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『黒歴史ノートが異世界で最強の魔導書になっていました』  作者: 伊佐波瑞樹


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第51話 調べる前に、何を知りたいのか決めることにしました


 翌朝の王立魔法学院は、前日の雨が嘘だったかのような青空に包まれていた。男子寮三百十七号室の窓から差し込む朝日は机の端まで届き、昨夜シュウが閉じた二冊のノートを明るく照らしている。


 目を覚ましたシュウは、すぐに起き上がるのではなく、布団の中で自分の身体の状態を確かめた。頭痛はなく、胸の違和感もない。魔力が勝手に動いているような感覚もなければ、普通の闇属性を使っていない今、「隣の道」と呼んでいるものを感じることもなかった。


(今日も問題なし、と)


《私が確認できる範囲でも、目立った異常はございません》


(それならよかった)


 昨夜、グレイとセレナから聞いた説明が頭に残っている。


 漆黒魔力が観測板へ黒く表示されるより前に、何らかの変化が起きている可能性がある。しかし、その正体はまだ分からない。だからこそ研究側は急いで再実験を行わず、まず観測方法そのものを検討することになった。


 シュウ自身も、すぐ答えを出したいとは思っていなかった。


 以前なら「もう一度やれば分かるかもしれない」と考えていた気がする。それが今では、「もう一度やっても、何を見たいのか決まっていなければ意味が薄い」と考えられるようになっている。


 その変化は、魔法研究だけで生まれたものではなかった。


 北の森について調べ始めてから、資料を一冊読むたびに新しい疑問が増えた。最初は、見つけた資料を片端から読めば答えへ近づけると思っていたものの、実際には資料同士の年代も目的も作成者も違い、同じ言葉さえ同じ意味とは限らない。


 何を知りたいのか決めずに探せば、情報が増えるほど迷う。


(昨日書いたやつ、今日ちゃんと整理するか)


 シュウが身体を起こしたところで、向かい側のベッドからエリオットの声がした。


「おはよう」


「おはよう。起きてたのか」


「今起きたところ」


 エリオットも身体を起こし、まだ少し眠そうな顔で窓を見る。晴れた空を確認すると、そのまま視線をシュウの机へ移し、二冊のノートを見つけた。


「朝から調査?」


「しないよ」


「まだ何も言ってないけど」


「その視線で分かる」


 シュウが苦笑すると、エリオットは否定せずにベッドから降りた。


「昨日、図書館に行くかは授業が終わってから決めるって言ってたから」


「覚えてたのかよ」


「信用度九割の残り一割を確認しないと」


「その一割、いつ消えるんだ?」


「シュウ次第」


 着替えを始めながら平然と返され、シュウは小さく息を吐いた。だが、そのやり取りが嫌ではない自分にも気づいている。


「今日は図書館に行くとしても、いきなり新しい資料を増やすつもりはないよ」


「『北部保持材研究録』の続き?」


「それも候補だけど、先に年代を整理したい。支給台帳を見るなら、何を確認したいのか決めてから申請した方がいいと思うから」


 エリオットは制服の上着へ腕を通しながら、少しだけ意外そうな顔をした。


「本当に変わったね」


「何が?」


「前なら、見られる資料を見つけたら先に申請してた気がする」


「俺もそう思う」


 シュウが素直に認めると、エリオットの口元が僅かに緩んだ。


「じゃあ九割一分」


「一分だけ!?」


「積み重ねが大事なんだろ?」


「そうだけど、そこで使う言葉じゃない気がする……」


 朝から妙に細かい信用度を提示されながら、シュウは制服へ着替えた。


     ◇


 午前の魔法理論では、属性変換そのものではなく、魔力操作における「目的の分離」が扱われた。


 教壇に立つグレイは、黒板へ同じ大きさの三つの円を描き、それぞれの下へ「発動」「維持」「停止」と書き込んでいく。


「一つの魔法を使うとき、初心者ほど『魔法を出す』という一つの動作として考えがちだ。しかし実際には、発動時に必要な制御、維持中に必要な制御、終了時に必要な制御は同じではない」


 教室の学生たちがノートを取る音の中で、シュウも黒板の三つの円を書き写した。


「火球を作る場合、発動だけを成功させても、維持ができなければ形は崩れる。維持ができても停止を雑にすれば、残った魔力が意図しない方向へ流れる場合がある。逆に言えば、どの段階で失敗したかを分けられれば、『魔法が苦手』という曖昧な評価ではなく、何を練習すべきか判断できる」


 シュウは筆を止め、昨日の研究室で聞いた話を思い出した。


 漆黒魔力も似ている。


 最終的に黒く見える状態だけを見ていては、その前に何が起きているのか分からない。


(結果だけじゃなくて、途中を分けるのか)


《適切な理解かと》


(昔の俺はどうだった?)


《発動前、発動中、発動後の三段階を設定した魔法がございます》


(珍しくまともじゃん)


《発動前は「世界へ己の存在を認識させる段階」、発動中は「世界の法則を屈服させる段階」、発動後は「世界がマスターの偉業を記憶する段階」です》


(全部駄目だった)


《なお、通常の魔力制御に関する記述はございません》


(だろうな)


 シュウは遠い目になりかけたが、グレイの説明が続いたため意識を戻した。


 授業の後半では、実際に簡単な《微灯》を使い、発動・維持・停止のどこへ意識を置くかによって変化を確認する。シュウは以前の練習で停止制御を繰り返していたため、灯りを弱めながら消す操作にも大きな乱れはなかった。


 周囲では、停止を意識しすぎて維持中の光が揺れる学生や、発動を抑えすぎて最初から小さすぎる光しか作れない学生もいる。


 グレイは失敗した学生を責めることなく、むしろその違いを示しながら説明した。


「今の失敗は悪くない。何を変えた結果、どこが変化したのか分かる失敗だからだ。最も困るのは、毎回すべてを変えてしまい、何が原因だったのか分からなくなることだ」


 シュウはその言葉にも印を付けた。


 昨日から、妙に調査へ使えそうな言葉が多い。


 もっとも、授業内容を何でも北の森へ結びつけるのも違うだろう。


(使える考え方だけ借りればいいか)


 そう整理すると、目の前の《微灯》へ意識を戻した。


     ◇


 昼休みになると、いつもの五人が食堂の窓際に集まった。


 晴れた日の食堂は雨の日より明るく、開けられた高窓から風が入り込んでいる。厨房から運ばれてくる焼きたてのパンと肉料理の香りが広がり、近くの席では午後の実技について話す学生たちの声が重なっていた。


「今日は図書館行くのか?」


 食事が始まって間もなく、ダンが尋ねた。


「まだ決めてないけど、行くなら新しい資料を探すんじゃなくて整理かな」


「図書館で整理?」


「自分のノートだけでもできるけど、今まで見た資料の年代をもう一回確認したいんだ。支給台帳を申請するなら、何を探すために見るのか決めたいから」


 シュウが説明すると、ユリウスがすぐに反応した。


「『ローデル林区支給台帳・残巻』?」


「うん」


「署名が必要なやつだよね」


「状態が悪いからな。だから余計に、『何かあるかもしれないから見たい』だけで申請するのは違う気がしてきた」


 ユリウスは少し考え、パンを皿へ戻した。


「僕も一緒に整理していい?」


「もちろん。むしろ助かる」


「じゃあ僕も行く」


 その会話を聞いていたセシリアが、スープの匙を置いてから口を開いた。


「確認したいのは、ハーゼン家とアルヴェイン家の間ですか?」


「そこが一番気になる。ただ、直接引き継いだって決めつけないためにも、まず記録が薄い年代を見たい」


「昨日話していた、記録がない時期ですね」


「そう。あと、支給台帳に人名が残ってるとは限らないから、何が支給されてたかだけでも意味はあると思う」


 セシリアは納得したように頷いた。


「役務の名称が変わっていても、同じような資材が継続して支給されていれば、仕事自体が続いていた可能性を考える材料にはなりそうですね」


「ただし、同じ資材だから同じ仕事とは限らない」


 ユリウスが静かに補足する。


「はい。そこは分けないといけませんね」


 二人のやり取りを聞きながら、ダンは少し眉を寄せていた。


「つまり、その台帳を見れば全部分かるわけじゃないんだろ?」


「たぶん分からない」


 シュウが答えると、ダンはますます不思議そうな顔になった。


「じゃあ、何で見るんだ?」


「全部分からなくても、今分からない部分が少し狭くなるかもしれないから」


「昨日の黒い魔力と同じじゃん」


 思いがけない言葉に、シュウは瞬きをした。


 ダンはパンをちぎりながら続ける。


「先生たちが調べても正体は分からなかったけど、機械のせいっぽいところと、まだ分からないところは分かれたんだろ? それと同じじゃないのか?」


 シュウはしばらく黙ったあと、笑った。


「ダン、研究向いてるんじゃない?」


「やめろよ。俺は実技でいい」


「そこまで嫌がらなくてもいいでしょう」


 セシリアが笑い、ダンは「本を何冊も読むのは無理だ」と真剣に首を振った。


 エリオットはその様子を眺めながら、シュウへ視線を向ける。


「今日は行った方がよさそうだね」


「うん。今なら、調べる前の整理で終われそうな気がする」


「終われそう、じゃなくて終わってね」


「信用度下げるぞ?」


「僕が採点する側だから」


「そうだった……」


 昼食の席に、また笑いが広がった。


     ◇


 午後の授業を終えたあと、シュウとエリオット、ユリウスの三人は図書館へ向かった。


 今回は『北部保持材研究録』を読み進めることが目的ではない。これまで参照した資料の年代と内容を並べ、次に何を調べる必要があるのか整理するためだった。


 図書館へ入ると、受付にいたマティアス・レンが三人へ気づいた。


「今日は三人ですか」


「はい。ただ、今日は新しい資料を出してもらう予定はありません」


 シュウが答えると、マティアスは一瞬だけ目を細めた。


「珍しいですね」


「俺、そんなに毎回資料増やしてました?」


「毎回とは言いません。ただ、調べものを始めた学生は、新しい書名を見つけるたびに追いかけたくなるものです」


 マティアスは穏やかに言いながら、閲覧席の方へ視線を向けた。


「整理だけなら、奥の大机が空いていますよ。地図を広げるのでなければ三人で十分使えます」


「ありがとうございます」


 三人は案内された大机へ向かった。


 窓から少し離れた場所にあるため直射日光は当たらず、天井の魔導灯が机全体を均一に照らしている。周囲には数人の学生がいるものの、それぞれ離れた席で本を読んでおり、小声なら相談できる程度の静けさだった。


 シュウは北方調査ノートを開いた。


「まず、今分かってる年代を並べたい」


「家の記録と公的資料を混ぜない方がいいと思う」


 ユリウスの提案に、シュウは頷いた。


「じゃあ、資料の種類も横に書くか」


 エリオットも筆記具を取り出した。


「僕は何すればいい?」


「俺たちが混ぜて考えてたら止めて」


「それ、かなり重要な役じゃない?」


「重要だよ」


 シュウが笑うと、エリオットは少しだけ姿勢を正した。


     ◇


 三人は、これまで確認した情報を年代順に並べ始めた。


 最も古い側には、ローデル林区そのものの成立や管理制度に関する情報がある。ただし、成立年を一点で断定できる資料はなく、確認できているのは複数の地図や行政資料から見た大まかな時期だった。


 その後、およそ二百十年前にはローデルという行政区分が確認できる。


 およそ百九十年前には、ゲオルグ・ハーゼンという人物がローデル北部の管理人として公的な記録へ現れる。


 およそ百八十年前前後の古い地図では、北部に四角と短い線を組み合わせた記号が見られる。また、現在のアルヴェイン家領にある古い見張り小屋も、建築そのものはおよそ百八十年前まで遡る可能性が高いが、その下の地下構造は小屋より古い。


 この地下構造について知っているのは、この場ではシュウとエリオットだけだった。


 シュウはユリウスの前でその情報へ触れないよう注意しながら、公開資料だけを整理する。


「百八十年前から百七十年前くらいだと、役務記録も増えるよね」


 ユリウスが自分のメモを確認する。


「『ローデル北部役務抄』では北部旧所が少なくとも三つ。第二旧所に白材と小型魔石、第三旧所に導材の記録があった」


「第二旧所は保持用白材四と導材一式だった記録もある。前年より保持が弱かったから、継ぎの前に交換するって内容」


 シュウが補足する。


「それとレオル・ハーゼン」


「北部管理補助。保持部確認、資材受領立会、継ぎ補助」


 ユリウスが続けた。


 エリオットは二人の会話を聞きながら、年代表の該当箇所へ線を引いた。


「ゲオルグが百九十年前くらいで、レオルが百七十年前くらいなんだよね?」


「うん。ただ、二人の関係は分かってない」


 シュウは念を押すように答えた。


「同じハーゼン姓でも、親子とか祖父と孫とか決められない。役職の引き継ぎ方も分からないし」


「今日の授業みたいだね」


「そうなんだよ」


 シュウはその横へ小さく書き足す。


『ゲオルグ→レオルの血縁・直接役務継承は未確認。』


 さらに、およそ百八十年から百七十年前と推定される『旧ローデル北部役務断片』の引用も加えた。


『北旧所、保持材の改め、春前に済ますべし。旧材は北倉へ戻す。』


 これはエルド・マルセルの『北部保持材研究録』に引用されていたもので、原資料の所在は現在不明。六十年前には北方地方史料整理室が所蔵していたが、その施設はすでに存在せず、資料は王立北方記録院や地方文書庫、研究機関などへ分散した可能性がある。


「この『北倉』も、別の記録に出てたよね」


 エリオットが言う。


「うん。第二旧所の補修資材と小型魔石を北倉から出した記録がある。でも同じ倉庫とはまだ言えない」


「同じ名前なら同じじゃないの?」


「可能性はあるけど、北側の倉庫を単に北倉って呼んでた施設が複数あったかもしれないから」


 ユリウスの説明に、エリオットは納得したように頷いた。


「名前が同じでも駄目なんだ」


「年代や場所、管理主体まで一致すれば強くなるけど、今はそこまで分からない」


 シュウは「北倉」の横にも疑問符を付けた。


 以前なら、同じ名称を見つけただけで線を引いていたかもしれない。


 今は線を引く前に、何が足りないかを考える。


     ◇


 さらに年代を下る。


 およそ百七十年前のアルベルト・アルヴェインの日記には、白樹についての記述が残っている。


『白樹の満ち、前年より僅かに弱し。春の終わりまでに継ぎを行う』


『今年の継ぎ、レオルに任す。白樹よく応ず』


 シュウはその二つを書き写したあと、すぐ横へ注意書きを置いた。


『レオル=公的記録のレオル・ハーゼンである可能性は高いが、同一人物確定の根拠を再確認する必要あり。』


 以前から年代と名前の一致によって関連性は強く見えている。しかし、同名人物の可能性まで完全に排除できる資料を確認したわけではない。


「ここでアルヴェイン家が出るんだよね」


 エリオットが表を覗き込む。


「うん。ただ、アルベルトの日記に出てくるからって、この時点でアルヴェイン家が全部の管理を引き継いでたとは言えない」


「レオルに任せてるなら、ハーゼン家側もまだ関わってるかもしれない?」


「そう。逆に、レオル個人がアルヴェイン家の下で仕事してた可能性もある。別の役所から派遣されてた可能性だってある」


 シュウが指を折るたびに候補が増え、エリオットは途中で苦笑した。


「候補、多いね」


「増やしたいわけじゃないんだけどな……」


「でも、減らす根拠もない」


 ユリウスの言葉に、シュウは頷いた。


「そうなんだよ」


 その少し後には、アルベルトの日記にある別の記述も置く。


『ローデル北部、春季巡検に同行。封所異常なし』


 これも重要だが、現在の北の古い小屋や地下施設がその「封所」である証拠はない。


 さらに年代が下ると、ローデルという行政区分そのものが廃止された時期へ近づいていく。確認できている範囲では、およそ百三十年前には旧制度が消え、その前後から現在の地域区分へ整理されていった。


 現在のアルヴェインという地名が資料上で明確になるのは、およそ百二十年前の地図だった。


「ここだ」


 シュウは年代表の一部分へ指を置いた。


 百七十年前前後には、ハーゼン姓のレオルとアルヴェイン家のアルベルトが同じ「継ぎ」に関わっていた可能性がある。


 百三十年前前後には、ローデルの行政制度が消えていく。


 百二十年前にはアルヴェインの地名が確認できる。


 その間を埋める資料が薄い。


「支給台帳で見たいのは、この辺り?」


 エリオットが尋ねた。


「たぶん。でも台帳の残ってる年代自体を、まだちゃんと確認してない」


 シュウはそこで手を止めた。


 これまで『ローデル林区支給台帳・残巻』という資料名と、状態が悪く閲覧に教員署名が必要ということまでは確認している。しかし、その残巻が具体的にどの年代を含むのかまでは調べていなかった。


「先にそれじゃない?」


 ユリウスが言う。


「うん」


 シュウは自分でも笑ってしまった。


「危なかった。『空白の年代を調べたいから支給台帳を申請する』って決めるところだった」


「対象年代が違ったら意味ないからね」


「今日来てよかった」


 新しい資料を読むどころか、申請する前の確認事項が一つ増えた。


 それでも、不思議と遠回りをしている気はしなかった。


     ◇


 三人はそこでマティアスのいる受付へ戻った。


「すみません。一つだけ確認したいんですが」


「はい」


「『ローデル林区支給台帳・残巻』って、どの年代が残っているか分かりますか? 中身を出してもらわなくて大丈夫です。目録上の情報だけ知りたくて」


 マティアスは少し考えてから、受付奥の目録棚へ向かった。


「資料そのものは閉架ですが、目録情報なら確認できます。少し待ってください」


 厚い目録帳が机へ運ばれ、マティアスは索引から該当箇所を探していく。


 シュウたちは受付前で静かに待った。


 やがて、マティアスの指が一つの項目で止まる。


「ありました。正式な登録名は『旧ローデル林区支給台帳・残巻』ですね」


「あ、旧が付くんですね」


「普段の案内では省略されることがありますが、登録名には付いています。今後申請するなら正式名を書いてください」


 シュウはすぐにノートへ修正を入れた。


 既存の名称を正確に使う。


 小さなことだが、資料を取り違えないためには重要だった。


「年代は……一冊の連続した台帳ではありません。残巻を後世にまとめたものです」


「複数年代?」


「そうですね」


 マティアスは目録を読み上げる前に、一度内容を確認した。


「目録上では、およそ百六十八年前から百五十七年前に相当する断片が中心。そのほか、年代不詳の数葉が付属しています。ただし、欠落が多く、毎年分が連続しているわけではないと注記されています」


 シュウは思わずユリウスを見る。


 ユリウスもこちらを見返した。


「百六十八から百五十七……」


 レオルが記録に現れる時期に近い。


 しかし、ローデル廃止へ近づく百三十年前までは届かない。


「俺が見たかった空白の全部には届かないな」


「でも、レオルの時期の後半は見られるかもしれない」


 ユリウスが静かに言う。


「うん」


 マティアスは二人の反応を見ながら、さらに目録へ目を落とした。


「内容分類としては、建築補修材、灯具、魔石、導線材、巡検用品、倉庫間移送記録など。人名索引はありません」


「支給先は?」


「目録には『役所名・管理区名・一部担当名を含む』とあります。ただし残存状態にばらつきあり、と」


 シュウは急いで書き留めるのではなく、一度頭の中で整理した。


(見たい年代全部じゃない。でも、百七十年前前後の役務が、そのあとどう続いていたかを見る材料にはなるかもしれない)


 それなら、目的は変わる。


 ハーゼン家からアルヴェイン家への移行を直接探す資料ではない。


 少なくとも、現時点ではそう期待しない方がいい。


「先生の署名が必要なのは、状態が悪いからですよね?」


「はい。閲覧自体が禁止されているわけではありませんが、担当教員が研究目的を確認したうえで申請する形です。保存担当者の立ち会いが必要になる場合もあります」


「分かりました。今日は申請しません」


 マティアスが僅かに眉を上げた。


「よろしいのですか?」


「目的をもう少し絞ってからにします」


 その返答に、マティアスは穏やかに頷いた。


「その方がいいでしょう。傷んだ資料は、何度でも気軽に開けるものではありませんから」


「はい。ありがとうございます」


 三人は礼を言い、再び大机へ戻った。


     ◇


「百六十八から百五十七年前」


 席へ戻ったシュウは、年代表へ新しい線を加えた。


『旧ローデル林区支給台帳・残巻――中心年代:約168〜157年前。欠落多。年代不詳断片あり。建築補修材/灯具/魔石/導線材/巡検用品/倉庫間移送等。役所名・管理区名・一部担当名を含む可能性。人名索引なし。』


 その下へ、さらに大きく書く。


『目的候補:レオル・ハーゼンが確認される時期以降、保持部・旧所関連の資材支給や役務が継続しているか確認する。アルヴェイン家への移管証明を直接期待しない。』


「それなら申請する意味はありそう」


 ユリウスが言う。


「うん。でも、もう一つ確認したい」


「何を?」


「今持ってる役務抄の記録と、年代が重なるかどうか」


 シュウは『ローデル北部役務抄』のメモを開いた。


 この資料は後世にまとめられた抄録であり、複数の原記録から抜き出された内容を含んでいる。個々の記録には推定年代が付いているものの、すべてが正確な年を持つわけではない。


「第二旧所の白材交換と、レオルの継ぎ補助が百七十年前前後。支給台帳の残り始めが百六十八年前くらいなら、完全には同年じゃないかもしれない」


「でも近い」


「そう。だから同じ出来事を探すんじゃなくて、その後にも似た支給が続いてるかを見る方がいい」


 ユリウスは頷いた。


「同じ出来事が載ってなくても失敗じゃない」


「うん」


 エリオットが二人を交互に見た。


「もし何も載ってなかったら?」


 シュウは少し考えた。


「それも結果かな。ただし、『載ってないから役務がなくなった』とは言わない」


「欠落が多いから?」


「それもあるし、別の台帳に分かれた可能性もある。そもそも支給が必要ない年だったかもしれない」


「……何もないことを証拠にするのって難しいんだね」


「たぶん、あることを証明するより難しい場合もある」


 シュウが答えると、ユリウスが静かに付け加えた。


「特に、残っている資料自体が不完全ならね」


 エリオットは納得したように頷き、年代表へ視線を戻した。


     ◇


 その後も三人は新しい本を開かず、既存情報の整理だけを続けた。


 東部旧採石地については、北部と混同しないよう別欄へ分ける。


 古い地図の東側にある記号と、旧採石地の巡検所は近い位置にある。しかし、巡検記録には「巡検所屋根異常なし」と「旧所保持部、別途確認」が分けて書かれているため、巡検所そのものと旧所保持部は同じ施設ではない可能性が高い。


 さらに比較用の別地域地図では、四角と短い線の記号が「特殊管理対象そのもの」ではなく、「それに付属する管理施設」を示していた例がある。


 ただし、それがローデルでも同じ意味だった証拠はない。


「これ、北の記号も同じ問題があるんだよな」


 シュウが言う。


「記号の場所に管理施設があって、実際の保持部とか旧所は少し離れてた可能性」


「東では、旧所保持部が巡検所とは別に書かれてる」


 ユリウスが答える。


「だから北も同じ、とは言えないけど、候補にはなる」


「そう」


 シュウは北部の欄へ、


『地図記号=旧所本体とは未確定。管理付属施設の可能性あり。東部比較は参考のみ。』


 と書いた。


 その文字を書き終えたとき、エリオットが隣から年代表を見ていた。


 シュウは地下扉の存在を知っている。


 そして自分も、あの夜にシュウから聞いてしまった。


 だがユリウスは知らない。


 シュウが北部の記号と現在の古い小屋を安易に結びつけずに話しているのを見て、エリオットは口を挟まなかった。


(ちゃんと分けてるんだ)


 以前、シュウが地下扉のことを自分へ話してしまったときは、本人も言った直後にまずいと気づいていた。


 今は違う。


 話せる情報と、まだ話していない情報を意識して区別している。


 研究のやり方だけでなく、秘密の扱い方も少しずつ変わっているのだと、エリオットには感じられた。


「エリオット?」


 名前を呼ばれ、エリオットは顔を上げた。


「何?」


「いや、ずっと俺のノート見てたから」


「ちゃんと整理できてるなって思ってただけ」


「信用度上がる?」


「九割二分」


「まだ一分ずつなのかよ」


 ユリウスが二人のやり取りを聞き、珍しく小さく笑った。


「百まで遠いね」


「ユリウスまでそっち側に行くなよ」


 静かな図書館なので声は抑えていたものの、三人の間には柔らかな空気が流れた。


     ◇


 夕方が近づき、窓から入る光が少しずつ傾き始めた頃、シュウは筆を置いた。


「今日はここまでにしよう」


 エリオットがすぐに時計を見る。


「まだ閉館まで時間あるよ?」


「だから終わるんだよ」


「……本当に?」


「何で残念そうなんだ」


「ちょっと感動してる」


「失礼だな!」


 声が大きくなりかけ、近くの席の学生がこちらを見る。


 シュウは慌てて頭を下げた。


「ごめんなさい……」


 ユリウスは笑いを堪えながら、机の上の紙をまとめ始めた。


「でも、今日は十分だと思う。支給台帳を申請する前に確認する目的も決まったし」


「うん。あと、支給台帳で百三十年前まで追えると思ってたのが間違いだったって分かった」


「申請前に分かってよかったね」


「本当に」


 シュウは年代表を見直した。


 今日、新しい歴史的事実が大量に判明したわけではない。


 新しく分かったのは、『旧ローデル林区支給台帳・残巻』の正式登録名と、およそ百六十八年前から百五十七年前の断片が中心であること、その内容分類くらいだ。


 それでも、次に何を調べるべきかは以前より明確になった。


 台帳を見るなら、アルヴェイン家への移管を直接探すのではなく、レオルが記録に現れた後の時期にも、旧所や保持部に関係しそうな資材支給が継続しているかを確認する。


 百五十七年前より後、ローデル廃止へ向かう時期については、別の資料が必要になる。


(最初から全部一冊で分かると思わない方がいいな)


《賢明かと存じます》


(黒歴史ノートなら一冊で世界の真実全部書いてあるけどな)


《はい。マスター自ら「この書には世界の始まりから終焉までの全てが記されている」と明記されています》


(中学生のノート一冊に収めるなよ、世界の全部を)


《実際には未記入頁が多数ございます》


(世界の真実、途中で飽きてるじゃねえか)


 危うく笑いそうになりながら、シュウはノートを閉じた。


     ◇


 受付へ戻ると、マティアスが借り出し記録を整理していた。


「もう帰りますか?」


「はい。今日はありがとうございました」


「いえ。申請する資料は決まりましたか?」


「候補は決まりました。でも、今日すぐには出しません」


 シュウは少し迷ってから、現在の目的を簡潔に説明した。


「『旧ローデル林区支給台帳・残巻』で、百六十八年前以降に北部旧所とか保持部に関係する支給が続いているか確認できないかと思っています。ただ、どの項目を優先して見るか、もう少し整理してから先生に相談します」


 マティアスは頷いた。


「それなら、申請理由としては十分整理されていますね。ただし、実際に閲覧できるかは担当教員と保存担当者の判断になります」


「分かってます」


「それと、残巻ですから、期待した地域の頁そのものが欠けている可能性もあります。その点は忘れないでください」


「はい」


 見られることと、答えが載っていることは別。


 それも、今なら自然に受け止められる。


 三人はマティアスへ礼を言い、図書館を出た。


     ◇


 外はまだ明るかった。


 夕暮れには少し早く、校舎の白い壁が西日を受けて淡い橙色に染まり始めている。実技場の方からは魔法を使う音が聞こえ、別の建物へ向かう学生たちが石畳を行き交っていた。


「本当に図書館だけで終わったね」


 エリオットが言う。


「何だよ、その確認」


「研究室にも行かない。追加練習もしない?」


「しない」


「北の別資料も探さない?」


「探さない」


「『北部保持材研究録』の第七章も?」


「今日は読まない」


 エリオットは少し考え、満足そうに頷いた。


「九割五分」


「急に三分上がった!」


「予想以上だったから」


「何を期待されてたんだ、俺は……」


 シュウが肩を落とす横で、ユリウスが淡々と言う。


「閉館まで残って、第七章だけ少し読むって言う可能性はあると思ってた」


「ユリウスまで!?」


「僕も少し思ってた」


「エリオットは知ってるよ!」


 二人から同時に警戒されていた事実へ抗議しながら、シュウは寮へ続く道を歩いた。


 けれど、その足取りは軽かった。


 新しい答えを見つけた日ではない。


 むしろ、答えを探す前に問いを整理しただけだ。


 それでも今のシュウには、それが一つの前進だと思えた。


     ◇


 夕食後、三百十七号室へ戻ったシュウは、今日作った年代表を改めて清書した。


 机の向かいではエリオットが課題を進めており、紙をめくる音と筆先が走る音だけが静かな室内に響いている。窓は少しだけ開けてあり、昼より涼しくなった風がカーテンをゆっくり揺らしていた。


 シュウは年代表を大きく四つへ分けた。


 第一は、旧ローデルの行政・地図資料。


 第二は、ハーゼン姓の管理者・補助者が現れる役務資料。


 第三は、アルヴェイン家に残る私的記録。


 第四は、後世の研究書や整理資料。


 同じ年代について書かれていても、資料の性質が違う。


 公的役務記録にある「保持用白材」と、アルベルトの日記にある「白樹」を、似ているからという理由だけで同一視しない。


 エルド・マルセルが六十年前に示した仮説も、古い時代の公式見解ではない。


 そして現在の自分たちが考えている仮説は、そのさらに後から資料を読んで作っているものだ。


『資料作成年代と、資料が扱う出来事の年代を分ける。』


 新しくそう書き足した。


(マルセルの本が六十年前だからって、書いてある出来事も六十年前じゃないもんな)


《当然ではありますが、長期間の調査では重要な区別でしょう》


(うん)


 シュウは続けて、次に調べる目的を三つだけ書いた。


『一、旧ローデル林区支給台帳・残巻の閲覧申請を検討。目的は約168〜157年前の北部旧所・保持部関連支給の継続確認。』


『二、台帳閲覧前に、既知の資材名――保持用白材、小型魔石、導材――の表記を整理。類似語を同一物と決めつけない。』


『三、百五十七年前以降〜ローデル廃止前後を確認できる別資料は、台帳確認後に必要性を判断。今すぐ増やさない。』


 三つ目を書き終えると、シュウは筆を置いた。


 以前なら、その下に「候補資料」として思いつく限りの本や記録を書き並べていたかもしれない。


 今日は書かなかった。


「終わった?」


 向かいからエリオットが尋ねる。


「うん。今日はこれで終わり」


「北の調査?」


「終わり」


「魔力の研究ノートは?」


「昨日まとめたから開かない」


「じゃあ――」


「黒歴史ノートも開かないぞ」


「それは別に聞いてない」


「先回りしたのに……」


 エリオットは笑いながら課題へ視線を戻した。


 シュウもノートを閉じようとして、ふと表紙へ手を置いたまま止まる。


 家族へ送った二通目の手紙は、まだ返ってきていない。


 あの手紙では、アルヴェイン家に残る最古級の北方管理記録、ハーゼン家からアルヴェイン家へ役務が移ったことを示す資料がないか尋ねている。


 今日整理したことで、その質問の危うさも少し見えてきた。


(俺、手紙では「ハーゼン家からアルヴェイン家へ」って聞いたけど、直接引き継いだって決まってないんだよな)


 もちろん、手紙では断定ではなく、そうした記録がないか尋ねただけだ。


 それでも、家族から返事が来たときは、自分の質問に引っ張られて読まないよう注意した方がいい。


『家族返信時――「直接移管」を前提に読まない。途中の管理主体・役職変更・共同管理等の可能性を残す。』


 最後にそれだけ書き加えた。


《マスター》


(何?)


《本日は実に堅実でございました》


(褒められると逆に怖いんだけど)


《では、黒歴史を一件》


(やっぱり来るのかよ)


《かつてマスターは、帝国の歴史を整理するため「真歴史年表」を作成されています》


(名前から嫌な予感しかしない)


《年表の最上部には「世界誕生――我、まだ生まれず」とございます》


(当たり前だろ!)


《その約三行後に「暗黒神誕生――我の前世かもしれない」と》


(年表で設定を迷うな!)


《さらに次の行には「保留」と記載されています》


(世界史を保留にするなよ……)


 シュウは両手で顔を覆った。


 向かい側からエリオットの笑い声が聞こえる。


「今度は何?」


「年表」


「北の?」


「俺の人生で一番見なくていい年表」


「それなら見なければいいのに」


「向こうから読み上げられるんだよ……」


 事情を知らないエリオットには意味不明な返答だったはずだが、最近ではこういうことにも慣れてしまったらしい。深く追及することなく、「大変だね」とだけ返して課題を続けている。


 シュウは机へ突っ伏しかけ、途中で身体を起こした。


 昔の自分は、世界の始まりから終わりまでを一冊へ詰め込もうとしていた。


 今の自分は、一つの古い支給台帳を見る前に、その台帳で何を確かめたいのか考えている。


 どちらが格好いいかと問われれば、中学生だった自分は迷わず前者を選ぶだろう。


(でも、今はこっちでいいや)


 派手な答えはない。


 古代の秘密が一日で判明するわけでもない。


 漆黒魔力の正体も、北の地下に何があるのかも、アルヴェイン家がなぜあの場所へ関わるようになったのかも分からない。


 それでも、分からないことを分からないまま区切り、次に何を確かめるべきか考えられるようにはなった。


 シュウは清書した年代表を北方調査ノートへ挟み、机の端へ置いた。


 今夜はもう開かない。


     ◇


 翌日に備えて寝支度を始めようとした頃、寮の廊下から足音が近づいてきた。


 夜の点呼にはまだ少し早い。


 一定の速さで進んできた足音は三百十七号室の前で止まり、控えめなノックが二度響いた。


 シュウとエリオットが同時に扉を見る。


「はい」


 エリオットが返事をすると、扉の向こうから寮職員の声がした。


「シュウ・アルヴェイン君。寮受付に君宛ての郵便物が届いています」


 シュウは椅子から立ち上がり、扉を開けた。


「俺にですか?」


「ええ。通常便です。受け取り確認だけお願いします」


 職員が差し出したのは、一通の封筒だった。


 研究棟から届く学院内の連絡用封筒ではない。


 見覚えのある紙質と、裏側に押された封蝋を見た瞬間、シュウの指が僅かに止まった。


 アルヴェイン家の印だった。


(返事……)


 二通目の手紙への返信。


 そう考えた途端、昼間まで年代表へ並べていた名前が頭をよぎる。ハーゼン、アルヴェイン、北部旧所、継ぎ、白樹、そして自分が家族へ尋ねた「最古級の北方管理記録」。


 しかし、シュウはその場で封を切らなかった。


 受取欄へ署名し、職員へ礼を言って扉を閉める。


 振り返ると、エリオットが机の向こうから封筒を見ていた。


「家から?」


「うん」


「待ってた返事?」


「たぶん」


 シュウは自分の机へ戻り、封筒をそっと置いた。


 待っていた。


 早く読みたい気持ちもある。


 それでも、昼間の整理が頭に残っている。


 自分は家族へ、「ハーゼン家からアルヴェイン家への引き継ぎ」を意識した質問を送っている。


 返事に何か似た言葉があったとしても、それだけで直接の継承を確定させてはいけない。


「読まないの?」


 エリオットが不思議そうに尋ねる。


「読む。でも、その前に一個だけ確認しておきたい」


 シュウは北方調査ノートをもう一度開き、先ほど最後に書いた一文へ目を落とした。


『家族返信時――「直接移管」を前提に読まない。途中の管理主体・役職変更・共同管理等の可能性を残す。』


 自分で書いたばかりの注意書きだ。


 それを読み返してから、シュウはノートを閉じた。


「よし」


「何が?」


「変な期待をしない準備」


「……手紙読むのに?」


「今の俺には必要なんだよ」


 エリオットは少し考えたあと、何となく理解したらしく頷いた。


「じゃあ僕、向こう向いてようか?」


「いや、家族の手紙だからって全部秘密じゃないし……でも、先に一人で読む」


「分かった」


 エリオットは素直に自分の机へ向き直った。


 シュウは椅子へ座り、改めて封筒を手に取る。


 封蝋を傷つけないよう端から開き、中の便箋を取り出した。


 何枚かある。


 一枚目の冒頭には、まずシュウの体調を気遣う家族らしい文章が並んでいた。


 学院生活はどうか。


 食事はきちんと取っているか。


 無理をしていないか。


 前回の手紙で友人が増えたと書いてあったことを家族が喜んでいること。


 その文章を読み、シュウの頬が自然に緩んだ。


(やっぱり家だな)


 すぐ北の話へ飛ばず、最初からゆっくり読む。


 便箋をめくる。


 そして二枚目の中ほどまで来たところで、シュウの視線が止まった。


 そこには、自分が尋ねた北方管理記録についての返答が書かれていた。


 家族が確認できた範囲では、アルヴェイン家に残る古い帳面の中に、これまでシュウが知らなかった記述が一つ見つかったらしい。


 ただし、その文面は「ハーゼン家からアルヴェイン家へ管理を引き継いだ」と明確に書いたものではなかった。


 むしろ、短い記述だった。


『北方旧務、前役家の残す定めに従い、当家これを預かる。』


 シュウは、その一文を二度読んだ。


 さらに三度目を読みかけて、手を止める。


(前役家……)


 ハーゼン家とは書かれていない。


 「受け継ぐ」ではなく、「預かる」。


 そして「前役家の残す定め」。


 それが何を意味するのか、今の段階では分からない。


《マスター》


 アルカディアの声も、今度は茶化す調子ではなかった。


《少なくとも、ご家族が確認された文面そのものからは、ハーゼン家との直接的な継承を断定することはできません》


(うん)


 シュウはゆっくり息を吐いた。


(だから、決めない)


 待っていた家族からの返事は届いた。


 けれど、そこに書かれていたのは答えではなく、今まで知らなかった新しい言葉だった。


 前役家。


 残す定め。


 そして、預かる。


 シュウは便箋を机へ置き、慌てて結論を書き始める代わりに、まず家族から届いた手紙を最後まで読むことにした。


 知りたかった一文だけを抜き出し、その周りを見なくなる失敗を、今日一日かけて避けようとしたばかりなのだから。

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