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『黒歴史ノートが異世界で最強の魔導書になっていました』  作者: 伊佐波瑞樹


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第63話 読めない三枚のうち、一枚だけに『北務』の二文字が残っていました


 支給台帳の通常閲覧可能な範囲を最後まで確認した翌朝、シュウは三百十七号室の机に向かいながら、昨夜書いた三つの候補をもう一度だけ読み返していた。


 保護板越しでのみ閲覧できる三葉を確認し、支給台帳そのものの閲覧を一区切りにする。


 そのあとで、北部と他地区の物資運用を比較する必要があるか整理する。


 小型魔石や「夜見」という言葉の一般用例については、台帳調査と混ぜず、必要なら別に調べる。


 そこまで読んだところでノートを閉じた。


 窓の外には薄い朝靄が残っている。昨日までの雨で地面に含まれた水分が冷えたらしく、中庭の低い植え込みの周囲だけが白っぽく霞んでいた。


「今日は行くんだ」


 エリオットがベッドを整えながら言った。


「時間が取れたら。保護板の三枚だけだから、今日で支給台帳はいったん区切りたい」


「読めなかったら?」


「読めなかったって記録して終わり」


「北部と関係なかったら?」


「関係なかったって記録して終わり」


「すごい」


「何が?」


「前なら『せっかく申請したのに何かないのか』って粘りそうだった」


「俺を何だと思ってるんだよ」


 そう言い返しながらも、シュウには反論しきれなかった。


 少し前の自分なら、確かにそうしていた気がする。


(せっかく閉架資料まで見たんだから、何か見つけたいって思ってたかもな)


 今も、何か見つかれば嬉しい。


 けれど、見つけることと、見つけたいものを読み込むことは違う。


 その区別を覚え始めた。


《マスターの成長を感じます》


(朝から素直だな)


《かつては「何もない場所には、何もないという秘密が隠されている」と設定資料へ記しておられましたので》


(やっぱり褒めてなかった)


《秘密がない可能性を認められるようになったのは大きな進歩かと》


(中学生の俺と比べるな)


 シュウが小さく息を吐くと、エリオットが不思議そうにこちらを見た。


「朝から何か思い出した?」


「昔の俺が、何もない場所にまで秘密を置こうとしてた」


「今と少し似てる?」


「言うな」


 エリオットの笑い声を背中に受けながら、シュウは鞄を持ち上げた。


     ◇


 午前の授業は、リディア・フェルンによる基礎魔法理論だった。


 教室の窓から差し込む朝日は、時間が進むにつれて少しずつ強くなり、黒板の端へ白い光を落としている。朝靄もいつの間にか消え、窓の外では別の学年の学生たちが実技場へ向かっていた。


 今日の題材は、術式に含まれる「省略記述」についてだった。


「皆さんが普段使っている基礎術式にも、最初からすべてが書かれているわけではありません」


 リディアは黒板へ基本的な水生成術式の一部を書き、その横へ古い形式の長い術式を書き加えた。


「長年使われるうちに、共通前提として省略された部分があります。だからといって、省略された部分が存在しないわけではありません。ただし――」


 彼女は教室を見回した。


「見えない部分を、自分の想像だけで補ってはいけません」


 シュウの筆が一瞬止まりそうになった。


 最近の調査と似た話に聞こえたからだ。


 だが、何でも北方調査へ結びつけるのも違う。


 シュウはそのまま講義内容を記録する。


「古い術式の欠損を復元するときは、同時代の別資料や、同じ術式系統の完全な例を比較します。それでも複数の復元候補が残る場合があります。そのとき、研究者がするべきことは何でしょう?」


 数人の学生が手を挙げる。


 指名された学生が、「一番可能性の高い形を採用する」と答えた。


「実用上は必要になることもあります。ただし研究記録では、それだけでは足りません」


 リディアは黒板へ、


『復元』


『原記録』


 と二つの言葉を書いた。


「どこまでが原資料に残っており、どこからが復元なのかを分けること。後から読む人が、復元部分まで原文だと思わないようにするためです」


 シュウはその説明を聞きながら、支給台帳の読めない六葉を思い出した。


 読めないなら、読めない。


 欠けているなら、欠けている。


 周囲の記録から「きっとこうだった」と埋めれば、整った物語にはなる。


 しかし、それはもう元の資料ではない。


(今日見る三枚も同じだな)


 保護板越しに一文字しか読めなければ、一文字だけ。


 半分読めれば、半分だけ。


 それ以上を作らない。


 シュウはそう考えたところで、すぐに授業へ意識を戻した。


     ◇


 昼休みになると、五人はいつもの食堂の卓へ集まった。


 今日は焼いた鶏肉と豆の煮込みが主菜で、ダンは席へ着いてからずっと鶏肉の大きさをエリオットと比べている。


「絶対そっちの方がでかい」


「ほとんど同じだよ」


「いや、角の部分が一口分違う」


「じゃあ交換する?」


「……いや、いい」


「何で?」


「交換したあと俺の方がでかかったら損した気分になる」


「面倒くさいな!」


 シュウが笑うと、セシリアも口元を押さえた。


 ユリウスだけは気にせず食事を進めている。


「今日、三葉を見るんだよね」


 ひとしきり騒ぎが落ち着いたところで、ユリウスがシュウへ尋ねた。


「時間があれば。三枚全部、保護板越し」


「どんな状態なんですか?」


 セシリアが尋ねる。


「端が崩れやすいらしくて、板で挟んだままじゃないと見られない。角度を変えたりもできないって」


「文字、読めるのか?」


「分からない」


 ダンの問いに答えると、彼は少し残念そうな顔をした。


「何も読めなかったら悲しいな」


「資料が壊れるよりいいだろ」


「それはそうだけど」


「読めなくても、そこに何かあったって勝手に決めないためには大事だよ」


 シュウがそう言うと、ダンは少し考えた。


「つまり、読めない紙に『秘密の封印について書いてあったはずだ』って言っちゃ駄目ってこと?」


「何で例がそれなんだよ」


「分かりやすいだろ?」


「ダンらしくはありますね」


 セシリアが笑う。


 エリオットはシュウを見ながら、わざとらしく頷いた。


「今日も百パーセント」


「昼食のたびに判定するな」


「保護板の向こうに何もなくても、百パーセントを維持できるか見てる」


「俺の信用、資料の内容で変わるの!?」


「変わるのは内容を見たあとのシュウの行動」


「それなら分からなくもないのが悔しい」


 五人の間に笑いが広がった。


     ◇


 午後の授業が終わった時点で、閉館までには一時間半ほどあった。


 通常閲覧分を何十葉も確認する日とは違う。


 保護板越しの三葉だけなら、急がず見ても十分な時間がある。


 三人は図書館へ向かった。


 受付にいたマティアスへ目的を伝えると、彼は利用記録を確認したあと、少しだけ表情を引き締めた。


「本日は保護板閲覧ですね」


「はい」


「三葉とも状態が異なります。一葉ずつこちらで設置しますので、触れないでください。保護板そのものを動かすのも禁止です」


「分かりました」


「また、板越しでは光の反射で文字が見えにくい箇所があります。ただし、見えにくいからといって持ち上げたり傾けたりしないように」


 三人が頷く。


 閉架資料閲覧室へ入り、いつもの机についた。


 今日は保存箱だけでなく、保護板を載せるための低い台も用意されている。


 マティアスが最初の一葉を運んできた。


「整理番号十一。通常閲覧不可ですが、保護板固定状態でのみ閲覧できます」


 シュウは少し驚いた。


「十一なんですね」


「はい。整理番号順に閲覧条件が分かれているわけではありません」


 以前、通常閲覧分だけを追っていたため飛ばしていた番号だ。


 透明な保護板の間に、茶色く変色した紙片が固定されている。


 右下が大きく欠け、中央にも裂け目が走っていた。


 三人は顔を近づけすぎないようにしながら読む。


『……倉……板二……』


 読めるのは、それくらいだった。


 上部に地区名らしき文字があるが、墨が滲んでいる。


「北?」


 エリオットが呟きかける。


 シュウもそう見えた。


 だが、一本の線が欠けている。


「分からない」


 ユリウスが先に言った。


「『北』に見えるけど、『比』とか別の崩れた字かもしれない」


「じゃあ地区不明」


 シュウは記録する。


『保護板葉・整理11:

判読可能――「……倉……板二……」

地区名判読不能。

用途・年代不明。

推測補完しない。』


 数分確認しても、それ以上は増えなかった。


「次をお願いします」


 マティアスが一葉目を戻し、二枚目を運んでくる。


     ◇


 二枚目は整理番号二十七。


 一枚目より大きく残っているものの、表面の一部が剥離している。


 左上に文字が集中し、右側はほとんど白くなっていた。


『……春見……油……縄二……戻……』


「春見は読めそう」


 エリオットが言う。


「油も」


 ユリウスが確認する。


「縄二。最後は『戻』かな」


「俺もそう見える」


 シュウは一文字ずつ記録した。


『整理27:

「……春見……油……縄二……戻……」

地区不明。

春見関連の物資記録候補。

返却を示す可能性あり。ただし「戻」前後欠損。』


 北部かどうかは分からない。


 それでも、春見、油、縄、戻すという断片は、これまでの支給台帳全体の内容から大きく外れてはいない。


 むしろ、普通の業務記録だった可能性が高そうに見える。


 ただし、その「普通」さえ断定しない。


「これ以上は無理だね」


 ユリウスが言う。


「うん」


 シュウはマティアスへ合図した。


 残る一枚。


 整理番号は三十五だった。


     ◇


 三枚目の紙葉は、これまでの二枚よりさらに状態が悪かった。


 紙の周囲が不規則に欠け、中央部分もところどころ剥がれている。保護板の中で細かな紙片が動かないよう固定されており、元の大きさすら推測しづらい。


「こちらは特に状態が悪いので、判読できる部分が少ないです」


 マティアスが先に説明した。


「保存記録でも、内容分類は『林区支給関係断片』までしか付けられていません」


「地区も不明?」


「現時点では」


 三人は閲覧台を囲んだ。


 最初に読めたのは中央付近の数字だった。


『……二……』


 その少し下に、


『……灯……』


 右側には、


『……返……』


 らしき文字。


 これだけなら、これまでの記録と同じような物資管理に見える。


 シュウは焦らず、左側から順番に目を動かした。


 紙の端近くに、墨の濃い部分がある。


 欠損によって前後は完全に失われている。


 残っているのは二文字。


 シュウは一度目を逸らし、もう一度見た。


「……ユリウス」


「うん」


「これ、どう見える?」


 ユリウスはすぐには答えなかった。


 しばらく文字を見つめ、顔を僅かに横へ動かしたものの、保護板には触れない。


「一文字目は……北、に見える」


「二文字目は?」


「務、かな」


 エリオットも目を細める。


「僕にも『北務』に見える」


 シュウの心臓が一度だけ強く鳴った。


 北務。


 これまで何度も追ってきた言葉の一部。


 『北務帳』。


 だが、ここに「帳」はない。


 前後もない。


 この二文字だけで北務帳だと決めてはいけない。


「マティアスさん」


 シュウは声を抑えながら呼んだ。


 近くで待機していたマティアスが閲覧台へ来る。


「ここなんですけど、『北務』って読めますか?」


 マティアスは保護板越しに確認した。


 すぐには答えず、備え付けの閲覧用拡大鏡を所定位置へ置く。


 シュウたちは触れずに待つ。


「……『北』はかなり可能性が高いでしょう」


 マティアスが言った。


「二文字目は『務』と読むのが自然に見えます。ただし、下部が欠損していますので確定判読とはしません」


「『帳』は?」


「残っていません」


「右にも左にも?」


「この位置関係では、後ろに文字が続いていた可能性はあります。ただし欠損しています。『北務帳』だったか、『北務何々』だったか、あるいは『北務』だけで一つの語だったかは判断できません」


 シュウはゆっくり息を吐いた。


「分かりました」


 ノートへ書く。


『整理35・保護板越し:

判読候補

「……北務……」

「……二……」

「……灯……」

「……返……」

前後大幅欠損。

「北」は判読可能性高。

第二字は「務」有力だが下部欠損。

「帳」字は確認不能。

→ 「北務帳」と補完しない。』


 書いてから、もう一度見る。


 北務。


 たった二文字。


 それだけなのに、胸の奥ではいくつもの既知情報が動き始める。


 第三旧所の記録。


『現場のみで定めず、北務帳へ移す。』


 後世の研究書。


『北務帳』


『北方務帳』


 巡検、資材受渡、保持部補修。


 旧セルド北部資料仮目録。


 北方地方史料整理室。


 そして今、ローデル林区の支給台帳断片に見える「北務」の二文字。


(待て)


 シュウは自分へ言い聞かせる。


(ここにあるのは二文字だけだ)


 北務帳とは限らない。


 北部の業務を略して北務と書いただけかもしれない。


 役所や部署の呼称かもしれない。


 別の語の一部かもしれない。


 そもそも二文字目の判読も確定ではない。


「シュウ」


 エリオットの声がした。


「大丈夫」


 シュウは文字から視線を外して答えた。


「まだ何も決めてない」


「うん」


 エリオットはそれ以上言わなかった。


 ユリウスは紙葉の別の部分を見ている。


「他に関係しそうな文字、ないかな」


「探そう。でも『帳』だけ探すのはやめよう」


「分かってる」


 三人は残った断片を端から確認した。


 読める可能性がある文字は、ほかにもいくつかあった。


『……北務……二……灯……返……』


 その間にどれだけ文字があったのかも分からない。


 「二」が数量なのか、地区番号なのか、日付の一部なのかさえ分からない。


 灯と返の関係も不明だ。


 十五分近く確認したが、新しく確実に読める文字は増えなかった。


     ◇


「これ以上は、今の状態では難しいと思います」


 マティアスが言った。


 シュウも頷く。


「はい。終わります」


「もういいの?」


 エリオットが確認するように尋ねた。


「うん」


「『北務』って見つかったのに?」


「だからこそ」


 シュウはノートを閉じる前に、最後の一行を書いた。


『重要:二文字を、欲しい三文字へ増やさない。』


 ユリウスがそれを見て、わずかに笑った。


「いいと思う」


 マティアスは三枚目の保護板を慎重に持ち上げ、保存用の台へ戻した。


「この葉について、過去の判読記録があるか確認しますか?」


 シュウは一瞬だけ迷った。


 聞けば、すぐに次へ進めるかもしれない。


「判読記録が存在するかどうかだけ、教えてもらえますか?」


「確認します」


 マティアスは管理票を調べる。


 しばらくして、顔を上げた。


「簡易な保存記録はあります。ただし本文の詳細判読ではありません。保存処置時に読めた文字が数個記録されているだけです」


「閲覧できますか?」


「保存記録自体は図書館内部資料ですので、通常の学生閲覧対象ではありません。ただ、資料の状態説明に必要な範囲なら、登録情報をお伝えできます」


「登録情報だけお願いします」


 マティアスが確認する。


「整理番号三十五。登録時の判読文字は、『北』『務か』『灯』『返か』です」


 三人が顔を見合わせた。


 少なくとも、今の読み方だけがシュウたちの思い込みというわけではない。


 しかし、保存記録でも「務か」「返か」と疑問付きである。


「『帳』はないんですね」


「登録情報にはありません」


「分かりました。ありがとうございます」


 シュウはそれ以上を求めなかった。


     ◇


 閲覧室を出る前に、三人は今日の結果を簡単に確認した。


 一枚目は地区不明。


 二枚目も地区不明。


 三枚目に「北」「務か」「灯」「返か」。


 支給台帳の保護板閲覧可能な三葉まで確認した。


 残る六葉は、現在閲覧できない。


「これで支給台帳はいったん終わり?」


 エリオットが尋ねる。


「うん」


「北務って出たのに?」


「だからって、閲覧できない六枚を何とかして読ませてもらうわけにはいかないだろ」


「百パーセント」


「分かったから!」


 シュウが声を抑えて抗議すると、マティアスが少し笑った。


「閲覧不可の資料は、保存処置が進めば将来見られるようになる可能性はあります。ただし時期は分かりません」


「待ちます」


 シュウは答えた。


「今読めるものだけで整理します」


     ◇


 図書館を出たあと、三人はすぐ寮へ戻らず、中庭の端にあるベンチへ腰を下ろした。


 夕方の空には薄い雲が伸び、校舎の影が芝生へ長く落ちている。授業を終えた学生たちが何人も通り過ぎ、実技場の方からは片づけをする音が聞こえてきた。


「どう思う?」


 エリオットが尋ねる。


「何が?」


「北務」


「気になる」


 シュウは素直に答えた。


「めちゃくちゃ気になる。でも、今あるのは『北務』って読める可能性が高い二文字だけ」


 ユリウスが頷く。


「支給台帳の中にあるから、北部業務の略称かもしれない」


「そう。『北務用』とか『北務へ返す』とか、何でもあり得る」


「北務帳の一部だった可能性もある」


「それも候補には残す。でも、帳の字がない」


 言葉にしてみると、少し落ち着く。


 見つけた瞬間は、第三旧所の記録と直接つながったように感じた。


 だが、実際にはまだ距離がある。


「それでも前より一個増えたんじゃない?」


 エリオットが言った。


「何が?」


「後世の研究書だけじゃなくて、支給台帳の断片にも『北務』らしい言葉がある」


 シュウは少し考えた。


「うん。それは言えると思う。ただし、この紙自体の年代とか、同時代原記録なのか写しなのかも確認しないと」


「そこまで戻る?」


「戻る」


 ユリウスが横で小さく笑った。


「正しい」


「事実の味方が厳しい」


「味方だから」


 以前にも聞いたような言葉に、シュウも笑った。


     ◇


 夕食では、ダンがシュウの顔を見るなり何かを察した。


「何か出ただろ」


「何で分かるんだよ」


「顔」


「そんな分かりやすい?」


 シュウがエリオットを見ると、彼は頷いた。


「今日は分かりやすい」


「何が出たんですか?」


 セシリアも興味を示す。


 シュウは少し迷ったが、北務帳という名称自体はすでに広い範囲で話しているため、今日の発見を隠す理由はない。


「保護板越しの一枚に、『北務』って読めそうな二文字があった」


「北務帳の?」


 ダンがすぐ尋ねる。


「帳はない」


「でも北務なんだろ?」


「二文字目も完全確定じゃない。図書館の保存記録でも『務か』ってなってる」


「じゃあ何なんだ?」


「分からない」


「またか!」


 ダンが頭を抱える。


 セシリアは笑わず、少し考えていた。


「北務帳だとしたら、後ろの『帳』が欠けている可能性もあるんですよね?」


「ある」


「でも、別の言葉だった可能性もある」


「そう」


「それなら、今は北務帳とは数えないんですね」


「うん。『北務という二文字が支給台帳断片にある可能性』として残す」


 ダンが難しい顔をした。


「俺だったら北務帳って書いちゃうな」


「だからお前に古文書調査させたくないんだよ」


「俺もやりたくない!」


「意見一致してるじゃん」


 エリオットが笑った。


     ◇


 夕食後、三百十七号室へ戻ったシュウは、今日の結果を正式に整理した。


『旧ローデル林区支給台帳・残巻

閲覧状況:

通常閲覧可能38葉――確認済み。

保護板越し閲覧可能3葉――確認済み。

現在閲覧不可6葉――未確認。

→ 現時点で可能な閲覧はいったん完了。』


 続けて三葉。


『整理11:

「……倉……板二……」

地区・年代・用途不明。』


『整理27:

「……春見……油……縄二……戻……」

地区不明。

春見関連物資記録の可能性。

「戻」は候補読み。』


『整理35:

「……北務……二……灯……返……」

大幅欠損。

図書館保存登録:

「北」「務か」「灯」「返か」

→ 「北」は有力。

→ 「務」は候補。

→ 「帳」は確認できない。

→ 『北務帳』へ補完禁止。』


 さらに、その意味を分けて書く。


『整理35から現時点で言えること:

ローデル林区支給台帳の断片に、「北務」と読める可能性のある文字列が存在する。

以上。』


『言えないこと:

・北務帳の名称が書かれていた。

・北務帳へ物資を移した。

・北務帳が支給台帳と同じ体系だった。

・北務帳が北部役務全体の正式名称だった。

・家資料の別記=北務帳。

・家資料の北方旧務=北務帳。

・整理35と第三旧所記録が同一出来事。』


 シュウはそこで一度筆を止めた。


(こうやって書くと、本当に二文字しか増えてないんだな)


 それでも、価値がないわけではない。


 後世の研究書ではなく、ローデル林区の支給記録として保存されている断片に、その二文字がある。


 ただし、その資料自体の成立や伝来も確認が必要だ。


 そこで次の項目を作る。


『支給台帳全体について今後確認候補:

・現存葉の成立時期判定根拠。

・原記録/写し/再整理の可能性。

・エルド・マルセル閲覧時期と利用範囲。

・他研究書への引用関係。

※今すぐ全部調べない。』


 その下へ、次に何をするかを書く。


『次の優先:

支給台帳の内容を一度整理し、北部と他地区の比較項目を限定する。

比較候補:

1.見分前支給

2.未使用品返却

3.現場継続保管

4.次季節への転用

5.灯・小魔石等の貸出返却

6.倉庫/役所への返却先振分け


目的:

北部で確認した運用のうち、何が林区一般の物資管理で、何が北部に偏る可能性があるかを見る。

※北部の特殊性を証明するためではなく、特殊と決める前に比較する。』


 書き終えると、シュウは椅子の背へ体を預けた。


「終わった?」


 エリオットが尋ねる。


「うん。今日はこれ以上やらない」


「『北務』の一般用例は?」


「別の日」


「フェルド・ミールは?」


「別の日」


「北務帳の索引をもう一回――」


「別の日!」


 エリオットが笑う。


「百パーセント維持」


「お前、それ言いたいだけになってない?」


「三割くらい」


「割合下がってるじゃん!」


     ◇


 しばらくして、シュウが机を片づけ始めると、アルカディアが待っていたように声を響かせた。


《マスター。本日の教訓は、欠けた文字を勝手に補ってはならない、ということでよろしいでしょうか》


(そうだな)


《では、旧設定資料にございます欠損箇所も、そのまま尊重すべきかと》


(嫌な予感しかしない)


《第三冊の二百十一頁に、「我が真なる名は黒天――」まで記したところで文章が終了しております》


(たぶん途中で飽きたんだろ)


《これまで私は「黒天皇帝」「黒天覇王」「黒天神帝」などの候補を検討しておりましたが》


(補完しなくていい!)


《では「黒天――」のまま保存いたします》


(それでいいよ)


《ちなみに次頁は巨大な剣の落書きです》


(完全に飽きてるじゃねえか!)


 エリオットがまた顔を上げる。


「今日は何?」


「昔の俺が自分の真の名前を書いてる途中で飽きて、次のページに剣を描いてた」


「何て名前?」


「『黒天――』まで」


「続きは?」


「分からない」


「補完しないの?」


「今日一日何を学んだと思ってるんだよ!」


 シュウが言うと、エリオットは堪えきれずに笑った。


 アルカディアまで淡々と続ける。


《なお剣の名称は完全に残っております》


(聞きたくない)


《『超絶神滅黒天剣・改・真・最終完成版』》


(完成版に改と真を全部入れるな!)


 笑い声の残る部屋で、シュウは北方調査ノートを棚へ戻した。


 今日見つけたものは、たった二文字だった。


 しかも、そのうち一文字は確定していない。


 それでも、その二文字を三文字へ増やさずに持ち帰れたことに、以前とは違う手応えがあった。


 分からないものを、分からないまま残す。


 欠けたところを、自分の欲しい答えで埋めない。


 北務帳という名前を追い始めてから、同じ言葉が何度も目の前へ現れた。


 後世の研究書にある「北務帳」。


 第三旧所の記録にある「北務帳へ移す」。


 そして支給台帳の断片に残った、「北務」と読める二文字。


 それらが一つの線でつながる可能性はある。


 けれど、まだ線を引くには早い。


 今のシュウが持っているのは、点が少し増えたという事実だけだった。


 その点を無理につなげなければ、いつか本当に線が見えたとき、それを自分の思い込みと取り違えずに済む。


 シュウは消灯前に窓の外を見た。


 朝の靄はすっかり消え、雲の少ない夜空が学院の屋根の向こうへ広がっている。


 北の森も、今頃は同じ夜の下にあるのだろう。


 あの森の地下に何があるのか。


 なぜ淡い魔法は自分へ「帰ってきた」と告げたのか。


 アルヴェイン家は何を預かり、前役家は何を残したのか。


 まだ分からないことの方が圧倒的に多い。


 けれど今夜は、それでよかった。


 支給台帳の調査は、ひとまずここで一区切りになる。


 次にするべきことは、読めない六枚を想像で埋めることではない。


 すでに読めた記録の中で、北部だけに見えていたものが本当に北部だけのものなのかを確かめること。


 その結果、特別ではなかったと分かるかもしれない。


 それでも構わない。


 特別ではないものを一つずつ外していけば、最後に残る違いを、もっと正確に見ることができるはずだった。

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