第86話 古い道具を直すだけの授業で、どうして俺の黒歴史が大騒ぎするんだ?
王立魔道学院の男子寮317号室に戻ったころには、窓の向こうに広がっていた夕焼けも、すっかり夜の色へ変わり始めていた。
俺は机の上へ鞄を置き、図書館で使っていたノートを取り出した。今日の調査では、古い物資記録の余白に似た形の小さな印が複数存在することを確認できたものの、それが何を意味しているのかまでは分からなかった。
ただ、以前は見落としていたものへ目を向けられたというだけでも、俺にとっては十分な収穫だった。ミリアが記号の位置に注目し、エリオットが以前の記録を思い出してくれたおかげで、調べるべきことがまた一つ増えたのだから。
「シュウ、今日はもう調査の続きをしない方がいいと思うよ。図書館でもずいぶん集中していたし、明日の授業もあるからね」
隣の机で教本を片づけていたエリオットが、こちらへ穏やかな声をかけてきた。俺がノートを開いたまま考え込んでいたため、また何か調べ始めるのではないかと思ったらしい。
「うん、今日はこれで終わりにするつもり。せっかく見つけた印だから忘れないように確認してただけだよ」
「それならよかった。僕も気になるけど、急いで調べたからって、すぐ答えが出るとは限らないものね」
エリオットはそう言って笑い、翌日の授業予定を確認するために手帳を開いた。
俺もノートを閉じようとしたが、その前に、今日書き留めた記録をもう一度だけ眺めた。印が見つかった頁、記されていた位置、周囲にあった返納の記述。それぞれを別々に見れば小さな情報にすぎないが、こうして並べてみると、誰かが何かを確かめながら仕事をしていた様子が、ほんの少しだけ想像できる気がした。
(……でも、想像と事実は別だよな。そこを間違えたら、せっかく調べても意味がなくなる)
《適切な認識でございます、マスター。現時点で記号の用途を断定する根拠は不足しております》
(分かってる。だから、次は似た時代の帳簿も探してみたいんだよ)
《なお、旧設定におけるマスターは、未知の文字を一瞥しただけで、その背後に隠された世界の真理まで理解する能力をお持ちでした》
(昨日も似たような話を聞いたぞ。もうその設定はいいって)
《本日は別の能力でございます。《深淵識別眼》――あらゆる物質の真名と運命を看破する、究極の鑑定魔眼です》
(名前からして大げさすぎるだろ! 古い帳簿の印を調べるために世界の真理まで持ち出す必要ないからな!)
俺は心の中で反論しながら、ノートを閉じた。
アルカディアはいつものように平然としているが、前世の俺が考えた設定を聞かされる側としては、たまったものではない。しかも、こうした名前が次から次へと出てくるということは、あの黒歴史ノートには、まだ俺が思い出せていない設定が山ほど残っているのだろう。
机の上へノートを置いたところで、エリオットが手帳を見ながら小さく声を上げた。
「あ、そうだ。明日の午後は実技授業だったね。予定表には『魔導具の基礎構造と簡易保守』って書いてある」
「魔導具の保守?」
「うん。実際に道具を分解して、どんな仕組みで動いているのか確かめるらしいよ。僕はそういう授業、結構楽しみなんだ」
エリオットの表情には、いつもより少し強い期待が浮かんでいた。彼は魔法そのものだけでなく、それを日常生活でどう使うかという話にも興味を持っている。
俺も手帳を確認し、明日の予定を見つけた。
魔導具の保守と聞いて、真っ先に頭へ浮かんだのは、図書館で調べている古い保持材のことだった。ただし、授業で扱う一般的な魔導具と北方の記録に出てくる物資が同じ仕組みを使っているとは限らない。
(……それでも、道具を直すところを見られるなら、何か勉強になるかもしれないな)
《マスター。魔導具の修復であれば、旧設定には《万象再構築》という能力がございます》
(頼むから、明日の授業中にそういう名前を連呼しないでくれよ)
《ご安心ください。他者には聞こえません》
(俺には聞こえるんだよ!)
アルカディアの返答に肩を落とした俺を見て、エリオットが不思議そうに首を傾げた。
「シュウ、そんなに魔導具の授業が気になるの?」
「いや、楽しみなのは本当なんだけど……ちょっと昔のことを思い出してただけ」
「そうなんだ。明日は一緒に頑張ろうね」
俺は笑って頷き、今度こそノートを鞄へしまった。
どうやら明日も、普通の学院生活を送るだけで終わるとは限らないらしい。
◇
翌朝、寮の窓から差し込む光は昨日よりも明るかった。夜のうちに雲が流れたらしく、空には薄い白雲が少し残っているだけで、遠くに見える学院の尖塔もはっきりと輪郭を見せている。
朝食を済ませて教室へ向かう途中、俺たちは中庭でフィンと出会った。
彼はいつものように元気な足取りで歩いていたが、今日は片手に小さな工具箱のようなものを持っている。箱は木製で、角には金属の補強が施されていた。
「おはよう、シュウ! エリオット! 今日は午後の授業が楽しみだな!」
「おはよう、フィン。その箱、どうしたの?」
俺が尋ねると、フィンは嬉しそうに箱を持ち上げた。
「父さんから昔もらった工具なんだ。魔導具の授業があるって聞いたから、使えるかと思って持ってきたんだけどさ」
「授業で個人の工具を使っていいかは、先生に確認した方がいいんじゃないかな」
エリオットがそう言うと、フィンは少しだけ考え込んだ。
「確かに、勝手に使うのはまずいか。じゃあ、授業の前に聞いてみるよ」
俺たちはそのまま教室へ向かった。
廊下には登校してきた学生たちの声が響き、開け放たれた窓からは朝の風が流れ込んでくる。誰かが魔法理論の小テストについて話している一方で、別の学生たちは週末の予定を相談していた。
教室へ入ると、セシリアとミリアがすでに席についていた。
セシリアは教本を開いていたが、俺たちに気づくと顔を上げ、穏やかな笑みを浮かべた。ミリアは机の上へ筆記具を整えているところで、昨日の図書館で見せたノートとは別の、小さな手帳を用意していた。
「おはよう、みんな。フィン、その箱はどうしたの?」
セシリアが尋ねると、フィンは先ほど俺たちへ説明した内容をもう一度話した。
ただし、今回は工具箱を机へ置く際、周囲の教本へぶつけないよう慎重に動かしている。合同演習で装備の扱い方について考える機会があったからか、以前よりも細かなところへ注意を向けるようになった気がした。
「使っていいかは先生に確認するつもりなんだ。もし駄目だったら、寮へ持って帰るよ」
「それがいいと思うわ。魔導具の授業なら、安全のために使う道具が決まっているかもしれないもの」
セシリアの言葉に、フィンは素直に頷いた。
ミリアは工具箱を興味深そうに眺めていたが、やがて控えめに口を開いた。
「……その工具、普通の家具を直すときにも使えるものなの?」
「ああ、使えるぞ。小さな金具を締めたり、木の部品を調整したりする道具が入ってるんだ。父さんが家でいろいろ直すときに使ってて、俺も少し教えてもらったんだよ」
「そうなんだ。私、道具を直す作業って、あまり見たことがないから……今日の授業、ちょっと楽しみ」
ミリアはそう言って、小さく笑った。
俺はその表情を見て、昨日の調査を思い出した。彼女は古い記録の細かな違いを見つけるのが得意だが、実際の道具を観察するときにも、その注意深さが役に立つかもしれない。
「ミリアなら、部品の違いとかすぐ気づきそうだよね」
「そうかな……。でも、分からないことも多いと思うから、ちゃんと説明を聞かないと」
ミリアは少し照れながら答え、手帳の表紙へ目を落とした。
その様子を見て、セシリアが優しく微笑む。
「分からないことを確認するのは大切だものね。私も、魔導具の内部を見るのは初めてだから楽しみだわ」
そんな話をしているうちに、始業の鐘が鳴った。
俺たちはそれぞれの席へ戻り、午前の授業へ意識を切り替えた。
◇
午後の授業が行われたのは、普段の実技場とは違う、学院の実習棟だった。
実習棟は校舎の西側に建っており、石造りの外壁には大きな窓が等間隔で並んでいる。建物の中へ入ると、木材と金属、それに油の混ざったような匂いが漂ってきた。
案内された教室には、複数の作業台が置かれていた。
それぞれの作業台には小さな魔導具と工具が用意され、奥の棚には交換用と思われる部品が種類ごとに整理されている。壁際には大きな黒板があり、その横には魔導具の内部構造を描いた図が掲示されていた。
「おお……何か、本格的だな」
フィンが感心したように声を上げた。
俺も同じ気持ちだった。
前世で学校の技術室へ入ったときのことを少し思い出したが、ここに並んでいるのは魔力で動く道具ばかりだ。見慣れた作業台のようなものがある一方で、魔力を通すための細い導線や、淡く光る小さな結晶が置かれているのが、この世界らしい。
教室の前方には、セレナ・ヴァイス先生が立っていた。
先生は学生たちが席につくのを確認すると、作業台の上へ置かれた小さな魔導灯を持ち上げた。
「今日は、魔導具の基本構造と簡単な保守について学びます。普段、皆さんは魔導具を便利な道具として使っていますが、内部でどのように魔力が流れているのか、考えたことはありますか?」
先生の問いかけに、教室のあちこちから小さな声が上がった。
魔導灯は寮の廊下や教室でも使われている身近な道具だが、その内部まで詳しく知っている学生は、それほど多くないらしい。
「魔導具は、魔力を与えれば必ず正常に動くというものではありません。魔力を受け取る部分、流れを調整する部分、実際に働く部分があり、それぞれが適切な状態でなければ不具合が生じます」
セレナ先生は魔導灯の底にある蓋を開き、内部の部品を見せてくれた。
小さな結晶の周囲には金属製の輪があり、そこから細い導線が伸びている。さらに、その先には光を生み出すための術式が刻まれた薄い板が取り付けられていた。
「この魔導灯では、結晶が魔力を受け取り、導線を通じて術式へ届けます。ただし、すべての魔導具が同じ構造ではありません。用途や製造時期によって、部品の形も配置も変わります」
俺は説明を聞きながら、手元の教本へ目を落とした。
図書館で調べていた古い保持材のことが頭に浮かんだものの、今見ている魔導灯に使われている部品と、北方の記録に書かれていたものを同一視することはできない。
それでも、魔力を通す部品が傷んだ場合に、どのような不具合が起きるのかを実際に見られるのは興味深かった。
「本日の課題は、こちらで用意した不具合のある魔導灯を点検し、原因を見つけることです。原因が分かったら、必要な処置を考えてください。勝手に修理を始めず、まずは私か補助教員へ確認を取ること」
先生はそこで少し声を強めた。
「特に、魔力を強く流して無理やり点灯させようとするのは禁止です。正常に動かない道具へ過剰な魔力を与えると、内部の部品をさらに傷める場合があります」
その説明を聞いた瞬間、俺は心の中で少しだけ身構えた。
(……これ、俺が一番気をつけないといけないやつじゃないか?)
《ご安心ください、マスター。通常の魔力操作であれば、出力を十分に抑えることが可能です》
(分かってるけど、昔の俺が考えた能力って、何でも力任せに解決しそうな名前ばっかりなんだよな)
《旧設定には、あらゆる破損を一瞬で修復する《神域完全再生》が存在いたします》
(ほら、また出た! 絶対、修理の手順とか全部無視するやつだろ!)
《破損した世界そのものを修復できる設定でございますので、魔導灯程度であれば容易かと》
(世界を直せる能力を、教室の魔導灯に使うなよ!)
俺は心の中で頭を抱えた。
その間にもセレナ先生の説明は続いており、俺は慌てて意識を授業へ戻した。
今日の作業は二人一組で行うらしい。
俺はエリオットと組み、フィンはユリウス、セシリアはミリアと一緒になった。
各組へ配られた魔導灯は、外見こそ似ていたが、内部の不具合はそれぞれ異なっているという。
先生は最後に、作業台へ置かれた小さな札を示した。
「点検した結果は、この札へ記録してください。分からない場合は『不明』と書いて構いません。推測したことと、実際に確認したことを区別するのも課題の一つです」
その言葉を聞いて、俺は思わずミリアの方を見た。
彼女も同じことを考えたのか、こちらへ目を向け、小さく笑っていた。
◇
俺たちの作業台に置かれた魔導灯は、片手で持てるほどの大きさだった。
金属製の台座から細い支柱が伸び、その先に乳白色の覆いが取り付けられている。見た目には目立った破損がなく、机の上へ置かれているだけなら、普通に使えそうな道具だった。
「まずは外側を確認しようか。先生も、いきなり内部を触らないようにって言ってたし」
エリオットがそう言い、魔導灯を慎重に持ち上げた。
俺は頷いて、台座の周囲を観察する。
表面には細かな擦り傷があったが、大きな亀裂は見当たらない。支柱も曲がっておらず、覆いの部分にも欠けたところはなかった。
「外側は大丈夫そうだな。エリオット、そっちはどう?」
「うん。固定部分も緩んでいないみたい。ただ、底の蓋は先生の許可が出るまで開けない方がいいね」
俺たちは確認した内容を札へ書き込み、先生が近くへ来るのを待った。
セレナ先生は俺たちの記録を一通り確認すると、短く頷いた。
「よろしい。では、内部を確認してください。結晶へ直接触れないよう注意すること」
「はい」
俺たちは工具を使って底の蓋を外した。
内部には、先ほど先生が説明したものと同じような結晶と導線が収められている。結晶そのものは透明に近い青色をしており、周囲の金属輪には細かな模様が刻まれていた。
俺は顔を近づけすぎないよう注意しながら、部品の配置を確認した。
「……見た感じ、結晶は割れてないな」
「そうだね。でも、ここの導線、少し位置がずれているように見えない?」
エリオットが示したのは、結晶から伸びる細い金属線だった。
線の先端は術式板の接続部分へ向かっていたが、わずかに浮いているように見える。
俺は角度を変えて確認した。
「確かに、少し隙間があるように見える。でも、もともとこういう形なのかもしれないよな」
「うん。正常なものと比べないと分からないね」
俺たちは再び先生へ確認を求めた。
セレナ先生は魔導灯の内部を見たあと、隣の作業台から正常な見本を持ってきてくれた。
「比較してみなさい。ただし、見本の方は分解しないこと」
俺たちは二つの魔導灯を並べ、導線の位置を見比べた。
正常な見本では、金属線の先端が術式板の接続部分へしっかり触れている。一方、俺たちの魔導灯では、同じ部分にわずかな隙間があった。
「……やっぱり、ここが違うみたいだ」
俺が言うと、エリオットも頷いた。
「うん。接続が不十分になっているのかもしれないね。でも、それだけが原因かどうかは、まだ分からない」
俺たちはその違いを記録し、先生へ報告した。
セレナ先生は確認を終えると、少しだけ口元を緩めた。
「よく見つけました。今回の不具合は、導線の接触不良です。ただし、外見が似ているからといって、すべての魔導具で同じ位置へ部品を押し込めばよいわけではありません。修理では、その道具の構造を理解することが重要です」
先生は専用の工具を示し、接続部分を傷つけずに調整する方法を教えてくれた。
俺たちは説明を聞きながら、順番に作業を進めた。
金属線は思っていたよりも繊細で、少し力を入れただけでも形が変わってしまいそうだった。俺は指先の動きを慎重に調整し、エリオットに横から位置を確認してもらう。
「シュウ、もう少しだけ右かな。うん、その位置なら、見本と近いと思う」
「分かった。じゃあ、ここで止めるよ」
俺が工具を離すと、エリオットは接続部分をもう一度確認した。
その後、先生に最終確認をしてもらい、底の蓋を元へ戻した。
「では、少量の魔力を流して動作を確認してください」
先生の指示に従い、エリオットが魔導灯へ手をかざした。
彼の指先から穏やかな魔力が流れ、台座の内部へ吸い込まれていく。
次の瞬間、乳白色の覆いの内側に淡い光が灯った。
「……ついた!」
俺は思わず声を上げた。
魔導灯の光は決して強くなかったが、安定して周囲を照らしている。
エリオットも嬉しそうに笑い、しばらく光の様子を観察していた。
「よかった。ちゃんと直ったみたいだね」
「うん。思ってたより難しかったけど、面白かったな」
俺たちは顔を見合わせ、自然と笑った。
魔法を使って敵を倒すわけでも、派手な術式を発動するわけでもない。
ただ、動かなくなった小さな道具を、元の状態へ戻しただけだ。
それなのに、俺は不思議なくらい嬉しかった。
(……こういうのも、魔法の勉強なんだよな)
《そのとおりでございます、マスター。魔導具の構造を理解することは、魔力運用の知識を深めるうえでも有用です》
(珍しく普通に褒めてくれるんだな)
《なお、旧設定では、マスターが触れた魔導具はすべて自動的に最高位の神器へ進化いたします》
(やっぱり普通じゃなかった!)
俺は思わず心の中で叫んだ。
しかし、アルカディアは気にした様子もなく続けた。
《そのため、一般的な魔導灯を修理した場合でも、周辺一帯を永久に照らす《永劫光明神灯》へ変化する可能性がございます》
(それ、もう修理じゃなくて別物を作ってるだろ! しかも、こんな小さな道具で周辺一帯を照らしたら迷惑だって!)
《旧設定では、光量の調整も完全に可能でございます》
(便利な設定を後から追加するなよ!)
俺は額へ手を当てたくなったが、隣にはエリオットがいる。
何とか表情を保ちながら、魔導灯の光を見つめた。
今の俺にとっては、世界を照らす神器よりも、目の前の小さな灯りの方がずっと嬉しかった。
◇
少し離れた作業台では、フィンとユリウスが別の魔導灯を点検していた。
フィンは最初、外側に問題が見当たらないことを確認すると、すぐに内部を調べたくなったらしい。しかし、ユリウスが作業手順を確認するよう促したため、二人は一つずつ順番に点検を進めていた。
「なあ、ユリウス。ここの金具、少し緩んでないか?」
フィンが示した部分を、ユリウスは慎重に観察した。
「確かに、ほかの部分と比べると動きがある。ただ、それが正常な範囲なのかは分からない。先生に確認してから触ろう」
「そうだな。せっかく直そうとして、余計に壊したら意味ないもんな」
フィンは素直に頷き、手を止めた。
その様子を少し離れたところから見ていた俺は、思わず笑みを浮かべた。
以前のフィンなら、まず試してみようとする場面もあったかもしれない。
けれど、合同演習を経験した彼は、確認することの大切さを少しずつ身につけているようだった。
ユリウスもそんなフィンの変化に気づいているのか、落ち着いた声で作業を続けている。
一方、セシリアとミリアの作業台では、二人が魔導灯の内部をじっくり観察していた。
セシリアは魔力を扱う部分に注意を向け、ミリアは部品の位置や表面の状態を確認している。
「……セシリア、この部品だけ少し色が違うように見えない?」
ミリアが示したのは、結晶を固定する小さな金属片だった。
ほかの部分は銀色に近いのに対し、その金属片だけ、わずかにくすんだ色をしている。
セシリアは角度を変えて見比べたあと、慎重に頷いた。
「そうね。でも、もともと違う材質なのかもしれないわ。先生に確認してみましょう」
二人はセレナ先生を呼び、気づいたことを説明した。
先生は金属片を確認すると、少し感心したように頷いた。
「よく気づきましたね。これは表面の変色です。ただし、変色しているからといって、必ずしも交換が必要とは限りません。今回は接触部分の状態を確認することが重要です」
ミリアはその説明を聞き、手帳へ何かを書き留めた。
セシリアも真剣な表情で頷いている。
俺はその様子を見ながら、図書館での調査との共通点を感じていた。
見た目が違うからといって、すぐに原因だと決めつけない。
気になる部分があれば、ほかの情報と比べて確かめる。
それは古い帳簿を読むときにも、魔導具を点検するときにも必要な考え方なのだろう。
しばらくすると、フィンたちの作業台から嬉しそうな声が聞こえてきた。
「よし、ついたぞ!」
フィンが両手を上げかけたところで、ユリウスが静かに声をかけた。
「まだ動作確認の途中だよ。光が安定しているか、少し見てからにしよう」
「あっ、そうだった。危ない危ない」
フィンは慌てて手を下ろし、魔導灯へ視線を戻した。
その姿に、近くの学生たちから小さな笑い声が上がった。
しかし、フィン自身も楽しそうに笑っており、ユリウスも少しだけ口元を緩めている。
教室には工具の触れ合う音と、学生たちの話し声が穏やかに響いていた。
◇
授業の後半、セレナ先生は全員の作業が一段落したところで、教室の前方へ一つの木箱を運んできた。
箱の中には、先ほど使った魔導灯よりも古そうな部品がいくつか収められていた。表面に傷のある金属輪や、端の欠けた術式板、色の変わった小さな結晶などが、種類ごとに分けられている。
「最後に、皆さんへ一つ考えてもらいたいことがあります」
先生は箱の中から金属輪を取り出し、学生たちへ見せた。
「この部品は、以前使われていた魔導具から取り外されたものです。現在は教材として保管していますが、もし皆さんがこの部品を管理する立場だったら、どのような情報を記録しておくべきだと思いますか?」
教室の中で、学生たちが顔を見合わせた。
俺は思わず姿勢を正した。
まさか、今日の授業でこんな問いが出るとは思っていなかった。
(……取り外した部品の記録、か)
図書館で調べている返納の記録と、どこか似た話だった。
もちろん、目の前の部品と北方の古い物資が直接関係しているわけではない。
それでも、実際に取り外された部品を前にすると、帳簿へ何を残す必要があるのか、少し具体的に考えられる気がした。
最初に手を上げたのは、ユリウスだった。
「部品の名称と、取り外した魔導具の種類は必要だと思います。同じ形でも、用途が違う場合があるかもしれませんから」
「よい意見です。ほかには?」
先生の問いかけに、セシリアが続いた。
「取り外した理由も必要だと思います。壊れていたのか、別の部品へ交換するためだったのかによって、扱い方が変わるかもしれません」
「そのとおりです。理由が分からなければ、後から状態を判断することが難しくなります」
先生は黒板へ学生たちの意見を書き加えていった。
部品名、使用していた魔導具、取り外した理由、現在の状態。
俺はその内容を見ながら、昨日の帳簿にあった小さな印を思い出した。
もし古い記録にも、こうした情報を管理する仕組みがあったなら、数字や物資名だけでは分からないことが多いのも当然かもしれない。
そのとき、ミリアが静かに手を上げた。
「……取り外した日付と、確認した人の名前も必要でしょうか」
先生はミリアへ視線を向けた。
「理由を聞いてもよいですか?」
ミリアは少し緊張したように背筋を伸ばしたが、落ち着いて答えた。
「同じ部品が何度も交換されている場合、いつ取り外されたものなのか分からなくなるかもしれないからです。それに、あとから状態を確認したいとき、誰が点検したのか分かれば、記録を調べやすいと思います」
先生はその説明を聞き、満足そうに頷いた。
「非常によい考えです。特に、複数の担当者が同じ設備を管理する場合、日付や確認者の記録は重要になります」
ミリアは少し安心したように息を吐いた。
隣に座っていたセシリアが、小さく微笑んでいる。
俺も嬉しくなった。
ミリアは以前なら、思いついたことがあっても発言をためらっていたかもしれない。
しかし、今日は自分の考えを整理し、教室の前で説明することができた。
その変化が、何だか自分のことのように嬉しかった。
先生は黒板へさらに項目を書き加えたあと、学生たちを見渡した。
「皆さんが挙げた情報は、どれも実際の保守記録で重要になるものです。ただし、記録の形式は時代や組織によって異なります。古い記録を読むときには、現在の形式をそのまま当てはめないよう注意してください」
その言葉に、俺は思わず顔を上げた。
まるで、今の俺たちへ向けられた注意のように感じたからだ。
もちろん、先生が俺たちの図書館での調査を詳しく知っているわけではない。
それでも、今の自分にとって必要な言葉だった。
(……そうだよな。今の授業で習ったことを、そのまま昔の帳簿へ当てはめちゃ駄目なんだ)
《正しい判断でございます。制度や記録様式が異なれば、同じ語句でも扱いが変わる可能性がございます》
(うん。だから、ちゃんとその時代の資料を探さないとな)
俺は心の中で頷き、先生の説明を最後まで聞いた。
◇
授業が終わったあと、俺たちは実習棟の廊下で少し立ち話をしていた。
フィンは持参した工具箱を抱えながら、今日の作業について楽しそうに話している。
「いやあ、面白かったな! 魔導具って、もっと複雑で触っちゃいけないものだと思ってたけど、ちゃんと仕組みを理解すれば、自分たちでも簡単な点検はできるんだな」
「簡単な点検だけよ。何でも自分で直せると思って、勝手に分解したら駄目だからね」
セシリアが注意すると、フィンは笑いながら頷いた。
「分かってるって。今日も先生に確認してから作業しただろ?」
「そうね。そこはちゃんとできていたと思うわ」
セシリアが微笑むと、フィンは少し得意そうな顔をした。
ユリウスも隣で頷いている。
「最初に手順を確認してくれたから、作業は進めやすかったよ。工具を扱うときも、思っていたより慎重だったし」
「おっ、ユリウスに褒められると何か嬉しいな!」
フィンは笑い、工具箱を抱え直した。
俺はそんなやり取りを聞きながら、ミリアの方へ目を向けた。
「ミリア、さっきの発言、すごくよかったと思う。俺、日付とか確認した人の名前までは思いつかなかったよ」
ミリアは少し照れたように笑った。
「ありがとう。でも、昨日の帳簿のことを考えてたら、自然と思いついたの。誰が確認したのか分からない記録って、あとから読む人は困るかもしれないなって」
「確かにそうだね。今日の授業で、古い記録を読むときに気をつけることも増えた気がする」
エリオットがそう言うと、ミリアは嬉しそうに頷いた。
俺たちはそのまま廊下を歩き始めた。
実習棟の外へ出ると、午後の陽射しが中庭の石畳を照らしていた。遠くでは別の学年の学生たちが魔法の練習をしているらしく、ときおり小さな光が空へ上がっている。
その景色を眺めながら、俺は今日の授業で感じたことを思い返していた。
魔導具を直すためには、まず状態を確かめる必要がある。
見た目が変わっているからといって、そこが原因とは限らない。
修理したあとは、ちゃんと動くかどうかを確認しなければならない。
そして、その結果を後から分かる形で残すことも大切だ。
どれも、考えてみれば当たり前のことかもしれない。
けれど、実際に自分の手で作業してみると、その意味が少し違って感じられた。
(……昔の俺だったら、こういう地味な作業には興味を持たなかったかもしれないな)
《旧設定のマスターは、あらゆる魔導具を一瞬で創造できる存在でございましたので、保守作業を必要としておりませんでした》
(そうだろうな。昔の俺、面倒なことは全部能力で解決する設定にしてたんだろうし)
《そのとおりです。ただし、創造した魔導具の性能が高すぎるため、一般人には使用できないという設定も存在いたしました》
(……何でわざわざ使いにくくするんだよ)
《マスター以外には扱えない究極の神器であることを強調するためでございます》
(それ、便利な道具としては完全に失敗してるだろ!)
俺は心の中で呆れながら、歩く速度を少し落とした。
アルカディアの話は相変わらず恥ずかしいものばかりだが、こうして聞いていると、前世の俺が何を格好いいと思っていたのかがよく分かる。
誰にも使えない特別な力。
自分だけが扱える究極の道具。
誰よりも強く、誰よりも優れた存在。
それらに憧れていたこと自体は、今でも理解できなくはない。
ただ、今日の授業で感じた楽しさは、それとはまったく違うものだった。
自分一人では分からなかったことを、エリオットと一緒に考える。
先生へ確認しながら、少しずつ作業を進める。
そして、最後に魔導灯が光ったとき、二人で喜ぶ。
その時間が、俺にはとても楽しかった。
(……最強の能力があっても、こういう経験は別なんだよな)
《マスター。能力の有無と、経験によって得られる価値は必ずしも一致いたしません》
(うん。今日は何か、アルカディアもまともなこと言うな)
《私は常に合理的でございます》
(それはどうだろうな……)
俺は小さく笑い、前を歩く仲間たちの方へ目を向けた。
◇
その日の夕方、俺とエリオットは男子寮へ戻る前に、学院の中庭にある長椅子へ腰を下ろしていた。
フィンたちは先に別れ、ミリアとセシリアも女子寮へ向かっている。
中庭にはまだ何人かの学生が残っていたが、授業が終わったあとの穏やかな時間が流れており、遠くから聞こえる話し声もどこかのんびりとしていた。
俺は鞄からノートを取り出し、今日の授業で学んだことを整理していた。
隣ではエリオットが手帳を開き、魔導具の構造について簡単な図を描いている。
「シュウ、今日の授業って、図書館で調べていることにも少し役立ちそうだね」
エリオットがそう言うと、俺は頷いた。
「うん。特に、取り外した部品の記録について考えるところが参考になったよ。でも、先生が言ってたとおり、昔の記録へそのまま当てはめないようにしないとな」
「そうだね。僕たちが見ている帳簿は、今の授業で使った魔導灯とは時代も用途も違うかもしれないから」
エリオットはそう答え、手帳の端へ短い文章を書き加えた。
俺もノートへ、今日の授業で確認した内容を書き留める。
『魔導具の保守では、部品の状態、交換理由、点検結果などの記録が重要』
『ただし、古い帳簿の形式や用語が現在と同じとは限らない』
『余白の印については、引き続き比較資料を探す』
そこまで書いたところで、俺はペンを止めた。
昨日見つけた小さな印は、まだ何も語ってくれない。
しかし、今日の授業を受けたことで、当時の人たちがどんな情報を残そうとしていたのか、考える視点が少し増えた気がした。
「……エリオット、次に図書館へ行くとき、古い保守記録みたいなものも探してみない?」
俺がそう尋ねると、エリオットは少し考えたあと、穏やかに頷いた。
「いいと思う。ただ、古い帳簿の印と直接関係があるかどうかは分からないから、まずは同じ時代の記録があるか確認するところからだね」
「うん。それで十分だと思う」
俺たちは顔を見合わせ、自然と笑った。
今すぐ大きな謎が解けるわけではない。
それでも、こうして少しずつ調べていけば、いつか何かが分かるかもしれない。
俺はノートを閉じ、夕方の空へ目を向けた。
学院の尖塔の向こうでは、陽がゆっくりと傾いている。
今日も特別な事件は起きなかった。
ただ、授業を受けて、友人と一緒に道具を直し、少しだけ新しいことを知った。
そんな一日だった。
けれど、俺はこういう時間が嫌いではなかった。
むしろ、最近は少しずつ好きになっている気がする。
《マスター。旧設定においては、学院生活そのものが世界の命運を左右する壮大な試練でございました》
(……また始まったな)
《魔導具の保守授業であっても、封印された古代神器が覚醒し、世界の均衡が崩れる展開が想定されております》
(ただの授業で世界の均衡を崩すなよ! 先生も学生も困るだろ!)
《なお、その際にはマスターが真の力を解放し、全学生の前で圧倒的な実力を示す予定でございました》
(絶対に嫌だ! そんなことになったら、普通の学院生活ができなくなるだろ!)
俺は心の中で全力で拒否した。
しかし、アルカディアは少しも動じない。
《旧設定では、全学生がマスターへ忠誠を誓うことになります》
(だから、何で毎回みんな忠誠を誓うんだよ! 友達でいいだろ、友達で!)
《当時のマスターは、対等な友人関係よりも、絶対的な主従関係を好まれていたようでございます》
(……昔の俺、友達の作り方を根本的に間違えてたんじゃないか?)
俺は思わず深いため息をついた。
隣に座っていたエリオットが、不思議そうにこちらを見た。
「シュウ、どうかした? 何だか急に疲れた顔になったけど」
「ああ、いや……ちょっと昔の自分を思い出して、恥ずかしくなっただけ」
俺が苦笑すると、エリオットは少し首を傾げたあと、柔らかく笑った。
「そういうこと、あるよね。でも、昔の自分がいたから、今の自分がいるんだと思うよ」
その言葉に、俺は少しだけ驚いた。
エリオットは何気なく言ったのだろう。
けれど、俺には妙に心へ残る言葉だった。
前世の俺が書いた黒歴史ノート。
恥ずかしい設定を山ほど詰め込んだ、誰にも見せたくない過去の産物。
それが今では、最強級の魔導書として俺と一緒に存在している。
正直、困ることも多い。
というか、毎日のように困っている。
それでも、アルカディアがいなければ、今の俺が経験している出来事のいくつかは、まったく違うものになっていたのかもしれない。
(……まあ、昔の俺がいたから今の俺がいるっていうのは、確かにそうなんだよな)
俺は少しだけ笑い、エリオットへ頷いた。
「うん。そうかもしれないな」
「ふふっ。何だか、今日は少し難しいことを考えてるみたいだね」
「いや、そんな大したことじゃないよ。ただ、昔の自分って、今から見ると本当に変なこと考えてたんだなって」
「僕も子どものころは、魔法を使えれば何でもできると思ってたよ。でも、今日みたいに道具を直すだけでも、知らないことがたくさんあるんだって分かった」
エリオットはそう言って、手帳を閉じた。
俺はその横顔を見ながら、今日の魔導灯のことを思い出した。
小さな光が灯った瞬間、俺たちは二人で喜んだ。
その喜びは、どれほど強い魔法を使ったとしても、同じ形では得られなかったかもしれない。
俺はノートを鞄へしまい、長椅子から立ち上がった。
「そろそろ寮へ戻ろうか。夕食の時間も近いし」
「そうだね。今日は思ったより集中したから、お腹も空いてきたよ」
エリオットも立ち上がり、俺たちは並んで男子寮へ向かった。
中庭を抜ける風は少し冷たくなっていたが、空にはまだ夕方の明るさが残っている。
俺はその景色を眺めながら、明日もまた、何か新しいことを学べるのだろうと思った。
それが魔法のことなのか、古い記録のことなのか、それとも仲間たちの知らなかった一面なのかは分からない。
けれど、今の俺には、それを楽しみに思う余裕があった。
《マスター。なお、旧設定においては、学習という行為そのものが不要でございました》
(……せっかくいい気分だったのに、またそれかよ)
《マスターは生まれながらにして全知全能であり、あらゆる知識を完全に理解しておられました》
(じゃあ、何で学院へ通う設定にしたんだよ!)
《周囲の凡人たちへ、真の力の片鱗を示すためでございます》
(……昔の俺、学院を何だと思ってたんだ)
俺は心の中で大きくため息をついた。
どうやら、俺の黒歴史は今日も平常運転らしい。
けれど、そんなアルカディアの言葉を聞きながら歩く学院の帰り道も、今ではすっかり日常の一部になっていた。
そして俺は、誰にも聞こえない相棒の声へ、もう一度だけ小さく言い返した。
(……俺はちゃんと勉強するからな。昔の俺が何を考えてたとしても、今の俺は、ここで普通に学院生活を楽しみたいんだよ)
《承知いたしました、マスター。では、明日も引き続き、黒歴史の再確認をお手伝いいたします》
(そこは手伝わなくていいんだよ!)
俺の心の叫びとは裏腹に、アルカディアの声はどこまでも冷静だった。
隣ではエリオットが、今日直した魔導灯について楽しそうに話している。
俺はその話へ耳を傾けながら、夕暮れの学院をゆっくりと歩いていった。




