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『黒歴史ノートが異世界で最強の魔導書になっていました』  作者: 伊佐波瑞樹


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第53話 古い『預かる』を調べても、前役家の名前は出てきませんでした


 翌朝、シュウは昨日書き上げた家族への返事を鞄へ入れてから、机の上に残っていた北方調査ノートを閉じたまま棚へ戻した。


 窓の外には薄い雲が広がっていたものの、雨の気配はない。朝の光は雲を透かして柔らかく寮室へ入り、向かいではエリオットが制服の襟を整えながら、シュウの動きを何となく眺めていた。


「今日は朝から開かないんだ」


「何を?」


「北のノート」


「昨日まとめたからな。それに、まず手紙を出す」


 シュウは鞄を軽く叩いた。


 北方旧務について追加で調べてほしいと催促する手紙ではない。学院で元気に過ごしていることや、友人たちと生活していることを中心に書き、古い資料については調べてくれた礼と、今後自然に関連資料が見つかった場合だけ知らせてほしいと記してある。


 エリオットはその説明を昨日聞いているため、それ以上尋ねなかった。


「じゃあ、朝食のあと郵便受付?」


「うん。そのまま教室」


「図書館は?」


「まだ朝だぞ」


「予定を聞いただけ」


「授業が終わってから決める」


 そう答えると、エリオットは少し考えたあと、満足そうに頷いた。


「九割七分維持」


「何もしなくても下がる可能性あるのか、その信用度」


「あるよ」


「厳しすぎるだろ……」


 朝からいつものやり取りをしながら、二人は寮室を出た。


 廊下には同じように朝食へ向かう学生たちの足音が響いている。窓から入る風は昨日より少し冷たく、季節がゆっくり進んでいることを感じさせた。


     ◇


 朝食後、シュウは学院の郵便受付へ寄り、家族宛ての封筒を預けた。


 受付職員が宛先を確認し、通常便として処理する。


 それだけのことなのに、手元から封筒が離れた瞬間、シュウは少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。


(ちゃんと普通のことも書けたしな)


《はい。ご家族への報告として適切な内容でございました》


(中身見てたのか)


《マスターが机上で執筆されていましたので》


(プライバシー……)


《私は常時携行される魔導書でございます》


(知ってるけどさ)


 どう考えてもアルカディアから完全な私生活を確保するのは難しそうだ。


 もっとも、今さらそれを本気で嫌がっているわけでもない。


 受付を離れ、エリオットと並んで教室へ向かう。


 昨日届いた家の記録について、次に確認したいことは決まっていた。


 「預かる」という語が、古い家務記録や行政文書でどのように使われていたのか。


 ただし、それだけを調べて一日を終えるつもりはない。


 まず授業を受ける。


 学院へ来た本来の目的は、北の森の歴史研究ではなく、魔法を学ぶことなのだから。


     ◇


 午前最初の授業は、ミレイ・アスターによる基礎実技だった。


 今日の課題は、二つの簡単な魔法を連続して使う際の切り替え制御である。


 学生たちは実技場に一定の間隔を空けて並び、それぞれの前には簡易観測台と小さな標的板が置かれていた。薄曇りの空の下、土の地面には昨夜の湿気が僅かに残り、風が吹くたびに訓練着の裾が揺れる。


「今日見るのは威力ではありません」


 ミレイは学生たちを見渡しながら説明した。


「一つ目の魔法を終えたあと、その残りを引きずらずに次の魔法へ移れるか。逆に、切り替えを急ぐあまり一つ目の停止が雑になっていないか。この二点を確認します」


 最初に使うのは《微灯》。


 次に、ごく弱い《送風》。


 どちらも基礎的な魔法で、シュウも何度も使っている。


「最初から速さを競わないこと。一つ目を終える、状態を確認する、二つ目へ移る。この流れを確実に行ってください。慣れてきたら、必要以上の間を少しずつ減らします」


 ミレイの合図で、学生たちが練習を始めた。


 シュウは右手の少し先へ小さな光を作る。


 明るさを一定に保ち、数呼吸維持したあと、出力を滑らかに落としていく。光が完全に消えたことを感覚と観測台の両方で確かめ、それから《送風》へ移った。


 弱い風が標的板に吊られた細布を揺らす。


 特に問題はない。


 二回目では、切り替えまでの間を少し短くした。


 それでも急がない。


(消した直後に次へ行くんじゃなくて、終わったのを確認してから)


《魔力流の残留も目立ちません》


 アルカディアの補助感知を聞きながら、シュウは三回目へ移る。


 近くではエリオットが《微灯》から《送風》へ切り替えたところだった。風属性そのものは扱えるため二つ目は安定しているが、最初の光を止める直前に意識が次へ向き、僅かに明るさが揺れている。


 ミレイもそこへ気づいた。


「エリオット君。次の魔法を考え始めるのが少し早いですね」


「はい」


「二つ目の準備をすること自体は悪くありません。ただし、一つ目の終了操作を手放さないこと。今は速さより境目を明確にしてください」


「分かりました」


 エリオットは素直に頷き、次の試行では間を少し長く取った。


 今度は《微灯》が安定したまま弱まり、完全に消えたあとで風へ切り替わる。


 シュウが横から小さく親指を立てると、エリオットは一瞬だけ笑った。


 反対側では、ダンが別の列で同じ課題へ取り組んでいる。


 彼は一つ目の停止自体は以前より滑らかになっていたものの、二つ目へ移る際に勢いが付き、指定より強い風を出してしまった。標的の細布が大きく横へ流れ、本人もすぐ気づいて魔力を落とす。


「切り替えた瞬間に力む癖がありますね」


 巡回してきたミレイが言う。


「分かってるんですけど、次だって思うとつい……」


「なら、『次』ではなく『別』と考えてみてください。一つ目の勢いを持ち込む必要はありません」


「別……分かりました」


 ダンは一度肩を回して力を抜き、もう一度やり直した。


 その次の風は、まだ指定より僅かに強かったが、先ほどほどではない。


 離れた位置にいるセシリアも、自分の練習の合間にそれを見ていた。ダンが以前なら失敗直後にすぐ再試行していたところを、今は一度止まって呼吸を整えてから再開していることに気づき、少しだけ表情を和らげる。


 本人は自覚していないかもしれない。


 それでも、練習の仕方は確実に変わっていた。


     ◇


 授業の後半、シュウはミレイから切り替え間隔をさらに短くしてよいと許可された。


 《微灯》を止め、《送風》へ移る。


 停止から次の発動までの間は、最初よりかなり短い。


 それでも、一つ目と二つ目が混ざる感覚はなかった。


「いいですね」


 ミレイが観測台を確認する。


「切り替えを急いでも、停止確認そのものは抜けていません。今の感覚を覚えておいてください」


「はい」


「ただし、慣れたからといって何でも連続させる必要はありません。複雑な魔法や不安定な魔法では、意図的に間を取る方が安全な場合もあります」


 シュウはその言葉に頷いた。


 漆黒魔力が頭をよぎったが、わざわざ結びつけることはしなかった。


 今やっているのは普通の基礎実技だ。


 漆黒魔力についてはグレイとセレナが観測方法を検討しており、追加実験を急がないと決めている。


 普通の授業を普通に受ける。


 それも今のシュウに必要なことだった。


     ◇


 昼休み。


 五人が食堂へ集まると、ダンは席へ座るなり自分の右腕を軽く揉んだ。


「切り替えって、思ったより疲れるな」


「力入れすぎなんじゃない?」


 エリオットが言う。


「途中から抜いたって」


「最初から抜けばいいのに」


「それができたら苦労しないだろ」


 ダンは反論しながらも、追加練習へ行くとは言わなかった。


 セシリアがそれを確認してから、少し笑う。


「今日は授業だけにしておくんですか?」


「そのつもり。明日またやる」


「珍しい」


「お前ら最近、俺を何だと思ってるんだ?」


 ダンが不満そうに言うと、シュウとエリオットが思わず顔を見合わせた。


「それ、俺も最近言った」


「似た者同士ですね」


 セシリアの一言で、今度はダンまでシュウを見る。


「一緒にすんなよ」


「何で俺が嫌がられる側なんだよ!」


 食卓に笑いが広がった。


 その空気が落ち着いたところで、ユリウスがシュウへ尋ねる。


「昨日の『預かる』、調べる?」


「少しだけ。今日、図書館で用例を見ようと思ってる」


「僕も行っていい?」


「もちろん」


 エリオットはパンをちぎりながら、当然のように言った。


「僕も行く」


「今日は止めなくていいのか?」


「調べる目的が決まってるから。閉館まで何冊も増やし始めたら止める」


「監視役じゃん」


「最初からそうだよ?」


 シュウは反論を諦めた。


 セシリアが少し考えてから口を開く。


「『預かる』だけを探すなら、歴史辞典のようなものを見るんですか?」


「まずは用語集かな。でも昨日の授業で、辞書の意味だけじゃなくて同時代の用例を見るって言ってたから、北部に近い地域の家務文書とか行政文書の研究書があればそっちも見たい」


「地域まで近づけるんですね」


「できれば。ただ、ローデルそのものの用例が都合よく見つかるとは思ってない」


 ユリウスが頷く。


「見つからなかった場合も、『預かる』の意味を決めない。それでいいと思う」


「うん」


 ダンが料理を食べながら首を傾げた。


「でもさ、その言葉の意味が分かっても、前役家が誰かは分からないんだろ?」


「たぶんね」


「じゃあ今日は何が分かれば成功なんだ?」


 シュウは少し考えた。


「『預かる』から何を言っていいか、何を言っちゃ駄目かが分かれば成功かな」


 ダンはしばらく黙り、それから「やっぱり歴史って面倒だな」と昨日と同じ結論へ戻った。


     ◇


 放課後、シュウ、エリオット、ユリウスの三人は図書館へ向かった。


 入口を抜けて受付へ行くと、マティアス・レンが返却された本の状態を確認しているところだった。


「こんにちは」


「こんにちは。今日は何を探していますか?」


「古い文書で使われる『預かる』って言葉の用例を調べたいんです。できれば百五十年から二百年くらい前で、北部か、その周辺の家務記録や行政文書に近いものを」


 マティアスは作業の手を止めた。


「特定の資料名ではなく、用語からですか」


「はい。家にある古い帳面で使われてたんですけど、今の意味だけで判断したくなくて」


「それなら、一般語彙の辞典だけでは不足するでしょうね」


 マティアスは少し考え、受付脇の案内目録を開いた。


「古文書用語集と、北部諸領の家政文書を比較した研究書があります。後者は個別の家について深く扱ったものではなく、役務や土地管理の表現を比較したものですが、目的には合うかもしれません」


「一般閲覧できますか?」


「はい。どちらも開架です」


 案内された棚へ向かい、三人はまず二冊だけを選んだ。


 一冊は『旧家政文書用語小録』。


 もう一冊は『北部諸領家務記録比較』。


 どちらも後世の研究者がまとめた本であり、当時の原資料そのものではない。


 その点を確認してから、昨日と同じ大机へ座った。


「今日は二冊」


 エリオットが確認する。


「増やさないよ」


「本当に?」


「必要になったら相談する」


「九割八分」


「一気に上がらなくなったな」


「百に近づくほど難しくなるから」


 何の評価制度なのか、ますます分からない。


     ◇


 最初に開いた『旧家政文書用語小録』では、「預」「預り」「預かる」に相当する古い表現が複数まとめられていた。


 ただし、シュウたちが期待したような単純な定義はなかった。


 ある地域では、他家が所有する土地や施設を期限付きで管理する場合に使われる。


 別の地域では、領主から役務を任された家が、その仕事を代々担う場合にも「預かる」と記されている。


 倉庫、橋、関所、林地、用水路、祭祀施設など、対象もさまざまだった。


「昨日リディア先生が言ってた通りだ」


 シュウが小声で言う。


「一時的とは限らない」


 ユリウスが該当箇所を読みながら続けた。


「でも所有を意味するとも限らない。ここに、『土地所有と役務預かりは別記される例が多い』ってある」


「それは大きいかも」


 シュウはノートへ書き写した。


『「預かる」=一時代行とは限らない。恒常・世襲的役務にも用例あり。ただし所有・支配権取得を必ず意味しない。』


 さらに読み進める。


 用語小録には、同じ家の中でも時代によって表現が変わる例が載っていた。


 初期には「預かる」とされた役務が、数十年後には「守る」「任ず」「役を負う」と書かれ、さらに後には特別な名称を使わず家の通常業務として記録されることもある。


「役職名が消えても仕事が消えたとは限らないって話と似てる」


 エリオットが言った。


「うん。逆もあるかもな。言葉だけ残って、中身が変わる」


 シュウは以前学んだことを思い出しながら、注意書きを加えた。


『同語継続=同制度継続ではない。語の変化=役務消滅でもない。』


 ここまでは一般論だ。


 アルヴェイン家の「預かる」がどれに当たるかは、まだ分からない。


     ◇


 次に『北部諸領家務記録比較』を開く。


 こちらは北部に存在した複数の領地や家の記録を比較し、土地管理、森林管理、街道維持、倉庫管理などで使われた表現を整理した研究書だった。


 シュウたちは索引から「預」「旧役」「受渡」「前役」に近い項目を探した。


「『前役』ある」


 ユリウスが見つけた。


 三人の視線が集まる。


 しかし、本文を読んでみると、すぐに期待したものとは違うと分かった。


 この研究書で扱われる「前役」は、特定の家を指す固有の呼称ではなく、「以前その役務を担当していた者」「前任の担当」「旧来の役家」などを文脈に応じて表す語として紹介されていた。


「じゃあ、『前役家』って家の名前じゃない可能性が高い?」


 エリオットが尋ねる。


「可能性は上がったかもしれない。でも、この本に載ってる地域とアルヴェイン家の帳面が同じ用法とは限らない」


 シュウは答えながら、自分でも慎重すぎるように感じた。


 けれどユリウスは満足そうに頷く。


「その言い方でいいと思う。少なくとも、『前役家』が固有の家名だと考える必要はなくなった」


「元々家名だとは思ってなかったけど、前の担当家を指す一般表現として使われた例が北部周辺にもある、くらいかな」


「うん」


 シュウはそのまま記録した。


『北部周辺の後世比較研究に、「前役」「旧役家」等を前任担当者・旧来担当家の一般表現として扱う例あり。アルヴェイン家資料の「前役家」と同用法かは未確定。固有家名ではない可能性を補強する程度。』


 さらに調べると、「預かる」の北部用例もいくつか見つかった。


 森林境界の巡検を預かる家。


 街道沿いの避難小屋の維持を預かる村。


 冬季だけ橋の管理を預かる役人。


 領主から恒常的に薬草林の見分を預けられた家。


 同じ語なのに、期間も対象も権限も異なる。


「これじゃ、『預かる』だけでは何も決まらないな」


 シュウが苦笑する。


「それが今日の答えじゃない?」


 エリオットが言った。


「何も分からないのが?」


「違うよ。『預かる』だけで決めちゃ駄目って分かったんだろ?」


 シュウは一瞬黙り、それから笑った。


「そうだな」


 ユリウスも本から顔を上げる。


「むしろ候補を絞るには、預かった対象と権限を示す別の記述が必要って分かった」


「対象……」


 シュウは家から届いた文面を思い出した。


『北方旧務、前役家の残す定めに従い、当家これを預かる。』


 預かる対象として文法上もっとも自然なのは「北方旧務」だろう。


 だが、「北方旧務」が何を含むのか分からない。


 春秋の見分だけなのか。


 継ぎも含むのか。


 土地や施設の管理権限まで含むのか。


 異常時の対応まで含むのか。


「家の記録で調べるなら、『預かる』より『北方旧務』の中身かもしれない」


 シュウが言う。


「でも、家族にはもう無理に探さなくていいって返事出したんだよね」


「うん。だから急がない」


 シュウはそこで本を閉じなかった。


 残りの関連項目を確認し、同じ結論を支える用例がどの程度あるかだけを見る。


 似た例を一つ見つけて終わるのではなく、違う用法があることを確かめる。


 それが今日の目的だった。


     ◇


 しばらくして、ユリウスが別の箇所で手を止めた。


「これ、少し関係あるかも」


「何?」


「『受渡』の項目」


 家の古い目録には『受渡覚』という資料名がある。


 現物はまだ特定されていない。


 ユリウスが見つけた箇所では、北部諸領の古い家務記録における「受渡」は、役務そのものの引き継ぎだけを意味しないと説明されていた。


 帳面、鍵、境界標の写し、資材在庫、巡検経路の覚え、徴収記録など、担当変更に伴って物や情報を渡す記録にも使われる。


「つまり、『受渡覚』が見つかっても、それだけで管理権の移管記録とは限らない」


 シュウが言う。


「うん。でも、もし現物が見つかったら、何が渡されたのかを見る価値は高そう」


「それはそうだな」


 シュウは新たに書き加える。


『家目録「受渡覚」――現物未特定。「受渡」は北部周辺用例で、役務継承だけでなく帳面・鍵・資材・経路情報等の引渡しにも使用。発見時は「存在=管理権移管」とせず、対象物・当事者・時期を確認。』


 その横でエリオットが、少し呆れたように笑った。


「調べるほど、簡単に答えにならなくなるね」


「本当にそれ」


「でも、前より危ない線は減ってない?」


「危ない線?」


「『これが見つかったから全部つながった』って思い込むやつ」


 シュウは筆を止めた。


 前役家。


 預かる。


 受渡。


 どれも、初めて見たときには「引き継ぎ」を思わせる言葉だった。


 しかし実際に用例を調べてみれば、それぞれ複数の意味や使われ方がある。


 ハーゼン家からアルヴェイン家へ北方管理が直接移されたという仮説を補強する材料にも見えるが、現時点ではそこまで言えない。


「うん。減ってると思う」


 シュウは答えた。


「答えに近づいた感じは薄いけど、間違った答えに飛びつく可能性は減った」


「それならいいんじゃない?」


「いいと思う」


 エリオットの信用度制度は冗談だ。


 けれど、彼が何を見て評価を上げているのか、シュウにも少し分かってきた気がする。


     ◇


 今日は二冊だけと決めていたため、それ以上の資料は増やさなかった。


 『北部保持材研究録』も開かない。


 未読の章があることは覚えている。


 保持施設と地下構造について扱う章も、その先の停止や廃止を扱う章も気になっている。


 しかし、題名だけで現在の北の地下施設へ結びつけないためにも、今すぐ読む必要はなかった。


 支給台帳の申請もまだ行わない。


 今回の家資料と年代を無理に重ねないという方針も変えない。


 三人は借りた二冊を元の棚へ戻し、マティアスへ礼を言った。


「目的のものは見つかりましたか?」


 受付で尋ねられ、シュウは少し考えてから答えた。


「『預かる』の意味は決まりませんでした」


「そうですか」


「でも、決められない理由は分かりました」


 マティアスは一瞬だけシュウを見たあと、穏やかに頷いた。


「それなら、十分な調査だったのではないでしょうか」


「はい。俺もそう思います」


 図書館を出ると、薄曇りだった空は夕方になって少し明るさを取り戻していた。雲の切れ間から西日が差し、学院の塔の上部だけが淡い金色に照らされている。


 石畳を歩きながら、ユリウスが自分のメモを見直した。


「今日は前役家の名前は出なかった」


「うん」


「ハーゼン家の追加情報もなし」


「うん」


「でも、『預かる』と『受渡』の扱い方は分かった」


「それで十分だよ」


 シュウが答えると、ユリウスは静かに頷いた。


 彼にとっても、派手な発見より、事実と仮説の境界が明確になる方が性に合っているのだろう。


     ◇


 第一男子寮へ戻る途中、実技場の近くを通った。


 何人かの学生が放課後練習をしている。


 その中にダンの姿はなかった。


「本当に休んだみたいだな」


 シュウが言う。


「昼に今日はやらないって言ってたからね」


 エリオットが答える。


「前なら来てそうだったけど」


「シュウが言える?」


「俺まで巻き込むなよ」


「似た者同士なんだろ?」


 ユリウスが昼の会話を覚えていたらしく、淡々と追撃した。


「ユリウス、最近ちょっと容赦なくなってない?」


「友達だから」


「その言葉、便利に使ってない?」


 珍しく三人で笑いながら、寮へ続く道を進んだ。


     ◇


 その夜、シュウは今日の調査結果を北方調査ノートへまとめた。


『「預かる」用例確認。』


『一時的管理、恒常的役務、世襲的役務、季節限定管理等に使用例あり。語単独から期間・権限・所有関係を確定不可。』


『所有と役務預かりが別記される例あり。「預かる」=土地・施設所有権取得とは限らない。』


『同じ役務でも時代により「預かる」「守る」「任ず」「役を負う」等へ表現変化あり。同語継続=同制度継続ではなく、語の変化=役務消滅でもない。』


『北部周辺研究に「前役」「旧役家」等を前任担当者・旧来担当家の一般表現として扱う例あり。家資料の「前役家」と同用法か未確定。』


『「受渡」は役務継承以外に、帳面・鍵・境界資料・資材・巡検経路等の引渡しにも用例あり。家目録「受渡覚」の内容は現物確認まで不明。』


 最後に、今日の結論を書く。


『今回の確認では前役家の正体に進展なし。ハーゼン家との直接継承を示す新証拠なし。』


『「北方旧務を預かる」は、アルヴェイン家が何らかの北方役務へ関与したことを示す重要記述。ただし、役務範囲・期間・権限・管理対象は未確定。』


『次に必要なのは「預かる」の意味をさらに一般論で増やすことではなく、北方旧務そのものの内容を示す資料。急いで探索範囲を拡大しない。』


 そこまで書き、シュウは筆を置いた。


(今日はこれで終わり)


《承知いたしました》


(……今日は素直だな)


《昨日、マスターより黒歴史開示を控えるよう意思表示がございましたので》


(覚えてたのか)


《もちろんです》


 少しだけ感心しかけたところで、アルカディアが続ける。


《ただし、本日の調査内容に極めて関連性の高い旧設定が一件ございます》


(控えるんじゃなかったの!?)


《マスターが「今日は素直だな」と話題を振られましたので、会話再開の許可と判断いたしました》


(判定がおかしい!)


 シュウは声を抑えながら頭を抱えた。


 向かいの机ではエリオットが課題をしているため、大声で反応するわけにもいかない。


(……一件だけだぞ)


《ありがとうございます》


(礼を言うな。怖い)


《旧帝国には「預かりし者」という役職が存在します》


 シュウは嫌な予感を覚えた。


(何を預かるんだよ)


《世界です》


(でかすぎるだろ)


《正式名称は「終焉まで世界を預かりし最後の代行者」。世界の真なる支配者であるマスターが一時的に現世を離れる際、帝国宰相へ世界そのものを預ける制度でございます》


(世界を旅行中のペットみたいに預けるな)


《なお、代行期間は「我が帰還するまで」とのみ記されております》


(雑!)


《帰還予定日は未設定です》


(世界を預けたまま帰ってこないじゃん!)


 シュウは額を机へ付けたくなったが、途中で踏みとどまった。


 意味の分からない反応をしているシュウへ、エリオットが顔を上げる。


「今度は何?」


「『預かる』の意味を一日かけて慎重に調べた俺を、中学生の俺が全力で殴ってきた」


「分からないけど、大変そうだね」


「世界を預けるなよ……」


「何を?」


「何でもない」


 エリオットは数秒だけシュウを見ていたが、いつものことだと判断したらしく、再び課題へ戻った。


 シュウも顔を上げ、閉じたノートを見る。


 現実の古い記録にある「預かる」は、たった一語では意味を決められなかった。


 世界を預けるほど大げさでもなければ、一時的な代行と決まったわけでもない。


 だからこそ、次に探すべきなのは言葉の派手な解釈ではなく、その役務が実際に何をしていたのかを示す記録だ。


 前役家の名前は、今日も分からなかった。


 それでも、分からない名前を無理にハーゼンへ置き換えずに済んだ。


 シュウはそれを今日の成果として受け入れ、北方調査ノートを棚へ戻した。

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