第83話 魔法理論の授業で、俺の最強設定がまさかの減点対象になりました
翌朝、王立魔道学院の男子寮317号室には、窓から差し込む柔らかな日差しと、廊下を行き交う学生たちの足音が届いていた。
俺は机の上に置いた教本を鞄へ収めながら、昨日の図書館で調べた内容を思い返していた。古い保持材の交換記録には、魔力を通す素材が周囲の環境によって異なる反応を示す可能性が記されていたが、それが北方の森に関係するかどうかは分からないままだ。
ただ、調べるべきことが少し増えたのは確かだった。
「シュウ、魔法理論の教本、ちゃんと入れた?」
隣の机で鞄を整えていたエリオットが、こちらを振り返って尋ねてきた。彼は昨日、俺が研究録に夢中になって授業の準備を忘れかけていたことを覚えているらしく、少し楽しそうな表情を浮かべている。
「大丈夫。今日はちゃんと確認したよ。教本もノートも入ってるし、筆記具も……うん、ある」
「それなら安心だね。昨日みたいに、調べものの続きを考えていて忘れちゃうんじゃないかと思ったよ」
「信用がないなあ。いや、昨日の俺を考えると何も言い返せないんだけど」
俺が苦笑すると、エリオットも小さく笑った。
彼は普段から準備が丁寧で、必要なものを忘れることがほとんどない。俺も前世では社会人として働いていたわけだから、持ち物の確認くらい問題なくできるはずなのだが、興味のあることへ集中すると周囲が見えなくなる癖は、どうやら異世界へ来ても変わっていないらしい。
(……三十年以上生きた記憶があるのに、十七歳のエリオットに世話を焼かれてるってどうなんだろうな)
《マスター。精神的な経験年数と、日常生活における注意力は必ずしも比例いたしません》
(慰めてるのか、追い打ちをかけてるのか、どっちだよ)
《事実を整理しております》
(そういうところだぞ、アルカディア)
俺は心の中で相棒に文句を言いながら、鞄の留め具を閉じた。
今日の予定には、魔法理論の授業がある。
以前からこの学院の授業は興味深いものが多かったが、昨日の研究録を読んだあとでは、魔力の流れや素材の性質について学ぶ時間がいつも以上に楽しみだった。
もっとも、そんな俺の期待とは別に、アルカディアは妙なことを言い始めた。
《本日の授業内容によっては、マスターの旧設定に重大な矛盾が発見される可能性がございます》
(……何で授業が始まる前から嫌な予告をするんだよ)
《魔法理論は、魔力の性質や術式の成立条件を扱う学問です。一方、マスターの旧設定には、それらを無視する記述が多数存在します》
(俺の黒歴史を学問的に否定しようとするな!)
《学問を否定しているのは、過去のマスターの方かと》
反論できなかった。
俺は鞄を肩へ掛け、エリオットと一緒に部屋を出た。
廊下では、朝食へ向かう学生たちがそれぞれの予定を話している。開け放たれた窓から入る風は少し冷たかったが、空はよく晴れており、昨日までの湿った空気も薄れつつあった。
学院での生活は、相変わらず賑やかだ。
そして俺は、その賑やかさを以前よりも自然に楽しめるようになっていた。
◇
朝食を終えて一年三組の教室へ入ると、すでに何人かの学生が席についていた。
窓際ではフィンがユリウスと話しており、少し離れた席ではセシリアが教本を開いている。ミリアはその隣でノートを確認していたが、俺たちに気づくと顔を上げ、控えめに手を振ってくれた。
「おはよう、シュウ君。エリオット君」
「おはよう、ミリア。昨日はゆっくり休めた?」
俺が尋ねると、ミリアは小さく頷いた。
「うん。合同演習の記録を少し整理してから寝たけど、無理はしてないよ。先生に提出する内容とは別に、自分で気づいたことも残しておきたかったから」
「ミリアらしいね。でも、ちゃんと休めたならよかった」
合同演習が終わってから、俺たち第四班はそれぞれ日常の授業へ戻っていた。
南側経路で起きた出来事については、巡回本部や教員の指示に従って対応したことが確認され、予定していた出口へ到達できなかったことも失敗とは扱われなかった。ただ、演習の途中で負傷者への対応が必要になったことや、地面の状態が予想以上に不安定だったことは、俺たちの記憶に強く残っている。
フィンもそのことを忘れていないらしい。
「おっ、シュウ! ちょうどいいところに来たな!」
彼は俺たちの姿を見ると、椅子から少し身を乗り出した。
「今さ、ユリウスと演習の話をしてたんだよ。あのとき、俺がもうちょっと足元を見てれば、余計な心配をかけずに済んだんじゃないかって」
「まだ気にしてたのか?」
「そりゃ、少しはな。怪我しなかったからよかったけど、滑ったときは結構焦ったし」
フィンは笑っていたものの、その表情には少しだけ気まずそうな色があった。
俺は彼の机へ近づき、椅子の背もたれへ軽く手を添えた。
「足元を確認するのは大事だけど、あのときはみんなで状況を見ながら進んでたんだ。フィンだけが悪かったわけじゃないよ」
「そうだね。実際、あの経路は前日の雨でかなり滑りやすくなっていたんでしょう?」
エリオットがそう続けると、ユリウスも静かに頷いた。
「演習の記録を聞く限り、危険を見つけてからの判断は適切だったと思う。反省するところがあるなら、次の訓練で生かせばいいんじゃないかな」
フィンは少し考え、それから照れくさそうに頭をかいた。
「……そうだな。次はもっと上手くやるよ。足元も、周りも、ちゃんと見てな」
その言葉を聞いて、俺は自然と笑った。
以前のフィンなら、失敗を笑い飛ばして終わらせていたかもしれない。
けれど、今は違う。
彼は自分の行動を振り返り、次にどうすればいいかを考えている。
そうした変化を見ていると、俺たちも少しずつ成長しているのだと感じられた。
「それにしても、今日は魔法理論かあ。俺、実技の方が得意なんだよな」
フィンは机の上に置いた教本を見下ろし、少しだけ肩を落とした。
その様子を見て、セシリアが穏やかに微笑む。
「理論が分かると、実技でも役に立つことがあるわよ。昨日の授業だって、魔力の通し方を考える場面があったでしょう?」
「それは分かるんだけどさ。文字を読んで覚えるより、実際に試した方が頭に入りやすいんだよ」
「フィンらしい考え方ね。でも、試す前に知っておいた方がいいこともあると思うわ」
セシリアはそう言って教本を閉じた。
彼女の言葉には、相手を否定する響きがない。フィンの得意なことを認めながら、別の見方を示しているのだ。
ミリアも少しだけ顔を上げた。
「私も、実際に見た方が覚えやすいことはあるよ。だから今日は、先生がどんな例を出してくれるのか楽しみ」
「おっ、ミリアもそう思うか!」
「うん。でも、例を見て終わりじゃなくて、理由も理解したいかな」
フィンは一瞬だけ言葉を詰まらせたあと、みんなの笑い声に混ざって笑った。
そんなやり取りをしているうちに、教室の前方から鐘の音が聞こえてきた。
学生たちはそれぞれの席へ戻り、教本を開き始める。
俺もエリオットと別れて自分の席へ向かい、今日の授業に備えた。
◇
魔法理論の担当教員が教室へ入ってきたのは、始業の鐘が鳴り終わった直後だった。
教壇に立った教師は、学生たちの様子を見渡してから、黒板へ今日の題目を書き始めた。
『魔力の安定性と術式の成立条件』
俺はその文字を見て、思わず背筋を伸ばした。
(……昨日読んだ研究録と、少し関係がありそうだな)
《はい。少なくとも、魔力の流れを考えるうえでは共通する基礎概念が含まれるでしょう》
アルカディアの声を聞きながら、俺はノートを開いた。
教師は教壇の端へ小さな魔導具を置き、学生たちへ向き直った。
「今日は、魔法を成立させるために必要な条件について考えてもらいます。皆さんはこれまで、属性や魔力量、術式の構造などを学んできましたが、それらを知っているだけでは安定した魔法を使えるとは限りません」
教師は魔導具へ手を添え、穏やかな声で説明を続けた。
「同じ術式を使用しても、魔力の流し方や周囲の環境によって結果が変わることがあります。今日は、その違いがなぜ生じるのかを、いくつかの例から考えてみましょう」
教室の前方に置かれた魔導具は、透明な板の上に細い魔力伝導路が組み込まれたものだった。
教師がわずかに魔力を流すと、板の内部に淡い光が走り、中央に設けられた小さな結晶が静かに輝いた。
その様子を見た学生たちから、感心したような声が漏れる。
「今の状態では、伝導路を通った魔力が安定して中央へ届いています。しかし、途中で魔力の流れが乱れた場合、同じ量を送り込んでも結果は変わります」
教師は魔導具の側面にある調整部分へ触れた。
すると、先ほどまで均一だった光がわずかに揺らぎ、中央の結晶も明滅するようになった。
「この状態で魔力量だけを増やすと、どうなると思いますか?」
教室のあちこちで学生たちが考え始めた。
俺も目の前の現象を見ながら、いくつかの可能性を思い浮かべる。
魔力を増やせば、結晶へ届く量も増えるかもしれない。
しかし、途中の流れが不安定なままなら、余計に乱れが大きくなる可能性もある。
教師は学生たちの反応を待ってから、一人の学生を指名した。
「では、フィン・ラデル君。どう考えますか?」
「えっ、俺ですか?」
突然名前を呼ばれたフィンは少し驚いたものの、すぐに立ち上がった。
「ええと……魔力を増やせば、結晶がもっと強く光るんじゃないかと思います。でも、途中で流れが乱れてるなら、上手く届かない分も増えるかもしれません」
教師は頷いた。
「よい考え方です。では、実際に確かめてみましょう」
教師が魔力量を増やすと、伝導路の光は一時的に強くなった。
しかし、中央の結晶は安定して輝くどころか、明滅の間隔が不規則になり、やがて教師が魔力の供給を止めると静かに光を失った。
フィンはその様子を見て、驚いたように目を丸くした。
「うわ……強くすればいいってわけじゃないんですね」
「そのとおりです。もちろん、魔力量を増やすことが有効な場合もあります。しかし、流れの乱れを無視して力だけを加えれば、期待した結果が得られないこともあるのです」
教師はフィンを着席させると、黒板へ新しい言葉を書き加えた。
『出力と安定性は、必ずしも比例しない』
俺はその一文をノートへ写しながら、妙な既視感を覚えた。
(……これ、昔の俺に聞かせたら嫌がりそうだな)
《おそらく、旧設定における『無限魔力による完全制御』を根拠に反論されるかと》
(やっぱりそうなるよな)
《なお、マスターの旧設定では、魔力量が無限であるため、いかなる術式も最大出力で発動して問題ないと記載されています》
(問題だらけじゃねえか!)
俺は思わず額へ手を当てかけた。
幸い、教師は黒板へ向き直っており、俺の反応には気づいていない。
しかし、隣の席の学生が少し不思議そうにこちらを見たため、俺は慌ててノートへ視線を戻した。
(……昔の俺、本当に魔力で全部解決しようとしてたんだな)
《はい。非常に明快な思想でございました》
(褒めるな。いや、褒めてないのかもしれないけど)
俺は心の中でため息をついた。
授業が始まってまだそれほど時間は経っていない。
それなのに、すでに自分の黒歴史が一つ否定された気分になっていた。
◇
授業の後半では、教師がいくつかの例を示し、学生たちに考えをまとめさせる時間が設けられた。
黒板に書かれた課題は、次のような内容だった。
『一定量の魔力を使用する魔導具が、設置場所を変更したあとに不安定な反応を示すようになった。考えられる原因と、確認すべき事項を挙げなさい』
俺はその問題を見た瞬間、昨日の研究録を思い出した。
(……これ、まさに昨日読んだ話に近いな)
《はい。使用環境の変化による魔力伝導への影響を考察する問題と判断できます》
俺はペンを握り、考えを整理し始めた。
設置場所が変わったということは、周囲の魔力環境も変わっている可能性がある。
魔導具そのものに損傷がなくても、内部の伝導路が以前と同じように働くとは限らない。
また、移動の際に何らかの衝撃を受けた可能性も考えられる。
俺は思いついた内容を順番に書き留めた。
『周囲の魔力濃度や属性の偏り』
『移動時の損傷の有無』
『魔力伝導路の状態』
『設置前後の使用条件の違い』
そこまで書いたところで、俺は少し手を止めた。
昨日の研究録には、使用済みの保持材を別の設備へ移した際、以前の設置環境が影響した可能性について記されていた。
もし、この課題の魔導具にも長期間使用された素材が含まれているなら、その履歴を確認する必要があるかもしれない。
俺は最後に一つ書き加えた。
『内部素材の使用履歴と、交換・修理の記録』
それから、改めて自分の回答を読み返す。
考えられる原因をいくつか挙げることはできた。
ただし、どれが正しいかは、実際に調べなければ分からない。
俺はその点も忘れないよう、文章の最後へ付け加えた。
『原因を一つに決めつけず、確認できる情報から順番に調べる』
書き終えたところで、教師が教室を見渡した。
「それでは、何人かに考えを聞いてみましょう。まずは、ミリア・ハーゼンさん」
ミリアは少し驚いたように顔を上げた。
彼女は普段、積極的に発言する方ではない。
しかし、最近は自分の考えを言葉にする場面が少しずつ増えている。
俺はその様子を見ながら、自然と彼女の方へ視線を向けた。
「はい。私は、設置場所の魔力環境が変わったことが原因の一つとして考えられると思います」
ミリアは立ち上がり、手元のノートを確認しながら続けた。
「ただ、場所を変えたことだけが原因とは限らないので、移動前から不安定な反応がなかったかも確認したいです。以前の記録があれば、変化がいつから起きたのか比較できると思います」
教師は満足そうに頷いた。
「よい着眼点ですね。現在の状態だけでなく、以前の状態と比較することは重要です。記録が残っていれば、原因を絞り込む助けになります」
ミリアは少し安心したように息を吐き、静かに着席した。
俺はその姿を見て、思わず頬を緩めた。
合同演習でも、ミリアは周囲の小さな変化を見逃さず、記録を残すことで班の判断を助けてくれた。
今日の回答にも、彼女らしい慎重さが表れている。
続いて教師は、別の学生へ意見を求めた。
その学生は、魔導具の内部構造が移動時に損傷した可能性を挙げた。
さらに別の学生は、魔力を供給する人物が変わった場合の影響について述べた。
教師はそれぞれの意見を黒板へ整理し、どれも状況によっては考慮する必要があると説明した。
やがて、教師の視線が俺の方へ向いた。
「では、シュウ・アルヴェイン君。ほかに確認したいことはありますか?」
俺は立ち上がった。
昨日の研究録を読んでいたこともあり、考えはある程度まとまっている。
「はい。魔導具に使われている素材が、以前から長期間使用されていたものかどうかも確認したいです。もし交換や修理の履歴があるなら、その内容も参考になると思います」
教師は少し興味深そうに眉を上げた。
「なるほど。使用履歴ですか。そう考えた理由を聞かせてもらえますか?」
「古い魔法素材の研究録を読んだとき、外見に問題がなくても、長期間の使用によって内部の魔力の流れが変化する場合があると書かれていたんです。今回の課題にそのまま当てはまるかは分かりませんが、確認する価値はあると思いました」
俺が答えると、教師は静かに頷いた。
「よく調べていますね。確かに、素材の使用履歴は重要な情報です。とくに、長期間使用されている魔導具では、外見だけで状態を判断できない場合があります」
教師は黒板へ『素材の使用履歴』と書き加えた。
俺は少し安心して席へ戻ろうとした。
しかし、その直前に、教師がもう一つ質問を投げかけてきた。
「では、アルヴェイン君。仮にその魔導具へ、現在の十倍の魔力を供給できる人物がいたとします。その人物が魔力量を増やせば、不安定な反応を解消できるでしょうか?」
俺は思わず動きを止めた。
(……何でそこで十倍なんだよ)
《マスター。非常に興味深い質問です》
(お前が興味を持つな!)
俺は一度だけ息を整え、教師へ向き直った。
「……いいえ。必ずしも解消できるとは思いません。魔力の流れが乱れている原因によっては、供給量を増やすことで、かえって状態が悪化する可能性があります」
「そのとおりです。魔力量が多いことは、必ずしも問題の解決につながりません。重要なのは、原因を理解し、適切な方法を選ぶことです」
教師はそう説明し、俺に着席を促した。
俺は椅子へ腰を下ろしながら、心の中で大きくため息をついた。
(……よかった。普通に答えられた)
《お見事です、マスター》
(何だよ、その妙に楽しそうな声は)
《旧設定のマスターであれば、『十倍程度の魔力では不足する。必要なのは無限の魔力だ』と回答されていたことでしょう》
(そんな回答したら絶対に減点されるだろ!)
《さらに、『我が魔力の前では、あらゆる不安定性すら跪く』と続けられる可能性がございます》
(やめろ! 先生の前でそんなこと言ったら、明日から教室に入れなくなる!)
俺は必死に表情を保った。
しかし、頭の中では、昔の俺が考えた最強主人公が、堂々と教師へ反論する姿を想像してしまっていた。
……駄目だ。
恥ずかしすぎる。
俺はノートへ視線を落とし、余計な想像を追い払うように今日の重要事項を書き加えた。
『魔力量が多くても、原因を理解しなければ適切な対処はできない』
その一文を見つめながら、俺は心の中で呟いた。
(昔の俺に、百回くらい読ませたいな……)
◇
授業が終わると、教室にはいつもの賑やかさが戻ってきた。
学生たちは教本を閉じながら、今日の課題について感想を交わしている。
俺がノートを鞄へ収めていると、フィンが近づいてきた。
「シュウ、さっきの回答、すごかったな!」
「えっ、そうかな? 昨日読んだ資料に似た話があったから、思いついただけだよ」
「いや、それでもすごいって。俺なんか、最初は魔力を増やせば何とかなると思ってたし」
フィンはそう言って笑った。
しかし、その表情は落ち込んでいるというより、何か新しいことを理解できたときのように明るかった。
「でも、実際に見せてもらうと分かりやすいな。魔力を強く流しても、途中で乱れてたら意味がないってことだろ?」
「うん。少なくとも、今日の魔導具ではそうだったね」
「だったらさ、次に似たようなことがあったら、まず流れを確認するようにしてみるよ」
俺は頷いた。
フィンは理論を覚えるのが苦手だと言っていたが、実際に見たことを自分の経験へ結びつけるのは上手い。
その強みがあるなら、きっとこれからも成長していけるだろう。
そこへ、セシリアとミリアもやってきた。
「シュウ君、昨日は図書館へ行っていたのね」
「うん。エリオットと一緒に、古い魔法素材の研究録を読んでたんだ」
セシリアは少し興味深そうに首を傾げた。
「保持材の話かしら? 以前、調べているって言っていたでしょう?」
「そうそう。昨日は交換記録の部分を読んだんだけど、思っていた以上に管理が難しい素材みたいでさ」
俺は簡単に説明した。
保持材は外見に問題がなくても内部の状態が変化することがあり、交換や再使用の際には履歴を確認する必要があるらしい。
ただし、北方の古い記録に登場する素材と同じものかどうかは、まだ分かっていない。
その点も忘れずに伝えると、ミリアが静かに頷いた。
「じゃあ、今のところは参考になる資料が見つかった、という段階なんだね」
「うん。直接つながる証拠はまだないよ」
俺が答えると、ミリアは少し考えるように視線を落とした。
「でも、記録を読むときの考え方は参考になりそう。今日の授業でも、以前の状態と比べることが大切だって話があったし」
「ミリアの回答もよかったと思うよ。俺、あの説明を聞いて、確かにそうだなって思った」
俺がそう言うと、ミリアは驚いたように顔を上げた。
「……ありがとう。実は、指名されたときは少し緊張してたの」
「全然そんなふうに見えなかったぞ。落ち着いて説明してたし」
フィンが明るく言うと、ミリアは少し照れたように笑った。
「そう見えたなら、よかった。でも、話している途中は、ちゃんと伝わっているか心配だったよ」
その言葉に、セシリアが優しく微笑んだ。
「十分伝わっていたと思うわ。ミリアは、みんなが見落としそうなところによく気づくもの」
ミリアは二人の顔を見比べ、それから小さく頷いた。
「……うん。ありがとう」
俺はそのやり取りを見ながら、少しだけ嬉しくなった。
合同演習を通じて、俺たち第四班の関係は確かに変わったと思う。
以前から仲が悪かったわけではない。
けれど、一緒に困った状況へ向き合ったことで、それぞれの得意なことや考え方を、前よりも自然に認められるようになっていた。
それは、今日のような普通の授業でも感じられる変化だった。
「それにしてもさ、シュウって本当にいろいろ調べてるよな」
フィンが感心したように言った。
「魔法の実技も得意だし、古い研究録まで読んでるし。何か、将来すごい研究者になれそうじゃないか?」
「いやいや、そこまで考えてないよ。単純に、気になることがあるから調べてるだけだって」
「でも、好きなことを続けられるのは立派なことだと思うわ」
セシリアが穏やかに言った。
俺は少し照れくさくなり、頬をかいた。
前世の俺は、何かに夢中になっている自分を、少し恥ずかしく感じることがあった。
けれど、この世界では、魔法を学ぶことも、古い記録を調べることも、特別おかしなことではない。
むしろ、興味を持って取り組む姿を、こうして自然に認めてくれる人たちがいる。
それが、少し不思議で、嬉しかった。
◇
昼休みになると、俺たちは食堂へ向かった。
食堂はいつものように賑わっており、料理の香りと学生たちの話し声が広い空間を満たしている。
俺はエリオットと一緒に昼食を受け取り、フィンたちが座っている席へ向かった。
今日は、香草を使った肉料理と温かい野菜のスープ、それに焼きたてのパンが並んでいる。
俺は皿を置きながら、思わず笑みを浮かべた。
「今日の昼食、結構豪華だな」
「そうだね。朝から授業が続いたから、僕もお腹が空いたよ」
エリオットはそう言って椅子へ座った。
フィンはすでに料理を食べ始めていたが、俺たちが来たのを見ると、嬉しそうに顔を上げた。
「おっ、来たな! 今日の肉、結構うまいぞ!」
「フィン、まだ全員が座ってないんだから、そんなに急いで食べなくてもいいでしょう?」
セシリアが呆れたように言うと、フィンは笑いながらパンを置いた。
「いや、だって腹減ってたんだよ。朝から頭使ったし」
「それは分かるけど、慌てて食べると喉に詰まらせるわよ」
「大丈夫だって。ちゃんと気をつけてるから」
そんな二人のやり取りを聞きながら、俺とエリオットも食事を始めた。
温かいスープが喉を通ると、朝から授業で使っていた頭が少し落ち着くような気がした。
しばらくは料理の感想や午後の予定について話していたが、やがて話題は再び魔法理論の授業へ戻った。
「そういえば、今日の先生の問題、結構難しかったよね」
エリオットが言うと、ミリアが頷いた。
「うん。原因を一つだけ考えるなら簡単そうだけど、実際にはいくつも可能性があるから」
「俺はさ、最初に魔力を増やすことばっかり考えてたんだよな」
フィンは少し苦笑した。
「でも、よく考えたら、演習のときも似たようなことがあったよな。無理に進むより、状況を確認した方がいいって」
俺は彼の言葉に頷いた。
「確かに、考え方としては似てるかもしれないね。魔法でも、行動でも、力任せに進めばいいってわけじゃないから」
「そう考えると、理論の授業も結構役に立つんだな」
フィンは納得したように笑った。
その様子を見て、セシリアも少し嬉しそうな表情を浮かべる。
「だから言ったでしょう? 実技と理論は、別々のものじゃないのよ」
「分かったって。次からはもうちょっと真面目に教本を読むよ」
「次から、じゃなくて今日からでもいいと思うけれど」
「……セシリア、結構厳しいな」
フィンが肩を落とすと、俺たちは思わず笑った。
食堂の窓からは明るい日差しが差し込み、遠くでは別の学生たちが楽しそうに話している。
こうして友人たちと昼食を取る時間は、今では俺にとって当たり前の日常になっていた。
そして、その当たり前が、以前よりもずっと大切に感じられる。
◇
昼食を終えたあと、俺はエリオットと一緒に午後の授業へ向かう準備をしていた。
その途中、ミリアが少しだけ迷うような表情で声をかけてきた。
「シュウ君、少し聞いてもいい?」
「うん。どうしたの?」
ミリアは鞄から小さなノートを取り出した。
「昨日、図書館で読んだ研究録のことなんだけど……もし今度また調べるなら、私も一緒に資料を見てもいいかな?」
俺は少し驚いた。
ミリアが北方の古い記録に興味を持っていることは知っていたが、自分から一緒に調べたいと言ってくれたのは嬉しかった。
「もちろん。むしろ、ミリアが一緒に見てくれるなら助かるよ」
俺がそう答えると、彼女はほっとしたように微笑んだ。
「ありがとう。今日の授業を聞いて、古い記録を比較することにも意味があるんじゃないかと思ったの。私も、何か気づけることがあるかもしれないから」
「うん。昨日の研究録も、まだ全部を詳しく整理できたわけじゃないしね」
俺は少し考えてから、続けた。
「ただ、北方の記録との関係はまだ分かってないから、そこは慎重に見ていきたいと思ってる」
「うん。それでいいと思う。分からないことを、分からないまま記録しておくのも大切だと思うから」
ミリアは静かに頷いた。
その言葉を聞き、俺は少しだけ感心した。
彼女は、答えを急ぐよりも、確認できたことを丁寧に積み重ねることを大切にしている。
それは、今の調査にとって、とても頼りになる考え方だった。
「じゃあ、次に図書館へ行くときは声をかけるよ」
「うん。楽しみにしてるね」
ミリアは嬉しそうに微笑み、セシリアの待つ方へ戻っていった。
俺はその背中を見送りながら、少しだけ考えた。
最初は、俺とエリオットで始めた調査だった。
けれど、今は少しずつ、ほかの仲間たちとも考えを共有できるようになっている。
もちろん、何でもかんでも話していいわけではない。
アルカディアの存在や、俺自身の秘密については、今も誰にも明かしていない。
それでも、共有できる情報を一緒に調べることには意味があると思う。
(……こういうのも、学院へ来てよかったことの一つだな)
《マスター。以前の設定では、すべての謎を単独で解明し、誰にも理解されない孤高の存在となる予定でした》
(……またその話か)
《他者の助けを必要とせず、世界の真理へ到達する唯一の存在でございます》
(今の俺は、普通に友達と調べものしたいよ)
《そのようですね》
アルカディアの声には、いつもの冷静さがあった。
けれど、俺にはどこか楽しそうにも聞こえた。
俺は小さく笑い、エリオットと一緒に教室へ向かって歩き始めた。
◇
午後の授業が終わるころには、窓の外の光も少し柔らかくなっていた。
俺は教本を鞄へ収めながら、今日学んだことを頭の中で整理していた。
魔力量が多いことと、魔法が安定することは別の問題だ。
魔導具の状態を確認するときには、現在の反応だけでなく、過去の使用履歴や周囲の環境も考える必要がある。
そして、原因が分からない段階では、一つの可能性へ決めつけない方がいい。
どれも、言葉にすれば当たり前のことかもしれない。
しかし、実際に魔法を使う世界で暮らしていると、その当たり前を忘れそうになることがある。
特に、俺の場合はそうだ。
アルカディアの力は、普通の魔法理論では説明できない部分が多い。
だからこそ、何でもできるような気になってしまう危険もあるのだと思う。
(……便利な力があるからって、考えなくていいわけじゃないんだよな)
《おっしゃるとおりです、マスター》
アルカディアは静かに答えた。
《力の大きさと、それを適切に扱う判断力は別のものです》
(珍しく、すごくまともなことを言ってるな)
《私は常に適切な助言を行っております》
(……そのあとに黒歴史を読み上げなければ、もっと信用できるんだけど)
《それは難しいご要望です》
(難しいのかよ!)
俺は心の中で苦笑した。
教室の外では、授業を終えた学生たちが廊下へ出始めている。
エリオットも準備を終え、俺の方へ顔を向けた。
「シュウ、今日はどうする? 図書館へ寄る?」
俺は少し考えた。
昨日は研究録をかなり長い時間読んでいたし、今日も授業が続いていた。
調べたいことはあるが、急いで全部を確認しなければならないわけではない。
「今日は一度、昨日の内容を整理しておこうかな。次に何を調べるか決めてから行った方がよさそうだし」
「うん。それがいいと思う。僕も、昨日のノートをもう少し見直したかったんだ」
エリオットは頷いた。
俺たちは教室を出て、男子寮へ向かって歩き始めた。
廊下の窓からは、夕方へ近づく学院の中庭が見える。
学生たちが行き交い、遠くの訓練場からは魔法を使う音がかすかに聞こえてきた。
その光景を眺めながら、俺はふと、前世の自分を思い出した。
あのころの俺は、毎日同じような仕事を繰り返し、帰宅すれば疲れて眠ることも多かった。
もちろん、楽しいことがなかったわけではない。
けれど、何かを学ぶことに、今ほど純粋な楽しさを感じていただろうか。
そう考えると、少し不思議な気持ちになる。
異世界へ転生し、最強級の魔導書を手に入れた。
普通なら、もっと派手な冒険や戦いを想像するのかもしれない。
しかし、今の俺は、魔法理論の授業で新しいことを知っただけでも十分に楽しい。
それは、昔の俺が考えた最強主人公とは、ずいぶん違う姿だろう。
(……まあ、こっちの方が俺らしい気もするけどな)
《マスター。旧設定における主人公像からは、大幅な変更が生じております》
(そうだろうな。何でも一人でできる主人公じゃなくなってるし)
《しかし、現在のマスターは、他者と協力することで新しい可能性を見いだしておられます》
俺は少し驚いた。
アルカディアが、こんなふうに今の俺を評価するのは珍しい。
(……それって、褒めてくれてるのか?)
《事実を述べております》
(またそれかよ)
俺は小さく笑った。
隣を歩くエリオットが、不思議そうにこちらを見た。
「シュウ、何かいいことでもあった?」
「うん。今日の授業、思ってた以上に面白かったなって」
「そうだね。僕も、もっと詳しく調べてみたくなったよ」
エリオットは嬉しそうに微笑んだ。
俺も笑い返し、彼と並んで歩き続けた。
今日の授業で学んだことが、北方の森の謎につながるかどうかは分からない。
けれど、少なくとも、俺自身の考え方には少し変化があった。
強い力を持っていることと、その力を正しく使えることは違う。
そして、どれほど便利な力があっても、知らないことを学ぶ楽しさまで失う必要はない。
俺はそう思いながら、学院の石畳を踏みしめた。
これからも、きっと分からないことはたくさん出てくるだろう。
それでも、仲間たちと一緒に考えながら、一つずつ確かめていけばいい。
少なくとも、今の俺はそう思えるようになっていた。
《マスター。なお、旧設定における『全知全能の究極魔導王』の称号は、現在も有効でございます》
(……せっかくいい感じにまとまってたのに!)
《称号の変更をご希望でしょうか》
(そういう問題じゃない! というか、その称号を外で言うなよ!)
《承知しました。現時点では、私とマスターのみが把握している情報です》
俺はほっと息を吐いた。
しかし、その直後にアルカディアが続けた。
《ただし、正式な称号には、さらに三行分の修飾語が存在します》
(長すぎるだろ! 昔の俺、どれだけ盛ったんだよ!)
頭の中で響く相棒の声に、俺は思わず肩を震わせた。
エリオットはそんな俺を見て、少し不思議そうに笑っている。
俺は慌てて表情を整え、何でもないように歩き続けた。
学院の夕暮れは、今日も穏やかだった。
そして俺の黒歴史だけは、相変わらず容赦なく現在進行形で襲いかかってくるのだった。




