこまでしていただくわけには」
「でも歩かせるよりいいでしょ」
「ですが、貴族の方ですよね?」
紋章で分かったらしい。
「男爵家の次男」
「なおさら……」
「俺しか乗ってないから大丈夫」
男は迷っている。
怪我をした女性も申し訳なさそうだ。
「治療師のところまで行くんでしょ?」
「はい」
「じゃあ早い方がいい」
最終的に、女性だけ馬車へ乗せることになった。
残る二人は徒歩。
ただし馬車は速度を落とし、彼らに合わせて次の町まで進む。
「遅くなりますよ」
ハンスが確認した。
「今日の宿に着ける?」
「この程度なら」
「ならいい」
予定より少し遅れる。
それだけだ。
◇
馬車の中。
見知らぬ女性と二人。
シュウは早くも気まずくなっていた。
「……」
「……」
女性は左腕を包帯で固定している。
名前はミリア。
二十一歳。
冒険者になって三年目らしい。
「痛い?」
「だいぶ楽です」
「そっか」
「……」
「……」
会話が終わった。
『アルカディア』
《はい》
『助けて』
《何についてでしょうか》
『会話』
《私の声は彼女には聞こえません》
『分かってるよ!』
友達を作れるか不安。
今朝話していたことが、もう現実になっている。
同年代に近い女性と二人になっただけでこれだ。
シュウは何か話題を探した。
「冒険者って、どんな感じ?」
雑。
自分でも分かった。
ミリアは少し驚いたあと、笑った。
「どんな感じ、ですか?」
「ごめん。聞き方変だった」
「いえ」
彼女の緊張も少し解けたようだ。
「シュウ様は、冒険者に興味があるんですか?」
「卒業したらなりたいと思ってる」
「学院へ?」
「今日から王都に向かってる」
「ああ、それで」
話題ができた。
「王立魔法学院ですか?」
「うん」
「すごいですね」
「まだ入学するだけだよ」
「それでもですよ。私、魔法はほとんど使えませんから」
ミリアは右手を上げる。
指先に小さな風が集まった。
すぐ消える。
「生活魔法くらいです」
「でも冒険者やってる」
「剣と弓がありますから」
彼女は少し誇らしそうに笑った。
「魔法が強くなくても冒険者にはなれますよ」
「そういう人多い?」
「多いです。むしろ強い魔法を使える人の方が少ないですよ」
シュウは興味深く聞いた。
学院では魔法を使える人間が集まる。
だから、そこにいると魔法が世界の中心に見えるかもしれない。
けれど現実の冒険者は違う。
剣士。
弓使い。
斥候。
治療師。
荷物運び。
魔法が得意ではない人間も普通にいる。
「パーティーってどうやって作ったの?」
「今の二人とはギルドで知り合いました」
「最初から仲良かった?」
「全然」
ミリアが笑った。
「ダリオは最初、すごく嫌な人だと思ってました」
外を歩いている男の一人らしい。
「何したの?」
「初対面で私の剣を見て、『それじゃゴブリンにも負ける』って」
「嫌な人だ」
「でしょう?」
「うん」
「でも本当に負けそうになって助けられました」
「言ってること正しかったんだ」
「腹が立ちました」
ミリアは当時を思い出したのか、少し頬を膨らませた。
「それから剣を教えてもらって、いつの間にか一緒に依頼を受けるようになりました」
「もう一人は?」
「テオは、その半年後です。薬草採取の依頼で同じ場所にいて」
「へえ」
知らない人同士が出会う。
最初から仲間になると決まっていたわけではない。
少しずつ。
何度か依頼をして。
気づけば一緒にいる。
「俺も、そういう仲間できるかな」
口から自然に出た。
ミリアはシュウを見る。
「できますよ」
「なんで?」
「だって今日、知らない私たちを助けてくれましたから」
「薬渡しただけだよ」
「それができない人もいます」
ミリアは包帯の巻かれた腕を見る。
「それに、魔法で一瞬で治せるなら治す、みたいな顔をしてました」
シュウの動きが止まった。
「分かった?」
「少し」
「使えるんだけどね」
「え?」
「いや、今のなし」
危ない。
詳しく話す必要はない。
ミリアも深く追及しなかった。
「でも」
彼女は窓の外へ目を向ける。
「冒険者になるなら、何でも自分でやろうとしない方がいいですよ」
昨日から何度目か分からない言葉だった。
シュウは思わず笑った。
「何ですか?」
「家族にも同じようなこと言われた」
「じゃあ大事なんですよ」
「そうかも」
北部森林。
今日の怪我人。
使える力がある。
だから使う。
それだけではない。
薬で十分なら薬。
仲間ができることなら任せる。
必要になったとき、本当に必要な力を選ぶ。
「ありがとう」
「私が言うことじゃないですけど」
「いや、参考になった」
馬車の外では、ダリオとテオが護衛騎士たちと何か話している。
時々笑い声も聞こえる。
シュウは窓の外を見ながら、学院で出会う人間のことを考えた。
どんな奴がいるのだろう。
最初は嫌な奴だと思う相手もいるかもしれない。
逆に、すぐ仲良くなる人もいるかもしれない。
分からない。
だから少し楽しみだった。
◇
次の町へ到着したのは、予定より半刻ほど遅れたころだった。
林を抜けた先に石壁ではなく木柵に囲まれた小さな町があり、街道沿いには旅人向けの宿や商店が並んでいる。
ここはまだアルヴェイン領内。
ただし南端に近い。
ミリアたちが利用する治療院は町の入口近くにあった。
馬車を止める。
ダリオとテオがミリアを支える。
「本当にありがとうございました」
三人が揃って頭を下げた。
「気をつけて」
「シュウ様も」
ミリアは少し迷ってから言った。
「学院、楽しんでください」
「うん」
「それで、いつか冒険者になったら」
「なったら?」
「どこかのギルドで会うかもしれませんね」
その可能性は低い。
世界は広い。
冒険者ギルドもたくさんある。
それでもゼロではない。
「そのときは、今度は一緒に依頼やろう」
シュウが言うと、ミリアは目を丸くした。
それから笑った。
「はい」
三人と別れる。
名前を聞いた。
少し話した。
朝の荷馬車の親子より、ほんの少しだけ深い出会い。
旅に出なければ会わなかった人たちだ。
馬車が再び走り出す。
シュウは窓から彼らが見えなくなるまで眺めていた。
《マスター》
『何?』
《対人会話への懸念は、やや過剰だった可能性があります》
『最初めちゃくちゃ沈黙したけどな』
《最終的には会話が成立しました》
『学院でもこんな感じでいいのかな』
《相手によると推測します》
『まあ、そうだよな』
全員と仲良くなる必要はない。
自然に話せる相手を見つければいい。
少しだけ気持ちが軽くなった。
◇
町を出てから、街道は再び南へ伸びた。
太陽が少しずつ西へ傾く。
雲の切れ間から斜めに光が差し込み、草原を薄い金色に染めている。
シュウは本を閉じていた。
もう読書はしていない。
ただ窓の外を眺めている。
「そろそろ?」
前方へ声をかける。
御者が振り返った。
「あと半刻ほどで領境です!」
胸が少し高鳴った。
半刻。
窓から見える景色自体は、領内とほとんど変わらない。
畑。
林。
遠くの丘。
街道。
それでも、その先はアルヴェイン家が治める土地ではない。
やがて道の両側に石柱が見えてきた。
大きな門ではない。
街道脇に立つ二本の境界標。
片方にはアルヴェイン家の紋章。
もう片方には隣接領の紋章。
馬車が近づく。
シュウは自然と姿勢を正した。
石柱。
あと二十メートル。
十メートル。
車輪が進む。
そして。
何の音もなく、馬車は境界を越えた。
「……あれ?」
シュウは思わず言った。
《何か問題でしょうか》
『いや』
振り返る。
アルヴェイン領側の石柱が後方へ流れていく。
『もっと何か感じるかと思ってた』
《行政上の境界であり、結界等は確認されません》
『そういうことじゃないんだよ』
身体が変わるわけではない。
空気が変わるわけでもない。
魔力が変わるわけでもない。
ただ石柱を越えただけ。
それなのに。
「出たんだ」
十七年間。
生まれてからずっと暮らしたアルヴェイン領。
そこから初めて外へ出た。
胸の中に、寂しさと高揚が同時に広がる。
戻れないわけではない。
数か月後には帰ってくる。
それでも、この瞬間は一度しかない。
「アルカディア」
《はい》
「俺、今初めて領地の外に出た」
《確認しました》
「もうちょっと何か言って」
少し間。
《おめでとうございます、マスター》
「……うん」
思っていたより嬉しかった。
「ありがとう」
馬車はそのまま進む。
アルヴェイン領の境界標は少しずつ小さくなり、やがて道の曲がり角の向こうへ消えた。
◇
夕暮れが近づいたころ。
最初の宿泊地となる町、ベルクへ到着した。
アルヴェイン領都よりずっと小さいが、街道沿いの町だけあって旅人の姿が多い。宿屋の前には何台もの馬車が止まり、冒険者や商人らしい人々が行き交っていた。
「ここが今日の宿?」
「はい」
ハンスが馬から降りる。
「《銀の鹿亭》です。旦那様が予約されています」
「予約まで?」
「当然です」
「父さん、本当に全部やってるな」
宿は三階建て。
木造だがしっかりした造りで、一階部分は食堂になっている。
扉を開けた瞬間、料理の匂いと人々の話し声が押し寄せてきた。
「うわ」
領都の宿屋にも入ったことはある。
しかし、ここは雰囲気が違う。
様々な土地から来た旅人がいる。
商人。
冒険者。
家族連れ。
旅装の神官らしい人間。
隅の席には大きな斧を背負った獣人までいた。
シュウの視線が止まる。
「獣人……」
犬か狼に似た耳。
この世界に獣人がいることは当然知っている。
アルヴェイン領にも少数ながら暮らしている。
それでも領都では滅多に見ない。
「見るな、シュウ様」
ハンスに小声で注意された。
「あ、ごめん」
慌てて視線を逸らす。
「珍しいのは分かりますが、じろじろ見るのは失礼です」
「気をつける」
これも旅で学ぶことか。
受付で名前を告げる。
すぐに予約が確認された。
「アルヴェイン男爵家のシュウ様ですね。お待ちしておりました」
宿の主人らしい男が丁寧に頭を下げる。
「二階の個室をご用意しております。護衛の方々は隣室です」
「ありがとう」
荷物を運んでもらう。
部屋は屋敷の自室より狭い。
寝台。
机。
椅子。
小さな洗面台。
窓。
それだけ。
でも清潔だ。
「……宿だ」
《宿ですね》
「初めてなんだよ」
《領都内での宿泊経験はありません》
「ない」
自分の家が領都にあるのだから当然だ。
シュウは鞄を置き、寝台へ腰を下ろした。
少し硬い。
屋敷の寝台とは違う。
「本当に旅してるなあ」
何度目か分からない感想。
それでも毎回、少しずつ意味が違う。
朝は家を出た。
昼は知らない人と会った。
午後には領境を越えた。
今夜は知らない町で眠る。
これが旅なのだ。
◇
夕食は一階の食堂で取った。
ハンスとカイルも同じ卓。
御者の男性も一緒だ。
屋敷では立場の違いもあって、護衛騎士や御者と同じ食卓を囲む機会はあまりない。
旅先では違う。
「乾杯しますか?」
カイルが尋ねる。
「俺飲めないよ」
「水でいいじゃないですか」
「何に乾杯するの?」
「シュウ様の初領外」
「そんなことで?」
「初めては一回しかありませんから」
シュウは少し考えた。
「じゃあ」
木杯を持つ。
水。
ハンスも水。
カイルも水。
御者だけ薄いエール。
「王都まで無事に着くことに」
「それが一番ですね」
四人で杯を軽く合わせる。
「乾杯」
小さな音。
それだけなのに楽しかった。
料理は煮込んだ肉と根菜。
焼きたてのパン。
昼とはまた違う味。
周囲では旅人たちがそれぞれ話している。
商売の話。
道の話。
魔物の話。
王都の話。
知らない情報が、ただ座っているだけで耳へ入ってくる。
「宿って面白いね」
「まだ初日ですよ」
ハンスが笑う。
「旅に慣れると、うるさい宿より静かな宿を探すようになります」
「今はこっちがいい」
「なら楽しんでおいてください」
シュウはパンをちぎる。
そのとき。
少し離れた卓から、大きな声が聞こえた。
「だから本当だって! 王立魔法学院の新入生には、とんでもねえのがいるらしいぞ!」
シュウの手が止まった。
学院。
反射的に耳が向く。
話しているのは三人組の若い冒険者だった。
「どんな?」
「今年入る公爵家の娘が、入学前から上級魔法を使えるって話だ」
「また貴族の噂かよ」
「それだけじゃねえ。平民にも一人、すげえ奴がいるらしい。地方の魔法試験で測定器の上限まで出したとか」
シュウは瞬きをした。
「……測定器の上限」
《マスター》
『言うな』
《まだ何も》
『俺も壊すかもとか言うな』
《申し上げる予定でした》
『やっぱり!』
少し不安が戻った。
だが同時に。
楽しみも増えた。
公爵家の娘。
魔力の強い平民。
どんな人間だろう。
同じ新入生。
もしかしたら同じ教室になるかもしれない。
「シュウ様」
カイルが気づいた。
「気になります?」
「うん」
「学院の噂は話半分に聞いた方がいいですよ」
ハンスが言う。
「王都へ近づくほど話が大きくなります」
「そうなの?」
「去年も『入学前に竜を倒した少年がいる』という噂がありました」
「本当は?」
「大きな蜥蜴を追い払っただけだったそうです」
「全然違う」
「噂とはそういうものです」
シュウは笑った。
なら今の話も本当かどうか分からない。
それでもいい。
学院には色々な人間が集まる。
それだけは確かだ。
食事を終える。
部屋へ戻る前、シュウは宿の入口で一度外へ出た。
知らない町の夜。
アルヴェイン領都とは違う建物。
違う道。
違う人。
空だけは同じように星が見える。
「今日一日で結構あったな」
《街道で荷馬車修理。負傷冒険者への援助。アルヴェイン領外への初移動。ベルク到着》
『並べると普通だな』
《はい》
「それがいい」
黒い森。
地下の異常。
命を救う魔法。
あれはあれで、自分が向き合わなければならなかった。
でも毎日がそうである必要はない。
旅に出たからといって、毎日世界を揺るがす事件に遭遇する必要もない。
知らない人と話す。
知らない料理を食べる。
知らない町で眠る。
そういう一日が面白い。
『十四歳の俺には分からなかっただろうな』
《当時のマスターは「平穏とは弱者が縋る幻想」と記述されています》
「うわあ……」
思わず声が出た。
近くを歩いていた旅人が振り返る。
「何でもないです」
頭を下げる。
『それ絶対誰にも言うなよ』
《既にマスターが口頭で「うわあ」と発言されました》
『そうじゃない』
シュウは宿へ戻った。
◇
部屋へ戻り、窓を少し開ける。
夜風。
下の食堂から漏れる話し声。
遠くを走る馬車の音。
屋敷の自室とは全く違う。
寝台へ横になる。
天井も知らない木目。
「……寝られるかな」
《睡眠環境の変化による入眠遅延は一般的です》
「アルカディア、寝るまで話してて」
言ってから、少し子供っぽかったかと思う。
けれどアルカディアは何も指摘しなかった。
《承知しました》
「明日、どこまで行く?」
《予定表では、午前にベルクを出発。昼前にローデン街道関所を通過。午後は南東へ進み、ミレア宿場町で宿泊予定です》
「王都は?」
《順調なら三日後の午後》
「まだ三日か」
《はい》
「長いな」
《馬車移動としては標準的です》
「前世なら電車とか車とかあったからな」
《航空機という選択肢も存在しました》
「飛行機なら何時間だろ」
《比較対象となる距離情報が不足しています》
「そりゃそうか」
目を閉じる。
下の食堂の声が遠く感じられる。
「学院着いたら、最初に何しようかな」
《入学手続きでは?》
「夢がない」
《必要な手順です》
「寮の部屋見るだろ。荷物置いて、学院歩いて……食堂も行きたい」
《図書館も調査対象です》
「森のこと?」
《白樹材、古いアルヴェイン家、封所、森底の鐘。関連情報が存在する可能性があります》
「うん。でも」
シュウは目を閉じたまま言った。
「最初からそればっかりにはしない」
《承知しました》
「学院楽しむ」
《はい》
「友達作る」
《はい》
「魔法勉強する」
《はい》
「できれば可愛い女の子とも――」
言いかけて止まる。
嫌な予感。
《十四歳当時のマスターは学院生活について――》
「寝る!」
《まだ何も提示していません》
「絶対ろくでもない!」
《「学園に集いし十二の美姫が、漆黒の王たる俺を――」》
「やめろおおお……!」
声を抑えながら布団へ顔を埋める。
十二人。
多い。
どうして十四歳の自分はそんな設定を作ったのか。
《続きがあります》
「いらない!」
《かなり詳細です》
「消して!」
《原典情報の削除機能は存在しません》
「最悪だ!」
枕へ顔を押しつけたまま、シュウはしばらく動けなかった。
それでも。
少しすると笑えてきた。
家を出て初めての夜。
知らない町。
知らない宿。
知らない寝台。
なのに頭の中には、いつもの腹立たしい声がある。
一人ではない。
「……おやすみ、アルカディア」
《おやすみなさい、マスター》
今度は黒歴史を追加されなかった。
窓の外では、街道の町の夜が静かに続いている。
北の森から鐘の音が届くこともない。
旅立ち初日の夜は、驚くほど普通に過ぎていった。
そしてシュウは、その普通さを心地よく感じながら、アルヴェイン領の外で初めての眠りへ落ちていった。




