第15話 旅の二日目、知らない土地が少しずつ増えていく
アルヴェイン領の外で迎えた初めての朝は、聞き慣れない音から始まった。
目を閉じたままでも、ここが自室ではないことはすぐに分かった。屋敷なら朝になると庭の鳥や使用人たちの足音が聞こえてくるのに、今朝は階下から食器を重ねる音が響き、窓の向こうでは荷馬車の車輪が石を踏む音と、馬を呼ぶ男の太い声が混ざっている。
シュウは薄く目を開け、しばらく知らない天井を眺めた。
「……どこだっけ」
《ベルクの《銀の鹿亭》二階客室です。現在時刻は日の出から約半刻後と推定されます》
「ああ……そうだった」
アルカディアの声で、昨日の出来事が順番に戻ってくる。
屋敷を出た。
領都を離れた。
道端で荷馬車の車輪を直した。
怪我をした冒険者ミリアたちと出会った。
そして十七年間暮らしたアルヴェイン領から初めて外へ出た。
今日からは、その続きを進む。
「おはよう、アルカディア」
《おはようございます、マスター》
シュウは寝台から起き上がり、両腕を上へ伸ばした。
「……ちょっと腰痛い」
《昨夜の寝台はアルヴェイン邸のものより硬度が高かったと推定されます》
「旅ってこういうところでも家との差が出るんだな」
昨日は初めての宿というだけで面白かったが、一晩眠れば違いも分かる。寝具の硬さもそうだし、廊下を歩く知らない人間の足音が夜中にも何度か聞こえた。
それでも、思っていたよりよく眠れた。
シュウは窓を開けた。
朝のベルクには薄い霧が残っていた。街道沿いの屋根が淡く霞み、その向こうでは商人たちが既に荷物を積み始めている。
一階の裏手では、宿の従業員が馬へ水を与えていた。
「みんな早いな」
《街道沿いの宿場では、日の出前後から移動を開始する旅人も多いと推測されます》
「俺たちは?」
《予定上の出発は朝食後です》
「なら急がなくていいか」
そう言いながら、シュウは服を着替え始めた。
旅の二日目。
昨日は何をするにも「初めて」がついていた。
今日は少しだけ違う。
馬車へ乗ることも、宿で食事をすることも、知らない町から出発することも、もう二回目になる。
こうして少しずつ旅へ慣れていくのだろう。
そのとき、扉が叩かれた。
「シュウ様、起きておられますか?」
ハンスの声だ。
「起きてるよ」
「朝食は半刻後です。天候も問題ありませんので、予定どおり出発できそうです」
「分かった」
「それと――」
扉の向こうで少し間が空く。
「薬はお持ちですか?」
「なんでハンスまで確認するの!?」
思わず声が大きくなった。
廊下から笑い声が聞こえる。
「旦那様より、毎朝確認するよう申しつかっております」
「父さん!」
もうここにはいない父へ文句を言う。
「持ってる! 昨日から鞄開けてないから!」
「承知しました。では後ほど」
笑いを含んだ声とともに、ハンスの足音が遠ざかっていく。
シュウは額を押さえた。
「王都着くまで毎朝やる気かな」
《ローデリック様からの指示であれば、その可能性は高いでしょう》
「学院着いたら終わるよな?」
《エレノア様が学院側へ何らかの依頼を行っていない限りは》
シュウの動きが止まった。
「……まさか」
《可能性について述べただけです》
「怖いこと言うなよ」
学院の寮監から毎朝「薬を持っていますか」と聞かれる生活は嫌だ。
さすがに母もそこまではしない。
しないと信じたい。
◇
一階の食堂へ下りると、昨夜とはまったく違う空気になっていた。
夜は酒と料理を囲んで賑やかだった旅人たちが、今は出発前の朝食を静かに取っている。眠そうにパンをかじる冒険者もいれば、地図を広げながら予定を確認している商人もおり、宿の従業員たちはその間を忙しそうに行き来していた。
「おはようございます、シュウ様」
先に席へ着いていたカイルが頭を下げる。
「おはよう。ハンスは?」
「馬車を見ています。御者殿も一緒です」
「じゃあ先に食べていいの?」
「すぐ来るそうです」
シュウが席へ着いて間もなく、二人も食堂へ入ってきた。
四人で朝食を取る。
焼いたパン。
卵。
塩漬け肉。
野菜のスープ。
屋敷より簡素だが、朝から馬車に揺られることを考えると十分だった。
「今日の予定、もう一回聞いていい?」
シュウがパンをちぎりながら尋ねると、ハンスは頷いた。
「まずローデン街道関所を目指します。順調なら昼前に到着しますので、そこで通行確認と休憩。その後、南東へ進んでミレア宿場町まで向かいます」
「昨日より移動長い?」
「少し長いですね。ただ、街道状態は昨日より良いはずです」
「関所って何するの?」
「この先から王家直轄街道へ接続しますので、人と荷物の簡単な確認があります。貴族家の馬車であれば家紋と通行証を確認して終わるでしょう」
「俺も何かする?」
「身分証を求められたら学院の入学許可証か、男爵家の証明書を見せてください」
「なるほど」
鞄のどこに入れたか確認する。
書類入れ。
ちゃんとある。
《昨夜から移動していません》
『分かってるけど確認したくなるんだよ』
《エレノア様に似てきましたね》
『やめて。否定できないから』
母から何度も確認されているうちに、自分まで確認癖がついたらしい。
「王都まで、こういう関所いくつある?」
「大きなものは今日の一か所だけです。王都へ近づけば別の検問がありますが、あちらは入都確認ですね」
「入都確認」
その言葉だけで、王都が少し近づいた気がした。
「まだ三日あるけど」
「旅は一歩ずつですよ」
御者が笑った。
「一日で王都へ着こうとすれば、馬が先に参ってしまいます」
「そうだよね」
シュウはスープを飲む。
急ぐ理由はない。
学院の入学日にも余裕を持って出発している。
北部森林のことがなければ本来は昨日出る予定だったが、一日遅れても十分に間に合う日程だ。
「父さん、結構余裕持たせてたんだな」
「旦那様は、シュウ様が途中で何か見つけて寄り道する可能性まで考えていたのでは?」
カイルが言った。
「俺、そんなに寄り道すると思われてる?」
三人が黙った。
「なんで誰も否定しないの?」
「昨日だけで二回止まりましたからね」
ハンスが淡々と答える。
「荷馬車と冒険者は仕方ないでしょ」
「ええ。だから旦那様も余裕を持たせたのでしょう」
「……父さん、俺の扱い上手いな」
十七年の積み重ねを感じる。
◇
ベルクを出たのは、朝の霧がほとんど消えたころだった。
昨日より少し早い時間から馬車へ乗ったため、街道には朝特有の冷たい空気が残っている。窓を少し開けると草と土の匂いが入り込み、遠くの畑では農夫たちが仕事を始めていた。
昨日と同じ馬車。
同じ座席。
同じ護衛。
それなのに、シュウの感じ方は少し変わっていた。
もう後ろにアルヴェイン領はない。
正確には戻ればすぐそこにあるのだが、進行方向にある土地はすべて自分の知らない場所だ。
「昨日は家から離れてる感じだったけど、今日は最初から知らないところなんだな」
《現在地はベルク南方街道。アルヴェイン領外です》
『そういう地図的な話じゃなくて』
《理解しています》
「最近それ多いな」
シュウは笑いながら窓枠へ肘を置いた。
街道沿いの建物も少し違う。
アルヴェイン領では石と木を組み合わせた家が多かったが、この辺りでは白っぽい土壁を使った家が増えている。畑の作物も違い、背の低い葉物が広い範囲に植えられていた。
「何育ててるんだろ」
《特定できません》
「お前でも分からないこと結構あるんだな」
《私はマスターの黒歴史ノートを基盤として成立しています。世界の全情報を保有しているわけではありません》
「そうだった」
何でも答えてくれるせいで忘れそうになる。
アルカディアが知っているのは、基本的にシュウ自身の知識と、黒歴史ノートに書かれていた情報。それに現在までに観測・分析した内容だ。
この世界の地理や歴史を最初から全部知っているわけではない。
「学院の図書館、アルカディアにも役立ちそうだな」
《新規情報をマスターが認識すれば、私も参照可能になる可能性があります》
「本読めば、お前も覚える?」
《内容によりますが、可能です》
「便利だな」
自分が一度読んだ本をアルカディアが正確に覚えてくれるなら、かなり強い。
勉強にも使える。
試験にも――。
「……待って」
《はい》
「試験中に答え教えてもらえる?」
《マスターが事前に学習した内容であれば、情報提示は可能です》
「最強じゃん」
思わず身体を起こした。
「これ試験無双できるんじゃない?」
《ただし》
「何?」
《マスター自身が理解していない情報を提示しても、応用問題への対応能力までは保証できません》
「ですよね」
《さらに、私を利用して回答する行為が学院規則上の不正行為に該当する可能性があります》
「……それもそうか」
頭の中に答えを教える存在がいる。
学院側から見れば、どう扱われるのだろう。
「試験中は黙っててもらうか」
《承知しました》
「俺が本当に分からなくて泣きそうでも?」
《試験中であれば沈黙します》
「急に厳しい」
《マスターからの指示です》
「まだ指示確定してない!」
思わず声が出る。
馬車の前から御者が振り返った。
「何かございましたか?」
「アルカディアと話してただけ!」
「承知しました」
もう説明する必要すらなくなっている。
それはそれで少し複雑だった。
◇
午前の街道は穏やかだった。
昨日のように荷馬車が故障することもなく、負傷した冒険者に出会うこともない。途中で数台の商隊とすれ違ったものの、互いに道を譲り合い、そのまま通り過ぎただけだった。
シュウは王都案内を読み、飽きれば窓の外を眺め、少し眠くなれば目を閉じた。
何も起こらない。
その時間が心地よかった。
やがて、前方に大きな石造りの建物が見えてきた。
「関所?」
シュウが窓から身を乗り出す。
「はい!」
御者の返事が聞こえる。
街道を挟むように二棟の建物があり、その間には頑丈な木製の門が設けられている。ただし完全に閉鎖されているわけではなく、中央部分は開かれ、馬車や旅人が順番に通過していた。
その手前には既に列ができている。
「結構いるね」
商人の荷馬車。
旅人。
冒険者。
家畜を連れた農民。
自分たちの前だけでも十組近い。
「今日は混んでいますね」
ハンスが馬を寄せた。
「時間かかる?」
「商隊の荷物確認に手間取らなければ、それほどでもないでしょう」
馬車が列の最後尾へつく。
止まる。
シュウは窓から周囲を眺めた。
関所の左右には小さな露店まで出ている。
待ち時間を狙って商売しているらしい。
飲み物。
焼いた肉。
果物。
「商売上手いな」
《一定時間人が滞留する地点での販売は合理的です》
「なんか食べようかな」
《朝食から二刻程度です》
「まだ早い?」
《空腹であれば問題ありません》
「そこは止めないんだ」
財布を出そうとしたところで、馬車の横から声がした。
「兄ちゃん、果実水どうだい!」
少年が籠を抱えている。
十二、三歳くらい。
瓶に入った薄い黄色の飲み物。
「いくら?」
「一杯銅貨二枚!」
安い。
「じゃあ一つ」
「毎度!」
木杯へ注いでもらう。
一口。
柑橘系の酸味と蜂蜜の甘さ。
「うまい」
「だろ!」
少年が得意そうに笑う。
「母ちゃんが作ってんだ!」
「へえ」
「王都まで行くならもう一杯買っとく?」
「商売上手いなあ」
「褒めても安くならないよ!」
「そこは安くしてよ」
結局もう一杯分を小瓶で買った。
少年が次の客へ走っていく。
シュウはその背中を見送った。
「こういうのも領都じゃなかったな」
旅人相手の商売。
関所だから生まれる仕事。
土地が変われば、人の暮らし方も変わる。
まだ領境から一日も離れていないのに、少しずつ違いが見えてくる。
前の列が進んだ。
馬車も動く。
また止まる。
その繰り返し。
やがて、隣の列にいた数人組の若者がシュウの視界へ入った。
最初は冒険者かと思った。
しかし装備が少し違う。
剣を持っている者もいるが、旅装の上から上質な外套を羽織っている。年齢もシュウとそれほど変わらない。
少年二人。
少女一人。
その後ろに護衛らしい大人が二人。
「……学院?」
小さく呟いた。
《根拠は?》
『年齢と王都方面。それに護衛付き』
《候補としては考えられます》
少女が何か言い、少年の一人が笑う。
もう一人は本を読んでいる。
距離があるので会話までは聞こえない。
同じ学院の新入生かもしれない。
違うかもしれない。
シュウは少しだけ気になったが、じろじろ見るのも失礼なので視線を戻した。
「もう学院へ向かう人がいてもおかしくないよな」
《入学時期が同じであれば、各地から王都へ移動する時期も近くなるでしょう》
「そっか」
昨日までは学院という場所だけを想像していた。
でも当然、そこへ集まる人間も今この瞬間、それぞれの故郷を出て王都へ向かっている。
自分と同じように。
家族へ見送られた人もいるのだろう。
初めて故郷を離れた人も。
逆に、何度も王都へ行ったことがある人も。
数日後には、その全員が同じ学院へ集まる。
「面白いな」
《何がでしょうか》
「まだ会ってない奴らが、今あちこちから同じ場所に向かってるんだなって」
《はい》
「その中に、友達になる奴もいるかもしれない」
《可能性はあります》
「仲間になる奴も」
《将来的には》
シュウは少し笑った。
「楽しみになってきた」
◇
列が進み、ようやくアルヴェイン家の馬車が関所前へ到着した。
槍を持った衛兵が家紋を確認し、ハンスから通行証を受け取る。荷物をすべて下ろすような厳しい検査はなく、シュウも学院の入学許可証と身分証明を提示するだけで済んだ。
「王立魔法学院へ?」
書類を確認した年配の衛兵が尋ねる。
「はい」
「今年の新入生か」
「そうです」
衛兵は許可証を返しながら笑った。
「今週は多いな。さっきも三組通ったぞ」
「学院の?」
「ああ。北西方面から来た連中だ」
やはり。
シュウが見かけた三人組も、その一部かもしれない。
「王都へ近づくほど増える?」
「そりゃ増えるさ。東からも南からも西からも集まってくる。ミレア辺りじゃ、宿の半分が学院関係者なんて日もある」
「そんなに」
「部屋取ってるか?」
シュウはハンスを見る。
「予約済みです」
「なら安心だ」
衛兵は頷いた。
「予約なしだと馬小屋の横で寝る羽目になる奴もいるからな」
「学院入る前に?」
「毎年何人かいる」
それは嫌だ。
父の準備がまた一つ効いた。
「父さんに感謝しよ……」
「何だ?」
「こっちの話です」
衛兵は笑い、門の向こうを示した。
「通っていいぞ。王都まで気をつけてな」
「ありがとうございます」
馬車が動き出す。
門を通る。
石造りの関所が後ろへ流れていく。
そこから先は、王都へ繋がる王家直轄の主要街道だった。
道幅が少し広くなる。
路面も明らかに整備されている。
「おお」
揺れが減った。
「すごい。全然違う」
「王都へ物資を運ぶ主要路ですからね」
ハンスが答える。
「維持管理にかけられている予算も、地方街道とは違います」
「父さんが聞いたら羨ましがりそう」
「間違いなく」
領地を治めるには道路の維持も必要だ。
これまでシュウは、道をただ移動する場所としてしか見ていなかった。
けれど父や兄が領地の話をしているところを思い出すと、道一つにも金と人手がかかっている。
旅へ出ると、今まで気にしていなかったものまで見える。
◇
関所を越えて一刻ほど進んだところで、昼の休憩となった。
街道脇には王家が整備した休憩所があり、井戸と馬を繋ぐ場所、それに簡単な屋根付きの長椅子が設けられている。
既に何組かの旅人が休んでいた。
シュウたちも馬車を止める。
昨日料理長から渡された焼き菓子と、宿で用意してもらったパンや燻製肉を取り出した。
「母さんが入れた量、多くない?」
包みを開けながらシュウが言う。
「料理長からは三日分と聞いています」
「王都まで足りそうじゃん」
「保存食は別に積んであります」
「食べ物だらけだな」
「旅では重要です」
ハンスは当然のように言う。
四人で屋根の下へ座る。
旅人が行き交う。
隣では商人らしい一団が荷物の話をしており、少し離れた場所では冒険者たちが地図を広げていた。
シュウはパンへ燻製肉を挟んで食べる。
そこへ朝買った果実水。
「合う」
《糖分および塩分の補給としても一定の合理性があります》
『食事くらい普通に感想言えない?』
《美味しいですか?》
『お前飲んでないだろ』
《マスターの感覚情報から推定可能です》
「なんでもありだな……」
小さく笑う。
すると、少し離れた場所から大きな声がした。
「だから俺は王都へ着いたら絶対に上級組へ入るって!」
シュウは思わずそちらを見る。
先ほど関所で見かけた若者たちだった。
やはり同じ方向へ進んでいたらしい。
三人のうち、声を上げたのは赤茶色の髪をした少年。
年齢はシュウと同じくらい。
隣にいる少女が呆れた顔をしている。
「入学前から組分けを決められるわけないでしょう」
「魔力測定なら余裕だって。うちの町じゃ俺が一番だったんだから」
「あなたの町と王立魔法学院を一緒にしない方がいいと思うけど」
「じゃあ賭けるか?」
「嫌よ」
「なんでだよ」
「あなたが負けたとき払わなそうだから」
周囲にいた旅人たちが少し笑う。
赤茶髪の少年は不満そうだ。
シュウもつい口元が緩んだ。
「元気だな」
「学院の新入生でしょうね」
カイルが言う。
「やっぱり?」
「護衛の紋章を見る限り、北西部の騎士爵家か小領主家でしょう」
「紋章で分かるんだ」
「騎士ですから」
カイルが少し誇らしそうに胸を張った。
その直後、ハンスが横から補足する。
「私には分かりません」
「えっ」
「地方家の紋章すべてを覚えているわけではありませんので」
シュウがカイルを見る。
「……たまたま知ってました」
「格好つけた?」
「少しだけ」
「正直だな」
三人で笑う。
そのとき。
先ほどの少女とシュウの目が合った。
一瞬。
向こうもこちらを見ていたらしい。
シュウは反射的に軽く頭を下げる。
少女も小さく会釈した。
それだけ。
会話はない。
名前も知らない。
やがて彼女は仲間との会話へ戻った。
「今の子も学院かな」
《可能性は高いでしょう》
『話しかけなくていいよな』
《現時点で必要性はありません》
『だよな』
同じ目的地だからといって、出会った瞬間に友達になるわけではない。
もし本当に同じ学院なら、数日後にまた会う可能性もある。
そう思えば、今はこれくらいでいい。
シュウは残りのパンを食べた。
◇
午後。
街道の景色は大きく変わり始めた。
午前まで続いていた低い丘が減り、視界の先に広い平原が現れる。遠くには青みがかった山脈が見え、その手前を一本の大きな川が南東へ流れていた。
「すご……」
シュウは窓を大きく開けた。
アルヴェイン領にも川はある。
だが、ここまで幅の広い川はない。
陽光を反射した水面が遠くからでも輝いている。
「あれ何て川?」
「ラウゼン川です」
御者が答える。
「王都北部を流れる大河の支流ですね。今日はあの川沿いをしばらく進みます」
「王都まで繋がってる?」
「水路を辿れば」
川には船も見えた。
荷物を積んだ平底船。
岸沿いには小さな船着き場もある。
「船旅もしてみたいな」
《将来的な移動候補として記録します》
「勝手に予定へ入れないでね」
《まだ記録のみです》
世界には馬車だけではない。
船。
もしかすると空を飛ぶ魔導具もあるのかもしれない。
知らない移動手段。
知らない町。
知らない国。
考えるだけで楽しい。
シュウはしばらく川を眺めていた。
そのとき、胸の奥で微かな違和感が生まれた。
「……ん?」
《どうしましたか》
「今、何か」
魔力感知へ意識を向ける。
昨日の北部森林で感じた黒紫色ではない。
危険な感じもしない。
ただ、一瞬だけ強い魔力が遠くで動いたような感覚。
「向こう」
川の方。
さらに先。
《魔力反応を確認》
『分かる?』
《距離約六百から八百メートル。属性は風系統と推定。異常性なし》
「普通の魔法?」
《はい》
シュウは目を凝らした。
川沿い。
小さな人影が見える。
何かが空へ上がった。
風。
帆。
船の帆が大きく膨らむ。
「あれ魔法で船動かしてる?」
《その可能性が高いでしょう》
「へえ……!」
異常ではない。
戦闘でもない。
生活のための魔法。
風を操り、船を進める。
アルヴェイン領では見たことがなかった。
「魔法ってこういう使い方もあるんだな」
自分が最近使った魔法を思い出す。
炎の槍。
水の盾。
風の銃。
雷の斧。
光の大剣。
闇の双剣。
生命回帰。
「俺の、戦うか治すかばっかりだな」
《黒歴史ノート由来の能力は、マスターが十四歳当時に「格好いい」と判断した要素へ偏っています》
「船を便利に動かす能力とか、中学生は考えないもんな」
《「世界を統べる者が船を操縦する必要はない」との記述があります》
「何様だよ」
《漆黒の覇王です》
「答えなくていい」
思わず笑う。
学院では、こういう魔法も学べるのだろうか。
戦闘だけではない魔法。
生活。
産業。
交通。
治療。
研究。
自分が知っている魔法は、この世界にあるもののほんの一部なのかもしれない。
「学院行くの、ますます楽しみになってきた」
《良い傾向です》
「最初はアルカディアの力があれば、授業とか余裕かもってちょっと思ってたんだけど」
《はい》
「全然知らないことありそう」
《マスターの黒歴史設定と、この世界で体系化された魔法学は別物です》
「だよな」
強い。
それと知っていることは違う。
父が言っていた。
学院は自分の人生だと。
今なら、その意味が少し分かる。
力の使い方だけではない。
自分が知らないものを知る場所。
それだけでも行く価値がある。
◇
川沿いの道を一刻ほど進むと、馬車は小さな石橋へ差しかかった。
ラウゼン川本流ではなく、そこから分かれた支流を越える橋だ。
橋の入口には数台の馬車が止まっていた。
「また渋滞?」
シュウが尋ねる。
前方を確認したカイルが戻ってくる。
「橋の向こうから大型商隊が来ています。橋上ですれ違えないため、こちら側が待っているようです」
「なるほど」
急ぐ必要はない。
馬車を止める。
窓から見れば、対岸から十台近い荷馬車が列になって橋を渡ってきている。
「でかいな」
先頭には護衛冒険者。
荷台には木箱や樽が積まれている。
商隊が近づくにつれ、周囲の旅人たちも道端へ寄った。
シュウは馬車の中から眺める。
一台。
二台。
三台。
荷物の種類が違う。
布。
酒樽。
金属製品。
香辛料らしい袋。
「どこから来たんだろ」
「王都方面でしょうね」
ハンスが答える。
「荷物を見る限り、さらに南から集めた商品も混ざっているでしょう」
「南って、海の方?」
「一部は」
「海……」
シュウはまだ、この世界で海を見たことがない。
前世では見たことがある。
だが、この世界の海は知らない。
「行きたい場所増えるな」
「学院へ着く前から卒業後の予定ですか?」
ハンスが笑う。
「いいじゃん。目標」
「ええ。悪くありません」
商隊の最後尾が橋を渡り終える。
道が空いた。
こちら側の馬車が順番に動き始める。
橋へ入る。
川面が近い。
水の音。
風。
馬の蹄が石橋を叩く。
シュウは窓から下を覗いた。
「高っ」
「落ちないでくださいよ!」
御者の声が飛ぶ。
「落ちない!」
身体を引っ込める。
《仮に落下した場合、現在の恒常身体能力であれば致命傷となる可能性は低いですが――》
『そういう問題じゃない』
旅の途中で橋から落ちたという手紙を家へ送ることになったら、母が王都まで追ってきそうだ。
それは避けたい。
◇
午後も半ばを過ぎると、シュウは少し眠くなった。
馬車の揺れにも昨日より慣れてきたらしい。
窓から入る風。
規則的な車輪の音。
遠くで流れる川。
何も起こらない街道。
「ちょっと寝ようかな」
《目的地到着まで二刻前後と推定されます》
「着く前に起こして」
《承知しました》
シュウは座席へ身体を預けた。
目を閉じる。
昨日までなら、知らない場所で無防備に眠ることには少し抵抗があったかもしれない。
でも今は前後にハンスとカイルがいる。
御者もいる。
何かあればアルカディアも起こすだろう。
任せる。
それも旅なのかもしれない。
「おやすみ」
《おやすみなさい、マスター》
馬車の音を聞きながら、意識が遠のいていった。
◇
《マスター》
「……ん」
《マスター、起床を推奨します》
「あと五分」
《五分という時間単位をこちらの時法へ換算する必要がありますか》
「そういう意味じゃ……」
半分眠ったまま返事をする。
《ミレア宿場町が視認可能距離に入りました》
目が開いた。
「着いた?」
《間もなく》
シュウは身体を起こした。
思った以上に眠っていたらしい。
窓の外は夕方の色になっている。
西へ傾いた太陽が平原を橙色に染め、その先に町が見えた。
「おお……」
ベルクより大きい。
街道が複数方向から集まる場所らしく、町の外にも馬車が何台も並んでいる。低い石壁に囲まれた内側には二階、三階建ての建物が密集し、中央付近には時計塔のような高い建造物も見えた。
「ミレアです!」
御者が前から声をかける。
「今日の宿泊地になります!」
「結構でかいね!」
「王都北部では最大級の宿場町ですよ!」
馬車が町へ近づく。
門の前には旅人の列。
ただし関所ほど厳しい確認はない。
宿泊目的と簡単な身元を伝え、町へ入る。
瞬間。
シュウは思わず窓の外へ身を寄せた。
「人多っ」
ベルクとは全然違う。
大通りの両側に宿屋、食堂、商店、鍛冶屋、雑貨屋が並び、その間を旅人が行き交っている。
冒険者。
商人。
学生らしい若者。
貴族の馬車。
荷車。
旅芸人らしき一団までいる。
あちこちから声が飛ぶ。
「王都行き乗合馬車、明朝出発だよ!」
「空室あと二部屋!」
「馬の蹄鉄交換するなら今のうちだ!」
「南部産の果実酒! 王都より安いよ!」
匂いも多い。
焼いた肉。
香辛料。
馬。
パン。
酒。
人。
「すごいな……」
《人口密度はベルクより明確に高いと推定されます》
「見れば分かる」
シュウは笑った。
旅に出た。
その実感が、また一段強くなる。
馬車は大通りを進む。
その途中、学院の紋章が描かれた小さな案内板が目に入った。
――王立魔法学院新入生受付補助所 中央広場東側。
「こんなのあるの?」
ハンスが看板を見る。
「この時期だけでしょう。各地から新入生が集まりますから、王都までの道案内や宿泊相談を行っているのでは?」
「へえ」
学院はまだ遠いと思っていた。
けれど、もう学院の影響がここまで届いている。
「寄る必要ある?」
「我々は宿も道程も決まっていますから、特には」
「じゃあいいか」
馬車がさらに進む。
すると今度は、通りの反対側に若者たちの集団が見えた。
十人近い。
年齢は十五から十八くらい。
荷物。
杖。
剣。
その多くが家族や護衛らしい人間と一緒にいる。
「全員、新入生かな」
《可能性は高いでしょう》
「急に増えたな」
関所の衛兵が言っていた。
ミレアでは宿の半分が学院関係者になることもある。
本当らしい。
その中に、昼休憩で見た赤茶髪の少年たちもいた。
「あ」
向こうもこちらに気づいた。
少女がシュウを見て、少し目を見開く。
昼に会釈した相手だ。
少女は今度も軽く頭を下げた。
シュウも返す。
赤茶髪の少年がそれに気づき、少女へ何か聞いている。
少女が答える。
こちらまでは聞こえない。
「また会った」
《同一方向へ移動しているため、不自然ではありません》
「明日も会ったりして」
《同じ学院の新入生であれば、今後数年間顔を合わせる可能性もあります》
「それもそうか」
今はまだ名前も知らない。
それでいい。
旅の途中で何度か見かけた顔。
そこから始まる関係があっても面白い。
◇
今夜の宿は《水鳥の止まり木亭》という大きな宿だった。
中庭を囲むように建物が造られ、馬車を何台も置ける厩舎まで併設されている。入口には学院新入生歓迎と書かれた札が下げられており、シュウはそれを見て少し笑った。
「本当に新入生だらけなんだ」
「予約時点で学院関係者が多いと聞いていました」
ハンスが答える。
受付へ行く。
名前を告げる。
「シュウ・アルヴェイン様ですね」
受付の女性が帳面を確認する。
「二階の十二号室をご用意しております。護衛の方々は十一号室と十三号室です」
「ありがとう」
「それと、学院新入生の方にはこちらを」
一枚の紙を渡された。
「何これ?」
「明日以降の王都方面街道情報です。学院の補助所から配布されています」
読む。
ミレアから王都までの道程。
休憩所。
宿泊可能な町。
危険区域。
現在、大きな通行障害なし。
「親切だな」
「毎年この時期は新入生が多いので」
女性が笑う。
「去年は道を間違えて西へ二日進んだ方もいましたから」
「二日!?」
「本人は王都へ向かっているつもりだったそうです」
「どうやったらそうなるの?」
「分かれ道で反対へ進み、その後も『王都は遠いものだ』と思っていたとか」
シュウは紙を大事に持った。
「俺、これちゃんと読む」
「その方がよろしいかと」
受付の女性が笑った。
◇
荷物を部屋へ置いてから、シュウは夕食まで少し町を歩くことにした。
もちろん一人ではない。
「護衛いらなくない?」
「必要です」
ハンスに即答された。
「町の中だよ?」
「旦那様から、王都到着まで単独行動はさせるなと」
「また父さん!」
「諦めてください」
結局、カイルが同行することになった。
ハンスは御者と馬車の確認。
シュウとカイルは宿を出る。
夕暮れのミレア。
大通りには魔導灯が一つずつ灯り始めている。
領都にも魔導灯はあるが、ここは数が多い。
「明るいな」
「旅人が夜まで動く町ですから」
店を眺めながら歩く。
知らない菓子。
王都の土産物を先取りして売る店。
冒険者用品。
魔法道具。
シュウの足が止まった。
「魔導具屋」
店先には小さな札が並んでいる。
着火具。
保温石。
簡易浄水器。
小型照明具。
風乾燥具。
「こういうの領都より多いな」
「王都から仕入れやすいのでしょう」
「入っていい?」
「夕食までなら」
店へ入る。
狭い店内。
棚いっぱいに小さな魔導具が並んでいる。
シュウは一つずつ見ていく。
「これ何?」
丸い石。
店主が答える。
「携帯用の温熱石だよ。魔力を入れると二刻くらい温かい」
「便利」
「旅ならこっちも人気だ」
次に出されたのは、小さな板状の魔導具。
「方位盤。王都街道なら必要ないだろうが、森や山へ行く冒険者には売れる」
「欲しい」
「シュウ様」
カイルが後ろから声をかける。
「はい」
「旦那様から、不要な物を買いすぎないようにとも」
「そこまで!?」
「それは嘘です」
「カイル!」
若い騎士が笑う。
「すみません。一度言ってみたくなりまして」
「父さんなら本当に言いそうだからやめて!」
店主まで笑っている。
結局、シュウは方位盤を買った。
旅をするなら、いつか使う。
たぶん。
《購入の必要性は現時点では低いと推定します》
『いいんだよ。こういうのも旅の楽しみ』
《承知しました》
「それに格好いいし」
《十四歳当時のマスターは方位について――》
『やめろ』
《まだ何も》
『絶対「俺の進む方向が正しい」とか書いてるだろ』
数秒。
《ほぼ同義の記述があります》
『やっぱり!』
成長している。
黒歴史を先読みできるようになってしまった。
◇
店を出たころには、町の魔導灯がすべて点いていた。
宿へ戻ろうとしたところで、中央広場の方から人のざわめきが聞こえた。
「何だろ」
「見てみますか?」
「いいの?」
「宿へ戻る途中ですから」
二人で広場へ向かう。
人だかり。
その中心に学院補助所がある。
何か事件が起きたわけではない。
壁へ大きな紙が貼り出されたらしい。
「新入生向け?」
近づく。
紙には王立魔法学院の紋章。
そして。
――新入生各位。
――本年度入学式は予定どおり、三日後の朝に執り行う。
――入学前日までに王都学院受付所にて到着確認を行うこと。
「三日後」
シュウは文字を見つめた。
自分たちは予定どおりなら二日後に王都へ到着する。
一日余裕がある。
「いよいよだな」
周囲にも同じ紙を読む若者がいる。
「明後日までに着けばいいんだよな?」
「うちは明日の昼には出るぞ」
「制服、王都で受け取るんだっけ?」
「寮って何人部屋なんだろ」
「魔力測定あるらしいよ」
あちこちから声が聞こえる。
全員が少し不安そうで。
少し楽しそうで。
シュウと同じだった。
そのことに気づく。
「俺だけじゃないんだな」
「何がです?」
カイルが尋ねる。
「不安なの」
シュウは周囲を見る。
「みんな結構そわそわしてる」
「初めてなら当然でしょう」
「だよね」
公爵家でも。
男爵家でも。
平民でも。
故郷から離れて新しい場所へ行くなら、何かしら思うところはある。
もちろん事情は一人ずつ違う。
でも、自分だけが緊張しているわけではない。
そう思うと、胸に残っていた小さな不安が少し軽くなった。
そのとき。
「昼の人」
声をかけられた。
シュウは振り向く。
昼休憩所で見かけた少女が立っていた。
赤茶髪の少年と、本を読んでいた少年も一緒だ。
初めて直接言葉を交わす。
「あ、どうも」
シュウは少し姿勢を正した。
「昼もいましたよね」
「はい。関所でも見かけました」
「やっぱり」
少女が小さく笑う。
年齢はシュウと同じくらい。
肩まで伸びた淡い栗色の髪。
旅装だが、仕立ては良い。
「学院の新入生ですか?」
「そうです。そっちも?」
「はい」
たったそれだけの会話なのに、シュウは少し緊張した。
学院へ向かう同年代と、初めて直接話している。
赤茶髪の少年が横から顔を出した。
「俺は絶対上級組だけどな」
「まだ言ってるの?」
少女が呆れる。
「だって事実になるから」
「入学してから言いなさいよ」
二人のやり取りに、シュウは思わず笑った。
「仲いいね」
「どこが!?」
二人が同時に言った。
今度はシュウだけでなく、後ろにいたカイルまで笑った。
「私はセシリア」
少女が名乗る。
「セシリア・ノールです」
「俺はダン・クレイ!」
赤茶髪の少年も続く。
最後に、ずっと静かだった黒髪の少年が本を閉じた。
「ユリウス・ベルン」
三人。
名前を聞いた。
シュウも名乗る。
「シュウ・アルヴェイン」
「アルヴェイン?」
ダンが少し考える。
「どっかで聞いたような」
「男爵家だよ。北の方」
「ああ、貴族なのか」
反応はそれだけだった。
シュウは少し拍子抜けする。
もっと身分について何か言われるかと思っていた。
「俺は騎士爵家」
ダンが自分を指す。
「セシリアも似たようなもん。ユリウスは平民」
「勝手に説明するな」
ユリウスが初めて少し強い声を出した。
「別にいいだろ」
「よくない」
「じゃあ自分で言えよ」
「聞かれていない」
「お前ほんと面倒だな」
「ダンよりはましだ」
シュウは三人を見た。
既に仲がいいように見える。
「三人とも同じ町?」
「違います」
セシリアが答える。
「関所の少し前で一緒になっただけです」
「え?」
シュウは驚いた。
「今日会ったの?」
「はい」
「こいつが勝手についてきた」
ユリウスがダンを見る。
「同じ学院ならいいだろ?」
「こういう人です」
セシリアが苦笑する。
シュウは思わず笑った。
昨日ミリアから聞いた話を思い出す。
仲間は、最初から仲間だったわけではない。
偶然会う。
少し話す。
それが続いていく。
「シュウも明日王都方面だろ?」
ダンが尋ねる。
「うん」
「ならまた会うかもな」
「そうだね」
「学院着いたら魔力測定で勝負しようぜ」
「なんで?」
「誰が一番か分かりやすいだろ」
シュウの笑顔が僅かに固まった。
測定器。
壊れるかもしれない。
できれば勝負どころではない。
「普通でいいかな……」
「なんだよ、弱気だな」
「いや、そういう問題じゃなくて」
説明できない。
セシリアがダンの外套を引っ張った。
「初対面で勝負を押しつけないの」
「学院じゃ競争するだろ」
「それとこれは別です」
「分かったよ」
口ではそう言いながら、全く納得していない顔だった。
シュウはまた笑った。
不思議だった。
ほんの数分。
まだ友人でもない。
学院で同じクラスになるかも分からない。
でも。
王都へ行く楽しみが、少し増えた。
「じゃあ、俺たち宿戻るから」
シュウが言う。
「はい。また学院で」
セシリアが会釈する。
「測定忘れんなよ!」
「忘れていいよね!?」
「俺は覚えてるからな!」
ダンの声を背に、シュウとカイルは広場を離れた。
少し歩いたところで、カイルが笑う。
「早速できたじゃないですか」
「何が?」
「友人候補」
「まだ名前聞いただけだよ」
「最初はそんなものでしょう」
シュウは後ろを振り返った。
三人はまだ広場にいる。
「……そっか」
まだ分からない。
でも、これでいい。
◇
宿へ戻り、夕食を終えたあと。
シュウは自室の机へ座っていた。
目の前には紙。
インク。
ペン。
「書くか」
《何をでしょうか》
「手紙」
母と約束した。
学院へ着いてからでもいいと思っていたが、初日と二日目だけでも書きたいことが結構ある。
シュウはペンを取った。
――父さん、母さん、兄さんへ。
そこまで書いて止まる。
「何から書けばいい?」
《時系列順を推奨します》
「じゃあ、昨日の荷馬車から?」
《家を出た直後からでも》
「長くなるな」
《問題でしょうか》
「いや」
むしろ、たくさん書けることが嬉しかった。
家を出たこと。
領都の人が見送ってくれたこと。
道端の荷馬車。
冒険者ミリア。
初めて領境を越えた瞬間。
ベルク。
今日の関所。
大きな川。
魔法で船を動かしていたこと。
ミレア。
学院へ向かう新入生がたくさんいること。
そして、セシリア、ダン、ユリウスという三人と少し話したこと。
書いているうちに紙が埋まっていく。
「俺、めちゃくちゃ書いてるな」
《エレノア様は喜ばれると推測します》
「父さんと兄さんは途中で読むの疲れそう」
《可能性はあります》
「でも送る」
さらに書く。
北部森林のことも気になっている。
ただし、そればかりではない。
最後に。
――こっちは大丈夫です。旅、思ったより楽しいです。
そう書いた。
ペンを置く。
「……よし」
乾かしてから封をする。
明日、宿の郵便受付へ預ければアルヴェイン領へ送ってもらえる。
「母さん、これ読んだら安心するかな」
《少なくとも、マスターが食事を取っていることは十分伝わる内容です》
「そこ重要?」
《エレノア様にとっては》
「なら、夕食のことも書く?」
《既に食事に関する記述が五か所あります》
「そんな書いた?」
《はい》
「やめとく」
シュウは笑った。
手紙を鞄の上へ置く。
それから窓を開けた。
ミレアの夜。
昨日のベルクより明るい。
魔導灯が並び、人の声もまだ多い。
明日はまた街道を進む。
王都はさらに近づく。
学院も。
今日初めて話した三人と、本当にまた会うかもしれない。
別の誰かと出会うかもしれない。
「あと二日」
《予定どおりなら、二日後の午後に王都到着です》
「楽しみだな」
《はい》
シュウは窓辺に腕を置き、知らない町の灯りを眺めた。
昨日まで、自分の世界の中心はアルヴェイン領だった。
そこに家族がいて、知っている町があり、北の森には今も解けていない謎が残っている。
それらは何も消えていない。
けれど旅に出て二日。
自分の中へ、新しい場所と人の名前が少しずつ増え始めていた。
ベルク。
ローデン街道。
ラウゼン川。
ミレア。
ミリア。
セシリア。
ダン。
ユリウス。
まだ小さな広がりだ。
それでも、十七年間ほとんど一つの領地で生きてきたシュウには十分に大きい。
「こういうの、いいな」
《旅でしょうか》
「うん」
世界を救う必要なんてない。
伝説になる必要もない。
知らないものを一つずつ見て、自分の知っている世界を少しずつ広げていく。
それが今は楽しい。
《マスター》
「何?」
《十四歳当時の旅の目的について、関連記述があります》
「今日はいい気分で終わらせてくれない?」
《「世界は狭すぎる。ゆえに俺が広げる」》
「どうやって!?」
《詳細は記載されていません》
「書いとけよ、十四歳の俺!」
思わず窓の外へ向かって突っ込んだ。
通りを歩いていた旅人が驚いて二階を見上げる。
シュウは慌てて窓から離れた。
「……学院では本当に気をつけよう」
《同意します》
「原因お前だからな?」
《私は記録を提示したのみです》
「それをやめろって言ってるんだよ」
知らない町の宿で、シュウは一人、頭を抱えた。
それでも口元には笑いが残っている。
旅の二日目。
大きな事件は起きなかった。
魔物とも戦っていない。
選択能力の枠も空いたままだ。
ただ街道を進み、知らない土地を見て、知らない人と少し話した。
それだけで昨日より世界が広くなった。
そして王都までは、あと二日。
王立魔法学院は、もう地図の中だけの場所ではなくなりつつあった。




