第50話 測れなかった時間にも、何も起きていなかったとは限りません
雨は夜のうちに上がったらしく、翌朝の王立魔法学院には久しぶりに澄んだ光が差し込んでいた。三百十七号室の窓を開けると、湿り気を残した風が入り込み、寮の前庭では昨夜の雨を含んだ木々の葉が朝日に照らされている。
シュウは窓枠へ手を置いたまま、しばらく外を眺めた。
昨日まで読んでいた『北部保持材研究録』には、まだ第七章以降が残っている。地下施設の停止や廃止について扱う章も気になっていたが、今日は朝から続きを読みに行こうとは思わなかった。
(昨日だけでも、かなり増えたからな)
保持材。
継ぎ。
地上施設と地下施設。
建設時の用途と現在の状態。
情報を増やすことより、一度整理する方が先だと思える程度には、ここ数日の調査量が増えている。
《非常に適切な判断です》
(今日は褒めるんだな)
《はい。なお、昨夜お伝えしかけた「終焉封界地下大聖堂ノクス・アビス」の第二階層には――》
(台無しだよ)
シュウは窓を閉めた。
向かい側では、すでに着替えを終えたエリオットが鞄の中身を確認している。教本、筆記具、昼の授業で使う簡易術式板を順番に収めたあと、シュウの机に置かれた北方調査ノートへちらりと目を向けた。
「今日は図書館に行く?」
「今のところ行かないつもり」
「本当に?」
「その確認、必要?」
「必要」
「信用度九割まで上がったんじゃなかったのかよ」
「一割は警戒してるから」
真顔で返され、シュウは何も言えなくなった。
「今日は授業が終わったら、一回ノートを整理するよ。第七章も気になるけど、昨日の地下構造の話を北へ直接当てはめないようにしたいし」
「それならいいと思う」
「だから何で許可をもらってる感じになるんだ……」
ぼやきながら鞄を持ち上げたところで、廊下側から朝の予鈴が聞こえてきた。
二人は部屋を出て、まだ少し湿った空気の残る廊下を階段へ向かった。
◇
午前最初の授業はリディア・フェルンによる基礎学科だった。
扱われたのは、王国各地に残る公共設備と、その管理責任についてである。
古い街道。
橋。
水路。
境界標。
共同倉庫。
現在では領主や王国が直接管理しているものでも、成立当初から同じ制度だったとは限らない。村落共同体、特定の家、商業組合、神殿、旧行政組織などが管理していたものを、後世になって別の主体が引き継いだ例も多いという。
「制度が変わったからといって、設備がその日に消えるわけではありません」
リディアは黒板へ三つの時代区分を書きながら説明した。
「逆に、設備が残っているからといって、管理制度まで昔のままだとも限りません。古い記録を読む場合は、『物がいつからあるか』『誰がいつ管理していたか』『その管理根拠が何だったか』を分けて考えてください」
シュウの筆が自然に動いた。
『設備の存続≠管理制度の存続。』
『施設成立時期/管理者/管理根拠を分ける。』
ローデル林区が存在した時代。
ハーゼン家が北部管理へ関わっていた時代。
アルヴェイン家の古い記録に「北方旧務」が残っている時代。
そして現在。
施設そのものと、管理する家や制度の変化は、同じ速度で進んだとは限らない。
(ハーゼン家からアルヴェイン家へ直接渡った証拠がないのも、途中に別の制度があった可能性だってあるんだよな)
もちろん、それも候補の一つでしかない。
前役家という言葉がハーゼン家を指すことさえ、まだ確認できていない。
《マスター》
(何?)
《かつての設定では、帝国の重要施設はすべて「闇の血脈を継ぐ七家」が世代を越えて管理しておりました》
(今の授業に便乗してくると思ったよ)
《ちなみに七家のうち、設定されていたのは三家のみです》
(残り四家は!?)
《「後で考える」と記されています》
(昔の俺、そこだけ妙に現実的だな……)
危うく笑いそうになり、シュウは口元を手で隠した。
隣の席のエリオットが怪訝そうに見る。
シュウは小さく首を横へ振り、授業へ意識を戻した。
リディアの説明はさらに、役務が家へ付随する場合と、役職へ付随する場合の違いへ進んでいた。
特定の家が代々担当したように見える記録でも、実際にはその家が役職を世襲していたため結果的に同じ姓が続いていただけの場合がある。一方で、役職名が変わっても家の義務として仕事だけが残る例もある。
「古い姓が続いているから世襲義務だ、とは限りません。逆に、役職名が消えたから義務も消えた、とも限りません」
以前学んだ「組織消滅と役割消滅を同じ意味にしない」という話が、別の角度から繋がってくる。
シュウはその部分にも印を付けた。
北方調査へ直接答えを与える授業ではない。
それでも、調べ方は少しずつ増えていた。
◇
午前最後の授業が終わる少し前、教室の後方扉が開いた。
授業補助の職員がリディアへ小さな封筒を渡し、短く何かを伝えて去っていく。
リディアは封筒の表を確認すると、授業終了後にシュウを呼び止めた。
「アルヴェイン君。ハルバート先生からです」
「グレイ先生から?」
「今日の放課後、第三観測室へ来られるか確認したいそうです。実験ではなく、前回の観測記録に関する説明とのことです」
シュウは封筒を受け取った。
中には簡潔な文面が入っている。
『先日の観測器検証について、現時点で整理できた内容を説明したい。追加実験は予定していない。都合が悪ければ別日可。』
その下にはグレイの署名があった。
「行きます」
「では、そのように返しておきますね」
「お願いします」
席へ戻ると、待っていたエリオットが封筒へ視線を向けた。
「研究室?」
「うん。前に言ってた観測器の確認が少し進んだみたい。今日は説明だけだって」
「黒い方?」
「たぶん。普通の属性と比べた記録も含むと思う」
シュウは手紙を折り直して鞄へ入れた。
以前、漆黒魔力を段階的に出したとき、シュウ自身とアルカディアは観測板が明確に黒く変化するより前から変化の始まりを感じていた。
その後、グレイとセレナは記録を細かく確認し、目に見える黒色反応が出る前に総魔力量のごく小さな揺れが存在した可能性を見つけている。
ただし、それが漆黒魔力の変化によるものなのか、シュウ自身の供給の揺れなのか、観測器の誤差なのかは分かっていなかった。
さらに、黒色反応が観測板の入口側からではなく中央付近から現れたことについても、観測板中央の感度が高いせいかもしれないという問題が残っている。
(そこを調べてたんだよな)
追加実験はしない。
その一文があるだけで、気持ちはかなり軽かった。
◇
昼休み。
五人が食堂へ集まると、シュウは放課後に第三観測室へ行くことを伝えた。
「今日は実験しないんだよな?」
ダンが最初に確認する。
「しないって書いてあった。前の記録と、先生たちが観測器だけで確認した結果の説明だと思う」
「ならいいけど」
「ダンさん、すっかり確認する側になりましたね」
セシリアが少し楽しそうに言う。
「だって前に、いきなり黒いの出してたじゃん」
「先生の前で許可もらってだけどな」
「それでも黒かっただろ」
「色の問題なのか?」
シュウが苦笑すると、ダンは「見た目は大事だ」と妙に真剣な顔で答えた。
ユリウスはパンへ手を伸ばしながら、別のことを確認する。
「図書館は?」
「今日は行かない。研究室の説明を聞いたあとで北の調査までやると、頭の中が混ざりそうだから」
「それがいいと思う」
「ユリウスまでエリオットみたいになってない?」
「僕は事実の味方だから」
「アルカディアと同じこと言ってる……」
「アルカディア?」
セシリアが首を傾げた。
シュウの手が止まる。
「いや、何でもない」
危なかった。
アルカディアの存在は、友人たちへ説明していない。
エリオットも当然知らない。
本人の声が自分にしか聞こえないせいで、つい普段のやり取りをそのまま口へ出しかけることがある。
《お気をつけください、マスター》
(誰のせいだと思ってるんだよ)
《私の発言を口外するか否かはマスターの判断です》
(急に正論で逃げるな)
シュウが内心で言い返している間に、話題は午後の授業へ移っていた。
今日はダンとセシリアも追加練習をせず、授業後は課題を進めるらしい。
「昨日やったからな。今日は休む」
ダンがそう言うと、セシリアも頷く。
「連日同じ練習をして、疲れた状態で崩しても仕方ありませんから」
「俺、自分から休むって言ったんだけど?」
「ええ。成長しましたね」
「何で子ども扱いなんだよ」
不満そうなダンを見て、五人の間に笑いが広がった。
その笑い声を聞きながら、シュウは少しだけ肩の力を抜いた。
北の森も、漆黒魔力も、まだ分からないことばかりだ。
それでも毎日のすべてが調査や研究で埋まっているわけではない。
こうして友人たちと食事をしている時間も、今の自分にとっては同じくらい大切だった。
◇
放課後、シュウはエリオットと一緒に研究棟へ向かった。
第三観測室の前まで来ると、エリオットは廊下の壁際にある長椅子を見る。
「今日もここで待つ?」
「説明だけだし、そんなに長くならないと思うけど」
「じゃあ課題やってる」
「先に寮へ戻っててもいいぞ?」
「一緒に来たんだから、一緒に帰るよ」
当然のように言われ、シュウは一瞬だけ返事が遅れた。
「……分かった」
「何?」
「いや、何でもない」
エリオットはすでに鞄から教本を取り出している。
シュウは小さく笑ってから扉を叩いた。
「アルヴェインです」
「入ってくれ」
グレイの声が返る。
室内にはグレイとセレナがいた。
以前使った多段式の魔力変化観測板は壁際の作業台へ置かれているが、今日は接続されていない。中央の机には数枚の記録紙と、数字や線が細かく書き込まれた比較表が並べられていた。
「来てもらって悪いね」
セレナが椅子を示す。
「いえ。何か分かったんですか?」
「分かったこともあるし、分からなくなったことも増えた」
「後半が研究者らしい言い方ですね」
「分かるようになってきたじゃない」
セレナが少し笑う。
シュウが腰を下ろすと、グレイは一枚の記録紙を手前へ動かした。
「最初に確認しておく。今日は説明だけだ。君に魔力を出してもらう予定はないし、漆黒魔力の再観測もしない」
「はい」
「体調は?」
「問題ありません。普通の授業で闇属性も使いましたけど、異常はありませんでした」
「例の感覚は?」
グレイの質問に、シュウは少しだけ姿勢を正した。
「前の属性比較実技で、普通の闇属性を維持しているときに自然に感じました。それ以降は闇属性を使う機会がないので、確認してません」
「意図的にも探していない?」
「はい」
「それでいい」
グレイは頷き、記録へ目を戻した。
「では、観測器側の検証結果から話そう」
◇
グレイとセレナが行ったのは、シュウを使わない確認だった。
観測板へ何も流さない状態。
無属性の通常魔力。
六つの既知属性。
それぞれを複数回。
さらに、供給量を一定にした場合と、ごく僅かに上下させた場合。
同じ条件を可能な範囲で繰り返し、観測板中央の反応と記録補助器の数値を比較したという。
「まず、前回の記録で見つけた小さな揺れについて」
セレナが一枚の紙を指した。
細い線がほぼ一定に続き、途中で僅かに上下している。
「結論から言えば、観測器だけの誤差では説明しにくい」
シュウは紙へ目を落とした。
「じゃあ、俺の魔力が変わった?」
「そこまでは言えない」
セレナはすぐに否定した。
「観測器そのものを無入力で動かした場合にも微小な揺れは出る。ただし、前回の君の記録と同じ形ではなかった。無属性魔力を一定供給した場合も、似た程度の小さな変動は出ることがあるけれど、位置や継続時間が一定しない」
「六属性では?」
シュウが尋ねる。
グレイが別の比較表を示した。
「属性変換の開始時には、総量側にも小さな変動が出る場合があった。ただ、既知六属性では変換観測板の属性反応とほぼ同時か、それより後だ」
「前の俺の黒い魔力は……」
「逆だった」
グレイが答える。
「君と、君が自分の補助能力として説明している感知側が変化を感じた時期に近いところで、総量記録に微小な揺れがある。その時点では観測板に明確な黒色反応は出ていない」
アルカディアについては、これまで「魔導書による補助感知」という範囲で説明している。
人格を持ち、会話していることまでは伝えていない。
シュウはその線を越えないよう注意しながら尋ねた。
「じゃあ、あの揺れが漆黒魔力への変化の始まりだった可能性はあるんですか?」
「ある」
セレナはそこで一度言葉を切り、記録紙へ指先を置いた。
「ただし、それだけじゃない。君自身が『変わり始めた』と感じたことで、無意識に供給量を僅かに調整した可能性もある。あるいは、私たちがまだ分類できていない別の変化が先に起き、その結果として総量が揺れた可能性もある」
「つまり、揺れがあったことは前より信用できるけど、何の揺れかは分からない?」
「そういうこと」
「なるほど……」
以前なら、少し肩透かしを感じたかもしれない。
しかし今は違う。
観測器の単純な誤差という候補が少し弱くなった。
その代わり、魔力供給そのものの変動なのか、変換開始に伴う変化なのか、それ以外なのかを区別する必要が出てきた。
(また、分からないものが細かくなった)
北方調査と同じだった。
◇
「次が、中央から黒色反応が出た件だ」
グレイが観測板の簡単な図を示した。
「これは少し厄介だった」
「中央の感度が高いんでしたっけ?」
「その通り。通常属性を極端に弱く流すと、入口側の変化より先に中央部だけが反応する場合が確認された」
シュウは思わず図へ顔を近づけた。
「じゃあ、漆黒魔力が中央から広がったように見えたのも……」
「観測器の特性で説明できる可能性がかなり上がった」
セレナが答える。
「特に弱い反応では、中央の検出部が先に拾う。だから前回の『中央に黒点が現れ、そこから広がった』という見え方だけを根拠に、漆黒魔力そのものが中央から発生したとは言えない」
「前にそうかもしれないって言ってたことが、実際に確認できたんですね」
「そう。ただし、完全に同じとも言えない」
セレナは別の紙を出した。
「六属性で中央先行が起きた場合、中央が反応してから他の部分へ表示が広がるまでの時間はかなり短い。前回の漆黒魔力では、その間隔が少し長かった」
「どれくらいですか?」
「記録補助器の時間単位で比較できるほど精密ではない。だから数字で差を出すのはまだ無理」
「……そこまで細かく測れないんですね」
「今使っている機材ではね」
グレイが腕を組む。
「ここが重要だ。観測できなかったからといって、その時間に何も起きていなかったとは言えない」
シュウは顔を上げた。
「測れない時間?」
「正確には、今の装置では変化を分類できない時間だ」
グレイは多段式観測板を指した。
「この板は既知属性の変換を観測するために作られている。魔力が火へ変われば赤、水なら青というように、既知の反応を検出する。その設計上、既知の分類へ当てはまらない変化が起きた場合、それが一定以上の状態になるまで表示できない可能性がある」
セレナが続ける。
「前回、君は変化を感じていた。補助感知も近い時期に何かを捉えた。総量記録にも小さな揺れがあった。でも観測板は白いままだった」
「その時間を、『何も起きてない時間』として扱っちゃ駄目ってことですか?」
「そういうこと」
シュウはゆっくり息を吐いた。
漆黒魔力が突然完成状態で現れるのではなく、その前に何らかの変化過程が存在する可能性。
ただし、その中身はまだ見えない。
以前より一歩進んだようで、目の前には新しい空白が広がっている。
「普通の六属性なら、その空白はほとんどない?」
「少なくとも今回の機材と条件では、本人の感覚と観測反応はかなり近い」
グレイが答える。
「闇属性も?」
「通常の闇属性も、六属性の範囲として大きく外れてはいない」
その言葉に、シュウは少し考えた。
「じゃあ、闇属性を使ったときに感じる『隣の道』は、観測板には出てないんですよね?」
グレイとセレナが一瞬だけ視線を合わせた。
「今のところはね」
セレナが答える。
「ただし、君がその感覚を自然に認識したときの研究用記録はない。授業で使った簡易観測器は、そこまで細かく記録する装置じゃないでしょう?」
「はい。紫色で安定してただけです」
「なら、出ていないというより、確認できていないと考えた方がいい」
「分かりました」
そこでシュウは、先日の実技でアルカディアが感じたことも伝えた。
「補助感知の方では、俺が『隣に何かある』って感じたのと近い時期に、普通の闇属性とは少し違う挙動を感じたみたいです。ただ、別の経路だとは判断できないって」
「停止時は?」
「俺の感覚では、普通の闇属性が完全に消えるより少し前に『隣』の感覚が遠ざかりました。補助感知でも、普通の闇属性より先にその違う挙動が感知範囲から外れたそうです」
グレイはすぐには答えず、机上の紙へ簡単なメモを書いた。
「一致している点は興味深い」
「でも一回だけですね」
シュウが先に言うと、セレナが僅かに笑った。
「言うようになったじゃない」
「最近、周りから何回も言われてるので」
「いいことよ。観測が一回一致したことと、再現性が確認されたことは別だから」
グレイも頷く。
「そして、今すぐ再現性を確認する必要もない」
「闇属性の方もですか?」
「授業や通常練習で自然に使うのは構わない。その中で同じ感覚が出たなら記録してくれ。ただし、『隣の道』を探すためだけに闇属性を繰り返す必要はない」
「分かりました」
これまでと同じ方針だった。
新しい情報が出たからといって、すぐに実験を増やさない。
その判断に、シュウは安心している自分へ気づいた。
◇
説明はそこで終わらなかった。
セレナは、通常魔力と六属性を使った検証中に見つかった別の問題を説明した。
「観測器の感度を上げすぎると、今度は情報が増えすぎるの」
「増えすぎる?」
「人の魔力供給は、本人が一定だと思っていても完全には一定じゃない。呼吸、姿勢、集中、疲労、手の位置、いろいろな要因で小さく揺れる。感度を上げれば、その全部を拾う」
机に置かれた記録には、細かな波が無数に並んでいる。
「これが全部意味のある変化だと思って追いかけたら、何も分からなくなる」
「じゃあ、漆黒魔力の前に出た小さい揺れも、そういう普通の揺れかもしれない?」
「まだその可能性は残ってる」
「でも、位置が変換開始の感覚と近かった」
「そう。だから捨てることもできない」
シュウは少し考えてから、笑ってしまった。
「難しいですね」
「今さら?」
セレナも笑う。
「研究なんて、だいたいそんなものよ。見えなかったものが見えるようになると、答えが増えるより先に雑音が増えることもある」
グレイが横から付け加えた。
「だから、装置を高性能にすれば必ず真実へ近づくわけでもない。何を測りたいかを決め、そのために必要な精度を選ぶ」
午前の導線材の授業でも、長さだけで損失を判断するなと言われた。
北方調査では、地下だから封印施設だと決めるなと学んだ。
そして今度は、細かく測ればすべて分かるわけではないと言われている。
(決めつけないって、何にでも必要なんだな)
それは少し面倒で、同時に面白かった。
◇
「今後についても話しておこう」
グレイが資料を揃えながら言った。
「当面、君を使った漆黒魔力の追加実験はしない」
「はい」
「理由は二つ。一つは、今ある記録だけでも観測器側で検討すべきことが残っているから。もう一つは、急いで君へ負担をかける必要がないからだ」
セレナも頷く。
「次にやるとしても、出力を上げる方向じゃない。むしろ変化が始まったと感じる前後だけを、どう安全に見られるかを考えることになる」
「前みたいに、最後まで黒くする必要はない?」
「ない可能性が高い」
その答えに、シュウは少し驚いた。
以前の自分なら、特殊な力を調べるなら完成状態まで出す方が分かりやすいと思っていただろう。
だが、研究者たちが今見ようとしているのは、黒くなった後ではない。
黒くなる前。
自分だけが変化を感じ、装置にはまだ何も見えていなかった時間だった。
「もちろん、方法が決まっても勝手にはやらない」
グレイは念を押す。
「君に説明して、同意を取ってからだ」
「分かってます」
「それまでは通常授業を優先しろ。普通の魔法を学ぶことも、比較材料として無駄にはならない」
「はい」
シュウは素直に頷いた。
漆黒魔力が特別だからといって、そればかり使えるようになればいいわけではない。
火、水、風、土、光、闇。
始動、維持、出力調整、停止。
学院へ来てから学んだ普通の基礎は、自分が思っていた以上に役立っている。
「それと、もう一つ」
セレナが声をかけた。
「前回の実験後に異常がなかったことは、今のところ安心材料として扱っていい。ただし、『一度大丈夫だったから今後も大丈夫』とは考えないで」
「はい」
「怖がれという意味じゃない。安全だった記録も、危険だった記録と同じように一回分の記録として扱うの」
シュウはその言葉を少し考え、頷いた。
「分かりました」
何も起きなかったことも記録。
けれど、それを永遠の保証にはしない。
北の森でも、漆黒魔力でも、その考え方はきっと同じなのだろう。
◇
第三観測室を出ると、廊下の長椅子ではエリオットが教本を膝へ載せていた。
シュウが出てきたことに気づくと、栞を挟んで本を閉じる。
「終わった?」
「うん」
「何か危ないこと分かった?」
「危ないことは特に。むしろ、観測器の見え方について分かったことが増えた」
二人は研究棟を出て、寮へ向かって歩き始めた。
夕方の空は晴れており、雨上がりの石畳には西日が長く伸びている。昨日までの湿った灰色の景色とは違い、実技場から戻る学生たちの影もくっきりと地面へ落ちていた。
「中央から黒くなったように見えたの、観測器の感度のせいかもしれないって」
「前に言ってたやつ?」
「うん。普通の属性でも、すごく弱い反応だと中央が先に拾うことがあったらしい」
「じゃあ、黒い魔力が真ん中から出てきたわけじゃない?」
「少なくとも、そうだとは言えなくなった。元々先生たちも断定してなかったけど」
「もう一つの小さい揺れは?」
「そっちは、単純な機械の誤差だけでは説明しにくくなった。でも何の揺れかはまだ分からない」
エリオットは少し考えながら歩いた。
「分かったことと、分からないことが同時に増えた?」
「先生も似たようなこと言ってた」
「北の調査と同じだね」
「俺も思った」
顔を見合わせ、二人で笑う。
少し前なら、答えが出ないことに焦りを感じていた。
今は、答えを急いで間違える方が怖い。
「次の実験は?」
「しばらくなし。もしやるとしても、出力を上げるんじゃなくて、黒く見える前の変化をどう見るか考えるって」
「ならよかった」
エリオットの声には、はっきりと安堵が混じっていた。
シュウはそれに気づき、少しだけ歩調を緩めた。
「心配してた?」
「するよ」
エリオットは前を向いたまま答えた。
「普通の魔法ならまだしも、先生たちも分からない力なんだから」
「でも、勝手にはやらないよ」
「今は知ってる」
「今は?」
「学院に来たばかりの頃だったら、ちょっと怪しかった」
「そんなに信用なかったのか……」
「好奇心の方が強そうだったから」
否定できなかった。
むしろ、自分でもそう思う。
北の森の調査でも、最初の頃なら地下扉を見つけた時点で、もっと奥へ行こうとしていたかもしれない。
今は、行かない理由を考えられる。
それは臆病になったのではなく、戻ってくる場所が増えたからなのかもしれない。
隣を歩くエリオットを見て、シュウはそんなことを思った。
◇
夕食では、五人が再び同じ席へ集まった。
ダンは説明を聞き終えると、難しい顔で腕を組んだ。
「つまり、黒くなる前から何か起きてるかもしれないけど、何が起きてるかは分からない?」
「大体そう」
「真ん中から黒くなるのは、道具のせいかもしれない?」
「それも大体そう」
「……研究って大変だな」
「急に雑な感想になったな」
「だって俺だったら、黒くなったなら黒くなったで終わるぞ」
「それだと研究にならないでしょう」
セシリアが呆れたように言う。
「でも、ダンさんの感覚も分からなくはありません。目に見える変化の前まで調べるというのは、普段の実技ではあまり意識しませんから」
「今日の授業だと、魔力が導線に入ってから出るまでの途中みたいなものかな」
ユリウスが言う。
「入口と出口だけ見れば、減ったことしか分からない。でも途中で何が起きたかを調べないと理由は分からない」
「そんな感じかも」
シュウは頷いた。
「先生たちも、黒く見えなかった時間を『何も起きてない』って扱わない方がいいって」
「それ、北の調査にも使えそうですね」
セシリアが何気なく言った。
シュウが彼女を見る。
「北?」
「記録が残っていない時期に、何もなかったとは限らないという意味です。もちろん魔力観測とは別の話ですけれど」
「ああ……」
シュウは少し驚いた。
自分ではそこまで考えていなかった。
ハーゼン家が記録に出る時期。
アルヴェイン家の記録が残る時期。
その間に資料がないからといって、管理が存在しなかったとは限らない。
逆に、記録がない部分を好きな想像で埋めてもいけない。
「確かに、似てるかも」
「でも、記録がないなら確認できないんじゃないのか?」
ダンが尋ねる。
「だから別の資料を探すんだと思う」
ユリウスが答えた。
「役務記録がなければ支給台帳とか、地図とか、家の記録とか。直接書いてなくても、別の記録から何が続いていたか分かる場合がある」
「なるほどなあ」
ダンは納得したように頷き、それから少しだけ嫌そうな顔をした。
「俺、やっぱ研究向いてないかも」
「ダンには実技の方が合ってると思う」
「だよな!」
「そこで喜ぶんですね」
セシリアが笑い、食卓の空気が柔らかくほどけた。
◇
夜、三百十七号室。
シュウは机の上へ二冊のノートを並べていた。
一冊は北方調査。
もう一冊は、学院での魔法研究や授業内容を整理するためのもの。
今日は混ぜないと決め、まず後者を開いた。
『漆黒魔力観測――観測器側検証の説明』
その下へ、今日聞いたことを自分の言葉で整理していく。
『事前の微小変動:
無入力時にも微小揺れあり。ただし前回と同形ではない。
無属性一定供給でも小変動あり得る。
既知属性では変換開始時に総量変動が出る場合あり。ただし属性反応とほぼ同時または後。
漆黒魔力観測時は、本人・補助感知が変化開始を感じた時期付近で総量に微小変動。観測板の明確な黒色反応より前。
→単純な観測器誤差だけでは説明しにくくなったが、漆黒魔力の変化開始と確定不可。供給揺れ等の可能性あり。』
次に中央反応。
『観測板中央は高感度。既知属性でも極低反応時、中央先行表示あり。
→漆黒魔力が中央から発生した証拠にはならない。
ただし漆黒時は中央反応から全体表示までの間隔が既知属性より長い可能性あり。現機材では精密比較不可。』
そして最も印象に残ったことを書く。
『観測できない=変化がない、ではない。』
その一文を書いてから、シュウは少しだけ考えた。
研究の記録を閉じ、北方調査ノートを開く。
こちらには昨日までの整理が並んでいる。
ハーゼン家。
ローデル林区。
北部旧所。
継ぎ。
白材。
小型魔石。
導材。
アルヴェイン家の北方旧務。
東部旧採石地。
そして、現在の古い小屋と地下。
シュウは新しい頁へ、今日の基礎学科で学んだことを書き足した。
『設備の存続と管理制度の存続を分ける。施設成立時期/管理者/管理根拠を別に確認。』
『同じ姓が続く=家の世襲義務とは限らない。役職世襲の可能性あり。役職名消滅=役務消滅とも限らない。』
さらに、昼にセシリアが言ったことを思い出す。
『記録がない期間=何もなかった期間、とは限らない。ただし空白を推測で埋めない。別種資料から確認する。』
そこで手を止めた。
(別種資料……)
すでに候補はある。
『ローデル林区支給台帳・残巻』
状態が悪く、閲覧には教員の署名が必要な資料。
以前見つけたものの、まだ申請していない。
支給台帳なら、役務記録が薄い時期でも、誰へ何を渡したか残っている可能性がある。
しかし、すぐに申請すると決める必要はない。
まず、現在持っている年代を整理し、どの空白を確認したいのか明確にした方がいい。
シュウは資料名の横へ、
『申請前に確認対象年代・目的を整理。』
と書いた。
それからもう一つ、まだ読んでいない研究録の第七章についても記す。
『『北部保持材研究録』第七章「保持施設の停止と廃止――機能を終える際の処置」未読。読む時期未定。』
これでいい。
明日必ず読む必要はない。
支給台帳も、すぐ申請する必要はない。
調べるものがあることと、今すぐ全部調べなければならないことは別だった。
《マスター》
(何?)
《成長されましたね》
(今日は普通に褒めるのか?)
《はい。かつてのマスターであれば、「空白の百年」と名付けた時点で失われた王国と七人の裏切り者を設定していたことでしょう》
(……もう驚かないぞ)
《実際にございます》
(あるの!?)
《「歴史から抹消された暗黒百年紀」。ただし設定された出来事は「何かすごい戦争があった」の一行のみです》
(雑すぎるだろ!)
《詳細は後日決定予定だったようです》
(七家の残り四家と同じじゃねえか!)
思わず机へ額をつけそうになり、シュウはぎりぎりで踏みとどまった。
向かいのエリオットが顔を上げる。
「今日は何が出たの?」
「空白の百年」
「……歴史の授業?」
「だったらどれだけよかったか」
エリオットは数秒考えたあと、深く追及するのをやめた。
「昔のシュウ、本当に設定だけはいっぱいあるね」
「設定だけって言うな。否定できないけど」
シュウはため息をつきながら、二冊のノートを閉じた。
◇
同じ頃、魔法属性研究棟では、グレイとセレナが第三観測室に残っていた。
シュウへ説明した資料はすでに片づけられ、机の中央には観測器検証用の記録だけが残っている。
「思ったより落ち着いて聞いてたわね」
セレナが椅子へ深く座り直した。
「最初に会った頃より、分からない結果への耐性が上がっている」
グレイは記録紙を揃えながら答えた。
「学院で普通に学んでいる影響もあるだろう」
「それは良いことね。特殊な力を持っている学生ほど、特殊なものだけ追わせるべきじゃない」
「同感だ」
セレナは一枚の記録を手元へ残した。
前回の漆黒魔力観測。
シュウが変化開始を申告した付近にある、僅かな総量の揺れ。
その後も観測板はしばらく通常表示を維持し、一定段階を越えてから中央へ黒い反応が現れている。
「中央先行は装置側でかなり説明できそう」
「だが、表示までの間隔は残る」
「ええ」
セレナは指先で記録の空白部分をなぞった。
「ここで何が起きているかを知りたい。でも、今の板を高感度化するだけじゃ駄目ね。普通の揺れまで拾いすぎる」
「別系統の測定が必要かもしれない」
「総量、属性反応、流路。少なくとも二つ以上を独立して見たいところだけど……」
そこまで言って、セレナは口を閉じた。
方法を考えることと、学生をすぐ実験へ呼ぶことは別だ。
「まず機材だけで詰めましょう」
「ああ」
「本人が普通の闇属性で感じているという『隣』も気にはなるけど、今は触らない」
「自然使用時の記録が増えるのを待つ」
「それでいい」
二人の間に短い沈黙が落ちた。
窓の外では、研究棟の灯りが中庭へ細長く伸びている。
「グレイ」
「何だ」
「あの子、自分の力を怖がってはいないわね」
「そう見える」
「でも、雑にも扱わなくなってる」
グレイは少し考えてから頷いた。
「それが一番いい状態だろう」
特別な力を持っていることへ酔わず、分からないからといって怯えもしない。
学院で教えられるのは、力の正体そのものだけではない。
分からないものへどう向き合うかも、その一つだった。
◇
三百十七号室では、消灯前の静かな時間が流れていた。
エリオットはすでにベッドへ入り、シュウも机の魔導灯を消そうとしている。
「シュウ」
「ん?」
「明日は図書館?」
またその質問だった。
シュウは笑いながら振り返る。
「まだ決めてない」
「本当に?」
「本当に。授業終わってから決める」
「じゃあ信用度九割維持」
「上がらないのかよ」
「明日次第」
「採点が厳しいな……」
シュウは苦笑しながら魔導灯へ手を伸ばした。
その直前、窓の外に広がる夜空が目に入る。
雨雲はすっかり消え、雲の切れ間ではなく、本当に晴れた空に星が見えていた。
北の森はここから見えない。
家族から新しい連絡もない。
二度目の鐘も鳴っていない。
漆黒魔力の正体も、闇属性の隣に感じるものも、まだ分からない。
それでも、分からないものすべてへ今夜答えを出す必要はなかった。
(明日は明日の授業がある)
それでいい。
魔導灯を消すと、部屋の中へ窓から淡い月明かりが入り込んだ。
《おやすみなさいませ、マスター》
(おやすみ)
《なお「暗黒百年紀」における七人の裏切り者のうち、名前が設定されていた人物は――》
(寝ろ)
《私は睡眠を必要といたしません》
(じゃあ黙ってろ)
《承知いたしました》
珍しく素直に静かになったアルカディアへ、シュウは布団の中で小さく笑った。
分からないことは多い。
けれど、それを一つずつ確かめられる場所に、自分は今いる。
急ぐ必要はない。
学院の夜は静かに更けていき、明日へ持ち越された問いもまた、答えを決めつけられることなく、それぞれの場所へ残されていた。




