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『黒歴史ノートが異世界で最強の魔導書になっていました』  作者: 伊佐波瑞樹


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第74話 第四班の報告書を作ったら、俺だけが全員と違うものを見ていました


 第二実技場での連携練習を終えた翌朝、シュウ・アルヴェインは第一男子寮三百十七号室の机に向かい、昨日の記録を読み返していた。


 窓の外では、朝日を受けた中庭の石畳が淡く輝いている。昨日まで強かった風は少し落ち着き、木々の葉が揺れる音も穏やかだった。廊下では早起きした学生たちが食堂へ向かい始めていたが、部屋の中にはまだ静かな時間が流れている。


 机の上には二冊のノートが置かれていた。


 一冊は北方調査の記録。もう一冊は、第四班の準備と連携練習についてまとめたものだ。


 シュウが開いているのは、もちろん後者だった。


 昨日の練習では、フィン・ラデルが土属性で木製の標識を戻そうとしていたところへ、シュウが風属性の魔法を加えてしまった。木片がずれないように補助するつもりだったのだが、その風がフィンの魔力調整を難しくしてしまったのである。


 幸い、標識が倒れたり、誰かが怪我をしたりすることはなかった。


 セレナ・ヴァイスの監督下で作業を中断し、四人で役割を確認し直した結果、二度目には落ち着いて標識を戻すことができた。


 それでも、シュウにとっては忘れたくない失敗だった。


(俺が魔法を使わなかった方が、上手くいったんだよな)


 魔法の制御に問題があったわけではない。


 狙った位置へ、必要な強さの風を送ることはできていた。


 しかし、フィンが何をしようとしているのか十分に確認せず、勝手に補助を始めてしまった。


 その結果、仲間の作業を難しくしてしまったのだ。


 シュウはノートの端に書いた一文を見つめた。


『補助に入る前に、相手が何を必要としているか確認する』


 昨日のうちに書いた反省だった。


 ただ、今朝になって読み返すと、もう一つ気になることがあった。


(これ、俺が見たことしか書いてないな)


 標識を戻すとき、フィンは魔力の出力を調整していた。


 セシリア・ノールは木片が落ちる可能性を確認し、ミリア・ハーゼンは位置の変化を記録していた。


 けれど、シュウのノートには、それぞれが何を見て、どのような判断をしたのかまでは詳しく残っていない。


 自分が魔法を使って失敗したことは覚えている。


 フィンが困ったと言ったことも覚えている。


 しかし、その瞬間、セシリアがどの程度の危険を認識していたのか、ミリアが何を記録していたのかは、はっきり分からなかった。


「シュウ、また早起きしてるね」


 背後からエリオット・ファーレンの声がした。


 振り返ると、彼は寝台から起き上がったところで、少し眠そうに目をこすっていた。淡い茶色の髪がいつもより乱れており、普段の整った姿とは少し違って見える。


「おはよう。昨日の練習のことを整理してたんだ」


「おはよう。昨日も夜に書いてたよね?」


「うん。でも、読み返してたら、俺が見たことばっかりだなって気づいてさ」


 シュウがノートを示すと、エリオットは制服の上着を手に取る前に、机の横へやってきた。


「それは、シュウの記録だからじゃない?」


「そうなんだけど、班の記録として使うなら、ほかの三人が見てたことも必要だろ?」


 エリオットは少し考えてから頷いた。


「そうだね。僕たちの第二班でも、ユリウスが似たようなことを言ってたよ。誰か一人の記録だけだと、その人が見ていなかったことは残らないって」


「やっぱりそうか」


「ただ、全員が全部を書こうとすると、それはそれで大変そうだけどね」


 エリオットは穏やかに笑った。


 シュウはその言葉に頷いた。


 確かに、四人が同じ出来事を最初から最後まで詳しく書き直す必要はないだろう。


 それぞれが担当したことや、気づいたことを持ち寄ればいい。


「今日の昼休みに、三人と記録を見比べてみるよ」


「いいと思う。僕も第二班で、報告のまとめ方を相談してみようかな」


 エリオットはそう言って、ようやく身支度を始めた。


 シュウはノートを閉じ、鞄へしまう。


 昨日は魔法を使う前に仲間へ確認することを学んだ。


 今日は、仲間が何を見ていたのかを知りたい。


 そう考えながら、シュウは朝食へ向かう準備を整えた。


     ◇


 午前の授業では、リディア・フェルンが観察記録の扱いについて説明していた。


 教室の前方には、学院の訓練区域を描いた簡単な図が掲示されている。図の中央には小さな橋があり、その両側には水路と通路が描かれていた。


 リディアは学生たちへ数枚の記録用紙を配り、教卓の横に立った。


「今日は、同じ出来事について複数の記録が残された場合、どのように整理するかを考えます」


 シュウは思わず顔を上げた。


 今朝、自分が考えていたこととよく似ている。


 リディアは図の橋を指した。


「例えば、四人の学生がこの橋を確認したとします。一人は橋の表面を見て、もう一人は水路の流れを見た。三人目は周囲の通路を確認し、四人目は全体の進行を記録したとしましょう」


 教室の学生たちは配られた紙へ視線を落とした。


 そこには、四人分の短い観察記録が書かれていた。


 一人目は、橋の表面が乾いていたと記している。


 二人目は、水路の流れが普段より速く見えたと書いている。


 三人目は、橋の手前に落ち葉が集まっていたと記録していた。


 そして四人目は、橋の確認を終えて予定通り通行した、とまとめている。


 リディアは学生たちを見回した。


「さて、この四つの記録は矛盾しているでしょうか」


 教室のあちこちで小さな声が上がった。


 シュウも用紙を読み直した。


 橋の表面が乾いていたことと、水路の流れが速かったことは、同時に成立する。


 橋の手前に落ち葉があったことも、通行できたことと矛盾しない。


 しかし、最後の記録だけを読んだ場合、ほかの三人が確認したことは分からない。


「矛盾しているわけではないと思います」


 前方の学生が答えた。


 リディアは頷いた。


「その通りです。同じ場所を確認していても、見ている対象が違えば、記録される内容も変わります」


 彼女は黒板へ二つの言葉を書いた。


『観察した事実』


『判断した内容』


「この二つを混同しないことも大切です。橋の表面が乾いていたというのは観察した事実ですが、安全に通行できると判断した理由は、それだけではありません」


 シュウはノートへ書き込んだ。


 昨日、フィンが標識を戻したときも同じだった。


 木片が動いたという事実と、作業を続けられるという判断は別のものだ。


 フィンは魔力の感覚から、標識を支え続けられると考えた。


 セシリアは周囲の状態から、木片が落ちても危険が及ぶ位置に人がいないことを確認した。


 ミリアは木片の位置を記録し、変化を伝えた。


 それらの情報があったから、四人は作業を続ける判断ができたのである。


(俺、昨日の記録でそこまで分けてなかったな)


 シュウが考え込んでいると、リディアはさらに説明を続けた。


「もう一つ注意してほしいのは、後から分かったことを、最初から知っていたかのように書かないことです」


 シュウは筆を止めた。


「例えば、通行後に橋の下の支柱が傷んでいたと分かったとしても、通行前にそれを確認していなかったなら、その時点の判断材料には含められません」


 リディアは記録用紙を軽く持ち上げた。


「後から振り返ると、最初から気づけたはずだと思うこともあります。しかし、実際にその場で何を知っていたかを正確に残さなければ、次に同じような状況へ対応するとき、判断の改善につながりません」


 シュウは深く頷いた。


 失敗したあとなら、いくらでも正しい方法を思いつける。


 けれど、重要なのは失敗する前に何を見て、何を考えていたかだ。


 昨日の自分は、木片が動きそうだと気づき、風属性で押さえればよいと思った。


 その時点では、フィンが魔力を維持したまま作業を止めようとしていることを十分に理解していなかった。


 だから、余計な補助をしてしまった。


 その順番を曖昧にしてはいけない。


 授業の後半では、学生たちが数人ずつ集まり、配られた記録を一つの報告にまとめることになった。


 シュウは近くの学生たちと相談しながら、誰が何を観察したのかを整理した。


 最初は、四人の記録を一つの文章へまとめればよいと思っていた。


 しかし、実際に書き始めると、それだけでは分からないことが出てきた。


 橋の表面を確認した学生は、どの位置から見たのだろう。


 水路の流れが速いと判断した学生は、何と比較したのだろう。


 落ち葉を見つけた学生は、それが通行に影響すると考えていたのだろうか。


 用紙には、そこまで詳しく書かれていなかった。


 シュウがその点を指摘すると、同じ班の学生が頷いた。


「確かに。書いてないことまで勝手に補ったら、別の記録になっちゃうな」


「うん。分からないところは、分からないまま残した方がいいと思う」


 シュウはそう答えながら、少しだけ苦笑した。


 北方調査でも何度も意識してきたことだった。


 古い記録の欠けた部分を、都合のよい言葉で埋めない。


 書かれていない意味を、勝手に確定しない。


 それは、目の前の授業にも当てはまる。


 リディアが各班の報告を確認したあと、授業は終わった。


 シュウはノートを閉じながら、今日の昼休みが少し楽しみになっていた。


     ◇


 昼休みの食堂は、いつも通り多くの学生で賑わっていた。


 窓際の席には明るい日差しが差し込み、卓の上の水差しが淡く輝いている。焼きたてのパンと温かな料理の匂いが漂い、近くの席では来週の合同演習について話している学生たちの声が聞こえてきた。


 シュウが第四班の席へ向かうと、フィンはすでに昼食を食べ始めていた。


 セシリアは水差しから杯へ水を注ぎ、ミリアは記録帳を鞄の横へ置いている。


「お待たせ。今日は昨日の練習について、みんなの記録を見比べたいんだ」


 シュウがそう言うと、ミリアが少し嬉しそうに顔を上げた。


「私も、昨日の記録を整理してきました。ちょうど、皆さんに確認したいことがあったんです」


「そうなんだ。じゃあ、食べ終わってから一緒に見ようか」


 フィンはパンを飲み込んでから頷いた。


「いいぞ。俺も、昨日の標識のところで気になったことがあるんだ」


 セシリアも穏やかに微笑んだ。


「私も、危険がないと判断した理由を、もう少し詳しく残しておきたいと思っていました」


 シュウは三人の顔を見回した。


 どうやら、自分だけが記録を見直そうとしていたわけではないらしい。


 それが少し嬉しかった。


 四人は食事を終えると、卓の端へ食器を寄せ、それぞれのノートを開いた。


 シュウはまず、自分が書いた記録を読み上げた。


「第二地点でフィンが土属性を使って標識を戻そうとした。途中で木片が動き、俺が風属性で補助したけど、フィンの調整を邪魔してしまった。そのあと作業を中断して、役割を確認し直した……って感じかな」


 フィンは頷いた。


「大体合ってると思う。でも、俺が最初に止めた理由が少し違うかもしれない」


 シュウは顔を上げた。


「違う?」


「うん。木片が動いたのは確かなんだけど、俺はその時点で、標識を支える力を少し弱めてたんだ」


 フィンは卓の上に指を置き、昨日の動きを思い出すように説明した。


「標識を一気に戻すと木片が落ちるかもしれないと思ったから、まず動きを止めて、力のかかり方を確かめようとしてた。そこへシュウの風が入ってきたんだ」


 シュウは思わず息を止めた。


 昨日、フィンが「ちょっと止める」と言ったことは覚えている。


 しかし、その言葉の裏で、彼がどのように魔力を調整していたのかまでは分かっていなかった。


「そうだったんだ。俺、木片が動いたから、フィンが困ってるんだと思ってた」


「困ってたのは本当だけど、まだ自分で調整できると思ってたんだよ」


 フィンは少し笑った。


「もちろん、無理そうだったら手伝ってほしいって言ったと思う。でも、あのときは一回止めて確認するつもりだった」


 シュウは頷いた。


 自分は、フィンが困っていると判断した。


 しかし、フィン自身は、作業を中断して状態を確認しようとしていた。


 似ているようで、違う。


「ごめん。そこまで分かってなかった」


「だから、謝らなくていいって。俺も伝え方が足りなかったし、昨日の二回目はちゃんとできただろ?」


 フィンは明るく笑った。


 その表情に、シュウも少しだけ笑い返した。


 セシリアが静かに口を開いた。


「私も、最初の作業では木片が落ちる可能性を考えていました。ただ、落ちた場合に危険があるかどうかは、まだ確認している途中だったんです」


 シュウは彼女へ視線を向けた。


「そうだったんだ」


「はい。木片は小さく、周囲に人が近づいていないことも確認できていましたが、標識の下へ挟まっている部分までは見えていませんでした」


 セシリアは少し考えてから続けた。


「だから、すぐに危険だと判断したわけではありません。でも、安全だと断定できる状態でもなかったんです」


 シュウはノートへ書き込んだ。


 昨日の自分は、セシリアが木片を見ていることには気づいていた。


 しかし、彼女が何を確認し終え、何をまだ確認していなかったのかは知らなかった。


 ミリアも記録帳を開いた。


「私は、木片が動いた位置を記録していました。ただ、最初の作業では、シュウさんが風属性を使い始めた時点で、まだ変化の記録が終わっていなかったんです」


 シュウは少し驚いた。


「そうだったの?」


「はい。木片が右へ動いたことは分かりましたが、最初の位置からどの程度ずれたかを確認している途中でした」


 ミリアは記録帳の一行を示した。


 そこには、木片の位置についての記載と、その横に小さな印がつけられている。


「この印は、確認が終わっていないことを示すためにつけました。あとから正確な距離を補おうとは思いませんでした」


 シュウは頷いた。


 後から分かったことを、最初から知っていたかのように書かない。


 午前の授業でリディアが話していた内容そのものだった。


「それでよかったと思う。分からなかったことは、分からなかったまま残した方がいいよね」


 ミリアは少し安心したように微笑んだ。


「ありがとうございます。私も、そう考えました」


 四人はそれぞれの記録を見比べながら、昨日の作業を順番に整理していった。


 最初にフィンが標識を支えたこと。


 木片が動きかけたこと。


 フィンが出力を弱め、作業を止めようとしていたこと。


 セシリアが安全確認を続けていたこと。


 ミリアが位置の変化を記録していたこと。


 そして、シュウがその状況を十分に把握しないまま、風属性の魔法を使ったこと。


 並べてみると、同じ出来事でも、四人が見ていたものは驚くほど違っていた。


 シュウはしばらくノートを見つめてから、小さく息を吐いた。


「俺、昨日は自分の魔法のことばっかり考えてたんだな」


 フィンが少し首を傾げた。


「でも、シュウは班長なんだから、全体を見ようとしてたんじゃないのか?」


「そのつもりだった。でも、実際には、俺が何をすればいいかばっかり考えてた気がする」


 シュウは三人の顔を見回した。


「フィンがどのくらい魔力を調整してるのか、セシリアが何を確認してる途中なのか、ミリアがどこまで記録できてるのか。そういうことを、ちゃんと聞いてなかった」


 セシリアは少し考えてから頷いた。


「でも、私たちも、シュウさんへ必要な情報を十分に伝えられていませんでした。班長だけが全員の状態を把握するのは難しいと思います」


 ミリアも静かに続けた。


「私も、記録が終わっていないことを伝えていませんでした。あとから見れば分かるように印をつけていましたが、その場では共有できていなかったんです」


 フィンは腕を組み、少し考えた。


「だったら、誰かが全部聞きに回るんじゃなくて、それぞれが今の状態を伝える方がいいんじゃないか?」


 シュウは顔を上げた。


「今の状態?」


「うん。例えば俺なら、『標識を支えてる。今は力を弱めて確認中』って言う。セシリアなら『安全確認中』、ミリアなら『記録がまだ終わってない』って感じでさ」


 フィンは少し照れくさそうに笑った。


「そうすれば、シュウがいちいち全部聞かなくても分かるだろ?」


 シュウは思わず頷いた。


 確かに、その方が分かりやすい。


 自分が全員の状態を推測するのではなく、班員たちが必要な情報を共有する。


 それなら、誰か一人に負担が集中することも少なくなるはずだ。


「いいな、それ。次から意識してみよう」


 セシリアも頷いた。


「はい。私も、確認中なのか、確認が終わったのかを、きちんと伝えるようにします」


 ミリアは記録帳へ一文を書き込んだ。


「では、作業の途中で状態が変わった場合は、短くてもよいので共有する、という方針にしましょうか」


 シュウは三人の顔を見回した。


 誰も反対していない。


 むしろ、それぞれが自分の役割を考えながら頷いている。


「うん。それでいこう」


 四人はそう決め、昨日の記録をもう一度見直した。


     ◇


 昼休みの終わりが近づいたころ、シュウは一つ気になることを思い出した。


「そういえば、ミリア。昨日の二回目の作業で、木片が動いた距離を伝えてくれたよね」


 ミリアは頷いた。


「はい。最初の位置から指一本分ほど動いたとお伝えしました」


「あのとき、どうしてすぐに言えたの?」


 ミリアは少し驚いたように瞬きをした。


「どうして、ですか?」


「うん。最初の作業では記録している途中だったって言ってたけど、二回目はすぐに伝えてくれただろ。何か意識したことがあったのかなって」


 ミリアは少し考え、記録帳を閉じた。


「二回目は、記録を完成させることよりも、皆さんが判断するために必要な情報を伝えることを優先しました」


 シュウは頷いた。


 ミリアは続ける。


「最初の作業では、正確に記録してからお伝えしようと思っていたんです。でも、それでは間に合わないこともあると気づきました」


 彼女は少しだけ視線を落とした。


「もちろん、曖昧なことを確定した情報として伝えるのは避けたいです。ですから、二回目は『指一本分ほど』という、おおよその表現にしました」


 シュウはその言葉に、感心した。


 ミリアは記録の正確さを大切にしている。


 しかし、昨日の練習では、その場の判断に必要な情報を早く伝えることも意識していた。


 正確さを捨てたわけではない。


 どの程度まで分かっているのかを明示したうえで、必要な情報を共有したのだ。


「なるほど。そういう考え方だったんだね」


 シュウが言うと、ミリアは少し微笑んだ。


「はい。まだ上手くできるか分かりませんけど、これからも意識したいと思っています」


 フィンが楽しそうに笑った。


「俺は、そういうの助かるな。作業してるときって、細かいところまで全部見られないし」


 セシリアも頷いた。


「私もです。確認が終わっていなくても、今分かっていることを伝えていただけると、判断しやすくなると思います」


 ミリアは少し照れたように笑った。


 シュウはその様子を見ながら、第四班の関係が少しずつ変わっていることを感じた。


 最初の作戦会議では、ミリアは発言する前に少しためらっていた。


 しかし、今は自分の考えを説明し、ほかの三人もそれを自然に受け止めている。


 フィンも、以前より慎重に魔力の扱い方を考えるようになっていた。


 セシリアは、安全確認の内容をどのように伝えるかを意識している。


 そして、自分も、仲間の作業を尊重することを学び始めている。


 四人とも、まだ完成された班員ではない。


 けれど、だからこそ、互いに学べることがあるのだろう。


     ◇


 午後の授業が終わったあと、シュウは図書館へ向かった。


 今日は第四班の記録を整理するだけでなく、北方調査の資料についても少し確認したいことがあった。


 図書館の高い書架の間には、午後の光が斜めに差し込んでいる。窓際の閲覧席では学生たちが静かに本を開き、遠くからは書物を棚へ戻す小さな音が聞こえてきた。


 シュウはいつもの席へ腰を下ろし、北方調査のノートを開いた。


 以前調べた旧ローデル林区の支給台帳には、北部巡見に関する物資の記録が残されていた。


 札、記筆、灯、小魔石、縄、油布。


 それらが春組と秋組へ分けて支給され、灯と小魔石は見分のあと北倉へ返却することになっていた。


 しかし、その記録から分かることには限界がある。


 春組六、秋組六という記載が、人数を示すのか、物資の区分を示すのかは確定していない。


 北三、北三区、北部三旧という表現も、同じ場所を指しているとは限らない。


 そして、「夜見」という言葉が何を意味するのかも、まだ分かっていなかった。


 シュウはノートの該当箇所を読み返した。


(今まで、同じ記録を何度も見てきたけど……)


 今日の授業を思い出す。


 同じ出来事でも、観察する人によって見えるものが違う。


 そして、後から分かったことを、最初から知っていたかのように扱ってはいけない。


 その考え方は、古い資料を読むときにも役立つはずだった。


 シュウは以前の記録を整理し直し、資料に直接書かれていることと、自分が考えた可能性を分けてみることにした。


 まず、支給台帳に書かれている物資の種類と数量。


 次に、返却先として北倉が記されていること。


 そして、春組と秋組という区分が存在すること。


 ここまでは、記録に書かれている内容だ。


 一方、北倉がどのような施設だったのか、春組と秋組が何人で構成されていたのか、灯と小魔石が具体的に何に使われたのかは、まだ分からない。


 シュウはそれらを別の欄へ書き込んだ。


 続いて、以前に確認した『旧林区物資取扱例』の内容を思い出した。


 その資料では、灯や小型魔石を貸し出し、作業後に返却する運用が、ほかの地域でも行われていたことが示されていた。


 ただし、その資料は後世に整理されたものであり、北方の支給台帳と直接つながる証拠ではない。


 シュウはその点も書き添えた。


『灯・小魔石の貸出返却は一般的な運用例あり。ただし、北部巡見の具体的用途は未確定』


 筆を置き、少し考える。


 今日の整理で、新しい秘密が明らかになったわけではない。


 しかし、以前よりも何が分かっていて、何が分からないのかを見通しやすくなった。


 シュウは小さく息を吐いた。


(こういう整理も、ちゃんと意味があるんだよな)


 北方の秘密を解くには、まだ多くの資料が必要だろう。


 それでも、今ある情報を正確に扱うことは、次の調査の土台になるはずだった。


     ◇


 しばらくして、ユリウス・ベルンが図書館へ入ってきた。


 彼は数冊の本を抱え、閲覧席の間を歩いていたが、シュウの姿に気づくと足を止めた。


「シュウ。今日は北方の調査?」


「うん。少し記録を整理してた」


 シュウが答えると、ユリウスは向かい側の席へ腰を下ろした。


「何か新しいことが分かった?」


「新しい発見ってほどじゃないけど、資料に書かれてることと、俺が考えた可能性を分け直してたんだ」


 シュウはノートを開き、整理した内容を示した。


 ユリウスはしばらく目を通したあと、静かに頷いた。


「いいと思う。特に、後世の資料で確認できたことを、古い記録の直接的な証拠として扱わないようにしているのは大事だね」


「うん。今日の授業で、後から分かったことを最初から知ってたみたいに書くなって言われてさ」


 ユリウスは少し笑った。


「リディア先生らしいね。でも、確かに重要なことだと思う」


 シュウは頷いた。


「それと、第四班の練習でも似たようなことがあったんだ」


 シュウは昨日の標識の作業について、四人で記録を見比べたことを説明した。


 フィンが魔力を弱めていたこと。


 セシリアが安全確認を続けていたこと。


 ミリアが木片の位置を記録していたこと。


 そして、自分がその状況を十分に理解しないまま風属性を使ったこと。


 ユリウスは最後まで静かに聞いていた。


「なるほど。シュウが見ていた状況と、ほかの三人が見ていた状況が少しずつ違ったんだね」


「そうなんだよ。俺、全体を見てるつもりだったんだけど、実際には自分が何をするかばっかり考えてたみたいで」


 シュウは苦笑した。


 ユリウスは少し考えてから口を開いた。


「でも、それを記録で確認できたのはよかったんじゃないかな。感覚だけで反省していたら、次に何を変えればいいのか分かりにくいから」


「うん。今度から、作業の途中で状態が変わったら、短くても共有することにしたよ」


 ユリウスは頷いた。


「それは第二班でも参考になりそうだね」


 シュウは少し嬉しくなった。


 第四班で学んだことが、ほかの班にも役立つかもしれない。


 もちろん、班ごとに得意なことや課題は違う。


 だから、同じ方法がそのまま使えるとは限らない。


 それでも、互いの経験を話し合うことには意味があるはずだった。


「ユリウスたちは、準備どう?」


 シュウが尋ねると、ユリウスは少し考えた。


「順調だと思う。ただ、僕たちもまだ、全員の動きを十分に把握できているわけじゃない。来週の演習までに、もう少し役割の確認をしておきたいね」


「そっか。お互い頑張ろう」


「そうだね」


 二人は小さく笑い合った。


 その後、シュウは北方調査のノートを閉じ、ユリウスと一緒に図書館を後にした。


     ◇


 夕方、第二女子寮の共有室では、ミリアが第四班の記録帳を開いていた。


 窓の外には夕暮れの空が広がり、淡い橙色の光が卓の上を照らしている。共有室では数人の学生が課題に取り組んでいたが、話し声は控えめで、落ち着いた雰囲気だった。


 ミリアは今日の昼休みに交わした会話を思い返していた。


 四人で同じ出来事を振り返ったのに、それぞれが覚えていることは少しずつ違っていた。


 フィンは魔力の出力を調整していた。


 セシリアは安全を確認していた。


 シュウは補助する方法を考えていた。


 そして自分は、木片の位置を記録していた。


 誰か一人の記録だけでは、全体を理解することは難しい。


 そのことを、ミリアは改めて実感していた。


(記録することは、全部を知ることではないんですね)


 ミリアは筆を止めた。


 これまでの彼女は、できるだけ正確に記録することを大切にしてきた。


 それは今も変わらない。


 しかし、今日の話し合いを通して、正確な記録を作るためには、自分が見ていないことを認める必要もあるのだと気づいた。


 ほかの人が見たことを聞き、自分の記録と照らし合わせる。


 そのうえで、確かめられたことだけを残す。


 そうすれば、一人では見落としてしまうことも補えるかもしれない。


 ミリアは記録帳へ一文を書き込んだ。


『班の記録は、一人の観察だけで完成するものではない』


 その言葉を見つめながら、彼女は小さく微笑んだ。


 第四班の三人は、自分の記録を必要としてくれている。


 それが、ミリアには嬉しかった。


 来週の合同演習では、今日よりも多くのことを同時に確認する必要があるだろう。


 そのとき、自分ができることをきちんと果たしたい。


 そして、分からないことがあれば、遠慮せず仲間へ尋ねたい。


 そう思いながら、ミリアは記録帳を閉じた。


     ◇


 夕食後、第一男子寮三百十七号室へ戻ったシュウは、机の上へ第四班の準備ノートを広げた。


 向かい側ではエリオットが教科書を読んでおり、ときどき筆を動かしている。窓の外には夜の学院が広がり、遠くの校舎にはまだいくつか灯りが残っていた。


 シュウは今日の話し合いを振り返りながら、ノートへ書き込んだ。


『第四班・連携記録第二整理』


『同じ出来事でも、班員ごとに観察していた内容が異なる』


『フィン:標識を支える魔力を弱め、状態を確認しようとしていた』


『セシリア:木片が落ちる可能性と、周囲の安全を確認していた』


『ミリア:木片の位置の変化を記録していた。最初の作業では確認途中だった』


『シュウ:木片を押さえるため風属性を使用したが、フィンの作業状態を十分に確認していなかった』


 そこまで書き終えると、シュウは少し考えた。


 昨日の記録では、自分の魔法が連携を邪魔したことが中心だった。


 今日の記録には、そのとき三人が何をしていたのかも残っている。


 その違いは、思っていた以上に大きかった。


 シュウは次の行へ筆を進めた。


『今後の方針:作業中に状態が変わった場合は、短くてもよいので共有する』


 書き終えたところで、エリオットが顔を上げた。


「今日は、記録を見比べられた?」


「うん。思ってた以上に違うことが書いてあったよ」


 シュウは少し笑った。


「俺、同じ場所にいたんだから、みんなが何をしてたか分かってるつもりだった。でも、実際には知らないことが結構あった」


 エリオットは穏やかに頷いた。


「それなら、見比べてよかったね」


「うん。来週の合同演習でも、ちゃんと情報を共有できるようにしたい」


 シュウはノートを閉じた。


 エリオットは少し考えてから口を開いた。


「そういえば、僕たちの第二班でも、記録の担当を一人に任せすぎないようにしようって話になったんだ」


「へえ。どうして?」


「記録する人が全部見てるわけじゃないからね。ユリウスが、ほかの人も必要な情報を伝えるようにしようって」


 シュウは思わず笑った。


「同じこと考えてたんだな」


「そうみたい」


 二人は顔を見合わせて笑った。


 合同演習は、まだ始まっていない。


 それでも、準備を進める中で、少しずつ学べることが増えている。


 シュウはそのことを嬉しく思った。


《マスター》


 頭の中に、アルカディアの声が響いた。


(……何だよ)


《本日の記録整理について、重要な補足がございます》


(また昔の設定か?)


《はい。かつてのマスターは、暗黒帝国のすべての戦場を記録するため、十三人の記録官を配置しておられました》


(へえ。珍しくまともな設定だな)


《記録官たちは、マスターの戦闘を余すところなく記録することを使命としていました》


(まあ、そこまでは分かる)


《ただし、記録内容は全員共通で『暗黒皇帝、圧倒的勝利』の一文のみです》


(全然記録になってねえじゃねえか!)


《さらに、戦闘が行われていない日も、同じ内容が記されております》


(何に勝ったんだよ!)


 シュウは思わず額を押さえた。


 エリオットが顔を上げ、少し楽しそうに笑う。


「また昔の設定?」


「うん。俺の昔の記録官、何があっても『暗黒皇帝、圧倒的勝利』って書いてたらしい」


 エリオットは数秒黙ったあと、笑い始めた。


「それだと、あとから何があったか分からないね」


「本当にそう思う」


 シュウは苦笑しながら頷いた。


 昔の自分は、誰もが自分を称賛する世界を想像していたのかもしれない。


 けれど、今は違う。


 失敗したことも、分からなかったことも、記録に残しておきたい。


 仲間が何を見ていたのかを知り、自分が気づかなかったことを教えてもらいたい。


 そして、次に同じような場面へ出会ったとき、少しでもよい判断ができるようになりたい。


 シュウは机の上に置いたノートへ視線を向けた。


 そこには、昨日の失敗と、今日分かったことが丁寧に書かれている。


 派手な勝利の記録ではない。


 誰かに称賛されるような出来事でもない。


 それでも、今の自分にとっては大切な記録だった。


(昔の俺が作った最強の軍団より、今の第四班の方がずっと頼もしいな)


 シュウはそう思いながら、ノートを閉じた。


 来週の合同演習まで、まだ少し時間がある。


 その間に、四人でできることを少しずつ増やしていきたい。


 ただし、何でも急いで決める必要はない。


 分からないことがあれば、仲間へ尋ねればいい。


 自分が見ていないことがあれば、見ていた人の話を聞けばいい。


 そして、間違えたなら、次に生かせるよう記録すればいい。


 シュウはエリオットと翌朝の予定を確認してから、机の灯りを落とした。


 窓の外では、夜の風が静かに木々を揺らしている。


 第四班の準備は、まだ途中だ。


 けれど、四人で同じものを見ようとするのではなく、それぞれが見たものを持ち寄ればいいのだと、シュウは少しずつ理解し始めていた。

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