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『黒歴史ノートが異世界で最強の魔導書になっていました』  作者: 伊佐波瑞樹


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第80話 合同演習の終わりに、俺たち第四班が選んだ答え


 手の中にある連絡札が、淡い青色の光を放っていた。


 森の中を吹き抜ける風が枝葉を揺らし、湿った土と草の匂いを運んでくる。少し離れた場所では、先ほどまで小さな崩れが続いていた水路沿いの斜面を、学院の補助職員が慎重に確認していた。


 俺たち第四班は、その作業の邪魔にならない場所で、巡回本部からの指示を待っている。


『第四班、こちら巡回本部。南側迂回路の一部通行制限に伴い、今後の行動について指示します』


 連絡札から聞こえてきた女性の声に、俺は自然と背筋を伸ばした。


「第四班班長、シュウ・アルヴェインです。指示をお願いします」


『現在地から南側出口へ向かう指定経路は、地表状態の再確認が必要となったため、当面の間、通行を停止します。第四班は巡回教員の誘導に従い、東側確認地点の手前に設置された補助退避路を経由して、演習区域の外へ戻ってください』


 俺は地形図へ目を落とした。


 東側確認地点の手前には、確かに細い補助通路が描かれている。出発前の確認でも、ミリアがその存在に気づいていたが、正式な指定経路に含まれているかどうか分からなかったため、勝手に使わないことにしていた道だ。


 その通路を、今回は教員の誘導で使うらしい。


「確認します。第四班は現在地から巡回教員の誘導で補助退避路へ向かい、演習区域外へ戻る、ということでよろしいでしょうか」


『そのとおりです。ただし、現在地から退避路までの移動は、巡回教員が安全を確認した経路に限ります。独断で戻り始めないでください』


「分かりました。現在地で待機し、巡回教員の指示を待ちます」


 俺が答えると、連絡札の向こうで短く紙を動かすような音がした。


『また、第四班の合同演習については、南側出口への到達を求めず、現時点までの行動記録をもって実施内容を確認します。負傷者の発見と通行制限への対応についても、演習中の判断として記録してください』


 俺は思わず顔を上げた。


 南側出口には到達できない。


 それでも、演習そのものが失敗として扱われるわけではないらしい。


「了解しました。班員にも共有します」


『最後に、第四班全員の体調を確認します。負傷や歩行困難を訴えている者はいませんか』


「現在、四人とも負傷はありません。歩行にも支障はありません」


『了解しました。巡回教員が到着するまで待機してください』


 通信が終わると、連絡札の光がゆっくりと弱まった。


 俺は札を鞄へしまわず、そのまま手に持って三人へ向き直った。


「指示が来たよ。南側出口へは進まず、先生の誘導で補助退避路から戻ることになった。演習は、ここまでの行動を記録して確認してもらえるみたいだ」


 最初に反応したのはフィンだった。


「そっか……。やっぱり、南側出口までは行けないんだな」


 彼は少し残念そうに笑い、森の奥へ続く道を見つめた。


 その気持ちは、俺にも分かった。


 出発前から何度も地形図を確認し、中央斜面が使えなかった場合の迂回路まで考えてきた。東側確認地点も通過し、あとは南側の出口へ向かうだけというところまで来ていたのだ。


 だからこそ、途中で引き返すことになったのは、少し悔しい。


「俺も最後まで行ってみたかったよ。でも、今の道を進むわけにはいかないしね」


 俺が答えると、フィンは大きく頷いた。


「うん。それは分かってる。怪我した人もいたし、地面も崩れてるんだから、無理に進む方がおかしいよな」


 セシリアは地形図を覗き込みながら、穏やかな声で言った。


「補助退避路を使うことになるんですね。出発前には通行できるか分からなかった道ですけど、今回は先生が誘導してくださるなら安心です」


 ミリアも頷いた。


「はい。通行の許可があることと、実際に安全な状態であることは、別に確認する必要がありますね。先生の指示を聞いてから移動するようにします」


 俺は三人の言葉を聞き、少しだけ肩の力を抜いた。


 予定通りに進めなかったことへの残念さはある。


 それでも、誰も勝手に先へ進もうとはしていなかった。


 俺たちはもう、最初に集まったときの第四班とは少し違っているのかもしれない。


     ◇


 巡回教員のローディン・ヘルツ先生が戻ってきたのは、それから間もなくだった。


 先生は地形図を片手に、俺たちのところへ歩いてくる。


 その後ろには、先ほど負傷者の搬送を手伝っていた学院職員が一人続いていた。


「第四班、巡回本部からの指示は受けたな?」


「はい。補助退避路を通って演習区域外へ戻ると聞いています」


 俺が答えると、先生は頷いた。


「そのとおりだ。ただし、ここから補助退避路までは、来た道をそのまま戻るわけではない。水路沿いの地面に不安定な部分があるため、少し離れた場所を通る」


 先生は地形図を広げ、現在地から西側へ伸びる細い道を示した。


 そこは、俺たちが通ってきた木橋より少し北側に位置している。


「この経路は普段、演習区域の管理に使われている。学生が自由に通行する道ではないが、今朝の点検では問題が見つかっていない。私が先導するので、班員全員でついてきてくれ」


 俺は地形図を見つめた。


 先生が示した道は、俺たちの持っている地形図にも薄く描かれている。


 ただし、通常の指定経路とは違い、細かな標識の番号までは記されていなかった。


「先生、確認してもいいですか?」


「もちろんだ」


「この経路を通る間も、俺たちが自分たちで判断して進むんじゃなくて、先生の誘導を優先するということでいいんですよね」


 ローディン先生は頷いた。


「ああ。今回の移動は、演習の継続ではなく退避のための移動だ。班として周囲の状態を確認することは構わないが、進路の決定は私が行う」


「分かりました」


 俺は三人へ向き直った。


「みんな、今の説明は大丈夫?」


 フィンは頷いた。


「問題ない。先生についていけばいいんだな」


 セシリアも落ち着いた表情で答えた。


「はい。足元の状態には引き続き注意します」


 ミリアは地形図を見ながら、少し考えた。


「退避経路については、先生から説明を受けた内容として記録しておきます。私たちが事前に確認した経路ではないことも、分けて書いた方がよさそうですね」


 先生はその言葉を聞き、少しだけ目を細めた。


「そうだな。よい記録の仕方だと思う」


 ミリアは少し驚いたように顔を上げたが、すぐに小さく頭を下げた。


 俺はその様子を見て、少し嬉しくなった。


 以前のミリアなら、教員の前で自分の考えを口にすることにも、もっと慎重だったかもしれない。


 けれど、今は必要だと思ったことを、自然に言葉にできている。


 その変化は、俺たちにとっても心強かった。


 ローディン先生は地形図を畳み、前方へ視線を向けた。


「では、移動を開始する。足元の状態が変わった場合は、すぐに知らせてくれ」


 俺たちは頷き、先生の後ろへ並んだ。


     ◇


 補助退避路へ向かう道は、これまで歩いてきた演習経路とは少し雰囲気が違っていた。


 木々の間には細い踏み跡が続き、道の両側には低い草が生えている。ところどころに管理用の小さな標識が立っているものの、学生向けの案内板ほど目立つものではなかった。


 ローディン先生は先頭を歩き、足元を確認しながら進んでいる。


 俺たちはその後ろを、一定の間隔を保ってついていった。


 フィンは周囲の地面へ視線を向け、セシリアは最後尾から全員の様子を確認している。


 ミリアは記録帳を鞄へしまい、歩行中は足元の確認を優先していた。


 しばらく進んだところで、道の右側に小さな石積みが見えてきた。


 高さは膝ほどしかなく、表面には苔が生えている。


 俺は何気なく目を向けたが、その石積みの一部に、古い文字のようなものが刻まれていることに気づいた。


(……ん?)


 俺は少しだけ足を緩めた。


 石の表面は風化しており、文字の大部分は読めない。


 ただ、何かの番号か記号のようなものが残っている。


 俺が視線を向けていることに気づいたのか、ミリアが小さく声をかけてきた。


「シュウさん、どうかしましたか?」


「ああ、いや。あの石積みに何か書いてあるみたいだなって思って」


 ミリアも石積みへ目を向けた。


 しかし、すぐに首を傾げた。


「確かに、文字のようなものがありますね。でも、ここからでは読めません」


 俺は頷いた。


「うん。今は退避中だし、近づいて確認するのはやめておこう」


 その言葉に、ミリアは少し安心したように微笑んだ。


「そうですね。気になることがあっても、今の目的とは分けて考えた方がよさそうです」


 俺は小さく笑った。


「……最近、そういうことを言われると、すごく納得するんだよな」


 ミリアは少し不思議そうな顔をしたが、すぐに控えめに笑った。


 俺たちは石積みを通り過ぎ、先生の後ろを歩き続けた。


 頭の中では、アルカディアが静かに声をかけてきた。


《マスター。今の石積みについて、詳しく確認されないのですか?》


(今はいいよ。退避中だし、あれが何なのか分からないから)


《以前のマスターであれば、古代の封印石である可能性を疑い、即座に調査を開始されていたことでしょう》


(昔の俺なら、道端の石でも全部封印石にしてそうだな)


《実際、設定資料には『世界各地に眠る七十二の封印石』という記述がございます》


(……そんなに作ってたのかよ)


《なお、配置場所の詳細は未記入です》


(そこが一番大事だろ!)


 俺は思わず笑いそうになり、慌てて口元を引き締めた。


 危ない。


 今、声に出していたら、絶対にフィンに不思議がられていた。


 アルカディアは相変わらず、俺の黒歴史を遠慮なく掘り返してくる。


 けれど、今日はそのやり取りが少しだけありがたかった。


 怪我人の声を聞いてから、ずっと気を張っていたからだ。


 もちろん、今も油断してよい状況ではない。


 それでも、少しだけ気持ちを落ち着けることができた。


     ◇


 補助退避路を進んでいる途中、ローディン先生が足を止めた。


 前方には、道を横切るように倒れた細い枝があった。


 太さはそれほどないものの、地面に斜めに落ちており、そのまま進めば足を引っかける可能性がある。


 先生は周囲を確認し、俺たちへ振り返った。


「ここは一度止まってくれ。枝を避けて通れるか確認する」


 俺たちはすぐに足を止めた。


 フィンは倒れた枝を見つめ、少し考えたようだった。


「先生、俺が土属性で枝の下の地面を少し持ち上げれば、通りやすくできるかもしれませんけど……」


 その言葉に、俺は一瞬だけ驚いた。


 しかし、フィンはすぐに続けた。


「……でも、今は勝手にやらない方がいいですよね」


 ローディン先生は少しだけ笑った。


「そうだな。まずは、魔法を使わずに通れるか確認しよう。枝を動かす必要があるなら、こちらで対応する」


 先生は枝の位置を確かめ、道の右側にある少し広い場所を示した。


「こちらなら、枝に触れずに通れる。ただし、足元に木の根があるので、一人ずつ確認して進んでくれ」


 俺たちは頷き、先生の指示に従って進んだ。


 フィンは枝を避けながら、少し照れくさそうに笑った。


「……俺、また魔法で何とかしようとしてたな」


 俺は小さく首を振った。


「でも、今回はちゃんと確認してから言ってたじゃん。それならいいと思うよ」


 フィンは少し驚いたように俺を見た。


「そうか?」


「うん。魔法を使えること自体は悪くないんだし、必要なら使えばいいんだと思う。ただ、今は先生が判断する場面だからさ」


 フィンは少し考えたあと、大きく頷いた。


「……そうだな。俺、魔法を使うか使わないかってことばっかり考えてたけど、誰が判断するかも大事なんだな」


 セシリアも穏やかに微笑んだ。


「そうですね。私も治癒魔法を使えるからこそ、怪我をした方のところへ行きたいと思いました。でも、先生が対応してくださっているなら、私たちが勝手に動くべきではありませんでした」


 ミリアは二人の言葉を聞きながら、静かに頷いた。


「私も、記録を残すことに集中しすぎると、周囲の安全確認がおろそかになるかもしれません。自分の得意なことだけを考えないようにしたいです」


 俺は三人の言葉を聞き、少しだけ胸が温かくなった。


 誰も、自分の得意なことを否定しているわけではない。


 ただ、それをいつ、どのように使うべきなのかを考えている。


 俺自身も、同じことを学んでいる途中だった。


     ◇


 やがて、木々の間から明るい光が差し込むようになった。


 道の先には、演習区域の外周に設置された低い柵が見えている。


 その向こうには、学院の管理用通路が続いていた。


 ローディン先生は柵の近くで足を止め、俺たちへ振り返った。


「ここまで来れば、演習区域の外だ。全員、怪我はないな?」


 俺たちはそれぞれ体調を確認し、問題がないことを伝えた。


 先生は頷き、補助職員へ連絡札を渡した。


「第四班、退避完了。全員無事だ」


 職員が巡回本部へ報告するのを見ながら、俺は小さく息を吐いた。


 ようやく、森の中から出られた。


 朝から続いていた緊張が、少しずつ身体から抜けていくのを感じる。


 フィンも大きく肩を回した。


「……はあ。なんか、すげえ長く感じたな」


 俺は思わず笑った。


「分かる。実際に歩いた距離だけなら、そんなに長くないはずなんだけどね」


 セシリアは水筒を取り出し、少しだけ水を飲んだ。


「緊張している時間が長かったですからね。怪我人の声を聞いてからは、特に」


 ミリアも頷いた。


「私も、記録帳を開いている時間より、周囲を確認している時間の方が長かった気がします」


 俺は三人の顔を見回した。


 誰も怪我をしていない。


 それだけで、今は十分に嬉しかった。


 ローディン先生は俺たちへ向き直り、落ち着いた声で言った。


「第四班、ここからは集合広場へ戻ってもらう。到着後、担当教員へ退避完了を報告し、記録用紙を提出すること」


「分かりました」


 俺たちは頷き、先生へ礼を言った。


 先生は少しだけ表情を和らげた。


「今日のことは、あとでしっかり振り返っておくといい。君たちにとって、よい経験になったはずだ」


 俺は頷いた。


「はい。ありがとうございました」


 先生に見送られ、俺たちは管理用通路を歩き始めた。


     ◇


 集合広場へ戻ると、すでに何組かの班が帰還していた。


 広場の端には、演習を終えた学生たちが集まり、互いの経路で起きたことを話している。


 中には、服に泥が付いている学生や、疲れたように座り込んでいる学生もいた。


 俺たちは担当教員のところへ向かい、第四班として退避完了を報告した。


 教員は記録用紙を受け取り、内容を確認しながら頷いた。


「第四班は、負傷者の発見と経路の通行制限に対応した班だな。巡回本部から報告を受けている」


「はい」


 俺が答えると、教員は記録用紙へ目を落とした。


「東側確認地点での観察結果、負傷者の声を聞いた時点での判断、連絡札の使用、待機中の地面の変化……。それぞれ、時系列に沿って記録できているな」


 ミリアは少しだけ緊張した表情になった。


 教員は彼女の記録を見ながら続けた。


「確認できていない部分も、そのまま残してある。よいことだ。あとから調べれば分かることと、その場では分からなかったことを区別できている」


 ミリアは小さく頭を下げた。


「ありがとうございます」


 教員は記録用紙へ確認印を押し、俺たちへ返した。


「第四班の演習は、ここで終了とする。正式な講評は後日行うが、今日は十分に休むように」


 俺は頷いた。


「分かりました。ありがとうございました」


 四人で礼をしてから、俺たちは広場の端へ移動した。


 そこでようやく、演習が終わったのだと実感した。


 フィンは近くの長椅子へ腰を下ろし、大きく息を吐いた。


「……終わったなあ」


 俺も隣へ座り、鞄を足元へ置いた。


「うん。終わったね」


 セシリアは少し離れた場所で水筒を取り出し、ミリアも記録帳を鞄へしまった。


 しばらくの間、俺たちは何も話さず、広場を行き交う学生たちを眺めていた。


 朝、ここを出発したときには、もっと普通に森を歩いて戻ってくるものだと思っていた。


 しかし、実際には怪我人の声を聞き、地面の崩れを確認し、予定していた出口へ到達することなく退避することになった。


 それでも、演習を終えた今、不思議と失敗したという気持ちはなかった。


 もちろん、もっと上手くできたことはあると思う。


 連絡札のことをすぐに思い出せなかったし、待機場所の安全も最初から十分に確認できていたわけではない。


 けれど、そのたびに仲間たちが気づき、意見を出してくれた。


 俺たちは一人ではなく、四人で判断していた。


「なあ、シュウ」


 フィンが隣から声をかけてきた。


「今日の演習、俺たちって結局、ちゃんとできたのかな」


 俺は少し考えた。


 南側出口には到達できなかった。


 予定していた経路も、最後まで歩けていない。


 それだけを見れば、目標を達成できなかったようにも思える。


 しかし、学院の教員は、速さや到達だけが目的ではないと繰り返し説明していた。


 俺はフィンへ向き直った。


「……全部が上手くできたとは思わない。でも、必要なときに止まれたし、先生に報告もできた。何より、四人とも怪我なく戻ってこられた。それは、ちゃんとできたことだと思う」


 フィンは少し考えたあと、笑った。


「そっか。そうだよな」


 セシリアも頷いた。


「私も、今日のことは大切な経験になったと思います。予定通りに進めなかったことより、何が起きたときにどう行動したかを、きちんと振り返りたいです」


 ミリアは少しだけ迷うような表情を浮かべたあと、静かに口を開いた。


「私は……今日、皆さんと同じ班でよかったと思いました」


 俺たちは一斉に彼女へ目を向けた。


 ミリアは少し驚いたように肩を揺らしたが、今度は視線を逸らさなかった。


「最初は、自分の観察が間違っていたらどうしようと思っていました。でも、皆さんがちゃんと聞いてくださったので、分からないことも伝えられました」


 彼女は記録帳を胸の前で抱え、控えめに微笑んだ。


「今日、私が気づいたことが少しでも役に立ったのなら、嬉しいです」


 フィンはすぐに笑った。


「少しどころじゃないだろ。連絡札の説明紙、ミリアが持ってなかったら、俺たちどうしてたか分かんないぞ」


 セシリアも穏やかに頷いた。


「そうですね。記録も、ミリアさんが丁寧にまとめてくださったおかげで、先生へ正確に伝えられました」


 俺も笑って頷いた。


「うん。ミリアがいてくれて、本当に助かったよ」


 ミリアは少し頬を赤くしながら、小さく頭を下げた。


「……ありがとうございます」


 その姿を見て、俺は胸の奥が温かくなるのを感じた。


 今日の演習で得たものは、記録用紙に書かれた内容だけではない。


 俺たちは、互いのことを少しずつ理解し、信頼できるようになっている。


 それが、何より大きな成果なのかもしれなかった。


     ◇


 しばらく休んでいると、広場の向こうから見覚えのある声が聞こえてきた。


「シュウ!」


 顔を上げると、エリオット・ファーレンがこちらへ歩いてきていた。


 隣にはユリウス・ベルンもいる。


 二人とも演習用の服を着ており、靴には少し泥が付いていた。


「エリオット! そっちも戻ってきたんだ」


 俺が立ち上がると、エリオットは穏やかに笑った。


「うん。第二班も無事に戻れたよ。ただ、途中で経路の変更があって、少し時間がかかったんだ」


 ユリウスも頷いた。


「中央斜面が使えなかった影響で、いくつかの班が同じ経路へ集中した。俺たちは教員の指示で待機してから進んだが、特に問題はなかった」


 俺は二人の説明を聞き、少し安心した。


「そっか。怪我がなくてよかった」


 エリオットは俺たち第四班の様子を見回し、少し心配そうな表情になった。


「それより、シュウたちは大丈夫だった? 南側の経路で怪我人が出たって聞いたんだけど」


 俺は頷いた。


「うん。俺たちが進んでる途中で、指定経路の外から助けを求める声が聞こえたんだ。先生に連絡して、怪我した人は搬送してもらったよ」


 エリオットは少し驚いたように目を見開いた。


「そうだったんだ……。大変だったね」


「うん。でも、第四班のみんなは怪我してないし、先生の誘導で無事に戻れたから大丈夫」


 ユリウスは少し考えたあと、俺へ尋ねた。


「負傷者の状態は確認できたのか?」


「先生の説明では、右足首を痛めてるみたいだった。詳しいことは医療担当の人が確認するって言ってたよ」


 俺が答えると、ユリウスは頷いた。


「なるほど。なら、今の段階でそれ以上のことは分からないな」


「うん。そういうこと」


 エリオットは少し安心したように息を吐いた。


「でも、シュウたちが連絡してくれてよかった。怪我した人も、きっと助かったと思う」


 俺は少し照れくさくなりながら笑った。


「俺一人じゃなくて、みんなで判断したんだよ」


 フィンが隣から顔を出した。


「そうそう。シュウ、最初は先生を探しに走ろうとしてたからな」


「ちょっと、フィン。それ言う?」


 俺が苦笑すると、エリオットは小さく笑った。


「やっぱり、シュウらしいね」


「いや、褒められてる気がしないんだけど」


 ユリウスも少しだけ口元を緩めた。


「少なくとも、最後には適切な方法を選べたんだろう。それなら十分だと思う」


 俺は少し驚いたが、すぐに頷いた。


「……ありがとう」


 そのあと、俺たちはそれぞれの班で起きたことを少し話し合った。


 第二班では、経路の途中で標識の確認に時間がかかったらしい。


 ただし、教員の指示に従って進んだため、大きな問題は起きなかったという。


 エリオットは俺たちの話を聞きながら、何度も頷いていた。


 その様子を見て、俺は少しだけ安心した。


 学院へ入学してから、エリオットとはいろいろなことを話してきた。


 けれど、今日はそれぞれ別の班で行動していた。


 こうして無事に再会できたことが、思っていた以上に嬉しかった。


     ◇


 昼を過ぎるころには、演習を終えた学生たちが次々と集合広場へ戻ってきた。


 教員たちは各班の帰還状況を確認し、記録用紙を受け取っている。


 広場の一角では、負傷者の搬送について説明を受けている学生たちの姿もあった。


 俺たち第四班は、担当教員から休憩を取るよう指示され、広場の端にある木陰で待機していた。


 フィンは水筒を飲み干し、少し疲れたように長椅子へ背中を預けた。


「……なんか、今日はすげえ腹減ったな」


 俺は思わず笑った。


「分かる。朝ご飯はちゃんと食べたはずなんだけどね」


 セシリアも小さく笑った。


「緊張していたからかもしれませんね。私も、少しお腹が空きました」


 ミリアは鞄から小さな包みを取り出した。


「実は、朝に少しだけ焼き菓子を持ってきたんです。休憩中に食べてもよいと聞いていたので……。皆さんもいかがですか?」


 俺たちは顔を見合わせた。


 フィンが嬉しそうに身を乗り出した。


「いいのか!?」


 ミリアは少し驚いたように笑った。


「はい。そんなにたくさんはありませんけど、四人で分けられるくらいはあります」


 包みの中には、小さな丸い焼き菓子が四つ入っていた。


 表面には薄く砂糖がまぶされており、ほんのり甘い香りが漂ってくる。


 俺たちはミリアへ礼を言い、それぞれ一つずつ受け取った。


 口に入れると、外側は少し固く、中はほろりと崩れるような食感だった。


 甘さは控えめで、歩き疲れた身体にはちょうどよかった。


「……おいしい」


 俺が思わず呟くと、ミリアは少し嬉しそうに微笑んだ。


「よかったです。寮の売店で買ったものなんですけど、私、これが好きで」


 フィンも頷いた。


「うん、これうまいな。今度俺も買ってみようかな」


 セシリアは焼き菓子をゆっくり味わいながら、穏やかに言った。


「こうして皆さんと一緒に食べると、少し特別に感じますね」


 俺はその言葉に頷いた。


 森の中では、ずっと気を張っていた。


 怪我人の声を聞いてからは、特に。


 けれど、今は四人で同じ長椅子に座り、焼き菓子を食べながら笑っている。


 その何気ない時間が、妙にありがたく感じられた。


(……こういうのも、学院生活なんだよな)


 俺は小さく息を吐き、空を見上げた。


 朝は雲が多かった空も、今は青い部分が広がっている。


 森の向こうから吹いてくる風は、少しだけ温かくなっていた。


     ◇


 午後になり、すべての班の帰還確認が終わると、学生たちは広場の中央へ集められた。


 前方にはガルド・ベイル先生とリディア・フェルン先生が立っている。


 ガルド先生は全体を見回し、落ち着いた声で話し始めた。


「本日の合同演習は、これをもって終了とする。各班とも、予定された経路を進む中で、さまざまな判断が必要になったはずだ」


 学生たちは静かに耳を傾けていた。


「中央斜面の通行制限に加え、南側経路でも一部通行を停止する事態が発生した。予定していた出口へ到達できなかった班もあるが、それだけで評価が下がることはない」


 俺はその言葉を聞き、少しだけ安心した。


 隣ではフィンも小さく頷いている。


「今回の演習で重要なのは、与えられた条件の中で安全に行動し、必要な情報を共有し、状況が変わったときに適切な判断ができたかどうかだ」


 ガルド先生はそこで一度言葉を切り、学生たちの顔を見回した。


「正式な講評は、各班の記録を確認したうえで後日行う。今日はまず、全員が無事に戻れたことを確認してほしい」


 その言葉に、広場のあちこちで小さな安堵の息が漏れた。


 リディア先生も一歩前へ出た。


「皆さん、今日はお疲れさまでした。明日以降、各班で振り返りを行いますが、今日は十分に休んでください」


 先生は穏やかに微笑み、続けた。


「それから、今日の演習で気づいたことや、判断に迷ったことがあれば、忘れないうちに簡単に記録しておくとよいでしょう。うまくできたことだけでなく、改善したいことも大切な学びになります」


 俺はその言葉を聞き、ミリアへ目を向けた。


 彼女はすでに記録帳を持っており、先生の話を聞きながら小さく頷いていた。


 その姿を見て、俺は思わず笑ってしまった。


 ミリアは不思議そうにこちらを見たが、俺が首を振ると、少しだけ微笑んだ。


 全体説明が終わると、学生たちは順番に解散していった。


 俺たち第四班も、広場の端へ移動した。


 フィンは大きく伸びをし、空を見上げた。


「よし。今日はもう、寮に戻って休むぞ!」


 俺は笑った。


「そうだね。俺も結構疲れたよ」


 セシリアは穏やかに頷いた。


「私も、今日は早めに休もうと思います」


 ミリアは記録帳を鞄へしまいながら、少しだけ名残惜しそうな表情を浮かべた。


「……あの、皆さん」


 俺たちは彼女へ目を向けた。


 ミリアは少し迷ったあと、静かに言った。


「今日は、本当にありがとうございました。私、第四班でよかったです」


 フィンはすぐに笑った。


「それ、さっきも言ってたぞ。でも、俺も同じ気持ちだ」


 セシリアも微笑んだ。


「私もです。皆さんと一緒に行動できて、よかったと思います」


 俺は三人の顔を見回した。


 今日の演習は、予定通りには進まなかった。


 それでも、俺たちは四人で判断し、助け合い、無事に戻ってくることができた。


 そのことが、今は何より嬉しかった。


「俺も、第四班でよかったよ。これからもよろしくね」


 三人が頷いた。


 俺たちは互いに笑い合い、それぞれの寮へ戻るため、広場をあとにした。


     ◇


 夕方、第一男子寮三百十七号室へ戻ると、エリオットが先に部屋へ帰っていた。


 彼は机に向かって何かを書いていたが、俺が入ってくると顔を上げた。


「おかえり、シュウ」


「ただいま。エリオット、もう振り返りを書いてるの?」


 俺が尋ねると、エリオットは少し笑った。


「うん。忘れないうちに、今日のことを簡単にまとめておこうと思って」


 机の上には、第二班の記録用紙とは別に、小さなノートが開かれている。


 俺は鞄を置き、椅子へ腰を下ろした。


「偉いなあ。俺、今はちょっと休みたいかも」


 エリオットは穏やかに笑った。


「今日は大変だったみたいだからね。無理しなくていいと思うよ」


 俺は頷き、少しだけ背もたれへ身体を預けた。


 窓の外では、夕日が学院の建物を赤く照らしている。


 中庭を歩く学生たちの声が、遠くから聞こえてきた。


 俺は今日の出来事を思い返した。


 中央斜面の通行制限。


 東側確認地点での観察。


 滑りやすい坂と濡れた橋。


 怪我人の声。


 連絡札での報告。


 待機中に見つけた地面の崩れ。


 そして、教員の誘導による退避。


 どれも、朝の時点では予想していなかったことだった。


(……本当に、いろいろあったな)


 俺は小さく息を吐いた。


 そのとき、頭の中でアルカディアが静かに声をかけてきた。


《マスター。本日の合同演習、お疲れさまでございました》


(ありがとう。……まあ、思ってたのとは全然違ったけどな)


《それでも、マスターは仲間と協力し、無事に帰還されました》


(うん。そうだな)


《かつてのマスターが設定された暗黒皇帝であれば、単独で森を制圧し、全員を救出していたことでしょう》


(……最後までそれ言うのかよ)


《しかし、現在のマスターは、仲間と共に行動することを選ばれました》


 俺は少し驚いた。


 アルカディアが、そんなことを言うとは思わなかったからだ。


(……まあ、一人で何でもできるわけじゃないしな)


《その認識は、以前より明確になっているようです》


(褒めてる?)


《事実を述べております》


(……そっか)


 俺は小さく笑った。


 エリオットが不思議そうにこちらを見たので、慌てて首を振った。


「いや、なんでもない。今日のこと思い出してただけ」


 エリオットは少し笑い、再びノートへ目を向けた。


 俺も机の引き出しからノートを取り出した。


 今日の出来事を、少しだけ書いておこうと思ったのだ。


 記録用紙には、観察した事実や判断の理由を残した。


 けれど、自分が何を感じたのかまでは、十分に書いていない。


 俺は筆を取り、最初の一行を書いた。


『今日の合同演習では、予定していた南側出口へ到達できなかった。』


 そこで一度、手を止めた。


 そして、少し考えてから続きを書いた。


『けれど、第四班の四人で無事に戻ることができた。』


 俺はその文章を見つめ、静かに頷いた。


 それが、今日の俺たちの答えだった。


 すべてを予定通りに進めることが、成功ではない。


 状況が変わったときに、何を優先するのか。


 誰の意見を聞き、どのように判断するのか。


 そして、仲間と一緒に帰ってこられるかどうか。


 今日の演習で、俺たちはその大切さを少しだけ理解できた気がした。


 窓の外では、夕日がゆっくりと沈み始めている。


 俺はノートを閉じ、椅子の背もたれへ身体を預けた。


 明日になれば、また学院の授業が始まる。


 今回の演習についても、きっと正式な講評があるだろう。


 改善しなければいけないことも、まだたくさんあると思う。


 それでも、今は少しだけ満足していた。


(……第四班でよかったな)


 俺は心の中でそう呟き、静かに目を閉じた。


 長かった一日が、ようやく終わろうとしていた。

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