第49話 地下にあるからといって、封じるための施設とは限りませんでした
翌朝、シュウが目を覚ますと、三百十七号室の窓には細かな雨粒が付いていた。強い雨ではないものの、灰色の雲が学院の上空を覆っており、遠くに見える講義棟の屋根も薄い雨霞の向こうへ沈んでいる。
隣のベッドではエリオットがすでに起きており、制服へ着替えながら窓の外を見ていた。
「今日は降ったり止んだりかな。傘、忘れない方がいいよ」
「分かった」
シュウは返事をしながら起き上がり、昨夜机へ置いた北方調査ノートへ目を向けた。
昨日読んだ『北部保持材研究録』第五章では、「継ぎ」が単純な保持材交換だけを指すとは考えにくいことが分かった。少なくともローデル北部旧所の記録には「継ぎに先立ち交換」とあり、交換と継ぎが別工程として扱われていた可能性が高い。
そして、まだ読んでいない第六章。
『保持施設と地下構造――伝達・隔離・安定化の事例』
地下という言葉だけなら、北の森にある古い小屋の下で見つけた石扉を思い出さずにはいられない。
(だからこそ、先に決めない)
シュウはそう考えてから制服へ着替え始めた。
《昨日より判断が早くなりましたね》
(何が?)
《「地下構造」という単語を見た時点で、「ついに我が一族が封印した古代魔王の地下神殿が――」とならなかった点です》
(なるわけないだろ)
《過去のマスターであれば、三秒以内に設定が完成していた可能性がございます》
(過去の俺の創作速度を評価するな)
《なお、地下神殿そのものは――》
(存在するのかよ!)
朝から聞いてはいけないものへ踏み込みかけた気がして、シュウは強引に会話を打ち切った。
その様子を横目で見ていたエリオットが、制服の襟を整えながら苦笑する。
「今日は朝から元気だね」
「俺じゃなくて昔の俺が元気なんだよ……」
「それ、たぶん他の人には絶対伝わらない説明だと思う」
「俺にも時々分からなくなる」
外では雨脚が少しだけ強まり、窓を叩く音が増えていた。
◇
午前の授業はグレイ・ハルバートによる基礎魔法理論だった。
黒板へ書かれた今日の題目は、
『魔力経路と伝達損失』
である。
グレイは教卓の上へ三本の細い導線材を並べると、そのうち一本を持ち上げた。
「魔力を離れた場所へ送る場合、送り出した量がそのまま終点へ届くとは限りません。経路の材質、長さ、接続状態、周囲の環境、流す魔力の性質などによって損失が生じます」
教室前方の机には、小型魔石と簡易測定器が二つ置かれている。
グレイが一本の導線材を二つの測定器へ繋ぎ、片側から一定量の魔力を流すと、始点側と終点側に異なる数値が表示された。
「この差を単純に『消えた魔力』と考えないように。導材内部へ一時的に残る場合もあれば、熱や光として散る場合もあり、周囲へ微量に拡散することもあります。術式へ接続されているなら、その途中で機能に使われている可能性もあります」
シュウはノートへ説明を書きながら、昨日読んだ「再接続」という言葉を思い出していた。
保持施設。
導線材。
継ぎ。
それらをすぐに今日の授業へ結びつけるつもりはないが、古い施設で導線材の交換が必要になる理由は少し理解しやすくなった。
「では、接続箇所が増えるとどうなると思いますか?」
グレイが教室を見回す。
数人が手を挙げ、その中から一人が指名された。
「接続部分で損失が増える可能性があります」
「そうですね。ただし、接続があること自体が悪いわけではありません。必要な場所へ分岐させるために接続する場合もありますし、異なる材料を組み合わせるために必要なこともあります」
グレイは二本目の導線材を使い、途中に接続部を作った状態で同じ実験を行った。
今度は終点側の数値が先ほどより少し低い。
「重要なのは、『途中に何かあるから損失した』と考えるのではなく、どこで、なぜ変化したのかを見ることです」
シュウはその言葉の横へ小さく線を引いた。
(どこで、なぜ、か)
北の地下へ続くものが何であれ、地上の小屋だけを見て全体を判断することはできない。
ただし、それも今の段階では可能性の話でしかなかった。
授業後半では、二人一組で短い導線材へ魔力を流し、始点と終点の差を測る実習が行われた。
シュウの相手はエリオットだった。
「俺が先でいい?」
「うん」
シュウは通常魔力を一定量まで上げてから導線材へ流した。
始点側の測定器が示した値に対し、終点側は僅かに低い。差は大きくないものの、完全に同じではなかった。
「思ったより減るんだね」
エリオットが測定値を書き取る。
「この長さでも差があるなら、長くなったらもっと変わるのかな」
「必ず比例するとは限りませんよ」
近くを通ったグレイが二人の会話を聞き、足を止めた。
「材質が均一か、途中に接続や分岐があるか、流す量が適正かでも変わります。長さだけを原因にしないように」
「はい」
シュウが答えると、グレイは一度だけ彼の手元を見た。
「それと、アルヴェイン君。今日は通常魔力だけで行ってください」
「もちろんです」
「念のためです」
漆黒魔力の段階観測を行って以降、グレイとセレナは分析を続けている。新しい試験を行うという連絡はまだなく、シュウ自身も勝手に試すつもりはなかった。
グレイはそれ以上何も言わず、別の組へ移っていった。
「先生、ちゃんと見てるね」
エリオットが小声で言う。
「俺が変なことしそうに見えるのかな」
「今までの話を聞く限り、昔のシュウならしそう」
「今の俺を見てくれよ」
「今のシュウだから、先生も『念のため』で済ませてるんじゃない?」
そう言われると反論しづらかった。
◇
昼休みには雨が一度止み、食堂の窓から濡れた中庭が見えていた。
いつもの五人が集まると、ダンは午前の実技で使った導線材の話をしながら、自分のパンを大きくちぎった。
「途中で曲げたら数字が変わると思ったんだけど、ほとんど変わらなかったんだよな」
「普通に曲げた程度で大きく変化したら、実際の設備では使いにくいでしょう」
セシリアがスープの匙を置きながら答える。
「それもそうか」
「ダンは何で曲げたの?」
エリオットが尋ねると、ダンは少し考えた。
「何となく?」
「先生の説明を聞いてた?」
「聞いてたって! だから試したんだよ。長さが同じでも形で変わるのかなって」
思っていたより真っ当な理由だったらしく、エリオットが「ああ」と納得する。
ユリウスは食事を進めながら、シュウへ視線を向けた。
「今日は研究録の第六章?」
「行けそうなら読むつもり。地下構造の章」
「地下?」
ダンが反応する。
シュウは一瞬だけ言葉を選んだ。
「保持施設の中には地下構造を持つものもあるらしいんだ。何のために地下へ作るのか、その事例をまとめた章みたい」
「北の調査と関係あるのか?」
「まだ分からない。題名を見ただけだから」
ダンは少し考えたあと、「じゃあ読んでからだな」とだけ答えた。
セシリアが微笑む。
「ダンもすっかり慣れましたね」
「何が?」
「シュウさんが『まだ分からない』と言うことにです」
「だって、最近ずっとそうだろ?」
「否定できない……」
シュウが苦笑すると、ユリウスも僅かに口元を緩めた。
「でも、分からないものは増えてないと思う」
「どういうこと?」
セシリアが尋ねる。
「最初は何が分からないのかも分からなかった。今は、白材の意味、継ぎの意味、旧所の数、東側との共通点みたいに、確認するものが分かれてきてる」
シュウはその言葉を聞きながら、以前自分が漆黒魔力の観測後に感じたことを思い出した。
分からないことが分かった。
北の調査も同じなのかもしれない。
「今日も答えが出なくてもいいか」
そう言うと、ダンが呆れたように笑う。
「最近のお前、研究してるときだけ妙に大人しくなったよな」
「どういう意味だよ」
「前なら、面白そうなもの見つけたらすぐ行きそうだった」
「……否定しづらい」
「今でも行きたそうな顔はするけどな」
エリオットが付け加えたため、全員が笑った。
◇
放課後、雨は再び細かく降り始めていた。
シュウ、エリオット、ユリウスの三人は傘を差して図書館へ向かい、入口で水滴を落としてから閲覧室へ入った。
昨日と同じ棚から『北部保持材研究録』を取り出し、窓から少し離れた机へ座る。
外が暗いせいか、館内には早くも魔導灯が点いていた。
シュウは第五章までの位置を確認してから、次の頁を開く。
『第六章 保持施設と地下構造――伝達・隔離・安定化の事例』
三人は最初の段落から慎重に読み始めた。
マルセルは冒頭で、地下構造を持つ保持施設を一つの目的で分類することへの注意を書いていた。
『地下室、地下槽、地下導路等を備える保持施設は北方各地に確認されるが、地下に設けられているという共通点のみをもって、同種施設と判断すべきではない。地形、気候、対象、使用術式、建設年代により、その目的は大きく異なる。』
「最初から釘を刺された」
エリオットが小声で言う。
「俺たち向けみたいだな」
シュウも苦笑した。
読み進めると、地下構造の主な利用例がいくつか説明されていた。
第一は、温度や湿度の変化を抑えるための安定化空間。
地上より季節変化を受けにくい地下へ保持材や魔石を置き、一定の環境を維持する。
第二は、魔力伝達路の保護。
地上へ露出させると天候や人為的損傷を受けやすい導線や術式路を地下へ通し、離れた地点同士を接続する。
第三は、外部への影響を抑えるための隔離。
強い魔力を保持する物品や、不安定な術式設備を地上施設から離して地下へ置く例がある。
第四は、地脈や地下水など、地下に存在する環境要素を利用するための構造。
ただし、マルセルは「地脈」という言葉についても、地域ごとに意味が異なるため一律に扱うべきではないと注意している。
シュウは一つずつノートへ整理した。
『保持施設の地下構造:安定化/伝達路保護/隔離/地下環境利用等。地下=封印施設ではない。目的は個別確認必須。』
「『隔離』はあるんだな」
エリオットが言う。
「ある。でも一つの用途として、だな」
「うん」
ユリウスは本文を指で追いながら、少し先を読んでいた。
「それに、隔離も『危険なものを封じる』だけじゃないみたい」
その箇所には、外部の魔力変動から保持対象を守るため、地下へ設置した例も記載されていた。
つまり、地下に置く理由は「中のものを外へ出さない」だけではなく、「外の影響を中へ入れない」場合もある。
シュウはその違いに気づき、ペンを止めた。
「隔離って言葉だけでも、向きが逆になるのか」
「両方を遮る場合もあるかもしれない」
ユリウスが言う。
「そう考えると、『地下にある』『隔離されてる』だけじゃ、何を守ってるのか分からないね」
エリオットの言葉に、シュウは頷いた。
北の森の地下扉について知っている二人にとって、この注意は特に重要だった。
扉の向こうに何か危険なものがあり、それを閉じ込めている。
そんな想像は簡単にできる。
実際、シュウ自身も最初はそう考えかけた。
しかし、今ある情報だけでは逆の可能性も、まったく別の用途も捨てられない。
(あの扉が何のためにあるのか、本当に何も分かってないんだな)
改めて認識すると、少しだけ背筋が冷えた。
怖いからではない。
自分が知っていると思っていたものの輪郭が、実際には想像以上に曖昧だったからだ。
◇
次の節では、地上施設と地下施設の関係が扱われていた。
マルセルによれば、地下構造を持つ保持施設の地上部は必ずしも主要設備ではない。
管理人の詰所。
資材置き場。
点検入口。
換気や排熱のための補助設備。
地下設備へ魔力を送るための中継部。
逆に、地上施設そのものが主要な保持部で、地下側は導路や補助空間にすぎない例もある。
シュウはそこで、昨日までの東部旧所調査を思い出した。
東側では、旧採石地巡検所と旧所保持部が別の対象として記録されていた。
巡検所は管理施設であり、保持部そのものではなかった可能性が高い。
「これ、東側で見つけた記録とも考え方は似てるな」
シュウが言うと、ユリウスがすぐに頷いた。
「巡検所と保持部が別だったこと?」
「うん。ただ、東側に地下構造があるって意味じゃない。地上に見えてる施設が管理対象そのものとは限らないってところだけ」
「北も同じとは限らない」
「もちろん」
エリオットは二人の会話を聞きながら、少しだけ表情を固くしていた。
彼だけは、シュウと同じく北の古い小屋の下に石扉があることを知っている。
だからこそ、東部の巡検所と保持部が分かれていたという情報と、今読んでいる「地上部は管理・中継施設の場合がある」という説明が、どうしても重なって見える。
それでもエリオットは、その考えを事実として口にしなかった。
「地上と地下を別々に考えた方がいいのかもね」
「そうだな」
シュウは答えながら、ノートへ記す。
『マルセル研究:地下構造を持つ保持施設では、地上部=主要保持設備とは限らない。詰所・資材庫・点検入口・中継設備等の例あり。逆に地下側が補助のみの場合もある。』
続けて、
『東部旧採石地:巡検所と旧所保持部は別記載。構造上の関連は不明。地下構造の証拠なし。』
と書いた。
さらに少し迷ってから、北についても加える。
『北部:現在確認されている古い小屋を、管理対象そのものと断定しない。』
ユリウスはその一文を横から見ても、不自然には思わなかった。
以前から北方地図の四角と短い縦線が、管理対象そのものではなく付随施設を示す可能性について三人で話しているからだ。
「その整理でいいと思う」
ユリウスが言う。
「北部旧所と今の小屋が同じかも確定してないしね」
「うん。そこも忘れないようにする」
◇
第六章の中盤には、北方地域で確認された地下保持施設の具体例が紹介されていた。
一つは、雪の多い山間部に作られた境界安定施設だった。
地上には小さな管理小屋しかなく、地下へ伸びる導路が複数の境界柱へ繋がっていたという。管理小屋から供給された魔力は地下導路を通じて分配され、冬季でも地上の積雪による損傷を受けにくい構造になっていた。
別の例は、古い採掘地跡を利用した保持庫だった。
こちらは地下の温度が安定していることを利用し、魔力を含んだ鉱石や保持材を保管する施設で、地上部には監視所と搬入口だけが設けられていた。
さらに、地下水路と組み合わせた術式安定施設も紹介されていたが、詳細な機構は失われており、後世の推測が多いとしてマルセル自身が注意を付けている。
「採掘地跡……」
エリオットが呟く。
シュウも同じところへ目を留めていた。
東部旧採石地。
しかし、すぐに線を引くことはしない。
「似てる言葉が出たけど、場所が違う」
「この事例、ローデルじゃないね」
ユリウスが確認する。
「うん。しかも採掘地跡を利用した保持庫ってだけで、東の旧採石地が同じ用途だった証拠はない」
それでも、旧採石地の近くに保持施設が存在すること自体が不自然ではないという参考にはなる。
シュウはその程度に留めて記録した。
『他地域事例:旧採掘地を利用した地下保持庫あり。ローデル東部旧採石地との直接関係なし。類例としてのみ保持。』
ページをめくる。
次の節には、地下設備へ入るための入口について記されていた。
地下施設の入口は、用途によって大きく異なる。
常時人が出入りするものなら階段や扉が明確に作られるが、定期点検時しか開けないものでは床下や壁面の一部へ入口を隠す例もある。
ただし、それは秘密保持のためとは限らない。
子どもや動物の侵入防止。
湿気や冷気の遮断。
管理権限を持たない者の誤操作防止。
単純に地上部の空間を広く使うため。
さまざまな理由があった。
シュウは読んでいるうちに、無意識に指先へ力を込めていた。
北の古い小屋。
隠されていた地下への石扉。
それを見つけたとき、「隠されている」という印象が強かった。
だが、隠された入口だからといって、その理由まで秘密や封印と決めることはできない。
(俺、見たものに意味を足しすぎてたのかもしれない)
地下扉がある。
それは事実だ。
扉が普段見えない状態だった。
それも事実。
しかし、なぜそうなっているのかは別問題だった。
《非常に良い整理かと存じます》
アルカディアが静かに言う。
(お前、今日はまともだな)
《私は常にまともですが》
(昨日「永久継承式・黒天輪廻機構」とか言ってたやつが?)
《あれも当時のマスターにとっては極めて真面目な設定でした》
(余計に辛い)
表情へ出そうになるのを堪えながら、シュウはノートへ注意を書いた。
『地下入口が隠れている=秘密施設・封印施設とは限らない。侵入防止、環境遮断、誤操作防止、空間利用等の実用理由あり。北の現地状況へ適用する場合も理由は未確定。』
ユリウスがその一文を見て、少し首を傾げた。
「北の現地状況?」
シュウの手が一瞬止まった。
地下扉については、まだユリウスへ話していない。
「古い小屋そのものが森の中に残ってるだろ。使われなくなった施設って、入口や設備が見えにくくなってることもあるかもしれないから、その意味を勝手に決めないってこと」
嘘ではない。
ただし、全部でもない。
ユリウスは数秒シュウを見たものの、それ以上は尋ねなかった。
「分かった」
その短い返答に、シュウは少しだけ申し訳なさを覚えた。
いずれ話す必要が来るかもしれない。
それでも、今はまだ家の管理してきた場所について、どこまで友人へ伝えてよいのか自分の中でも整理できていなかった。
◇
第六章の終盤で、三人は再び読む速度を落とした。
そこには、保持施設の地上部と地下部を繋ぐ魔力経路について書かれていた。
『地上管理部から地下保持部へ魔力を送る構造では、導材の状態だけでなく、接続点の劣化が保持力低下の原因となる。史料によっては、接続部の更新または再調整を「継ぎ」と呼んだ例も確認される。』
「出た」
エリオットが思わず声を漏らし、すぐに周囲を気にして声量を落とした。
シュウも胸の奥が僅かに高鳴るのを感じたが、すぐにはノートへ書かなかった。
前後を読む。
地域名。
年代。
出典。
マルセルがどこまで断定しているか。
該当事例はローデルではなく、北西山地の複数施設をまとめたものだった。
「ローデルじゃない」
シュウが言う。
「でも、『継ぎ』が接続部の更新や再調整を指した例は実在する」
ユリウスが続ける。
「昨日の『継ぎに先立ち交換』とも矛盾しないね」
エリオットも本文を確認する。
シュウは慎重に整理した。
『他地域例:地上管理部→地下保持部の魔力経路で、接続部更新・再調整を「継ぎ」と呼ぶ例あり。ローデル用法の証拠ではない。』
そして、その下へもう一つ書く。
『北部旧所「導線材一式」「継ぎに先立ち交換」との構成上の類似あり。ただし北部旧所に地下保持部が存在した証拠は、学院側公開資料では未確認。』
書き終えてから、シュウはペン先を止めた。
自分だけは、北の古い小屋の地下に石扉があることを知っている。
エリオットも知っている。
しかし、その古い小屋が役務記録の「北部旧所」と同一である証拠はない。
地下扉の先が保持部である証拠もない。
だから、二つを結びつけてはいけない。
それでも、調べるべき問いは明確になった。
(地上の小屋と地下が、どういう関係なのか)
以前は、地下の奥に何があるかばかりを考えていた。
今は違う。
小屋が何のために建てられ、地下とどのように繋がり、白樹の淡い魔力がどこへ向かっているのか。
構造そのものを見る必要がある。
もちろん、今すぐ現地へ行って確かめるわけではない。
北の森には黒い異常が残っており、家族からも二度目の鐘は鳴っていないと報告されている。安全が確認されていない以上、好奇心だけで地下へ踏み込むつもりはなかった。
◇
第六章を読み終えたところで、シュウは本を閉じた。
外では雨が続いている。
窓を流れる雨粒の向こうで空が少しずつ暗くなり、閲覧室の魔導灯が先ほどより明るく感じられた。
「今日はここまでにしよう」
シュウが言うと、エリオットがすぐに頷いた。
「九割」
「何が?」
「信用度」
「昨日から一割も上がった!?」
「地下って書いてある章を読んで、そのまま次へ突っ込まなかったから」
「俺の信用、図書館で決まってるの?」
「かなりの割合で」
ユリウスが笑いを堪えながら本を受け取り、三人で棚へ戻した。
帰る前に、シュウは目次をもう一度確認する。
第七章は、
『保持施設の停止と廃止――機能を終える際の処置』
だった。
気にはなる。
非常に気になる。
だが、今日は読まなかった。
《九割五分へ上昇する好機では?》
(誰の味方なんだよ、お前)
《マスターの信用回復を支援しております》
(余計なお世話だ)
◇
図書館を出ると、雨は朝より少し強くなっていた。
三人は軒下で傘を開き、寮へ戻る道を歩く。
濡れた石畳には魔導灯の光が映り、歩く学生たちの足元で揺れている。実技場から戻ってきたらしい学生たちは雨を避けるため足早に走っていたが、シュウたちは急がず屋根のある回廊を選んだ。
「今日の内容、どう思った?」
エリオットが尋ねる。
「地下にある理由が多すぎると思った」
シュウは少し笑う。
「もっと『地下施設ならこういうもの』って絞れるかと思ってたけど、逆だった」
「僕はその方がよかったと思う」
ユリウスが答える。
「もし一つの説明しか載ってなかったら、北もそれだと思いたくなるから」
「確かに」
「それと、地上施設が管理用で地下が主要部の例も、その逆もある。東の巡検所と保持部が別だったことを考えると、建物一つだけ見て役割を決めるのは危ない」
「うん」
シュウは雨音を聞きながら頷いた。
北の古い小屋を最初に見つけたとき、そこが「封所」なのではないかと考えた。
だが、今ではその呼び方すら保留している。
古い小屋。
北部旧所。
北の封所。
地下の石扉。
それらは互いに関係している可能性がある。
しかし、同じものだとはまだ言えない。
以前より情報は増えたのに、区別すべきものも増えている。
それが調べるということなのだろう。
◇
夕食後、三百十七号室へ戻ったシュウは、机で今日の記録を整理した。
最初に大きく書いたのは、
『地下=封印、と決めない。』
その下へ、研究録から得た情報をまとめていく。
『地下構造の目的例:
・温湿度等の安定化
・魔力伝達路の保護
・内外の隔離
・地下環境利用
・保管
・導路
目的は施設ごとに異なる。』
『地上部の役割例:
・管理人詰所
・資材庫
・点検入口
・換気/排熱
・魔力中継
地上部=主要保持部とは限らない。地下部が補助の場合もある。』
『入口が隠れている理由:
秘密保持とは限らない。侵入防止、環境遮断、誤操作防止、空間利用等。』
『他地域では、地上管理部と地下保持部の接続更新・再調整を「継ぎ」と呼ぶ例あり。ローデルとの直接関係なし。』
最後に、北方調査で今後区別し続ける項目を書いた。
『現在の古い小屋』
『北部旧所』
『北の封所』
『地下構造』
四つを並べ、その間に等号を書かない。
エリオットが課題を終えて伸びをしながら、シュウのノートを覗いた。
「増えたね」
「何が?」
「同じものだと思わないようにする項目」
「本当に増えた」
シュウは苦笑した。
「でも、前より整理しやすい。最初は全部まとめて考えそうになってたから」
「地下の扉については?」
声を少し落として尋ねられ、シュウも自然と声量を抑えた。
「今日の本を読んでも、何のための扉かは分からない。ただ、地下にあるから何かを封じてる、って考え方は一回捨てた方がいいと思う」
「中から音がしたことは?」
シュウの表情が僅かに変わった。
地下の奥から聞こえた、あの音。
それは忘れていない。
「それも別に考える」
「別?」
「扉が何のために作られたかと、今その向こうで何が起きてるかは同じじゃないかもしれないだろ。昔は普通の保持施設だったとしても、今は違うことが起きてる可能性もある」
エリオットはしばらく黙っていた。
「……それ、結構大事かも」
「うん。昔の用途と今の状態も分けないと駄目なんだと思う」
シュウは新しい一文を書き加えた。
『建設時の用途と現在の状態を同一視しない。』
書き終えると、胸の中で散らばっていたものが少しだけ整った気がした。
◇
その夜、消灯まで少し時間があった。
シュウは北方調査ノートを閉じ、代わりに明日の授業用の教本を机へ出した。
《マスター》
(今日はもう研究しないぞ)
《研究ではございません》
(じゃあ何だよ)
《今朝の続きです》
(嫌な予感しかしない)
《かつてマスターが設定された地下神殿についてですが、正式名称は「終焉封界地下大聖堂ノクス・アビス」で――》
(やっぱりあったのかよ!)
シュウは額を押さえた。
《なお、地下十三階に封じられているのは古代魔王ではございません》
(聞きたくないけど……じゃあ何なんだよ)
《「真なるマスターご自身」です》
(何で俺が二人いるんだよ!?)
《地上で生活しているマスターは力を百分の一に分けた仮初めの器であり、本体は世界崩壊を防ぐため自らを――》
(もういい! 絶対聞かない!)
シュウは心の中で叫びながら、両手で顔を覆った。
エリオットがベッドの上から不思議そうにこちらを見る。
「今日は何?」
「地下にいるらしい」
「何が?」
「俺が」
数秒の沈黙が流れた。
エリオットは質問するべきか迷ったようだったが、やがて静かに首を横へ振った。
「……昔のシュウの話?」
「そう」
「なら、聞かない方がいい気がする」
「正しい判断だよ」
《残念です。地下十三階へ至るには七つの封印鍵が必要で、その第一鍵が――》
(続けるな!)
昔の自分が作った地下神殿と、現実の北方地下構造には何の関係もない。
それだけは、今日一日で得たどの情報よりも自信を持って断言できた。
◇
一方、第二男子寮では、ユリウスが自分の調査メモを開いていた。
今日の記録を整理する中で、彼が最も気になったのは「地下施設」そのものではなかった。
『地上施設が主要設備とは限らない。』
その一文である。
東部旧採石地では、巡検所と旧所保持部が別々に記録されていた。
北方の古い地図にも、東と同型らしき四角と短い縦線がある。
もし東の記号が巡検所を示していたなら、北の記号も管理施設だった可能性はある。
ただし、そこから先はまだ進めない。
(東の記号が巡検所だってこと自体、確定してない)
ユリウスは自分へ言い聞かせるように、資料同士の間へ疑問符を書いた。
その途中で、今日のシュウの様子を思い出す。
地下入口について書かれた箇所を読んだとき、シュウはほんの少しだけ反応が違っていた。
以前、北の施設について話したときにも似た間があった。
何か知っているのかもしれない。
しかし、ユリウスはそこへ推測を書かなかった。
シュウが話していないことには、話していない理由があるのだろう。
それに、知らない部分を想像で埋めることが危険なのは、資料調査でも友人関係でも同じだった。
(必要なら、そのうち話してくれる)
そう考えると、不思議と気にならなくなった。
ユリウスは最後に今日の結論を書き加える。
『地下構造の存在だけでは、施設目的を特定できない。地上・地下、建設時・現在、管理施設・管理対象を分けて考える。』
その一文を読み返してから、ノートを閉じた。
窓の外ではまだ雨が降っている。
北の森にも同じ雨雲が流れているのか、それとも遠く離れた空ではもう晴れているのか、ここからでは分からない。
分からないものを、分からないまま残しておく。
それは以前よりずっと自然なことになっていた。




