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『黒歴史ノートが異世界で最強の魔導書になっていました』  作者: 伊佐波瑞樹


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第60話 支給台帳に家名はなくても、北の仕事は残っていました


 翌朝。


 三百十七号室の窓の外には薄い雲が広がっていた。


 雨が降りそうなほど暗くはないものの、昨日までの青空は見えない。風も弱く、中庭の木々はほとんど動いていなかった。


 シュウは制服へ着替えながら、机の端に置いてある閲覧申請の控えへ目を向けた。


 昨日、オルド・カーヴェルに署名してもらい、図書館へ提出した『旧ローデル林区支給台帳・残巻』。


 閉架担当が資料の状態を確認し、閲覧できる部分を選ぶことになっている。


 早ければ今日。


 状態によっては数日後。


 そう聞いていた。


(気になる)


《当然かと》


(でも朝から図書館へ聞きに行くのはやめとく)


《賢明でございます》


「今日は何パーセント?」


 突然エリオットに聞かれ、シュウは振り返った。


「何で俺が聞く側なんだよ」


「顔に書いてあったから」


「何が?」


「支給台帳が気になる。でも朝から確認しに行くのはやめよう、って」


「そこまで読める!?」


「半分は予想」


 エリオットは笑いながら鞄を持ち上げる。


「百パーセント維持」


「もう何しても維持って言うつもりだろ」


「無茶したら下げるよ」


「そこだけ妙に厳格なんだよな……」


 シュウも鞄を肩へ掛けた。


 今日は授業がある。


 資料の準備が整えば、図書館から知らせてもらえる。


 なら、それまでは普通に過ごせばいい。


     ◇


 午前の合同実技は、セレナ・ヴァイスの担当だった。


 屋内実技室には細長い訓練台が並べられ、その上に透明な板と小さな魔力灯が設置されている。


「今日の課題は、同じ術式へ異なる量の魔力を流したとき、結果がどこまで変わるかを見ることです」


 セレナは学生たちへ説明しながら、見本用の魔力灯へ手を添えた。


「ただし、目的は『強くすればどうなるか』ではありません。入力条件を変えたとき、何が変わり、何が変わらないかを観察してください」


 シュウはエリオットと同じ訓練台についた。


 今日は攻撃魔法ではない。


 無属性魔力を使って簡単な術式を動かし、供給量を三段階に変えながら反応を記録する。


「最初、僕からでいい?」


「いいよ」


 エリオットが弱い魔力を流す。


 透明板の中央へ淡い光が現れた。


 次に少し強める。


 光は明るくなるが、形そのものはほとんど変わらない。


 さらに一段階だけ上げると、明るさが増すと同時に、光の縁が僅かに広がった。


「明るさだけじゃなくて、大きさも少し変わった」


 シュウが記録する。


「でも二段階目までは、ほとんど形変わってないよね」


「うん」


 次はシュウの番だった。


 弱い供給。


 中程度。


 指定された上限。


 目盛りを確認しながら一つずつ変える。


 結果はエリオットと似ているが、完全には同じではない。


 シュウの方が中程度の段階から光の縁が少し広がり始めた。


「同じ術式でも違うんだ」


 エリオットが言う。


「魔力量だけじゃなくて、流し方とかもあるのかな」


「そこを今決めない」


「最近それ言うの早くなったね」


「学習したからな」


 巡回してきたセレナが二人の記録を見る。


「何が分かりました?」


 エリオットが答える。


「供給量を増やすと光量は上がりました。ただ、形の変化が出る段階は僕とシュウで少し違います」


「理由は?」


「まだ分かりません」


 シュウが続けた。


「魔力の流し方、個人差、術式への入り方とか考えられますけど、今の観測だけでは決めません」


「それでいいです」


 セレナは頷いた。


「結果を見た直後に理由まで決めないこと。今日は違いを確認できれば十分です」


 そのまま次の組へ移る。


 シュウは透明板に残った淡い光が消えるのを見つめた。


(結果と理由を分ける)


《最近のマスターに必要な考え方が、授業でも繰り返されておりますね》


(分かってる)


 北方調査でも同じだ。


 白材がある。


 小型魔石がある。


 導線材がある。


 だから保持施設だ。


 そう決めてはいけない。


 まずは何が記録されているか。


 理由や用途は、そのあとだ。


     ◇


 実技の後半ではダンとセシリアの組が近くになった。


 昨日、ダンがわざわざ見せに来た魔力制御を、セシリアが今度こそ見ている。


 弱く始める。


 一定に保つ。


 少し上げる。


 そして最後に滑らかに止める。


 以前のダンなら、途中で出力を上げすぎていたかもしれない。


 今日は目立った乱れなく終えた。


「どうだ!」


 課題が終わった瞬間、ダンがセシリアを見る。


「昨日言っていた通りですね。かなり安定しています」


「だろ!?」


「ただ、最後に少しだけ急ぎました」


「えっ」


「でも前よりずっといいです」


「最初にそっち言ってくれよ!」


 セシリアが笑う。


「良かったところだけ言ったら、次に直せないでしょう?」


「正論だけど!」


 シュウとエリオットは少し離れた場所からそのやり取りを見ていた。


「嬉しそうだな、ダン」


「昨日、わざわざ僕たちを中庭まで連れていったくらいだからね」


「次はユリウスにも見せそう」


「ありそう」


 その予想は、昼休みに当たった。


     ◇


「ユリウス、あとで俺の制御見る?」


「見ない」


「何で!?」


「昼食中だから」


「あとでって言っただろ!」


「じゃあ授業で近くになったら」


「それでもいい!」


 ダンは満足したらしい。


 五人の昼食は、そんな会話から始まった。


 シュウも笑いながら食事を進める。


 今日はまだ図書館から連絡はない。


 朝からそのことばかり考えていたわけではないが、昼になればさすがに少し気になった。


「支給台帳、まだ?」


 セシリアが尋ねる。


「まだ連絡ない」


「気になる?」


「気になる」


 シュウは素直に答えた。


「でも準備してもらってるから待つ」


「百パーセント」


 エリオットが言う。


「食堂でも判定するな」


「今日はまだ言ってなかったから」


「朝言っただろ!」


「あれは部屋」


「場所ごとなの!?」


 ダンが腹を抱えて笑う。


「じゃあ授業中も判定あるのか?」


「ないよ」


「基準が分からん!」


 ユリウスが静かにスープを飲んでから言った。


「最初から基準は明確じゃなかった」


「ユリウス、それ何回目?」


「事実だから」


 しばらく笑ったあと、話題は午後の授業へ移った。


 シュウも支給台帳について、それ以上話さなかった。


     ◇


 午後の授業を終えたところで、シュウはリディアに呼び止められた。


「シュウ君」


「はい?」


「図書館から伝言です。昨日申請した閉架資料の準備が整ったそうですよ」


 一瞬だけ胸が跳ねた。


「今日見られるんですか?」


「閲覧可能部分については。ただし、閉館まであまり時間がありませんから、今日無理に全部見る必要はありません」


「分かりました」


 そう答えてから、シュウは少し考えた。


「先生、ありがとうございます」


「どういたしまして。資料を傷めないようにしてくださいね」


「はい」


 リディアと別れる。


 すぐ近くにいたエリオットがこちらを見る。


「行く?」


「行く。でも今日は閲覧できる範囲と資料の構成確認を優先する。時間足りなかったら続きは別の日」


「うん」


 ユリウスも教室から出てきた。


「準備できた?」


「うん。一緒に来る?」


「行く」


 三人は図書館へ向かった。


     ◇


 受付へ行くと、マティアス・レンがすでに申請書を用意していた。


「連絡が届いたようですね」


「はい」


「閲覧できます。ただし、いくつか条件があります」


 三人は表情を引き締める。


「資料は状態が悪いため、通常閲覧席ではなく閉架資料閲覧室を使用します。直接触れる際は指示に従うこと。紙葉の順番を変えないこと。押さえつけないこと。筆記具は指定されたもののみ。飲食物は持ち込み禁止です」


「分かりました」


「また、残巻全体が閲覧できるわけではありません」


 マティアスは資料状態票を見せた。


「登録上は四十七葉ありますが、そのうち六葉は損傷が大きく、今日は閲覧不可。三葉は端部が崩れやすいため、保護板越しの確認のみ。残り三十八葉が通常の保護条件で閲覧可能です」


「四十七葉……」


 シュウが呟く。


 思っていたより少ない。


 いや、「残巻」なのだから当然かもしれない。


「年代は?」


「年記が確認できるものは、おおむね百六十八年前から百五十七年前。ただし年記欠損の葉があります。並び順も完全な年代順ではありません」


「じゃあ、順番から日付を推定しない方がいい?」


「その通りです」


 マティアスは頷いた。


「隣に置かれているから翌年の記録、とは考えないでください」


 シュウはすぐノートへ書いた。


『葉順=年代順としない。』


「それから、この残巻が後世の研究書に使われたかどうかですが、所蔵記録上、一部の研究者が閲覧した履歴はあります。ただし、どの記録を引用したかまでは分かりません」


「エルド・マルセルは?」


 ユリウスが尋ねた。


 マティアスは履歴を確認する。


「名前があります。約六十年前に閲覧申請をしています」


 三人が一瞬黙った。


 シュウはすぐノートへ書く。


『エルド・マルセル閲覧履歴あり。→ 独立資料とは即断しない。』


「他にも?」


「複数います。ただし、閲覧したことと研究書へ引用したことは別です」


「はい」


 昨日オルドに指摘されたことを、早速確認できた。


 支給台帳は、マルセルが読んだ可能性がある。


 ならば、マルセルの研究書に出てくる一部の情報がこの台帳由来である可能性もある。


 ただし、それもまだ分からない。


「では、閲覧室へ案内します」


     ◇


 閉架資料閲覧室は、図書館の奥にあった。


 一般閲覧室より狭く、窓も小さい。


 光量を抑えた魔導灯が天井に設置され、中央には広い机が二つ置かれている。


 その一つに、薄い保存箱が置かれていた。


 マティアスが蓋を開ける。


 中には、何枚もの古い紙葉が保護紙を挟んで収められている。


 茶色く変色したもの。


 端が欠けたもの。


 中央に折れ跡があるもの。


 文字が薄くなったもの。


 想像していた「台帳」という形ではなかった。


「本じゃないんだ」


 エリオットが小声で言う。


「元は綴じられていた可能性がありますが、現状では解体された残存紙葉として保存されています」


 マティアスが説明する。


「一部には綴じ穴が残っています。ただし、すべてが同一冊子由来かは確定していません」


 シュウは思わずノートへ書く。


『残巻=現状一冊ではない。複数紙葉。全葉同一冊子由来か未確定。』


 最近、何度も同じことを学んでいる。


 名前から形を決めない。


 残巻と呼ばれていても、一冊の本の残りとは限らない。


「まず資料状態と整理番号だけ確認してください。今日は閉館まで一時間半ほどです」


「全部読もうとしません」


 シュウが答える。


 マティアスは僅かに笑った。


「その方がいいでしょう」


     ◇


 最初の十数分は、資料そのものを読むより、整理番号と状態を確認することに使った。


 シュウが記録。


 ユリウスが資料番号と年代表示を確認。


 エリオットは二人が急ぎすぎないよう時間を見る。


「俺だけ役割おかしくない?」


 エリオットが小声で言う。


「一番重要かもしれない」


 シュウが答える。


「信用百パーセントなのに?」


「百パーセントだから任せる」


「そういう使い方するんだ」


 ユリウスが笑いを堪えながら一枚目を見る。


 最初の数葉は南部倉庫に関する支給記録だった。


 屋根材。


 釘。


 灯油。


 布。


 北部ではない。


 シュウは内容を細かく追わず、対象外として番号だけ記録する。


 次も中央林区。


 その次は東側の巡検所。


「北部だけじゃないんだな」


「旧ローデル林区支給台帳だからね」


 ユリウスが答える。


「北部だけの台帳じゃない」


 それも当然だった。


 目的に関係しない記録まで無理に読む必要はない。


 七葉目。


 右上に薄く、


『北二区』


 と読める文字があった。


 三人の空気が少し変わる。


「北二区……」


「旧所とは書いてない」


 シュウが先に言った。


「うん」


 ユリウスも頷く。


 本文を読む。


『春前支給――白材四、導材一束、油布二。北二区倉より出す。』


 シュウの手が止まりかけた。


 白材四。


 導材一束。


 既知の記録にある「白材・保持用四。導線材一式」と似ている。


 しかし、同じとは決めない。


「年代」


 エリオットが言う。


「右下」


 ユリウスが確認する。


「百六十六年前と読める。ただ、月の部分が欠けてる」


 シュウはそのまま記録した。


『整理葉7:

年記 約166年前。月欠損。

支給先表記「北二区」。

春前支給。

白材四/導材一束/油布二。

北二区倉より出す。

※北部第二旧所との同一性未確認。

※白材=保持用白材未確認。

※導材=導線材未確認。』


 似ている。


 かなり似ている。


 だが、今日の目的は「似たものを見つけて同じだと決める」ことではない。


「次」


 シュウは言った。


 ユリウスが少しだけ口元を緩める。


     ◇


 九葉目には北部の記録があった。


『北一、冬備。灯二、油壺一、雨除布一。』


 三人が黙る。


 これは、既知の北部第一旧所の冬前準備とほぼ同じ組み合わせだ。


 予備灯二。


 油壺一。


 雨除け布。


「これ、昨日までの旧目録系統と……」


 エリオットが言いかける。


「同じ元記録の可能性がある」


 シュウが答える。


「マルセルもこの台帳見てる。『ローデル北部役務抄』の編者がこれを見た可能性もある。だから新しい独立証拠とはまだ数えない」


 ユリウスが資料の端を見る。


「でも、こっちは支給台帳の現存葉として見えてる」


「うん。それは大きい」


 後世研究書の引用だけではなく、実際に残っている古い紙葉に記録がある。


 ただし、その紙葉自体が当時の原記録か、後世の写しかは確認が必要だ。


 資料状態票を確認すると、この葉は紙質と書式から同時代記録の可能性が高いとされているが、確定とは書かれていない。


 シュウはその点も記録した。


     ◇


 十二葉目。


『北部用、巡検札六、記筆二、油布三、縄一巻。春見分前。』


 これは少し違う。


 保持材ではない。


 巡検そのものに使うと思われる用品だ。


「記筆って記録用の筆?」


 エリオットが尋ねる。


「たぶん。でも今ここで決めない」


「はい」


 シュウは記録する。


『巡検札六/記筆二/油布三/縄一巻。春見分前。』


 北部の仕事が、資材交換だけではないことが見える。


 巡検の準備。


 記録。


 雨への備え。


 道具。


 オルドの授業で聞いた「物資の組み合わせ」が、少しずつ形になってくる。


 十三葉目は欠損が大きく、保護板越しだった。


 読める部分だけ確認する。


『……二区、秋見……小魔石三……』


 それ以上は文字が崩れている。


 シュウは推測しない。


『北二区? 秋見? 小魔石三。前後判読不可。用途不明。』


 小型魔石が出た。


 だが、何に使ったかは分からない。


「ここで『保持用』って書きたくなる?」


 エリオットが尋ねる。


「ならない」


「即答」


「マルセルの研究書でも用途複数候補だっただろ」


「百パーセント維持」


「資料室でやるな」


 三人は声を抑えて笑った。


     ◇


 十五葉目。


 そこには少し長い記録が残っていた。


『北三区、秋前支給。白材二、導材一、補修板三。前年余り白材一、北倉へ戻す。』


 シュウは目を細めた。


「北倉」


 今度は、はっきり書いてある。


 フェルド・ミール旧蔵資料群の索引にあった「倉庫移送」とは違い、この現存葉には実際に北倉という名称がある。


「既知の記録にもあったよね」


 エリオットが言う。


「『旧材は北倉へ戻す』」


 ユリウスが覚えていた。


「うん」


 シュウは慎重に記録する。


『北三区、秋前。

白材二/導材一/補修板三。

前年余り白材一→北倉へ返却。

※既知「旧材は北倉へ戻す」と方向は類似。ただし同じ運用・同じ資料系統か未確認。』


「これで北倉が一回だけの言葉じゃなくなった?」


 エリオットが尋ねる。


「少なくとも別の現存葉に北倉って文字がある。ただ、この支給台帳と既知記録が同じ元資料なら、完全に別証拠とは言えない」


「徹底してる」


 ユリウスが少し笑う。


「でも、支給と返却の両方に使われる倉庫だった可能性は上がる?」


 シュウは考えた。


「この葉では返却先。七葉目では『北二区倉より出す』だから、そっちは北二区倉で北倉とは書いてない。北倉が支給元だった証拠はまだない」


「なるほど」


 言葉が似ているから同じ倉庫にしない。


 北二区倉。


 北倉。


 別々に記録する。


     ◇


 二十葉ほど確認したところで、エリオットが時計を見た。


「残り四十分」


「今日はここまでにする?」


 ユリウスが尋ねる。


 まだ三十八葉のうち半分ほどしか見ていない。


 閉館まで四十分ある。


 急げばもう少し進める。


 しかし、ここから速度を上げれば、資料の扱いも記録の精度も落ちる。


 シュウは数秒考えた。


「あと二葉だけ。今の速度で見て、そこで終わる」


「了解」


 二十一葉目は南部。


 二十二葉目。


 右上に、


『北部三旧』


 と読める文字があった。


 三人の視線が止まる。


「第三旧所?」


 エリオットが小声で言う。


「まだ決めない」


 シュウはそう答えながら本文を見る。


『秋見分後、導材替え見送り。予備材は北倉へ。再見後、必要あれば支給。』


 今度こそ、シュウはすぐに筆を動かせなかった。


 第三旧所の既知記録。


『第三旧所、秋見分。保持の落ち、例年より早し。現場のみで定めず、北務帳へ移す。再見は三日後。』


 そして、近接する再見記録。


『第三旧所、再見。保持、前見より落ちなし。導線乾き、異常なし。継ぎ見送り。』


 今回の支給台帳。


『秋見分後、導材替え見送り。予備材は北倉へ。再見後、必要あれば支給。』


 似ている。


 かなり強く似ている。


「年代は?」


 シュウが尋ねる。


 ユリウスが慎重に確認する。


「年の頭が欠けてる。でも末尾が……六十、かな。百六十年前の可能性はある」


「可能性だけ」


「うん。断定できない」


 第三旧所記録も、後世の抄録ではおよそ百六十年前と推定されていた。


 時期も近い。


 内容も近い。


 秋見分。


 導材。


 交換見送り。


 再見。


 予備材を北倉へ戻す。


「同じ出来事?」


 エリオットが静かに尋ねた。


 シュウはすぐ答えなかった。


 資料をもう一度見る。


 同じ出来事である可能性は、これまで見つけた類似記録より高く感じる。


 だが、確定はできない。


「同じ出来事を別の帳面から見てる可能性はある」


 シュウはゆっくり言った。


「役務記録側では、保持が早く落ちたから北務帳へ移して三日後に再見。再見したら落ちが進んでなくて、導線も乾いてたから継ぎを見送った」


「支給台帳側では?」


「秋見分後に導材の交換を見送って、予備材を北倉へ戻した。再見後に必要なら支給する」


 ユリウスが続ける。


「もし同じ出来事なら、役務側の判断と物資側の処理が対応する」


「うん」


 交換を見送る。


 だから、用意していた予備材を倉庫へ戻す。


 必要になれば再見後に支給する。


 業務判断と物資管理。


 同じ出来事を異なる種類の記録が残した可能性。


 それは、シュウがこの支給台帳を見たいと考えた理由そのものだった。


 しかし、興奮に任せて「同じ」と書いてはいけない。


 シュウはノートへ丁寧に記録した。


『整理葉22:

支給先表記「北部三旧」。

年記欠損。末尾「六十」読取可能性あり。約160年前候補、未確定。

「秋見分後、導材替え見送り。予備材は北倉へ。再見後、必要あれば支給。」』


『比較候補:

『ローデル北部役務抄』第三旧所(約160年前推定)

秋見分→保持の落ち早い→北務帳へ→三日後再見。

再見→保持追加低下なし/導線乾燥/継ぎ見送り。』


『共通候補:

・第三旧所/北部三旧

・秋見分

・導線/導材

・見送り

・再見

・約160年前候補』


『相違・未確認:

・同一年か未確定

・同一出来事か未確定

・導材替え=継ぎではない

・支給台帳側に保持・北務帳・三日後の記載なし

・役務抄側に北倉返却の記載なし

・資料系統の独立性未確認』


 そこまで書いて、シュウは筆を置いた。


「今日は終わり」


「あと四十分あるよ?」


 エリオットがわざと尋ねる。


「今ので十分。これ以上読むと、今見つけたのを整理しないまま次へ行く」


 ユリウスが静かに頷いた。


「僕も賛成」


 シュウはマティアスを呼び、閲覧を終了することを伝えた。


     ◇


「もう終わりますか?」


 マティアスが少し意外そうに尋ねた。


「はい。二十二葉まで見ました。続きは別の日にします」


「何かありました?」


「既知の記録と対応するかもしれない支給記録がありました。でも同じ出来事か確認できてないので、一回整理したいです」


「それなら良い判断でしょう」


 マティアスは資料を一葉ずつ確認し、保存箱へ戻していく。


「次回は同じ申請で続きから閲覧できます。状態確認済みの範囲であれば、改めて教師署名は必要ありません」


「分かりました」


「ただし、今日見た葉を再確認したい場合も遠慮なく言ってください。記憶だけで比較しない方が安全です」


「はい」


 資料箱の蓋が閉じられる。


 シュウは少し名残惜しさを感じた。


 だが、それでいい。


     ◇


 図書館を出ると、空は朝より暗くなっていた。


 雲が厚くなり、夕方の光が柔らかく遮られている。


 三人は寮へ向かいながら、今日の記録について話した。


「家名、出なかったね」


 エリオットが言う。


「今のところは」


「残念?」


 シュウは少し考えた。


「全然」


 自分でも意外なほど、素直にそう答えられた。


「むしろ仕事の形が見えた方が嬉しい」


「白材とか導材とか?」


「それもある。でも巡検札とか記筆とか、冬備えの灯とか油とか、余った材料を倉庫へ戻すとか」


 古い北部の管理者たちは、謎めいた儀式だけをしていたわけではない。


 春前に資材を用意する。


 秋に見分する。


 雨を避ける布を交換する。


 巡検に必要な道具を揃える。


 使わなかった材料は倉庫へ戻す。


 必要なら再見してから改めて支給する。


「普通の仕事なんだよな」


 シュウが言う。


 ユリウスが頷く。


「少なくとも支給台帳から見える範囲では」


「魔法施設だったとしても、維持する人は普通に働いてたってことか」


 エリオットが言った。


「たぶん」


 その「たぶん」を、シュウは大切にした。


     ◇


 夕食時、今日の話を聞いたダンは、予想通り別のところへ食いついた。


「百六十年前の紙、本当に触ったのか?」


「保護しながらな」


「すげえな」


「そこ?」


「だって百六十年前だぞ。俺のひいひい……何人前だ?」


「数えるの諦めた方がいいと思います」


 セシリアが笑う。


「それで、探していたものはあったんですか?」


「家名はなかった。でも北部へ何を送ってたかは少し分かった」


 シュウは今日確認した範囲を簡単に説明した。


 白材。


 導材。


 油布。


 灯。


 油壺。


 巡検札。


 記筆。


 縄。


 小魔石。


 補修板。


 そして、使わなかった材料の返却。


「本当に仕事の道具って感じだな」


 ダンが言う。


「うん」


「もっとこう、秘密の封印道具みたいなの出ないの?」


「出なくていいんだよ」


「でも小魔石あるじゃん」


「用途不明」


「白材は?」


「用途不明」


「導材は?」


「用途不明」


「全部不明じゃん!」


「だから調べてるんだよ!」


 五人が笑う。


 セシリアは少し考えてから言った。


「でも、使わなかったものを返す記録があるのは面白いですね」


「何で?」


 ダンが尋ねる。


「必要だから毎回全部使う、ではないということです。状態を見て、使わない判断もしていたのかもしれません」


 シュウは頷いた。


「俺もそこ気になった。第三旧所っぽい記録だと、導材の交換を見送って予備材を北倉へ戻してる」


「無駄に交換しないんですね」


「同じ出来事なら、だけどな」


 そこは忘れない。


     ◇


 夜。


 三百十七号室へ戻ったシュウは、北方調査ノートを机いっぱいに広げた。


 今日の閲覧記録。


 既知の『ローデル北部役務抄』。


 家資料の写し。


 エルド・マルセルの研究書から取ったメモ。


 それぞれを混ぜないよう、頁を分けて比較する。


 まず、今日確認できた支給台帳の特徴をまとめた。


『旧ローデル林区支給台帳・残巻――第一回閲覧(1~22葉、北部関連のみ記録)』


『確認できた北部関連活動候補:

・春前支給

・冬前準備

・春見分前の巡検用品支給

・秋見分後の物資判断

・白材支給

・導材支給

・小魔石支給

・補修板

・灯/油壺/雨除布

・巡検札/記筆/油布/縄

・余剰/予備材の倉庫返却

・再見後に必要なら支給する運用』


 次に、重要な注意。


『家名なし(1~22葉確認範囲)。

→ ハーゼン不在の証明ではない。

→ アルヴェイン不在の証明ではない。

→ 人名探索を主目的としない。』


『北部関連の支給・返却・巡検準備が複数葉に存在。

→ 北部役務が複数種類の物資と季節作業を伴う実務だった可能性を補強。

→ 家資料「北方旧務」と同一とは未確定。』


 そして、二十二葉目。


 シュウはそこだけ別枠にした。


『重要比較候補――整理葉22』


『「北部三旧」/秋見分後/導材替え見送り/予備材北倉返却/再見後必要なら支給。』


『既知第三旧所記録との対応可能性あり。ただし同一出来事未確定。』


 もし同じ出来事なら。


 役務記録では「判断」が残り、支給台帳では「物資処理」が残っている。


 保持の落ちが例年より早い。


 現場だけで決めず、北務帳へ移す。


 三日後に再見する。


 保持の低下は進んでいない。


 導線は乾いている。


 継ぎを見送る。


 そして支給側では、導材の交換を見送り、予備材を北倉へ戻す。


 必要なら再見後に改めて支給する。


(……繋がって見える)


《はい》


(でも、まだ繋げない)


《それがよろしいでしょう》


 シュウは一つ息を吐いた。


 以前なら、ここまで一致すれば「同じ出来事だ」と書いていたかもしれない。


 今は、対応候補として置いておける。


 それで十分だった。


     ◇


 さらに、家資料と今日の台帳を並べる。


『春見分、旧境より北を先とす。』


 支給台帳には、


『春見分前』


 の巡検用品支給がある。


 しかし、旧境という言葉は今日の範囲では出ていない。


『秋見分、満ちの減りあるときは別記へ移す。』


 支給台帳には秋見分後の導材判断がある。


 だが「満ち」は出ていない。


 「別記」も出ていない。


 北務帳も出ていない。


『白――の改め、継ぎに先んじて……』


 支給台帳には白材と導材が出る。


 しかし、欠損している「白――」が白材だとは分からない。


 そして今日見た葉では「継ぎ」という語も出ていない。


 似ている。


 それでも、空白を埋めるには足りない。


 シュウは赤い印を使わず、普通の筆記で書いた。


『家資料との比較:

春見分/秋見分という季節運用の類似あり。

白系材料らしき語、導材、再見、物資判断の類似候補あり。

ただし家資料固有語「旧境」「満ち」「別記」「継ぎ」との直接一致は本日確認なし。

北方旧務=ローデル北部役務とは決めない。』


 そこまで書き終えたとき、エリオットが向かいから声を掛けた。


「まだ続ける?」


「あと一個だけ」


「何?」


「次回見る条件」


 シュウは新しい頁へ書いた。


『次回支給台帳閲覧:

・23葉以降を同じ速度で確認。

・北部関連のみ詳細記録。

・既知語を探すことを目的にしすぎない。

・特に「継ぎ」「保持」「北務帳」を期待して読まない。

・物資、時期、行先、返却、再見、支給判断をそのまま記録。

・22葉目は必要なら再確認。

・年代欠損を周辺葉から安易に補わない。』


「終わり」


 ノートを閉じる。


「本当に?」


「本当に」


「百パーセント維持」


「今日はもう何回目だよ!」


「三回?」


「数えてるじゃん!」


 エリオットは笑った。


     ◇


 シュウが資料を片づけ始めたところで、アルカディアが静かに声を響かせた。


《マスター》


(今日はもう十分だからな)


《本日は「家名がなくとも仕事は残る」という非常に示唆的な一日でございました》


(急にまともだな)


《かつてのマスターも、己の名を一切残さず世界を救う極秘任務を設定されております》


(……まあ、そのくらいなら)


《任務名は「暗黒皇帝絶対秘匿超極秘世界救済計画」》


(名前が全然秘匿する気ない!)


《参加者はマスター一名。極秘のため、世界中の誰にも知らせず実行する予定でした》


(それならまだ分かる)


《ただし、終了後は世界中の石碑に「この世界を救ったのは俺だ」と刻ませる予定で――》


(台無しだよ!)


 シュウは思わず机へ突っ伏した。


 エリオットが顔を上げる。


「今日は何?」


「名前を残さず世界を救う極秘計画。ただし終わったら世界中に自分の名前を刻む」


「名前残したいんだね」


「中学生だからな……」


《なお、石碑は全高百メートルを予定しておりました》


(でかすぎる!)


 エリオットが笑い出す。


 シュウも顔を上げ、結局一緒に笑った。


 百六十年以上前の北部で働いていた人々の名前は、今日見た範囲ではほとんど残っていなかった。


 けれど、仕事は残っている。


 春前に材料を用意した人。


 冬に備えて灯と油を運んだ人。


 巡検のために札や筆を準備した人。


 白材や導材を数えた人。


 使わなかった予備材を倉庫へ戻した人。


 再見の結果を待ってから、必要なら改めて支給すると決めた人。


 名前が分からなくても、誰かがその仕事をしていた。


 北方旧務という言葉の意味は、まだ分からない。


 前役家の正体も分からない。


 アルヴェイン家が何をどこまで「預かった」のかも分からない。


 それでも、今日初めて、後世の研究者による説明だけではなく、古い支給記録そのものから、北部の仕事の一端を見ることができた。


 それは派手な秘密ではなかった。


 世界を揺るがす魔導具の名もなければ、封印された魔王の記録もない。


 残っていたのは、材料の数と、季節と、行先と、返却の記録だった。


 けれどシュウには、それが今まで見つけたどんな大げさな言葉よりも、北の森へ繋がっているように思えた。


 謎を守っていたのは、特別な誰か一人ではなかったのかもしれない。


 毎年同じ季節に見分し、必要なものを運び、必要がなければ戻し、また次の状態を確かめる。


 そんな仕事が何十年も、あるいはそれ以上、誰かから誰かへ続いていた。


 もしアルヴェイン家が「預かった」のがその一部だったなら。


 知りたいのは、誰が偉大だったかではない。


 何が、どのように続いていたのか。


 シュウは棚へ戻した北方調査ノートを一度だけ見たあと、今夜はもう開かなかった。


 支給台帳には、まだ十六葉の通常閲覧可能な紙と、保護板越しにしか確認できない紙が残っている。


 続きは、次に時間を取れる日に読めばいい。


 百六十年残ってきた記録は、明日まで待ったからといって逃げはしなかった。

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