第85話 古い帳簿の余白には、俺たちの知らない仕事が残っていました
王立魔道学院の男子寮317号室で目を覚ましたとき、窓の外には薄い雲が広がっていた。雨が降りそうなほど暗くはないものの、昨日の夕焼けとは違い、朝の光はどこか柔らかく、机の上に置いたノートの表紙を淡く照らしている。
俺は寝台から身を起こし、隣の寝台で上半身を起こしているエリオットへ目を向けた。彼はすでに今日の授業予定を確認していたらしく、膝の上に置いた手帳を閉じると、こちらへ穏やかな笑みを向けてきた。
「おはよう、シュウ。昨日は遅くまでノートを見直していたみたいだけど、ちゃんと眠れた?」
「おはよう。うん、大丈夫だよ。結局、気になったところを少し書き足しただけで、すぐ寝たから」
「それならよかった。昨日の図書館では、思っていた以上にいろいろ分かったものね」
エリオットの言葉に、俺は自然と頷いた。
昨日、俺たちはミリアと一緒に図書館で『旧式物資管理手引』を調べた。そこには、未使用の物資だけでなく、破損した物資や交換によって取り外した部品を戻す場合にも、『返納』という言葉が使われている例が載っていた。
もちろん、それだけで北方の古い物資記録に書かれた『返納』も同じ意味だと決まったわけではない。
ただ、今まで考えていた可能性が、少なくとも古い物資管理の制度では実際に存在していたことになる。
(……一つ分かっただけで、次に調べたいことがこんなに増えるとは思わなかったな)
俺は机の上のノートへ目を向けた。
昨日の夜、寝る前に整理した頁には、いくつかの確認事項が並んでいる。古い帳簿で使われた用語の意味、記録が作られた時代、返納された物資の状態、そして数量以外の情報がどこに記されているか。
どれも、まだ答えは出ていない。
けれど、何を確認すればいいかが分かっているだけで、調査の進め方はずいぶん変わる。
《マスター。昨夜の整理は有意義であったと判断いたします》
(おはよう、アルカディア。珍しく朝からまともなこと言うな)
《私は常に適切な助言を行っております》
(……まあ、そういうことにしておくよ)
俺は心の中で苦笑し、寝台から立ち上がった。
しかし、アルカディアはそこで話を終わらせてくれなかった。
《なお、旧設定におけるマスターは、睡眠中にも世界のあらゆる情報を自動解析する能力を保有しておられました》
(……何で朝から黒歴史を持ち出すんだよ)
《能力名は《夢幻全知領域》。眠りながら万象の真理へ到達する、究極の知識獲得能力でございます》
(寝てる間まで設定盛ってたのか、昔の俺!)
《さらに、目覚めた際には解析結果が完全な記憶として定着するため、学習の必要はございません》
(それ、学院に通う意味がなくなるだろ!)
俺は思わず額へ手を当てた。
隣ではエリオットが制服を整えながら、少し不思議そうにこちらを見ている。
「シュウ、どうかした?」
「あっ、いや。ちょっと寝起きで変なこと考えてただけだから」
「そう? 疲れが残っているなら、朝食のあと少し休んでもいいと思うよ」
「大丈夫。むしろ、今日は結構元気だから」
俺が笑って答えると、エリオットも安心したように微笑んだ。
彼は俺が何を考えていたのか知らない。
そして、アルカディアの存在についても知らない。
それでも、こうして自然に気遣ってくれる。
俺はそのことを嬉しく感じながら、制服へ袖を通した。
◇
朝食を終えて一年三組の教室へ向かうと、すでに何人かの学生が席についていた。
窓際ではフィンがダンと話しており、少し離れた席ではセシリアが教本を開いている。ミリアはその隣でノートを確認していたが、俺たちに気づくと顔を上げ、控えめに手を振ってくれた。
「おはよう、シュウ君。エリオット君」
「おはよう、ミリア。昨日はありがとう。すごく助かったよ」
俺がそう言うと、ミリアは少し照れたように微笑んだ。
「ううん。私も楽しかったよ。帰ってから、昨日の資料で気になったところを少し整理してみたの」
「本当? どんなところ?」
俺が尋ねると、ミリアはノートを開き、昨日確認した記入例について説明してくれた。
彼女が気になったのは、返納記録に書かれている情報の配置だった。
ある例では、物資の状態が数量の近くに記されている。
別の例では、返納理由が備考欄のような場所に文章で書かれていた。
そして、交換した部品を戻す例では、取り外した理由が別の記録を参照する形になっていた。
「だから、北方の帳簿でも、同じ頁に全部の情報が書かれているとは限らないのかなって思ったの」
ミリアは少し慎重に言葉を選びながら続けた。
「もちろん、昨日の手引と同じ形式だったかどうかは分からないけど……もし別の記録を参照する仕組みがあったなら、帳簿の数字だけ見ても意味が分からないことがあるんじゃないかな」
俺は思わず頷いた。
「確かに。例えば、返納された数だけ書いてあっても、その理由が別の記録に残されてる可能性があるってことだよね」
「うん。そういうこと」
ミリアは少し安心したように微笑んだ。
エリオットも興味深そうにノートを覗き込んでいる。
「それなら、次に図書館へ行くときは、帳簿と一緒に使われていた記録がないか確認した方がよさそうだね」
「うん。私もそう思う」
ミリアは頷いた。
そのやり取りを聞いていたセシリアが、穏やかに声をかけてきた。
「昨日の調査、ずいぶん進んだみたいね」
「うん。大きな謎が解けたわけじゃないけど、調べるべきことが少し分かってきたんだ」
俺が答えると、セシリアは嬉しそうに微笑んだ。
「それならよかったわ。ミリアも昨日、帰ってから楽しそうにしていたもの」
「セシリア……!」
ミリアは少し慌てたように声を上げた。
その反応に、セシリアは柔らかく笑った。
「本当のことでしょう? いつもより嬉しそうにノートを見ていたから」
「……うん。楽しかったのは本当だけど」
ミリアは少し頬を赤くしながら、小さく頷いた。
俺はそんな二人のやり取りを見て、自然と笑みを浮かべた。
合同演習のあと、ミリアは少しずつ自分の考えを話してくれるようになっている。
もちろん、急に積極的な性格へ変わったわけではない。
けれど、彼女が自分の得意なことを見つけ、それを仲間と共有しようとしている姿は、見ていて嬉しかった。
「それにしても、古い帳簿ってそんなに難しいのか?」
近くで話を聞いていたフィンが、興味深そうに首を傾げた。
「数字が書いてあるなら、それを見れば分かるんじゃないのか?」
「数字そのものは分かるんだけど、その数字が何を意味しているかは別なんだよ」
俺が説明すると、フィンは少し考え込んだ。
「例えば、十個って書いてあっても、十個戻したのか、十個戻す予定だったのか分からないってことか?」
「そうそう。あと、使ってないものを戻したのか、壊れたものを回収したのかも違うし」
「なるほどなあ。そう考えると、数字だけじゃ足りないんだな」
フィンは納得したように頷いた。
その様子を見て、セシリアが少し感心したように微笑む。
「フィン、ちゃんと理解できているじゃない」
「そりゃ、説明してもらえば分かるって。俺だって、何でも力任せに考えてるわけじゃないからな」
フィンが少し得意そうに胸を張ると、俺たちは思わず笑った。
教室には朝の賑やかな空気が広がっていた。
やがて始業の鐘が鳴り、俺たちはそれぞれの席へ戻っていった。
◇
午前の授業が終わるころには、窓の外の雲も少し薄くなっていた。
俺は教本を閉じながら、今日の授業で扱った内容を頭の中で整理していた。
魔法を安定して使うためには、魔力の流れだけでなく、術式の構造や周囲の条件も考える必要がある。
昨日の魔法理論の授業と似た部分もあったが、今日は実際の魔法運用に近い内容が中心だった。
俺はその説明を聞きながら、古い保持材の研究録について考えていた。
(……魔導具の状態が変わるなら、同じ術式でも結果が違ってくることがあるんだよな)
《はい。魔力の伝導状態が変化すれば、出力や安定性へ影響する可能性がございます》
(そう考えると、古い保持材を交換した理由も気になるな)
《ただし、交換理由が魔力伝導の異常であったとは限りません》
(うん。そこは分かってる。単純に傷んだから交換した可能性だってあるし)
俺は心の中で頷いた。
アルカディアの言うとおり、何かを交換したという記録があっても、その理由までは分からない。
古くなったからかもしれない。
壊れたからかもしれない。
別の設備へ移す必要があったのかもしれない。
あるいは、まったく違う理由があった可能性もある。
俺はノートの余白へ、短く確認事項を書き加えた。
『交換理由を確認する』
それから、少しだけ考えた。
昨日の手引には、交換後の部品を返納する例があった。
もし、北方の古い帳簿にも同じような記録が残っているなら、返納された物資がどんな状態だったのかを知る手がかりになるかもしれない。
しかし、今のところ、それを確かめる資料は見つかっていない。
(……やっぱり、次は記録の形式をもう少し調べた方がよさそうだな)
俺はそう考えながら、ノートを閉じた。
◇
昼休み、俺たちはいつものように食堂へ向かった。
食堂には学生たちの話し声が響き、厨房からは温かい料理の香りが漂っている。
今日の昼食は、野菜をたっぷり使った煮込み料理と焼きたてのパン、それに果物を使った小さな菓子だった。
俺は料理を受け取り、エリオットと一緒に空いている席へ向かった。
少し遅れて、フィンとセシリア、ミリアもやってくる。
「おっ、今日の菓子、うまそうだな!」
フィンは皿の端に置かれた菓子を見て、嬉しそうに笑った。
「フィン、まだ食事を始めたばかりでしょう? 先に煮込み料理を食べた方がいいと思うわ」
セシリアが穏やかに注意すると、フィンは少しだけ肩を落とした。
「分かってるって。でも、楽しみなものは先に見ちゃうだろ?」
「それは分かるけれど、食べる順番まで急がなくてもいいでしょう」
そんな二人のやり取りを聞きながら、俺たちも食事を始めた。
温かい煮込み料理は香草の香りがよく、柔らかく煮込まれた野菜も食べやすい。
俺はパンを少しちぎり、料理と一緒に口へ運んだ。
「……うん、今日もおいしいな」
「そうだね。最近、食堂の料理が少し変わった気がするけど、季節の食材が増えたのかな」
エリオットがそう言うと、セシリアが頷いた。
「そうかもしれないわ。野菜の種類も少し変わってきたもの」
俺たちはしばらく料理の感想を話していたが、やがてミリアが昨日の調査について口を開いた。
「そういえば、昨日の手引にあった返納記録なんだけど……もう一つ、気になったことがあるの」
「うん。どんなこと?」
俺が尋ねると、ミリアは少し考えながら説明を始めた。
「記入例の中に、返納した理由を別の記録で確認するように書かれているものがあったでしょう? あれって、帳簿をつける人と、実際に物資を扱う人が別だった可能性もあるのかなって」
俺は少し驚いた。
確かに、そういうことは考えられる。
帳簿を管理する人が、すべての物資を自分で確認していたとは限らない。
現場で物資を扱う人がいて、その結果を別の担当者が記録していた可能性もある。
「なるほど。つまり、帳簿だけじゃなくて、現場の作業記録みたいなものがあったかもしれないってことか」
「うん。もちろん、実際にそうだったかどうかは分からないけど」
ミリアは少し慎重に頷いた。
エリオットも興味深そうに考え込んでいる。
「それなら、古い帳簿の余白に書かれている記号や番号も、何か別の記録を示している可能性があるかもしれないね」
俺はその言葉を聞き、思わず顔を上げた。
「……余白の記号?」
「うん。以前見た物資記録に、数量の横へ小さな記号が書かれていたところがあったでしょう? あれが何を意味しているのか、まだ確認してなかったと思うんだ」
俺は記憶を辿った。
確かに、古い帳簿の写しを見たとき、数量の近くに小さな記号が付いている箇所があった。
当時は文字がかすれているのかと思い、詳しく確認しなかった。
しかし、もしそれが意図的に書かれたものなら、何か意味があるのかもしれない。
(……そういえば、あったな。小さくて、よく分からなかったけど)
俺は少し考えたあと、エリオットへ頷いた。
「確かに、あれはまだ調べてなかった。次に図書館へ行ったら、もう一度確認してみようか」
「うん。今度は記号の位置も見てみたいね」
ミリアも静かに頷いた。
「もし同じ記号が別の場所にも出てくるなら、使われ方を比較できるかもしれない」
俺はその言葉に感心した。
ミリアは、ただ記録を読むだけではなく、書かれ方そのものへ目を向けている。
それは、俺が今まであまり意識していなかった視点だった。
「ミリア、やっぱり一緒に調べてもらってよかったよ。俺だけだったら、そこまで気づかなかったと思う」
俺がそう言うと、ミリアは少し照れたように微笑んだ。
「……ありがとう。でも、私もエリオット君が言ってくれなかったら、余白の記号までは思いつかなかったと思う」
エリオットは穏やかに笑った。
「こうして話していると、自分では気づかなかったことが見えてくるね」
「本当だな」
俺は頷いた。
その様子を見ていたフィンが、少し楽しそうに笑った。
「何か、三人ともすっかり研究者みたいだな」
「いやいや、まだそんな大したことしてないって」
俺が苦笑すると、フィンは首を振った。
「でもさ、古い帳簿の小さな記号まで調べようとしてるんだろ? 俺だったら、たぶん見落として終わりだぞ」
「フィンは、実際に現場へ行ったら気づくことが多そうだけどね」
セシリアがそう言うと、フィンは少し得意そうに胸を張った。
「そりゃ、現場なら任せてくれよ。足元もちゃんと見るようになったしな!」
その言葉に、俺たちは思わず笑った。
合同演習のときのことを思い出したのだろう。
フィンも少し照れくさそうに笑っている。
食堂の賑やかな空気の中で、俺たちはしばらく楽しい時間を過ごした。
◇
午後の授業が終わると、俺とエリオット、ミリアは再び図書館へ向かった。
今日は昨日よりも少し早い時間だったため、閲覧室にはまだ空いている席が多かった。
俺たちは受付へ向かい、マティアス・レンへ声をかけた。
「こんにちは。昨日はありがとうございました」
俺が礼を言うと、マティアスは穏やかに微笑んだ。
「こんにちは。昨日の資料は役に立ちましたか?」
「はい。今日は、以前見た古い物資記録の余白にあった記号を、もう一度確認したくて」
マティアスは少し考えたあと、頷いた。
「なるほど。以前閲覧された記録ですね。確認してみましょう」
彼は所蔵目録を開き、該当する資料を探し始めた。
俺たちは受付の前で待ちながら、今日確認したいことをもう一度整理する。
余白の記号が意図的に書かれたものなのか。
同じ記号が別の場所にも使われているのか。
そして、それが何か別の記録を参照するためのものなのか。
どれも、まだ分からない。
しかし、少なくとも確認する価値はあると思う。
しばらくすると、マティアスが資料を持って戻ってきた。
「こちらですね。以前閲覧されたものと同じ写しです」
「ありがとうございます」
俺たちは礼を言い、閲覧室の机へ移動した。
資料を開くと、見覚えのある文字と数字が並んでいる。
俺は以前確認した頁を探し、慎重にめくっていった。
やがて、問題の記録が見つかった。
そこには、物資の名称と数量、そして返納を示す言葉が書かれている。
その横には、確かに小さな記号があった。
「……これだ」
俺は思わず小さく呟いた。
エリオットとミリアも、俺が示した部分へ顔を寄せる。
記号は、文字の一部というより、欄の端へ後から書き加えられたように見えた。
ただし、写しであるため、実際に後から記されたものかどうかまでは分からない。
ミリアは少し考えながら、ノートを開いた。
「まず、この記号がほかにもあるか確認してみようか」
「うん。位置も一緒に見ていこう」
俺たちは頁を一つずつ確認し始めた。
最初の数頁には、同じような記号は見つからなかった。
しかし、少し先の頁で、エリオットが手を止めた。
「……あれ、ここにも似た記号があるよ」
俺とミリアは、彼が指さした部分へ目を向けた。
そこには、先ほどとよく似た小さな印が書かれていた。
ただし、完全に同じ形かどうかは、少し判断が難しい。
俺は二つの記号を見比べながら、慎重に考えた。
「似てるけど、同じかどうかはまだ分からないな」
「うん。写しの状態も違うし、線の一部がかすれているみたいだから」
エリオットは頷いた。
ミリアも二つの記号を見比べている。
しばらくして、彼女が小さく声を上げた。
「あの……位置は似ていると思う」
「位置?」
俺が尋ねると、ミリアは二つの記録を指さした。
「どちらも、数量のすぐ横じゃなくて、返納の理由が書かれている欄の端にあるの。もし単なる汚れなら、同じような場所に出てくるのは少し気になるかなって」
俺はその言葉を聞き、改めて頁を見比べた。
確かに、記号がある位置はよく似ている。
もちろん、それだけで意味のある印だと決めつけることはできない。
しかし、偶然の汚れだと考えるには、少し気になる共通点だった。
「……なるほど。記号の形だけじゃなくて、書かれている場所も確認する必要があるんだな」
俺が言うと、ミリアは小さく頷いた。
「うん。もし同じ役割の印なら、似た位置に書かれている可能性があると思う」
エリオットも興味深そうに考え込んだ。
「それなら、ほかの頁でも同じ欄を中心に見てみようか」
俺たちは頷き、調査を続けた。
◇
それからしばらく、俺たちは古い帳簿の頁を丁寧に確認していった。
同じような印が見つかることもあれば、何も書かれていない頁もある。
記号の形が似ていても、完全に一致しているとは言い切れないものもあった。
俺たちはそのたびに、頁の番号と位置、周囲に書かれている内容をノートへ記録した。
やがて、ミリアが少しだけ考え込むように手を止めた。
「……これ、返納された物資の種類と関係があるのかな」
俺は彼女の方へ目を向けた。
「どうしてそう思ったの?」
「まだ分からないんだけど、今見つけた記号の近くには、交換した部品みたいなものが書かれていることが多い気がするの」
ミリアはそう言って、これまで確認した頁を示した。
確かに、いくつかの記録には、部品や素材と思われる名称が並んでいる。
ただし、それらが実際に交換されたものかどうかは、記録の内容だけでは判断できない。
俺は少し考え、慎重に答えた。
「可能性はあると思う。でも、まだ数が少ないから、偶然かもしれないね」
「うん。だから、もう少し確認してみたい」
ミリアは静かに頷いた。
俺はその姿を見て、少しだけ感心した。
彼女は、自分の考えを話すようになった一方で、確かでないことを断定しない慎重さも失っていない。
それは、調査を進めるうえでとても大切なことだと思う。
エリオットも同じように感じたらしく、穏やかに微笑んだ。
「じゃあ、今日は見つかった記号を整理するところまでにしようか。意味を考えるのは、もう少し資料を確認してからでも遅くないと思う」
「うん。それがいいと思う」
俺も頷いた。
俺たちは残りの時間を使い、見つかった記号の位置と周囲の記述を整理した。
その結果、いくつかの頁で似た印が確認できたものの、意味を特定できるほどの情報はまだ揃っていないことが分かった。
しかし、以前は見落としていた部分へ目を向けられたこと自体が、大きな収穫だった。
俺はノートへ、今日の結果を書き留めた。
『古い物資記録の複数箇所に、似た形の小さな印を確認』
『印は返納理由の欄の端に見られる場合がある』
『同一の記号かどうか、意味があるものかどうかは未確認』
『周囲の記述との関係は、今後の比較が必要』
書き終えたところで、俺は小さく息を吐いた。
(……今日は、これくらいで十分かな)
《マスター。現時点で得られた情報量を考慮すれば、適切な区切りと判断できます》
(うん。無理に結論を出しても仕方ないしな)
《なお、旧設定におけるマスターは、古代文字の解読に際して一切の時間を必要としません》
(……またそれかよ)
《視認した瞬間に、文字の意味だけでなく、記した人物の感情や意図まで完全に把握する設定でございます》
(それ、もう文字を読む能力じゃなくて、心を読む能力まで混ざってるだろ!)
《旧設定では、両者の区別は重要視されておりませんでした》
(昔の俺、便利そうな能力を全部一つに詰め込んでたんだな……)
俺は心の中でため息をついた。
しかし、その直後に、少しだけ笑ってしまった。
確かに、昔の俺は何でもできる主人公に憧れていた。
けれど、今の俺は、こうして友人たちと一緒に一つずつ確かめる時間が好きだった。
分からないことがあるから、考える。
考えても分からないから、調べる。
そして、誰かが気づいたことを共有することで、少しずつ見えるものが増えていく。
それは、昔の俺が考えた最強の力とは違うものだった。
◇
図書館を出るころには、夕方の光が窓を赤く染め始めていた。
俺たちは資料を受付へ返し、マティアスへ礼を伝えた。
彼は俺たちのノートを見て、少し興味深そうに微笑んだ。
「今日は、何か新しいことが分かりましたか?」
「はい。以前見落としていた小さな印が、複数の頁にあることを確認できました」
俺が答えると、マティアスは頷いた。
「なるほど。古い帳簿では、そうした小さな印が管理上の意味を持つ場合もあります。ただし、写しの状態によっては、元の記録にあったものかどうか判断が難しいこともありますね」
「はい。なので、まだ意味は決めつけないようにしています」
「それがよいと思います。もし同じ時代の別の記録が見つかれば、比較することで分かることもあるでしょう」
俺たちは礼を言い、図書館を後にした。
外へ出ると、夕方の風が少し冷たく感じられた。
学院の中庭には長い影が伸び、遠くの訓練場からは、まだ練習を続けている学生たちの声が聞こえてくる。
俺とエリオット、ミリアは並んで歩きながら、今日の調査について話していた。
「今日は、思っていたより細かいところを調べたね」
エリオットが言うと、ミリアは少し照れたように笑った。
「うん。でも、ああいう小さな違いを見つけるの、結構好きかもしれない」
「ミリアらしいね。俺は最初、全然気づかなかったから」
俺がそう言うと、ミリアは首を横に振った。
「私も、エリオット君が余白の記号を思い出してくれなかったら、気づかなかったと思うよ」
エリオットは穏やかに微笑んだ。
「それなら、三人で調べた意味があったね」
俺たちは顔を見合わせ、自然と笑った。
しばらく歩いたところで、ミリアが少しだけ考え込むように口を開いた。
「……あの、次は古い帳簿の記号について、もう少し調べてみたいな」
「うん。俺もそう思う」
俺が答えると、エリオットも頷いた。
「ただ、今日は結構集中していたから、明日は少し休んでもいいかもしれないね。急いで結論を出す必要はないし」
「そうだね。授業もあるし、無理しないようにしよう」
俺はそう言って笑った。
ミリアも安心したように頷いた。
やがて、男子寮と女子寮へ向かう道の分かれ目に到着した。
ミリアは俺たちへ手を振り、女子寮の方へ歩いていく。
俺とエリオットも手を振り返し、男子寮へ向かった。
歩きながら、俺は今日の出来事を思い返していた。
古い帳簿の余白に残された小さな印。
それが何を意味しているのかは、まだ分からない。
しかし、誰かが何らかの理由で書き残したものかもしれない。
もしそうなら、その小さな印にも、当時の人たちの仕事や判断が残されている可能性がある。
(……何百年も前の誰かが書いた記録を、今の俺たちが調べてるんだよな)
そう考えると、少し不思議な気持ちになった。
前世では、古い資料を読むことにここまで興味を持ったことはなかった。
けれど、今は違う。
魔法が存在する世界で、昔の人たちがどんなことを考え、どんな仕事をしていたのか。
それを知ることが、少しずつ楽しくなっている。
《マスター。旧設定においては、過去の記録を調査する必要はございませんでした》
(……はいはい。全部分かる能力があったんだろ?)
《そのとおりです。さらに、必要であれば過去の出来事を直接観測する能力も保有しておられました》
(……ちょっと待て。今度は過去まで見られるのかよ)
《能力名は《時空追憶》。世界に刻まれた記憶を読み取り、任意の過去を再現する究極の観測能力でございます》
(……本当に何でもありだな、昔の俺)
《なお、観測した過去へ干渉することも可能という記述がございます》
(それ、観測じゃなくて時間改変じゃねえか!)
俺は思わず心の中で叫んだ。
隣を歩くエリオットが、不思議そうにこちらを見た。
「シュウ、また何か思い出した?」
「……うん。昔の自分が、想像以上に無茶苦茶だったことを思い出してた」
俺が苦笑すると、エリオットは少し首を傾げたあと、穏やかに笑った。
「でも、昔の自分が考えたことって、今の自分から見ると不思議に感じることもあるよね」
「そうだな。特に、何でもできると思ってたころの自分とか」
「僕も、子どものころは、強い魔法を使えれば何でも解決できると思ってたよ。でも、学院へ来てからは、そうじゃないことも多いんだって分かった」
俺はその言葉を聞き、少しだけ驚いた。
エリオットは穏やかな性格だが、彼もまた、魔法に憧れていた子どもだったのだ。
そして、今は俺と同じように、学びながら考え方を変えている。
「……何か、俺たちって似てるところあるのかもな」
俺がそう言うと、エリオットは嬉しそうに微笑んだ。
「そうかもしれないね」
俺たちはそのまま男子寮へ向かって歩き続けた。
夕方の学院は、今日も穏やかだった。
古い帳簿の余白に残された小さな印は、まだ何も語ってくれない。
けれど、そこに何か意味があるのなら、いつか確かめられる日が来るかもしれない。
俺はそう思いながら、少しだけ笑った。
そして、その直後にアルカディアが静かに告げた。
《マスター。なお、旧設定における《時空追憶》には、過去の自分へ助言を送る機能もございます》
(……絶対に使いたくない!)
《なぜでしょうか。過去のマスターへ、現在の知識を伝えることが可能です》
(そんなことしたら、黒歴史ノートの設定がさらに盛られる未来しか見えないんだよ!)
《非常に合理的な懸念でございます》
俺は心の中で大きくため息をついた。
どうやら、古い帳簿の謎よりも、俺自身の黒歴史の方が、よほど底知れないらしい。




