第66話 黒い魔力の観測日が決まりましたが、俺の放課後はまだ平和です
王立魔法学院の朝は、いつも同じように始まるわけではない。
よく晴れた日には中庭の噴水が朝日を受けて輝き、雨の日には石畳を歩く学生たちの足音が普段よりも小さく響く。今日のように雲がゆっくり流れる朝には、校舎の窓へ差し込む光が明るくなったり暗くなったりして、教室の雰囲気まで少しずつ変わって見えた。
シュウ・アルヴェインは第一男子寮三百十七号室の机に向かい、授業で使う教科書を鞄へ収めていた。
机の端には北方調査ノートが置かれているが、今朝は開いていない。
昨日、古い行政用語の資料から「北務」という言葉が必ずしも特定の帳簿名を意味しないと確認できたことで、支給台帳の断片について考える時間はいったん区切りをつけられた。
残る調査候補はまだある。
小型魔石の用途も、白材や導材の正体も、北方の古い役務とアルヴェイン家の関係も分かっていない。
それでも、今日すぐに次の資料を探さなければならないわけではなかった。
「シュウ、そっちの教科書は今日いらないと思うよ」
背後から声をかけられ、シュウは鞄へ入れかけた厚い本を見下ろした。
「え?」
「それ、明日の魔法史。今日は基礎魔法理論と実技、それから午後に合同演習の説明があるはず」
エリオット・ファーレンは自分の時間割を確認しながら、少し楽しそうに笑っていた。
「昨日の調査を終えて気が抜けた?」
「いや、普通に間違えた。危なかった、ありがとう」
「珍しいね。シュウが教科書を間違えるなんて」
「たまにはあるだろ」
シュウが本を入れ替えると、エリオットは鞄の口を覗き込んだ。
「今日は北方調査ノートを持っていかないんだ?」
「うん。必要になったら図書館で確認できるし、今日は授業に集中しようと思って」
「いいことだね」
「何だよ、その保護者みたいな言い方」
「最近、調べ物を休む判断ができるようになったから」
エリオットは真面目な顔でそう言ったあと、すぐに笑った。
シュウも呆れながら笑い返す。
以前なら、調査の続きを持ち歩かないことに少し落ち着かなさを覚えたかもしれない。
しかし今日は、不思議とそういう気持ちが薄かった。
(北の森のことは気になるけど、それだけが学院生活じゃないもんな)
ここへ来たとき、シュウが望んでいたのは、魔法を学び、友人を作り、いつか冒険者としていろいろな場所を旅することだった。
北の森で起きた出来事は、その目標と無関係ではない。
だが、目標のすべてでもない。
シュウは鞄を肩へ掛け、エリオットと一緒に部屋を出た。
◇
午前の基礎魔法理論では、複数属性を扱う際の魔力配分について学んだ。
担当のリディア・フェルンは、黒板へ二つの簡単な術式を描き、それぞれに流れる魔力の量を比較していた。
「異なる属性を続けて使用する場合、魔力量の大きさだけではなく、切り替える際の安定性が重要になります。特に、得意属性から不得意属性へ移るときは、同じ感覚で魔力を流そうとしないこと」
シュウは説明を聞きながら、隣に座るエリオットのノートへちらりと視線を向けた。
エリオットは水と風の術式を並べ、その下へ土属性を使用した場合の注意点を書き込んでいる。
水と風は比較的得意だが、土属性は苦手だ。
そのため、同じ量の魔力を流そうとすると、術式の形成に余計な力が入ることがある。
「エリオット、土属性のところ、昨日の実技と同じ注意を書いてる?」
シュウが小声で尋ねると、エリオットは頷いた。
「うん。昨日は最後に少し形が崩れたから。今日は切り替えのときに急がないようにしようと思って」
「いいと思う。水のときと同じ速さで形を作ろうとすると、少し無理が出るのかも」
「そうなんだよね。頭では分かってるんだけど」
エリオットは苦笑した。
シュウはそこで、自分が簡単に助言してしまったことへ少しだけ気づく。
自分は五つの基本属性を比較的安定して扱える。
だからこそ、不得意属性へ切り替える難しさを、エリオットと同じ感覚では理解できない部分がある。
(俺のやり方が、そのままエリオットに合うとは限らないよな)
シュウは少し考え、言葉を付け加えた。
「もしよかったら、実技のときに一緒に確認しよう。俺も切り替えの速度を落として試してみる」
「いいの?」
「もちろん。ただ、俺の方法が正解とは限らないから、先生にも確認しよう」
エリオットは嬉しそうに頷いた。
「ありがとう。じゃあ、お願いするよ」
その会話を聞いていた前の席の学生が、振り返って笑った。
「二人とも、相変わらず仲いいな」
シュウが返事をする前に、エリオットが平然と答える。
「同室だからね。シュウが夜に変なことを考え始めても、僕が止められるし」
「変なことって何だよ!」
「古い資料を一晩で全部調べようとすること」
「ああ、それは止めた方がいいな」
前の席の学生まで納得してしまい、シュウは思わず頭を抱えた。
◇
午前最後の実技では、セレナ・ヴァイスが学生たちを二人一組に分け、属性切り替えの基礎練習を行わせた。
実技場には一定の間隔で魔力測定用の標的が置かれ、学生たちは一つの属性を使用したあと、魔力の流れを落ち着かせて別の属性へ切り替える。
シュウとエリオットも同じ組になった。
「まずは水から風へ。無理に速く切り替える必要はありません」
セレナの説明に従い、エリオットが手を前へ出す。
掌の前に小さな水球が生まれ、しばらく形を保ったあと、静かに消えていった。
続いて風属性へ切り替える。
周囲の空気が柔らかく動き、標的の前に置かれた薄い布が揺れた。
「うん、ここまではいい感じ」
シュウが言うと、エリオットは少し安心したように息を吐いた。
「問題は次だね」
土属性への切り替え。
エリオットは一度手を下ろし、呼吸を整えた。
足元の指定された土砂へ魔力を流すと、小さな盛り上がりが生まれる。
しかし、形を整えようとしたところで一部が崩れた。
「ああ、やっぱり」
エリオットが眉を寄せる。
シュウはすぐに助言せず、何が起きたのかを思い返した。
魔力の流れそのものは乱れていなかった。
ただ、土の形を整えようとした瞬間に、少し出力が上がったように見えた。
「エリオット、最後に形を整えるところで、ちょっと力を入れた?」
「入れたと思う。崩れそうだったから、支えようとして」
「じゃあ、次は形を大きくしなくていいから、最初の盛り上がりだけ保ってみない?」
エリオットは少し考えたあと、頷いた。
「それならできそう」
二度目の試行では、土の盛り上がりは先ほどより小さかった。
だが、形は崩れずに残った。
エリオットは目を見開き、それから嬉しそうに笑った。
「できた!」
「うん、今のは安定してた」
近くを巡回していたセレナも足を止めた。
「ファーレン君、今の制御はよかったですね。無理に形を大きくしようとせず、維持できる範囲で止められています」
「ありがとうございます」
「ただし、次は自分で崩れ始める兆候を感じ取れるようにしましょう。隣の人に教えてもらうだけでは、実際に術式を使うときに対応が遅れますから」
「はい」
セレナはシュウへも視線を向けた。
「アルヴェイン君も、相手の状態を見ながら助言できていました。ただ、他人の魔力を完全に把握できるわけではありません。自分の感覚と相手の感覚が違うことは忘れないように」
「分かりました」
シュウは素直に頷いた。
自分の魔力制御が安定しているからといって、他人の感覚まで正確に理解できるわけではない。
その注意は、今後も必要になるだろう。
◇
昼休み、五人が食堂へ集まると、ダンが早速エリオットの様子に気づいた。
「何かいいことあったのか?」
「土属性の制御が少し安定したんだ」
「おお、やったじゃん!」
ダンは自分のことのように喜び、エリオットの肩を軽く叩いた。
「俺も最後の止め方、前より良くなってきたんだよ。やっぱり一気に上手くなろうとしない方がいいんだな」
「ダンがそれ言うと説得力あるね」
エリオットが笑うと、ダンは少し得意そうに胸を張った。
「だろ? 俺も成長してるんだよ」
「うん。前より自分の苦手なところをちゃんと説明できるようになってると思う」
シュウがそう言うと、ダンは一瞬きょとんとした顔をした。
それから、照れくさそうに視線を逸らす。
「……まあ、そう言われると悪い気はしないな」
セシリアが微笑んだ。
「二人とも、ちゃんと積み重ねているんですね」
「セシリアだってそうだろ。水と光の制御、かなり安定してるじゃん」
ダンが言うと、セシリアは少し驚いたように目を瞬かせた。
「ありがとうございます。でも、私はまだ実際の補助術式へ応用するときに迷うことがありますから」
「そうなの?」
エリオットが尋ねる。
「はい。自分一人で形を作るのと、相手の動きに合わせて補助するのでは、考えることが違うので」
シュウはその言葉を聞きながら、以前からセシリアが支援系の魔法や生活に役立つ魔導具へ関心を持っていたことを思い出した。
彼女は派手な魔法を使いたがるタイプではない。
誰かを助けるために、必要な場面で正確に魔法を使えるようになりたいのだろう。
「今度、補助術式の練習も一緒にできたらいいね」
シュウが言うと、セシリアは少し嬉しそうに頷いた。
「ぜひ。皆さんの動き方も参考になりますし」
ユリウスが静かに口を開いた。
「それなら、次の合同演習で試せるかもしれない」
「合同演習?」
ダンが反応する。
「午後に説明があるって聞いたけど、何やるんだろうな」
「まだ詳しくは分からないよ」
シュウが答えると、ダンは期待に満ちた顔になった。
「模擬戦とかだったら面白そうだな!」
「合同演習だからって、必ず戦うわけじゃないだろ」
「でも魔法学院だぞ?」
「その理屈、毎回聞いてる気がする」
エリオットが笑った。
◇
午後の講義が終わる少し前、リディアが教室へ入ってきた。
普段の授業とは違い、手には複数の書類を持っている。
「皆さん、少し時間をください。来週実施予定の合同演習について説明します」
教室がざわめいた。
合同演習は、異なる組の学生が協力して課題へ取り組む授業らしい。
今回は戦闘訓練ではなく、魔力制御、観察、判断、役割分担を組み合わせた演習になるという。
「今回の課題は、模擬的な森林環境での調査と安全確保です」
その言葉に、シュウは少しだけ顔を上げた。
森林。
最近まで北方の古い林区記録を調べていたため、自然と意識が向く。
ただし、これは授業の一環であり、北の森の異常とは関係がない。
リディアは黒板へ簡単な図を描いた。
「演習場には複数の確認地点を設けます。各班は指定された順序で移動し、周囲の魔力反応や地形を確認しながら、必要に応じて補助魔法を使用してください」
学生たちは興味深そうに説明を聞いている。
「大切なのは、最も速く進むことではありません。班員の状態を確認し、無理なく課題を終えることです」
リディアはそこで一度言葉を切った。
「また、魔力反応が確認されたからといって、必ず術式を使用する必要はありません。観察だけで十分な場合もあります」
シュウは思わず小さく頷いた。
北方調査で学んできたことと、どこか似ている。
何かがあるからといって、すぐに手を出す必要はない。
まず確認する。
分からないことを分からないまま残す判断も必要になる。
しかし、今回は資料ではなく実際の演習だ。
仲間の安全や魔力の消耗も考えなければならない。
「班編成は後日発表します。クラスをまたぐ編成もありますので、普段あまり話さない学生と協力することになるかもしれません」
ダンが聞いたら喜びそうだと、シュウは思った。
セシリアにとっても、補助術式を実際の動きへ合わせる練習になるかもしれない。
リディアは最後に、演習で使用する基本的な安全規則を説明した。
勝手に指定区域を離れないこと。
危険を感じたらすぐに教員へ知らせること。
魔力量に余裕があっても、無理に術式を使用しないこと。
そして、班員の体調や能力差を考慮すること。
シュウはそれらをノートへ書き留めた。
◇
放課後、シュウとエリオットが教室を出ようとしたところで、リディアから声をかけられた。
「アルヴェイン君、少しいいですか?」
「はい」
シュウが足を止めると、エリオットも隣で立ち止まった。
「ファーレン君も一緒で構いません」
リディアは二人を教室の端へ案内した。
ほかの学生たちが廊下へ出ていくのを待ってから、少し声を落とす。
「グレイ先生から、魔力観測について連絡があります」
シュウの表情がわずかに引き締まった。
黒い魔力のことだろう。
以前から、通常の闇属性と区別して慎重に調べる方針が続いていた。
ただ、最近は北方調査へ時間を使っていたこともあり、新しい観測は行われていない。
「観測の予定が決まったんですか?」
「はい。ただし、今回は新しい能力を試すわけではありません」
リディアははっきりと説明した。
「グレイ先生とセレナ先生が、観測器の調整を終えました。まずは通常の魔力反応を基準として確認し、そのあと必要に応じて、以前観測された特殊な反応との違いを調べる予定です」
シュウはゆっくり頷いた。
「俺が黒い魔力を使うんですか?」
「その可能性はありますが、最初から決めているわけではありません。観測条件を確認し、先生方が安全と判断した範囲で進めます」
「分かりました」
リディアは書類へ目を落とした。
「予定は三日後の放課後です。場所は研究棟の観測室。授業後にグレイ先生のところへ来てください」
「はい」
「それから、前回までに確認された身体感覚や魔力の変化について、何か新しいことはありましたか?」
シュウは少し考えた。
最近、黒い魔力を意図的に使用したことはない。
普段の魔法練習で異常な反応が出たこともない。
身体に不調も感じていない。
「特にありません。普通の魔法を使っていても、変な感覚は出ていないです」
「そうですか。では、その状態も記録しておきます」
リディアは書類へ短く書き込み、顔を上げた。
「もし観測日までに何か変化があれば、すぐ知らせてください。無理に確かめようとする必要はありません」
「はい。自分で試したりはしません」
シュウが答えると、リディアは安心したように頷いた。
「それで結構です」
エリオットは隣で黙って聞いていたが、話が終わると静かに尋ねた。
「先生、僕も当日付き添えますか?」
リディアは少し考えた。
「観測室へ入れるかどうかは、グレイ先生の判断になります。ただ、待機場所については相談できると思います」
「分かりました。ありがとうございます」
エリオットは丁寧に頭を下げた。
シュウはその横顔を見ながら、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
自分の魔力についての研究なのに、エリオットはいつも自然に気にかけてくれる。
それを当然のことだと思いたくはなかった。
◇
教室を出たあと、二人はしばらく黙って廊下を歩いた。
窓の外では、夕方の光が校舎の壁を照らしている。
階段へ差しかかったところで、エリオットが口を開いた。
「三日後か」
「うん」
「緊張してる?」
シュウは少し考えてから答えた。
「多少は。でも、前よりは落ち着いてるかな」
「どうして?」
「先生たちが急いで結論を出そうとしてないから。普通の闇属性と黒い魔力をちゃんと分けて調べようとしてるし、今回は観測器の調整から始めるって言ってたから」
エリオットは頷いた。
「確かに、前より慎重に準備してる感じはするね」
「それに、何かあったら止めてくれるだろうし」
「うん」
エリオットは少しだけ歩く速度を落とした。
「でも、シュウ自身も無理しないでね。先生が大丈夫って言っても、変な感じがしたらちゃんと伝えてほしい」
「分かってる」
「本当に?」
「本当だよ」
シュウは苦笑した。
「俺だって、黒い魔力が何なのか分からないまま無理に使うのは嫌だし」
エリオットはその答えを聞いて、ようやく少し安心したようだった。
「それならいい」
シュウは隣を歩く友人へ視線を向けた。
最初に同じ部屋になったころ、エリオットは明るくて話しやすい相手という印象だった。
今はそれだけではない。
自分が調べ物へ夢中になりすぎれば止めてくれる。
魔法の練習では互いに助言し合える。
そして、何か不安なことがあれば、こうして自然に隣へいてくれる。
(いい友達ができたよな、本当に)
シュウはそう思いながら、階段を下りた。
◇
夕食時、五人が集まると、話題はすぐに合同演習へ移った。
「森林環境での調査だって!?」
ダンが目を輝かせる。
「面白そうじゃん!」
「だから模擬演習だって。実際の森へ行くわけじゃないぞ」
シュウが説明すると、ダンは少し残念そうな顔をした。
「何だ、そうなのか」
「それでも十分楽しそうですよ」
セシリアが微笑む。
「地形や魔力反応を確認しながら進むなら、補助魔法を使う場面もありそうですし」
「班編成はまだ分からないんだよね」
エリオットが尋ねると、ユリウスが頷いた。
「クラスをまたぐ可能性があるって話だった」
「じゃあ、俺たち全員同じ班になるとは限らないのか」
ダンは少し考え、それから笑った。
「まあ、それはそれで面白いかもな。普段組まない相手とやるのも勉強になるだろ」
シュウは少し意外に思った。
ダンなら、五人で同じ班になりたいと言い出すかもしれないと思っていたからだ。
「ダン、結構前向きだな」
「そりゃそうだろ。騎士だって、いつも同じ相手と組めるわけじゃないし」
ダンは当然のように答えた。
その言葉に、シュウは小さく頷いた。
普段は勢いよく話すことが多いダンだが、騎士を目指す家の出身らしく、協力や役割分担については真剣に考えている。
そういう一面を見るたび、彼を単に元気な友人として片づけるのは違うと思う。
「それと、三日後に魔力観測の予定が入った」
シュウが話題を変えると、四人の視線が集まった。
グレイとセレナが観測器の調整を終えたこと。
最初は通常の魔力反応を確認すること。
黒い魔力を使うかどうかは、安全確認をしてから決めること。
シュウはリディアから聞いた範囲だけを説明した。
「また黒い魔力の調査か」
ダンは少し真剣な顔になった。
「大丈夫なのか?」
「今のところ身体に変化はないし、先生たちも慎重に進めるって」
「ならいいけど、無理すんなよ」
「うん」
セシリアも静かに頷いた。
「何か違和感があったら、遠慮せずに伝えてくださいね」
「ありがとう」
ユリウスは少し考えてから尋ねた。
「今回は前の観測結果と比較するの?」
「たぶん。ただ、具体的にどう進めるかは当日説明があると思う」
「分かった。なら、今は結果を予想しすぎない方がいいね」
「そうだな」
シュウは頷いた。
黒い魔力が何なのか。
普通の闇属性とどう違うのか。
北の森で感じた反応と関係があるのか。
考えたいことはいくらでもある。
けれど、観測前から答えを決めるつもりはなかった。
◇
夜、三百十七号室へ戻ったシュウは、今日の出来事を二つのノートへ分けて記録した。
一つは授業用。
エリオットの土属性制御が少し安定したこと。
合同演習の予定が発表されたこと。
班編成は未定であり、森林環境を模した演習場で調査と安全確保を行うこと。
もう一つは、魔力観測に関する記録だった。
『三日後・放課後
研究棟観測室
担当:グレイ・ハルバート、セレナ・ヴァイス
連絡:リディア・フェルン
目的:
通常魔力反応の基準確認。
必要に応じて、過去に観測された特殊反応との比較。
注意:
黒い魔力の使用は未確定。
安全確認後、教員判断。
現在、身体異常なし。
自主的な試行は禁止。』
書き終えてから、シュウは筆を置いた。
黒い魔力のことは、北方調査とは別に管理している。
もちろん、二つが無関係だと決まったわけではない。
しかし、関係があるとも証明されていない。
北の森の黒い土や根と、シュウ自身の黒い魔力。
似た色や感覚があるからといって、同じものとして扱うわけにはいかない。
(今回も、そこを忘れないようにしないとな)
シュウはノートを閉じ、椅子の背へ身体を預けた。
エリオットは向かい側で教科書を読んでいる。
窓の外はすっかり暗くなり、寮の廊下からは学生たちの話し声が時折聞こえてきた。
《マスター》
アルカディアの声が響いた。
(何だよ)
《黒い魔力の観測が予定されたようですね》
(そうだな)
《かつてのマスターは、ご自身の魔力を観測するための専用装置も設定しておられました》
(……また変なのが出てきたな)
《名称は『超次元暗黒魔力完全解析装置・絶対零式』です》
(長いな!)
《あらゆる魔力の本質を一瞬で見抜く、世界最高峰の解析装置という設定でした》
(便利すぎるだろ)
《ただし、使用には暗黒皇帝本人の承認が必要です》
(また暗黒皇帝かよ)
《さらに、装置を起動するためには十三名の暗黒皇帝候補生による共同詠唱が必要とされています》
(昨日の十二人未設定のやつ!?)
《はい》
シュウは机へ額をつけた。
(何で俺の設定、重要なところで毎回詰むんだよ……)
《設定資料によれば、共同詠唱が成功すると、装置は使用者の魔力を完全解析します》
(でも候補生が足りないから起動できないんだろ?)
《その通りです》
(意味ねえ!)
《なお、装置の外観図は存在します》
(どんな形なんだよ)
《黒い球体に十三本の角が生え、中央に巨大な眼が描かれています》
(……)
《マスターは欄外へ「めちゃくちゃかっこいい」と記しております》
(もうやめてくれ!)
シュウは両手で顔を覆った。
エリオットが顔を上げる。
「今度は何?」
「昔の俺が、魔力を完全解析する装置を設定してた」
「便利そうだね」
「でも起動に十三人必要で、十二人は設定されてない」
「また?」
「また」
エリオットは数秒黙ったあと、笑い始めた。
「シュウの昔の世界、重要な装置が全然使えないね」
「本当にそうなんだよ……」
シュウも苦笑するしかなかった。
中学生のころの自分は、強そうな名前や壮大な設定を考えるのが楽しかったのだろう。
しかし、実際に使う場面まで考えていなかったらしい。
それに比べれば、グレイやセレナが準備している観測器はずっと地味だ。
普通の魔力反応を確認し、条件を揃え、必要な範囲だけ比較する。
一瞬ですべてが分かるわけではない。
それでも、現実の研究としてはそちらの方がずっと信頼できる。
シュウは笑いが収まったあと、窓の外へ目を向けた。
三日後。
久しぶりに、黒い魔力についての観測が行われる。
何か新しいことが分かるかもしれないし、これまでと変わらない結果になるかもしれない。
どちらでも、今は構わない。
大切なのは、無理をせず、確かめられることを一つずつ増やしていくことだ。
北方調査で学んできた慎重さを、今度は自分自身の魔力へ向ける。
そう考えると、少しだけ緊張が和らいだ。
シュウは明日の授業の準備を終え、机の上を片づけた。
北の森の謎も、黒い魔力の正体も、まだ分からない。
けれど今日は、エリオットの魔法が少し上達し、ダンの努力を知り、セシリアの目標を改めて聞くことができた。
合同演習という新しい予定も決まった。
学院生活は、調査だけで進んでいるわけではない。
友人たちと過ごす何気ない一日にも、少しずつ変化が積み重なっている。
シュウはそのことを嬉しく思いながら、部屋の灯りを落とす準備を始めた。
黒い魔力の観測まで、あと三日。
その日を待つ間にも、いつもの学院生活は続いていく。




