第56話 北務帳という名前は、索引の中に一つだけではありませんでした
翌朝、シュウが目を覚ましたとき、三百十七号室の窓から差し込む光は久しぶりに明るかった。
昨日まで空を覆っていた雲は夜のうちにかなり薄くなったらしく、窓の外には淡い青空が広がっている。中庭の石畳にはまだ乾ききっていない場所が残り、朝日に照らされた水溜まりが細長く光っていた。
シュウは寝台から起き上がり、身体を伸ばしながら向かいを見る。
エリオットはすでに起きており、制服の上着へ腕を通しているところだった。
「おはよう」
「おはよう」
シュウも着替えを始めた。
昨日、エリオットが冗談半分で始めた信用度は、とうとう百パーセントへ到達した。
もっとも、百になったから今後何をしても信用されるわけではなく、無茶をすれば普通に下がるらしい。その妙に現実的な制度を思い返すと、少しだけ笑えてくる。
「今日はどうするの?」
エリオットが尋ねた。
「何が?」
「北務帳」
「朝一番に聞く?」
「百パーセントになったから」
「関係あるのか、それ」
「自分で決めるって信用してるから、確認してるだけ」
言われてみれば、以前とは少し違う。
エリオットは「調べるな」と止めようとしているわけではない。
シュウ自身がどう考えているのかを聞いている。
「授業が終わってから、図書館で索引だけ確認してみようかなとは思ってる」
「索引だけ?」
「昨日整理した条件に合う資料があるか見る。名前が同じだけなら追わない」
エリオットは頷いた。
「了解」
「信用度は?」
「今日は測らない」
「百になった途端に制度終了!?」
「継続評価だから」
「昨日と言ってること違わない?」
エリオットは笑って誤魔化した。
◇
午前の授業は、ミレイ・アスターによる魔力制御実技だった。
前日の雨で屋外訓練場の一部がぬかるんでいるため、今日は屋内実技室を使用する。石造りの広い室内には複数の訓練台が並び、壁際には練習用の魔力標や安全用の防護術式が設置されていた。
「今日は強い魔法を使いません」
ミレイは学生たちを見回しながら説明した。
「始める、一定量を保つ、少し変える、元へ戻す、止める。この一連の制御を途切れさせず行ってください。出力の高さではなく、変化を自分で把握できているかを見ます」
シュウは以前にも似た訓練を受けている。
魔力を出すことより、止めること。
強くすることより、自分が今どれだけ流しているか理解すること。
学院へ入ってから繰り返し教えられてきた考え方だった。
今日の課題は、小さな魔導灯へ無属性魔力を送り、明るさを三段階で変化させるものだった。
「シュウ・アルヴェイン君、エリオット・ファレン君。二人で一台を使ってください」
「はい」
シュウたちは指定された訓練台へ移動した。
卓上には掌ほどの透明な魔導灯と、供給量を見るための簡易目盛りがある。
「どっちから?」
「シュウでいいよ」
「分かった」
シュウは魔導灯の供給部へ手を添えた。
最初は弱く。
次に少し上げる。
そこで保ち、さらにもう一段階だけ上げる。
再び中程度へ戻し、最後は急に切らず、供給量を滑らかに落として停止する。
魔導灯の光が段階に応じて変化し、最後には静かに消えた。
「前より止め方が自然になったね」
エリオットが目盛りを確認する。
「グレイ先生に何回も言われたからな」
「始める前から終わりまで考えろ、だっけ」
「うん」
次はエリオットが行う。
水属性ではなく無属性魔力だけを使う課題なので、彼も落ち着いている。昨日の魔法理論では属性変換開始時に供給量が少し上がる傾向を指摘されていたが、今日は変換そのものを行わないため、目盛りの揺れは小さい。
巡回してきたミレイが二人の記録を見る。
「アルヴェイン君は停止直前の制御が安定してきましたね。以前より最後まで意識が残っています」
「ありがとうございます」
「ファレン君も今日は安定しています。ただ、昨日指摘された変換開始時の癖とは別の課題ですから、これだけで改善したとは判断しないように」
「はい」
エリオットは真面目に頷いた。
ミレイは次の組へ移動する。
「先生たち、ちゃんと分けるよね」
エリオットが小声で言った。
「何を?」
「昨日の水属性の揺れと、今日の無属性の安定。今日できたから昨日の問題も直った、とは言わない」
「ああ」
シュウは目盛りを見ながら頷いた。
別の条件で得た結果を、そのまま同じ問題の答えにしない。
歴史資料でも魔法でも、最近は似たようなことを何度も学んでいる気がする。
(俺が何でも繋げたがるから、余計そう感じるのかな)
《マスターには関連性を見いだす能力がおありです》
(褒めてる?)
《同時に、関連性を見いだしすぎる傾向もございます》
(やっぱり半分刺してきた)
アルカディアの指摘は否定できなかった。
◇
実技後、ダンが自分の訓練台からやってきた。
「シュウ、今日かなり安定してたな」
「ダンも」
「俺は上げるのは余裕なんだけど、下げるときに一回落としすぎた」
「見てた」
「見られてた!」
ダンは頭を掻きながら笑う。
彼は火と土の魔力が強く、出力を上げることには比較的苦労しない。その一方、細かな調整や停止については学院へ入ってから意識して訓練している。
「でも前より良くなってたよ」
エリオットが言う。
「だろ? 前なら落としすぎたあと、そのまま上げ直してまた行き過ぎてたからな」
「それ、自分で言う?」
「改善してる証拠だろ」
少し離れた場所ではセシリアも訓練を終え、教師から何か助言を受けている。
ユリウスは別の台で風属性への変換課題を確認していた。
五人がいつも同じ課題を、同じ場所で、同じ速度で進めるわけではない。
それでも授業後や昼食時には自然と集まる。
シュウは最近、その距離感を心地よいと感じるようになっていた。
◇
昼休み。
五人は食堂の中央寄りの席へ座った。
今日は天気が回復したためか窓が大きく開けられており、外から乾き始めた土と草の匂いが入ってくる。午前中の実技を終えた学生たちの声があちこちから響き、昨日より食堂全体が明るく感じられた。
「で、今日は図書館?」
ダンが料理を口へ運びながら尋ねる。
「授業終わったら、少し」
「やっぱり行くんじゃん」
「昨日行かなかっただろ」
「一日だけじゃん」
「十分だよ」
シュウが反論すると、セシリアが笑った。
「今日は何を調べるんですか?」
「北務帳って名前の資料が索引にあるかどうか。ただ、同じ名前があっても、それだけでは追わない」
「昨日の授業ですね」
「うん」
ユリウスはすぐ意図を理解した。
「記録年代、対象地点、記録者、内容が分かる索引情報だけ先に見る?」
「そうしたい。資料そのものを請求するかは、そのあと決める」
「僕も行っていい?」
「もちろん」
エリオットもパンをちぎりながら言う。
「僕も行く」
「監視じゃないんだよな?」
「百パーセントだから監視はしない」
「その言い方だと前まで監視だったみたいじゃん」
「半分くらいは」
「半分あったの!?」
ダンが声を上げて笑う。
「エリオット大変だな」
「同室だからね」
「便利だな、その言葉」
シュウが言うと、今度はセシリアが肩を揺らした。
そのまましばらく授業や実技の話が続き、北の話だけで昼休みが終わることはなかった。
◇
放課後、シュウ、エリオット、ユリウスの三人は図書館へ向かった。
雨上がりの学院内は昨日とはまるで違い、石畳の大半はすでに乾いている。建物の影だけに濃い湿りが残り、風が吹くたび木々の枝から遅れて雫が落ちていた。
図書館へ入ると、三人はいつもの閲覧席へ直行せず、受付にいるマティアス・レンへ声を掛けた。
「マティアスさん、少し索引について聞いてもいいですか?」
「もちろんです。何を探していますか?」
「『北務帳』っていう名前です」
マティアスの表情は変わらなかった。
「資料名ですか?」
「そこが分からないんです。昨日読んだ『ローデル北部役務抄』の中に、『北務帳へ移す』という記録があって」
「ああ。名称だけでは資料名か帳簿種別か分からない、ということですね」
「はい」
マティアスは頷き、受付内にある検索用の索引台へ移動した。
「では、まず名称索引を確認しましょう。ただし、学院図書館の索引は王国内の現存資料すべてを網羅しているわけではありません。所蔵資料、複製資料、過去に所在確認された資料、研究書内で言及された資料などが混在しています」
「分かりました」
「また、同じ名称でも別資料として登録されている場合があります。そこは一件ずつ確認してください」
まさに昨日学んだことだった。
三人はマティアスの邪魔にならない位置から索引を見る。
彼が「北務帳」と入力すると、いくつかの項目が表示された。
シュウは思わず身を乗り出しかけ、途中で止まった。
「……一つじゃない」
エリオットが小さく言う。
「三件ありますね」
マティアスが表示を拡大した。
一件目。
『北務帳――旧セルド王領北部森林役務関係記録。原本所在不明。後世研究書内に名称引用あり。推定約百八十~百五十年前。』
二件目。
『北務帳――ラウネ地方北部税務補助帳。約百二十年前。地方税・通行税関連。王都複製資料室所蔵。』
三件目。
『北務帳――北方魔獣討伐隊臨時物資帳の通称。約九十年前。正式名「北方討伐臨時支給記録」。』
「……本当に全然違う」
エリオットが呟く。
「名前だけなら全部北務帳だ」
ユリウスも画面を見つめている。
シュウは最初の項目へ視線を固定した。
旧セルド王領。
北部森林役務。
推定百八十~百五十年前。
ローデル林区が存在した時代と重なる可能性が高い。
他の二件より、明らかに今回の調査対象へ近い。
それでも、シュウはすぐ「これだ」とは言わなかった。
「一件目の詳細、見られますか?」
「索引情報だけなら」
マティアスが項目を開く。
『登録根拠:地方史研究書二点、旧資料目録一点。』
『名称形:「北務帳」「北方務帳」の二表記あり。』
『作成主体:不明。』
『対象地域:旧セルド王領北部、ローデル林区を含む可能性あり。ただし全域か一部か不明。』
『内容:森林役務、巡検、資材、補修等に関する記録と推定。原本未確認。』
『所在:不明。約六十年前の資料目録では北方地方史料整理室の関連目録中に記載。』
三人とも黙った。
北方地方史料整理室。
すでに存在しない機関である。
エルド・マルセルが引用した『旧ローデル北部役務断片』も、約六十年前にはその整理室が所蔵していたとされていた。
「同じところ……」
エリオットが言いかける。
「同じ整理室の目録にあった、まで」
シュウはすぐ訂正した。
「同じ資料だった証拠じゃない」
「うん。分かってる」
マティアスは二人のやり取りを聞きながら、少しだけ口元を緩めた。
「その慎重さは大切ですね。旧整理室は北方地域のさまざまな資料を集めていましたから、同じ目録群に載っているというだけでは直接の関係を示しません」
「その整理室がなくなったあと、資料がどこへ行ったかは分かりますか?」
ユリウスが尋ねる。
「一部は王立北方記録院、一部は地方文書館や大学へ移管されています。ただし、目録と実物が完全に対応していないものもあります。整理途中で別施設へ移った資料、所在不明になった資料、後世に別名で再整理された資料もあります」
シュウは以前聞いた説明を思い出した。
つまり、「北方地方史料整理室にあった」からといって、現在王立北方記録院にあるとは限らない。
「一件目の北務帳そのものは、学院にはないんですね」
「少なくとも原本も複製も登録されていません。名称と引用情報だけです」
「研究書二点は?」
「それなら学院にあります」
三人の視線が揃った。
マティアスはその反応を見てから続ける。
「ただし、どちらも北務帳そのものを全文収録したものではありません。索引情報を見る限り、一部の記述を引用または要約しているだけです」
「それでも見たい」
シュウは言いかけて、少しだけ考え直す。
「……その前に、どんな研究書か教えてもらえますか?」
エリオットが隣で僅かに笑った。
マティアスは二冊の情報を表示する。
一冊目は約七十年前の地方行政史研究。
『セルド北部旧役務の変遷』
もう一冊は約五十五年前の森林施設史研究。
『旧王領森林管理記録集成』
「どちらも一般閲覧できます。ただ、前者は制度変遷が中心、後者は施設と資材記録が中心ですね」
「北務帳の引用箇所だけ確認できますか?」
「索引から頁は分かります」
シュウはユリウスとエリオットを見る。
「今日、そこまで読む?」
「僕はいいよ」
ユリウスが答える。
「ただし二冊全部読む必要はないと思う。北務帳が何として引用されてるかだけ確認しよう」
「僕もそれでいい」
エリオットも同意した。
シュウは頷いた。
「じゃあ、それだけ」
◇
三人はまず『セルド北部旧役務の変遷』を借り、指定された頁を開いた。
七十年ほど前に書かれた研究書で、文章は現代語に近いが、引用部分には古い表現が残っている。
北務帳への言及は短かった。
『旧セルド王領北部の旧役務は、林区再編後も一部が旧来担当者に残されたとみられる。「北務帳」と称される記録群の引用には、巡検・資材受渡・保持部補修の記載が併存する。もっとも、同帳の成立時期および編纂主体は明らかでなく、後世に複数帳を一括して呼んだ可能性も排除できない。』
シュウはゆっくり読み返した。
「記録群……」
「一冊じゃない可能性がある」
ユリウスが言う。
「しかも研究者自身が、後世に複数帳をまとめて北務帳と呼んだ可能性を残してる」
エリオットも該当箇所を確認する。
「じゃあ昨日の『北務帳へ移す』って文章は?」
「当時すでに北務帳って呼ばれる帳面があった可能性もある。でも、この研究書の『北務帳』がそれと同じものかは分からない」
シュウはノートへ記録した。
『研究書『セルド北部旧役務の変遷』:
「北務帳」と称される記録群に巡検・資材受渡・保持部補修が併存するとする。
成立時期・編纂主体不明。
後世に複数帳を一括呼称した可能性を研究者自身が指摘。』
続いて重要な注意を書く。
『『ローデル北部役務抄』内の当時記録らしき「北務帳へ移す」と、研究書側の整理名「北務帳」が同一対象か未確定。』
「そこ大事だね」
ユリウスが言う。
「うん。名前が一致したからって繋げない」
次に『旧王領森林管理記録集成』を開いた。
こちらは施設、資材、修繕記録を集めた研究書で、北務帳への引用は少し具体的だった。
『北務帳断片として旧目録に掲げられた引用の一つに、次の記述がある。』
その下に短い文が載っている。
『北二、春見。白材四、導一。前年より保ち弱し。継ぎ前に替う。』
三人の動きが止まった。
「……これ」
エリオットが小さく息を吸う。
シュウも覚えている。
『ローデル北部役務抄』で確認した北部第二旧所の記録。
『北部旧所、春季補修。白材・保持用四。導線材一式。』
『前年より保持弱し。継ぎに先立ち交換。』
表現は違う。
だが内容はかなり近い。
「まず、研究書の注記」
シュウが言った。
三人は引用の下を見る。
『原文は北方地方史料整理室旧目録所載の転記による。原本未見。略記を現代語へ補う際、語句の一部は編者判断による。』
「原本を見てない」
ユリウスが言う。
「しかも現代語への補いが入ってる」
「じゃあ、『ローデル北部役務抄』と同じ元記録を使った可能性は?」
エリオットが尋ねる。
「あると思う。でも証明できない」
シュウは答えた。
内容の一致度は高い。
北二。
春。
白材四。
導一。
前年より保持が弱い。
継ぎの前に交換。
偶然まったく同じ内容になったとは考えにくい。
しかし、二つの研究書が同じ原資料を別々に引用したのか、一方がもう一方を参照したのか、同じ旧目録の転記を使ったのかは分からない。
「これ、情報が増えたようで、資料の独立性は増えてないな」
シュウが言う。
ユリウスがすぐ頷く。
「むしろ同じ根っこから枝分かれしてる可能性が高い」
「二冊に書いてあるから証拠が二つ、とは数えられないってこと?」
エリオットの問いに、ユリウスが答える。
「そう。元が一つなら、写しが何冊増えても独立した証拠にはならない」
シュウはその言葉も記録した。
『同内容の複数文献=独立証拠複数とは限らない。引用元・転記元の系統確認が必要。』
そして、もう一度引用を見る。
北務帳。
その名称の輪郭は、少し見えたようで、逆に曖昧になった。
一冊の帳面かもしれない。
複数の帳面をまとめた後世の呼称かもしれない。
当時から使われた通称が、後世の研究者にも引き継がれた可能性もある。
しかも、その引用の一部は、すでに知っている北部第二旧所の記録と同じ元資料である可能性が高い。
「家の『別記』には近づいた?」
エリオットが尋ねる。
シュウは少し考えてから首を横へ振った。
「まだ。北務帳って呼ばれる記録に、巡検とか資材とか保持部補修が入ってた可能性は上がった。でも家の『別記』がこれだっていう証拠は増えてない」
「昨日の第三旧所の『北務帳へ移す』は?」
「そっちは当時の処理先として北務帳って言葉が出てる。だから、異常時の記録先だった可能性はある。でも今日の研究書側の北務帳は、普通の巡検や資材受渡まで含んでる」
ユリウスが指先で机を軽く叩きながら考える。
「異常専用帳じゃない可能性がある」
「うん。それか、複数帳を後世にまとめて北務帳って呼んでるなら、当時の北務帳と後世の北務帳で範囲が違う」
「そっちもある」
分からないことが増えた。
しかし、シュウは不思議と焦らなかった。
(前なら、ややこしくなったって思ってたかもな)
今は違う。
何が同じか分からないなら、同じにしなければいい。
◇
もう少しだけ頁を確認すると、『旧王領森林管理記録集成』には別の北務帳引用もあった。
『北一、冬備え。灯二、油一。戸と雨除けを改む。』
昨日『ローデル北部役務抄』で見た、
『北部第一旧所、冬前備え。戸締め改め、雨除け布交換。予備灯二、油壺一を置く。』
と内容が重なる。
「こっちも同じ系統っぽい」
エリオットが言う。
「うん」
シュウは引用元注記を確認する。
やはり北方地方史料整理室旧目録の転記だった。
これで、研究書がいう「北務帳断片」の中に、少なくとも北部第一旧所と第二旧所に相当する記録が含まれていた可能性がある。
だが、ここでも原本はない。
「第三旧所の秋見分は載ってる?」
ユリウスが索引を確認したが、該当する引用は見つからなかった。
「ないね」
「載ってないのか、元資料にないのかは分からない」
シュウが言う。
「引用されなかっただけかもしれない」
「そうだね」
見つからないことを、不存在の証明にしない。
昨日まで何度も学んできた考え方だった。
シュウは最後に今日の結論をノートへまとめた。
『北務帳について現時点で確認できたこと』
『・学院索引に同名三件。うち二件は時代・用途が別で、今回の北部役務とは無関係とみられる。』
『・旧セルド王領北部森林役務関係の「北務帳」情報あり。推定約180~150年前。原本所在不明。』
『・名称は「北務帳」「北方務帳」表記あり。』
『・後世研究では一冊ではなく「記録群」として扱われる場合あり。複数帳の後世一括呼称可能性も指摘。』
『・巡検、資材受渡、保持部補修の記録が含まれた可能性。』
『・研究書引用の北一/北二記録は『ローデル北部役務抄』既知記録と内容が強く重なる。共通元資料の可能性が高いが、引用系統未確定。独立証拠として数えない。』
『・北方地方史料整理室旧目録に記載。原本未確認。』
『・家資料「別記」=北務帳は依然未確定。』
『・ローデル第三旧所記録の「北務帳へ移す」と、後世研究上の「北務帳」記録群が同一範囲を指すか未確定。』
最後に一行だけ付け足す。
『次に必要なのは、名称を増やすことではなく、北務帳の記録体系・成立時期・原資料系統を確認できる情報。』
「今日はここまで?」
エリオットが尋ねた。
「ここまで」
「まだ索引に関連項目あるけど?」
「見えてる。でも今日は北務帳の確認だけって決めた」
エリオットは一瞬黙り、それから笑った。
「百パーセント維持」
「やっぱり測ってるじゃん!」
「継続評価だから」
「都合いいな!」
ユリウスが資料を閉じながら呟く。
「僕、この制度がどこまで細分化されるのか少し興味出てきた」
「百超えたら百一になる?」
「ならないよ」
エリオットが即答した。
「上限は守るんだ……」
◇
三人は資料を返却し、図書館を出た。
外はすっかり晴れていた。
西へ傾き始めた日差しが濡れた屋根を照らし、雨に洗われた学院の建物がいつもより鮮やかに見える。風にはまだ少し湿気があるものの、昨日までの重さはない。
「北務帳、見つかったのに答えは遠くなった感じするな」
エリオットが歩きながら言う。
「でも、変な答えに近づくよりいい」
シュウはそう返した。
「一冊の帳面だと思って探してたら、たぶん間違えてた」
「記録群かもしれないし、後世の名前かもしれない」
ユリウスが続ける。
「しかも同じ名前の別物が二つあった」
「税務帳と討伐隊の物資帳な」
「北務帳だけで検索して、二件目を見て『税金が北の封印に関係ある』とか言い出さなくてよかった」
エリオットが冗談めかして言った。
その瞬間、シュウの頭の中でアルカディアが反応した。
《税とは国家が民より徴収する力。すなわち封印維持のため全国民から生命力を――》
(やめろ!)
危険な方向へ設定が生え始めたため、即座に止める。
「どうしたの?」
エリオットがこちらを見る。
「今、アルカディアが税金から国家規模の封印設定を作ろうとした」
「昔のシュウ、税金まで格好よくできると思ってたの?」
「知らないよ!」
《なお、旧設定には「魂税」という――》
(聞かない!)
ユリウスは事情を知らないため、シュウが突然虚空へ反応したように見えている。
「アルカディアって、昨日も言ってた名前?」
一瞬、シュウの足が止まりかけた。
昨日ではない。
以前、昼食中にうっかり口へ出したとき、セシリアにも聞かれた名前だ。
ただ、ユリウスはそれが何なのか知らない。
シュウは嘘を重ねるより、話せる範囲だけ答えることにした。
「昔作った設定ノートの名前みたいなもの。今も手元にあって、たまに思い出して一人で突っ込んでる」
「設定ノート?」
「中学生の頃の」
「ああ」
ユリウスはそれ以上追及しなかった。
「さっきの税金の話も?」
「そう」
「……それなら聞かない方がよさそうだね」
「助かる」
嘘ではない。
アルカディアが現在意思を持って話しかけてくることを言っていないだけだ。
エリオットもアルカディアの正体は知らないため、普段と同じ「昔の設定ノート」という説明以上のことは何も言わなかった。
◇
夕食時、シュウはセシリアとダンにも今日のことを簡単に話した。
北務帳という名前は一つではなかったこと。
今回関係しそうなものは、原本の所在が分からないこと。
後世の研究では一冊ではなく複数記録をまとめた呼称かもしれないとされていること。
家の「別記」と同じものだとはまだ分からないこと。
「名前一個調べるだけでも大変なんだな」
ダンが感心したように言う。
「むしろ名前が同じだから大変になった」
「同じ名前なら同じだと思うよな、普通」
「私も以前ならそう思ったかもしれません」
セシリアが言う。
「でも、人の名前でも同じ名前の別人はいますから、記録も同じなのかもしれませんね」
「その例え分かりやすいな」
シュウは頷いた。
ユリウスが横から補足する。
「逆もある。同じ人でも、役職名や呼び方が変わることがある」
「じゃあ結局、中身見ないと駄目ってことか」
「かなり乱暴に言えばそう」
「歴史って面倒だな」
ダンの率直な感想に、全員が少し笑った。
◇
夜、三百十七号室。
シュウは今日の調査内容を北方調査ノートへ清書し終えると、頁をめくる手を止めた。
次に調べられるものはいくつかある。
北務帳の引用元系統。
北方地方史料整理室の旧目録。
まだ請求していない『ローデル林区支給台帳・残巻』。
そして、途中まで読んでいるエルド・マルセルの『北部保持材研究録』。
第七章の題は、
『保持施設の停止と廃止――機能を終える際の処置』
だった。
まだ読んでいない。
(こっちもあるんだよな)
《はい》
(でも北務帳見つけた直後に、全部追う必要はない)
《百パーセントの信頼を得た成果でしょうか》
(エリオットの制度と結びつけるな)
シュウは苦笑し、ノートを閉じた。
今日は十分進んだ。
答えが出たわけではない。
むしろ「北務帳」という一見分かりやすい名前の内側に、複数の記録、複数の時代、後世の整理、失われた原本という新しい曖昧さがあると分かった。
だが、それは後退ではない。
間違った一冊を「これが北務帳だ」と決めつける可能性を、一つ減らした。
《マスター》
(何?)
《かつての設定では、真実の歴史を記した唯一絶対の書物がございました》
(嫌な予感しかしない)
《『黒天真史録』。世界中のあらゆる歴史書が偽りであり、唯一それだけが真実を――》
(今の俺に一番向いてない本だな!)
《なお、記載内容はマスターが気分で随時改訂可能でした》
(真実どこ行った!?)
シュウは思わず額を押さえた。
向かいで課題をしていたエリオットが笑う。
「今日は何?」
「唯一絶対の真実が書かれた歴史書。ただし作者の気分で内容が変わる」
「それ、歴史書なの?」
「俺も今そう言った」
エリオットは声を抑えながらしばらく笑っていた。
現実の歴史は、そんな便利な一冊にはまとまっていない。
一つの帳面を見つければ全部分かるわけでもない。
同じ名前だから同じ資料とは限らず、違う名前だから別物とも限らない。
写しが増えれば証拠が増えるわけでもない。
失われた原本の代わりに残った引用は役に立つが、どこまで元の姿を保っているかも確認しなければならない。
面倒だ。
それでも、シュウは以前ほどその面倒さを嫌だとは思わなくなっていた。
北の森で待っているものが何であれ、都合のいい答えを作って持ち帰るより、分からない部分を分からないまま残しておく方がいい。
机の上には、明日の授業で使う教科書が置かれている。
その隣に北方調査ノートを重ね、シュウは魔導灯の光を少し落とした。
北務帳という名前は見つかった。
けれど、それが何冊あり、誰が作り、どこまでの役務を記し、アルヴェイン家の「別記」とどこで繋がるのかは、まだ分からない。
だから次に必要なのは、答えを決めることではない。
どの記録が、どの記録から生まれたのか。
まずは、その道筋を見失わないことだった。




