第54話 北方旧務の中身を探したら、巡検だけではありませんでした
翌朝、第一男子寮三百十七号室の窓を細かな雨粒が濡らしていた。
強い雨ではないものの、空は朝から灰色の雲に覆われ、窓を少し開けると湿った石と土の匂いが冷たい空気に混じって入ってくる。シュウは制服へ着替えながら外を確認し、今日は移動のたびに濡れそうだと思って窓を閉めた。
「雨だね」
向かいではエリオットが鞄へ教科書を入れている。
「うん。実技が外だったら変更になるかな」
「昨日やったばかりだし、今日は座学中心だったはず」
「ならいいか」
シュウも授業に必要なものを鞄へ収めた。
北方調査ノートは棚に置いたままにする。
昨日は古い文書における「預かる」という言葉の用例を調べ、そこから期間や権限、所有関係を決めることはできないと確認した。今後必要なのは一般的な用例をさらに増やすことではなく、「北方旧務」と呼ばれた仕事の中身を示す記録だと整理している。
しかし、それを今日すぐ探し始めるとは決めていなかった。
「今日はどうするの?」
エリオットが尋ねる。
「何が?」
「放課後」
「まだ朝だって」
「昨日も似たこと言ってたよ」
「授業が終わってから決める」
「九割八分維持」
「上がりもしないのか」
「何もしてないからね」
シュウは苦笑しながら鞄を持った。
最近はこの信用度制度にも慣れてきた。
百になったところで何が起きるのかは知らないが、少なくとも下がるような無茶をしない方がいいことだけは分かる。
◇
午前の授業は、オルド・カーヴェルによる王国史だった。
雨のため教室の中はいつもより薄暗く、壁際の魔導灯が朝から点けられている。窓の外では細い雨筋が途切れず落ち、教師の声に混じって屋根を叩く柔らかな音が続いていた。
今日扱うのは、地方制度の変化と旧来役務の再編だった。
「王国の地方制度は、一度に現在の形へ変わったわけではありません」
オルドは黒板へ大きく三つの区分を書いた。
『土地』
『役務』
『記録』
「領地の統廃合が行われた場合、土地の所属が変われば、それまで存在した仕事もすべて新しい領主へ移る。そう考えたくなるかもしれませんが、実際にはもっと複雑です」
シュウは筆を動かしながら、自然と意識を集中させた。
「街道、橋、森林、水路、倉庫、境界標、警戒施設などには、それぞれ維持や巡検の仕事があります。領地の境界が変わっても、現地の事情を知る者へ従来の仕事だけを継続させることがあります。逆に、土地の所属は変わらなくても、役務だけが別の家や役所へ移される場合もあります」
以前読んだ記録にあった一文が、シュウの頭をよぎった。
『一部の旧来管理事項については、従前の担当へ継続を命ずる。』
ローデル林区の時代と、その後の北部管理。
土地の区分と仕事の担当を同一視してはいけないという話は、これまでにも何度か学んでいる。
オルドはさらに黒板の「記録」へ線を引いた。
「もう一つ厄介なのが文書です。仕事が別の担当へ移ったとしても、過去の記録すべてが一緒に移るとは限りません。必要な帳面だけ渡す場合もあれば、原本を旧家に残して写しだけ渡す場合もあります。逆に、仕事そのものは別の担当へ移ったのに、古い帳面だけが後世まで元の家へ残る例もあります」
(……受渡覚)
昨日調べた言葉が浮かぶ。
「受渡」は役務そのものだけでなく、帳面や鍵、資材、巡検経路などの引き渡しにも使われていた。
つまり、仮にアルヴェイン家の『受渡覚』が見つかったとしても、それだけで北方旧務そのものを丸ごと引き継いだ記録とは限らない。
反対に、渡された帳面の中身を見れば、当時必要とされた仕事の一部が分かる可能性はある。
シュウは授業ノートの端へ、あとで確認するための印だけを付けた。
「さらに、旧来の仕事をまとめて一つの呼称で記す場合があります」
オルドは新たに『旧務』と書いた。
「これは特定の制度名とは限りません。単純に『以前から続いている仕事』をまとめて呼んでいる例もあります。したがって、『旧務』という語を見つけたからといって、王国全体に共通する一つの制度があったと考えてはいけません」
シュウの筆が一瞬止まった。
(北方旧務)
《非常に関連性の高い内容でございます》
(うん。でも、今は授業)
《承知しております》
オルドは、地方の森林管理を例に説明を続けた。
ある地方では「山方旧務」という言葉が、境界確認、倒木処理、入山路の維持、火災警戒、役所への報告まで含む総称として使われていた。
一方、別の地方では同じような「旧務」という表現が、年二回の巡検だけを指していた例もある。
「重要なのは、その文書の中で何が旧務に含まれているかを確認することです。呼称だけを他地域の制度へ当てはめないようにしてください」
シュウは昨日の結論へ、一つ条件を加えた。
(北方旧務も、一つの作業名とは限らない)
春秋の見分。
継ぎ。
満ちの確認。
白い何かの「改め」。
それらが全部北方旧務に含まれるのか、それとも一部は別の仕事なのか。
まだ分からない。
ただ、「北方旧務」という言葉そのものを、特定の一作業として考えない方がよさそうだった。
◇
昼休みになっても雨は止まなかった。
五人は食堂の窓から離れた席へ座り、温かい豆と肉の煮込みを囲んでいた。濡れた外套を入口近くの掛け場へ預ける学生が多く、普段より食堂内は混雑している。
「今日の授業、シュウ向けすぎなかった?」
エリオットが言う。
「俺も思った」
「北方旧務って言葉を調べ始めた次の日に旧務の授業って、すごいな」
ダンが笑う。
「先生に家の手紙見せたのか?」
「見せてないよ」
「じゃあ偶然か」
「授業予定は俺の家の資料に合わせて変わらないだろ」
シュウが苦笑すると、セシリアも小さく笑った。
「でも、ちょうどよかったですね。『旧務』という言葉自体が、一つの作業を意味するとは限らないと分かりましたから」
「うん。昨日は『北方旧務の中身を示す資料が必要』って書いたけど、そもそも中身が一個とは限らない」
ユリウスは食事の手を止めずに尋ねた。
「家の帳面に、北方旧務のあとで春見分と秋見分が続いてたよね?」
「そう」
「なら、その二つは北方旧務に含まれる?」
「そう読める可能性はある。でも、文章が短いから確定はしない方がいいと思う」
「僕もそう思う」
ユリウスは頷いた。
「少なくとも同じ記録の中で近接して書かれている、まで」
「あと、『白――の改め、継ぎに先んじて……』も続いてる」
エリオットが思い出しながら言った。
「それも旧務の一部?」
「分からない。そこを調べたい」
シュウは煮込みを一口食べてから続けた。
「ただ、家族へ追加で探してくれとは言わない。昨日返事も出したし、家の資料だけに頼らなくても、学院側の記録に北方で何をしてたか書いてあるものはあるから」
ユリウスがすぐ理解した。
「『ローデル北部役務抄』」
「うん」
以前読んだその資料には、北部旧所の補修、保持材、導線材、レオル・ハーゼンの継ぎ補助などが記録されていた。
さらに別の資料には、東部旧採石地の巡検所と旧所保持部が別の確認対象として記されている。
家資料の「北方旧務」という呼称がローデル側の役務と同じ範囲を指す保証はない。
それでも、「北部で実際にどのような仕事が行われていたか」を確認する比較材料にはなる。
「今日また読むの?」
ダンが尋ねた。
「授業終わってから、ユリウスとエリオットがいいなら少しだけ」
「俺はいいよ」
ユリウスが答え、エリオットも頷いた。
「僕も。ただし、目的は『北方旧務の正体を決める』じゃなくて、『北部の役務に何があったか整理する』くらい?」
「そのつもり」
「九割九分」
シュウは匙を止めた。
「上がった」
「あと一分だね」
「百になったら何があるんだ?」
「考えてない」
「そこは考えとけよ!」
ダンが吹き出し、セシリアが口元を押さえた。
ユリウスだけは真面目な顔で「到達条件が先に決まっていない評価制度はよくない」と指摘し、今度はエリオットが困る番になった。
◇
午後の授業が終わる頃には雨脚が少し弱くなっていた。
三人は傘を使って図書館へ移動し、入口で水滴を落としてから中へ入った。雨の日の図書館は普段より利用者が多く、閲覧席のあちこちで学生たちが課題へ取り組んでいる。
今日の目的は明確だった。
新しい資料を探し回るのではなく、すでに読んだ『ローデル北部役務抄』をもう一度確認し、北部で記録されている仕事を分類する。
マティアスへ資料名を伝えると、彼は保管場所を確認したうえで一冊を用意してくれた。
「再確認ですか?」
「はい。前は人名と材料を中心に見てたんですけど、今日は仕事の種類を整理したくて」
「同じ資料でも目的が変われば見える部分は変わります。扱いにはお気をつけください」
「ありがとうございます」
三人は空いていた大机へ移動した。
シュウは北方調査ノートを開く前に、今日の目的を一行だけ書いた。
『確認目的:ローデル北部で記録された役務の種類を整理する。家資料「北方旧務」との同一視はしない。』
「最初に書くんだ」
エリオットが横から見る。
「途中で忘れないように」
「九割九分一厘」
「細かくなった!?」
「百が近いから」
ユリウスが小さく息を吐いた。
「もう百分率としての意味が薄い」
「ユリウス、今日は厳しいな」
そんなやり取りを挟んでから、三人は資料を開いた。
◇
『ローデル北部役務抄』は、後世にまとめられた抄録と索引の集合であり、一つの年代、一人の書き手による帳面ではない。
その点は以前にも確認している。
シュウたちはまず、北部に関係する記録だけを年代順ではなく、内容ごとに抜き出すことにした。
最初に見つかるのは巡検関係だった。
『北部第二旧所、春巡検。外壁・屋根・床下口、異常なし。』
『北境路、倒木二。巡検路を塞ぐため除く。』
『北部第三旧所、秋見分。導線部、湿りあり。乾燥後再見。』
以前は「第二旧所」「第三旧所」という場所の存在へ意識を向けていたが、今日は仕事そのものを見る。
「巡検、道の維持、建物確認」
シュウが項目を分ける。
「床下口も確認対象になってる」
エリオットが言った。
「うん。でも地下施設とは限らない。床下の点検口かもしれないし」
「分かってる」
エリオットは苦笑した。
次に補修関係。
『北旧所、保持材の改め、春前に済ますべし。旧材は北倉へ戻す。』
これは『北部保持材研究録』に引用されていた『旧ローデル北部役務断片』と同系統の記述に見えるが、現在開いている抄録内の表現と引用元の関係は確定していない。
シュウは同じものだと扱わず、別に記録した。
さらに、
『北部旧所、春季補修。白材・保持用四。導線材一式。』
『前年より保持弱し。継ぎに先立ち交換。』
以前読んだ重要な記述が出てくる。
「ここは交換と継ぎが分かれてる可能性が高いって整理したところだね」
ユリウスが言う。
「うん。マルセルの研究でも、継ぎは単純交換だけを指す例が少ないって話だった。ただし北部全体の傾向で、ローデルの定義じゃない」
シュウは過去の整理をそのまま維持した。
今日は「継ぎ」の正体を決めるために読んでいるのではない。
仕事を分類する。
『保持状態確認』
『保持材交換』
『導線材補修・交換』
『継ぎ』
これだけでも、北部役務が単なる年二回の巡検だけではなかったことが分かる。
ただし、それら全部がアルヴェイン家の「北方旧務」に含まれたとは言えない。
◇
さらに頁を進めると、以前は細かく拾っていなかった記録があった。
『北部第一旧所、冬前備え。戸締め改め、雨除け布交換。予備灯二、油壺一を置く。』
シュウは一度読み返した。
「普通だな」
エリオットが言う。
「普通だね」
ユリウスも同意した。
雨除け布。
予備灯。
油壺。
魔法的な秘密など何もない。
建物を維持するための日常的な管理だ。
「でも、こういうのも役務なんだよな」
シュウは項目へ加えた。
『季節前の建物保全・備品配置』
次には、
『北部第二旧所、帳面受取。前季記録と照合し、差なし。』
という短い記録がある。
「帳面の照合」
ユリウスが反応した。
「これも仕事に入るなら、北方旧務って現地作業だけじゃない可能性がある」
「そうだな。でもこの記録の『帳面』が何か分からない」
シュウは慎重に書く。
『記録受取・前季記録との照合例あり。帳面内容不明。』
さらに、資材に関する項目もある。
『北部用材、受領数を改め、余りは北倉へ。』
『小魔石三、第二旧所へ。受領印あり。』
小魔石については、これまでにも北部と東部の記録で確認している。
保持施設の作業では、一時的な魔力供給、保持材への充填、術式起動補助、状態確認用の基準魔力など複数の用途があり得るとマルセルは整理していた。
しかし、ローデルでどの用途だったかは決まっていない。
「資材の受領と返却もある」
エリオットが言う。
「うん。少なくとも現場だけ見て帰る仕事ではなかったみたいだな」
シュウは項目を増やした。
『資材受領・数量確認・余剰返却』
ここまで整理したところで、ノートの項目はかなり増えていた。
巡検。
巡検路の維持。
建物外部・内部の確認。
保持状態の確認。
保持材や導線材の補修・交換。
継ぎ。
季節前の備え。
備品配置。
帳面の受取・照合。
資材の受領・返却。
「旧務って呼ぶなら、確かに一個の仕事じゃなくてもおかしくないな」
エリオットがノートを見ながら言った。
「ただし」
「分かってる。これがそのままアルヴェイン家の北方旧務だったとは限らない」
「先に言われた」
「九割九分二厘」
「その一厘、何なんだよ……」
◇
ユリウスは会話へ加わりながらも、しばらく索引を見ていた。
やがて、ある項目で指を止める。
「シュウ。『異常時』って分類、まだないよね」
「ない。何かあった?」
「これ」
示された記録は、北部第三旧所に関するものだった。
『第三旧所、秋見分。保持の落ち、例年より早し。現場のみで定めず、北務帳へ移す。再見は三日後。』
三人の空気が僅かに変わった。
シュウはすぐに家から届いた文面を思い出した。
『秋見分、満ちの減りあるときは別記へ移す。』
そしてアーネストの記録。
『継ぎ後、三日を置き再見。白き材、応じよし。』
似ている。
かなり似ている。
けれど、シュウはすぐに結論へ飛ばなかった。
「まず、その記録の年代」
ユリウスが欄外を確認する。
「抄録側の推定で、百六十年前後。ただし原記録の日付欠損。周辺記録の並びからの推定って注記がある」
「アーネストの時代と近い?」
「近い可能性はある。でも正確には重ねられない」
「家の『旧務雑録』はもっと年代が曖昧だしな」
シュウは息を整え、文章をもう一度読む。
『保持の落ち、例年より早し。』
家資料では、
『満ちの減りあるときは別記へ移す。』
ローデル側では、
『現場のみで定めず、北務帳へ移す。』
「北務帳……」
エリオットが呟く。
「『別記』がこれ?」
「分からない」
シュウは即座に答えた。
「家の帳面でいう別記が北務帳だった証拠はない。それに『移す』の意味も完全に同じとは限らない」
「でも比較候補にはできる?」
「それはできると思う」
ユリウスも頷いた。
「同じ北方系の管理で、通常の見分中に異常があったとき、別の帳面へ扱いを移す例がローデル側にある。そこまでなら言える」
「うん」
シュウは慎重に記録する。
『新確認:ローデル北部第三旧所、秋見分時「保持の落ち、例年より早し。現場のみで定めず、北務帳へ移す。再見は三日後」。推定約160年前、原日付欠損。』
『家資料「秋見分、満ちの減りあるときは別記へ移す」と構造上の類似あり。ただし、
・満ち=保持とは未確定
・別記=北務帳とは未確定
・「移す」の実務内容同一も未確定
・年代一致未確定
・直接継承証拠ではない』
書き終えたあとも、胸の奥には僅かな高揚が残っていた。
(似てる。でも、似てるからこそ危ない)
《適切な認識かと》
アルカディアも今日は茶化さなかった。
ユリウスはさらに同じ周辺の記録を確認する。
「三日後の記録、ある」
「本当?」
頁を慎重にめくり、対応する可能性のある項目を見る。
『第三旧所、再見。保持、前見より落ちなし。導線乾き、異常なし。継ぎ見送り。』
シュウは眉を寄せた。
「継ぎをしなかった?」
「そう読める」
ユリウスが答える。
「前の記録では保持が例年より早く落ちてた。でも三日後に悪化してなくて、導線も乾いたから、継ぎは見送った」
「じゃあ、継ぎは保持が落ちたら必ずやる作業じゃない」
エリオットが言った。
「少なくともこの第三旧所の、この事例ではそうだね」
シュウは条件を限定した。
雨や湿りが一時的な影響を与えていた可能性もある。
保持の低下が継ぎの判断材料だった可能性はあるが、それだけで実施を決めてはいない。
再見を挟み、状態が安定していれば見送ることもあった。
「アーネストの『雨多く、満ちの落ち早し。継ぎを早める』とも少し似て見える」
ユリウスが言う。
「うん。でもアーネストは継ぎを早めてる。こっちは見送ってる」
「違いも大事だね」
「たぶん」
シュウは並べて記録した。
『アーネスト:雨多く、満ちの落ち早し→継ぎを早める。』
『ローデル第三旧所:秋見分、保持の落ち例年より早し→北務帳へ移す→三日後再見→保持悪化なし・導線乾燥→継ぎ見送り。』
『類似:低下状態を確認し、継ぎ判断に関係する可能性。再見あり。』
『相違:一方は継ぎ実施を早め、一方は見送り。対象・原因・基準・年代・場所が異なる可能性あり。同一手順とは断定不可。』
「これ、前より『継ぎ』が作業というより判断を伴う保守処置に見えてきた」
エリオットが言った。
シュウはすぐには頷かなかった。
「そういう可能性は上がったと思う。でも、マルセルの研究でも地域と時代で意味が変わるってあったし、全部の『継ぎ』を一つにまとめない方がいい」
「了解」
エリオットは素直に引いた。
◇
そこで三人は一度手を止めた。
新しい類似が見つかったときほど、続けて何かを探したくなる。
北務帳。
その名前が他に出ていないか。
第三旧所の記録をもっと追えないか。
「別記」との関係を探せないか。
シュウの中にも、その衝動は確かにあった。
(今なら索引から北務帳を探せる)
指先が頁へ向かいかける。
しかし、その前にエリオットが言った。
「今日の目的、何だっけ?」
シュウの手が止まった。
「……北部役務の種類を整理する」
「北務帳を全部追う、ではないよね」
「そうだな」
ユリウスも資料から顔を上げた。
「今見つけた二件だけでも、整理する情報は十分あると思う。北務帳は次に調べる候補へ置けばいい」
シュウは数秒だけ資料を見つめ、それから手を引いた。
「今日はここまでにする」
エリオットが満足そうに頷く。
「九割九分五厘」
「刻み方がせこい!」
「でも上がったよ」
「残り五厘で何を試されるんだ俺は」
「そこはまだ考えてない」
ユリウスが呆れたように二人を見た。
「評価制度として破綻してると思う」
「やっぱり?」
「最初からそう言ってるだろ」
三人の間に小さな笑いが生まれ、先ほどまで高まっていた緊張が少し緩んだ。
◇
資料を返却する前に、シュウは今日整理した役務を最後に確認した。
ローデル北部で確認できた仕事は、巡検だけではない。
巡検路の維持。
建物の点検。
季節前の保全。
保持状態の確認。
保持材や導線材の交換・補修。
継ぎ。
備品配置。
資材の受領と返却。
帳面の受取と照合。
異常時らしき状態を通常記録から別の帳面へ移し、後日再見する処理。
少なくとも、ローデル北部の管理が複数種類の仕事から成り立っていたことは確認できる。
ただし、これをそのままアルヴェイン家の「北方旧務」の内容だとは扱わない。
「今日の結論はそれだな」
シュウが言う。
「北部の役務は巡検だけじゃなかった。でも、北方旧務が全部を引き継いだとはまだ分からない」
「それと北務帳」
ユリウスが付け加える。
「次に調べられる新しい名称。ただし、家資料の別記と同じとは決めない」
「うん」
「三日後の再見も」
エリオットが言った。
「アーネストの記録にも三日が出てる」
「そこも比較候補。ただ、三日って期間だけで同じ手順とは言えない」
「分かってるよ」
エリオットは笑った。
「最近、シュウが言いそうな注意が先に分かるようになってきた」
「いいことなのか、それ」
「たぶん」
◇
図書館を出る頃には雨がほとんど止んでいた。
空はまだ厚い雲に覆われているが、西の端だけが僅かに明るい。濡れた石畳は魔導灯の光を淡く映し、学生たちは傘を畳みながら寮や食堂へ向かっている。
シュウたちもゆっくり歩いた。
新しい情報を見つけた興奮は残っている。
それでも、今すぐ別の資料を探しに戻りたいというほどではなかった。
「明日も調べる?」
エリオットが尋ねる。
「決めてない」
「北務帳、気になるでしょ?」
「気になるよ。でも、今日の分を整理してから」
「九割九分六厘」
「一厘ずつ上げるな!」
シュウの声に、通りかかった学生が一瞬こちらを見た。
何でもないと笑って頭を下げると、隣でユリウスが肩を震わせている。
「ユリウスまで笑うなよ」
「ごめん。でも残り四厘が気になってきた」
「お前まで乗るな!」
湿った夕方の学院に、三人の笑い声が小さく響いた。
◇
その夜、シュウは北方調査ノートを開いた。
今日の資料確認について、最初に大きく線を引いて整理する。
『ローデル北部役務――確認できた範囲』
『一、巡検・見分。
二、巡検路の維持。
三、建物・屋根・外壁・床下口等の確認。
四、季節前保全・備品配置。
五、保持状態確認。
六、保持材・導線材の補修/交換。
七、継ぎ。
八、資材受領・数量確認・余剰返却。
九、帳面受取・前季記録との照合。
十、通常見分で異常らしき状態を確認した場合の別帳面処理・後日再見。』
続いて、最重要の注意を書く。
『上記はローデル北部役務抄から確認した仕事。アルヴェイン家資料「北方旧務」の内容と同一とは未確定。』
その下に、今日見つけた二つの記録を整理した。
『北部第三旧所:
「秋見分。保持の落ち、例年より早し。現場のみで定めず、北務帳へ移す。再見は三日後。」
推定約160年前。原日付欠損。』
『対応候補記録:
「第三旧所、再見。保持、前見より落ちなし。導線乾き、異常なし。継ぎ見送り。」』
さらに家資料と並べる。
『家・旧務雑録:
「秋見分、満ちの減りあるときは別記へ移す。」』
『アーネスト:
「北方、今年の継ぎは早める。雨多く、満ちの落ち早し」
「継ぎ後、三日を置き再見。白き材、応じよし」』
シュウは筆を止め、並んだ文章を眺めた。
似ている。
秋の見分。
減り、あるいは落ち。
別の記録への移行。
三日後の再見。
継ぎ。
雨や湿り。
保持、満ち、白き材。
これだけ並べれば、一つの仕組みとしてまとめたくなる。
だからこそ、その下へ大きく書いた。
『似ていることは確認。まだ同じとは決めない。』
そして、違いも記録する。
『家資料:対象「満ち」不明。「別記」名称不明。』
『ローデル第三旧所:対象は「保持」。別記候補名称「北務帳」。導線の湿り/乾燥が判断材料に含まれる可能性。継ぎは見送り。』
『アーネスト:雨多し。「満ち」の落ち早し。継ぎを早める。別記への言及なし。継ぎ後三日で再見。』
『同一制度・同一手順・直接継承を示す証拠ではない。』
(これでいい)
《はい。類似点と相違点が分けられております》
(北務帳は気になるけどな)
《次回以降の確認候補として記録すれば十分でしょう》
「分かってる」
今度は声に出てしまった。
向かいのエリオットが本から顔を上げる。
「何が?」
「北務帳を今すぐ調べなくていいって話」
「アルカディア?」
「うん」
「今日はまともなこと言ってる?」
「今日はな」
《失礼でございます》
抗議が聞こえたが、シュウは無視した。
しかし、しばらくするとアルカディアが遠慮がちに声を響かせる。
《ところでマスター》
(嫌な予感がする)
《本日の「旧務」に関連する旧設定が――》
(今日は聞かない)
《まだ内容を申し上げておりません》
(昨日の世界を預かる制度で学んだ)
《今回は世界規模ではございません》
(じゃあ何規模だよ)
《大陸規模です》
(ほぼ同じだよ!)
シュウは思わず額を押さえた。
エリオットが向かいから「また?」という顔をする。
「大丈夫。昔の俺が大陸規模で何かやらかしてただけ」
「昔のシュウ、毎日忙しそうだね」
「ノートの中だけな」
《正確には「失われし十三旧務」でございます》
(名前だけなら聞く)
《かつて世界創世以前より存在した十三の役務を――》
(創世以前に仕事を作るな!)
シュウが耐えきれず突っ込むと、エリオットがとうとう笑い出した。
アルカディアは何事もなかったかのように説明を続けようとしたが、シュウは今度こそ打ち切った。
現実の北方旧務は、世界創世以前から続く十三の使命ではない。
少なくとも、そんな証拠はどこにもない。
分かっているのは、アルヴェイン家がエドワルド以前から何らかの北方旧務に関わっていた可能性が高まっていること。
そして、ローデル北部では巡検だけではなく、建物、保持、資材、記録、補修、再見まで含む複数の役務が行われていたこと。
その二つの間に、どの程度の重なりがあるのかはまだ分からない。
だが、新たに「北務帳」という名称が見つかった。
家資料の「別記」と同じものかもしれないし、まったく別かもしれない。
次に調べる価値はある。
シュウはその候補だけをノートの最後へ書き足し、今夜はそこで頁を閉じた。




