第84話 古い帳簿を調べたいだけなのに、俺の黒歴史まで分類されそうです
王立魔道学院の男子寮317号室へ戻ると、窓の向こうでは夕日が校舎の屋根を赤く染め始めていた。廊下には授業を終えた学生たちの足音が響いていたが、部屋の扉を閉めると、その賑やかさも少し遠くなる。
俺は鞄を机の脇へ置き、昨日の図書館でまとめたノートを取り出した。隣ではエリオットが制服の上着を整え、今日の魔法理論の授業で使った教本を机へ並べている。
「シュウ、先に昨日の記録を整理するんだよね? 僕も一緒に確認していいかな」
「もちろん。むしろ、エリオットがいてくれた方が助かるよ。俺一人だと、気になったところを全部調べようとして、何から手をつければいいのか分からなくなりそうだし」
俺が苦笑すると、エリオットは少し楽しそうに笑った。
「それなら、今日は新しい資料を探す前に、分かっていることと、まだ分からないことを整理してみようか。昨日も話したけど、古い帳簿に書かれた『返納』の意味を確認するなら、まず何を確かめたいのか決めておいた方がよさそうだから」
「うん。俺もそう思う。昨日の研究録を読んで、考えられることが増えたのはいいんだけど、全部を同じくらい確かな情報として扱うのは危ないよな」
俺は椅子へ腰を下ろし、ノートの頁を開いた。
そこには、北方に関する古い記録を調べ始めてから書き留めた内容が並んでいる。物資の名称、数量、記録に使われていた言葉、そして、それらを確認した資料の名前。
最初のころは、気になったことを見つけるたびに書き足していた。
しかし、調査を続けるうちに、資料そのものに書かれている事実と、俺たちがそこから考えた可能性が、少しずつ混ざり始めていた。
(……こうして見返すと、結構危ない書き方してるな)
例えば、ある記録に登場した素材の名称が、別の資料に書かれていたものと似ている。
それだけなら、分かっているのは名前が似ているという事実だけだ。
しかし、そこから同じ素材かもしれないと考え、さらに用途まで想像してしまうと、いつの間にか推測が確定した情報のように見えてくる。
前世でも、仕事で資料をまとめるときには似たようなことがあった。
数字や記録そのものは正しくても、それをどう解釈したかによって結論が変わることがある。
俺はペンを取り、ノートの新しい頁へ見出しを書いた。
『確認済みの記述』
『考えられる可能性』
『未確認の事項』
その三つを並べたところで、頭の中に聞き慣れた声が響いた。
《マスター。情報を確度によって分類する方法は、現在の調査に適していると考えられます》
(だろ? 昨日の授業でも、原因を決めつけないことが大事だって習ったしな)
《はい。なお、旧設定におけるマスターは、あらゆる情報の真偽を一目で見抜く能力をお持ちでした》
(……今、せっかく真面目に整理しようとしてるんだけど)
《能力名は《万象真理眼》。視界に収めた対象の本質、過去、未来、隠された秘密をすべて把握する究極の魔眼でございます》
(また究極って言ってるよ! というか、未来まで見えるなら調査する必要ないじゃん!)
《当時のマスターは、謎を解く過程よりも、誰も知らない真実を告げて周囲を驚愕させる展開を好まれていたようです》
(……それ、今考えるとものすごく面倒くさい主人公だな)
俺は思わず額へ手を当てた。
その様子に気づいたエリオットが、少し心配そうにこちらを見た。
「シュウ、どうかした? 疲れてるなら、無理しなくてもいいよ」
「あっ、大丈夫。ちょっと昔のことを思い出しただけだから」
「昔のこと?」
「……子どものころ、自分で考えた魔法の設定とか」
エリオットは一瞬だけ目を丸くしたあと、昨日の図書館で交わした会話を思い出したらしい。
「ああ、昨日話してたことだね。そういえば、僕も昔のノートを見つけたら、ちょっと恥ずかしくなるかもしれないな」
「エリオットにも、そういうノートがあるの?」
「うん。家に置いてあると思う。子どものころ、風魔法を使う騎士の物語を考えていたことがあってね。途中まで書いたんだけど、結局最後まで完成しなかったんだ」
俺は思わず彼の顔を見た。
エリオットが物語を書いていたというのは、少し意外だった。
普段の彼は穏やかで、何事にも丁寧に取り組む印象が強い。
しかし、考えてみれば、魔法が存在する世界で育った子どもが、魔法を使う英雄に憧れるのは自然なことなのかもしれない。
「へえ、どんな話だったの?」
「そんなに立派なものじゃないよ。風魔法が得意な騎士が、仲間と一緒に旅をする話だったと思う。強い敵が出てきても、最後はみんなで力を合わせて勝つんだ」
「……いいじゃん、それ。普通に読んでみたいけど」
俺がそう言うと、エリオットは少し照れたように笑った。
「今読むと、きっとおかしなところがたくさんあると思うよ。でも、あのころは自分で考えるのが楽しかったんだ」
「分かる。すごく分かるよ」
俺は深く頷いた。
もっとも、俺の場合は仲間と協力する物語というより、主人公が一人で全部解決する設定ばかり考えていたのだが。
(……エリオットの方が、昔からずっとまともじゃないか?)
《比較対象がマスターの旧設定であるなら、その評価は妥当かと》
(そこは少しくらい否定してくれよ!)
アルカディアの容赦ない返答に、俺は心の中で肩を落とした。
しかし、今は黒歴史について考えている場合ではない。
俺は気を取り直し、机の上のノートへ視線を戻した。
「とりあえず、こっちを先に整理しようか。昔の魔法の話を始めたら、たぶん夕食までに終わらなくなる」
「そうだね。僕も少し興味はあるけど、今日は調査の方を進めよう」
エリオットは穏やかに笑い、自分のノートを開いた。
俺たちは机を少し寄せ、これまで確認した内容を一つずつ見直し始めた。
◇
最初に確認したのは、古い物資記録に登場する『返納』という言葉だった。
これまで俺たちは、その言葉を、使用しなかった物資を元の保管場所へ戻すことだと考えていた。
しかし、昨日読んだ『北部保持材研究録』には、交換後の古い保持材を回収し、別の場所で管理する例が記されていた。
もし、そうした使用済み素材の回収にも『返納』という言葉が使われていたなら、古い帳簿の読み方は変わってくる。
「まず、研究録そのものに『返納』って言葉が使われていたかどうか、確認したいな」
俺がそう言うと、エリオットは頷いた。
「うん。昨日の資料には交換後の素材を回収する話があったけど、帳簿と同じ言葉を使っていたかどうかは、まだ確かめてないからね」
「そうなんだよ。似たような作業だからって、同じ用語を使ってたとは限らないし」
俺はノートへ『研究録の原文表現を再確認』と書き加えた。
続いて、エリオットが別の項目を指さした。
「それと、帳簿に書かれていた返納先も気になるかな。もし記録の前後に保管場所や担当部署の名前が残っていたら、少し意味を絞れるかもしれない」
「なるほど。どこへ戻したのかが分かれば、何のための返納だったのか考えやすくなるか」
「うん。ただ、場所が分かっただけで用途まで決められるわけじゃないから、そこは気をつけたいけどね」
俺は頷き、次の確認事項として書き留めた。
こうして一つずつ整理していくと、調べるべきことが少しずつ具体的になっていく。
最初は漠然と、北方の古い記録についてもっと知りたいと思っていただけだった。
しかし、今は、どの資料のどの部分を確かめればいいのか、以前よりも明確になってきている。
俺は少し考え、もう一つの疑問を口にした。
「そういえば、帳簿の書き方自体も気になるな。例えば、返納された数量が書いてあったとして、それが実際に戻ってきた数なのか、予定された数なのかって、記録の形式によって違うこともあるんじゃないか?」
エリオットはその言葉を聞き、少し目を見開いた。
「確かに。もし予定と実績が別々に記録されていたなら、どちらを見ているのか確認する必要があるね」
「うん。前世……じゃなくて、昔から、そういう記録って書き方が大事だと思ってたんだ」
危ない。
思わず前世という言葉が口から出かけた。
俺は慌てて言い直したが、エリオットは特に不思議そうな様子を見せなかった。
彼は俺の言葉をそのまま受け取り、真面目に考え込んでいる。
「そうだね。古い帳簿は、今と同じ形式とは限らないだろうし。記録をつけた人たちにとっては当たり前のことでも、僕たちには分からない部分があるかもしれない」
「そうなんだよな。しかも、古い記録ほど説明が省略されてることもありそうだし」
俺はノートへ新しい見出しを書いた。
『帳簿の形式と用語』
その下へ、返納、受領、交換、保管といった言葉を並べていく。
ただし、今の段階で、それぞれの意味を勝手に決めることはしなかった。
分かっていないことは、分かっていないまま残しておく。
昨日の魔法理論の授業で学んだ考え方は、こうした調査にも役立ちそうだった。
「……何か、こうして整理してると、ちょっと楽しくなってくるな」
俺が呟くと、エリオットは嬉しそうに微笑んだ。
「僕もだよ。最初は難しそうに感じたけど、何を確認すればいいか考えていると、少しずつ進んでいる気がする」
「うん。答えが見つかったわけじゃないけど、何も分からない状態とは違うよな」
俺たちはしばらく、互いのノートを見比べながら整理を続けた。
窓の外では夕日がさらに低くなり、部屋の壁へ差し込む光も少しずつ赤みを増している。
机の上には二冊のノートが開かれ、余白には新しい確認事項が増えていった。
しかし、不思議と焦りはなかった。
むしろ、調べる順番が見えてきたことで、気持ちが落ち着いていくようだった。
◇
そのころ、女子寮の一室では、ミリア・ハーゼンが自分の机へ向かっていた。
彼女の前には、今日の魔法理論の授業で使ったノートと、合同演習の際に書き留めた記録が置かれている。
ミリアは授業中に教師から指名されたときのことを思い出し、少しだけ頬を緩めた。
(……ちゃんと説明できて、よかった)
人前で自分の考えを話すことは、今でも得意とは言えない。
間違っていたらどうしよう。
上手く伝わらなかったらどうしよう。
そう考えると、言葉が出てこなくなることもある。
けれど、今日の授業では、自分が考えたことを最後まで説明できた。
しかも、教師はその意見を認めてくれた。
授業後には、シュウやセシリア、フィンからも声をかけてもらった。
ミリアはそのことを思い出し、少し照れくさそうに微笑んだ。
(……前だったら、きっと自分から図書館の調査に加わりたいなんて言えなかったと思う)
合同演習で第四班の仲間たちと行動したことは、彼女にとって大きな経験になっていた。
自分の記録が役に立ったこと。
気づいたことを伝えることで、班の判断を助けられたこと。
そして、誰かが困っているときに、自分にもできることがあると知ったこと。
それらは、ミリアの中に小さな自信として残っている。
彼女は合同演習のノートを閉じ、別の頁を開いた。
そこには、以前から気になっていた古い記録について、断片的な情報が書き留められている。
家に残されていた古い記録を見たことがあるため、ミリアは昔の帳簿や記録の形式に少し興味があった。
ただし、それらがシュウたちの調べている北方の記録と直接関係しているとは思っていない。
今のところ、共通点があるとすれば、どちらも古い資料だということくらいだ。
(……でも、古い記録の読み方なら、少しは役に立てるかもしれない)
ミリアはペンを取り、今日の授業で考えたことを整理し始めた。
以前の状態と現在の状態を比較すること。
記録が残っているなら、変化がいつから起きたのか確認すること。
そして、分からないことを無理に決めつけないこと。
その三つを書き終えると、彼女は少しだけ考えた。
シュウは、今日の授業で古い研究録の話をしていた。
彼が資料を調べるとき、何かを急いで証明しようとしているようには見えなかった。
むしろ、気になることを見つけるたびに、その意味を確かめようとしているように感じられた。
(……シュウ君って、魔法が上手なだけじゃなくて、知らないことを知ろうとするのが好きなんだね)
ミリアは小さく笑った。
自分とは違うところもあるが、似ているところもある。
彼女もまた、記録を読んで、そこに残された意味を考えることが嫌いではなかった。
だからこそ、次に図書館へ行くときは、ただ一緒についていくだけではなく、自分でも何か確認できるように準備しておきたい。
ミリアはノートの端へ、短い言葉を書き加えた。
『古い帳簿の用語を調べる』
それから、少し迷って別の一文も書いた。
『分からないことは、質問する』
書き終えた文字を見つめ、ミリアは静かに息を吐いた。
以前の彼女なら、質問することさえ迷っていたかもしれない。
しかし、今は少し違う。
自分が分からないことを認めるのは、恥ずかしいことではない。
そして、誰かと一緒に考えることは、思っていたよりも楽しい。
彼女はノートを閉じ、明日の授業の準備を始めた。
◇
一方、男子寮317号室では、俺たちの整理作業もひとまず区切りを迎えていた。
机の上には、今日確認した内容をまとめた新しい頁が開かれている。
俺はそれを読み返しながら、少しだけ満足した気分になっていた。
「よし。これなら、次に図書館へ行ったときに何を調べればいいか分かりやすいな」
「うん。まずは、古い帳簿で使われていた言葉の意味を確認できる資料があるかどうか、司書の人に聞いてみよう」
エリオットはそう言って、自分のノートを閉じた。
俺も頷き、確認事項を最後にもう一度見直す。
古い帳簿の用語。
返納という言葉の意味。
研究録に書かれた回収作業の表現。
そして、物資記録の形式。
どれも、すぐに答えが出るとは限らない。
しかし、今の俺たちにできることは、こうして一つずつ確認していくことだろう。
「そういえば、ミリアも次に図書館へ行くときは一緒に調べたいって言ってたよね」
エリオットが思い出したように言った。
「うん。今日の昼休みに話したんだ。古い記録の読み方に興味があるみたいでさ」
「それなら、明日あたり声をかけてみようか。僕たちだけだと見落とすこともあるだろうし、ミリアが一緒に見てくれたら助かると思う」
「そうだね。セシリアやフィンにも、必要なことがあれば相談できるし」
俺は自然と笑った。
以前なら、何か分からないことがあると、自分で全部調べなければならないような気がしていた。
しかし、今はそう思わない。
エリオットは慎重に情報を整理してくれる。
ミリアは細かな記録や変化に気づくのが得意だ。
セシリアは相手の話を丁寧に聞き、落ち着いて考えてくれる。
フィンは行動力があり、実際に試すことで新しいことを見つけるのが上手い。
それぞれの得意なことは違う。
だからこそ、一緒に考える意味があるのだと思う。
(……昔の俺が考えた最強主人公には、こういう発想がなかったんだろうな)
《マスター。旧設定における主人公は、仲間を必要としない孤高の存在でございました》
(知ってる。何回も聞いたよ)
《しかし、現在のマスターは、仲間との協力を積極的に選択されています》
(うん。そっちの方が楽しいからな)
俺は心の中でそう答えた。
アルカディアは少しだけ沈黙したあと、いつもの落ち着いた声で続けた。
《それは、旧設定には存在しなかった価値観です》
(……そうかもしれないな)
俺は小さく笑った。
前世の俺が考えた最強主人公は、誰よりも強く、誰よりも賢く、誰にも頼らない存在だった。
けれど、今の俺は、そんな主人公になりたいとは思わない。
知らないことがあれば調べればいい。
分からないことがあれば誰かに聞けばいい。
困ったときには助け合えばいい。
それができる今の生活は、昔の俺が想像していたものより、ずっと居心地がよかった。
そんなことを考えていると、エリオットが窓の外へ目を向けた。
「そろそろ夕食の時間だね。今日はこのくらいにしておこうか」
「うん。ちょうどいいところまで整理できたしね」
俺たちはノートを閉じ、机の上を片づけた。
部屋の外からは、食堂へ向かう学生たちの声が聞こえ始めている。
俺は椅子から立ち上がり、軽く肩を回した。
長時間座っていたせいか、背中が少し凝っていた。
「それにしても、調べものって結構疲れるな」
「そうだね。でも、今日はずいぶん整理できたと思うよ」
エリオットはそう言って微笑んだ。
俺も頷き、彼と一緒に部屋を出た。
◇
翌日の放課後、俺たちは再び図書館へ向かうことにした。
授業が終わったあと、俺とエリオットは一年三組の教室でミリアへ声をかけた。
「ミリア、今日の放課後、図書館へ行こうと思ってるんだけど、一緒にどう?」
俺が尋ねると、ミリアは少し嬉しそうに顔を上げた。
「うん。行きたい。昨日、少しだけ調べたいことをまとめておいたの」
「本当? それなら、ちょうどよかった」
俺が笑うと、ミリアも控えめに微笑んだ。
近くにいたセシリアが、その様子を見て声をかけてきた。
「図書館へ行くのね。私も少し気になるけれど、今日は別の用事があるから、また今度でもいいかしら」
「もちろん。無理に予定を合わせなくても大丈夫だよ」
俺が答えると、セシリアは安心したように頷いた。
「ありがとう。何か私にも分かりそうなことがあったら、教えてね」
「うん。そのときは頼りにするよ」
フィンも会話を聞いていたらしく、机から顔を上げた。
「おっ、また古い資料を調べるのか? 俺も興味はあるけど、今日は訓練場で少し練習してくるつもりなんだよな」
「フィンは実技の方が好きだもんね」
エリオットが笑うと、フィンは胸を張った。
「そりゃそうだろ! でも、今日の理論の話も少しは覚えてるぞ。魔力を強くするだけじゃ駄目なんだよな」
「うん。ちゃんと覚えてるじゃない」
セシリアが少し感心したように言うと、フィンは嬉しそうに笑った。
俺たちはそんなやり取りを交わしたあと、それぞれの予定へ向かうことにした。
教室を出ると、廊下には放課後の賑やかな空気が広がっていた。
俺とエリオット、そしてミリアは並んで図書館へ向かう。
窓から差し込む午後の光は明るく、石畳の中庭には学生たちの影が伸びている。
ミリアは歩きながら、小さなノートを取り出した。
「昨日、少し考えてみたんだけど……古い帳簿を調べるなら、記録が作られた時代の用語も確認した方がいいと思うの」
「うん。俺たちも昨日、同じようなことを話してたんだ」
俺が答えると、ミリアは少し驚いたように顔を上げた。
「そうなの?」
「うん。特に『返納』って言葉が気になっててさ。今の感覚で意味を決めつけるのは危ないかもしれないと思ったんだ」
ミリアは静かに頷いた。
「私もそう思う。昔の記録って、同じ言葉でも使われ方が違うことがあるみたいだから」
エリオットも会話へ加わった。
「それなら、今日は司書の人に相談してみよう。古い帳簿の用語を調べられる資料があるかもしれないし」
「うん。私も、分からないことがあったら聞いてみたい」
ミリアはそう言って微笑んだ。
俺はその様子を見ながら、少しだけ嬉しくなった。
彼女は以前よりも、自分の考えを自然に話してくれるようになっている。
それは、合同演習で一緒に行動したことも関係しているのかもしれない。
もちろん、急に性格が変わったわけではない。
今でも彼女は慎重で、言葉を選びながら話すことが多い。
けれど、その慎重さの中に、少しずつ自信が生まれているように感じられた。
◇
図書館へ入ると、いつもの落ち着いた空気が俺たちを迎えた。
高い天井へ向かって並ぶ書架には、分厚い本や古い資料が整然と収められている。
閲覧席では何人かの学生が本を広げ、静かに調べものをしていた。
俺たちは受付へ向かい、マティアス・レンの姿を探した。
彼はちょうど書類を整理していたらしく、俺たちに気づくと穏やかに顔を上げた。
「こんにちは。今日は三人でいらしたのですね」
「はい。今日は古い帳簿の用語について調べたくて」
俺が答えると、マティアスは少し興味深そうに眉を上げた。
「帳簿の用語ですか。どのような言葉でしょう?」
「『返納』という言葉なんです。古い物資記録に出てきたんですけど、未使用の物資を戻す意味なのか、使い終わったものを回収する場合にも使われていたのか、確認したいと思って」
マティアスはすぐには答えず、少し考えるように視線を落とした。
「なるほど。確かに、古い記録では現在と異なる用語の使い方が見られる場合があります。ただ、その言葉だけで意味を判断するのは難しいでしょうね」
「やっぱり、そうなんですね」
「ええ。記録が作られた時代や、使用していた組織によっても違いがあるかもしれません」
俺は頷いた。
予想していたとおり、簡単に答えが出る問題ではなさそうだ。
しかし、マティアスは少し考えたあと、受付の奥にある書架へ視線を向けた。
「古い行政記録や物資管理に関する資料なら、いくつか所蔵されています。すべてが直接役立つとは限りませんが、用語の使われ方を比較するには参考になるかもしれません」
「本当ですか?」
「はい。ただし、古い資料には閲覧の手続きが必要なものもあります。まずは一般閲覧が可能なものから確認してみましょう」
マティアスはそう言って、所蔵目録を取り出した。
俺たちは受付の前で待ちながら、彼が資料を探す様子を見守った。
目録には細かな文字が並んでおり、俺が一目で内容を把握するのは難しそうだった。
しかし、マティアスは慣れた様子で頁をめくり、いくつかの項目を確認している。
やがて、彼は一つの記録を指さした。
「こちらに、古い物資管理の実務についてまとめた資料があります。現在の制度とは異なる部分もありますが、帳簿の書き方や用語の説明が含まれているようですね」
俺は思わず身を乗り出した。
「それ、ぜひ見てみたいです」
「分かりました。閲覧できる状態か確認してきますので、少々お待ちください」
マティアスはそう言って、受付の奥へ向かった。
俺たちは近くの椅子へ座り、静かに待つことにした。
ミリアは手元のノートを開き、今日確認したいことをもう一度見直している。
エリオットも同じように、昨日まとめた項目を確認していた。
俺はそんな二人の姿を見ながら、少しだけ笑った。
(……何か、ちゃんと調査してるって感じがするな)
《マスター。実際に調査を行っておられます》
(いや、そうなんだけどさ。昔の俺なら、こういう地道なことを考えずに、すごい魔眼で全部見抜く設定にしてただろうなって)
《そのとおりです》
(即答するなよ)
《なお、旧設定における《万象真理眼》には、古代文字の自動翻訳機能も搭載されております》
(便利すぎるだろ!)
《さらに、所有者が望めば、あらゆる書物の内容を瞬時に記憶できます》
(図書館の存在意義がなくなるじゃん!)
《当時のマスターは、知識を得るための努力を必要としない存在に憧れておられたようです》
俺は心の中で頭を抱えた。
確かに、昔の俺はそんなことを考えていた気がする。
しかし、今の俺は、こうして友人たちと資料を調べる時間が嫌いではなかった。
むしろ、少しずつ分かっていく過程そのものが楽しい。
(……何でも一瞬で分かるより、こっちの方がいいな)
《現在のマスターにとっては、そのようですね》
アルカディアは静かに答えた。
俺は小さく笑い、受付の奥へ視線を向けた。
しばらくすると、マティアスが一冊の古い本を持って戻ってきた。
厚みはそれほどないが、表紙には細かな擦れがあり、長い年月を経てきたことが分かる。
「こちらが、先ほどお話しした資料です。一般閲覧が可能なものですが、古い本ですので、扱いには気をつけてください」
「はい。ありがとうございます」
俺たちは礼を言い、本を受け取った。
表紙には、落ち着いた文字で題名が記されている。
『旧式物資管理手引』
俺はその文字を見て、少しだけ胸が高鳴った。
今まで探していたものに、ようやく近づけるかもしれない。
もちろん、この本に答えが書かれているとは限らない。
しかし、少なくとも、古い帳簿の読み方を考えるための手がかりにはなりそうだった。
◇
俺たちは閲覧室の空いている机へ移動し、慎重に本を開いた。
紙は少し黄ばんでおり、頁の端には長い年月による傷みが見られる。
しかし、文字そのものは比較的はっきりしていた。
最初の部分には、物資管理に関する基本的な考え方が書かれている。
受領した物資の数量を記録すること。
保管場所を明確にすること。
使用や移動があった場合には、その内容を帳簿へ残すこと。
そして、記録を変更する場合には、理由が分かるようにすること。
俺はそれらを読みながら、思わず頷いた。
「……結構、今でも通じそうなことが書いてあるな」
「そうだね。古い制度でも、記録を残す目的はあまり変わらないのかもしれない」
エリオットはそう言いながら、頁の端へ視線を向けた。
ミリアも静かに文章を読んでいる。
しばらくして、彼女が小さく声を上げた。
「あの……ここ、少し気になるかも」
俺とエリオットは、彼女が示した部分へ目を向けた。
そこには、物資の移動を記録する際の注意事項が書かれていた。
『物資の返納に際しては、数量のみならず、状態および返納理由を併記することが望ましい』
俺は思わず、その一文を読み返した。
(……状態と理由、か)
ミリアは少し緊張したように俺たちの顔を見比べた。
「これって、返納されたものが全部同じ状態とは限らないから、区別する必要があるって意味なのかな?」
エリオットはすぐには答えず、文章を丁寧に読み直した。
「そう考えることはできそうだね。ただ、具体的にどんな状態を想定していたのかは、この一文だけでは分からないかな」
「うん。でも、少なくとも数量だけじゃ足りないって考えられていたのは確かだと思う」
俺がそう言うと、ミリアは少し安心したように頷いた。
「じゃあ、もう少し先も読んでみようか。具体例があるかもしれないし」
俺たちは頁をめくった。
次の部分には、返納記録の記入例がいくつか載っていた。
未使用の物資を戻した場合。
破損した物資を回収した場合。
そして、交換作業によって取り外した部品を戻した場合。
それぞれ、数量だけでなく、状態や理由が書き添えられている。
俺はその記述を見て、思わず息を止めた。
「……あった」
エリオットも少し驚いたように目を見開いている。
「本当だ。交換した部品を戻す場合にも、返納という言葉が使われているね」
ミリアは頁を見つめながら、静かに頷いた。
「じゃあ、昨日話していた可能性は、少なくともこの資料では実際に使われていたってことになるんだね」
「うん。ただ、これが北方の物資記録と同じ時代や同じ組織の用語なのかは、まだ分からない」
俺はそう答えた。
胸の奥には、小さな興奮が広がっていた。
昨日までは、単なる可能性として考えていたことだった。
しかし、今は少なくとも、古い物資管理の記録において、使用済みの部品を戻す場合にも『返納』という言葉が使われていた例が確認できた。
それは、確かな前進だった。
エリオットは自分のノートを開き、慎重に書き留め始めた。
「資料名と頁も残しておこう。あとで確認するときに、どこに書かれていたか分かるようにしておきたいから」
「うん。俺もそうする」
俺は頷き、ノートへ新しい項目を書き加えた。
『旧式物資管理手引では、交換後の部品を戻す場合にも「返納」の用例がある』
その下へ、もう一つの文章を書いた。
『北方の物資記録における同語の意味は未確認』
書き終えたところで、俺は少しだけ息を吐いた。
こうして、分かったことと分からないことを分けて書く。
昨日の整理作業が、早速役に立っていた。
ミリアも自分のノートへ内容を書き留めている。
彼女は途中で一度だけ手を止め、俺たちへ視線を向けた。
「……あの、もう一つ確認してもいい?」
「もちろん。どうしたの?」
「この手引に書かれている返納の例って、全部同じ形式じゃないよね。状態を書く欄があるものと、理由を文章で説明しているものがあるみたい」
俺は彼女が指さした部分を見比べた。
確かに、記入例には少し違いがある。
ある例では、物資の状態が短い言葉で記されている。
別の例では、返納理由が文章で説明されていた。
エリオットもその違いに気づき、少し考え込んだ。
「……なるほど。記録の形式が違うなら、同じ情報でも書かれている場所が違う可能性があるね」
「うん。だから、北方の帳簿でも、数量の近くに何も書いていないからって、状態の記録が存在しなかったとは限らないのかなって」
ミリアは少し不安そうに言葉を続けた。
しかし、俺はその考えを聞き、思わず頷いた。
「それ、すごく大事だと思う。俺たち、今まで数量とか名称ばかり見てたけど、帳簿の別の場所に補足がある可能性もあるんだよな」
ミリアは驚いたように顔を上げた。
「……そうかな?」
「うん。少なくとも、確認する価値はあると思うよ」
エリオットも穏やかに微笑んだ。
「僕もそう思う。ミリアが一緒に見てくれてよかった」
その言葉を聞き、ミリアの頬が少し赤くなった。
彼女は照れくさそうに笑いながら、再びノートへ視線を戻した。
「……ありがとう。じゃあ、もう少し詳しく見てみようか」
俺たちは頷き、資料の続きを確認し始めた。
窓の外では、午後の光が少しずつ傾いている。
閲覧室には頁をめくる音と、遠くの席から聞こえる小さな話し声が静かに響いていた。
俺はその空気の中で、少しだけ不思議な気持ちになっていた。
古い帳簿の用語を調べる。
それだけのことなのに、こうして友人たちと一緒に考えている時間が、思っていた以上に楽しい。
(……本当に、昔の俺が考えた最強主人公とは違う生活してるな)
《マスター。旧設定においては、古代の記録を解読する際、周囲の研究者が何年もかけて解けなかった謎を一瞬で解明する予定でした》
(……またそれか)
《そして、驚愕する研究者たちの前で、『この程度、我にとっては児戯に等しい』と告げる設定でございます》
(絶対に言いたくない! そんなこと言ったら友達いなくなるだろ!)
《当時のマスターは、孤高の存在であることを重視されておりました》
(今は孤高じゃなくていいんだよ!)
俺は心の中で叫びながら、研究資料へ視線を戻した。
隣ではエリオットが丁寧に記録を写し、ミリアが別の記入例を確認している。
誰かが一人で全部を解決するわけではない。
それぞれが気づいたことを持ち寄り、少しずつ理解を深めていく。
俺はそんな時間を、これからも大切にしたいと思った。
◇
図書館を出るころには、空が夕焼けに染まり始めていた。
俺たちは借りた資料を受付へ返し、マティアスへ礼を伝えた。
彼は俺たちのノートを見て、少し満足そうに微笑んだ。
「役に立つ記述は見つかりましたか?」
「はい。返納という言葉の使われ方について、参考になる例がありました」
俺が答えると、マティアスは頷いた。
「それはよかった。ただ、古い用語は資料ごとに意味が異なる場合もあります。別の記録と比較するときは、その点にも気をつけてください」
「はい。まだ同じ意味だと決まったわけではないので、慎重に確認します」
俺がそう答えると、マティアスは穏やかに笑った。
「その姿勢が大切だと思います。古い資料を読むときは、分からない部分を無理に埋めないことも必要ですから」
俺たちは礼を言い、図書館を後にした。
外へ出ると、夕方の風が頬を撫でた。
学院の中庭には長い影が伸び、遠くの訓練場からは、まだ練習を続けている学生たちの声が聞こえてくる。
俺とエリオット、そしてミリアは並んで歩きながら、今日確認した内容を振り返った。
「今日は、結構進んだ気がするな」
俺が言うと、エリオットは頷いた。
「うん。少なくとも、返納という言葉が未使用品だけを指すとは限らないってことは分かったからね」
「でも、北方の記録で同じ意味かどうかは、まだ確認が必要だね」
ミリアがそう続けた。
俺は二人の顔を見比べ、自然と笑った。
「うん。そこは次に調べたいところだな」
ミリアは少し考えたあと、控えめに口を開いた。
「……あの、今日の調査、すごく楽しかった。また一緒に調べてもいい?」
俺は思わず笑みを浮かべた。
「もちろん。むしろ、これからも一緒に調べてくれたら嬉しいよ」
エリオットも穏やかに頷いた。
「僕もそう思う。ミリアが気づいてくれたこと、今日の調査ではすごく役に立ったから」
ミリアは少し照れたように俯き、それから嬉しそうに微笑んだ。
「……ありがとう。次も、何か見つけられるように頑張るね」
俺たちはそのまま中庭を歩き、男子寮と女子寮へ向かう道の分かれ目で足を止めた。
ミリアは俺たちへ手を振り、女子寮の方へ歩いていく。
俺とエリオットも手を振り返し、男子寮へ向かった。
歩きながら、俺は今日の出来事を思い返していた。
大きな謎が解けたわけではない。
北方の森で起きた異変の原因も、古い石扉の意味も、まだ分からないままだ。
それでも、古い記録を読むための考え方が少しずつ増えている。
そして、調査を一緒に進めてくれる仲間もいる。
それは、俺にとって十分に嬉しいことだった。
(……これからも、こうやって少しずつ調べていけばいいんだろうな)
《はい、マスター。現在の方法は、確実性を重視した調査として適切です》
(珍しく素直に褒めてくれるじゃん)
《ただし、旧設定におけるマスターであれば、すでにすべての謎を解明していた可能性がございます》
(……やっぱり最後はそれかよ!)
俺は心の中で苦笑した。
すると、アルカディアはさらに続けた。
《なお、旧設定には『世界のすべてを知る者は、世界のすべてを支配する資格を持つ』という一文が存在します》
(……何だよ、その危険な思想は)
《当時のマスターが考案された、究極魔導王の統治理念でございます》
(統治理念まで考えてたのかよ! 俺、どこまで設定を盛ってたんだ!)
《詳細な統治制度については、全十二章にわたる記述がございます》
(十二章!? 黒歴史ノートなのに、何でそんなところだけ本格的なんだよ!)
俺は思わず額へ手を当てた。
隣を歩くエリオットが、不思議そうにこちらを見た。
「シュウ、どうしたの? 何か思い出した?」
「……うん。昔の自分が、ちょっと信じられなくなってきた」
俺が苦笑すると、エリオットは少し首を傾げたあと、穏やかに笑った。
「でも、昔の自分がいたから、今の自分があるんじゃないかな」
俺はその言葉を聞き、少しだけ驚いた。
エリオットは何気なく言ったのだろう。
しかし、その言葉は妙に心へ残った。
確かに、昔の俺があの黒歴史ノートを書いていなければ、今のアルカディアは存在しなかったかもしれない。
そして、彼女がいなければ、今の俺はまったく違う生活を送っていた可能性もある。
(……そう考えると、黒歴史も全部が悪いわけじゃないのか)
《マスター。ようやく旧設定の価値をご理解いただけましたか》
(いや、そこまで言ってないからな!)
俺は心の中で即座に否定した。
それでも、少しだけ笑ってしまった。
前世の俺が考えた最強の魔導王。
その設定は、今でも恥ずかしいものばかりだ。
けれど、その黒歴史から生まれた相棒と一緒に、俺は今、この世界で暮らしている。
そして、魔法を学び、友人たちと笑い合い、古い記録を調べている。
昔の俺が想像していたものとは違う。
それでも、今の生活は十分に楽しかった。
俺は夕焼けに染まる学院の道を歩きながら、静かに微笑んだ。
古い帳簿の謎は、まだ解けていない。
けれど、今日見つけた小さな手がかりは、確かに次の調査へつながっている。
そして俺の黒歴史もまた、相変わらず終わる気配を見せていなかった。




