第45話 隣の道は、探さなくてもそこにありました
翌朝、シュウは目覚めてからしばらく、今日の午後にある合同実技について考えないようにしていた。
正確には、考えてはいけないわけではない。セレナから言われたのは、通常の闇属性を使うときに感じる「隣の道」を意図的に探さないことであり、授業そのものを警戒する必要はないと説明されている。
それでも、意識しないようにしようと考えた時点で、すでにかなり意識してしまっていた。
(普通にやるだけなんだよな)
《はい》
アルカディアの返答は短い。
昨夜の話し合いどおり、安全上の異常がない限り、今日の実技中はアルカディアから「隣の道」に関する情報を先に伝えないことになっている。シュウ自身が自然に何かを感じた後であれば確認するが、何も感じなければ、そのまま授業を終える予定だった。
「おはよう」
向かいのベッドから声がして、シュウは顔を上げた。
「おはよう」
エリオットはまだ少し眠そうだったが、身体を起こすと窓の外へ目を向けた。今日は昨日までより雲が多く、朝の日差しも薄い。窓硝子の向こうでは灰色がかった雲がゆっくり流れ、寮前の木々もほとんど揺れていなかった。
「午後、実技だね」
「うん」
「普通にやるんだろ?」
「普通にやるよ」
「なら大丈夫か」
それだけ確認すると、エリオットは制服へ着替え始めた。
余計なことを聞かないのは、シュウが昨日説明したことを覚えているからだろう。
自分から探さない。
何も起きなければ、それでいい。
シュウもベッドから降り、制服へ袖を通した。
◇
午前中の授業は、基礎学科と術式記述だった。
術式記述では、同じ現象を起こす簡易術式でも、魔力経路の組み方によって起動速度と安定性が変化することを学んだ。早く起動することだけを優先すれば途中の調整幅が狭くなり、逆に細かな制御を重視すれば術式が長くなる場合もある。
黒板には二種類の《微灯》の術式が並べられていた。
一方は線が少なく、もう一方は途中に二つの補助式が組み込まれている。
「どちらが優れていますか、と聞かれたら困ります」
リディアが教壇から生徒たちを見る。
「目的が違うからです。単純に灯りが欲しいだけなら左側でも十分でしょう。一方、明るさを細かく調整したいなら右側の方が扱いやすい人もいます。術式を評価するときは、複雑か単純かだけではなく、何を目的としているかを確認してください」
シュウは二つの術式をノートへ写しながら、以前の自分なら間違いなく複雑な方を選んでいただろうと思った。
理由も簡単だ。
複雑な方が格好いいから。
《実際、過去のマスターは術式について「円は最低七重、文字は読めない方がよい」と――》
(それはもう聞いたから)
《関連性が高かったため》
(授業内容と黒歴史の関連性を探さなくていいんだよ)
リディアの説明は続いている。
「もう一つ。複雑な術式には、複雑である理由が必要です。必要な制御機構を増やした結果として複雑になることはありますが、複雑にすること自体を目的にしてはいけません」
シュウは思わず目を逸らした。
もちろんリディアは自分へ言っているわけではない。
それなのに妙に刺さる。
「シュウ?」
隣のエリオットが小声で呼ぶ。
「何でもない」
「何か心当たりある顔してたけど」
「昔の俺に聞かせたい授業だなって思っただけ」
「ああ」
「何でそれだけで納得するの?」
「最近いろいろ聞いたから」
否定できない。
シュウは大人しく黒板へ視線を戻した。
◇
昼休み。
食堂へ入ったシュウとエリオットは、すでに席を取っていたダンたちのところへ向かった。
今日の昼食は焼いた鶏肉に香草のソースをかけたものと、豆入りの温かなスープだった。外が曇っているため食堂内も昨日より少し暗く、壁際の魔導灯が昼間から淡く灯されている。
「午後、合同だよな」
ダンがシュウたちの姿を見るなり言った。
「そうだね」
「今日は俺、昨日より上手くやるからな」
「何を?」
「出力調整だよ。昨日の練習でかなり分かった」
ダンは自信満々だった。
隣のセシリアは少し困ったように笑っている。
「昨日の最後は、少し疲れて出力が安定していませんでしたけどね」
「それは練習しすぎたからだろ」
「だから、疲れたら止めるのも練習だと言われたでしょう?」
「分かってるって」
返事だけは良い。
ただ、以前と違って本当に聞き流しているわけではないことをシュウも知っている。ダンは勢いで動くところがあるものの、ガルドから安全面を注意されて以降、自主練習では小さな魔法を使い、無理に規模を上げなくなっていた。
「セシリアは今日、何使う?」
シュウが尋ねる。
「合同実技なら、たぶん得意属性だけではなく複数属性を使うと思います。私は水と光を中心にするつもりですけど、先生から指定されたら他も試します」
「俺は火!」
「ダンは聞かれる前から決まってるね」
「得意だからな!」
胸を張るダンの向かいで、ユリウスが静かにパンをちぎった。
「今日は属性変換の続きなら、闇も使うかもしれない」
「ユリウス、闇得意だもんな」
「得意というほどじゃない。ただ、使いにくくはない」
以前の測定でも、ユリウスは闇属性への変換が比較的安定していた。
「シュウも闇使えるんだろ?」
ダンが何気なく尋ねる。
「普通の闇属性ならね」
「普通のって言い方すると、黒いやつが余計変に聞こえるな」
「俺もそう思う」
シュウは苦笑した。
「でも別に、今日何か試すわけじゃないよ。先生に言われた課題を普通にやるだけ」
「それがいいですよ」
セシリアが頷く。
「研究のための実験と授業は、分けた方がいいと思います」
「うん」
シュウも同意した。
グレイやセレナも同じ考えだろう。
今日の授業は漆黒魔力を調べるためのものではない。
だから、闇属性を使って何も感じなくても失敗ではないし、何か感じたからといってその場で追いかける必要もない。
◇
午後の合同実技は、第二実習場で行われた。
担当はガルド・ベイルとミレイ・アスターで、二組の学生たちが広い実習場へ入ると、床には一定間隔で簡易観測台が並べられていた。
以前使用した本格的な変換観測器とは違い、今日の器具は魔力の細かな性質を研究するためのものではない。学生自身がどの程度安定して属性変換できているかを確認する、授業用の簡易器具だった。
「今日は難しいことはやらん!」
全員が揃ったところで、ガルドの大きな声が実習場へ響いた。
「自分が使いやすい属性と、使いにくい属性を比べる! それだけだ!」
何人かの学生が安心したような顔をする。
「ただし!」
ガルドが声をさらに張った。
「得意な方で格好つけて大出力を出す必要はない! 今日見るのは威力じゃなく、変換と維持と停止だ! 前にも言ったが、自分が止められない魔法を出すな!」
その言葉を聞いたダンが、少しだけ背筋を伸ばした。
セシリアが隣で気づき、僅かに笑う。
ミレイが続けて説明した。
「最初に使いやすい属性を一つ選び、低出力で変換してください。観測台の反応が安定したら十呼吸ほど維持し、その後ゆっくり停止します。次に、最初より扱いにくい属性を一つ選び、同じことを行います」
扱える属性が一つしかない学生については、出力を変えて比較するらしい。
「自分で扱えると確認されていない属性を、今日初めて試す必要はありません。これまでの授業や測定で使用経験のある範囲から選んでください」
シュウは説明を聞きながら、少し安心した。
自分の場合、五つの属性はかなり扱いやすく、闇だけ感覚が少し異なる。
比較対象として選ぶなら自然に闇になるだろう。
「二人一組! 互いに観測台の値と様子を確認しろ!」
学生たちが動き始める。
シュウはエリオットと組んだ。
「俺は水と土かな」
エリオットが言う。
「土?」
「前の測定でも弱かったから。シュウは?」
「最初は火。次は闇にする」
エリオットは一瞬だけシュウを見る。
けれど、止めようとはしなかった。
「普通に?」
「普通に」
「分かった」
それだけで話は終わった。
◇
先に行うのはエリオットだった。
観測台へ両手を近づけ、まず水属性へ魔力を変換する。
透明だった観測面へ淡い青色が広がった。
「一、二、三……」
シュウは呼吸数を数えながら、表示される値を見る。
起動直後に少しだけ揺れたものの、三呼吸目には安定した。そこから十呼吸まで大きな変化はなく、エリオットが魔力供給を減らすと、青い反応も滑らかに薄くなって消えていった。
「かなり安定してたよ」
「昨日の出力調整が少し役立ったかも」
「次は土?」
「うん」
一度休憩を挟み、今度は土属性へ変換する。
水より明らかに時間がかかった。
観測面へ黄色がかった反応が出るまでに少し間があり、安定した後も僅かな濃淡が繰り返されている。
それでもエリオットは焦らなかった。
昨日までなら安定させようとして必要以上に魔力を足していたかもしれないが、今日は揺れを見ながら少しずつ調整している。
「八、九、十」
シュウの合図で、エリオットは供給を弱める。
最後だけ反応が僅かに残ったものの、二呼吸ほどで完全に消えた。
「水より難しいな」
「でも途中で大きく崩れなかったよ」
「うん。前よりは分かる」
エリオットは自分の手を見ながら、少し嬉しそうに笑った。
次はシュウの番だった。
◇
最初に火属性を選ぶ。
観測台へ手を近づけ、普段どおりに魔力を流す。
変換する。
それだけで、魔力の性質が自然に火へ寄っていく感覚があった。
観測面には淡い赤色が現れ、ほとんど揺れることなく安定する。
「一、二、三……」
エリオットが数える。
シュウは呼吸を乱さず、同じ程度の魔力を送り続けた。
昨日学んだ維持供給を思い出す。
多く流す必要はない。
必要な量を、必要なだけ保つ。
「九、十」
供給を落とす。
赤色が薄れ、完全に消える。
「やっぱり火は安定してるね」
「うん。前より途中の量も分かりやすい気がする」
少し休憩する。
次は闇属性だ。
シュウは一度、自分の呼吸を整えた。
(探さない)
わざわざ意識する必要もないのかもしれないが、それでも確認しておく。
今日は普通の闇属性を使うだけだ。
「いける?」
エリオットが尋ねる。
「うん」
観測台へ手を近づける。
魔力を流す。
そして、闇へ変換する。
最初に感じたのは、以前と同じ静かな沈み込みだった。
火属性のときは性質が前方へ広がるような感覚があるのに対し、闇属性では魔力が少し深いところへ沈み、そこから落ち着いていくように感じる。
観測面へ紫色が現れた。
「反応出た」
エリオットが言う。
「うん」
シュウは余計なことをしない。
そのまま維持する。
「一、二、三……」
呼吸を続ける。
紫色は安定している。
変な揺れもない。
魔力が勝手に別のものへ変わる感覚もなかった。
「四、五……」
五呼吸目。
そのときだった。
(……あ)
何かが起きたわけではない。
魔力は闇属性のままだ。
観測台も紫色を保っている。
それでも、シュウには分かった。
前にも感じたもの。
自分が今通っている闇属性への道のすぐ隣に、別の道がある。
以前は「気づいた」という感覚に近かった。
今回は、それより少しだけ輪郭が分かる。
道が開いたわけではない。
呼ばれてもいない。
引っ張られてもいない。
ただ、隣にある。
(探してない)
それだけを確認する。
自分から触れようとはしない。
意識を向けて詳しく見ようともしない。
「七、八……」
エリオットの声が聞こえる。
闇属性は安定している。
「九、十」
停止。
シュウは魔力供給を少しずつ弱めた。
紫色が薄くなる。
そこで一瞬だけ、隣にあった道の感覚が闇属性より先に遠ざかった。
(え?)
しかし追わない。
そのまま魔力供給を止める。
観測面から紫色が消えた。
「終わり」
エリオットが言う。
「……うん」
「何かあった?」
声を潜めて尋ねられる。
シュウはすぐ答えず、自分の身体を確認した。
頭痛なし。
胸の違和感なし。
手足の痺れなし。
魔力が勝手に動いている感覚もない。
「前に言ってた感覚はあった」
「隣の?」
「うん。でも、それだけ」
「追ってない?」
「追ってない」
「なら先生に言う?」
シュウは少し考えた。
今日の実技担当であるガルドとミレイは、グレイやセレナの研究内容をどこまで共有されているか分からない。
ただし、自分の魔力に関する特殊観察が行われていること自体は学院側で把握されているはずだ。
「授業が終わったら、グレイ先生にメモだけ送る。今ここで何かする必要はないと思う」
「分かった」
エリオットもそれ以上聞かなかった。
《アルカディア》
シュウは心の中で呼ぶ。
《はい》
(今、聞いていい?)
《問題ございません》
(何か変だった?)
少しだけ間があった。
《危険と判断する変化はございませんでした。また、通常闇属性から漆黒魔力へ移行した兆候も、私が識別可能な範囲では確認しておりません》
(隣の道は?)
《マスターが認識された時期とほぼ同じ頃、通常闇属性とは僅かに異なる魔力挙動を近接して感知いたしました。ただし、それが「別の経路」であると私から断定することはできません》
(停止するときは?)
《通常闇属性の反応が消失するより僅かに早く、近接していた異なる挙動が感知範囲から外れました》
シュウは眉を僅かに動かした。
自分が感じたものと近い。
しかし、それだけだ。
(分かった。ありがとう)
《はい》
アルカディアも、それ以上は何も言わなかった。
◇
実技は続いた。
シュウだけが特別なことをしているわけではない。
少し離れた観測台では、ダンが火属性を維持していた。以前なら最初から強い反応を出していたが、今日は低い出力を保ち、十呼吸目までほとんど変化させていない。
「十! よし!」
本人が自分で数えていたらしい。
「まだ停止までです」
隣のセシリアが落ち着いて指摘する。
「あ、そうだった」
ダンは慌てて切るのではなく、供給量を少しずつ落とした。
赤い反応が薄くなり、最後には綺麗に消える。
「今の見た!?」
「見ていました」
「完璧じゃない?」
「最後に声を出して集中が少し切れていました」
「厳しい!」
「でも停止は綺麗でしたよ」
その一言で、ダンはすぐ嬉しそうな顔になった。
次にセシリアが水属性を使う。
青い反応は起動から維持まで非常に安定していた。停止も滑らかで、ダンが感心したように観測台を覗き込んでいる。
「全然揺れないな」
「水は慣れていますから」
「俺もそれくらい火を安定させたい」
「今日かなり良くなっていましたよ」
「じゃあ次はもっと長く――」
「今日は十呼吸です」
「分かってるって」
少し離れた場所では、ユリウスが風属性の後に闇属性を使っていた。
シュウは自分から見に行かなかった。
ユリウスの闇属性がどう感じられるのか気にはなる。
しかし、自分の研究のために友人の魔力を観察する授業ではない。
ガルドも実習場を歩きながら、何度も同じことを言っている。
「他人と数字を競うな! 得意属性と苦手属性で差が出るのは当たり前だ! 昨日の自分より扱えてるかを見ろ!」
その声に、何人かの学生が観測台から顔を上げた。
シュウも同じだった。
魔力の性質が珍しいかどうかより、まず自分で扱えること。
最近の授業で何度も教えられていることだった。
◇
全員の実技が終わると、ミレイが今日の記録用紙を回収した。
「自分で気づいたことがある人は、授業用ノートへ残しておいてください。ただし、一度の結果だけで『自分はこの属性が苦手だ』と決めないようにしましょう。疲労や集中状態によっても結果は変わります」
ガルドも腕を組んだまま頷く。
「逆も同じだ! 一回上手くいったからって、何でもできる気になるなよ!」
ダンが僅かに目を逸らした。
セシリアが気づいたが、何も言わず微笑んでいる。
「今日はここまで!」
授業終了の声が響き、学生たちが片づけを始めた。
シュウも観測台から離れ、エリオットと一緒に出口へ向かう。
途中でユリウスが合流した。
「どうだった?」
シュウが尋ねる。
「風は安定した。闇も前より維持しやすかった」
「何か違いあった?」
「風より闇の方が、維持してる間の変動が少なかった。俺には闇の方が止めやすいかもしれない」
「へえ」
シュウはそれ以上、自分との違いを探ろうとはしなかった。
ユリウスの闇属性はユリウスのものだ。
自分が感じる「隣の道」が全員に存在するのかどうかさえ、まだ分かっていない。
「シュウは?」
今度はユリウスから聞かれる。
「火はいつも通り。闇も普通に使えたよ」
嘘ではない。
少しだけ迷ってから付け加える。
「前に感じた変な感覚もあったけど、今日は調べるための授業じゃないから、そのまま終わらせた」
ユリウスは一度だけ頷いた。
「それでいいと思う」
「うん」
そこへ後ろからダンとセシリアが追いついてきた。
「聞いてくれシュウ! 今日の火、かなり良かった!」
「さっき見てたよ」
「じゃあ分かるだろ!」
「停止まで綺麗だったね」
「だろ!」
ダンが嬉しそうに笑う。
セシリアも水属性は安定していたが、二つ目に選んだ風属性では維持中に僅かな揺れが出たらしい。
「でも、以前より起動は速くなりました。停止も横へ流れる感じがかなり減ったので、少しずつ慣れていると思います」
「ちゃんと進んでるね」
「はい」
五人はそのまま実習場を出た。
今日は誰かが圧倒的な魔法を見せたわけでも、大きな事件が起きたわけでもない。
それぞれが昨日までより少しだけ、自分の魔力を扱えるようになった。
学院で過ごす日々は、そういう小さな積み重ねでできているのだとシュウは思った。
◇
中央講義棟へ戻った後、シュウは学院内便用の短い用紙を一枚受け取った。
グレイへ送る内容は、必要以上に長くしない。
『本日の合同実技で通常闇属性を低出力・十呼吸維持。意図的な探索は行っていませんが、維持中に以前と同様の「隣に別の道がある」感覚を自然に認識しました。引かれる感覚・強制的な変換・体調異常なし。停止時、通常闇属性の感覚より僅かに先に「隣」の感覚が遠ざかったように感じました。
アルカディア確認では、危険な変化および漆黒魔力への移行兆候は確認できず。私が認識した時期と近い頃に、通常闇属性とは僅かに異なる近接した魔力挙動を感知。停止時も通常闇属性より先に感知範囲外となったとのことです。
追加確認は行っていません。現在、体調異常なし。』
書き終え、内容を読み直す。
最後に署名し、学院内便として提出した。
返事を急ぐ内容ではない。
グレイやセレナが必要だと判断すれば、また連絡が来るだろう。
◇
その日の放課後は、図書館へ行かなかった。
北方調査を忘れたわけではない。
むしろ、まだ読んでいない『北部保持材研究録』や、再確認したい資料はいくつも残っている。
それでも今日は通常魔法の実技があり、漆黒魔力に関して新しい感覚も記録した。
ここからさらに北方資料まで調べれば、頭の中で別々の情報が混ざりそうだった。
「今日は練習場も行かない?」
中央講義棟を出たところでダンに聞かれる。
「俺は戻るよ。今日の実技をまとめたいから」
「そっか。俺はもうちょっと――」
言いかけたダンを、セシリアが見る。
「今日の授業で十分使いましたよね?」
「……軽くだけ」
「疲れてから続けると、昨日と同じになりますよ」
「分かったよ」
少し不満そうではあるが、以前のように押し切ろうとはしなかった。
「じゃあ俺も今日はやめる」
「それがいいと思います」
セシリアが満足そうに頷く。
ユリウスも今日は寮へ戻るらしく、五人は途中まで一緒に歩いた。
学院の敷地内では、別の実技を終えた学生たちが何人も行き交っている。空は朝よりさらに雲が厚くなっていたものの、雨が降る様子はなく、少し冷たい風だけが制服の裾を揺らしていた。
「何かさ」
ダンが突然言う。
「最近、みんな『今日はやめる』って言うようになったよな」
「ダンもでしょう?」
セシリアが返す。
「俺は前から止めてたよ」
「先生に止められていましたね」
「それは違う!」
シュウたちが笑う。
「でも、本当にそうかも」
エリオットが言った。
「前は自主練習って、時間いっぱいやるものだと思ってたけど、授業で停止とか維持をやるようになってから、疲れて崩れる前に終わるのも練習なのかなって」
「ガルド先生が聞いたら喜びそう」
「でも、その後で『分かったなら最初からやれ!』って言いそう」
シュウが答えると、全員がガルドの声を想像できたのか、また笑った。
◇
夕食後、317号室。
シュウは机へ座り、今日の授業内容を整理していた。
まずは通常の授業ノート。
『属性変換比較実技』
『火――起動・維持・停止とも安定。低出力十呼吸。』
『闇――起動・維持・停止とも観測上は安定。低出力十呼吸。』
そこから下は、少し間を空けて書く。
『闇属性維持中、以前と同様に「隣の道」の感覚を自然に認識。自分から探索していない。引力・強制変換なし。』
『停止時、「隣」の感覚が通常闇属性より僅かに先に遠ざかったように感じた。』
『アルカディア――危険反応なし。漆黒魔力への移行兆候なし。通常闇属性とは僅かに異なる近接挙動を、本人の認識と近い時期に感知。停止時は通常闇属性より先に感知範囲外。』
『グレイ先生へ学院内便で報告済み。追加確認なし。』
シュウは最後の一文の下へ線を引いた。
これ以上は書けない。
隣の道が漆黒魔力へ繋がっているとは確認されていない。
普通の闇属性と共通する経路があるとも分かっていない。
アルカディアが異なる挙動を感知したからといって、それが独立した魔力経路だと決まったわけでもない。
(でも、前より少しだけ同じ感覚を確認できた)
《はい。ただし本日の結果は一度のみです》
(分かってる)
《私の感知についても、通常闇属性に伴う微細な変動を別挙動として認識している可能性を除外できません》
(それも書いた方がいいかな)
《研究用の正式記録はグレイ先生方が判断されるでしょう。マスター個人の記録へ残すのであれば、「別経路とは断定不可」で十分かと》
「じゃあ、それで」
シュウは小さく呟き、追記する。
『別経路とは断定不可。』
簡単な一文だ。
けれど、その一文が今は大事だった。
◇
授業用ノートを閉じた後、シュウは少し迷ってから机の引き出しを開けた。
中には北方調査ノートが入っている。
二日ほど新しい資料を調べていない。
昨日の王国基礎と魔法史で学んだ内容の中には、北方調査へ使えそうな考え方もあった。
シュウはノートを取り出したものの、図書館へ行く準備をするわけではない。
「開くんだ」
向かいのエリオットが気づいた。
「今日は調査じゃなくて整理だけ」
「本当に?」
「昨日と今日の授業で気づいたことを書くだけだよ」
「じゃあ見張っとく」
「見張らなくていいって」
苦笑しながら、シュウはノートを開いた。
最後に書かれているのは、東部旧所と巡検所についての整理だ。
その下へ、新しい資料から得た事実ではなく、今後資料を読むときの注意点として書き加える。
『確認時の視点――土地所有者/役務担当者/命令主体を分ける。行政区分変更後も旧担当が一部役務を継続する例あり。ハーゼン家→アルヴェイン家の関係へ直接適用はしない。』
『古い保持技術が失われた理由候補――材料消失、維持費、制度変更、用途消滅、安全基準、代替技術、継承断絶等。北の封所へ直接適用はしない。』
『技術そのものだけでなく、維持した人物、費用、必要とされた理由を確認する。』
そこで一度ペンを止める。
次に、今後確認したいものを整理した。
『未確認――『北部保持材研究録』。エルド・マルセル著、約六十年前。学院一般閲覧、北方建築史第三棚。』
『未確認――アルヴェイン家が北部管理へ関与し始めた時期。第二便の家族回答待ち。』
『未確認――ハーゼン家からアルヴェイン家への直接的な引継ぎ記録の有無。現時点で直接継承は未確認。』
『未確認――東部巡検所と地図記号の同一性。位置は近いが未確定。』
『未確認――東部旧所保持部の具体的構造・用途。』
『未確認――保持用白材と白樹加工材の関係。後世研究で関連指摘あり、同一性未確定。』
『未確認――北部旧所第二の白材補修が「保持用白材」だったか。』
『未確認――小型魔石の用途。』
書き並べてみると、やはり多い。
ただ、以前のように巨大な一つの謎には見えなかった。
資料で調べられるもの。
家族からの返事を待つもの。
学院では確認できないもの。
現地へ行かなければ分からないかもしれないもの。
そして、今すぐ調べる必要がないもの。
少しずつ分けられるようになっている。
「終わった?」
エリオットが尋ねる。
「うん。今日はこれだけ」
「本当に?」
「本当に」
シュウはノートを閉じた。
「次に図書館行くなら、『北部保持材研究録』かな」
「昨日読まないって言ってた本?」
「そう。昨日は読まなかったでしょ」
「明日は?」
「まだ決めてない」
「珍しい」
「俺だって毎日予定を決めてるわけじゃないよ」
「北のことになると、だいたい次を決めてたから」
言われてみれば、その通りかもしれない。
「家からの返事も待ってるしね」
「まだ来てない?」
「うん」
二通目の手紙を出してから、まだそれほど日数は経っていない。
内容も、家に残っている古い資料を確認してほしいというものだ。父や母にも普段の生活があり、すぐ返事が来るとは限らない。
「急がなくていいって書いたんだろ?」
「書いた」
「なら待とう」
「うん」
シュウは素直に頷いた。
◇
その頃、中央研究棟では、グレイ・ハルバートが一日の授業関連書類を整理していた。
机の端には、少し前に学院内便で届いたシュウからの報告が置かれている。
向かいにはセレナ・ヴァイスが座り、その紙を読み終えたところだった。
「追わなかったのね」
「ああ」
「アルカディア側も危険反応なし。漆黒への移行も確認していない」
セレナは報告用紙を机へ戻す。
「停止時に、近接した別挙動が先に消えたというのは気になるけど」
「一度だけだ」
「分かってる」
グレイは前回の観察記録を開いた。
通常闇属性。
漆黒魔力。
本人が感じる「隣の道」。
それらがどう関係しているのかは、まだ何も確定していない。
「少なくとも、通常闇属性を維持しているだけで勝手に漆黒へ移行する様子は今のところない」
グレイが言う。
「そこは安心材料ね。ただ、今回の授業用観測台では細かな変化までは取れない」
「だからといって、再現させる理由にはならない」
「もちろん」
セレナは椅子の背へ軽く身体を預けた。
「先にこっちの機器を片づけましょう。無入力、無属性魔力、六属性。それぞれ複数回。中央部が先に反応する条件と、あの微小揺れが装置だけで出るか確認する」
「時間はかかるな」
「かければいいでしょう」
迷いのない返事だった。
「対象が学生なら、なおさら」
グレイは小さく頷く。
「同感だ」
シュウを次に呼ぶ日は、まだ決めない。
装置側で確認できることを先に確認する。
その方針は変わらなかった。
◇
夜が深まり、317号室の魔導灯が消えた。
シュウは布団へ入り、枕へ頭を預ける。
今日は普通の闇属性を使った。
漆黒魔力は使っていない。
それでも、隣にある何かを自然に感じた。
以前と同じ感覚。
けれど今回は、停止するときにほんの少しだけ違いも感じた。
(隣の道……か)
自分でそう呼んでいるだけだ。
本当に道なのかは分からない。
魔力の変換経路なのか、単なる感覚上の違いなのか、それすらまだ確定していない。
《マスター》
(うん?)
《一つ確認してもよろしいでしょうか》
(黒歴史じゃなければ)
《真面目な内容です》
(どうぞ)
《本日の実技中、私から警告を行わなかったことについて、不安はございませんでしたか》
少し意外な質問だった。
シュウは暗い天井を見ながら考える。
(なかったよ)
《そうですか》
(アルカディアが危ないと判断したら言うって決めてたから。それ以外は、俺が自分で感じたことを先に確認するって話だったでしょ)
《はい》
(だから大丈夫だった)
返事が少し遅れた。
《承知しました》
いつもの淡々とした声だった。
けれど、シュウにはほんの少しだけ違って聞こえた。
(アルカディア?)
《何でしょう》
(いや……何でもない)
聞こうとして、やめる。
アルカディアが何を考えたのか。
そもそも本当に何かを感じたのか。
それもまた、今のシュウには分からない。
ただ、以前より自分とアルカディアの間で「任せること」と「任せないこと」を話せるようになった気はする。
最初は勝手に能力を管理する存在だと思っていた。
今は、危険なら止めてほしいと頼み、そうでなければ自分に任せてほしいと伝えられる。
アルカディアも、それを守った。
(これも、少しずつなのかな)
《何がでしょうか》
(何でもないよ)
《左様ですか》
シュウは小さく笑った。
北の森。
ハーゼン家。
保持用白材。
家から届くはずの次の返事。
漆黒魔力。
普通の闇属性の隣に感じる、まだ名前のない何か。
分からないことは多い。
けれど、その全部を一度に解く必要はない。
一つずつ確認し、分からないものは分からないまま残しておけばいい。
その積み重ねで、以前は一つの大きな謎にしか見えなかったものが、少しずつ形を持ち始めている。
シュウは目を閉じた。
明日、図書館へ行くかどうかはまだ決めていない。
研究棟から次の連絡がいつ来るのかも分からない。
家からの手紙も、まだ届いていない。
だから明日は、明日になってから決めればいい。
今夜はもう、考える必要はなかった。




