第57話 同じ記録を二度見つけても、証拠が二つになるわけではありません
翌朝。
窓から差し込む光で目を覚ましたシュウは、寝台の上でしばらく天井を眺めていた。
昨日見つけた「北務帳」という名称が、頭の中にはまだ残っている。
旧セルド王領北部の森林役務に関する記録。
推定年代はおよそ百八十年前から百五十年前。
北方地方史料整理室の旧目録に記載があり、現在は原本の所在が分からない。
しかも、後世の研究書では一冊の帳面ではなく、複数の記録をまとめた「記録群」として扱われた可能性まで指摘されていた。
それだけなら、まだよかった。
問題は、研究書に引用されていた内容である。
『北二、春見。白材四、導一。前年より保ち弱し。継ぎ前に替う。』
それは、すでに『ローデル北部役務抄』で確認していた北部第二旧所の記録と、かなり内容が重なっていた。
別の引用にあった、
『北一、冬備え。灯二、油一。戸と雨除けを改む。』
という記述も同じだった。
こちらも『ローデル北部役務抄』にある北部第一旧所の冬前準備と強く重なる。
二つの研究書。
二つの記録。
そう数えたくなる。
しかし、その二冊が同じ北方地方史料整理室の目録や転記を元にしているなら、元の証拠は一つかもしれない。
(資料が増えたんじゃなくて、同じ資料を別の窓から見てるだけかもしれないんだよな)
《その可能性は高く見えますが、現時点では引用系統そのものが確定しておりません》
(うん)
アルカディアの返答を聞きながら、シュウは上半身を起こした。
向かいの寝台では、エリオットも起きたところだった。
「おはよう」
「おはよう」
「今日は朝から考え込んでる?」
「ちょっとだけ」
「北務帳?」
「昨日の引用元」
シュウは寝台から降り、制服へ着替え始める。
「『ローデル北部役務抄』と『旧王領森林管理記録集成』で似た記録を見つけたけど、同じ元資料を使ってるなら、二つの証拠にはならないだろ?」
「昨日ユリウスが言ってたやつだね」
「うん。だから、次に見るなら北務帳そのものより、どこから引用したのかを整理した方がいいのかなって」
エリオットは少し考えたあと、制服の襟を整えながら答えた。
「でも、それって今日やるの?」
「まだ決めてない」
「百パーセント維持」
「結局毎日判定するんじゃん!」
「継続評価だから」
「便利な言葉を覚えたな……」
エリオットが笑う。
シュウも苦笑しながら鞄を持ち上げた。
少なくとも、朝食前から北方調査ノートを開くつもりはなかった。
◇
午前の合同魔法理論は、グレイ・ハルバートの授業だった。
教室の前方には三台の簡易観測器が並べられている。
しかし今日は実際に魔力を流すわけではなく、それぞれの器具から得られた記録をどう読むかが主題らしい。
グレイは黒板へ三本の線を描いた。
一番上には、
『術者感覚』
その下には、
『供給量記録』
最後に、
『属性反応記録』
と書く。
「前回、何を開始点として測るかによって結果の意味が変わると説明しました。今日は、その続きです」
シュウはノートを開いた。
「複数の観測方法で似た変化が出た場合、皆さんはどう考えますか?」
何人かが手を挙げる。
「本当に変化が起きた可能性が高い?」
「正しい結果だと思います」
「観測器の故障ではない可能性が高いです」
グレイはそれぞれの答えを聞いたあと、頷いた。
「方向としては間違っていません。ただし、もう一つ確認すべきことがあります」
黒板へ大きく、
『独立しているか』
と書く。
「二つの観測結果が一致したとしても、その二つが同じ入力や同じ処理を経ているなら、完全に独立した証拠とは言えません」
シュウの筆が僅かに止まった。
(今日もか)
《昨日の調査内容とよく似ておりますね》
(本当に最近多いな)
グレイは簡単な例を示した。
一つの魔力供給線から分岐させ、二台の表示器へ接続した場合。
二台とも同じ揺れを示したとしても、供給線そのものに揺れがあれば両方へ同じ変化が現れる。
一方、供給系統も検出方法も異なる二種類の器具で同時に似た変化を確認できたなら、観測対象そのものに変化が起きた可能性は高くなる。
「つまり、結果の数だけを数えてはいけません」
グレイは黒板の二本の線を一本の根へ繋いだ。
「同じ原因から生じた複数の結果なのか、異なる方法で同じ現象を捉えたのか。そこを分けて考えます」
シュウは思わず昨日の資料を頭の中へ並べた。
『ローデル北部役務抄』。
『旧王領森林管理記録集成』。
どちらにも似た北部第二旧所の記録がある。
だが、両方が北方地方史料整理室に残されていた同じ転記を元にしているなら、二冊あること自体は証拠の独立性を高めない。
(魔法でも歴史でも同じなんだな)
もちろん、対象はまったく違う。
だから安易に同一視するつもりはない。
それでも「結果の数ではなく、どこから来たかを見る」という考え方は共通していた。
グレイは続ける。
「逆に、一つの観測結果しかなくても、その器具が何を測り、どのような誤差を持つかが明確なら、有用な情報になります。数が多ければ正しい、少なければ弱い、と単純には考えないことです」
その言葉もシュウは書き留めた。
◇
授業の後半では、架空の観測記録を使った演習が行われた。
三つの測定結果が配られ、そのうち二つは同じ供給線を共有し、一つだけ独立した供給系統から取られている。
学生たちは二人一組で、どこまで言えるかを整理する。
「これ、最初に見たら三台とも同じところで揺れてるから、本物の変化って言いたくなるな」
エリオットが紙を見ながら言った。
「でも一番と二番は同じ供給線だから、供給側の揺れでも両方動く」
「三番は独立してる」
「うん。ただ、三番だけ反応の始まりが少し遅い」
「検出方法も違うから?」
「可能性はあるけど、それだけで理由は決められない」
エリオットが顔を上げる。
「最近のシュウ、本当にすぐ決めなくなったね」
「それ褒めてる?」
「褒めてる」
「なら受け取っとく」
二人で記録をまとめていると、グレイが近くを通った。
「結論は?」
シュウが答える。
「三つとも似た変化を示していますが、一番と二番は供給線が共通なので、独立した二証拠とは扱いません。三番も似た変化がありますが、検出方式が違って反応時刻も少しずれているので、同じ現象を捉えた可能性はあるものの、これだけでは確定できません」
「いいでしょう」
グレイは頷いた。
「では次に何を確認しますか?」
エリオットが少し考える。
「一番と二番の共通供給線だけを別に測る?」
「一つの方法ですね」
シュウも続けた。
「三番の検出器が、同じ入力に対してどのくらい遅れて反応するかも先に確認したいです」
「それも必要です」
グレイは二人の答案へ短い印を付け、次の組へ移った。
シュウはその背中を見ながら、漆黒魔力のことを考えた。
次の実験日は決まっていない。
グレイとセレナが器具側を先に検証していることも、シュウは知らない。
ただ、もし次に研究するなら、以前より「何を見るのか」を細かく決められそうだった。
◇
昼休み。
食堂へ向かう途中、ユリウスがシュウの隣へ並んだ。
「今日、図書館行く?」
「少し考えてる」
「北務帳?」
「というより引用元かな」
ユリウスはすぐに意図を理解した。
「昨日の二冊が、どこから記録を取ったか?」
「うん。同じ記録が二冊に載ってても、同じ元からなら証拠は一つだろ。今日のグレイ先生の授業でも似た話やったし」
「僕もそこは気になってた」
「じゃあ昼に整理して、必要なら放課後?」
「それでいい」
五人で席へ着くと、ダンが今日の料理を確認してから嬉しそうな顔をした。
「肉多い」
「最初に言うことがそれ?」
セシリアが笑う。
「大事だろ」
「ダンらしいですけど」
シュウも笑いながら食事を始めた。
北方調査の話を始めたのは、ある程度食べ進めてからだった。
「昨日の二冊の研究書、同じ記録が載ってたって言ってたよな?」
ダンが確認する。
「かなり近い内容が載ってた」
「それなら証拠増えたんじゃないの?」
「それが、増えたとは限らないんだ」
シュウはパンを皿へ置いた。
「例えば、ダンが『昨日シュウが転んだ』ってエリオットから聞いたとするだろ?」
「うん」
「それをダンがセシリアに話して、セシリアがユリウスに話したら、三人が同じことを言ってることになる」
「でも元はエリオット一人?」
「そう。三人が別々に俺が転ぶところを見たわけじゃない」
「なるほど」
ダンはすぐ納得した。
「じゃあ研究書二冊に同じことが書いてあっても、同じ古い帳面から写してるなら、元は一個ってことか」
「そういうこと」
セシリアも頷く。
「逆に、それぞれ別の記録を見ていて、両方に同じ出来事が書かれていたなら、意味が変わるんですね」
「うん。ただ、その場合でも片方がもう片方を写してないかとか、同じ報告書を元にしてないかとかは見る必要があると思う」
「どんどん大変になるな」
ダンが眉を寄せた。
ユリウスが静かに答える。
「だから全部調べる必要はないよ。何を確かめたいかによる」
「昨日の北務帳の場合は?」
「まず、二冊が同じ元記録を使っているかどうか」
シュウが答えた。
「それが分かれば、北部第一旧所や第二旧所の記録を『別々の証拠が一致した』とは数えなくて済む」
「前役家の正体には近づく?」
「今日は近づかないと思う」
「それでも調べるんだ?」
「間違えて数えないために必要だから」
ダンは少し考えたあと、納得したように頷いた。
「地味だけど大事ってやつか」
「たぶん」
「俺なら絶対途中で飽きる」
「知ってる」
「即答すんなよ!」
五人の間に笑いが起きた。
◇
放課後。
シュウ、エリオット、ユリウスの三人は図書館へ向かった。
今日も新しい資料を大量に探すつもりはない。
確認するのは、昨日読んだ二冊の研究書の引用情報と参考文献。
それだけだ。
受付へ行くと、マティアス・レンが書架整理用の札をまとめていた。
「こんにちは」
「こんにちは。昨日の続きですか?」
「はい。でも今日は北務帳の中身じゃなくて、昨日読んだ研究書が何を元にしてるか確認したいんです」
マティアスは少しだけ目を細めた。
「引用系統ですか」
「同じ記録が二冊に載ってたんですけど、同じ元資料なら二つの証拠として扱えないと思って」
「良い確認だと思います」
マティアスは昨日の貸出記録を確認した。
「『セルド北部旧役務の変遷』と『旧王領森林管理記録集成』ですね」
「はい」
「前者は一般書架、後者も同じです。参考文献欄まで確認するのであれば、関連する旧目録名が出るかもしれません。ただし、そこからさらに資料を増やすかどうかは、一度整理してからの方がいいでしょう」
「今日は二冊の中だけにします」
シュウが答えると、マティアスは頷いた。
「では、どうぞ」
◇
三人は昨日と同じ大机へ座った。
最初に開いたのは、約七十年前の『セルド北部旧役務の変遷』だった。
昨日読んだ北務帳の説明では、
『「北務帳」と称される記録群の引用には、巡検・資材受渡・保持部補修の記載が併存する』
とされていた。
今日は本文ではなく、その文に付けられた注記を見る。
「注番号、ある」
ユリウスが頁の下部を指した。
三人で確認する。
『北方地方史料整理室編『旧セルド北部資料仮目録』所載転記、および同整理室内部整理票を参照。原本は編纂時すでに一部所在未確認。』
シュウはゆっくり読み直した。
「この本を書いた時点で、もう原本が全部あったわけじゃない」
「そうみたいだね」
ユリウスが答える。
「しかも使ってるのは仮目録と内部整理票」
「昨日の『旧王領森林管理記録集成』は?」
エリオットが尋ねる。
三人はもう一冊を開いた。
北二の引用。
『北二、春見。白材四、導一。前年より保ち弱し。継ぎ前に替う。』
その注記には、
『北方地方史料整理室旧目録転記。整理番号欠。原本未見。』
とある。
さらに巻末の参考資料一覧を確認すると、そこには、
『北方地方史料整理室『旧セルド北部資料仮目録』』
の名前があった。
三人はしばらく黙った。
「同じ仮目録」
エリオットが言う。
「少なくとも共通の資料を使ってる」
シュウは頷いた。
「でも前の本は内部整理票も見てる。完全に同じ情報だけを使ってるとは限らない」
「そうだね」
ユリウスが頁を見比べる。
「ただ、北一と北二の短い引用については、どっちも仮目録由来の可能性が高い」
「なら、この二冊を独立した証拠として数えない方がいいな」
「僕もそう思う」
シュウはノートへ記録した。
『引用系統確認:
『セルド北部旧役務の変遷』→北方地方史料整理室『旧セルド北部資料仮目録』+内部整理票。
『旧王領森林管理記録集成』→同『旧セルド北部資料仮目録』を参考資料に含む。北一/北二引用は旧目録転記と注記。』
『北一/北二の類似記録について、両研究書は少なくとも共通の仮目録系統を参照している可能性が高い。独立した二証拠とは扱わない。』
書いたあと、シュウは少し考える。
「じゃあ『ローデル北部役務抄』は?」
「そこだね」
ユリウスが頷く。
昨日まで確認した二冊が同じ仮目録系統なのは分かった。
しかし、『ローデル北部役務抄』が何を元に編纂されたのかは、まだ確認していない。
「今日そこまで見る?」
エリオットが尋ねた。
シュウはすぐに答えなかった。
目的は、同じ記録を重複して証拠扱いしないこと。
『ローデル北部役務抄』にも同じ北一、北二に相当する内容がある以上、その出典を確認することは今日の目的から外れていない。
「出典欄だけ確認したい」
「僕も賛成」
ユリウスが答えた。
「じゃあ、それで終わり?」
エリオットが念を押す。
「うん。それ以上は増やさない」
「百パーセント維持」
「今日は早いな」
◇
マティアスへ事情を説明し、『ローデル北部役務抄』を再び閲覧する。
三人は本文を読み直さず、巻頭の編纂説明と巻末の出典一覧だけを確認した。
そこで分かったのは、この資料自体も後世の編集物であり、複数の資料から北部役務に関する部分を抜き出してまとめたものだということだった。
出典にはいくつかの資料群が並んでいる。
地方役所の写し。
個人研究者の採録。
古い施設記録の断片。
そして、
『北方地方史料整理室旧目録転記』
の文字もあった。
「やっぱりある」
エリオットが小声で言う。
しかしシュウは、すぐにその先を確認した。
『ローデル北部役務抄』では各記録に出典記号が付けられている。
北部第一旧所の冬前準備。
北部第二旧所の白材と導線材。
その二つの出典記号を巻末で照合する。
「……同じだ」
ユリウスが言った。
どちらも、
『北方地方史料整理室旧目録転記』
を示していた。
三人は顔を見合わせた。
「じゃあ、昨日見つけた北一と北二は……」
エリオットが言う。
「少なくとも今見えてる範囲では、全部同じ旧目録系統から来てる可能性がかなり高い」
シュウは答えた。
『ローデル北部役務抄』。
『セルド北部旧役務の変遷』。
『旧王領森林管理記録集成』。
三つの別々の本に、似た北部記録が現れている。
だが、その根元には北方地方史料整理室の『旧セルド北部資料仮目録』あるいは関連する旧目録転記がある可能性が高い。
三冊に増えたから、三つの証拠ではない。
むしろ同じ古い記録が、後世の複数研究へ枝分かれして残っていると考えた方が自然だった。
「今日のグレイ先生の授業、そのままだな」
エリオットが言った。
「表示器が三つあっても、供給線が同じなら三つの独立した変化じゃない」
「歴史資料と魔力観測を完全に同じ扱いにはできないけど、考え方は似てるね」
ユリウスが補足する。
「うん」
シュウはノートへ図を描いた。
上に、
『北方地方史料整理室 旧目録/仮目録系統』
と書く。
そこから三本の線を伸ばす。
『ローデル北部役務抄』
『セルド北部旧役務の変遷』
『旧王領森林管理記録集成』
さらに、それぞれに確認できた引用や要約を繋いだ。
北一、冬備え。
北二、白材四、導一、保持弱化、継ぎ前交換。
見た目は三方向へ広がっている。
しかし根元は一つかもしれない。
「これなら分かりやすい」
エリオットが図を見る。
「ただ、『旧目録』と『旧セルド北部資料仮目録』が完全に同じものかも確認できてない」
シュウはその点も書き加えた。
『注意:「旧目録」「旧セルド北部資料仮目録」の呼称関係未確定。同一冊/改訂版/関連目録の可能性あり。』
「そこまで分ける?」
エリオットが苦笑する。
「昨日、同じ名前でも別物って習ったから。逆に名前が少し違うから別物とも限らない」
「なるほど」
ユリウスは少し嬉しそうに頷いた。
◇
そこで終わる予定だった。
しかし、資料を閉じる直前、ユリウスが出典一覧の一か所で指を止めた。
「シュウ」
「何?」
「昨日の第三旧所」
「秋見分の?」
「うん。『保持の落ち、例年より早し。現場のみで定めず、北務帳へ移す』の記録」
「それが?」
「出典記号が違う」
シュウはすぐ該当箇所を確認した。
確かに違う。
北一と北二の記録は北方地方史料整理室旧目録転記。
しかし第三旧所の秋見分記録には、別の記号が付いていた。
巻末で照合する。
『個人採録資料――フェルド・ミール旧蔵写し。原本所在不明。』
三人の空気が変わった。
「フェルド・ミール……」
シュウはその名前を知っている。
過去の資料整理で出てきた人物名だ。
ただし、今ここでその人物について新しい背景が分かったわけではない。
「旧目録系統じゃない?」
エリオットが尋ねる。
「この出典表だけ見るなら、第三旧所の秋見分は別系統」
シュウは答えた。
「でも、フェルド・ミールの写しが元々北方地方史料整理室の資料を写した可能性もある」
ユリウスが言う。
「逆に、整理室側がフェルド・ミールの写しを取り込んだ可能性もある」
「うん。だから独立ってまだ言えない」
シュウは高揚しそうになる気持ちを抑えた。
ただ、一つ重要な違いは見つかった。
昨日まで「ローデル北部役務抄」の記録を、何となく同じ出典群として見ていた。
実際には、北部第一旧所と第二旧所の記録と、第三旧所の秋見分記録では、現在確認できる引用経路が異なる。
「これ、北務帳を考えるなら大事かも」
ユリウスが言った。
「第三旧所の記録だけは、『北務帳へ移す』って当時の文の中に出てくる」
「うん」
「後世の研究書が記録群を『北務帳』って呼んでるのとは別に、少なくともフェルド・ミール旧蔵写し系統では、記録本文の中に北務帳って語があった」
「そうなる」
シュウは慎重に言葉を選ぶ。
「ただし、その写しがどれくらい原文を保ってるかは分からない。フェルド・ミールが書き写すときに名称を整えた可能性だって、今の段階では消せない」
「でも昨日よりは整理できたね」
エリオットが言った。
「うん。後世の研究者が勝手に全部を北務帳って呼んだだけ、とは言い切れなくなった。少なくとも第三旧所の記録系統では、本文中に『北務帳へ移す』がある」
それ以上は言わない。
北務帳が当時から存在した正式帳簿名だった。
そこまでは確定していない。
通称かもしれない。
写しの段階で整えられた名称かもしれない。
それでも、「北務帳」という語がどこで現れているのかを分けられたことには意味があった。
シュウは新しい図を加えた。
『第三旧所秋見分記録
→ 現確認出典:フェルド・ミール旧蔵写し
→ 本文中「北務帳へ移す」
→ 旧目録系統との関係未確認』
その横に、
『北一/北二
→ 北方地方史料整理室旧目録系統
→ 後世研究で「北務帳断片」と分類
→ 当時本文中で自称「北務帳」かは未確認』
と書く。
「これ、かなり違うな」
エリオットが図を見ながら言った。
「うん。昨日までは全部まとめて『北務帳の記録』みたいに見えてた」
ユリウスが静かに答える。
「今日分けられたのは大きいと思う」
◇
そのとき、シュウの中に次の疑問が浮かんだ。
フェルド・ミール旧蔵写しとは何なのか。
いつ作られたのか。
どこから写されたのか。
他に第三旧所の記録が残っているのか。
すぐに調べたい。
索引を開けば何か見つかるかもしれない。
シュウが出典一覧を見つめていると、エリオットが何も言わずこちらを見た。
止める言葉はない。
百パーセントになったから、いちいち止めない。
昨日そう言っていた。
だからこそ、シュウは自分で考えた。
(今日の目的は引用系統の確認)
フェルド・ミールの調査を始めれば、そこから新しい資料へ広がる。
今見つけた違いを整理する前に進む必要はない。
「今日は終わろう」
シュウが言った。
エリオットが笑う。
「うん」
「何も言わないんだな」
「言わなくても止まったから」
「……百パーセントってそういうことか」
「そういうこと」
ユリウスが二人を見比べる。
「僕、最初はただの冗談だと思ってた」
「俺もだよ」
「僕も最初は冗談だった」
「エリオット本人まで!?」
三人は声を抑えて笑った。
◇
資料を返却するとき、シュウはマティアスへ一つだけ確認した。
「フェルド・ミール旧蔵写しっていう出典があったんですけど、今日は調べません。ただ、これは学院で検索できる名前ですか?」
「人名としてですか、資料群としてですか?」
その返答だけで、シュウは一瞬止まった。
「……そこも分かれてるんですか」
「フェルド・ミールという人物に関する登録と、『フェルド・ミール旧蔵資料』として後世にまとめられた整理単位は別です」
「なるほど」
「もし次回確認するのであれば、どちらを知りたいか決めてからの方がよいでしょう」
「分かりました」
今日はそれ以上聞かなかった。
人を調べたいのか。
写しの来歴を調べたいのか。
そこも分ける必要がある。
◇
図書館を出ると、夕方の空はまだ明るかった。
雨上がりの湿気はかなり抜け、風が心地よい。
ユリウスは第二男子寮へ向かう分岐まで一緒に歩いた。
「次にフェルド・ミールを見るなら、僕は人物より写しの来歴が先だと思う」
別れ際、ユリウスが言った。
「俺も今のところそう思う」
「人物の経歴を調べても、どの資料をどこから写したか分からなかったら意味が薄いから」
「うん。でも次にそれをやるかはまだ決めない」
「分かった」
ユリウスはそこで手を上げた。
「また明日」
「また明日」
彼と別れ、シュウとエリオットは第一男子寮へ向かう。
「今日は新しい資料、増やさなかったね」
エリオットが言う。
「三冊使ったけど、全部昨日までに読んだやつだからな」
「フェルド・ミールも検索しなかった」
「気にはなるけど」
「それでいいんじゃない?」
「うん」
少し前なら、その「気になる」が行動へ直結していた。
今は間に一つ、考える時間が入る。
その違いは、自分でも分かるようになってきた。
◇
夕食では、ダンが朝の実技について熱心に話していた。
「最後の一回、かなり綺麗に下げられたんだよ」
「見てませんでした」
セシリアが正直に答える。
「そこは見ててくれよ!」
「私も自分の課題がありましたから」
「シュウは?」
「俺も見てない」
「エリオット!」
「見てない」
「誰も俺の成長を見てない!」
ダンが大げさに肩を落とす。
ユリウスが淡々と食事をしながら言った。
「ミレイ先生は見てたんじゃない?」
「……そういえば最後に丸もらった」
「ならいいだろ」
「友達にも見てほしいんだよ!」
その言葉に、セシリアが少し笑う。
「では次は余裕があれば見ます」
「絶対だぞ」
「自分の課題が終わっていれば、です」
「条件付き!」
食卓に笑いが広がった。
北務帳も、フェルド・ミールも、前役家も、その時間には話題にならなかった。
◇
夜。
三百十七号室へ戻ったシュウは、今日確認したことを北方調査ノートへ整理した。
まず、引用系統。
『北一・北二系統』
『北方地方史料整理室「旧目録/旧セルド北部資料仮目録」系統
↓
『ローデル北部役務抄』
『セルド北部旧役務の変遷』
『旧王領森林管理記録集成』
※各書の参照範囲・転記段階は完全一致未確認。
※複数書に同内容が存在しても、独立証拠複数とは扱わない。』
次に、第三旧所。
『第三旧所秋見分系統』
『フェルド・ミール旧蔵写し
↓
『ローデル北部役務抄』
本文:「保持の落ち、例年より早し。現場のみで定めず、北務帳へ移す。再見は三日後。」』
『現時点で北一/北二の旧目録系統とは出典表示が異なる。
ただし、
・フェルド・ミール写しの原資料不明
・旧目録系統との相互関係不明
・写し年代不明
・「北務帳」の語が原資料そのままか未確認
→ 独立系統とはまだ確定しない。』
そして、その下へ今日もっとも重要だと思ったことを書く。
『「北務帳」という語の現れ方を分ける。』
『A:第三旧所記録本文中の「北務帳へ移す」。
B:後世研究が複数の北部記録を「北務帳」「北務帳断片」と分類・呼称する例。』
『AとBが同じ記録体系を指すか未確定。』
シュウは筆を置き、少し離れて頁を眺めた。
(昨日より、むしろ細かく分かれたな)
《はい。しかし混乱が増したのではなく、混同していた可能性のあるものを分離できたと考えるべきでしょう》
(そうだな)
北務帳という一つの名前の下へ、何でも押し込む必要はない。
家資料の「別記」も同じだ。
名前が分からないからといって、北務帳という既知の名称を当てはめる必要はない。
最後に今後の候補を書く。
『今後の候補:
・フェルド・ミール旧蔵写しの来歴確認。ただし人物伝より写しの出典・年代・整理経路を優先。
・北方地方史料整理室「旧目録」と「旧セルド北部資料仮目録」の関係確認。
・『旧ローデル林区支給台帳・残巻』申請目的は従来通り。北務帳確認のための資料へ目的変更しない。
・『北部保持材研究録』第七章以降は未読のまま。別目的として読む時期を決める。』
支給台帳については、まだ申請していない。
教師の署名が必要な閉架資料である以上、「何となく役に立ちそうだから」ではなく、確認目的を固めてから頼む方針も変わらない。
その主目的は、百六十八年ほど前から百五十七年ほど前の残存断片に、北部旧所や保持部に関係する支給・維持が続いているかを見ることだ。
北務帳が気になるからといって、申請目的まで途中で変えない。
(ここは別)
《適切かと》
シュウはノートを閉じた。
「終わった?」
エリオットが向かいから尋ねる。
「終わった」
「今日は何が分かったの?」
「同じ記録を三冊で見つけても、元が同じなら三個の証拠じゃないってこと」
「授業と同じだね」
「本当に同じタイミングだった」
「じゃあ、フェルド・ミールは?」
「今日は調べてない」
「明日?」
「決めてない」
「百パーセント維持」
「そのたびに言うの?」
「たまに」
「絶対毎日言うだろ」
エリオットは笑った。
◇
就寝前。
シュウが魔導灯を落とそうとしたところで、アルカディアが静かに声を響かせた。
《マスター》
(今日は何だよ)
《同じ記録が複数存在しても、元が一つなら独立した証拠ではない、という本日の学びについて》
(うん)
《かつてのマスターは、その逆を実践されております》
(嫌な予感しかしない)
《旧ノート第二冊、第三冊、第五冊、第六冊に、それぞれ「俺は世界に一人しか存在しない選ばれし者」と記されております》
シュウは数秒黙った。
(……それは四つの証拠?)
《いいえ。すべて同一人物であるマスターが記述されておりますので、証言者は一名です》
(冷静に分析するなよ!)
《さらに第二冊では「唯一」、第三冊では「最後の一人」、第五冊では「始まりにして終わり」、第六冊では「選ばれし十三人の筆頭」となっております》
(待て、最後だけ一人じゃなくなってる!)
《設定変更の痕跡かと》
(証言の信頼性まで落ちた!)
シュウは額を押さえた。
向かいのエリオットが、また始まったという顔でこちらを見る。
「今日は何?」
「同じ人間が四冊のノートで自分を特別だって言ってても、証言者は一人だって話」
「シュウだよね?」
「中学生の俺です」
「しかも内容が途中で変わってる」
「それは証拠として弱そうだね」
「やめてくれ。今の俺もそう思う」
エリオットは笑いながら寝台へ横になった。
シュウも魔導灯を落とす。
部屋が暗くなり、窓の外から月明かりだけが薄く差し込んだ。
同じ記録が三冊に残っていても、三つの独立した証拠とは限らない。
反対に、出典表示が違うからといって、完全に別系統だともまだ言えない。
今日分かったのは、答えそのものではなく、資料同士の距離だった。
北方地方史料整理室の旧目録。
フェルド・ミール旧蔵写し。
後世の研究書。
ローデル北部役務抄。
それぞれを一本の線へ無理に繋げず、どこまで同じ根を持つのかを確認していく。
そして、その作業を進めたところで、前役家がハーゼン家だと決まるわけではない。
アルヴェイン家の「別記」が北務帳だと決まるわけでもない。
北方旧務の全体像が分かるわけでもない。
だからこそ、焦らなくていい。
シュウは閉じた目の裏に今日描いた資料系統図を一度だけ思い浮かべたあと、今夜はその続きを追わずに眠りへ落ちていった。




