第58話 写した人を知ることと、写された記録を知ることは別でした
翌朝、シュウが目を覚ましたとき、三百十七号室には柔らかな朝日が差し込んでいた。
昨日に続いて空は晴れているらしい。窓の外では中庭の木々が風に揺れ、葉の隙間を抜けた光が石畳の上で細かく動いている。
シュウは身体を起こし、枕元に置いていた時計へ目を向けた。
起床時間としてはいつも通りだ。
体調にも変化はない。
頭痛もなければ、胸の奥に妙な感覚もない。普通の闇属性魔力を使っていない今、以前感じた隣り合う経路のような感覚もなく、漆黒魔力が勝手に動く様子もなかった。
《おはようございます、マスター》
(おはよう。何か変わったことある?)
《私が認識可能な範囲では、特筆すべき異常はございません》
(了解)
短いやり取りを終え、シュウは寝台から降りた。
机の上には、昨夜閉じた北方調査ノートが置かれている。
その最後に書いた名前は、フェルド・ミール。
『ローデル北部役務抄』に収められた第三旧所の秋見分記録。その出典として示されていたのが「フェルド・ミール旧蔵写し」だった。
ただし、昨日の時点ではそこで止めた。
フェルド・ミールという人物について調べることと、彼が残した写しの来歴を調べることは別だと、図書館のマティアスにも言われている。
(調べるなら、写しの方だよな)
人物の生涯を知りたいわけではない。
どんな家に生まれ、どこで学び、何歳で何をしたのか。それらが写しの来歴に関係するなら必要だが、最初から全部を追う意味は薄い。
知りたいのは、第三旧所の記録をいつ、どこで、何から写したのか。
そして、本文にある「北務帳」という語が、どの段階まで遡れるのか。
「起きて早々、顔が調査になってる」
向かいから声がした。
見ると、エリオットが寝台の上でこちらを見ている。
「どんな顔だよ」
「眉間にちょっと皺が寄ってる」
シュウは反射的に眉間へ触れた。
「そんなに?」
「少しだけ」
「フェルド・ミールのこと考えてた」
「やっぱり」
エリオットも起き上がる。
「今日は調べる?」
「授業が終わってから決める。ただ、調べるなら人物じゃなくて、旧蔵写しの来歴」
「昨日マティアスさんが言ってたやつ?」
「うん。俺が知りたいのはフェルド・ミールがどんな人生を送ったかじゃないから」
「百パーセント維持」
「朝の着替えも終わってないのに判定された!」
エリオットは笑いながら制服を取った。
◇
午前最初の授業は、オルド・カーヴェルによる歴史基礎だった。
教室へ入ったシュウは、黒板に書かれた題を見て少し驚いた。
『写本・転記・抄録』
(……学院、俺の予定見て授業組んでないよな?)
《その可能性を考慮する必要はないかと》
(分かってるよ)
最近あまりにも調査内容と授業が重なるため、つい疑いたくなる。
もちろん偶然だ。
北方調査で扱っているのが歴史資料である以上、歴史基礎の授業内容と重なること自体は不自然ではない。
オルドは数枚の複製資料を教卓へ並べた。
「古い出来事を調べるとき、原本が残っているとは限りません。むしろ、時代が古くなるほど原本が失われ、写本や転記だけが残っている例は珍しくありません」
学生たちへ一枚ずつ資料が回される。
一枚目には長い文章。
二枚目には、その一部を抜き出した短い文章。
三枚目には、内容を現代語で簡潔にまとめた説明が書かれている。
「これらはすべて、同じ古記録を元に作られたものとします。ただし、一枚目は全文写本、二枚目は必要部分だけを抜いた抄録、三枚目は後世の研究者による要約です」
シュウは三枚を見比べた。
同じ元資料。
しかし残っている情報量はまるで違う。
「全文写本だから原本と同じ、とは限りません。写し間違い、読めなかった文字の補完、表記の統一、写した人物による注記の混入などが起こり得ます」
オルドは一枚目の一か所を指した。
「また、『写し』という言葉自体にも幅があります。原本を目の前に置いて一字ずつ写したものもあれば、すでに存在する別の写本からさらに写したものもあります」
黒板へ、
『原本 → 写本A → 写本B』
と書く。
「写本Bが残っていても、原本を直接見た人物が作ったとは限りません」
シュウはノートへ書き込んだ。
『旧蔵写し=原本から直接写したとは限らない。』
まさにフェルド・ミール旧蔵写しへ当てはまる。
名前だけを見ると、フェルド・ミール本人が原本を見て書き写したように感じてしまう。
だが「旧蔵」は、彼が所蔵していたという意味かもしれない。
本人が作ったのかさえ、まだ確認していない。
(危なかったな)
《昨日の段階で人物調査へ進まなかったことが幸いでした》
(本人が写した前提で考えかけてた)
オルドはさらに説明を続ける。
「そして、資料の所有者と作成者を混同しないこと。『某家旧蔵写本』と記録されている場合、その家の人物が写したとは限りません。後から購入した、譲り受けた、別の収集家から移った可能性もあります」
シュウの筆が止まる。
あまりにもそのままだった。
フェルド・ミール旧蔵写し。
それは「フェルド・ミールが写した資料」とは書いていない。
彼が旧蔵していた写し。
現時点で確実に言えるのは、せいぜいそこまでだ。
シュウは昨日の自分の考えを頭の中で修正した。
(写した人を調べる、ですらなかった)
まず、誰が写したのか。
そこから分からない。
◇
授業の後半では、写本を扱う際の基本項目が説明された。
作成年代。
筆写者。
元資料。
筆写場所。
所蔵履歴。
表記変更の有無。
欠損や補筆。
後世の注記。
「全部が分かる資料はほとんどありません」
オルドはそう前置きした。
「大切なのは、分からない項目を勝手に埋めないことです。例えば、筆写者不明の資料を有名な所蔵者本人の筆写と決めつければ、その人物の生きた年代へ資料の成立時期まで引き寄せてしまいます」
黒板に例が書かれる。
『約百年前の収集家Aが所蔵』
↓
『Aが写したと誤認』
↓
『写本成立=約百年前と誤認』
↓
『実際は約百五十年前の写本をAが後に入手』
「一つの思い込みが、年代推定まで変えてしまうわけです」
教室の空気が少し引き締まる。
シュウも無意識に背筋を伸ばした。
北の調査では、年代が重要だ。
約百九十年前のゲオルク・ハーゼン。
約百七十年前のレオル・ハーゼンとアルベルト・アルヴェイン。
約百三十年前にはローデルの行政体系が消え始め、約百二十年前にはアルヴェインの地名が地図上ではっきり確認される。
その間を繋ぐ情報を探している。
もし写本の年代を所蔵者の年代と取り違えれば、管理の流れそのものを誤読しかねない。
「質問があります」
一人の学生が手を挙げた。
「元の資料がなくて、写本しか残っていない場合、その写本は信用しない方がいいんですか?」
「いい質問です」
オルドは頷いた。
「いいえ。写本だから価値がない、ということではありません。原本が失われた資料では、写本が唯一の情報源になることもあります。重要なのは、写本であることを理解したうえで使うことです」
別の学生が尋ねる。
「写本が二つあって内容が同じなら、正しい可能性は高くなりますか?」
「その二つが何から写されたかによります。同じ写本を元に作られた二冊なら、同じ間違いまで受け継ぐことがあります」
昨日の話と繋がる。
同じ内容が二つある。
だから証拠が二つ。
そう単純には考えられない。
「反対に、異なる系統の写本で同じ記述が残っているなら、原文にもその記述が存在した可能性は高まります。ただし、その『異なる系統』を示すこと自体が難しい場合もあります」
オルドはそこで一度言葉を切った。
「歴史資料を扱うときは、答えを探すだけでなく、その答えへ届くまでの道筋も確認してください」
シュウは、その一文へ小さく線を引いた。
◇
授業が終わると、ユリウスがすぐシュウの席へ来た。
「フェルド・ミール」
「やっぱり思った?」
「思った」
エリオットも鞄を持ちながら会話へ加わる。
「僕でも分かったよ。旧蔵写しって、フェルド・ミール本人が写したとは限らないんだよね」
「うん。昨日、俺も『フェルド・ミールがどこから写したか』って考えてた」
シュウは少し苦い顔をした。
「そこからもう前提が入ってた」
「でも調べる前に気づけた」
ユリウスが言う。
「なら修正すればいい」
「そうする」
シュウは授業ノートの端へ新しく書いた。
『フェルド・ミール旧蔵写し:
× フェルド・ミールが写した資料
○ フェルド・ミールが旧蔵していたと整理される写し
筆写者・筆写年代・元資料・入手経路すべて未確認。』
「これでいいかな」
「今のところは」
ユリウスが頷いた。
「じゃあ今日調べるなら、フェルド・ミール本人じゃなくて『旧蔵写し』って整理単位の方?」
「そのつもり。ただ、午後の授業終わってからな」
エリオットが微笑む。
「百パーセント維持」
「もう好きにしてくれ」
◇
昼休み、五人は食堂の窓際へ座った。
ダンは今日も量の多い料理を選び、セシリアは温かいスープと小さめのパンを取っている。ユリウスは食事を始める前に持っていた本を閉じ、鞄へしまった。
「今日は何が間違ってたんだ?」
ダンがいきなり尋ねた。
「何で俺が毎日間違えてる前提なんだよ」
「昨日、資料の数が証拠の数じゃなかっただろ?」
「間違いっていうか、整理したんだよ」
「今日は?」
「フェルド・ミール旧蔵写しって資料があったんだけど、俺は何となくフェルド・ミール本人が写したものだと思いかけてた」
「違うのか?」
「まだ分からない。『旧蔵』だから、持ってたって意味しかない可能性がある」
ダンは一瞬考えた。
「誰かが作った剣を俺が買って持ってたら、『ダン旧蔵の剣』にはなるけど、俺が打った剣じゃない、みたいな?」
「そう、それ」
シュウはすぐ頷いた。
「分かりやすい」
「おお」
ダンが得意げな顔をする。
「俺、歴史向いてる?」
「今の例えはかなり良かった」
「じゃあユリウスの弟子になるか」
「嫌だ」
「即答!?」
ユリウスは表情をほとんど変えずに食事を続ける。
「僕は人に教えるより自分で読む方が好きだから」
「そこは考えてくれてもいいだろ」
セシリアが笑いながら言った。
「でも、所有者と作った人が別というのは、魔導具でも同じですよね。家に代々あるものでも、その家で作ったとは限りませんし」
「そうなんだよな」
シュウはスープを一口飲む。
「だから今日は、フェルド・ミールの生涯じゃなくて、その写しがいつ頃から彼のところにあって、どこから来たのか分かる情報があるかだけ見るつもり」
「また図書館?」
「うん。でも索引だけで済むかもしれない」
「毎日行ってない?」
ダンの指摘に、シュウは言葉を詰まらせた。
「……昨日も行ったな」
「一昨日も」
エリオットが補足する。
「百パーセントになってもそこは変わらないんだな」
「図書館へ行くこと自体は無茶じゃないだろ!」
「それはそう」
ダンは笑った。
◇
午後の授業を終えたあと、シュウ、エリオット、ユリウスは図書館へ向かった。
天気がいいため、学院内では屋外で課題をする学生も多い。中庭の長椅子には数人ずつ座り、魔法理論の教科書を広げたり、実技の反省を話したりしている。
シュウは一瞬、今日は外で普通に過ごすのも悪くないと思った。
ただ、確認したいことは明確だ。
長時間調べるつもりもない。
図書館へ入ると、マティアスは返却された本を確認しているところだった。
「こんにちは」
「こんにちは。今日はどちらですか?」
昨日の会話を覚えているらしい。
シュウは少し笑った。
「フェルド・ミール本人じゃなくて、『フェルド・ミール旧蔵写し』って整理されてる資料の方です」
「目的は?」
「第三旧所の秋見分記録が、その旧蔵写しを出典にしてました。知りたいのは、写しの筆写者、筆写年代、元資料、所蔵経路のどれかが分かるかどうかです」
「なるほど」
マティアスは索引台へ移動する。
「それなら、人物索引より資料群索引ですね」
検索項目を切り替え、
『フェルド・ミール旧蔵資料』
を表示する。
複数の登録が出た。
書簡。
地方行政記録の写し。
地図断片。
個人的な研究覚書。
そして、北部役務関係の写し。
「かなりある」
エリオットが呟く。
「フェルド・ミールは地方史料の収集家としても知られています。ただし、彼自身が研究者として作った記録と、収集しただけの古資料が混在しています」
マティアスは説明しながら該当項目を絞った。
『フェルド・ミール旧蔵 北部役務関係写し』
『現物所在:王都大学史料庫・ミール旧蔵資料群。』
三人の視線が止まる。
「現物、残ってるんですか?」
「この登録が現在も正しければ、写しそのものは残っています。ただし学院所蔵ではありません」
「原本じゃなくて、写し?」
「はい。フェルド・ミール旧蔵とされる写しです」
シュウは少しだけ身を乗り出した。
「詳細は?」
マティアスが表示を開く。
『資料群整理年代:約八十年前。』
『旧蔵者:フェルド・ミール。』
『筆写者:不明。複数筆跡を含む可能性。』
『筆写年代:不明。紙質・書式から約百四十~百年前とする旧推定あり。ただし再鑑定記録なし。』
『入手経路:不明。』
『元資料:不明。』
『内容:旧セルド北部の役務、巡検、施設補修、倉庫移送等の断片的写し。欠頁多数。』
『備考:フェルド・ミール本人の研究覚書とは筆跡が異なる部分が多い。本人筆写と断定せず。』
「……授業そのままだ」
エリオットが小声で言った。
シュウも頷いた。
フェルド・ミール本人が写したとは断定されていない。
むしろ、本人の研究覚書とは筆跡が異なる部分が多い。
「複数筆跡……」
ユリウスが表示を見つめる。
「一冊の写本でもない可能性がある?」
「資料群として一括整理されていますから、複数の紙片や冊子がまとめられている可能性があります」
マティアスが答える。
「詳しい構成は大学側の目録を確認しないと分かりません」
シュウは一度深呼吸した。
王都大学史料庫。
学院の外にある資料だ。
今すぐ見に行くつもりはない。
そもそも学生が自由に閲覧できるかも分からない。
「学院側に複製はないんですよね?」
「全体の複製はありません。ただし、一部は過去の研究者が採録しています。『ローデル北部役務抄』に使われたのも、その一部でしょう」
「じゃあ今日は、所在と索引情報だけで十分です」
マティアスが少し意外そうにシュウを見る。
「大学側の目録までは調べませんか?」
「気にはなります。でも、今分かったことを先に整理します」
「良いと思います」
マティアスは索引画面を閉じる前に言った。
「資料が現存すると分かったときほど、すぐ閲覧したくなるものですから」
「……ちょっとなりました」
「でしょうね」
マティアスは小さく笑った。
◇
三人は閲覧席へ移動した。
新しい本は借りない。
今見た索引情報だけを、シュウのノートへ整理する。
『フェルド・ミール旧蔵 北部役務関係写し』
『・写し現物は王都大学史料庫のミール旧蔵資料群に現存登録あり。
・学院には全体複製なし。
・資料群整理:約80年前。
・旧蔵者:フェルド・ミール。
・筆写者:不明。
・複数筆跡を含む可能性。
・本人研究覚書と筆跡が異なる部分多数。
・本人筆写と断定不可。
・筆写年代:不明。旧推定約140~100年前。ただし再鑑定なし。
・入手経路:不明。
・元資料:不明。
・旧セルド北部の役務、巡検、施設補修、倉庫移送等の断片。
・欠頁多数。』
シュウは書き終えると、昨日の記録へ一本の線を引いた。
『第三旧所秋見分記録
→ 『ローデル北部役務抄』
→ 出典表示:フェルド・ミール旧蔵写し
→ 元となった旧蔵資料群の一部は王都大学史料庫に現存する可能性。
→ ただし、どの断片が該当するか未確認。』
「原本は分からないけど、写し自体は残ってた」
エリオットが言う。
「うん。そこは昨日より進んだ」
「見に行きたい?」
「行きたい」
シュウは即答した。
エリオットが笑う。
「でも?」
「今すぐは行かない」
「百パーセント維持」
「それ言いたかっただけだろ」
「半分くらい」
ユリウスはノートを見ながら考えている。
「これ、筆写年代の旧推定が百四十~百年前なら、記録内容の年代とはかなり離れてる可能性があるよね」
「そうだな」
第三旧所の役務記録そのものは、ローデルの制度がまだ機能していた頃の出来事を扱っている。
しかし現存する写しが作られたのは、もっと後かもしれない。
「だから写しが百二十年前に作られてても、記録された出来事が百七十年前ってことは普通にあり得る」
「今日の授業通り」
「うん」
シュウは昨日までに書いた一文を思い出し、改めて別の頁へ記した。
『資料作成年代と、資料が扱う出来事の年代を分ける。』
これは北方調査を始めてから何度も必要になっている。
「あと、複数筆跡ってことは、全部を一人が同じ時期に写したとも限らない」
ユリウスが言う。
「そうだな。そこもまとめない方がいい」
シュウは追記した。
『「フェルド・ミール旧蔵写し」を単一筆写者・単一時期・単一原資料の一冊として扱わない。』
「これで、フェルド・ミール本人を調べる必要はなくなった?」
エリオットが尋ねる。
「なくなったとは言わない。入手経路とか資料収集の時期を知るのに必要になるかもしれない。でも今すぐ人物伝を読む理由は薄くなった」
「じゃあ後回し」
「うん」
◇
ユリウスがノートの「倉庫移送」という部分を指した。
「これ、少し気になる」
「北倉?」
「僕もそれを思った」
旧蔵資料群の内容には、倉庫移送に関する断片が含まれるとある。
既知の『旧ローデル北部役務断片』には、
『北旧所、保持材の改め、春前に済ますべし。旧材は北倉へ戻す。』
という記述があった。
ただし、その原資料が現在どこにあるかは分かっていない。
「でも『倉庫移送』だけだよな」
シュウは言った。
「北倉って書いてあるわけじゃない」
「うん」
「旧セルド北部の役務なら、倉庫の移送記録があること自体は不思議じゃない」
エリオットも頷く。
「同じものだって決めるには弱い?」
「かなり弱いと思う」
シュウは索引情報の横に小さく書いた。
『倉庫移送断片あり。ただし「北倉」との関係不明。名称一致すら未確認。』
そこから先は広げない。
今日の目的は、フェルド・ミール旧蔵写しの来歴を確認することだった。
北倉を追う日ではない。
◇
三人は予定より早く図書館を出た。
まだ夕食までかなり時間がある。
外へ出ると、午後の柔らかな日差しが学院の中庭を照らしていた。風も穏やかで、屋外訓練場からは剣を打ち合わせる音や、魔法実技を行う学生たちの声が聞こえてくる。
「時間余ったね」
エリオットが言う。
「図書館で時間余るって表現おかしくない?」
「最近のシュウ基準なら余った」
「否定できない」
ユリウスが少し考えてから言った。
「僕は図書館に戻って普通の本読むけど」
「戻るの!?」
「調査じゃなくて借りたい本がある」
「ユリウスは元々そうだったな」
シュウは笑った。
「俺は寮戻るかな」
「僕も」
エリオットが答える。
三人はそこで別れた。
◇
第一男子寮へ戻ったあと、シュウはすぐ机へ向かわなかった。
エリオットと一緒に談話室へ寄り、窓際の席で課題を進める。
しばらくするとダンが現れた。
「いた!」
「何だよ」
「セシリアとユリウスは?」
「ユリウスは図書館。セシリアは知らない」
「じゃあ二人でもいい。ちょっと来い」
「どこへ?」
「中庭」
理由を聞いても、ダンは「いいから」としか言わない。
シュウとエリオットが顔を見合わせながらついていくと、中庭の端にある開けた場所へ連れていかれた。
「見てろよ」
ダンはそう言って、掌の上へ小さな火属性魔力を集める。
「魔法使うなら訓練場の方が――」
「攻撃魔法じゃないって」
ダンが集中する。
小さな火球ほどにもならない、淡い火の光。
それを一定に保ち、少しだけ強め、再び弱める。
最後に急激に消さず、ゆっくりと出力を落として停止した。
「……おお」
シュウは素直に声を漏らした。
「前より綺麗じゃん」
「だろ!?」
ダンが満面の笑みを浮かべる。
「昨日誰も見てなかったから、今日は見せに来た」
「そこまで見てほしかったの?」
エリオットが笑う。
「友達なら成長したところ見せたいだろ」
「まあ、それは分かる」
シュウはもう一度ダンの手を見る。
彼は元々魔力量が多く、火と土の出力も強い。
最初の頃なら、強くすることを誇ったかもしれない。
今は、弱く保ち、きちんと止められたことを嬉しそうに見せている。
「本当に上手くなってるよ」
「だろ?」
「今度ミレイ先生にも見てもらえば?」
「もちろん」
ダンは満足したらしい。
「よし、戻るか」
「これだけ!?」
「これだけ」
わざわざ呼び出されたのに、不思議と嫌な気はしなかった。
◇
夕食ではセシリアとユリウスも合流した。
ダンは当然のように自分の魔力制御がどれだけ上手くなったかを二人にも話し、セシリアから「次の授業で見ます」と約束を取りつけている。
「シュウ君たちは、今日は何か分かったんですか?」
セシリアが尋ねた。
「昨日の写しが残ってることは分かった」
「原本が?」
「いや、写しの方。王都大学の史料庫にあるみたい」
「では見に行くんですか?」
「今は行かない」
セシリアが少し驚いたように瞬きをした。
「見られるかどうかも確認してないし、今すぐ必要かも分からないから。あと、その写し自体も誰がいつ作ったのか分かってない」
「フェルド・ミールが作ったんじゃなかったのか?」
ダンが尋ねる。
「朝話しただろ。旧蔵ってだけだった」
「あ、剣の話か」
「そう。しかも本人の字とは違う部分が多いらしい」
「じゃあ本当に持ってただけかもしれないんだな」
「うん。そこもまだ分からないけど」
ユリウスが補足する。
「複数の筆跡がある可能性もあるから、一冊の写本だと思わない方がよさそう」
「……歴史、面倒だな」
ダンがまた同じ感想を漏らした。
今度はシュウも笑いながら頷いた。
「それは俺も思う」
◇
夜。
三百十七号室へ戻ったシュウは、北方調査ノートを開いた。
今日の情報は図書館ですでにかなり整理している。
だから長くはかからなかった。
『フェルド・ミールについての現時点整理』
『フェルド・ミール本人=第三旧所記録の筆写者、ではない。』
『「フェルド・ミール旧蔵写し」は所蔵履歴を示す整理名と考える。』
『本人研究覚書と異なる筆跡多数。複数筆跡可能性。』
『人物経歴を先に追う必要性は低下。ただし資料入手時期・収集経路の確認が必要になった場合は再検討。』
続いて、今後の調査候補を整理する。
『優先度高:
・『旧ローデル林区支給台帳・残巻』を何のために見るか最終整理。
主目的=約168~157年前の残存断片で、北部旧所/保持部に関係する支給・維持が続くか確認。
既知語:保持用白材、小型魔石、導線材、巡検用品、倉庫間移送。
同名・類似材=同一用途としない。』
『優先度中:
・フェルド・ミール旧蔵写しの大学側詳細目録。
・旧目録/旧セルド北部資料仮目録の関係。』
『別系統:
・『北部保持材研究録』第七章以降。
・漆黒魔力研究。教師側から次回連絡があるまで自主実験なし。』
最後に、家族から届いた追加返信の写しへ視線を落とした。
『北方旧務、前役家の残す定めに従い、当家これを預かる。』
前役家。
残す定め。
預かる。
この一文は、今も答えをくれない。
ハーゼン家の名はない。
直接引き継いだとも書いていない。
永続的に所有したとも書いていない。
それでも、アルヴェイン家より前に何らかの役を担った「家」が存在し、その家が残した定めに従ってアルヴェイン家が北方旧務を「預かった」と読める可能性はある。
問題は、その言葉が当時どのような意味で使われていたかだ。
(これも、そろそろオルド先生に聞いていいのかな)
《一般的な歴史用語として「預かる」の用例を確認するのであれば、特定の家資料をすべて開示する必要はないでしょう》
(そうなんだよな)
シュウは少し考え、次の候補として書いた。
『オルド先生へ質問候補:
古い行政・家務記録における「預かる」「継ぐ」「任ずる」の語義差。
特定資料の結論を求めず、時代・文書種別による用例の幅を確認する。』
これなら、前役家が誰なのかを先生に当ててもらう質問ではない。
「預かる」という言葉だけで、恒久的な継承を意味すると考えてよいのか。
その判断材料を教えてもらうだけだ。
「明日聞く?」
向かいからエリオットが尋ねた。
「声に出てた?」
「『オルド先生』って言ってた」
「またか……」
最近、考え事をすると口から漏れることがある。
アルカディアとの内心会話に慣れすぎたせいかもしれない。
「古い記録の『預かる』って言葉について聞こうかなって」
「家から来た手紙の?」
「うん。でも手紙そのものを見せるんじゃなくて、一般的な使い方だけ」
「いいんじゃない?」
「明日授業があるか確認してからにする」
「百パーセント維持」
「もう評価項目が分からないよ」
「僕も分からなくなってきた」
「審査員が投げるな!」
エリオットが笑った。
◇
シュウがノートを閉じると、アルカディアが静かに呼びかけてきた。
《マスター》
(何?)
《本日は「所有者と作成者を混同してはならない」という学びでございました》
(そうだな)
《その点につきまして、旧ノートには興味深い事例がございます》
(今日はどんな地獄だ)
《「我が魔剣・黒哭終焉剣」》
(名前からもう嫌だ)
《説明欄には「太古の魔神が己の骨より鍛え、七千年後に俺が発見した」とございます》
(うん)
《三頁後には「俺が十五歳の誕生日に自ら鍛え上げた唯一無二の魔剣」とございます》
(作成者変わってる!)
《さらに別冊では「父より受け継ぎし一族秘伝の魔剣」と――》
(所蔵経路まで変わった!)
《歴史資料としては信頼性に重大な問題がございます》
(歴史資料として扱うな!)
シュウは頭を抱えた。
エリオットがまた笑いを堪えている。
「今日は?」
「同じ剣を、魔神が作ったり俺が作ったり父親から受け継いだりしてた」
「どれが本当なの?」
「全部嘘だよ!」
「それならよかった」
「何が!?」
笑いながら答えたエリオットに、シュウも結局笑ってしまった。
現実の資料では、そんなふうに好き勝手に設定を書き換えるわけにはいかない。
誰が作ったのか。
誰が持っていたのか。
いつ写されたのか。
何を元にしたのか。
分からないなら、分からないと残す。
フェルド・ミールという名前を見つけたからといって、彼を筆写者にしてはいけない。
北務帳という名前を見つけたからといって、すべての北部記録を一冊へまとめてもいけない。
前役家という言葉を見つけたからといって、ハーゼン家の名をそこへ勝手に入れてはいけない。
机の上の北方調査ノートには、答えよりも「未確認」という言葉が増えている。
それでもシュウは、その頁を以前より頼もしく感じていた。
分からないことを正しく分けられれば、少なくとも自分で作った答えに迷い込まずに済む。
次に確かめるべきことも、少しずつ見える。
シュウは明日の教科書を揃え、魔導灯を落とした。
王都大学史料庫に残るというフェルド・ミール旧蔵の写しは、今夜もそこにある。
だから、明日すぐ取りに行く必要はない。
まずは学院で学べることを学び、聞けることを聞く。
その先で本当に必要になったなら、そのとき初めて、次の資料へ手を伸ばせばよかった。




