第82話 古い研究録の第七章には、俺の黒歴史より厄介な注意書きがありました
王立魔道学院の図書館には、独特の静けさがある。
誰も話していないわけではない。閲覧席では学生たちが小声で相談しているし、書架の間からは本を探す足音が聞こえてくる。それでも、分厚い石壁と高い天井に囲まれたこの場所では、そうした音まで本の一部になってしまうような、不思議な落ち着きがあった。
俺は閲覧室の机に置いた『北部保持材研究録』を開き、第七章の見出しをもう一度確かめた。
『保持材の交換記録と、再使用に関する注意』
古い書体で記されたその文字は、これまで読んできた章とは少し雰囲気が違っていた。
以前の章には、保持材と呼ばれる素材の性質や、加工時の注意点が主に書かれていた。ところが、今開いている部分には、具体的な交換作業や使用後の扱いについての記録が並んでいるらしい。
(交換記録ってことは、実際に使われていた場所があったってことだよな)
俺は頁の端へ指を添え、本文を読み始めた。
隣の席では、エリオットが別の資料を広げている。彼は俺が研究録を読み始めたのを確認すると、自分の本へ視線を戻し、邪魔にならないよう静かに頁をめくった。
夕方の光が窓から差し込み、机の上へ細長い影を落としていた。
俺は最初の数行を読み進め、少しだけ眉を寄せた。
第七章の冒頭には、保持材の交換が必要になる条件が記されていたのだが、その説明が思っていた以上に細かかった。
魔力を通す能力が弱くなった場合。
外見に変化がなくても、内部の魔力の流れが不安定になった場合。
そして、一定期間を超えて使用された場合。
これらの条件に当てはまる保持材は、交換を検討する必要があると書かれている。
(なるほど。見た目が大丈夫でも、中身が駄目になってることがあるのか)
《魔力伝導素材としては、特に珍しい性質ではございません》
頭の中へ、アルカディアの落ち着いた声が響いた。
《外観の損傷と内部の劣化が一致しない素材は、複数存在します。魔力を長期間通し続ける場合、表面だけで状態を判断するのは危険です》
(そういうものなんだな。じゃあ、交換記録が残ってるのも納得できる)
《はい。もっとも、マスターの旧設定における『永劫不滅の暗黒結晶』には、劣化という概念が存在しません》
(また出たよ、永劫不滅)
《いかなる攻撃にも耐え、無限の魔力を蓄え、所有者以外には触れることすら許されない究極素材でございます》
(そんな便利な素材があるなら、昔の俺は何で武器を何種類も設定したんだろうな)
《それぞれに異なる伝説と必殺技を設定する必要があったためかと》
(……うん。聞いた俺が悪かった)
俺は唇を引き結び、笑いそうになるのを堪えた。
研究録を読むたびに、アルカディアが余計な黒歴史を引っ張り出してくる。
ただ、今の説明自体は参考になった。
保持材という名前から、俺はどこか丈夫で長持ちする素材を想像していた。しかし、実際には定期的な点検や交換が必要になるものらしい。
そう考えると、以前に見つけた古い物資記録にも、少し違う見方ができるかもしれない。
俺はその考えを忘れないよう、手元のノートへ短く書き留めた。
それから、次の段落へ目を向ける。
そこには、交換作業を行う前に確認すべき事項が並んでいた。
使用年数、設置場所、周囲の魔力環境、過去の交換履歴。
そして最後に、少し気になる一文があった。
『交換対象の保持材については、旧材と新材の識別を確実に行うこと。外見が類似していても、使用履歴の異なる材を混同してはならない』
(……これ、結構重要なことが書いてあるんじゃないか?)
俺は思わずその部分を読み直した。
同じ種類の素材であっても、使用履歴が違えば扱いを変える必要がある。
つまり、保持材は見た目や材質だけでは状態を判断できない。
そして、古い記録に残された数量だけを見ても、それが新品なのか、使用済みなのかまでは分からない可能性がある。
俺は少し考えたあと、隣のエリオットへ声をかけた。
「エリオット、ちょっといい?」
彼はすぐに顔を上げた。
「うん。何か見つかった?」
「まだ何かが分かったってほどじゃないんだけど、少し気になる記述があってさ」
俺は研究録を彼の方へ少し寄せ、該当する部分を指さした。
エリオットは椅子を近づけ、俺が示した文章を丁寧に読み始めた。
彼の表情が、少しずつ真剣なものへ変わっていく。
「……なるほど。使用履歴の違う保持材を混同しないように、か」
「うん。これって、以前に見た物資記録を考えるときにも関係するかもしれないと思って」
エリオットはすぐには答えず、もう一度文章を読み返した。
それから、慎重に言葉を選ぶように口を開いた。
「確かに、関係する可能性はあると思う。でも、この研究録で扱っている保持材と、僕たちが調べている記録の素材が同じものかどうかは、まだ分からないよね」
「そうなんだよな。そこが一番難しいところなんだ」
俺は頷いた。
以前から調べている北方の古い記録には、白材や導材といった名称が登場している。
しかし、それらが具体的にどのような素材で、何に使用されていたのかは、まだ十分に分かっていない。
今回の研究録も、直接その答えを示しているわけではなかった。
エリオットは机の上に置かれた自分のノートを開き、以前まとめた項目を確認した。
「それなら、今は『保持材の管理方法に関する参考資料』として扱うのがよさそうだね。名称が似ているとか、用途が近そうだというだけで結びつけるのは危ないから」
「うん。俺もそう思う」
俺は少しだけ笑った。
エリオットと調査をしていると、こういうところで助けられる。
気になる記述を見つけると、俺はつい何か大きな発見につながるのではないかと期待してしまう。
しかし、エリオットはその期待を否定するのではなく、どこまでが分かっていて、どこからが推測なのかを一緒に考えてくれる。
それが、今の俺にはありがたかった。
「じゃあ、もう少し先まで読んでみるよ。交換記録の具体例も載ってるみたいだから」
「分かった。僕もこっちの資料を確認してみるね。何か関連しそうなことがあったら声をかけるよ」
エリオットは穏やかに微笑み、自分の席へ戻った。
俺も研究録へ視線を戻す。
窓の外では、夕日が少しずつ低くなり始めていた。
◇
第七章の中ほどには、保持材の交換作業に関する具体的な記録がいくつか載っていた。
ただし、すべての記録が完全に残っているわけではない。
古い写本をもとに編纂された資料らしく、ところどころに欠落した部分や、後世の研究者による注釈が挟まれている。
俺は一つずつ確認しながら、必要な部分だけをノートへ写していった。
最初の記録は、ある施設で使用されていた保持材の交換についてだった。
設置場所の詳細は伏せられており、施設の正式名称も書かれていない。
ただ、交換前の状態については比較的詳しく記されていた。
保持材の表面には目立った損傷がなかったものの、魔力の流れが一定の周期で乱れるようになったため、交換が行われたという。
(一定の周期で乱れる、か)
俺はその表現に少し引っかかった。
以前、北方の森で感じた魔力の異変にも、何らかの規則性があるように思えたことがあった。
しかし、それが同じ現象だと考えるには、情報が足りない。
何より、この研究録に書かれているのは、あくまで保持材の劣化に関する一般的な記録だ。
俺は自分の考えが先走らないよう、少しだけ息を整えた。
《マスター。現在の記述から、北方の異変との直接的な関連性を判断することはできません》
(分かってる。今は、こういう現象があるって覚えておくくらいだな)
《適切な判断です。なお、旧設定では一定周期で魔力が乱れる現象を『終焉の鼓動』と命名されております》
(……何でもかんでも終焉させようとするな、昔の俺)
《七度目の鼓動が世界に響いたとき、封印された力が解放される設定でございました》
(七回で世界が大変なことになるのかよ。もっと長持ちする封印にしてやれよ)
《当時のマスターは、七という数字に特別な魅力を感じておられたようです》
(それはもう十分分かってるから!)
俺は研究録の頁へ視線を落としながら、心の中で頭を抱えた。
中学生だった俺は、どうしてあそこまで数字にこだわっていたのだろうか。
三つの魔眼、六つの心装武器、七つの封印。
今思えば、数字を増やすだけで強そうに感じていたのかもしれない。
ただ、そんなことを考えている場合ではない。
俺は気を取り直し、次の記録へ目を向けた。
そこには、交換後の保持材を再使用しようとした際の問題が記されていた。
古い保持材を別の設備へ移し、魔力を通したところ、当初は正常に機能した。
しかし、使用を続けるうちに反応が不安定になり、周囲の魔導具にも影響が出たという。
原因については、いくつかの可能性が挙げられていた。
内部に残留した魔力。
長期間の使用による性質の変化。
そして、以前の設置環境との違い。
俺は最後の項目を見て、少し考え込んだ。
(設置環境が変わるだけでも、問題が起きることがあるのか)
《魔力を通す素材は、周囲の魔力濃度や属性の偏りによって挙動が変化する場合があります》
(なるほど。だから、別の場所へ持っていけば同じように使えるとは限らないんだな)
《そのとおりです》
アルカディアの説明を聞きながら、俺は研究録の注釈へ目を向けた。
そこには、再使用を行う場合、旧材に残る魔力の性質を調べることが推奨されると書かれていた。
ただし、その方法については詳しく説明されていない。
研究者によって判断基準が異なっていた可能性もあるらしい。
俺はノートへ書き留めた。
『保持材は、交換後に別用途へ転用できる場合がある。ただし、旧使用環境による影響を考慮する必要がある』
それから、少し迷って別の一文を付け加えた。
『北方の記録との関係は未確認』
これなら、後から読み返しても、どこまでが資料に書かれていた事実なのか分かるはずだ。
俺はペンを置き、少しだけ肩を回した。
長時間同じ姿勢で本を読んでいたせいか、首の辺りが少し凝っている。
窓の外へ目を向けると、夕日はすでに建物の屋根へ近づいていた。
そろそろ図書館を出る時間を考えた方がよさそうだ。
そう思ったところで、隣のエリオットが小さく声をかけてきた。
「シュウ、ちょっとこっちも見てもらっていい?」
俺は顔を上げた。
「うん。何かあった?」
エリオットは自分のノートをこちらへ向けた。
そこには、古い物資記録に登場した名称がいくつか並んでいる。
「前に確認した記録を整理してたんだけど、少し気になることがあってさ」
彼は一つの項目を指さした。
「この『返納』って言葉、僕たちは今まで、使わなかった物資を戻したという意味で考えていたよね」
「うん。普通に考えたら、そういう意味だと思うけど」
「でも、もし交換後の古い素材を戻した場合にも使われていたなら、同じ言葉でも意味が変わってくるんじゃないかな」
俺は思わず目を見開いた。
確かに、その可能性は考えていなかった。
物資の返納と聞けば、未使用のものを倉庫へ戻すような場面を想像してしまう。
しかし、交換した古い部品を回収する場合にも、同じ言葉が使われることはあり得る。
「……なるほど。返納されたからって、必ずしも新品とは限らないのか」
エリオットは頷いた。
「もちろん、実際にそうだったかどうかは分からないよ。でも、今日の研究録を読んで、少し気になったんだ」
俺は彼のノートを見つめた。
新しい発見というより、これまでの考え方を見直すきっかけに近い。
それでも、こういう小さな違いが、古い記録を読むときには大切なのかもしれない。
「ありがとう、エリオット。これ、結構大事な視点だと思う」
「そうかな?」
「うん。俺、一度こういう意味だって思うと、他の可能性を見落としがちだからさ」
俺が笑うと、エリオットは少し照れくさそうに微笑んだ。
「僕も同じだよ。だから、一緒に調べてると助かるんだと思う」
その言葉を聞き、俺は自然と頷いた。
調査を始めたころは、何か分からないことがあれば、自分で全部調べなければならないと思っていた。
けれど、今は違う。
エリオットと意見を交わすことで、同じ資料から別の可能性を見つけられる。
それが、少しずつ当たり前になってきていた。
◇
俺たちはその後、研究録の残りを確認することにした。
第七章は思っていたより長く、交換記録の後にもいくつかの注意事項が続いている。
その中には、保持材を保管する際の環境について書かれた部分もあった。
湿度の高い場所を避けること。
異なる性質の魔力を帯びた素材を不用意に近づけないこと。
そして、使用済みの保持材を長期間保管する場合には、定期的な状態確認を行うこと。
俺はそれらを読みながら、少しだけ首を傾げた。
「……結構、扱いが難しい素材なんだな」
エリオットも頁を覗き込み、頷いた。
「そうだね。便利なものでも、管理を間違えると問題が起きるんだろうね」
「魔導具って、もっと簡単に使えるものだと思ってたよ」
俺がそう言うと、エリオットは少し笑った。
「シュウは、魔法で何でもできそうな印象があるからね」
「いやいや、そんなことないって」
俺は慌てて首を振った。
実際には、アルカディアの力を使えば、普通では考えられないことまでできるのかもしれない。
しかし、それを理由に、魔法や魔導具の仕組みを学ばなくていいとは思わなかった。
むしろ、今日の授業で感じたように、細かな技術を知ること自体が面白い。
「今日の実技でも思ったけどさ、魔法って強く使えばいいわけじゃないんだよな」
俺は研究録を見つめながら言った。
「同じ魔力でも、通し方とか、周りの環境とか、使う道具によって結果が変わる。そういうのを考えるの、結構好きかもしれない」
エリオットは嬉しそうに微笑んだ。
「僕も好きだよ。最初は難しく感じるけど、少しずつ仕組みが分かってくると楽しいよね」
俺は頷いた。
前世の俺は、魔法というものを、もっと単純な力として想像していた。
強い魔法を覚えれば強くなれる。
すごい武器を持てば勝てる。
そんな考え方ばかりしていた気がする。
けれど、実際に魔法が存在する世界へ来てみると、それだけでは済まないことが分かってきた。
魔法を扱う技術。
魔導具を作る知識。
そして、それらを長く使い続けるための工夫。
どれも、誰かが時間をかけて積み重ねてきたものなのだろう。
(……昔の俺に、この研究録を読ませてやりたいな)
《おそらく、当時のマスターは三頁ほど読んだところで、究極素材の設定を追加されるかと》
(やめろ。すごくありそうだから)
《名称は『原初より存在せし絶対不滅の神魔鉱』などが適切でしょう》
(名前が長い! しかも、また不滅って言ってる!)
《さらに、その素材を加工できるのは世界で唯一マスターのみという設定を――》
(職人さんたちの仕事を奪うな!)
俺は思わず肩を震わせた。
エリオットが不思議そうにこちらを見る。
「シュウ? どうかした?」
「いや、ちょっと変なこと考えちゃって」
「変なこと?」
「……昔、自分で考えた魔法の名前を思い出したんだ」
俺がそう答えると、エリオットは少し興味深そうに目を輝かせた。
「へえ。シュウって、自分で魔法の名前を考えたりするんだ?」
しまった。
余計なことを言ってしまった。
俺は慌てて首を振った。
「いや、子どものころの話だよ! ほら、強そうな名前を考えるのって、ちょっと楽しいじゃない?」
エリオットはしばらく考えたあと、穏やかに笑った。
「うん、分かる気がする。僕も小さいころ、風魔法に格好いい名前をつけようとしたことがあるよ」
「えっ、エリオットも?」
俺は思わず身を乗り出した。
意外だった。
エリオットは普段、落ち着いていて真面目な印象が強い。
そんな彼にも、魔法の名前を考えていた時期があったらしい。
エリオットは少し照れくさそうに頬をかいた。
「うん。でも、今思い出すとちょっと恥ずかしいかな」
「……分かる。ものすごく分かる」
俺は深く頷いた。
その瞬間、頭の中でアルカディアが静かに告げた。
《マスター。よろしければ、当時の魔法名一覧を読み上げましょうか》
(絶対にやめろ!)
《『深淵を裂く漆黒の終焉刃』『天界を焼き尽くす紅蓮の――』》
(やめろって言ってるだろ!)
俺は必死に表情を保ちながら、研究録へ視線を戻した。
エリオットは俺の反応を、昔の思い出が恥ずかしくなっただけだと思ったらしい。
彼は小さく笑い、それ以上は尋ねてこなかった。
助かった。
本当に助かった。
もし、アルカディアが考えた魔法名を全部読み上げ始めたら、俺はこの図書館から逃げ出したくなっていたかもしれない。
◇
研究録の最後の数頁には、交換作業を行った者たちへの注意事項がまとめられていた。
その内容は、これまでの記録を踏まえた実務的なものだった。
交換前後の状態を記録すること。
使用済みの素材を不用意に再利用しないこと。
保管場所を明確にすること。
そして、何か異常が発生した場合には、素材そのものだけでなく、周囲の設備や魔力環境も確認すること。
俺は最後の一文を読み、少しだけ考え込んだ。
これまで、北方の森で見つかった異変について考えるとき、俺はどうしても一つ一つの現象に目を向けていた。
黒く変色した土。
不自然な魔力の流れ。
古い石扉。
そして、あの場所で感じた奇妙な気配。
けれど、それらが別々の問題なのか、それとも何らかの関係を持っているのかは、まだ分かっていない。
今回の研究録は、その答えを教えてくれるものではなかった。
ただ、一つの現象だけを見て判断するのではなく、周囲の環境や過去の使用履歴まで考える必要があるという視点を与えてくれた。
(……そう考えると、まだ調べなきゃいけないことが多いな)
俺は小さく息を吐いた。
調査を進めるほど、分からないことが増えていくような気もする。
しかし、それは必ずしも悪いことではないのかもしれない。
以前なら、分からないことが増えるたびに、早く答えを見つけたいと焦っていた。
今は、少しずつ確認していくことにも意味があると思えるようになってきた。
俺は研究録を閉じ、ノートへ最後の一文を書き加えた。
『保持材の異常は、素材単体だけでなく、周囲の設備・魔力環境・使用履歴を含めて確認する必要がある』
それから、少し迷って別の頁を開いた。
そこには、北方の調査についてまとめた項目がある。
俺は今日確認した内容を、直接の証拠ではなく、参考になる考え方として書き加えた。
エリオットも隣でノートを閉じ、俺の方へ顔を向けた。
「シュウ、そろそろ時間かな」
「うん。今日はこのくらいにしておこうか」
俺たちは研究録を丁寧に閉じ、机の上を片づけた。
窓の外では、夕日が建物の向こうへ沈みかけている。
図書館の中には、少しずつ夜の気配が入り始めていた。
俺は研究録を抱え、エリオットと一緒に閲覧室を出た。
受付へ戻ると、マティアス・レンが書類を整理していた。
彼は俺たちの姿を見ると、穏やかに顔を上げた。
「調べものは進みましたか?」
「はい。今日は第七章まで確認できました」
俺が答えると、マティアスは小さく頷いた。
「それはよかった。古い研究録は、現在の魔法理論と異なる部分もありますが、当時の考え方を知るうえでは参考になりますからね」
「そうですね。思っていた以上に、細かい管理の話が書かれていて驚きました」
マティアスは少し笑った。
「魔導具や魔法素材の研究は、華やかな発見ばかりではありません。実際には、地道な観察や管理の積み重ねが大きな意味を持つことも多いのです」
俺はその言葉に頷いた。
今日の授業でも、似たようなことを感じた。
魔法を使う楽しさと、それを支える技術。
どちらも、俺にとっては新鮮なものだった。
「また続きを読みに来ます」
「ええ。いつでもどうぞ」
俺たちは礼を言い、図書館を後にした。
◇
外へ出ると、夕方の風が頬を撫でた。
学院の石畳には長い影が伸び、遠くの訓練場からは、まだ練習を続けている学生たちの声が聞こえてくる。
俺とエリオットは並んで男子寮へ向かって歩き始めた。
しばらくは、互いに今日の調査について考えていた。
やがて、エリオットが静かに口を開いた。
「シュウ、今日の研究録、読んでよかったね」
「うん。直接何かが分かったわけじゃないけど、考え方が少し変わった気がする」
俺が答えると、エリオットは頷いた。
「僕もそう思う。特に、返納された物資が必ずしも未使用とは限らないって可能性は、今まで考えてなかったから」
「そうだね。でも、そこは別の記録でも確認したいな」
「うん。古い帳簿の用語を調べられる資料があれば、参考になるかもしれない」
俺は少し考えた。
確かに、物資記録に使われている言葉の意味を確認できれば、今まで読み取れなかった部分も理解しやすくなるかもしれない。
ただし、それを探すには時間がかかりそうだ。
「今度、図書館でそういう資料があるか聞いてみようか」
「いいね。僕も探してみるよ」
エリオットは穏やかに微笑んだ。
俺たちはそのまま寮へ向かって歩いた。
途中、中央広場の近くで、数人の学生が魔法の練習について話しているのが聞こえた。
今日の実技授業で使った魔力応答球の話らしい。
ある学生は水属性で上手くいったと話し、別の学生は風属性を使った方が安定したと言っている。
俺はその会話を聞きながら、少し笑った。
同じ課題でも、いろいろな方法がある。
そして、それぞれの方法には、きっと工夫や失敗があったのだろう。
そんなことを考えていると、エリオットがこちらへ顔を向けた。
「そういえば、シュウ。今日の実技、結構楽しそうだったね」
「うん。ああいう課題、好きなんだよ」
「僕も楽しかったよ。シュウが石を加工してくれたおかげで、上手くいったし」
「いや、エリオットが水の流れを整えてくれたからだよ。俺一人だったら、あんな方法は思いつかなかったかもしれない」
エリオットは少し照れくさそうに笑った。
「そう言ってもらえると嬉しいな」
俺も笑い返した。
昨日の合同演習で、仲間と協力することの大切さを改めて感じた。
今日の授業では、その協力が楽しいものでもあると実感できた。
そして、図書館では、互いの考えを持ち寄ることで、新しい見方を見つけられた。
どれも派手な出来事ではない。
それでも、今の俺にとっては十分に意味のある一日だった。
◇
男子寮317号室へ戻るころには、外はすっかり薄暗くなっていた。
俺たちは荷物を置き、夕食までの短い時間をそれぞれ自由に過ごすことにした。
エリオットは机へ向かい、今日の授業で使ったノートを整理し始めた。
俺も自分の机へ座り、図書館で書いた内容を読み返す。
保持材の交換記録。
使用済み素材の再利用。
返納という言葉の意味。
そして、周囲の魔力環境との関係。
今日確認したことは、どれも直接的な答えではなかった。
しかし、今までより少しだけ、調べるべき方向が見えてきた気がする。
俺はノートを閉じ、椅子の背もたれへ身体を預けた。
(……それにしても、異世界に来てまで古い資料を調べることになるとは思わなかったな)
《マスター。前世でも、資料を調べることはお嫌いではなかったはずです》
(まあ、仕事で調べものをすることはあったけどさ。こんな魔法素材の研究録を読むなんて、想像もしてなかったよ)
《しかし、現在のマスターは楽しんでおられるように見受けられます》
俺は少しだけ考えた。
確かに、楽しい。
分からないことが多いのは大変だが、少しずつ知識が増えていく感覚は嫌いではない。
それに、エリオットと一緒に調べていると、自分一人では気づかなかったことも見つかる。
(……うん。結構楽しいよ)
《それは何よりです》
アルカディアの声は、いつもより少し穏やかに聞こえた。
俺は小さく笑った。
しかし、次の瞬間、彼女は何事もなかったかのように続けた。
《なお、旧設定におけるマスターは、あらゆる知識を生まれながらにして理解している存在でした》
(台無しだよ!)
《世界の歴史、魔法の理、失われた古代文字、さらには未来の出来事まで把握しているという設定でございます》
(そんな設定にしたら、調べものする楽しみがなくなるだろ!)
《当時のマスターは、知識を得る過程よりも、すべてを知っている存在として周囲から尊敬されることを重視されていたようです》
(……昔の俺、本当に面倒くさいやつだな)
俺は額を押さえた。
もし、昔の俺が考えた設定をすべてそのまま受け入れていたら、今の学院生活はどうなっていただろうか。
授業で学ぶ必要もなく、研究録を読む必要もなく、誰かに相談する必要もない。
そんな生活は、一見すると便利かもしれない。
けれど、今の俺は、それを少しも羨ましいとは思わなかった。
エリオットと一緒に考え、フィンたちと魔法を使い、セシリアやミリアの意見を聞く。
そうした時間があるからこそ、学院生活は楽しいのだと思う。
(……何でも知ってるより、知らないことを一緒に調べる方がいいかもしれないな)
《マスターらしいお考えです》
アルカディアは静かに答えた。
俺は少しだけ微笑み、机の上に置かれたノートへ目を向けた。
そのとき、隣の机からエリオットの声が聞こえた。
「シュウ、明日の授業の準備、もう終わった?」
「あっ、まだだった」
俺は慌てて時間割を確認した。
明日は魔法理論の授業があり、指定された教本を持っていく必要がある。
俺は鞄を開き、必要な本を取り出した。
エリオットはそんな俺を見て、楽しそうに笑っている。
「シュウって、調べものに集中すると、他のことを忘れちゃうときがあるよね」
「……否定できない」
俺が苦笑すると、エリオットも笑った。
俺たちは明日の準備を進めながら、今日の授業についてもう少し話した。
魔力応答球の仕組み。
フィンとユリウスが作った石の通路。
セシリアとミリアが試した水と光の組み合わせ。
話しているうちに、夕食の時間が近づいてきた。
俺は鞄を閉じ、椅子から立ち上がった。
「じゃあ、そろそろ食堂へ行こうか」
「うん。今日は何が出るかな」
エリオットは楽しそうに笑い、俺と一緒に部屋を出た。
廊下には、同じように食堂へ向かう学生たちの声が響いている。
俺たちはその流れに加わり、階段を下りていった。
今日も、特別な事件が起きたわけではない。
けれど、魔法を使い、古い資料を読み、友人と笑い合うことができた。
それだけで、十分に充実した一日だったと思う。
そして、北方の森に関する謎も、まだ何一つ終わっていない。
研究録の第七章で見つけた記述が、いつか何かの手がかりになるのかもしれないし、まったく別の意味を持つのかもしれない。
今は、まだ分からない。
それでも、分からないことがあるからこそ、明日も調べてみたいと思える。
俺はエリオットと並んで歩きながら、静かに笑った。
前世の俺が考えた最強の主人公は、きっとこんな日常を想像していなかっただろう。
でも、今の俺は、この生活を結構気に入っている。
《マスター。ちなみに、旧設定では日常生活の最中にも、突然世界を揺るがす事件が発生する予定となっております》
(頼むから、今日は夕飯くらい普通に食べさせてくれ!)
俺の心の叫びに、アルカディアはいつも通り冷静な声で答えた。
《承知しました。少なくとも、現時点で世界を揺るがす事件が発生する兆候は確認されておりません》
(……その言い方、ちょっと不安になるんだけど)
《事実を申し上げたまでです》
俺は思わず苦笑した。
まったく、この相棒は最後まで油断ならない。
それでも、そんなやり取りをしながら食堂へ向かう時間が、今ではすっかり当たり前になっていた。
学院の窓の向こうでは、夜の帳がゆっくりと下り始めている。
俺たちの一日は、こうして穏やかに終わろうとしていた。




