第65話 七つの候補から選んだのは、答えに一番近い資料ではありませんでした
翌朝、シュウが目を覚ましたとき、第一男子寮三百十七号室の窓には薄い雲が映っていた。
昨夜はよく晴れていたものの、夜の間に風向きが変わったらしく、中庭の木々が時折大きく揺れている。窓を閉めていても枝葉の擦れる音が聞こえ、廊下からは朝食へ向かう学生たちの足音が届いていた。
机の上には、昨夜閉じた北方調査ノートが置かれている。
その最後の頁には、次に調べる候補が七つ並んでいた。
小型魔石の一般用途。
「夜見」という言葉の用例。
白材と導材の他地区での使用。
「再見」の一般的な意味。
支給台帳の成立と伝来。
エルド・マルセルによる支給台帳の利用範囲。
そして、「北務」という言葉の一般用例。
どれも調べる理由はある。
しかし、七つを同時に進めるつもりはなかった。
(さて、どれから手をつけるかな)
シュウは寝台の端に腰掛けたまま考えた。
気持ちだけで選ぶなら、答えは決まっている。
北務。
保護板越しの古い紙片に残っていた、確定しきれない二文字。
第三旧所の記録にあった『北務帳へ移す』という一文と、どうしても結びつけたくなる。
ただ、昨日の比較調査を思い返すと、その選び方には少し引っかかるものがあった。
北部だけを見ていたから、普通の物資管理まで特別に見えていた。
ならば「北務」という文字についても、北方の謎に関係する資料ばかり探していたら、同じことを繰り返すかもしれない。
「おはよう、シュウ」
エリオットが寝台から起き上がり、窓の方へ目を向けた。
「今日は風が強そうだね。……また考え事?」
「昨日の七つから、一つ選ぼうと思って」
「もう決めた?」
「まだ」
「じゃあ、朝食を食べながら決めたら?」
「食堂でノート広げるのもなあ」
「広げなくていいよ。食べながら考えて、食べ終わるころには決めればいい」
エリオットはそう言ってから、少し笑った。
「それで決まらなかったら、授業が終わるまで保留」
「お前、最近ますます俺の扱いに慣れてきたな」
「同じ部屋で暮らしてるからね」
シュウは苦笑しながら立ち上がった。
以前なら、朝のうちに調査方針を決めなければ落ち着かなかったかもしれない。
だが、今日すぐに答えを出さなければならない事情はない。
北の森から新しい知らせが届いたわけでもなく、身体に異変が起きているわけでもない。黒い魔力についても、新しい実験の予定はまだ決まっていなかった。
急ぐ理由がないなら、急がなくていい。
そう考えられるようになったこと自体、少し前の自分とは違っていた。
◇
午前の授業は、グレイ・ハルバートによる魔力制御理論だった。
今日の題材は、複数の観測結果を比較するときの条件設定である。
教室の前方には三枚の観測板が並べられ、それぞれに異なる大きさの魔力反応が記録されていた。
「この三枚を見て、どの術者が最も制御に優れていると思う?」
グレイが尋ねると、教室のあちこちから意見が上がった。
一枚目は反応の広がりが小さい。
二枚目は中心部分の濃度が均一だった。
三枚目は反応が長く持続している。
それぞれに優れているように見える部分があり、学生たちは自分が重視する特徴を根拠に答えていた。
シュウも三枚を見比べたが、すぐには判断できなかった。
そもそも、投入された魔力量が同じなのか分からない。
使用した術式も、観測時間も示されていなかった。
「先生、比較条件が足りないと思います」
シュウが手を挙げて言うと、グレイは満足そうに頷いた。
「そうだ。今見えているのは結果だけで、そこへ至る条件が揃っていない。三枚目が長く続いているのは制御が優れているからかもしれんが、単純に投入魔力量が多かった可能性もある」
グレイは黒板へ条件を書き加えた。
術式。
投入魔力量。
観測時間。
術者の習熟度。
使用した観測器の状態。
「違いを見つけるのは簡単だ。だが、その違いが何によって生じたのかを判断するには、比べる条件を揃えなければならない」
シュウは説明を聞きながら、昨日見た支給記録分類索引を思い出した。
北部と他地区では、残っている記録の量が違うかもしれない。
記録が作られた年代も、業務の規模も違うかもしれない。
それなのに分類件数だけを並べて、北部では特定の作業が多かったと結論づければ、今グレイが指摘している間違いと同じことになる。
(昨日、件数の比較まで進めなくてよかったな)
シュウは講義ノートの余白へ小さく書き込んだ。
『比較対象の条件を揃える。揃わない場合は差の原因を決めない。』
そのとき、グレイが別の観測板を取り出した。
「では、条件が完全には揃わない場合、比較そのものが無意味になるか?」
今度は教室が少し静かになった。
シュウも考えた。
条件が揃わなければ、原因は断定できない。
しかし、共通点や違いを記録することまで無意味になるわけではない。
グレイは学生たちの反応を見てから続けた。
「比較はできる。ただし、何を比較したのか、何を比較できなかったのかを明確にする必要がある。観測結果を利用する者にとって重要なのは、研究者がどこまで確認したかを知ることだからな」
その言葉を聞いたシュウは、昨日の調査記録を思い返した。
六つの物資管理項目について、北部以外にも例があることは確認した。
だが、頻度や割合は比較していない。
同じ制度が同じ年代に適用されていたとも確認していない。
だからこそ、昨日の結論はあの範囲に留める必要がある。
授業の終わりに、グレイは学生たちへ小さな演習課題を出した。
三種類の観測記録から、比較できることと比較できないことを分けるというものだった。
シュウは隣のエリオットと相談しながら課題を進めたが、二人の判断が一か所だけ分かれた。
「これ、反応が安定してるって言っていいんじゃない?」
エリオットが指したのは、一定時間ほとんど変化していない観測値だった。
「安定してるのは分かるけど、制御が上手いかどうかは別じゃない?」
「確かに。術式自体が変化しにくい可能性もあるか」
「そうそう」
二人は少し話し合い、結果として観測された安定性と、その原因に関する評価を分けて記録した。
提出した答案を見たグレイは、短く頷いた。
「よし。原因を決めつけなかったのはいい判断だ」
その一言に、エリオットが少し嬉しそうな顔をした。
シュウも自然と笑みを浮かべる。
北方調査とは関係のない授業のはずだったが、今の自分に必要な考え方を、別の角度から確かめられた気がした。
◇
昼休み、食堂ではダンが珍しく真剣な顔でユリウスへ相談していた。
「だからさ、最後に魔力を止めるときだけ、ちょっと急いじまうんだよ」
「急いで止めようとするからじゃない?」
「それは分かってるんだけど、意識すると余計に力が入るんだ」
ダンは皿の横へ手を置き、指先を動かしながら説明している。
最近の実技では、低出力から徐々に魔力を増やし、最後に無理なく止める練習を続けていた。以前と比べればかなり安定してきたものの、終わり際に少し力んでしまう癖が残っているらしい。
セシリアはその様子を見ながら、穏やかに口を開いた。
「最後だけ別の動作だと思わない方がいいかもしれませんね。増やして、減らして、止めるところまでを一続きの制御として考えてみたらどうでしょう」
「一続き?」
「はい。止める瞬間だけ頑張るのではなく、減らしている途中から自然に終わるようにするんです」
ダンはしばらく考え、それから何度か頷いた。
「なるほどな。次の実技で試してみる」
「急にやり方を大きく変えないでくださいね」
「分かってるって!」
シュウはその会話を聞きながら、以前よりもダンが自分の苦手な部分を具体的に説明できるようになっていることに気づいた。
以前なら、上手くいかなかったことを悔しがり、すぐ次の挑戦をしたがっていただろう。
今はどこで力んでいるのかを理解し、他人の助言を聞いてから試そうとしている。
(ダンもちゃんと変わってるんだな)
そんなことを考えていると、ダンがこちらを向いた。
「そういやシュウ、次の調査決めたのか?」
「まだ。候補は七つあるけど、今日は授業を受けてから考えようと思ってた」
「七つって多くないか?」
「全部やるわけじゃないよ」
シュウが答えると、エリオットが楽しそうに付け加えた。
「一つ選ぶだけで、残りは保留」
「なるほど。じゃあ、どれが一番すごそうなんだ?」
「すごそうって基準で選ばないんだよ」
「ええー」
ダンが露骨に不満そうな顔をする。
ユリウスは食事の手を止め、シュウへ尋ねた。
「今、一番気になっているのは?」
「『北務』の一般用例かな。昨日の断片がどうしても気になる」
「じゃあ、それを調べる?」
「そこを迷ってる」
シュウは少し考えてから続けた。
「気になるものを先に調べるのは悪くないと思う。でも、北務帳につながる言葉を探したいって気持ちが強すぎる気がして」
ユリウスはすぐには答えず、スープを一口飲んだ。
「だったら、北務帳とは関係ない資料で『北務』の使われ方を見るのは?」
「関係ない資料?」
「うん。北方の歴史書じゃなくて、古い行政用語の資料とか。そもそも『北務』が特定の帳簿名なのか、北側の業務を指す普通の略語なのか、その辺りを確認する」
シュウは思わず顔を上げた。
確かに、その方法なら最初から北務帳を探すことにはならない。
北方調査の資料ばかり読んでいると、どうしても知っている言葉へ引き寄せてしまう。
一般的な用例を先に確認すれば、少なくとも「北務」という二文字がどの程度特別なのかを考える手がかりになる。
「それ、いいな」
「ただし、古い用語だから地域差もあると思う」
「うん。だから一冊だけで決めない」
エリオットが笑った。
「また増えそう」
「増やさないって!」
セシリアは二人のやり取りを見ながら、少し考えるように首を傾げた。
「言葉そのものを調べるなら、家政文書の用語集も参考になるかもしれませんね。以前、『預かる』の意味を調べていましたし」
「そうなんだよな。でも、今回は家の記録じゃなくて、林区の業務用語を先に見たい」
「それなら、行政記録の方が近そうですね」
シュウは頷いた。
ようやく、今日の目的が一つに絞れた気がした。
◇
午後の授業が終わるころには、朝から吹いていた風が少し弱まっていた。
シュウ、エリオット、ユリウスの三人は図書館へ向かい、受付にいたマティアスへ相談した。
「今日は北方の資料じゃなくて、古い行政用語の使われ方を調べたいんです」
「行政用語ですか」
「はい。『北務』という二文字が、特定の帳簿名以外でも使われていたのか知りたくて」
マティアスは少し考えたあと、受付の奥にある目録を開いた。
「古い役務記録の略称についてですね。それなら、まず一般用語集を確認した方がいいでしょう。ただし、王都周辺と地方では同じ略称が異なる意味で使われる場合もあります」
「分かりました」
「それと、調べたいのは『北務帳』ではなく『北務』という語そのものですね?」
「はい」
マティアスが確認するように尋ねたため、シュウははっきり頷いた。
「帳簿名を探しているわけではありません。『北務』が普通の言葉だったのか、それとも特定の役務や組織を指す言葉だったのか、分かる範囲で確認したいんです」
「それなら、こちらがよさそうです」
マティアスが案内したのは、歴史資料の一般閲覧棚だった。
取り出されたのは『旧王領役務語彙小集』という薄い本である。
約九十年前に編纂された用語集で、古い王領行政記録に現れる略称をまとめたものらしい。
ただし、すべての地域を網羅しているわけではない。
「この本は原文をそのまま集めた資料ではありません。編纂者による語義整理が中心ですので、用例の出典が明示されている箇所と、そうでない箇所を区別してください」
「ありがとうございます」
シュウは本を受け取り、三人で閲覧席へ向かった。
窓際の席には午後の柔らかな光が差し込んでいる。
近くでは別の学生が試験勉強をしており、頁をめくる音と筆記具の擦れる音が静かに重なっていた。
シュウは最初に書誌情報を記録し、それから索引を開いた。
北。
北役。
北方。
北務。
目当ての文字列は、思っていたよりあっさり見つかった。
「……あった」
シュウが小声で言うと、エリオットとユリウスが身を寄せた。
該当項目には、次のように書かれていた。
『北務――北方または北部に属する役務の略称として用いられる例あり。特定の役所、担当区分、帳簿名を指す場合もあるが、地域・年代により一定せず。』
シュウは黙って読み返した。
その下には短い補足がある。
『北務役、北務方、北務帳等の複合語に見えることあり。ただし、単独の「北務」を特定の一組織または一帳簿の名称とみなすべからず。』
「……普通に使われることがあったんだ」
エリオットが呟いた。
「少なくとも、この用語集ではそう整理されてる」
ユリウスが慎重に答える。
シュウは何も言わず、もう一度文章を読んだ。
北務。
北方または北部に属する役務。
特定の役所、担当区分、帳簿名を指す場合もある。
ただし、一定しない。
(やっぱり、あの二文字だけじゃ分からないな)
予想していたことではある。
それでも、実際に一般用例を確認すると、保護板越しの断片に対する見方が少し変わった。
あの文字が本当に『北務』だったとしても、北務帳の一部とは限らない。
北部の仕事をまとめて指していた可能性もある。
物資を扱う部署の略称だった可能性もある。
そして、単なる担当区分の表記だった可能性もある。
シュウは記録した。
『『旧王領役務語彙小集』:
「北務」は北方・北部役務の略称として用例あり。
役所・担当区分・帳簿名を指す場合もある。
地域・年代で意味一定せず。
→ 支給台帳整理35の「北務か」を、北務帳の略記と即断できない。』
そこまで書いてから、出典欄を確認する。
用語集にはいくつかの参考資料が挙げられていたが、すべての語義について個別の出典が示されているわけではなかった。
「ここは注意だな」
シュウが言う。
「どこ?」
「北務の説明に、直接対応する原文例が全部載ってるわけじゃない。だから、この本がそう整理してるってことまでは分かるけど、ローデルでも同じ意味だったとは言えない」
ユリウスが頷く。
「それに、北務帳という語が複合語として挙がっているからといって、僕たちが探している帳簿と同じものかどうかも別だね」
「うん」
エリオットは二人の顔を見比べた。
「でも、調べてよかったんじゃない?」
「そう思う」
シュウは素直に答えた。
答えへ近づいたというより、間違った近道を一つ避けられた気がした。
◇
その後、三人は用語集に掲載されている関連項目を確認した。
『北役』は、北側の担当業務を指すことがある。
『北方務』は、地域によって北方の管理業務全般を意味する場合がある。
『務帳』は、役務の実施や引継ぎを記録する帳簿を指す例があるものの、記録対象や形式は統一されていない。
シュウは興味を引かれたが、すべてを北方調査へ結びつけることはしなかった。
特に『務帳』については、一般的な帳簿名として存在したことと、第三旧所の記録に出てきた『北務帳』の実体とは分ける必要がある。
「これ、どうする?」
エリオットが『務帳』の項目を指した。
「記録はする。でも、今はそこまで」
「詳しく調べない?」
「調べ始めたら、帳簿の種類を全部追うことになるだろ」
「確かに」
ユリウスは少し笑った。
「今日は言葉の幅を確認するのが目的だからね」
「そう。北務帳の正体を決める日じゃない」
シュウは用語集を閉じ、必要な頁番号を記録した。
閲覧を始めてから一時間も経っていない。
まだ時間はあったが、今日の目的は達成できていた。
「もう戻る?」
エリオットが尋ねる。
「うん」
「珍しいね。こんなに早く終わるなんて」
「必要なことが確認できたなら、長く座ってても仕方ないだろ」
シュウがそう答えると、ユリウスが静かに頷いた。
「それでいいと思う。次に原文を確認する必要が出たら、そのとき探せばいい」
三人は資料を返却し、図書館を出た。
◇
夕方の中庭では、ダンが実技場から戻ってくるところだった。
手には訓練用の木剣を持ち、額には少し汗が浮かんでいる。
「お、シュウたち。今日は早いな」
「調べるものが一つだけだったから」
「もう終わったのか?」
「一応」
「何か分かった?」
ダンの問いに、シュウは少し考えてから答えた。
「『北務』って言葉は、昔の行政記録で北部の仕事を指す略称として使われることがあったらしい」
「じゃあ北務帳じゃなかったのか?」
「そこまでは分からない。帳簿名だった可能性もあるけど、二文字だけじゃ決められないってこと」
「なるほどなあ」
ダンは木剣を肩へ担ぎかけ、近くにいた学生へぶつかりそうになって慌てて下ろした。
相手へ軽く謝ってから、改めてシュウへ向き直る。
「でも、それってちょっと残念じゃないか? せっかく古い紙に文字が残ってたのに」
「少しはね」
シュウは正直に答えた。
「見つけたときは、北務帳に近づいた気がしたから。でも、そう思っただけで決めつけなくてよかった」
ダンはしばらく考え、それから笑った。
「まあ、俺だったら絶対に北務帳だって騒いでたな」
「知ってる」
「ひどい!」
エリオットが笑い、ユリウスも小さく肩を揺らした。
ダンは不満そうにしていたものの、すぐに今日の実技の話を始めた。
「そうだ、さっきの練習で最後の止め方、ちょっと良くなったんだよ。セシリアが言ってたみたいに、減らすところから一続きで考えたら、前より力まなかった」
「おお、いいじゃん」
「まだ完璧じゃないけどな。先生にも、急に出力を変えずに続けろって言われた」
ダンの表情には、単純な達成感だけでなく、次も同じようにできるか確かめたいという意欲が浮かんでいた。
シュウはその様子を見ながら、自分たちの調査も似たところがあるのかもしれないと思った。
大きな結果を一度に出そうとするより、確かめられることを少しずつ増やしていく。
ダンの魔力制御も、シュウの調査も、必要なのは同じような積み重ねなのだろう。
◇
夕食後、三百十七号室へ戻ったシュウは、今日の調査内容を正式に整理した。
『北務語義調査・第一確認』
『目的:
支給台帳整理35に残る「北務か」の文字列について、北務帳という特定帳簿名を前提とせず、一般的な行政用語としての使用範囲を確認する。』
『確認資料:
『旧王領役務語彙小集』
編纂:約90年前。
古い王領行政記録の略称を整理した二次資料。
地域・年代の網羅性なし。
語義ごとの直接出典が不十分な箇所あり。』
『確認内容:
「北務」は北方・北部役務の略称として使用例あり。
特定の役所・担当区分・帳簿名を指す場合もある。
意味は地域・年代で一定しない。
「北務帳」は複合語の一例として挙げられるが、同名記録が単一の帳簿とは限らない。』
『現在言えること:
支給台帳整理35の「北務か」は、北務帳以外の意味でも説明できる可能性がある。』
『現在言えないこと:
・整理35に「北務帳」と書かれていた。
・整理35の「北務」が第三旧所記録の「北務帳」と同一の対象を指す。
・ローデル林区における「北務」の正式な定義。
・家資料の「北方旧務」と同義である。
・家資料の「別記」が北務帳である。』
そこまで書いたあと、シュウは以前の調査記録を開いた。
家の古い記録に残っていた一文。
『北方旧務、前役家の残す定めに従い、当家これを預かる。』
そして、春と秋の見分に関する記述。
これまで、北務帳という名前を調べるたび、家の北方旧務とどこかでつながるのではないかと考えてきた。
だが、今日確認した一般用例だけでは、その関係は何も決まらない。
北方旧務。
北務。
北務帳。
似ているからといって、同じ意味とは限らない。
シュウは三つの言葉を並べ、その間へ線を引かなかった。
(今は、これでいい)
少し前なら、矢印や疑問符をいくつも書き込んでいたかもしれない。
今は、別々に残しておく方が正確だと思えた。
机の向かい側では、エリオットが授業の復習を終え、教科書を閉じていた。
「今日の調査、どうだった?」
「調べてよかったよ」
「北務帳の正体は分からなかったけど?」
「うん。分からない理由が一つ増えた」
「それ、嬉しいの?」
「変な言い方だけど、結構嬉しい」
シュウは笑いながら答えた。
「もし『北務』って文字を見ただけで北務帳だって決めてたら、そのあと全部間違った方向へ進むかもしれなかっただろ。そうならずに済んだと思えば、十分意味がある」
エリオットはしばらくシュウを見ていた。
それから、少し穏やかな表情で頷いた。
「最近のシュウ、調べ物を終えるのが上手くなったね」
「褒めてる?」
「もちろん」
「じゃあ、ありがたく受け取っとく」
「百パーセント維持」
「結局それか!」
エリオットが笑った。
シュウもつられて笑い、調査ノートを閉じようとしたところで、アルカディアの声が響いた。
《マスター。本日は言葉の意味を早急に確定しないことを学ばれたようですね》
(そうだな)
《では、私からも一つ確認したいことがございます》
(嫌な予感がする)
《旧設定資料における「暗黒皇帝」という称号についてです》
(……何で今それを持ち出すんだよ)
《マスターは複数の頁で、ご自身を暗黒皇帝と記しております。しかし別の頁では「暗黒皇帝とは世界を統べる唯一の存在に与えられる称号」と説明されています》
(普通じゃないか?)
《問題は、その直後に「暗黒皇帝候補生、全十三名」と記載されている点です》
(候補生!?)
シュウは思わず机へ額をつけそうになった。
《さらに候補生の選抜条件として、「暗黒皇帝にふさわしい黒衣を所有すること」とあります》
(昨日の安物制服じゃねえか!)
《その可能性が高いかと》
(世界を統べる存在の選抜条件が、量産制服を持ってることなの!?)
《加えて、候補生十三名のうち十二名は未設定です》
(また俺一人しかいないやつか!)
シュウは両手で顔を覆った。
エリオットがすぐに反応する。
「どうしたの?」
「昔の俺が、暗黒皇帝の候補生を十三人設定してたらしい」
「へえ。シュウも候補生だったんだ?」
「俺だけ設定されてて、残り十二人は空欄」
「じゃあ実質一人?」
「そう」
「競争相手がいないなら、絶対に選ばれるね」
「そういう問題じゃないんだよ!」
エリオットは笑いを堪えながら尋ねた。
「選抜条件は?」
「……黒い服を持ってること」
「それだけ?」
「少なくとも最初の条件はそれ」
「昨日の一般兵制服?」
「言うな!」
ついにエリオットが声を上げて笑い始めた。
《なお、最終選考には「世界そのものによる承認」が必要とされています》
(また世界に丸投げしてる!)
《承認方法は未設定です》
(だろうな!)
シュウは深いため息をつき、机の上のノートへ視線を落とした。
昔の自分は、暗黒皇帝という言葉にどれほど特別な意味を持たせたかったのだろう。
候補生が十三人いると言いながら、一人しか設定していない。
唯一の存在だと言いながら、候補生制度まで作っている。
世界に承認させると言いながら、その方法は何も考えていない。
今の調査で同じことをすれば、きっとユリウスに呆れられる。
エリオットには百パーセントの信用を取り消されるかもしれない。
シュウはそんなことを考えながら、思わず苦笑した。
北務という二文字も、暗黒皇帝という称号も、文字だけでは意味を決められない。
もちろん、両者を同じものとして扱うつもりはない。
けれど、言葉へ自分の望む意味を勝手に詰め込んではいけないという点では、妙に共通している。
シュウは調査ノートを棚へ戻し、明日の授業の準備を始めた。
七つあった候補のうち、一つを確認した。
残る六つをすぐに片づける必要はない。
むしろ今日分かったことを踏まえれば、次に何を調べるべきかも少し変わってくるだろう。
北務帳の正体はまだ分からない。
家の北方旧務との関係も分からない。
支給台帳の断片に残った二文字が、何を指していたのかも分からない。
それでも、今日の調査によって、一つだけ確かなことが増えた。
あの二文字を、北務帳という答えへ無理につなげる必要はない。
言葉が持っていた可能性を、可能性のまま残しておく。
その慎重さが、いつか本当に意味のある記録へ辿り着くために必要なのだと、シュウは少しずつ理解し始めていた。




