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『黒歴史ノートが異世界で最強の魔導書になっていました』  作者: 伊佐波瑞樹


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第47話 家から届いた二通目の手紙には、引き継ぎの日付がありませんでした


 前日の雨が夜のうちに上がったらしく、翌朝の王立魔法学院は薄い雲の隙間から柔らかな日差しが差し込んでいた。第一男子寮三百十七号室の窓硝子にはまだ細かな水滴が残っており、外では濡れた中庭を渡る風に揺らされて、木々の葉から時折まとまった雫が落ちている。


 シュウは制服へ着替えながら、自分の身体と魔力の状態をいつものように確かめた。昨日は漆黒魔力にも通常の闇属性にも触れておらず、図書館で『北部保持材研究録』を読んだだけだったため、当然ながら研究に関係する異常は何も感じない。


《生体状態、魔力状態ともに平常範囲内です》


(ありがとう。今日は普通に授業だな)


《放課後には、昨日の研究録の続きを読まれる可能性がありますが》


(行くとしても、授業が終わってから考えるよ。昨日読んだ分もまだ整理したばっかりだし)


 そう答えながら鞄の中身を確認していると、向かい側で制服の襟を整えていたエリオットが、どこか疑うような目を向けてきた。


「今日は図書館へ行くって決めてないの?」


「決めてない。行ってもいいけど、行かなくてもいいかなって」


「……本当にシュウ?」


「どういう意味だよ」


「少し前なら、昨日途中まで読んだ本があるのに、翌日の予定を決めてないなんて考えられなかったから」


 エリオットはそう言ってから、自分でも言い過ぎたと思ったのか小さく笑った。シュウも反論しかけたものの、以前の自分なら第四章の途中で本を閉じた時点から、次にいつ続きを読めるか考えていたはずなので強く否定できない。


「まあ、気にはなってるけどさ。続きを読んだからって、すぐ答えが出るわけじゃないって分かったし」


「それならいいんじゃない?」


「何でまた保護者みたいな顔してるんだよ」


「同室者として、夜中まで机に向かわれると困るだけです」


「昨日はちゃんと寝ただろ」


「だから七割から七割五分くらいには上げてもいい」


「信用の増え方が細かすぎる!」


 朝からそんなやり取りをしていると、アルカディアが頭の中で静かに告げた。


《マスター。学院生活における信用度を数値化するのであれば、私も評価表を作成いたしましょうか》


(やめろ。絶対ろくな項目がない)


《「黒歴史を直視する精神耐性」「詠唱時羞恥耐性」「過去設定との整合性を保つ能力」などを――》


(全部いらない!)


 口には出せない相手へ心の中で突っ込みながら、シュウは鞄を持った。


     ◇


 午前の授業は魔法史だった。


 教壇に立つオルド・カーヴェルが扱ったのは、古い術式や魔法技術が後世へ残る過程についてである。完全な形で技術が受け継がれるとは限らず、目的だけが残って手法が失われる場合もあれば、逆に手順だけが慣習として続き、本来の目的が忘れられる場合もあるという。


「皆さんが古い資料を読む際、特に注意してほしいのは、同じ名称が長期間使われているからといって、内容まで同じだとは限らないことです」


 オルドは黒板へ二つの簡単な図を描いた。一方は古い術式、もう一方はそこから数十年後に改良された術式で、目的は同じでも構造の一部が異なっている。


「例えば、ある地方で百年間『灯守り』と呼ばれた術式があったとしましょう。百年前と五十年前と現在で同じ名称が使われていても、術式構造や使用材料、管理方法が途中で変わっている可能性があります。名称の継続と技術の継続を混同しないようにしてください」


 シュウは昨日読んだ研究録を思い出した。


 白材。


 保持用白材。


 白樹加工材。


 そして、継ぎ。


 同じ言葉が複数の時代に残っているからといって、全く同じ材料や作業を意味するとは限らない。


(最近の授業、俺の調査に刺さりすぎじゃない?)


《学院における基礎教育が、マスターの調査能力不足を適切に補完している結果かと》


(言い方!)


《褒めております》


(絶対嘘だ)


 それでも、シュウはオルドの説明を丁寧にノートへ残した。


『名称継続≠内容・技術の完全継続。』


 さらに、その下へ自分用の注意として書き加える。


『「継ぎ」が複数年代に存在しても、同一作業とは未確定。』


 家の日記と学院の役務記録に同じ言葉があることは重要だ。しかし、年代も記録者も違う以上、意味が変化している可能性を残しておかなければならない。


 授業の後半では、古い技術を調査するときの比較方法も扱われた。名称だけでなく、目的、材料、担当者、実施時期、作業前後の状態、関連する資材などを並べて比較するという説明を聞き、シュウは昨日アルカディアへ話した内容と重なることに気づく。


(方向は間違ってなかったみたいだな)


 少し嬉しくなった。


     ◇


 午前の授業が終わり、五人で食堂へ向かおうとしていたときだった。


 中央講義棟を出たところで、学院職員らしい男性が学生たちの間を見回していた。手には何通かの封書があり、胸元には学院内の郵便や連絡物を扱う部署の徽章が付いている。


「一年三組のシュウ・アルヴェイン君はいますか?」


 自分の名前が聞こえ、シュウは足を止めた。


「はい。俺です」


 職員は近づくと、封書の宛名とシュウの顔を確認する。


「学生宛ての外部郵便です。今朝の便で届いています」


「ありがとうございます」


 受け取った瞬間、見覚えのある封筒だと分かった。


 アルヴェイン家からだった。


 裏面には家の封印があり、開封された形跡もない。


「家から?」


 隣にいたエリオットが尋ねる。


「うん。たぶん、この前送った手紙の返事」


 思っていたより早かった。


 シュウは封筒を裏返してもう一度確認したものの、廊下の途中で開けることはしなかった。内容には北の封所や家に残された古い記録が含まれている可能性があるため、食堂の真ん中で広げるようなものではない。


「昼休みに読むの?」


 ダンが興味深そうに覗き込もうとしたが、セシリアが袖を軽く引いた。


「ダン。家からのお手紙でしょう? 内容を見ようとするものではありませんよ」


「見ようとしてないって! ちょっと気になっただけだ!」


「その距離は十分見ようとしていました」


「違うって!」


 いつもの調子で言い合う二人を見ながら、シュウは封筒を鞄へしまった。


「寮に戻ってから読むよ。急ぎって書いてあるわけでもないし」


 ユリウスが静かに頷く。


「それがいいと思う。調査に関係する内容なら、読んでから必要なところだけ教えて」


「うん」


 その言い方がありがたかった。


 ユリウスは北方調査へ深く関わっているが、家族から届いた手紙を当然のように共有物だとは考えていない。必要な情報だけをシュウ自身が選んで伝えるという距離が、今では自然に成立していた。


     ◇


 昼食では、手紙の内容には触れなかった。


 代わりに昨日の『北部保持材研究録』について、家の秘密に関係しない範囲だけをシュウが説明した。ダンは「白い木だから白材ってわけじゃなかったのか」と改めて驚き、セシリアは材料名より用途分類だった可能性に興味を示した。


「同じ材料でも、加工の仕方で別の名前になることはありますものね」


 セシリアがスープの匙を置きながら言う。


「服地でも、元になる糸が同じでも織り方や仕上げで扱いが変わることがあります。建築材料なら、もっと細かい違いがあっても不思議ではないと思います」


「なるほど」


 シュウはその例が分かりやすいと感じた。


「研究録にも、原材が違うのか加工が違うのか、分類の問題なのか分からないって書いてあった」


「じゃあ、現物があれば分かるのか?」


 ダンが尋ねる。


「たぶん、現物があっても簡単じゃないと思う。百年以上前の材料だし、加工とか劣化で変わってる可能性もあるから」


「面倒だな……」


「だから面白いんじゃない?」


 ユリウスが何気なく言うと、ダンは理解できないものを見るような顔になった。


「ユリウスも完全にシュウ側だな」


「最初から割とそうだったと思う」


「俺は無理だ。古い木を見て百年前に何だったか考えるより、魔法撃ってる方が分かりやすい」


「その魔法も昨日は止める方が難しいって言ってたでしょう」


 セシリアに指摘され、ダンは黙った。


 エリオットが笑いを堪えながらパンをちぎる。


 そんな友人たちを見ているうちに、鞄の中の手紙へ向いていたシュウの意識も少し落ち着いた。


     ◇


 午後は術式基礎だった。


 リディアが用意した課題は、単純な魔力放出式へ停止条件を組み込む練習である。実際に魔法を発動させるのではなく、紙上で術式を構成し、どの条件で供給を止めるかを記述する。


「複雑な停止条件を作ることが目的ではありません」


 教室を回りながら、リディアは学生たちへ繰り返し説明していた。


「術者が何を目的としているのか、その目的に必要な条件は何かを考えてください。安全性を高めようとして条件を増やしすぎれば、逆に判断が遅れることもあります」


 シュウは一定時間後に供給を停止する単純な式を作り、そこへ魔力出力が指定範囲を超えた場合の停止条件を加えた。


 書き終えて見直すと、もう一つ条件を入れたくなる。


(異常振動が出た場合とか……いや、今回の課題には要らないか)


《マスター。かつての術式設定では、停止条件を二十七項目――》


(聞きたくない)


《そのうち十三項目は「世界崩壊時には制限解除」と――》


(何と戦うつもりだったんだよ俺は!)


 心の中で叫びながら、シュウは余計な条件を書き足すのをやめた。


 提出前にリディアが机の横へ来て、術式を確認する。


「アルヴェイン君。二つの停止条件ですね」


「はい。時間と出力上限です」


「なぜこの二つを?」


「今回の目的なら、時間内に指定出力を維持できれば十分だからです。それ以上の条件を入れると、何を確認する課題なのか分かりにくくなると思いました」


 リディアは小さく頷いた。


「良いでしょう。複雑な術式を書けることと、必要な術式を書けることは同じではありません。目的に対して必要十分であることを意識してください」


「はい」


 教師が次の机へ移った後、シュウは自分の術式を見下ろした。


 以前なら、できるだけ多くの機能を付ける方が強いと思っていたかもしれない。


 魔法でも、調査でも、情報が多ければいいわけではない。


 何のために確認しているのかを失わないことが大切なのだろう。


     ◇


 授業が全て終わっても、シュウは図書館へ向かわなかった。


 鞄の中には家から届いた手紙がある。研究録の続きを読むより、まずこちらを落ち着いて確認したかった。


 エリオットと二人で第一男子寮へ戻り、三百十七号室へ入る。窓を開けると、雨上がりの湿った空気に草と土の匂いが混じって流れ込んできた。


 シュウは制服の上着を椅子の背へ掛け、机へ封筒を置いた。


「俺、外に出ようか?」


 エリオットが尋ねた。


「いや、大丈夫。家のことだから、全部見せるつもりはないけど」


「なら、向こうで課題してる」


「ありがとう」


 エリオットは自分の机へ移り、シュウへ背を向ける形で椅子へ座った。


 その距離がありがたい。


 シュウは封印を確認してから、丁寧に封を切った。


 中には数枚の便箋が入っていた。


 最初の部分は、学院生活についての家族らしい内容だった。


 体調はどうか。


 授業には慣れたか。


 食事を抜いていないか。


 研究ばかりして睡眠を削っていないか。


 最後の一文を読んだところで、シュウは思わずエリオットの背中を見た。


(何で家族とエリオットの心配が一致してるんだよ)


《マスターの日頃の行動に一貫した問題があるためでは?》


(ないよ)


《ございます》


(即答するな)


 手紙の中には、シュウが前回知らせた友人たちについても少し触れられていた。学院で一緒に食事をしたり勉強したりできる友人がいることを家族は喜んでおり、無理に何でも一人で抱え込まないように、と書かれている。


 そこまで読んでから、内容は北方の記録へ移った。


 シュウの表情が自然と引き締まる。


 家では第二便を受け取った後、古い帳面と家系記録を改めて確認したらしい。


 最初に書かれていたのは、シュウが尋ねた「アルヴェイン家がいつ北部管理へ関わり始めたのか」という質問への回答だった。


『結論から先に記せば、明確な開始年を示す記録は見つけられなかった。』


 シュウはそこで一度読む手を止めた。


 答えがなかったことへの落胆は、思っていたほど大きくない。


 昨日、エルド・マルセルの研究録を読んだばかりだからかもしれなかった。


(分からないなら、それも情報だ)


 続きを読む。


『現存する家の記録のうち、北方管理への関与を明確に確認できる最古のものは、エドワルド・アルヴェインの時代より前に作成されたとみられる家務覚書の写しである。ただし原本は残っておらず、写された年代も確定できない。』


 シュウの指が便箋の端で止まった。


 エドワルドより前。


 これまで家に残る北方関係の流れとして強く意識していたのは、エドワルドからグレゴール、エルネスト、アルベルトへ続く記録だった。


 しかし、その前段階を示す可能性のある写しがあったらしい。


『覚書には、「北方旧務について、従前の定めに従い、春秋の見分を欠かさぬこと」とある。』


 シュウはゆっくり読み返した。


 北方旧務。


 従前の定め。


 春秋の見分。


 具体的な施設名も、封所という言葉もない。


 けれど、「旧務」という表現からは、その記録を書いた時点ですでに以前から続いていた仕事だった可能性がある。


 手紙には、その点について家族自身の注意も添えられていた。


『ただし、この「北方旧務」が現在我々の認識する北の封所に関する役務と同一であるかは確認できない。また、「従前」がどの時点を指すかも不明である。』


(父さんたちも慎重だな)


《血統による傾向でしょうか》


(そこで血統にするな)


 シュウは読み進めた。


 次に書かれていたのは、ハーゼン家についてだった。


『ハーゼン家からアルヴェイン家へ役務を直接引き継いだことを示す文書は、今回確認した範囲では見つからなかった。』


 予想していた可能性の一つではある。


 学院側の資料では、ゲオルグ・ハーゼンやレオル・ハーゼンが北部管理に関わっていた。一方、アルヴェイン家には後世の北方管理記録が残っている。


 時系列だけを見れば、その間に何らかの引継ぎがあったようにも見える。


 しかし、直接の証拠はない。


 さらに手紙は続く。


『ただし、家の古い目録に、出所不明の文書群をまとめた項目として「北方旧務書付 前役家より来るもの含む」と記した箇所がある。』


 シュウの呼吸が僅かに止まった。


 前役家。


 それだけなら、ハーゼン家を指している可能性はある。


 だが、家族からの手紙はすぐにその考えへ釘を刺した。


『「前役家」がハーゼン家を意味するとの記載はない。複数の家または担当者から文書が集められた可能性もあり、これをもってハーゼン家からアルヴェイン家への直接継承と判断することはできない。』


「……だよな」


 思わず小さく声が出た。


 向こうの机にいたエリオットが振り向きかけたものの、シュウが手紙を読んでいると分かると何も聞かずに課題へ戻った。


 その反応を横目に見ながら、シュウは次の段落へ進む。


 家の目録には、さらに気になる記載があった。


『北方旧務書付の内訳として、「旧境書」「春秋見分帳」「受渡覚」「白守関係二冊」とある。ただし、現存する家蔵資料の題名と完全に一致するものは確認できない。後世の整理時に改題、分冊、散逸した可能性がある。』


 白守。


 学院の資料で見つけた「白守文書」という名称が頭へ浮かぶ。


 ハーゼン家についての後世資料には、「北守の証」「白守文書」と呼ばれる文書が存在した可能性が記されていた。


 しかし、今回の家の目録には「白守関係二冊」。


 似ている。


 だからこそ、危ない。


(同じものだって決めたくなるな)


《名称の近似のみでは証拠として不十分です》


(うん。それに「白守」が白樹のことだとも決まってない)


《その通りです》


 手紙にも、まるでシュウの考えを先回りするような注意があった。


『なお、「白守」の意味は家の者にも分からない。「白樹」との関連を示す記述も今回の確認範囲では見つかっていないため、名称だけで結びつけないようにしてほしい。』


 シュウは思わず笑ってしまった。


 家族も同じところを警戒している。


     ◇


 便箋はまだ続いていた。


 次に記されていたのは、アルベルトの日記にあった「継ぎ」についての追加調査だった。


『「継ぎ」という語について、アルベルト以外の家記録を確認した。』


 シュウは姿勢を正す。


『エルネスト・アルヴェインの家務帳に、「北方、今年の継ぎは早める。雨多く、満ちの落ち早し」との記載が一件ある。』


 シュウはその一文を二度読んだ。


 エルネスト。


 アルベルトより前の世代でも、「継ぎ」と「満ち」が一緒に使われている。


 さらに、


『別の年には、「継ぎ後、三日を置き再見。白き材、応じよし」とある。』


 今度こそ、胸の奥で何かが大きく動いた。


 白き材。


 だが、「白樹」とは書いていない。


 家族の手紙にも、


『「白き材」が白樹を指すか、白材を指すか、単に色の白い部材を指すかは不明。原文表記をそのまま伝える。』


 と明記されていた。


(危な……)


 昨日の研究録を読んでいなければ、白き材という言葉だけで白樹へ結びつけていたかもしれない。


 それでも、エルネストの時代にも「継ぎ」「満ち」「白き材」が同じ管理記録の中へ現れていた事実は大きい。


 さらに手紙には、グレゴールの記録からも一つ見つかったとある。


『グレゴールの覚書には、「春見分、北方異常なし。継ぎは旧定の通り」とのみ記されている。』


 具体的な作業内容は分からない。


 しかし、アルベルトだけの個人的な表現ではなかったことは、家の記録からもより強く確認できる。


 学院側ではレオル・ハーゼンの役務に「継ぎ補助」があった。


 アルヴェイン家ではグレゴール、エルネスト、アルベルトの複数世代に「継ぎ」が残る。


 それでも、ハーゼン家からアルヴェイン家へ直接引き継がれた証明にはならない。


 同じ仕事が別の組織を経由して両家へ渡った可能性もあるし、言葉だけが地域の管理用語として残った可能性もある。


(でも、「継ぎ」って言葉そのものはかなり長く使われてるんだな)


 今朝のオルドの授業が頭をよぎる。


 名称が続いていても、内容まで同じとは限らない。


 まるで今日この手紙を読むことを知っていたかのような授業だった。


     ◇


 手紙の最後には、父親らしい文章があった。


『調べれば調べるほど、分からないことが増える。お前が学院から送ってきた手紙を読んで、こちらでも昔の記録を見直しているが、今まで同じものだと思っていた言葉が、本当に同じ意味だったのか分からなくなってきた。』


『ただ、それは悪いことではないのだろう。分からないものを分かったつもりで引き継ぐより、分からないと知ったうえで残す方が、次の者には役立つはずだ。』


 シュウはその部分で長く目を止めた。


 昨日読んだエルド・マルセルの研究録と、ほとんど同じ感覚だった。


 六十年前の研究者も、分からないことを分からないまま残していた。


 家族も今、同じことをしている。


 そして自分も、学院でそれを学び始めている。


『北の森については、こちらでは今のところ新たな変化は確認されていない。鐘も鳴っていない。古い小屋についても外から確認した範囲では前回と変化なし。地下へ入ってはいない。』


 シュウの肩から僅かに力が抜けた。


 二度目の鐘は、まだ鳴っていない。


 森で新しい異常も起きていない。


 だから急いで帰る必要はない。


 最後には、


『学院でやるべきことを優先しなさい。こちらで調べられることはこちらで調べる。返事を急ぐ必要もない。身体を壊すほど調べるな。』


 と書かれていた。


(最後までそこか……)


《ご家族の判断は適切です》


(アルカディアまで乗るなよ)


 シュウは便箋を揃え、すぐ封筒へ戻さず机の上へ置いた。


 頭の中を整理する時間が必要だった。


     ◇


「読み終わった?」


 しばらくして、エリオットが声をかけてきた。


「うん」


「何か悪いこと?」


「いや。北の森は変化なしだって。鐘も鳴ってない」


「それならよかった」


 エリオットの表情が明らかに緩む。


 地下扉の存在を知っている彼にとっても、北の森に変化がないという情報は安心材料なのだろう。


「あと、昔の記録を調べてくれた。でも、知りたかったことが全部分かったわけじゃない」


「アルヴェイン家がいつ管理を始めたか?」


「そこも分からなかった。少なくとも、今まで俺が中心に見てたエドワルドより前から北方の『旧務』って呼ばれる仕事に関わってた可能性はある。でも、その旧務が北の封所のことかは分からない」


 エリオットは椅子ごとこちらへ向き直った。


「ハーゼン家から引き継いだ記録は?」


「直接引き継いだって書類は見つからなかった」


「そっか」


「ただ、家の古い目録に『前役家より来るもの含む』って書かれた北方の文書群があったみたい」


 エリオットの眉が僅かに動いた。


「前役家って、ハーゼン家?」


「そこが分からない。名前がないんだ。だからハーゼン家だった可能性はあるけど、別の家かもしれないし、複数の担当者をまとめてそう呼んでるかもしれない」


「じゃあ、まだ繋げられないんだね」


「うん」


 エリオットは少し考えてから尋ねる。


「ユリウスには話す?」


「家族の手紙そのものは見せないけど、調査に関係するところは明日伝えようと思う。特に『継ぎ』は、家の記録でも複数の世代に出てきた」


「昨日読んだ本とも関係しそう?」


「可能性はある」


 シュウはそこで言葉を選んだ。


「白樹みたいな保持材は、状態が弱くなったら魔力を補ったり、周りの供給部を交換したりする例があるって昨日の本には書いてあった。家の記録だと、『満ち』が落ちたから『継ぎ』をするっていう書き方がある」


「似てるね」


「うん。でも今日の魔法史でもやっただろ。同じ名前が長く残ってても、中身が同じとは限らないって」


「ああ」


「だから、似てるところが増えたって段階かな」


 そう口にしてみると、自分でも納得できた。


 証拠が一つ増えるたびに答えへ飛びつくのではなく、何が強くなり、何がまだ弱いのかを分けて考える。


 少しずつ、そのやり方が自然になっている。


     ◇


 夕食後、シュウは北方調査ノートを開いた。


 家からの手紙そのものは家族の私信なので、全文を書き写すことはしない。調査へ関係する情報だけを、家族記録由来だと分かる形で整理していく。


『第二便回答受領。北の森、新規異常確認なし。森底の鐘の二度目なし。古い小屋は外観上変化なし。家族は地下へ入っていない。』


 まず現在の安全情報を記す。


 次に、アルヴェイン家の管理開始時期。


『アルヴェイン家の北方管理開始年――今回の家蔵記録確認では特定できず。』


『エドワルド以前の家務覚書写しに「北方旧務について、従前の定めに従い、春秋の見分を欠かさぬこと」。原本なし、写し年代未確定。「北方旧務」=北の封所関連とは未確定。』


 その下へ、ハーゼン家との関係を書く。


『ハーゼン家→アルヴェイン家の直接引継ぎを示す文書は未発見。』


『古い家目録に「北方旧務書付 前役家より来るもの含む」。前役家の名称記載なし。ハーゼン家と断定不可。複数家・複数担当由来の可能性も残す。』


 さらに、


『同目録内訳:「旧境書」「春秋見分帳」「受渡覚」「白守関係二冊」。現存資料との対応不明。学院側後世資料の「白守文書」と同一か未確定。「白守」=白樹とも未確定。』


 ここは特に慎重に線を引いた。


 名称が似ているだけで同じものにはしない。


 続いて「継ぎ」。


『エルネスト・アルヴェイン家務帳:「北方、今年の継ぎは早める。雨多く、満ちの落ち早し」』


『別年:「継ぎ後、三日を置き再見。白き材、応じよし」』


『グレゴール・アルヴェイン覚書:「春見分、北方異常なし。継ぎは旧定の通り」』


『アルベルト以前の複数世代でも「継ぎ」使用を確認。ただし各年代の作業内容が同一とは未確定。「白き材」が白樹・白材・その他淡色材のいずれかも不明。』


 最後に、学院側の情報と並べる。


『学院役務記録:レオル・ハーゼン「継ぎ補助」。』


『家記録:グレゴール、エルネスト、アルベルトの複数世代に「継ぎ」。』


『「継ぎ」という管理用語が長期間使用された可能性は上昇。ただしハーゼン家→アルヴェイン家の直接継承、および作業内容の連続性は証明されていない。』


 シュウはそこでペンを止めた。


(これなら大丈夫かな)


《事実と推測は分離されております》


(よし)


 少し迷ってから、今朝の魔法史で書いた注意も移す。


『名称継続≠技術・作業内容の完全継続。』


 昨日の研究録から得た注意と、今日の授業、家から届いた記録が一本の考え方として繋がった。


 ただし、それは謎の答えが一本に繋がったという意味ではない。


 調べ方が繋がっただけだ。


     ◇


 その夜、第二男子寮ではユリウスが自分の机へ向かっていた。


 今日の昼、シュウが家からの手紙を受け取ったことは知っている。しかし、内容を聞こうとは思わなかった。


 北方資料の調査を一緒にしているからといって、アルヴェイン家の私信まで自分に読む権利が生まれるわけではない。


 明日、必要なことがあればシュウから話すだろう。


 それで十分だった。


 ユリウスは今日の魔法史のノートを見返しながら、「名称継続≠内容継続」と自分なりに書いた部分で手を止める。


(北部旧所も、同じかもしれない)


 百年以上にわたって似た呼称が残っていたとしても、管理対象や役割が途中で変化している可能性がある。


 北部旧所。


 北の封所。


 現在の古い小屋。


 似た位置や役割を想像できる要素はあるが、今のところ同一だとは確認されていない。


 シュウが何度もそこを分けて考えている理由が、以前よりよく分かるようになった。


(分からないものを一つにまとめると、調べる場所まで間違えるんだろうな)


 ユリウスはノートの端へ、小さく一文を書き加えた。


『名前が残ったのか、仕事が残ったのか、場所が残ったのかを分ける。』


 明日シュウに見せてみようと思い、その日はノートを閉じた。


     ◇


 第一男子寮三百十七号室では、シュウも机の上を片づけていた。


 家から届いた便箋は元の順番へ揃え、封筒と一緒に鞄の内側へしまう。北方調査ノートも閉じ、その上へ明日の授業で使う教科書を重ねた。


「今日はもう終わり?」


 ベッドへ入ろうとしていたエリオットが尋ねる。


「終わり」


「図書館の研究録の続きが気になっても?」


「気になるけど、今から行けないだろ」


「そういう意味じゃなくて、頭の中で考え続けない?」


「それは……少しは考える」


「やっぱり」


「でも寝るよ」


 エリオットはそれならいいと笑い、自分の灯りを消した。


 シュウも机の魔導灯を消してベッドへ入る。


 暗くなった部屋で目を閉じると、今日知った言葉がいくつも浮かんできた。


 北方旧務。


 前役家。


 春秋見分。


 受渡覚。


 白守関係二冊。


 継ぎ。


 満ち。


 白き材。


 以前の自分なら、それらを一本の線で結びたくなったかもしれない。


 前役家はハーゼン家。


 白守は白樹。


 継ぎは白樹への魔力補充。


 北方旧務は北の封所。


 そう決めてしまえば、確かに話は綺麗になる。


 けれど、綺麗であることと正しいことは同じではない。


(分からないところ、また増えたな)


《はい》


(でも、前より嫌じゃない)


 アルカディアからすぐには返事がなかった。


 少し間を置いてから、静かな声が届く。


《マスターは以前、答えのない状態を嫌っておられました》


(そうだった?)


《黒歴史ノート作成当時、未設定項目を発見されるたびに即座に設定を追加しておられます》


(その頃の話かよ……)


《「謎とは答えが存在して初めて謎たり得る。答えなき謎は作者の怠慢である」と――》


(頼むから寝る前に十四歳の俺を召喚しないでくれ)


《なお、その翌頁には答えの決まっていない伏線が十一件――》


(おやすみ、アルカディア)


《おやすみなさいませ、マスター》


 強引に会話を終わらせると、シュウは布団を引き上げた。


 家からの手紙は、求めていた答えを運んできたわけではなかった。


 アルヴェイン家が北方管理を始めた日付は分からない。


 ハーゼン家から直接引き継いだ証拠もない。


 「白守」の意味も、「継ぎ」の具体的な作業内容も分からない。


 それでも、エドワルド以前から北方の「旧務」が家に存在していた可能性が見え、複数世代にわたって「継ぎ」という言葉が使われていたことも分かった。さらに、どこかの「前役家」から文書が渡されたらしい痕跡まで残っている。


 答えはなかった。


 代わりに、次に確かめるべき境界が少しだけはっきりした。


 シュウはそれで十分だと思いながら目を閉じる。


 北の森では、まだ二度目の鐘は鳴っていない。


 急ぐ理由がない今だからこそ、分からないものを分からないまま丁寧に追うことができる。


 やがて隣のベッドから規則的な寝息が聞こえ始め、シュウもまた、静かな夜の中へ意識を沈めていった。

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