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『黒歴史ノートが異世界で最強の魔導書になっていました』  作者: 伊佐波瑞樹


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第87話 魔法の的を壊すつもりはなかったのに、どうして俺が一番危険な生徒みたいになっているんだ?


 王立魔道学院の男子寮317号室で迎えた朝は、窓を叩く風の音から始まった。


 昨夜のうちに天候が変わったらしく、薄い雲が空を流れ、学院の中庭に植えられた木々が枝を揺らしている。雨が降るほどではないものの、窓の隙間から入り込む空気は少し冷たく、俺は制服の上着を羽織りながら、机に置いた授業予定表へ目を向けた。


 今日の午後は魔法実技だった。


 昨日は魔導具の保守について学び、エリオットと協力して接触不良の魔導灯を修理した。小さな灯りがともっただけなのに、思っていた以上に嬉しかったことを覚えている。


 しかし、今日の予定表には『複数属性による標的制御演習』という、何とも気になる言葉が書かれていた。


「……標的制御って、どういうことをするんだろうな」


 俺が呟くと、隣の机で教本を確認していたエリオットが顔を上げた。


「詳しい説明はまだ聞いていないけど、標的へ魔法を当てるだけじゃなくて、威力や範囲を調整する練習じゃないかな。前に使った魔力応答球の授業より、実際の攻撃魔法に近い内容かもしれないね」


「なるほど。そういうことなら、ちゃんと加減を覚えるのに役立ちそうだな」


 俺は頷きながら、少しだけ胸の奥が落ち着かなくなるのを感じた。


 普通の学生なら、魔法の威力を高めることが課題になるのかもしれない。けれど、俺の場合は事情が違う。


 前世の中二病時代に書いた黒歴史ノートが、この世界で最強級の魔導書《禁書アルカディア》になってしまったおかげで、俺は自分でも驚くほど強い魔力を扱えるようになっている。


 もちろん、学院の授業では特別な能力を使わず、普通の魔法を慎重に扱うようにしている。


 それでも、力の加減を間違えたら、周囲から妙な注目を集めてしまうかもしれない。


(……今日は絶対に目立たないようにしよう。普通に授業を受けて、普通に終わらせるんだ)


《マスター。その目標には一つ確認事項がございます》


(何だよ、アルカディア。朝から嫌な予感しかしないんだけど)


《旧設定におけるマスターは、力を抑えた状態でも大陸を消滅させられる存在でございました》


(そんな設定でどうやって日常生活を送るんだよ!)


《当時の記述によれば、マスターが本気を出した場合、世界そのものが耐えられないため、常に力を封印しているとのことです》


(封印してるのに大陸を消せるって、加減の基準がおかしいだろ!)


 俺は思わず額を押さえた。


 アルカディアは今日も冷静だったが、俺にとっては朝から精神的な攻撃を受けているようなものだ。


 しかも、あのノートを書いていた前世の俺は、きっと真剣に格好いいと思っていたのだろう。


 思い出すだけで恥ずかしい。


「シュウ、どうかした? 今日の授業がそんなに心配?」


 エリオットが少し気遣うような声をかけてきた。


 俺は慌てて顔を上げ、できるだけ自然な笑みを浮かべた。


「いや、大丈夫。魔法の威力を調整する授業なら、しっかり練習しないとなって考えてただけだよ」


「そうだね。シュウは魔力が強いから、細かい調整は大変かもしれないけど、いつも丁寧に練習しているし、きっと大丈夫だと思うよ」


 エリオットはそう言って微笑んだ。


 その言葉に、俺は少しだけ気持ちが軽くなった。


 彼は俺の本当の事情を知らない。それでも、これまで一緒に授業を受けてきた経験から、俺が力を抑えようとしていることを理解してくれている。


 そうした信頼が、今はありがたかった。


「ありがとう。今日はエリオットにも確認してもらいながらやってみるよ」


「うん。僕に分かる範囲なら、いくらでも協力するよ」


 俺たちはそう話しながら支度を終え、朝食を取るために部屋を出た。


 廊下にはすでに何人かの学生が歩いており、階段の方からは楽しそうな話し声が聞こえてくる。


 今日も学院の一日が始まろうとしていた。


     ◇


 午前の授業が終わり、昼食を取るために食堂へ向かうと、入口の近くでフィンが手を振っていた。


 彼の隣にはユリウスが立っており、少し離れたところではセシリアとミリアが料理を受け取っている。


「おーい、シュウ! こっちこっち! 午後の授業、何をやるか聞いたか?」


 フィンは俺たちが近づくのを待ちきれない様子で声をかけてきた。


 俺は笑いながら首を振った。


「詳しいことはまだ聞いてないよ。エリオットとは、魔法の威力を調整する練習じゃないかって話してたんだけど」


「やっぱりそうか! 俺もそう思ってたんだよ。今日は思いっきり魔法を撃てるのかなって、ちょっと楽しみでさ」


 フィンは嬉しそうに笑ったが、その隣でユリウスが静かに口を開いた。


「標的制御って書いてあるんだから、思いっきり撃つ授業とは限らないよ。むしろ、指定された範囲へ正確に当てることが目的かもしれない」


「分かってるって。俺だって、ただ威力を上げればいいとは思ってないぞ」


 フィンは少しだけ肩をすくめた。


 以前なら、そのまま勢いで話を進めていたかもしれない。しかし、最近の彼は、仲間からの指摘を素直に受け止めることが増えている。


 合同演習で周囲の状況を確認する大切さを学んだことが、少しずつ普段の行動にも表れているのだろう。


 俺たちは料理を受け取り、窓際の長い卓へ向かった。


 今日の昼食は、香草を使った肉料理と温かい野菜のスープ、それに焼きたてのパンだった。窓の外では風が木々を揺らしていたが、食堂の中は暖かく、学生たちの話し声が賑やかに響いている。


 セシリアとミリアも合流すると、自然と午後の授業の話題になった。


「標的制御って、やっぱり正確さが大切なのかしら。私は回復魔法の練習でも、必要な場所へ魔力を集中させるのが難しいと感じることがあるの」


 セシリアがそう言うと、ミリアも頷いた。


「私も、魔力を広げるより、狭い範囲へ一定の強さで流す方が難しいと思う。途中で少し揺らいじゃうことがあるから」


「それなら、今日はいい練習になるかもしれないね」


 エリオットが穏やかに答えた。


 俺はスープを一口飲みながら、二人の話を聞いていた。


 魔法の正確さという点では、セシリアやミリアのように細かな制御を意識している学生から学べることも多い。


 俺は魔力の量には困らないが、だからこそ、必要以上の力を使わない技術を身につけなければならない。


「そういえば、シュウは六属性全部使えるんだよな。今日みたいな授業だと、どの属性を使うか迷わないか?」


 フィンがパンをちぎりながら尋ねてきた。


 俺は少し考え、正直に答えた。


「迷うことはあるよ。属性ごとに扱いやすさも違うし、目的に合わせて選ばないといけないから」


「へえ。全部使えるなら、何でも簡単にできるのかと思ってた」


「そんなことないって。例えば、狭い範囲へ弱い魔法を当てるなら、威力を上げるよりずっと慎重になるし」


 俺がそう言うと、ユリウスが興味深そうに顔を上げた。


「確かに、使える属性が多いほど、選択肢も増えるからね。状況によっては、どの属性を選ぶか判断する時間も必要になると思う」


「そうなんだよ。強い魔法を使えばいいってわけじゃないからな」


 俺は頷いた。


 すると、フィンが少し真剣な表情になった。


「……じゃあ、俺も今日は威力より正確さを意識してみるか。合同演習でも、周りをちゃんと見ないと危ないって分かったしな」


 その言葉を聞いて、セシリアが柔らかく微笑んだ。


「いいと思うわ。フィンは魔法の勢いがあるから、細かい調整ができるようになったら、もっと頼りになると思う」


「おっ、そう言われるとやる気出るな!」


 フィンは嬉しそうに笑った。


 俺たちもつられて笑い、昼食の時間は穏やかに過ぎていった。


     ◇


 午後の実技場へ向かうと、いつもとは少し違う光景が広がっていた。


 広い訓練場の中央には、複数の標的が一定の間隔を空けて並べられている。


 標的は人の背丈ほどの支柱に取り付けられた円形の板で、表面には幾重もの魔法陣が描かれていた。板の中心には淡い青色の結晶が埋め込まれ、その周囲を囲むように細い金属線が走っている。


 さらに、標的の後方には厚い土壁が設けられており、周囲の地面にも魔法の影響を抑えるための術式が刻まれていた。


 俺はその光景を見て、少しだけ安心した。


 少なくとも、何も対策されていない場所で魔法を撃つわけではなさそうだ。


 ただ、標的の数が思っていたより多いことには驚いた。


「……すごいな。こんなにたくさん用意してあるんだ」


 俺が呟くと、エリオットも興味深そうに標的を眺めた。


「たぶん、組ごとに使うんだろうね。あの魔法陣、魔力を受けたときに反応する仕組みなのかな」


「そうかもしれない。中心の結晶が光るようになってるのかな」


 俺たちが話していると、実技場の前方からセレナ・ヴァイス先生の声が響いた。


「全員、集合してください。今日は標的制御の演習を行います」


 学生たちは話をやめ、先生の前へ集まった。


 セレナ先生は全員が揃ったことを確認すると、標的の一つを示した。


「今回使用するのは、魔力の命中位置と強さを確認するための訓練用標的です。皆さんには、指定された範囲へ魔法を当てる練習をしてもらいます」


 先生は標的の表面に描かれた円を指さした。


「中心へ当てればよいというわけではありません。指定された位置へ、指定された強さの魔法を届けることが目的です。威力が強すぎても、弱すぎても、正しい結果にはなりません」


 その説明を聞いて、俺は思わず頷いた。


 やはり、今日の授業は魔法の威力を競うものではなかった。


 むしろ、必要なだけの力を使うことが求められている。


「また、標的には安全のための保護術式が施されていますが、限界がないわけではありません。過剰な魔力を流せば、内部の部品へ負担がかかります。昨日の魔導具保守の授業を思い出してください」


 先生の言葉に、教室で魔導灯を修理したときのことが蘇った。


 接触不良の小さな導線。


 力を入れすぎれば曲がってしまいそうだった繊細な部品。


 魔法の道具は、強い力を与えれば何でも解決するわけではない。


 そのことを、昨日の俺たちは実際に学んでいた。


(……よし。今日は本当に慎重にやろう)


《マスター。出力制御については、通常魔法の範囲で十分に対応可能と判断いたします》


(頼むぞ。変なことになったら困るからな)


《なお、旧設定においては、マスターの魔力を受けた標的は存在そのものが消滅いたします》


(今その話をするなよ!)


 俺は心の中で反論しながら、先生の説明へ意識を戻した。


 セレナ先生は実際に標的へ向かい、指先へ小さな水の球を生み出した。


 水球は拳ほどの大きさで、透明な表面に午後の光を映している。


「まずは、この程度の魔法で十分です。標的の外側にある青い輪へ当ててみます」


 先生が手を動かすと、水球は緩やかな弧を描いて飛び、標的の青い輪へ正確に命中した。


 水が弾けると同時に、標的の表面に淡い光が走る。


 中心の結晶が一度だけ明滅し、その後、標的の下に取り付けられた小さな表示板へ数字が浮かび上がった。


「このように、命中位置と魔力の強さが記録されます。皆さんはまず、指定された範囲へ安定した魔法を当てることから始めてください」


 学生たちの間から感心したような声が上がった。


 俺も標的の仕組みに興味を引かれた。


 魔力応答球の授業では、複数人の魔力を合わせて反応を確かめたが、今回は一人ひとりの制御をより細かく見ることができるらしい。


 先生は続けて、安全上の注意を説明した。


 標的の前へ勝手に出ないこと。


 隣の組が魔法を使用している間は、指定された待機位置から動かないこと。


 魔法の種類を変更する場合は、事前に教員へ申告すること。


 そして、異常な反応があった場合は、すぐに魔法を止めること。


 俺は一つずつ確認しながら、頭の中へ刻み込んだ。


     ◇


 演習は数人ずつの組に分かれて行われた。


 俺はエリオットと同じ組になり、フィンとユリウスが隣の標的を担当することになった。


 セシリアとミリアは少し離れた位置で、別の標的を使っている。


 最初の課題は、標的の外側にある輪へ弱い魔法を当てることだった。


 属性は水か風が推奨されており、使用する魔力も低く抑えるよう指示されている。


「じゃあ、僕からやってみるね」


 エリオットはそう言って、標的から指定された距離に立った。


 彼は深く息を整え、右手を前へ向ける。


 指先に集まった水の魔力が小さな球を形作り、ゆっくりと安定していく。


「――水よ、静かに集いて、我が意に従え」


 短い発動句とともに、水球が放たれた。


 球はほとんど軌道を乱さず、標的の外側に描かれた輪へ命中した。


 淡い光が走り、表示板に数字が浮かび上がる。


 俺は思わず笑みを浮かべた。


「すごいな、エリオット。ほとんど狙ったところじゃないか」


「ありがとう。でも、少しだけ右へずれたみたい。次はもう少し調整してみるよ」


 エリオットは嬉しそうに笑いながらも、表示板を真剣に確認していた。


 彼らしい反応だった。


 うまくできたことを喜びながら、次に改善できるところを探している。


 俺はその姿を見て、少しだけ肩の力が抜けた。


 続いて、俺の番になった。


 標的の前へ立つと、思っていたより距離が近く感じられた。


 これまでの実技では、広い範囲へ魔法を放つこともあったが、今回は小さな輪へ正確に当てる必要がある。


 俺は右手を上げ、魔力を慎重に集め始めた。


(……まずは、エリオットと同じくらいの大きさでいい。威力はもっと弱くてもいいくらいだ)


《マスター。現在の魔力出力は十分に低く抑えられております》


(よし。このまま安定させるぞ)


 俺は呼吸を整え、指先に小さな水球を形成した。


 透明な球は静かに浮かび、表面を揺らしながら光を反射している。


 周囲の魔力を必要以上に引き込まないよう注意しながら、俺は標的の外側へ狙いを定めた。


「――清き水よ、我が指先に集い、静かに進め」


 水球が手を離れ、標的へ向かって飛んでいく。


 軌道は安定していた。


 しかし、命中する直前、俺はほんのわずかに違和感を覚えた。


 標的の表面にある魔法陣が、予想していたより強く反応したのだ。


 水球そのものの威力は低い。


 それでも、標的の中心に埋め込まれた結晶が、一瞬だけ明るく光った。


 次の瞬間、水球が指定された輪へ命中し、淡い光が標的全体へ広がった。


 表示板には数字が浮かび上がったが、その数値は俺が想定していたものより少し高かった。


「……あれ?」


 俺は思わず声を漏らした。


 隣にいたエリオットも表示板を見つめている。


「シュウ、今の魔法、見た目は僕のより弱かったと思うんだけど……反応は少し大きかったね」


「うん。俺もそう思った。魔力の量はかなり抑えたつもりだったんだけど」


 俺は自分の指先を見つめた。


 水球を形成したとき、特別な能力は使っていない。


 ただ、普通の水属性魔法を、できるだけ弱く放っただけだ。


 それなのに、標的の反応は少し強かった。


(……これ、やっぱり俺の魔力の性質が関係してるのかな)


《可能性はございます。ただし、標的側の感度や魔力の伝達効率も考慮する必要があります》


(そうか。まだ原因は分からないってことだな)


 俺は頷き、表示板をもう一度確認した。


 そのとき、セレナ先生がこちらへ歩いてきた。


「シュウ・アルヴェイン。今の魔法は、かなり出力を抑えていましたね」


「はい。指定された範囲へ当てることを優先したので、威力はできるだけ弱くしました」


 俺が答えると、先生は標的の表示板へ目を向けた。


「命中位置は良好です。ただ、魔力の反応が少し強く出ていますね。次は、魔力の量だけでなく、球の密度も意識してみてください」


「密度、ですか?」


「ええ。同じ大きさの水球でも、内部へ集める魔力が濃ければ、標的へ与える影響は変わります。魔力を小さくまとめることと、弱くすることは必ずしも同じではありません」


 俺はその説明を聞き、思わず目を見開いた。


 確かに、俺は水球を小さくすることばかり意識していた。


 しかし、その内部へどれだけ魔力を集めているのかについては、十分に考えていなかったかもしれない。


「……なるほど。じゃあ、次は魔力をもっと薄く広げるように意識してみます」


「そうしてください。あなたは魔力の扱える幅が広い分、細かな調整を覚えることが大切です」


 先生はそう言って頷き、ほかの組の様子を確認するために歩いていった。


 俺はその背中を見送りながら、少しだけ息を吐いた。


 注意されたわけではない。


 むしろ、具体的な改善点を教えてもらえたのだから、ありがたいことだった。


 エリオットも隣で頷いている。


「シュウ、今の説明、僕も勉強になったよ。小さくすることと弱くすることって、確かに違うんだね」


「うん。俺も、ちょっと勘違いしてたかもしれない」


 俺たちは顔を見合わせ、もう一度標的へ向き直った。


     ◇


 二度目の挑戦では、俺は水球の大きさを変えず、内部へ集める魔力だけを減らすように意識した。


 最初は少し難しかった。


 魔力を弱くすると、水球の形そのものが不安定になり、表面がわずかに揺らいでしまう。


 俺は焦らず呼吸を整え、魔力を均等に分散させることへ集中した。


(……強く押し込むんじゃなくて、形を保つために必要な分だけ流すんだ)


《適切な調整です、マスター。魔力の密度が先ほどより低下しております》


(よし。このままいけそうだな)


 俺は標的へ狙いを定め、先ほどと同じ発動句を唱えた。


 水球は静かに飛び、指定された輪へ命中した。


 標的の表面に淡い光が走り、表示板へ数字が浮かび上がる。


 今度の反応は、先ほどよりも明らかに小さかった。


「……よし!」


 俺は思わず小さく拳を握った。


 エリオットも嬉しそうに笑っている。


「すごいよ、シュウ。今度はかなり安定してる」


「ありがとう。先生の言ってた意味が、少し分かった気がする」


 俺はそう答えながら、標的を見つめた。


 たった一度の調整で、魔法の反応が変わった。


 それは、俺にとって思っていた以上に大きな発見だった。


 強い魔力を持っていることと、魔法をうまく扱えることは違う。


 そして、細かな制御を覚えることは、単に周囲へ迷惑をかけないためだけではなく、自分の力を正しく使うためにも必要なのだろう。


(……こういう練習、もっとちゃんとやっておいた方がいいな)


《マスター。現在の制御精度は向上しております。継続的な訓練は有益です》


(うん。今日の授業、思ってた以上に大事かもしれない)


《なお、旧設定では、マスターは魔力制御においても完全無欠でございました》


(はいはい。昔の俺は何でも完璧だったんだろ)


《一兆分の一以下の魔力まで自在に調整可能という記述がございます》


(……数字の単位がもう意味分かんないんだけど)


《当時のマスターは、極限まで精密な制御能力を表現したかったものと推測されます》


(だったら、普通に『すごく細かく調整できる』でよかっただろ!)


 俺は心の中でため息をついた。


 それでも、アルカディアの言葉を聞いているうちに、少しだけ笑えてきた。


 前世の俺は、きっと努力しなくても何でもできる主人公に憧れていたのだろう。


 けれど、今の俺は、こうして少しずつ上達していく時間が嫌いではなかった。


     ◇


 演習が進むにつれて、実技場にはさまざまな魔法の光が飛び交うようになった。


 もちろん、すべて安全な範囲へ調整されたものだったが、属性ごとに違う色や動きを見せる魔法は、眺めているだけでも興味深い。


 フィンは火属性の小さな弾を使い、標的の外側へ当てる練習をしていた。


 最初は少し威力が強くなり、表示板の数値が指定範囲を超えてしまったらしい。


 しかし、ユリウスと相談しながら調整を続けるうちに、少しずつ安定した魔法を放てるようになっていた。


「よし、今度は範囲内だ!」


 フィンの嬉しそうな声が、隣の標的から聞こえてきた。


 ユリウスも表示板を確認し、満足そうに頷いている。


「うん。さっきよりずっと安定してる。火球の大きさを変えずに、熱量を抑えられているね」


「だろ? やっぱり、ただ弱くするんじゃなくて、ちゃんと形を保つのが大事なんだな」


 フィンはそう言って笑った。


 その様子を見て、俺も嬉しくなった。


 フィンは勢いのある魔法を得意としているが、今日は自分から威力を抑えることへ意識を向けている。


 以前よりも、魔法の扱い方を広く考えられるようになっているのかもしれない。


 一方、セシリアとミリアの組では、少し違う課題が行われていた。


 セシリアは水属性の魔法を使い、標的の指定された部分へ細い水流を当てている。


 ミリアはその隣で、魔力の変化を記録しながら、自分の順番を待っていた。


 やがてミリアが標的の前へ立ち、両手を胸の前で重ねた。


 彼女の周囲へ淡い水色の魔力が集まり、小さな水球を形作っていく。


 最初は少し揺らいでいたが、深く息を整えるにつれて、その形は安定していった。


「――水よ、静かに集いて、我が意に従え」


 水球が放たれ、標的の輪へ命中した。


 表示板には、指定された範囲内の数値が浮かび上がった。


 ミリアは一瞬驚いたように目を見開き、それから嬉しそうに笑った。


 隣にいたセシリアが、優しく声をかけている。


「すごいわ、ミリア。今の魔法、とても安定していたと思う」


「ありがとう。最初は少し不安だったけど、セシリアが言ってくれたように、呼吸を整えたらうまくできたみたい」


 ミリアはそう答えながら、胸元へ手を当てた。


 その姿を見て、俺は自然と笑みを浮かべた。


 彼女は以前より、自分の力を信じられるようになってきている。


 それは魔法の技術だけではなく、仲間と一緒に経験を積んできたことも関係しているのだろう。


 俺はそんなことを考えながら、次の課題へ向けて準備を始めた。


     ◇


 授業の終盤、セレナ先生は全員の練習状況を確認したあと、新しい課題を説明した。


「最後は、二人一組で標的へ魔法を当ててもらいます。一人が先に魔法を放ち、もう一人がその反応を確認してから、別の位置へ魔法を当ててください」


 先生は標的の表面に描かれた二つの輪を示した。


「大切なのは、互いの魔法が干渉しないようにすることです。相手の魔法が完全に消えたことを確認してから、次の魔法を放ってください」


 俺はその説明を聞き、エリオットへ目を向けた。


 彼も同じことを考えたらしく、穏やかに頷いた。


「僕が先にやってみようか。シュウは反応を見てから、次の位置へ当ててみて」


「うん。じゃあ、俺は右側の輪を狙うよ」


 俺たちは役割を決め、標的の前へ立った。


 エリオットが左側の輪へ水球を放ち、標的が反応する。


 俺はその光が消えるのを確認してから、右側へ向けて小さな風の弾を形成した。


 風属性の魔法は水球よりも形が見えにくいため、俺は魔力の流れを慎重に意識した。


「――風よ、静かに集いて、我が意に従え」


 風の弾が放たれ、標的の右側へ命中した。


 淡い光が走り、表示板へ二つの結果が順番に記録される。


 俺たちはその数値を確認し、顔を見合わせた。


「……うん、問題なさそうだね」


「そうだな。ちゃんと間隔を空ければ、干渉しないんだな」


 俺は頷き、標的へ目を向けた。


 しかし、その直後だった。


 標的の中心に埋め込まれた結晶が、わずかに明滅した。


 最初は、先ほどの魔法の反応が残っているだけかと思った。


 けれど、光は一度消えたあと、もう一度だけ弱く揺らいだ。


「……あれ?」


 俺は思わず声を漏らした。


 エリオットも異変に気づいたらしく、標的へ視線を向けた。


「シュウ、今の……反応が少し残ってる?」


「うん。俺もそう見えた」


 俺たちはすぐに魔法の使用を止め、先生へ確認を求めた。


 セレナ先生は近づいて標的を調べると、少しだけ眉を寄せた。


「……なるほど。内部の反応が完全に消えていませんね」


 先生は標的の表示板を確認し、続けて中心の結晶へ目を向けた。


 その間、俺たちは指示された位置から動かず、様子を見守っていた。


「先生、俺たちの魔法が強すぎたんでしょうか?」


 俺が尋ねると、先生は首を横に振った。


「現時点では分かりません。表示された数値は指定範囲内ですし、魔法の間隔も十分に空いていました。ただ、内部の反応が残っている以上、この標的は使用を中止します」


 先生はそう言って、標的の側面にある停止用の術式へ手をかざした。


 淡い光が走り、中心の結晶がゆっくりと暗くなっていく。


 やがて、標的は完全に反応を止めた。


 俺はほっと息を吐いた。


 大きな事故にはならなかったらしい。


 しかし、先生の表情はまだ少し真剣だった。


「シュウ、エリオット。異常に気づいてすぐ報告したのは適切な判断です。原因は後で確認しますので、二人は別の標的へ移動してください」


「はい」


 俺たちは頷き、指定された待機位置へ戻った。


 その途中、エリオットが少しだけ不安そうに口を開いた。


「……僕たちの魔法が何か影響したのかな」


「分からない。でも、先生が言ってたとおり、数値は範囲内だったし、間隔もちゃんと空けたよな」


「うん。だからこそ、少し気になるね」


 エリオットは標的へ目を向けた。


 俺も同じ方向を見た。


 標的はすでに停止しており、先ほどのような光は見えない。


 ただ、何が起きたのか分からないという感覚だけが、胸の奥へ残っていた。


(……これ、俺の魔力のせいじゃないといいんだけど)


《現時点では、マスターの魔力が原因であると断定する根拠はございません》


(そうだよな。勝手に決めつけるのはよくないよな)


《はい。標的側の状態、連続使用による負荷、内部術式の調整など、複数の可能性が考えられます》


 俺は心の中で頷いた。


 昨日の魔導具保守の授業でも、見た目だけで原因を決めつけないことが大切だと教わった。


 今日の標的についても、同じことが言えるのだろう。


 俺は少しだけ気持ちを落ち着かせ、次の指示を待った。


     ◇


 授業が終わるころには、実技場を吹き抜ける風が少し強くなっていた。


 学生たちは使用した標的の周囲を片づけ、教員の指示に従って整列している。


 セレナ先生は全員の様子を確認すると、今日の演習について簡単に振り返った。


「今日は、魔法の威力を上げることではなく、必要な範囲へ正確に届けることを練習しました。多くの学生が、最初よりも安定した制御を見せてくれましたね」


 先生はそこで少し間を置いた。


「また、途中で一つの標的に不具合が確認されましたが、担当していた学生がすぐに使用を止めたため、安全に対応できました。魔法の訓練では、異常を見つけたときに無理をしないことも重要です」


 俺はその言葉を聞き、少しだけ肩の力が抜けた。


 少なくとも、俺たちの対応は間違っていなかったらしい。


 隣にいたエリオットも、安心したように小さく息を吐いている。


 先生は最後に、次回までの課題として、今日の魔法制御で気づいたことを簡単にまとめるよう指示した。


 俺たちは返事をし、実技場を後にした。


 外へ出ると、フィンがすぐに近づいてきた。


「シュウ、エリオット! さっきの標的、大丈夫だったのか?」


「ああ。先生が止めてくれたし、俺たちも怪我はしてないよ」


 俺が答えると、フィンは安心したように笑った。


「そっか、よかった。急に標的が変な光り方したから、ちょっと驚いたんだよ」


「私も少し驚いたわ。でも、二人ともすぐに先生を呼んでいたから、落ち着いて対応できていたと思う」


 セシリアがそう言うと、エリオットは少し照れたように微笑んだ。


「ありがとう。でも、原因はまだ分からないから、先生の確認を待つしかないね」


 ユリウスも頷いた。


「そうだね。標的の不具合なのか、魔法の反応が残りやすい状態だったのか、外から見ただけでは判断できないと思う」


 俺はその言葉を聞き、少しだけ安心した。


 少なくとも、仲間たちは俺の魔力だけが原因だと決めつけているわけではない。


 ミリアも少し考え込むように口を開いた。


「……今日の標的って、昨日の魔導灯みたいに、内部の部品が少しずれていた可能性もあるのかな」


「それも考えられるかもしれないね。でも、標的の内部は見てないから、まだ分からないな」


 俺が答えると、ミリアは頷いた。


「うん。だから、先生が確認するまでは何とも言えないよね」


 そのやり取りを聞いて、フィンが少し笑った。


「何か、最近みんな慎重になったよな。前だったら、もっと適当に予想してた気がする」


「フィンが一番変わったんじゃない?」


 セシリアがそう言うと、フィンは少し驚いた顔をした。


「俺が?」


「ええ。今日も、火球の威力をちゃんと調整していたでしょう。前よりも周りを見ながら魔法を使っていると思うわ」


 フィンは少し照れくさそうに笑った。


「……まあ、合同演習でいろいろあったからな。勢いだけじゃ駄目だって、少しは分かったつもりだよ」


 その言葉に、俺たちは自然と笑みを浮かべた。


 それぞれが少しずつ変わっている。


 大きな事件が起きなくても、授業や日常の中で学ぶことはたくさんあるのだろう。


     ◇


 夕方、俺とエリオットは男子寮へ戻り、部屋で今日の課題を整理していた。


 机の上には教本とノートが広げられ、窓の外からは中庭を歩く学生たちの声が聞こえてくる。


 俺は今日の実技で学んだことを書き留めながら、標的の異常についても簡単に記録していた。


『水球の大きさと魔力の密度は別に考える必要がある』


『威力を抑えるだけでなく、形を安定させることが重要』


『標的の反応が残ったため、使用を中止して教員へ報告』


『原因は未確認』


 そこまで書いたところで、俺はペンを止めた。


 原因が分からないことは少し気になる。


 けれど、今の俺にできることは、今日の出来事を正確に記録しておくことくらいだろう。


 勝手に原因を決めつけたり、無理に調べようとしたりする必要はない。


「シュウ、今日の水球、二回目はすごく安定してたね」


 エリオットがそう言いながら、手帳を閉じた。


 俺は顔を上げ、少し笑った。


「ありがとう。でも、先生に言われるまで、魔力の密度のことはあまり意識してなかったんだよな」


「僕も勉強になったよ。魔法って、同じ形に見えても、内部の魔力の流れで結果が変わるんだね」


「うん。だからこそ、ちゃんと練習しないといけないんだと思う」


 俺はそう答え、ノートへ目を落とした。


 前世の俺は、最強の力があれば何でも解決できると思っていた。


 しかし、今の俺は違う。


 強い力を持っているからこそ、それをどう使うか考えなければならない。


 そして、分からないことがあれば、誰かに教えてもらうことも必要なのだ。


(……何か、最近こういうことばっかり考えてる気がするな)


《マスター。成長とは、必ずしも能力値の上昇のみを指すものではございません》


(うん。それは分かるよ)


《なお、旧設定では、マスターは誕生した瞬間から完成された存在であり、成長の余地がないと記されております》


(……それ、物語の主人公としてどうなんだよ)


《当時のマスターは、最初から最強であることを重視されていたようです》


(まあ、そうだったんだろうな……)


 俺は心の中で苦笑した。


 確かに、前世の俺は最強の主人公に憧れていた。


 けれど、今の俺は、少しずつできることが増えていく感覚も悪くないと思っている。


 それに、仲間たちと一緒に学ぶ時間は、どれほど強い能力があっても代わりにはならない。


 俺はノートを閉じ、窓の外へ目を向けた。


 夕方の空には薄い雲が流れ、学院の尖塔が淡い光を受けている。


 今日の授業では、少し気になる出来事もあった。


 しかし、それ以上に、魔法を正確に扱うことの大切さを学べた一日だった。


 俺はそのことを嬉しく感じながら、明日の授業予定を確認した。


 そのとき、アルカディアが静かに声をかけてきた。


《マスター。一点、確認してもよろしいでしょうか》


(ん? 何だよ)


《本日の標的の異常について、マスターご自身が原因である可能性を懸念されておりましたね》


(……まあ、ちょっとはな。でも、まだ分からないし、先生の確認を待つつもりだよ)


《適切な判断です。ただし、旧設定におけるマスターは、訓練用の標的を破壊するだけで世界最強の証明を完了する存在でございました》


(……また黒歴史の話かよ)


《その際、周囲の学生たちは恐怖と畏敬の念を抱き、マスターを《破滅を統べる絶対王》と呼ぶことになります》


(そんな名前で呼ばれたら、俺、明日から学院に来られなくなるだろ!)


 俺は心の中で全力で叫んだ。


 しかし、アルカディアはいつものように平然としている。


《ご安心ください。現時点で、周囲の学生がその称号を使用する兆候は確認されておりません》


(当たり前だろ! そんな兆候があってたまるか!)


 俺は思わず深いため息をついた。


 隣ではエリオットが、今日の実技で使った水球の形について楽しそうに話している。


 俺はその声へ耳を傾けながら、できるだけ普通の表情を保とうとした。


 どうやら、今日も俺の黒歴史は、平和な学院生活を全力で邪魔するつもりらしい。


 それでも、俺は明日も普通に授業を受けるつもりだ。


 世界最強だとか、絶対王だとか、そんな大げさな称号はいらない。


 ただ、仲間たちと一緒に学び、少しずつ成長していければ、それで十分なのだから。


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