第55話 北務帳を追う前に、同じ名前の帳面とは限らないと教わりました
翌朝、シュウが目を覚ましたときには、夜のあいだ降り続いていた雨はすでに止んでいた。
窓の外には低い雲が残っているものの、昨日より空は明るい。寮の中庭に植えられた木々からは時折まとまった雫が落ち、濡れた石畳へ小さな音を立てている。シュウは制服へ着替えながらその景色を眺め、机の端に置いた北方調査ノートへ一度だけ視線を向けた。
昨夜、最後に書き加えたのは「北務帳」という名称だった。
ローデル北部第三旧所の秋見分で、保持の落ちが例年より早かった際、「現場のみで定めず、北務帳へ移す」と記されていた。その三日後と思われる再見では、保持のさらなる低下はなく、導線も乾いていたため、継ぎが見送られている。
一方、アルヴェイン家の古い『旧務雑録』には、「秋見分、満ちの減りあるときは別記へ移す」という記述がある。
似ている。
だが、同じだとは決めていない。
「今日は朝からノートを開かなかったね」
向かいで髪を整えていたエリオットが言った。
「昨日まとめたから」
「北務帳、気になってるのに?」
「気にはなってるよ」
「じゃあ、今日は調べる?」
「まだ決めてない」
シュウがそう答えると、エリオットは妙に真剣な表情で頷いた。
「九割九分六厘維持」
「まだ続けるのか、その信用度」
「百になるまでは」
「百になったら終わる?」
「それはそのとき考える」
「終わらない気がしてきた」
エリオットは笑いながら鞄を持ち上げた。
シュウも授業用の鞄を肩へ掛ける。
北方調査ノートは置いていく。
少なくとも午前中は、北務帳を追いかける時間ではない。
◇
午前最初の授業はリディア・フェルンによる基礎学科だった。
昨日までの雨で気温が少し下がっており、教室の窓は半分ほど閉められている。湿った風が僅かに入り込むたび、紙とインクの匂いに雨上がりの冷たい空気が混ざった。
リディアが黒板へ書いた今日の題は、
『記録名と記録体系』
だった。
シュウは一瞬だけ瞬きをした。
(……また俺向けみたいな授業だな)
《偶然とはいえ、非常に良い時期でございます》
(昨日は旧務で、今日は帳面か)
《学院の基礎教育が有用である証左でしょう》
それは間違っていない。
シュウは余計なことを考えるのをやめ、授業へ意識を戻した。
「皆さんは、帳簿や記録の名前を見たとき、その名称が何を意味していると思いますか?」
リディアが学生たちへ問いかける。
何人かが手を挙げた。
「中身ですか?」
「記録する対象」
「使う部署とか?」
それぞれの答えに、リディアは頷く。
「どれも正しい場合があります。ただし、常にそうとは限りません」
黒板へ新たに、
『正式名称』
『通称』
『後世の整理名』
『分類名』
と書き加えた。
「例えば、ある役所で日々の支出を記録した帳面があったとします。当時の正式名称が『月次支出録』だったとしても、現場の人々が単に『金帳』と呼んでいたかもしれません。さらに百年後、その資料を整理した研究者が『西部役所会計帳』という名前を付けることもあります」
シュウの頭へ、すぐ『ローデル北部役務抄』が浮かんだ。
あれも後世にまとめられた抄録と索引の集合であり、一人の書き手が当時その名称で作った一冊の帳面ではない。
「では、別々の場所で『金帳』と呼ばれる記録が見つかった場合、それらは同じ制度の帳簿でしょうか?」
リディアの問いに、今度は多くの学生が首を横へ振った。
「そうですね。名前が同じというだけでは判断できません。同じ用途だから似た呼称になったのかもしれませんし、単なる偶然かもしれません。また、制度が伝わった結果として名称も受け継がれた可能性もありますが、それを確認するには別の証拠が必要です」
シュウは授業ノートへ書き込んだ。
『同名記録=同一記録体系とは限らない。』
続けて、
『正式名/通称/後世整理名/分類名を分ける。』
と記す。
「逆に、名前が違っていても同じ記録体系の一部である場合があります。担当部署が変わって名称だけ変更された例や、同じ帳簿を地域ごとに違う名前で呼んでいた例もあります」
リディアは教卓の上に用意していた三枚の複製文書を掲げた。
「重要なのは、名前だけを見るのではなく、誰が、いつ、どこで、何のために記録し、どのような項目を書いていたかを確認することです」
誰が。
いつ。
どこで。
何のために。
何を書いたか。
(北務帳も、名前だけ追うんじゃ駄目だな)
昨夜までは、次に「北務帳」という名称を索引から探そうと考えていた。
もちろん、それ自体が間違いとは限らない。
だが、同じ名称が別の時代や別の地域で見つかったとしても、同じ帳面だと考える理由にはならない。
さらに、家資料の「別記」が北務帳と同じものか確認したいなら、名称ではなく、そこへ何を移したのかを見る必要がある。
保持の異常。
巡検結果。
継ぎの判断。
再見。
そうした内容がどのように記録されていたか。
シュウは授業ノートの端に小さく印を付けた。
◇
授業後、休憩時間になるとエリオットがすぐ隣へ寄ってきた。
「今日の放課後、決まった?」
「早いな」
「だって、今の授業を聞いたら北務帳の調べ方変わるでしょ?」
「変わるっていうか、名前だけ追うのはやめようと思った」
「やっぱり」
エリオットは自分の席へ腰を預けた。
「じゃあ何を見るの?」
「昨日の資料をもう一回見るなら、北務帳って言葉が出てる周辺かな。どんなときに使われてるか、誰が書いたか、他に似た処理があるか。でも同じ資料を三日連続で読み続けるのもな……」
「別に今日やらなくてもいいんじゃない?」
「うん」
シュウは素直に頷いた。
その反応が意外だったらしく、エリオットが少し目を見開く。
「何だよ」
「いや、すぐ『でも気になる』って言うかと思った」
「気になるけど、今すぐじゃなくていい」
「九割九分七厘」
「それで上がるの!?」
近くで次の授業の準備をしていたユリウスが顔を上げる。
「あと三厘?」
「そう」
「百になったら何を評価したことになるの?」
「シュウが調査で無茶しない信用度」
「それ、百になった瞬間に無茶したらどうするの?」
エリオットが黙った。
シュウは思わず吹き出した。
「制度設計が甘いぞ」
「……百になったら継続評価にする」
「後付けするなよ!」
教室の一角に笑いが広がり、近くの学生が何事かと振り返った。
◇
午前後半は魔法理論だった。
担当はグレイ・ハルバートである。
今日の授業内容は魔力変換時に生じる「遅れ」についてだった。
属性魔法を発動する際、術者が魔力を流し始めた瞬間と、術式上で属性変化が確認される瞬間は必ずしも完全には一致しない。
「ただし、『遅れがある』という言葉だけを覚えないように」
グレイは教卓の前に簡易変換観測器を置いた。
「何と何の間を測っているのかによって、意味が変わります。術者が魔力を出そうと意識した時点、実際に魔力流が生じた時点、術式へ入った時点、属性変換が始まった時点、観測器が反応した時点。これらを全部同じ『発動開始』として扱えば、議論は崩れます」
シュウは自然と姿勢を正した。
漆黒魔力の観測で問題になっていることと、かなり近い。
自分が漆黒魔力へ触れ始めたと感じた時点。
アルカディアが僅かな変化を感じた時点。
総魔力量に微細な揺れが出た時点。
観測板の中央が黒く反応した時点。
それらは同じではなかった。
グレイはシュウの方を特別に見ることなく、授業を続ける。
「観測器には検出できる下限があります。変化が始まっていても、検出可能な大きさへ達するまで表示されない場合があります。一方で、器具側の処理や構造によって表示が遅れることもあります」
黒板へ簡単な流れを書く。
『意図』
↓
『魔力供給』
↓
『変換開始』
↓
『検出可能域』
↓
『表示』
「実際にはもっと複雑ですが、今はこれで構いません。この途中のどこかを測れないからといって、その区間に何も起きていないと決めることはできません」
第三観測室で聞いた言葉と同じ考え方だった。
シュウは黙ってノートを取る。
グレイは授業全体へ向けて説明している。
自分だけへの話ではない。
だからこそ、シュウは少し安心した。
漆黒魔力だけが特別に理解不能なのではなく、普通の魔法研究でも「何を測っているか」「どこまで測れているか」を分ける必要があるのだ。
◇
後半は二人一組で簡単な観測を行った。
シュウとエリオットが組み、通常の水属性魔力を簡易変換観測器へ流す。
「俺からやる?」
「うん」
シュウは指定された量の無属性魔力を流し、途中から水属性へ変換した。
観測器の目盛りが動き、少し遅れて水属性を示す反応が出る。
「今の遅れが変換そのものなのか、器具の反応なのかは、これだけじゃ分からないんだよね」
エリオットが小声で言った。
「そういうことだと思う」
次はエリオットが行う。
彼の水属性は比較的安定しているため、変換後の反応も素直だった。ただし開始直後には僅かな揺れがあり、本人が手元を見ながら眉を寄せる。
「今、少しぶれた」
「うん。でもすぐ安定した」
巡回してきたグレイが観測器を見る。
「エリオット君は変換開始時に供給量が少し上がりますね」
「直した方がいいですか?」
「現時点では大きな問題ではありません。ただ、自分で把握しておくこと。将来、精密な術式を扱う場合には影響する可能性があります」
「はい」
「シュウ君は?」
「俺はさっき、変換の前後で大きな揺れはなかったと思います」
「そうですね。ですが、自分の感覚だけでなく記録も確認してください」
「はい」
グレイはそれだけ言って次の組へ移った。
漆黒魔力には触れない。
シュウも尋ねない。
今は普通の授業だ。
それでも、今日の内容は今後の漆黒魔力研究へ確実に関係してくる。
(見えない時間を調べるなら、どの時点を基準にするか決めないと駄目なんだな)
《その通りでございます》
(次の実験を急がなくて正解だったかも)
《グレイ先生とセレナ先生も同様にお考えでしょう》
少なくとも、現在の観測板をただ高感度にするだけでは十分ではない。
何を測るかを分ける必要がある。
シュウはそのことだけを覚えておくことにした。
◇
昼休み、五人はいつものように食堂へ集まった。
今日は窓際の席が空いており、雨上がりの中庭を眺めながら昼食を取る。薄い雲の向こうから光が差し始め、濡れた木々の葉が明るく光っていた。
「今日は図書館行かないの?」
ダンが尋ねる。
「今のところは」
「珍しいな」
「何でみんな俺が毎日図書館行く前提なんだよ」
「最近かなり行ってるから」
セシリアが穏やかに答えた。
「否定できない……」
シュウはパンをちぎりながら肩を落とした。
ユリウスが横から言う。
「今日は北務帳を調べる前に、何を確認するか整理するんだよね」
「うん。同じ名前の帳面が見つかっても同じ体系とは限らないって、今日リディア先生に教わったし」
「じゃあ、何が分かれば同じかもしれないって言えるんだ?」
ダンの質問に、シュウは少し考えた。
「同じとはまだ言わないけど、比較するなら……誰が書くのか、どの場所の記録か、何を記録するのか、どんなときに使うのか、そのあとどう処理されるのか、かな」
「多いな」
「だから今日は探さない」
「おお」
ダンが妙に感心した声を出した。
「成長したな」
「何目線だよ」
「友達目線?」
「便利だな、その言葉」
以前ユリウスが使った返しをすると、今度はセシリアが笑った。
「でも、少し分かる気がします。最初の頃のシュウ君なら、気になる資料名を見つけたら、その日のうちに探しに行っていたかもしれません」
「……そうかも」
シュウは反論できなかった。
学院へ入った直後なら、もっと勢いで動いていた気がする。
北の森の異常を知っているからこそ、早く答えを見つけたい気持ちは今もある。
ただ、急いで間違った答えを作れば、結果的に遠回りになる。
「今日は普通に過ごす」
シュウが言うと、エリオットが横から小さく頷いた。
「九割九分八厘」
「まだ上がるのかよ」
「普通に過ごすって自分で言えたから」
「残り二厘が怖くなってきた」
◇
放課後。
宣言した通り、シュウは図書館へ行かなかった。
ユリウスは返却期限の近い本を返すため一人で図書館へ向かい、セシリアは寮へ戻る前に生活魔法の課題について教師へ質問しに行った。ダンも今日は追加実技をせず、友人と購買へ寄ってから寮へ戻るらしい。
シュウとエリオットは第一男子寮へ戻った。
寮室へ入ると、雨上がりの湿った空気がまだ少し残っている。シュウは窓を開け、風を通してから机へ座った。
「北のノート開く?」
エリオットが尋ねる。
「少しだけ。調査じゃなくて、次に確認する条件を書く」
「なら僕も課題しながらいる」
「監視?」
「同室」
「その言い方だと何も言えない」
シュウは苦笑し、北方調査ノートを開いた。
昨夜書いた「北務帳」の文字の下へ、新しい見出しを加える。
『北務帳を確認する場合の比較項目』
その下に一つずつ書いていった。
『一、名称が当時名か、後世整理名か。』
『二、記録年代。』
『三、記録者/担当者。』
『四、対象地点。北部第一・第二・第三旧所、その他の区別。』
『五、記録対象。巡検、保持、資材、継ぎ、異常、再見等。』
『六、「移す」の前後関係。何から何へ移すのか。』
『七、記録後の処理。再見、補修、継ぎ、報告等。』
『八、家資料「別記」と比較する場合は名称一致を前提にしない。内容・用途の類似のみ確認。』
そこまで書いてから、シュウは筆を止めた。
(これなら次に見ても、名前だけで飛びつかない)
《非常に良いかと》
(あとは……)
もう一つ、今日のグレイの授業が頭に残っている。
北方調査とは別のノートを取り出し、魔法研究側へ書き込む。
『観測の「開始」を一つにまとめない。』
『意図/魔力供給開始/変換開始/検出可能域到達/器具表示を分けて考える。』
『漆黒観測では、主観的開始・アルカディア側の感知・総流量微細変動・可視黒反応が同時とは限らない。』
『次回研究がある場合、何を開始点として比較するか事前に確認。』
これで十分だった。
今日は新しい実験をしない。
漆黒魔力も出さない。
普通の闇属性で隣の経路を探すこともしない。
授業で学んだことを、必要な場所へ整理しただけだ。
「終わり?」
エリオットが課題から顔を上げた。
「終わり」
「本当に?」
「本当に」
シュウは二冊のノートを閉じ、棚へ戻した。
エリオットはその一連の動作を見届けたあと、少し考える。
「九割九分九厘」
「あと一厘!」
「うん」
「何したら百なんだよ!」
「だから考えてないって」
「ここまで引っ張っといて!?」
エリオットは笑いながら課題へ戻った。
◇
夕食後、シュウは寮の談話室でダンたちと少しだけ過ごした。
今日は北の話ではなく、次の実技課題や、食堂の新しい焼き菓子が妙に固かったこと、ダンが購買で買おうとした訓練用手袋の大きさを間違えたことなど、どうでもいい話ばかりだった。
「いや、試着用と商品で場所違うと思わないだろ!」
「札に書いてあったじゃないですか」
セシリアが呆れたように言う。
「細かい字だったんだよ」
「普通の大きさだったけど」
エリオットが容赦なく追撃する。
「シュウ、お前は味方だよな?」
「見てないから何とも」
「そこは友達なら助けろよ!」
「事実の味方でいようと思って」
「それユリウスの役だろ!」
名前を出されたユリウスが本から顔を上げた。
「僕は役職じゃない」
その一言で全員が笑った。
シュウも笑いながら、胸の奥が少し軽くなるのを感じていた。
北の森には、今も分からないことが多い。
地下の石扉の先に何があるのか。
あの淡い魔力がなぜ自分を「帰ってきた」と判断したのか。
森底の鐘はなぜ鳴ったのか。
アルヴェイン家はいつ、誰から、どこまでの役務を引き継いだのか。
ハーゼン家はその前任だったのか。
白樹と古い白材、保持用の白い材料がどこまで同じなのか。
「継ぎ」は何を行う作業だったのか。
分からないものは多い。
それでも、それらを全部同じ日に解かなければならないわけではない。
(こういう時間も、ちゃんと学院生活なんだよな)
笑っている友人たちを見ながら、シュウはそんなことを思った。
◇
同じ頃、魔法研究棟の一室では、グレイとセレナが簡易観測器の記録を並べていた。
机上にあるのはシュウの新しい実験記録ではない。
既知六属性と無属性魔力を使った器具側の検証結果である。
「やはり、表示までの遅れだけを比べても駄目ですね」
セレナが記録紙を指で押さえる。
「供給開始をどこで取るかによって数値が変わります。特に弱出力では、検出下限へ届くまでの時間が混ざる」
「そうだな」
グレイは別の記録へ目を移した。
「黒のときに見えた微細変動も、同じ問題を含んでいる。あれを『黒への変化開始』と呼ぶには早すぎる」
「ですが、単なる観測器ノイズだけで説明するのも苦しくなっています」
「ああ」
そこは以前の検証から変わっていない。
既知属性でも微細な総流量変動は起こる。
供給の揺れでも起こる。
だが、シュウの漆黒魔力観測時に記録された揺れは、観測板が黒く反応するより前にあり、器具単独の無入力試験で見られるノイズとは形が一致していない。
何かが起きている可能性はある。
しかし、何が起きているのかは分からない。
「次に本人へ協力を頼むなら、出力を上げる必要はないでしょう」
セレナが言う。
「むしろ開始前後を複数系統で分けて見る方がいい」
「総流量と属性反応を同じ記録線に押し込まない方がいいな。可能なら供給側も独立させる」
「学生向け設備でどこまでできます?」
「そこを先に考える」
グレイは記録紙を閉じた。
「本人を呼んでから考えることじゃない」
セレナは僅かに笑った。
「最近のシュウ君なら、急がなくても待てそうですね」
「待てるようになった、という方が正しいかもしれない」
以前なら、分からないことが見つかればすぐ確かめたがった。
今も好奇心そのものは強い。
しかし、分からない状態をそのまま保持し、安全な手順が整うまで待つことを覚え始めている。
「学院へ来た意味は、魔法を増やすことだけではないからな」
グレイの言葉に、セレナは静かに頷いた。
この日も、シュウを呼び出す予定は決まらなかった。
◇
夜。
三百十七号室へ戻ったシュウは、就寝前に明日の教科書だけを揃えていた。
北方調査ノートは開かない。
魔法研究ノートも開かない。
エリオットはすでに寝台へ入り、本を読んでいる。
《マスター》
(何?)
《本日は非常に節度ある一日でございました》
(珍しく褒めるな)
《北方調査を拡大せず、漆黒魔力の自主実験も行わず、友人との時間も確保されました》
(普通の学生なら当たり前じゃない?)
《マスターの場合、その「普通」を獲得されたことに価値がございます》
妙にまともなことを言われ、シュウは返事に困った。
(……ありがと)
《どういたしまして》
そこで終われば綺麗だった。
だが、アルカディアが静かに続ける。
《なお、かつてのマスターは「普通」という概念を――》
(やめろ)
《まだ何も申し上げておりません》
(絶対ろくでもない)
《「凡人が己を慰めるために作った虚構」と――》
(言ってるじゃん!)
思わず声が出た。
エリオットが本から顔を上げる。
「どうしたの?」
「中学生の俺が普通の学生生活を全否定してきた」
「昔のシュウ、今のシュウと仲悪そうだね」
「俺もそう思う」
《私は両方のマスターを尊重しております》
(片方は封印してくれ)
《私自身がその記録媒体でございますので》
(そうだった……)
逃げ場がない。
シュウが深く息を吐くと、エリオットがくすくす笑った。
「でも今日は本当に何もしなかったね」
「授業は受けたぞ」
「そういう意味じゃなくて。図書館も行かなかったし、夜も調べてない」
「たまにはな」
「じゃあ――」
エリオットが本を閉じた。
その表情が妙に真面目だったため、シュウも思わず彼を見る。
「百パーセント」
「……え?」
「信用度。今日で百」
「何で!?」
「分からないことが増えても、その日のうちに全部追いかけなくなったから」
シュウは少しだけ言葉を失った。
冗談で始まったはずの数字だった。
九割。
九割五分。
九割八分。
細かく刻まれ、いつの間にか九割九分九厘まで来ていた。
エリオットは笑っている。
「だから、百」
「百になったら何があるか考えてないって言ってただろ」
「考えた」
「何?」
「僕がいちいち止めなくても、シュウは危ないことをするとき一回考えるって信用する」
軽い調子の言葉だった。
けれど、シュウはすぐに返せなかった。
エリオットは漆黒魔力の研究についても知っている。
北の森の調査についても一部を知っている。
友人たちの中で唯一、実家の古い小屋の地下に石扉があることまで話してしまった相手だ。
そのエリオットが、無茶をしないと信用すると言っている。
(……重いな、百パーセント)
胸の奥へ浮かんだ言葉に、自分でも少し笑いそうになる。
嫌な重さではない。
守らなければならない約束を押しつけられた感覚とも違う。
誰かが自分の判断を信じてくれているという、今まであまり意識したことのない重みだった。
「じゃあ、百から下がらないようにする」
シュウが言うと、エリオットは首を横へ振った。
「下がることはあるよ」
「あるの!?」
「信用って、一回百になったら何してもそのままってものじゃないでしょ」
「急に真面目な制度になったな!」
「でも、一回下がっても戻せる」
エリオットはそう言って、再び本を開いた。
「その方が普通じゃない?」
シュウはしばらく何も言わなかった。
やがて小さく笑い、自分の寝台へ向かう。
「そうだな」
百になったから、もう何も間違えないわけではない。
分からないものへ飛びつきそうになることもあるだろう。
危険な力を試したくなることもあるかもしれない。
そのとき、一度考える。
自分だけで決めない。
必要なら相談する。
止まるべきところで止まる。
学院で覚えてきたことは、魔法の術式や歴史の知識だけではなかった。
窓の外では、屋根から落ちる最後の雨粒が静かに中庭へ落ちていた。
明日、北務帳を調べるかどうかはまだ決めていない。
『北部保持材研究録』の続きを読む日も決めていない。
漆黒魔力の次の観測日も決まっていない。
北の森から新しい知らせも届いておらず、二度目の鐘が鳴ったという報告もない。
分からないことは、今夜もいくつも残っている。
それでもシュウは、それらを無理に一つの答えへまとめようとはせず、明日の授業に必要な教科書を机の端へ揃えてから魔導灯を落とした。




