第52話 『預かる』という言葉だけでは、引き継ぎとは決められません
机の上へ広げた便箋には、アルヴェイン家から届いた追加の調査結果が、普段の家族らしい近況報告と一緒に丁寧な文字で記されていた。
シュウは途中で見つけた一文へ戻りたい気持ちを抑え、そのまま続きを読み進めた。
『北方旧務、前役家の残す定めに従い、当家これを預かる。』
その文だけなら、何度でも読み返したい。
前役家という言葉は、以前の返事で知らされた古い家目録にもあった。そこには『北方旧務書付 前役家より来るもの含む』と記されており、誰なのか分からない「前役家」から北方旧務に関する文書がアルヴェイン家へ渡った可能性が示されていた。
しかし今回見つかった記述には、文書だけではなく「北方旧務」そのものを「当家これを預かる」とある。
(気になる。でも、先に全部読む)
シュウは自分へ言い聞かせ、次の行へ視線を移した。
今回の手紙は、先に送られてきた返答のあとも家族が古い帳面を調べ続け、その過程で追加の記録が見つかったため送られたものだった。
最初の返答で分からなかったことが、すべて解決したわけではない。
むしろ手紙には、その点について念を押す文章が続いていた。
『ただし、右の一文のみをもって、いずれの家より北方旧務を引き受けたものかは判断できない。帳面には前役家の名がなく、当家が何を、どの範囲で預かったのかも記されていない。』
シュウの肩から、知らず入っていた力が少し抜けた。
(家でも同じところを気にしてる)
《ご家族も慎重でいらっしゃいますね》
(助かるよ。これで「前役家はハーゼン家でした」って書いてあったら、一気に話が進んでたけど)
《進むことと、正しいことは別問題でございます》
(分かってる)
《現在のマスターであれば》
(最後に余計な一言を足すな)
アルカディアへ内心で返しながら、シュウはさらに読み進めた。
記述が見つかった帳面は、以前の返答で知らされたエドワルド以前の家務覚書の写しとは別のものだった。
表紙が失われ、最初と最後の数葉も欠けているため、正式な帳面名は不明。後世に付けられた保管札には『旧務雑録』とだけあり、書かれた正確な年代も確定できないという。
ただし、帳面の途中にエドワルド・アルヴェインより前の当主名と一致する署名が一か所あり、紙質や筆跡も含めて家に残る他の記録と比較した結果、少なくともエドワルドより前の時期に書かれた可能性が高い。
そこまで読んだところで、シュウは一度便箋から目を上げた。
向かいの机では、エリオットがこちらへ背を向けたまま課題を続けている。
紙をめくる音がした。
こちらを気にしていないふりをしてくれているのだろう。
シュウは小さく息を吐いてから、再び手紙へ目を戻した。
家族が該当箇所の前後も書き写してくれていた。
『北方旧務、前役家の残す定めに従い、当家これを預かる。春見分、旧境より北を先とす。秋見分、満ちの減りあるときは別記へ移す。』
続く一行は一部が擦れており、完全には読めなかったらしい。
『白――の改め、継ぎに先んじて……』
判読できない部分については、家族も推測で補わず、そのまま欠字として扱っていた。
シュウは眉を寄せた。
(白……)
頭の中へいくつもの言葉が浮かぶ。
白樹。
白材。
白き材。
白守。
けれど、そのどれを当てはめる根拠もない。
シュウは便箋の擦れた文字を見つめながら、意識して候補を追い払った。
(読めないなら、読めないまま)
《賛成いたします》
手紙にはさらに、家族側で行った照合についても書かれていた。
「春見分」という言葉は、以前見つかったエドワルド以前の家務覚書写しにある『春秋の見分を欠かさぬこと』と共通する。
また、グレゴール・アルヴェインの覚書には『春見分、北方異常なし。継ぎは旧定の通り』という記述がある。
そのため、少なくとも複数世代にわたり、「見分」と「継ぎ」に類する管理用語がアルヴェイン家の記録へ現れていることになる。
ただし、家族はここでも慎重だった。
『同じ語が用いられていることから、何らかの管理慣行が長く残った可能性はある。しかし、各年代における「見分」「継ぎ」の内容が同一であったかは不明。』
シュウは思わず口元を緩めた。
(俺よりちゃんとしてる気がしてきた)
《ご安心ください。比較対象が過去のマスターであれば、ほとんどの方が慎重に見えます》
(比較対象をそこにするな)
危うく声に出しそうになり、シュウは唇を閉じた。
エリオットの肩が僅かに揺れたので、こちらの様子には気づいているらしい。それでも振り返らずにいてくれた。
便箋はまだ続いている。
今回の調査でも、ハーゼン家という名称は見つからなかった。
レオルの名もない。
ゲオルグの名もない。
そして「前役家」が一つの家を指すのか、それ以前に北方旧務へ関わった複数の家や役職者をまとめて指したものなのかも分からない。
家族は古い目録にある『受渡覚』との関連も考えたようだが、その題名に対応する現物を特定できていないため、現段階では結びつけられないと書いている。
以前知らされた『旧境書』『春秋見分帳』『受渡覚』『白守関係二冊』についても、新たな所在確認はできていない。
特に『白守関係二冊』については、学院側の後世資料に現れた可能性のある『白守文書』と名前が似ているものの、同じ文書を指す証拠はない。
白守と白樹の関係についても、新しい情報はなかった。
(ここも変わらずか)
答えが増えなかったことに、以前ほど落胆しない。
むしろ、今回の追加情報によって「分からない部分」が少し細かく分かれた。
前役家から文書が来たらしいこと。
北方旧務をアルヴェイン家が「預かる」と書いた記録が存在すること。
その前役家がハーゼン家だとは確認できないこと。
預かった対象が土地なのか、役務なのか、文書なのか、管理権限なのか、それともその一部なのかも分からないこと。
そして、その記録自体の正確な年代も確定していない。
(情報は増えたのに、断定できることはそんなに増えてないな)
《歴史資料としては珍しいことではないのでしょう》
(たぶん。でも、前よりはどこを調べればいいか分かる)
シュウはそこで最後の便箋へ移った。
北の森については、今回も新しい異常は確認されていない。
二度目の鐘も鳴っていない。
古い小屋の外観にも変化はなく、家族は地下へ入っていない。
以前と同じく、無理に確認しないという約束を守ってくれている。
最後には、学院で調査を続けること自体は構わないが、授業や生活を優先するようにという注意があり、急いで返事を書く必要もないと添えられていた。
シュウは最後まで読み終えると、便箋を机の上へ揃えた。
すぐにノートへ手を伸ばさない。
まず、家族からの手紙として受け取る。
北の調査報告だけではない。
体調を気遣う言葉も、学院でできた友人について喜ぶ文章も、食事と睡眠を疎かにするなという注意も、全部含めて家から届いた手紙だった。
(返事はちゃんと書こう)
調査結果への質問だけを送り返すのではなく、学院生活についても書く。
それを決めてから、シュウはようやく顔を上げた。
「エリオット」
「読み終わった?」
「うん」
エリオットが振り返った。
何が書いてあったのかと急かすことはせず、シュウの表情を一度見てから尋ねる。
「悪い知らせじゃなかった?」
「それは大丈夫。森も変わってないって。鐘も二度目は鳴ってないし、家族も地下には入ってない」
「そっか」
エリオットの表情が僅かに緩んだ。
彼は地下扉の存在を知っているからこそ、「地下へ入っていない」という言葉の意味も理解できる。
「それならよかった」
「うん。それと、調べてくれてた記録で追加が見つかった」
「ハーゼン家?」
「そこは分からないまま」
シュウは椅子へ座り直し、何をどこまで話すか頭の中で整理した。
「エドワルドより前らしい帳面に、『北方旧務、前役家の残す定めに従い、当家これを預かる』って記述があったらしい」
エリオットはすぐに返事をせず、その文を頭の中で確かめるように視線を落とした。
「前役家って、前の手紙にも出てた言葉だよね?」
「そう。古い家の目録に、『前役家より来るもの含む』ってあった」
「じゃあ、同じ家?」
「それもまだ分からない」
シュウが即答すると、エリオットは少し目を丸くしたあと、納得したように頷いた。
「同じ言葉だからって、同じ相手とは限らないのか」
「うん。今回の帳面と目録が作られた時期も違うかもしれないし、その間に前の担当が変わってた可能性もある」
「なるほど」
「それに、『預かる』が何を意味するかも分からない。仕事全部を引き継いだのか、一部だけなのか、期間限定だったのか、権限じゃなくて実務だけなのか……」
「また増えたね」
「増えた」
二人で顔を見合わせ、少し笑った。
以前なら、新しい記録を見つけたことそのものに興奮していたはずだ。
今は、そこから何を言えて、何を言えないかを先に考えている。
シュウ自身、その変化を少し不思議に感じていた。
「でも、『預かる』って言葉は気になる」
エリオットが言った。
「うん。俺も」
「普通に家の仕事になったなら、『継ぐ』とか『受ける』でもよさそうなのに」
「そうなんだよ。ただ、その時代の家務記録で『預かる』がどういう意味だったのか知らないから、今の感覚だけで判断しない方がいい」
「言葉の意味も調べる?」
「必要になるかも。でも、明日すぐ辞書を十冊探すとかはしない」
「九割六分」
「まだ信用度制度続いてたのか」
「今日、図書館で上がったから」
エリオットが真面目な顔で答えるので、シュウは笑ってしまった。
◇
翌朝。
夜の間に少し気温が下がったらしく、寮を出たときの空気には薄い冷たさがあった。空は晴れているものの、東の低い位置には細長い雲が残り、朝日がその縁を白く照らしている。
シュウは普段通り朝食を済ませ、エリオットと一緒に教室へ向かった。
体調に異常はない。
魔力も静かで、漆黒魔力が勝手に表へ出ようとする感覚もなかった。
教室へ入ると、すでに席にいたユリウスが本から顔を上げた。
「おはよう」
「おはよう。ユリウス、昼に少し話せる?」
「北のこと?」
「うん。家から追加の手紙が来た」
ユリウスの目つきが少し変わった。
興味は明らかにあるが、その場ですぐ内容を尋ねることはしない。
「分かった。昼でいいよ」
「ありがとう」
シュウは自分の席へ向かった。
ユリウスには地下扉のことを話していない。
だから家族から届いた内容についても、北の森の現状をどこまで共有するかは分ける必要がある。
もっとも、今回の歴史資料に関する部分は、かなり共有できる。
前役家。
北方旧務。
預かる。
春見分。
秋見分。
満ち。
継ぎ。
そして判読できない「白――」。
どれも今後の調査へ関係しそうだが、どれも単独で答えになる言葉ではない。
◇
午前の基礎学科では、偶然にも古い行政文書の用語について触れる授業が行われた。
教壇に立つリディア・フェルンは、黒板へ三つの言葉を書いた。
『預かる』
『任せる』
『継ぐ』
「日常会話では似た状況に使われることがありますが、古い家政記録や行政文書では、これらが必ずしも同じ意味とは限りません」
シュウの筆が止まりかけた。
(今日それやるのか)
《実に都合のよい授業でございます》
(物語だったら出来すぎって言われそう)
《マスターの旧設定では、必要な情報はすべて「運命が導いた」で解決されております》
(授業聞かせろ)
シュウはアルカディアを意識の端へ追いやり、リディアの説明へ集中した。
「ただし、ここで注意してください。『預かる』という語を見つけたからといって、すべて一時的管理を意味すると覚えるのは間違いです。時代、地域、文書の種類、書き手によって用法が異なります」
黒板へ新しい項目が加えられる。
『語そのもの』
『文書種別』
『前後文』
『同時代の用例』
『後続記録』
「古い語の意味を判断するときは、このように周囲の情報を確認します。一つの語へ現代の意味を当てはめ、それだけで制度を復元してはいけません」
シュウはほとんどそのまま書き写した。
(危なかったな)
昨夜、「預かる」という言葉へ引っかかった。
エリオットとも、一時的な仕事なのか、権限ではなく実務だけなのかと候補を挙げた。
考えること自体は悪くない。
だが、その候補のどれかを採用する前に、当時の用例を確認しなければならない。
リディアは例として、百年以上前の地方領主家の記録を紹介した。
ある文書では「橋守を預かる」が、一定期間だけ別家の管理を代行する意味で使われている。
一方、別地域の家務記録では、同じ「預かる」が何代にもわたる恒常的な役務に使われていた。
さらに、役所側の文書では「預かり」が正式な役職名称の一部になっている例もあるという。
「したがって、語感だけで『一時的だった』『正式な引き継ぎではなかった』と判断することも、『預かったのだから完全に管理者になった』と判断することもできません」
シュウは昨夜の自分のメモを思い出し、頭の中で修正を加えた。
(「預かる」の意味を決めない。まず用例)
授業の終わりに、リディアはもう一つ重要なことを話した。
「歴史資料を読むとき、皆さんは珍しい言葉へ目を奪われがちです。しかし、本当に重要なのは、その言葉だけとは限りません。同じ文に、場所、季節、作業順序、異常時の処理などが書かれているなら、そちらが制度を復元する手掛かりになる場合があります」
シュウはそこで、昨夜の手紙を思い出した。
『春見分、旧境より北を先とす。秋見分、満ちの減りあるときは別記へ移す。』
自分は「前役家」と「預かる」へ意識を取られていた。
だが、その後ろにも情報がある。
春の見分には順序があったらしい。
秋の見分では、「満ちの減り」がある場合、何かを別の記録へ移したらしい。
それが何の満ちなのかは分からない。
白樹だと決めることもできない。
しかし、管理手順らしきものが書かれている可能性はある。
(昼にユリウスと整理しよう)
シュウはノートの端へ小さく印を付けた。
◇
昼休み、五人はいつもの食堂へ集まった。
今日の主菜は香草を使った鶏肉料理で、温かいスープとパンが添えられている。窓から入る風は昨日より少し冷たかったが、食堂の中は学生たちの熱気と厨房の火で暖かかった。
「家から手紙来たんだって?」
席へ着いてすぐ、ダンが尋ねた。
「何で知ってるんだ?」
「ユリウスが言ってた」
「内容は言ってないよ」
ユリウスがすぐ補足した。
「別にそこは疑ってないって」
シュウは笑いながらパンを取った。
セシリアが少し心配そうにこちらを見る。
「北の森は大丈夫だったんですか?」
「うん。家族が確認できる範囲では、新しい異常はないって」
地下については触れない。
二度目の鐘についても、ダンやセシリアには詳しい事情を共有していないため、わざわざ話さなかった。
「それならよかったです」
「ありがとう。それと、古い家の帳面から追加の記録が見つかった」
シュウは歴史調査として共有できる部分を説明した。
エドワルド以前とみられる帳面。
ただし正式な帳面名と正確な年代は不明。
『北方旧務、前役家の残す定めに従い、当家これを預かる。』
その後に続く春見分と秋見分の記述。
そして、一部判読できない『白――の改め、継ぎに先んじて……』。
説明を終えても、誰もすぐ結論を口にしなかった。
最初に反応したのはユリウスだった。
「前役家の名前はない?」
「ない。家でも確認できてない」
「ハーゼン家と結びつける資料も?」
「今回の帳面にはない」
ユリウスは頷き、少し考える。
「じゃあ、前役家がハーゼン家だった可能性は残るけど、今までと同じで確定できない」
「そう」
「でも、『前役家』って言葉自体は二つの家資料に出たんだよね?」
「そこは増えた。ただ、同じ前役家を指すかも未確認」
「なるほど」
ダンが腕を組んだ。
「俺だったら普通にハーゼン家だと思っちゃうな」
「私も最初はそう思いました」
セシリアが正直に認める。
「学院側の古い記録ではハーゼン姓の方が北部管理に関わっていますし、その後にアルヴェイン家の記録があるなら、どうしてもそう見えてしまいます」
「俺もそう見える」
シュウは否定しなかった。
「だから候補から外す必要はないと思う。でも、見えることと証明できることは別だから」
ダンはしばらく考え、やがて肩をすくめた。
「歴史って面倒だな」
「それは否定できない」
ユリウスが真顔で答えたため、食卓に小さな笑いが起きた。
「それより、僕はこっちが気になる」
ユリウスは自分のメモへ短く書きながら言った。
「『春見分、旧境より北を先とす』」
「俺も今日の授業で気づいた」
シュウが頷く。
「前役家ばっかり見てたけど、見分の順番が書いてあるんだよな」
「『旧境』が何の境界か分からないけど、少なくとも書いた人には説明不要な場所だった可能性がある」
「家の目録に『旧境書』もある」
その言葉を口にしたあと、シュウはすぐ続けた。
「ただし、同じ『旧境』を指すとはまだ言えない」
「うん」
ユリウスはあっさり同意した。
「でも確認候補にはできる」
セシリアがスープの匙を置いた。
「秋の方はどうでしょう。『満ちの減りあるときは別記へ移す』というのは、異常があった場合だけ別の帳面へ記録する、という意味でしょうか?」
「可能性はあると思う。でも、『別記へ移す』が転記なのか、別の担当へ回すって意味なのかも分からない」
シュウが答えると、ユリウスも続けた。
「そもそも『満ち』が何かも分からない。アルベルトの日記では白樹の満ちって書いてあったけど、この帳面では対象が省略されてる」
「同じものかもしれないし、違うものかもしれないってことですね」
「うん」
エリオットは四人の会話を聞きながら、パンをちぎっていた。
やがて、少し考えてから口を開く。
「昨日整理した支給台帳と、この手紙は分けた方がいいんじゃない?」
シュウがエリオットを見る。
「どういう意味?」
「支給台帳は百六十八年くらいから百五十七年くらいが中心なんだろ? 今回の家の帳面は正確な年代が分からないんだから、『同じ時期の記録かもしれない』って最初から重ねない方がいい気がする」
シュウは数秒黙った。
そのあと、ゆっくり頷いた。
「それ、かなり大事だな」
「そう?」
「うん。エドワルドより前らしいってだけで、レオルの時代と同じとは限らない」
ユリウスも頷く。
「紙質や署名で大まかな前後は分かっても、数十年ずれてる可能性はある」
「じゃあ、まず年代?」
エリオットが尋ねる。
「年代を確定できるなら一番いいけど、家にある情報だけで無理なら無理に決めない。そのうえで、同じ言葉の用例を探す方がいいかも」
シュウはそう答えながら、次に何をすべきかが少しずつ見えてくるのを感じていた。
新しい資料が来たからといって、すぐ別の資料を十冊探す必要はない。
まず、届いた情報を正しく分ける。
◇
午後の授業が終わったあと、シュウたちは図書館へは向かわなかった。
昨日、長い時間をかけて北方資料を整理したばかりだ。
今日も続けて閉館まで調査するより、まず手元の情報をまとめることにした。
ユリウスとは教室で少しだけ確認し、今回の家資料について共有する研究用情報を整理した。
『エドワルド以前の可能性が高い家帳面。正式名・正確年代不明。』
『「北方旧務、前役家の残す定めに従い、当家これを預かる」』
『前役家=ハーゼン家とは未確定。以前の家目録にある「前役家」と同一対象かも未確定。』
『「預かる」の当時の意味は未確定。同時代用例が必要。』
『「春見分、旧境より北を先とす」――旧境の場所・意味未確定。家目録「旧境書」との関係未確定。』
『「秋見分、満ちの減りあるときは別記へ移す」――満ちの対象、別記の意味・所在とも未確定。』
『「白――の改め、継ぎに先んじて……」――欠字を推測で補わない。白樹・白材・白守・白き材等との同一視禁止。』
ユリウスは最後の項目を見て、少しだけ口元を緩めた。
「候補が多いからこそ、埋めたくなるね」
「だろ?」
「だから埋めない」
「うん」
二人はそれ以上調査を広げなかった。
ユリウスが第二男子寮へ戻ったあと、シュウとエリオットも第一男子寮へ向かった。
西日が学院の建物の間から差し込み、石畳に二人の長い影が伸びている。
「今日は図書館行かなかったね」
「昨日行ったからな」
「研究室も?」
「行かない」
「追加練習は?」
「今日は授業で十分」
「九割七分」
「あと三分が遠いな……」
「最後の三分は難しいよ」
「何したら百になるんだよ」
「それを教えたら採点にならない」
エリオットが当然のように答えるので、シュウは諦めて空を見上げた。
晴れた夕空には薄い雲が伸びている。
北の森では、今のところ何も起きていない。
学院でも、漆黒魔力の追加実験は行わない。
急ぐ理由はない。
それでも調査は少しずつ進んでいる。
その速度が、今はちょうどいいと思えた。
◇
夜、三百十七号室。
シュウは家から届いた追加の手紙を、私的な部分と調査へ関係する部分に分けてノートへ記録した。
家族の文章そのものをすべて写すことはしない。
研究用の事実だけを抜き出す。
『家より追加調査結果受領。北の森、新規異常確認なし。鐘の再発なし。古い小屋外観変化なし。家族は地下へ入っていない。』
ここまで書いたあと、次の頁へ移る。
『新出家資料:後世保管札「旧務雑録」。正式帳面名不明。表紙・前後欠落。正確年代未確定。エドワルド以前の当主名と一致する署名あり。紙質・筆跡比較からエドワルド以前の可能性高。』
『「北方旧務、前役家の残す定めに従い、当家これを預かる。春見分、旧境より北を先とす。秋見分、満ちの減りあるときは別記へ移す。」』
『次行「白――の改め、継ぎに先んじて……」一部判読不能。欠字補完禁止。』
さらに、その下へ線を引く。
『確定できること:
・エドワルド以前とみられる家資料に「北方旧務」「前役家」「預かる」「春見分」「秋見分」「満ち」「継ぎ」に関する記述が存在。
・アルヴェイン家が何らかの北方旧務へ関与したことを示す資料が、エドワルド以前にも存在する可能性がさらに上昇。』
『確定できないこと:
・前役家の正体。
・前役家=ハーゼン家。
・今回の前役家=古い家目録の前役家。
・「預かる」=正式移管/恒久継承/一時代行。
・北方旧務=北の封所管理。
・旧境=現在知られている特定境界。
・満ち=白樹の満ち。
・判読不能の「白――」=白樹/白材/白守/白き材。
・各年代の「継ぎ」が同一作業。
・今回の帳面と『旧ローデル林区支給台帳・残巻』が同時期。』
書き終えたシュウは、しばらくその二つの欄を眺めた。
確定できないことの方が多い。
それでいい。
(昔なら、全部一本につないでたな)
《間違いなく》
(即答だな)
《「前役家とはすなわち闇の七家の一角であり、白き聖樹を守護し、世界核へ魔力を継ぐ者たちだった」程度までは一息で到達されたでしょう》
シュウの手が止まった。
(……今、適当に作った?)
《いいえ》
(あるの!?)
《旧ノート第三冊に類似記述がございます》
シュウは額を押さえた。
(怖いんだけど。現実の調査と似た単語が出てくるたびに怖いんだけど)
《単語数を大量に設定した結果、偶然似た語が存在する確率が高まっているだけかと》
(冷静な分析やめろ)
《なお、「闇の七家」の第四家以降は――》
(それは昨日聞いた! 設定してないんだろ!)
《はい。「後で考える」と》
(そのまま永遠に考えなくていい)
シュウは小声でそう呟き、ノートを閉じようとした。
だが、最後にもう一つだけ書き足す。
『次の確認優先順位:
一、「預かる」の同時代・同地域に近い家務/行政文書での用例。
二、「旧境」が資料名・地名・管理区分として他資料に現れるか。
三、支給台帳申請目的は従来通り。今回の家資料と年代を無理に重ねない。
四、「別記」を探すこと自体は候補とするが、現時点で新資料探索を広げすぎない。』
筆を置いた。
「終わり?」
向かいからエリオットが声をかけてくる。
「終わり」
「本当に?」
「今日はもう開かない」
エリオットは壁の時計を見た。
「まだ早いよ」
「だから何だよ」
「前のシュウなら、ここから図書館が閉まってることに気づいて残念がってた」
「俺を何だと思ってるんだ」
「調べものを始めると止まらない人」
否定しようとして、シュウはやめた。
少なくとも少し前までは、かなり当たっていた。
「じゃあ今日は家への返事を書く」
「それも調査?」
「違う。普通の手紙」
シュウは新しい便箋を取り出した。
最初に書いたのは、古い帳面への追加質問ではなかった。
学院で元気に過ごしていること。
授業は順調であること。
友人たちと食事をしたり、一緒に勉強したりしていること。
魔法の練習も、教師の指導を受けながら無理のない範囲で行っていること。
エリオットの名前を書くところで、向かいにいる本人を見た。
「何?」
「手紙にお前のこと書いていい?」
「何て?」
「友達がちゃんと休ませてくれます、って」
「事実だからいいよ」
「信用度制度のことは?」
「それはやめて」
「何でだよ」
「家族に変な心配されそうだから」
シュウは笑いながら便箋へ視線を戻した。
北方旧務については、調べてくれたことへの礼だけを書く。
追加で無理に古い資料を探してほしいとは頼まない。
もし今後、自然に整理する中で『旧境書』『受渡覚』『白守関係二冊』に対応しそうな資料が見つかった場合だけ知らせてほしい、と添える程度に留めた。
家族は学院の研究員ではない。
北の森を守るために、危険な場所へ入ってほしいわけでもない。
シュウが手紙を書き終える頃には、窓の外はすっかり暗くなっていた。
便箋を折り、封筒へ入れる。
明日の朝、学院の郵便受付へ出せばいい。
(これでよし)
《はい》
珍しくアルカディアから余計な黒歴史が続かなかったため、シュウは少しだけ警戒した。
(……何も言わないの?)
《ご希望でしたら》
(希望してない)
《では控えます》
(できるんじゃん)
《私は常にマスターの意思を尊重しております》
(昨日までの読み上げは何だったんだよ)
《愛情表現でしょうか》
(疑問形にするな)
思わず笑ってしまった。
向かいのエリオットが顔を上げたが、今度は何も聞かずにまた課題へ戻る。
シュウも机の上を片づけた。
新しい記録は見つかった。
けれど、「前役家」が誰なのかは分からない。
「預かる」が何を意味するのかも分からない。
北方旧務が現在の北の森とどこまでつながっているのかも、まだ証明できていない。
それでも、以前より一つだけ確かなことがある。
分からない言葉を見つけたとき、その空白へ自分の欲しい答えを入れる必要はない。
空白のまま残しておけば、次に確認すべき場所が見える。
シュウは消灯前の静かな部屋で、閉じた北方調査ノートへ一度だけ目を向けたあと、その夜はもう手を伸ばさなかった。




