第69話 黒い魔力を測る前に、先生たちは普通の闇属性を調べました
黒い魔力の観測が予定されている日の朝、シュウ・アルヴェインは第一男子寮三百十七号室の窓辺に立ち、まだ人通りの少ない中庭を眺めていた。
昨夜まで空を覆っていた雲は東へ流れ、校舎の屋根の向こうには澄んだ青空が広がっている。朝日を受けた石畳には長い影が伸び、植え込みの間を通り抜ける風が、雨上がりの土と草の匂いを運んできた。
いつもと変わらない学院の朝だった。
けれど、シュウの机には普段と少し違うものが置かれている。
研究棟で行われる魔力観測の予定を記した、一枚の紙だった。
「……今日か」
小さく呟いた声は、まだ静かな部屋の中へ溶けていった。
以前からグレイ・ハルバートとセレナ・ヴァイスが準備を進めていた、黒い魔力に関する観測。その実施日が決まったと聞いてから三日が経ち、いよいよ放課後には研究棟へ向かうことになっている。
ただし、今日の目的は黒い魔力の正体を突き止めることではない。
まず通常の魔力反応を確認し、観測器がどの程度安定した記録を残せるのかを調べる。その結果を踏まえたうえで、特殊な反応を測定するかどうか判断するという説明を受けていた。
(分かってるつもりなんだけど、やっぱり気になるよな)
シュウは自分の右手を見下ろした。
普通の魔法を使うとき、この手から流れる魔力に違和感はない。
火も、水も、風も、土も、通常の闇属性も、授業で扱う範囲なら安定している。以前に観測された黒い魔力の反応についても、最近になって新しい身体症状が現れたわけではなかった。
それでも、自分の中にあるはずの力について、分からないことが残っている。
普通の闇属性とは何が違うのか。
どういう条件で特殊な反応が現れるのか。
北の森で遭遇した黒い土や根と、何か関係があるのか。
最後の疑問については、似た色や感覚があるというだけで、同じものだと考えてはいけないと分かっていた。
北方調査では、名前や用途が似ている古い記録を安易に結びつけないよう、何度も注意してきた。
自分の魔力についても、その慎重さを忘れるべきではない。
「シュウ、朝から難しい顔してるね」
背後から声がして振り返ると、エリオット・ファーレンが制服の上着を整えながら立っていた。
明るい茶色の髪には、寝癖らしい小さな跳ねが残っている。本人はまだ気づいていないようで、シュウは少しだけ笑ってしまった。
「そんなに難しい顔してた?」
「うん。昨日、合同演習の経路を考えてたときより真剣だった」
「それは比較するものが違うだろ」
「そうかな。どっちもシュウにとって大事なことだと思うけど」
エリオットはそう言いながら机へ近づき、観測予定の紙へ視線を落とした。
「今日、僕も見学席で待っていていいって話だったよね」
「うん。操作区域へ入らなければ大丈夫だって」
「よかった。何もできないかもしれないけど、近くにはいたいから」
あまりにも自然な言い方だったため、シュウは一瞬返事を忘れた。
エリオットは同じ部屋で暮らす友人であり、北の森の地下に隠された石扉についても知っている数少ない相手だった。あの場所で起きたことを思い出せば、黒い魔力の調査を気にかける理由は十分にある。
それでも、付き添いたいと自分から言ってくれることが嬉しかった。
「ありがとう。エリオットがいてくれると、俺も落ち着くよ」
「それならよかった」
エリオットは笑い、ようやく自分の髪の跳ねに気づいたらしく、手櫛で整え始めた。
「ただ、僕が見てるからって格好つけないでね。変な感覚がしたら、すぐ先生に言うこと」
「分かってるって。今日は格好つけるようなこともしないよ」
「本当に?」
「百パーセント」
シュウが答えると、エリオットは一瞬だけ目を丸くしたあと、楽しそうに笑った。
「その言い方、僕の真似?」
「いつも聞いてるから移ったんだよ」
二人はそんな話をしながら鞄を持ち、朝食へ向かった。
廊下には学生たちの声が増え始めている。
今日も授業があり、食堂には朝食が用意され、友人たちはそれぞれの予定を抱えている。
黒い魔力の観測はシュウにとって重要な出来事だが、学院全体がそのために動いているわけではない。
その当たり前のことが、今朝は少し心強く感じられた。
◇
午前の授業は、いつも通りに進んだ。
最初の基礎魔法理論では、属性を切り替える際の魔力の流れについて復習が行われた。昨日までに扱った内容を踏まえ、同じ術式でも入力する魔力量や術者の習熟度によって安定性が変わることを、リディア・フェルンが具体例を挙げながら説明していく。
シュウは黒板へ視線を向け、要点をノートへ書き留めた。
今日の観測にも関係しそうな内容だったが、だからといって授業中に勝手な予想を膨らませるつもりはない。
グレイからは、観測された違いと原因を分けて考えるように言われている。
その言葉を思い出すたび、シュウは自分がどれほど結果を急ぎたがっているのか、少しだけ自覚するのだった。
続く実技では、セレナの指導のもと、小さな術式を一定時間維持したあと、魔力の流れを滑らかに止める練習が行われた。
隣のエリオットは、以前よりも落ち着いた様子で水属性の術式を形成している。
掌の前に浮かんだ水球は大きくなりすぎることもなく、指定された時間を保ったあと、ゆっくりと形を失っていった。
「今の、かなりよかったんじゃない?」
シュウが声をかけると、エリオットは少し嬉しそうに頷いた。
「うん。最後に急いで止めようとしなかったら、前より楽だった」
「土属性のときも、その感覚を使えるかもしれないな」
「そうだね。ただ、同じようにできるとは限らないから、そこは試してみないと」
エリオットはそう言ってから、少し照れくさそうに笑った。
「昨日までだったら、シュウに教えてもらった通りにやればいいと思ってたかもしれない」
「俺も、教え方には気をつけないとな」
シュウが答えると、巡回してきたセレナが二人の前で足を止めた。
「ファーレン君、今の終了動作は安定していましたね。途中で出力を急に落とさず、術式が消えるまで流れを保てています」
「ありがとうございます」
「ただし、安定した理由を一つに決めつけないようにしてください。今回は魔力量も術式の大きさも控えめでしたから、条件が変われば結果も変わる可能性があります」
エリオットは真剣に頷いた。
シュウもその説明を聞きながら、放課後の観測を思い出した。
上手くいったという事実と、なぜ上手くいったのかという説明は別のものだ。
実技の小さな成功でさえ、確認すべき条件がある。
まして、自分でも正体の分からない黒い魔力なら、なおさらだった。
◇
昼休み、食堂のいつもの席へ向かうと、ダン・クレイが先に到着していた。
彼はシュウの姿を見つけるなり手を振ったが、いつものように大声で呼ぶことはせず、席へ着くのを待ってから口を開いた。
「今日、観測の日なんだろ?」
「うん。放課後に研究棟へ行くよ」
「そうか。何か分かったら教えてくれよ。もちろん、話していい範囲でいいからさ」
ダンはそう言い、少しだけ表情を引き締めた。
普段は勢いよく話すことが多いが、シュウの身体に関わることだと分かっているのだろう。
「ありがとう。先生から説明された内容なら、あとで話すよ」
シュウが答えると、ダンは安心したように笑った。
セシリア・ノールは、運ばれてきた食事を卓へ置きながら尋ねた。
「体調に変わりはありませんか?」
「うん。今朝も普通に授業を受けられたし、魔法を使っても違和感はなかったよ」
「それならよかったです。でも、観測中は小さな変化でも伝えてくださいね」
彼女の言葉は穏やかだったが、真剣さが感じられた。
シュウは第四班の作戦会議を思い出した。
フィンが提案した最短経路について、セシリアは魔力の消耗や足場の安全性を確認するよう促していた。
誰かを気遣うだけではなく、必要なことをはっきり言える。
その姿勢は、今も変わらない。
「分かった。ちゃんと伝える」
「約束ですよ」
セシリアは少し微笑み、ようやく食事へ手を伸ばした。
ユリウス・ベルンは、しばらく会話を聞いてから静かに尋ねた。
「今日の観測では、黒い魔力を必ず使うことになってるの?」
「いや。最初は普通の魔力反応を測って、装置の状態を確認するって聞いてる。黒い魔力を使うかどうかは、そのあと先生たちが判断する予定だよ」
「それなら、使わずに終わる可能性もあるね」
「うん。そうなるかもしれない」
ユリウスは頷いた。
「だったら、今日の結果を成功か失敗かで考えない方がいいと思う。装置の反応を確認できたなら、それだけでも次につながるから」
シュウは少し笑った。
「ユリウスらしいな」
「そうかな」
「うん。でも、俺もそう思うよ」
その会話を聞いていたダンが、少し首を傾げた。
「なあ、普通の魔力を測ってるだけで、黒い魔力のことが分かるのか?」
「直接分かるとは限らないよ」
シュウが答えると、ユリウスが言葉を継いだ。
「例えば、普通の闇属性を測っても装置の記録が毎回大きく変わるなら、黒い魔力を測ったときに違いが出ても、その原因が魔力なのか装置なのか判断しにくいだろう?」
「ああ、なるほど。先に道具がちゃんと動くか確かめるってことか」
「大まかにはそういうこと」
ダンは納得したように頷いた。
エリオットが少し笑いながら言った。
「ダンも合同演習で似たことをするかもしれないよ。道具や地形を確認せずに進むと、あとで困るから」
「分かってるって。俺だって昨日、班の連中と経路を確認してきたんだぞ」
「どうだった?」
シュウが尋ねると、ダンは嬉しそうに身を乗り出した。
「最初は俺が先頭を歩くって話だったんだけど、確認地点によって交代することになった。魔力反応を調べる場所では、観察が得意なやつに前へ出てもらうんだ」
「いいじゃないか」
「だろ? 俺も、ずっと先頭じゃなくてもいいかなって思った」
ダンは少し照れくさそうに笑った。
シュウはその表情を見ながら、友人たちもそれぞれの場所で変わり始めているのだと感じた。
合同演習はまだ始まっていない。
けれど、準備を通して学べることはすでにあるらしい。
◇
放課後、シュウとエリオットは研究棟へ向かった。
一般教室の並ぶ校舎から研究棟へ続く渡り廊下は、授業を終えた学生たちの流れから少し外れていた。窓の外には午後の柔らかな日差しが残り、遠くの実技場からは魔法を使用する際の短い号令が聞こえてくる。
シュウは歩きながら、今朝から何度か繰り返してきた確認を頭の中でもう一度行った。
体調に変化はない。
普段の魔法にも異常はない。
黒い魔力を無理に引き出そうとしない。
違和感があればすぐに伝える。
特別なことではない。
それでも、今日はその一つ一つが重要だった。
研究棟の観測室へ到着すると、グレイ・ハルバートとセレナ・ヴァイスが扉の前で待っていた。
「来たか、アルヴェイン」
「はい。よろしくお願いします」
シュウが頭を下げると、グレイは短く頷いた。
セレナは手元の記録板を確認し、いつもより少し柔らかな声で尋ねた。
「今朝から体調に変化はありませんか?」
「ありません。授業でも普通に魔法を使えました」
「頭痛やめまい、魔力の流れに対する違和感は?」
「どれもありません」
「分かりました。観測中も同じように確認しますので、少しでも変化があれば知らせてください」
セレナは回答を書き留め、エリオットへ視線を向けた。
「ファーレン君は見学席で待機してください。観測中は操作区域へ入らないこと。それから、何か気づいたことがあっても、装置には触れずに教員へ伝えてくださいね」
「はい。分かりました」
エリオットは丁寧に頭を下げた。
グレイが扉を開ける。
その向こうには、普段の教室とは少し違う静けさが広がっていた。
◇
観測室の中央には、小さな台座を囲むように三枚の薄い観測板が設置されていた。
それぞれの表面には細かな術式が刻まれ、台座から伸びる導線が壁際の記録補助器へつながっている。記録補助器には細長い紙が取り付けられており、魔力反応の変化を線として残せる仕組みになっているらしい。
室内の床には操作区域を示す線が引かれ、その外側に見学用の椅子が並んでいた。
エリオットは指定された席へ向かい、シュウは先生たちと一緒に装置の前へ立った。
「これが、多段式の魔力変化観測板ですね」
「そうだ」
グレイは三枚の板を順に指した。
「一枚の反応だけでは判断しにくい変化を、複数の観測板で確認する。ただし、板が三枚あるからといって、結果の正しさが保証されるわけではない」
シュウは頷いた。
グレイは続ける。
「観測板ごとに反応の仕方が違う。記録補助器にも遅れがあるかもしれん。入力した魔力量や術式の維持時間が変われば、当然、結果も変わる」
「だから、先に普通の闇属性を測るんですね」
「その通りだ」
グレイは少しだけ満足そうに頷いた。
「今日は特殊な反応を見つけることより、何を比較できる状態にあるのかを確かめる方が重要だ」
セレナが別の記録板を開いた。
「最初はグレイ先生が通常の闇属性を使用します。そのあと、装置の状態を確認してからアルヴェイン君に協力してもらう予定です」
「分かりました」
「なお、アルヴェイン君が黒い魔力を使用するかどうかは未定です。通常の闇属性の測定だけで終了する可能性もあります」
シュウは改めて頷いた。
説明を受けていた内容ではあるが、実際に装置を目の前にすると、少しだけ期待が膨らんでいた。
もしかしたら今日、何か大きな発見があるかもしれない。
そんな気持ちを、完全に消すことはできない。
しかし、期待と判断は別にしておかなければならない。
(今日は、先生たちの説明をちゃんと聞こう)
シュウは台座から一歩下がり、グレイの準備を見守った。
◇
最初の測定は、グレイ自身が行った。
グレイが台座の前へ立ち、右手をかざす。
次の瞬間、掌の前へ落ち着いた闇属性の魔力が集まり始めた。
それは周囲の光をわずかに弱めるような暗い色をしていたが、形は安定している。黒い魔力に見られた特殊な反応とは異なり、授業で扱う通常の闇属性として理解できるものだった。
三枚の観測板が順番に淡く光った。
壁際の記録補助器が小さな音を立て、取り付けられた紙の上へ細い線を描き始める。
シュウは思わず身を乗り出しかけたが、床に引かれた操作区域の線を見て、その場に留まった。
線はほぼ一定の幅で進んでいる。
しかし、完全な直線ではなかった。
ところどころに小さな揺れがあり、一定の間隔でわずかに上下しているように見える。
「先生、この揺れは魔力が不安定だからですか?」
シュウが尋ねると、グレイは魔力を維持したまま答えた。
「まだ分からん。私の入力に変化があった可能性もあるし、観測板や補助器の反応かもしれん」
グレイは指定された時間が経過すると魔力を止め、セレナへ視線を向けた。
「記録は?」
「取れています。終了直前に小さな変化がありますが、原因は未確認です」
「では、同じ設定でもう一度行う」
グレイは短く頷き、再び台座へ手をかざした。
二度目の測定でも、観測板は順番に反応した。
記録補助器が描く線は最初のものと似ていたが、細かな揺れの位置は完全には一致していない。
セレナは二枚の記録を並べ、慎重に見比べた。
「全体の傾向は近いですね。ただ、こちらの揺れは二度目の方が少し遅れています」
「補助器の記録間隔も確認する必要があるな」
グレイは装置の一部へ視線を向けた。
「この段階で、揺れを魔力そのものの性質だと決めることはできん」
シュウは二人のやり取りを聞きながら、少し驚いていた。
魔力を流し、観測板が反応し、線が描かれる。
それだけなら簡単に見える。
しかし、先生たちが気にしているのは、線が描かれたという事実だけではなかった。
どの程度同じ条件を保てたのか。
観測板の反応は再現されるのか。
記録補助器の遅れはどのくらいあるのか。
そうした点を確認しなければ、線の違いを正しく読み取ることはできない。
(思ってたより、ずっと地道なんだな)
シュウは北方調査で扱った古い支給台帳を思い出した。
同じような言葉が書かれていても、年代や地域、記録の目的が違えば意味も変わる。
魔力の観測も、それに似ているのかもしれない。
目の前にある記録だけで、すべてを説明できるわけではないのだ。
◇
グレイによる通常の闇属性の測定が終わると、セレナは記録補助器の状態を確認し、観測板の位置や設定を一つずつ点検した。
シュウは少し離れた場所で待ちながら、先生たちの作業を見守った。
エリオットも見学席から静かに観測している。
しばらくして、グレイが顔を上げた。
「アルヴェイン、次はお前の通常の闇属性を測る」
「はい」
シュウは台座の前へ進んだ。
セレナが手元の記録板を確認する。
「使用する術式は、先ほどグレイ先生が使用したものと同じです。ただし、魔力量を完全に一致させられるわけではありませんので、その点は比較の限界として記録します」
「分かりました」
「無理に先生と同じ出力へ合わせようとしなくて構いません。安定して維持できる範囲で使用してください」
シュウは頷き、一度深く息を吸った。
通常の闇属性。
授業で何度も使ってきた魔法だ。
黒い魔力を引き出そうとする必要はない。
むしろ、余計なことを考えず、普段通りに術式を形成する方がいい。
シュウは右手をかざし、ゆっくりと魔力を流した。
掌の前へ暗い色の魔力が集まり、台座の中央へ安定した反応が生まれる。
三枚の観測板が順番に光った。
記録補助器が動き始め、紙の上へ新しい線が描かれていく。
シュウは魔力の流れを一定に保つことへ集中した。
力を強める必要はない。
形を大きくする必要もない。
ただ、指定された術式を安定して維持する。
「……はい、そこで止めてください」
セレナの声に従い、シュウは魔力をゆっくりと収めた。
台座の反応が消え、記録補助器の動きも止まる。
「体調に変化は?」
「ありません」
「魔力を止めるとき、普段と違う感覚はありましたか?」
「いえ。いつも通りでした」
セレナは頷き、回答を書き留めた。
グレイは記録を取り上げ、自分の測定結果と並べて確認した。
しばらくの間、室内には紙を動かす音だけが響いていた。
シュウは少し緊張しながら、その様子を見守った。
「……なるほど」
グレイが小さく呟いた。
「何か違いがありましたか?」
シュウが尋ねると、グレイは記録を示した。
「私のものと比べて、お前の記録は一部の揺れが小さい。ただし、それが何を意味するかは分からん」
「魔力制御が安定しているから、という可能性はありますか?」
「可能性としてはある。だが、それだけで説明できると決まったわけではない」
グレイは落ち着いた声で続けた。
「術者が違う以上、魔力の性質や出力の細かな差も考えなければならん。それに、観測器の反応が完全に一定だと確認できたわけでもない」
シュウは頷いた。
自分の記録に違いがあった。
しかし、その違いが黒い魔力と関係しているとは限らない。
そもそも、今使ったのは通常の闇属性だった。
ここで特別な意味を見いだそうとするのは早すぎる。
「もう一度、同じ条件で測定する」
グレイの指示に従い、シュウは再び台座の前へ立った。
二度目の測定でも、通常の闇属性は安定して形成された。
記録補助器には一度目と似た線が描かれたが、細かな揺れには違いがある。
セレナは二枚の記録を並べ、慎重に確認した。
「大きな変化はありません。ただ、細部の一致は十分ではありませんね」
「うむ。補助器の応答をもう少し確認したい」
グレイは装置へ視線を向けた。
その表情は険しくない。
何か危険な反応が見つかったというより、測定の精度について考えているようだった。
シュウは少しだけ肩の力を抜いた。
◇
測定を終えたシュウは、見学席の近くへ戻った。
エリオットが椅子から少し身を乗り出し、小さな声で尋ねる。
「大丈夫?」
「うん。普通の闇属性を使っただけだから、特に変な感じはないよ」
「よかった」
エリオットは安心したように息を吐いた。
それから、記録補助器の方へ視線を向ける。
「先生たち、ずいぶん細かく確認してるね」
「うん。俺も、もっと簡単に結果が出ると思ってた」
シュウは少し苦笑した。
「魔力を流して、装置が反応したら、それで違いが分かるのかと思ってたんだ。でも実際には、普通の闇属性を測るだけでも確認することが多いんだな」
「そうだね。黒い魔力を調べるなら、なおさら慎重になるんだろうね」
エリオットは少し考え、言葉を続けた。
「でも、僕は安心したよ」
「どうして?」
「先生たちが、何か特別な結果を出すことより、ちゃんと測れるかどうかを大事にしてるから」
シュウはその言葉に頷いた。
確かに、今日のグレイとセレナは、黒い魔力を早く見ようとはしていなかった。
通常の闇属性を測り、記録の揺れを確認し、装置の状態を調べている。
自分の中にある力を研究対象として扱いながらも、無理に引き出そうとはしない。
その慎重さが、今はありがたかった。
「俺も、そう思う」
シュウは静かに答えた。
◇
やがて、グレイが二人の方へ歩いてきた。
「アルヴェイン、今日の観測はここまでにする」
シュウは顔を上げた。
「黒い魔力は測らないんですか?」
「今日は測らん」
グレイははっきりと答えた。
「通常の闇属性の測定で、観測器について追加確認が必要な点が見つかった。今の状態で特殊な反応を測っても、違いを正しく比較できるとは限らん」
セレナも記録板を持って近づいてきた。
「アルヴェイン君の魔力に危険な反応が出たという意味ではありません。今日の測定では、通常の闇属性を使用している間に、特別な身体症状も確認されませんでした」
「はい」
「ただし、観測板と記録補助器の反応について、もう少し調整したい部分があります。黒い魔力の測定は、そのあとに判断します」
シュウはゆっくり頷いた。
正直に言えば、少し残念だった。
今日こそ黒い魔力について何か分かるかもしれないと思っていたからだ。
けれど、その気持ちは長く続かなかった。
装置が十分に確認できていないまま測定しても、結果の意味を判断できなくなる可能性がある。
それなら、今は止めるべきだ。
「分かりました。今日はありがとうございました」
シュウが頭を下げると、グレイは短く頷いた。
「次の予定は調整が終わってから連絡する。それまでは、黒い魔力を意図的に使おうとするな」
「はい。自主的には試しません」
「それでいい」
セレナは最後にもう一度体調を確認し、記録板へ書き込んだ。
「今日は協力してくれてありがとう。通常の闇属性についても、比較のための記録が取れました」
「こちらこそ、ありがとうございました」
シュウは改めて頭を下げた。
エリオットも礼を言い、二人は観測室を後にした。
◇
研究棟を出るころには、空が夕方の色へ変わっていた。
校舎の窓には橙色の光が映り、中庭では授業や部活動を終えた学生たちが寮へ戻っていく。遠くからは楽しそうな話し声が聞こえ、食堂の方角には夕食の準備をしているらしい明かりが見え始めていた。
シュウとエリオットは並んで歩きながら、今日の観測について話した。
「黒い魔力は測らなかったね」
エリオットが言った。
「うん。でも、普通の闇属性だけでも結構勉強になったよ」
「例えば?」
「同じ術式を使っても、記録が完全に一致するわけじゃないこと。それから、違いが出てもすぐに原因を決められないことかな」
シュウは少し考え、言葉を続けた。
「あと、先生たちが思ってた以上に慎重だった」
エリオットは頷いた。
「僕もそう思った。シュウの魔力を調べる前に、装置の方をちゃんと確認してくれてるんだね」
「うん。それは安心できる」
シュウは空を見上げた。
黒い魔力の正体は、今日も分からなかった。
けれど、何も進まなかったわけではない。
通常の闇属性について記録が取れた。
観測器の状態について、追加で確認すべき点が見つかった。
そして、今の装置では何を比較できて、何をまだ比較できないのかが少し明確になった。
(答えが出ないことと、何も分からないことは違うんだな)
シュウはそう思った。
北方調査でも、似たようなことがあった。
古い記録を読んでも、すぐに謎が解けるわけではない。
むしろ、分からないことが増える場合もある。
それでも、確かめられた事実が一つ増えれば、次の判断は少しだけ正確になる。
今日の観測も、その積み重ねの一つなのだろう。
◇
夕食時、五人が集まると、ダンが真っ先に尋ねてきた。
「どうだった!? 黒い魔力、何か分かったか?」
シュウは苦笑した。
「今日は黒い魔力を測らなかったんだ」
「えっ、そうなのか?」
ダンは驚いた顔をした。
「じゃあ、何してたんだ?」
「普通の闇属性を測って、観測器の状態を確認してた」
シュウは今日の内容を簡単に説明した。
グレイが通常の闇属性を使って基準を確認したこと。
自分も同じ術式で測定したこと。
記録には違いがあったものの、原因はまだ分からないこと。
そして、観測器の調整が必要になったため、黒い魔力の測定は次回へ持ち越されたこと。
ユリウスは静かに頷いた。
「それなら、今日は十分意味があったと思う」
「俺もそう思う」
シュウが答えると、セシリアも微笑んだ。
「何より、無理に進めなかったのがよかったですね」
「うん。先生たちがちゃんと止めてくれたから」
ダンは少し考え、それから笑った。
「なるほどな。じゃあ、次はもっとちゃんと測れるってことか」
「そうなるように準備してるんだと思う」
エリオットが答えた。
ダンは大きく頷いた。
「ならよかった!」
シュウはその様子を見ながら、少し笑った。
友人たちは、結果が出なかったことを残念がるより、安全に終わったことを喜んでくれている。
それが嬉しかった。
◇
夜、第一男子寮三百十七号室へ戻ったシュウは、観測記録用のノートを開いた。
今日の内容を忘れないうちに整理する。
『通常闇属性観測・第一確認』
『実施場所:研究棟観測室』
『担当:グレイ・ハルバート、セレナ・ヴァイス』
『使用装置:多段式魔力変化観測板、記録補助器』
『実施内容:
グレイ先生による通常闇属性の複数回測定。
シュウによる通常闇属性の複数回測定。
同一術式、一定条件での反応比較。』
『確認事項:
記録には共通する傾向がある。
完全には一致しない。
シュウの記録は一部の揺れが小さいが、原因は未確定。
観測器の反応や記録間隔について追加確認が必要。』
『未実施:
黒い魔力の測定。』
『今後:
観測器の調整後、次回予定を連絡。
自主的な黒い魔力の試行は禁止。』
シュウは最後の一行を書き終え、筆を置いた。
今日の観測で、黒い魔力の正体が分かったわけではない。
けれど、何を確かめたのか、何がまだ分からないのかは整理できた。
それだけでも、次へ進むための準備になる。
シュウはノートを閉じ、椅子の背へ身体を預けた。
エリオットは向かい側で教科書を読んでいる。
窓の外はすっかり暗くなり、寮の廊下からは学生たちの話し声が時折聞こえてきた。
《マスター》
アルカディアの声が響いた。
(……何だよ)
《本日の観測、お疲れさまでした》
(おう。まあ、黒い魔力は測らなかったけどな)
《それも重要な判断です》
(珍しくまともなこと言うな)
《かつてのマスターは、あらゆる魔力を一瞬で解析する究極装置を設定しておられました》
(昨日も似たような話しただろ)
《はい。しかし、今回ご紹介するのは別の装置です》
(別の装置!?)
《名称は『真・超次元暗黒魔力完全解析装置・零式改』です》
(ほとんど同じじゃねえか!)
《前の装置が十三名の共同詠唱を必要とするのに対し、こちらはマスター一人で起動できます》
(おっ、改善されてるじゃん)
《ただし、起動には暗黒皇帝としての完全覚醒が必要です》
(……それ、どうやるんだよ)
《設定資料には記載されておりません》
(結局使えねえ!)
シュウは机へ額をつけた。
エリオットが顔を上げる。
「また昔の設定?」
「うん。今度は一人で使える魔力解析装置らしい」
「便利そうだね」
「でも、完全覚醒しないと使えない」
「完全覚醒って?」
「分からない」
エリオットは数秒黙ったあと、笑い始めた。
「シュウの昔の世界、便利なものほど使い方が分からないね」
「本当にそうなんだよ……」
シュウは苦笑した。
中学生のころの自分は、強そうな名前と壮大な設定を考えることに夢中だったのだろう。
けれど、今の自分は少し違う。
一瞬ですべてが分かる装置より、時間をかけてでも確かめられる観測器の方がありがたい。
答えが出なくても、無理に進めずに止めてくれる先生たちの方が信頼できる。
シュウはそのことを改めて感じていた。
黒い魔力の観測は、まだ始まったばかりだ。
次に何が分かるかは分からない。
それでも、焦る必要はない。
シュウは明日の授業の準備を終え、机の上を片づけた。
合同演習の準備も進んでいる。
第四班の仲間たちとも、少しずつ話せるようになってきた。
北方調査も、まだ続いている。
やるべきことは多いが、どれも一度に終わらせる必要はない。
シュウは窓の外へ視線を向けた。
夜の学院は静かで、遠くの校舎にはまだいくつか灯りが残っている。
今日の観測では、黒い魔力の正体は分からなかった。
けれど、確かめるための準備は一つ進んだ。
その小さな前進を大切にしながら、シュウは部屋の灯りを落とした。




