第44話 漆黒魔力は、変わり始めてから見えるまでに時間があるようです
翌朝、シュウはいつもとほとんど変わらない体調で目を覚ました。
頭痛もなければ、身体の重さもない。漆黒魔力を観察した翌日から続けて確認している違和感もなく、魔力を使った後だけに残るような妙な疲労も感じなかった。
ベッドから起き上がると、最初に目へ入ったのは机の上へ置いてあるグレイ・ハルバートからの手紙だった。
今日の放課後、中央研究棟一階の第三観察室。
先日の観察記録について説明を受け、その後で追加確認をどうするか相談する。
すぐに再実験を行う予定はないと明記されていたものの、シュウが気になっているのは「追加で確認したい点が二つある」という部分だった。
(昨日から考えないようにしてたけど、やっぱり気になるな)
《推測候補は現在も十七項目ございます》
(増えてないよね?)
《三項目ほど追加可能です》
(増やさなくていい)
アルカディアへ即座に釘を刺し、シュウは制服へ着替え始めた。
向かい側ではエリオットも起きており、寝癖のついた髪を手櫛で直しながらこちらを見る。
「体調は?」
「普通」
「頭痛とかは?」
「ないよ」
「昨日から変わったことも?」
「ない。エリオット、本当に研究員みたいになってきたね」
「昨日シュウが、そういう確認を毎回されるって言ったから」
「だから自分もやろうと思ったの?」
「念のため」
真面目な顔で答えられ、シュウは少し笑った。
「大丈夫。何かあったらちゃんと言うよ」
「ならいい」
エリオットはそれ以上追及せず、自分の鞄へ教本を入れ始める。
その距離感が、シュウにはありがたかった。
◇
午前中は基礎魔法理論と術式演習が続いた。
今日の理論では、魔法を維持している最中の魔力供給について扱われた。起動時だけ大量の魔力を流して終わる術式と、現象を維持する間も継続して魔力を送り続ける術式では、同じ規模の魔法でも消費の仕方が異なるという内容だった。
「魔力量が多い人ほど、維持魔法が得意だと思われがちですが、必ずしもそうではありません」
教壇のリディアは、二種類の消費曲線を黒板へ描いていく。
「一度に大量の魔力を出せても、一定量を長時間保つことが苦手な人はいます。反対に最大出力は低くても、変動を抑えて長く維持できる人もいます。実用上は、どちらが優れているという話ではありません」
シュウはノートを取りながら、前日の《微灯》の出力調整を思い出した。
弱から中、強へ上げ、そこからまた弱める。
自分は比較的滑らかにできたものの、一度だけ強から中へ戻す途中で出力を下げすぎた。
魔力量そのものだけではなく、どの程度の量を、どれだけ安定して扱えるか。
学院へ入る前は、そんなことを真剣に考えたこともなかった。
(昔の俺なら、魔力量が多い方が絶対強いって設定してただろうな)
《正確には「魔力量とは魂の格そのもの。ゆえに我が魔力は無限」です》
(聞いてない)
《補足ですが、同頁には「ただし普段は世界崩壊防止のため百分の一以下へ封印」と――》
(便利すぎる設定だな昔の俺!)
強いのに全力を出さない理由まで用意されている。
しかも、たぶん負けそうになったら封印が一段階外れるのだろう。
自分で書いたものなのに展開が読める。
「アルヴェインさん」
「はい!」
急にリディアから呼ばれ、シュウは姿勢を正した。
「維持型術式で、魔力供給が途中から過剰になった場合、何が起こると考えられますか?」
幸い、授業自体は聞いていた。
「術式側が受け入れられる量なら現象が強くなる可能性があります。ただ、許容量を超えた場合は術式が不安定になったり、意図しない形で現象が拡大したりすると思います」
「はい。さらに術式そのものが安全機構を持っている場合は、強制停止することもあります。重要なのは、魔力が多ければ多いほど良いわけではないという点です」
リディアは黒板へ向き直る。
シュウは小さく息を吐いた。
(危なかった……)
《私との会話中でも授業内容を保持されていました。成長を確認いたしました》
(先生みたいに言うのやめて)
隣ではエリオットが笑いを堪えていた。
◇
昼休みになると、五人は食堂へ集まった。
今日は肉と豆を煮込んだ濃い色のスープに、薄く焼いたパンと温野菜が付いている。窓際の席には柔らかな日差しが入り、外では上級生らしい学生たちが芝生の上で何かの術式について話し込んでいた。
「今日、研究棟だっけ?」
ダンがパンをちぎりながら尋ねる。
「うん。放課後」
「また黒いやつ?」
「漆黒魔力の前回の記録について説明を聞くだけ。すぐ実験する予定はないって」
「説明だけなら大丈夫そうだな」
ダンはそう言ってから、少し考える。
「でも説明聞いた後、そのまま『じゃあ試そう』ってならない?」
「もし何かやるとしても、その場で俺が同意してからだって書いてあったよ」
「嫌なら断れるんだ?」
「断れる」
「ならいい」
ダンはあっさり納得した。
セシリアも安心したように表情を緩める。
「体調も大丈夫ですか?」
「今朝エリオットにも聞かれたけど、何もないよ」
「なら良かったです」
ユリウスはスープを飲みながら、少しだけ考えてから尋ねた。
「前の観察で、普通の属性と違う反応が出たんだよね?」
「うん。詳しい記録は研究側のものだから全部は話せないけど、俺が変わり始めたと思った時点と、道具に変化が出た時点が同じじゃなかった」
「遅れて見えた?」
「そんな感じ」
「道具の問題かもしれない?」
「それもあるらしい」
ユリウスはそれ以上踏み込まず、静かに頷いた。
「じゃあ今日、それを聞くんだ」
「たぶん」
シュウ自身、まだ説明されていないことを勝手に断定したくはなかった。
「終わったら俺、部屋にいるから」
エリオットが言う。
「待ってなくてもいいよ?」
「課題やってるだけ」
「昨日もそれ言ってた気がする」
「今日は本当に課題あるから」
「昨日もあったでしょ」
「あるよ。学院だから」
ダンが吹き出した。
「二人とも夫婦みたいだな」
「違うから!」
シュウとエリオットの声がほぼ同時に重なる。
周囲の学生が何人か振り返り、今度はセシリアまで口元を押さえて笑った。
「何でそこだけ息ぴったりなんだよ」
「ダンが変なこと言うからだろ!」
「いや、今のはダンが悪い」
ユリウスまで珍しくシュウ側へつく。
「何だよ! ちょっと思っただけじゃん!」
賑やかな昼食は、そのまま午後の予鈴が鳴る少し前まで続いた。
◇
午後の授業を終えると、シュウはエリオットたちと中央講義棟の前で別れた。
「じゃあ行ってくる」
「うん。無理するなよ」
「今日は説明だって」
「説明の後に何かやる可能性はあるんだろ?」
「そのときはちゃんと考えるよ」
エリオットはシュウの顔をしばらく見てから頷いた。
「分かった。じゃあ後で」
「うん」
ユリウスは別の方向へ向かい、ダンとセシリアもそれぞれの教室へ戻っていった。
シュウは一人で中央研究棟へ向かう。
研究棟の中は講義棟より静かだった。廊下を歩く人の数も少なく、時折、閉じた扉の向こうから器具を動かす金属音や、研究員たちの話し声が微かに聞こえてくる。
第三観察室の前まで来ると、シュウは一度自分の体調を確認した。
頭痛なし。
吐き気なし。
息苦しさなし。
魔力感覚にも違和感はない。
扉を叩く。
「どうぞ」
グレイの声が返ってきた。
「失礼します」
扉を開ける。
室内にはグレイ・ハルバートとセレナ・ヴァイスがいた。
前回使用した多段式の魔力変化観測板は机の端へ置かれているが、今日は中央の実験台へ設置されていない。代わりに机の上には複数枚の記録紙と、前回の観察結果をまとめたらしい大きめの用紙が広げられていた。
「来てくれてありがとう」
グレイが穏やかに言う。
「まず座ってくれ。手紙にも書いたが、今日は説明と相談が中心だ」
「はい」
シュウが椅子へ座ると、セレナがすぐに尋ねる。
「その前に体調確認ね。前回の観察後から今日まで、頭痛、吐き気、胸部不快感、手足の痺れ、異常な疲労感、魔力を使った際の違和感は?」
「全部ありません。授業でも普通に魔法を使えてます」
「漆黒魔力は?」
「前回以降、自分からは使ってません」
「緊急時の使用もなし?」
「はい」
セレナは記録紙へ書き込む。
「よし。そこは確認できた」
シュウは少し緊張していた肩の力を抜いた。
セレナは最初から変わらない。
興味より安全確認が先だ。
「では、前回の記録を見よう」
グレイが大きな用紙をシュウの前へ移動させた。
そこには横方向へ伸びる線と、複数の印が記されている。
「前回、通常の六属性と漆黒魔力を、それぞれ別に多段式観測板へ通してもらった」
「はい」
「通常属性は、火、水、風、土、光、闇の全てで、変換開始から観測反応まで連続した変化が記録されている」
グレイが一つの線を指で追う。
「例えば火属性なら、君が火へ変換し始めた直後から観測板の反応も徐々に変わっている。変換が進むにつれて火属性としての反応が強くなり、完全に変換された段階で安定した」
「前に見たやつですね」
「そうだ」
別の線。
「闇属性も基本的には同じだ。色や反応は火とは違うが、変換の開始と観測板の変化に大きなずれはなかった」
シュウは頷く。
問題は、その下に描かれた黒い線だった。
「これが漆黒魔力ですか?」
「そう」
グレイの指が左端から動く。
「君自身は、この辺りで『変わり始めた』と申告した」
第二段階と第三段階の間。
前回、自分でもそこだと感じていた。
「はい」
「アルカディア君の感覚でも、正確な境界までは分からないものの、その少し前後から通常時とは違う挙動が始まった可能性があるという話だった」
《相違ございません》
アルカディアの声はシュウにしか聞こえない。
「アルカディアも、そこは同じでいいって言ってます」
「分かった」
グレイが記録へ短く書き加える。
「ところが、観測板側ではここまで目立った変化がない」
指が第四段階付近まで移動する。
「ここで初めて、中央部に黒色反応が現れた」
「黒い点が出たところですね」
「そう。そしてその後、第五段階へ進むまでの間に反応が急速に広がり、最終的には観測範囲のほぼ全体が黒色反応へ移行した」
シュウは記録を見つめる。
自分の感覚では、突然漆黒魔力になったわけではなかった。
変わり始めた感覚があり、その後に観測板へ黒い点が現れた。
「ここまでは前回確認した内容だ」
グレイが言う。
「今回、私とヴァイス研究員で記録補助器の詳細値を確認した。その結果、追加で確認したい点が二つ出てきた」
ようやく、手紙に書かれていた話へ入る。
シュウは自然と姿勢を正した。
「一つ目は、黒色反応が出る前の段階だ」
「何も出てなかったところ?」
「正確には、『目立った黒色反応が出ていなかった段階』だ」
言い方を変えた意味を、シュウはすぐには理解できなかった。
セレナが別の記録紙を差し出す。
「拡大した記録よ」
細かな数値が並んでいる。
「黒色反応が見えるより前、君が変化開始を申告した少し後から、観測板へ流れた魔力の総量に、ごく小さい揺れがある」
「揺れ?」
「量が大きく増えたとか減ったとかじゃない。誤差範囲と見ることもできるくらい小さい。でも、通常六属性の記録には同じ形が出ていない」
シュウは紙へ顔を近づけた。
数値の列の一部に、小さな上下がある。
「これが漆黒魔力の変化?」
「まだ言えない」
セレナは即座に答えた。
「ここ、大事だからね。漆黒魔力の変化そのものかもしれないし、君の魔力供給が少し揺れただけかもしれない。観測板側の誤差かもしれないし、記録補助器の感度の問題かもしれない」
「つまり、何かあるかもしれないけど、まだ分からない?」
「その通り」
シュウは頷いた。
以前の自分なら「普通の六属性にはない反応」と聞いた瞬間に、特別な意味を持たせていたかもしれない。
今は違う。
「じゃあ、一つ目は、その小さい揺れが毎回出るのか確認したいってことですか?」
「最終的にはそうなる」
グレイが答える。
「ただし、同じ実験をすぐ繰り返すとは決めていない。まず機器側の再点検をする。魔力を流さない状態と、通常魔力だけを流した状態で同じ揺れが出ないか確かめる予定だ」
「俺がやらなくても確認できるところを先にやる?」
「そういうことだ」
シュウは少し安心した。
自分の身体を使わなければ分からないこともある。
けれど、その前に道具だけで潰せる可能性を潰す。
「二つ目は?」
尋ねると、グレイは別の紙を示した。
「こちらは、黒色反応が出た後だ」
黒い点が現れ、そこから広がった部分。
「反応の広がり方が、通常属性の変換と違う」
「急だったから?」
「それもある。ただ、速度だけではない」
グレイは観測板を机の上へ持ってきた。
今日は魔力を流さず、説明用として使うらしい。
「通常属性の場合、君の魔力が板を通過する方向に沿って反応が変化している。簡単に言えば、入口側から出口側へ連続して変わっていく」
板の端から端へ指を動かす。
「ところが漆黒魔力では、最初に黒色反応が出たのは中央部だった」
「……あ」
シュウも思い出した。
確かにそうだった。
入口から黒くなったわけではない。
中央に黒い点が現れ、そこから広がった。
「その後の広がり方も、入口から出口へ進むというより、中央の反応範囲が拡大していく形に近い」
「何で?」
「分からない」
グレイは迷わず答えた。
「今の段階で理由を付けるべきではないと思っている」
セレナも頷く。
「観測板の構造が漆黒魔力に向いていない可能性もある。中央部が一番感度の高い構造になってるから、単純に最初に検出できた場所が中央だっただけかもしれない」
「じゃあ、漆黒魔力そのものが中央から広がってるとは限らない?」
「全然限らない」
「なるほど……」
シュウは記録を見つめた。
また「分からないこと」が細かくなった。
一つ目。
自分が変化開始を感じた後、黒色反応が出る前に記録された微小な揺れ。
二つ目。
黒色反応が観測板中央から現れた理由。
「だから、次の確認方法を相談したい」
グレイが言う。
「君に漆黒魔力を何度も出してもらう前に、まずこちらで観測板そのものを調べる。通常魔力や既知属性を使って、中央部だけ先に反応する条件がないか確認するつもりだ」
「それは俺なしでもできます?」
「できる」
「じゃあ、先にそれをやってほしいです」
シュウはすぐ答えた。
セレナの口元が少しだけ緩んだ。
「私もその順番がいいと思ってる」
「その結果、機器側の理由で説明できれば、君に追加試験を頼む必要が減るかもしれない」
「説明できなかったら?」
「その時に改めて相談する」
グレイはそこで一度言葉を切った。
「もし追加試験をする場合も、前回より出力を上げるつもりはない。むしろ、変化開始から黒色反応が出るまでの範囲だけを見る方法を考える」
「完全に黒くするところまでやらない?」
「必要がなければやらない」
シュウは頷いた。
強くすれば分かるとは限らない。
今知りたいのは、むしろ黒く見える前に何が起きているのかだ。
(前だったら、もっと強く出した方が分かるって思ってたかも)
《過去のマスターであれば「観測できぬなら世界が観測可能になるまで出力を上げる」と発言された可能性が――》
(絶対やめて)
今の自分は、そんなことをするつもりはない。
◇
「もう一つ確認しておきたい」
説明が一段落したところで、セレナが言った。
「これは次の実験内容じゃなくて、君自身の感覚について」
「はい」
「通常の闇属性へ変換したとき、前に『知っている道の隣に別の道がある』みたいな感覚があるって言ったわよね」
「はい」
「今も同じ?」
シュウは少し考える。
前回以降、授業で闇属性を本格的に使う機会はない。自分でも漆黒魔力との関係を確かめるために試すことは禁止されているので、意図的に深く探ってもいなかった。
「たぶん同じだと思います。でも、前回からわざと確認はしてません」
「それでいい」
セレナはすぐ答える。
「次に授業や通常練習で闇属性を使う機会があったら、自然に気づいた範囲だけ覚えておいて。わざと隣の道を探す必要はない」
「分かりました」
「それと、あの感覚があるからといって、闇属性から漆黒魔力へ変わっているとはまだ考えないで」
「はい」
「普通の闇属性と漆黒魔力が近い経路を使ってるのかもしれないし、君が似た感覚として認識してるだけかもしれない。そもそも関係がない可能性も残ってる」
シュウはノートを持ってきていない。
今日は説明だけのつもりだったため、授業用の小さなメモ帳へ要点だけを書き込む。
『闇の隣道感覚――自然に気づいた場合のみ記録。探さない。漆黒との関係未確定。』
「それで十分」
セレナが確認する。
◇
話し合いが終わった後、シュウは観測室を出る前にもう一度尋ねた。
「じゃあ、次に俺が来るのは?」
「まだ決めない」
グレイが答える。
「こちらで機器確認をしてから連絡する。数日で終わるかもしれないし、もう少しかかるかもしれない」
「分かりました」
「その間の制限は前回と同じだ」
グレイは一つずつ確認する。
「漆黒魔力を使った段階試験を一人で行わない。魔道具や魔石へ流さない。性質確認のために日常的に出さない。ただし、自分や他人の安全に関わる緊急時まで使用を禁止するものではない。その場合は、可能なら後で状況を報告してほしい」
「はい」
「通常の授業や普通の属性魔法まで制限する必要はない」
「分かりました」
「体調変化があれば、実験予定がなくても知らせてくれ」
「はい」
セレナが最後に付け加える。
「あと、気になるからって自分で再現しないこと」
「しませんよ」
「念のため」
「みんな同じこと言うなあ……」
「みんな?」
「友達にも似たこと言われました」
セレナが小さく笑った。
「なら、いい友達ね」
シュウは少しだけ目を丸くした後、自然と笑った。
「はい」
◇
中央研究棟を出ると、まだ空には夕方の明るさが残っていた。
前回のように魔力を使ったわけではないので、身体に疲労はない。説明を聞いただけなのに、頭の中には新しい疑問が増えている。
ただ、不思議と焦りはなかった。
黒色反応が見える前に起きた微小な揺れ。
中央部から現れた黒色反応。
どちらも漆黒魔力そのものの特徴とは限らない。
まず道具を調べる。
それで説明できなければ、自分の魔力を使う方法を相談する。
(俺が何もしなくても、調査って進むんだな)
《研究とは複数人で進めるものでもあります》
(うん)
北方調査でも同じだった。
自分一人で全部調べる必要はない。
エリオットやユリウスが違うところへ気づく。
家族が古い記録を探してくれる。
学院の司書が資料を案内してくれる。
グレイやセレナが観測記録を分析する。
自分が動いていない時間にも、他の誰かが考えている。
それは、以前のシュウにはあまりなかった感覚だった。
◇
第一男子寮317号室へ戻ると、エリオットは本当に机で課題をしていた。
扉が開く音に顔を上げる。
「おかえり」
「ただいま」
「どうだった?」
「今日は本当に説明だけだったよ」
「実験なし?」
「なし。次もまだ決まってない」
シュウは鞄を置き、椅子へ座った。
「前回の記録を詳しく見たら、確認したいところが二つあったらしい。でも、俺を使って試す前に、まず観測道具の方を調べるって」
「道具?」
「うん。俺が変わり始めたって感じた後、黒い反応が出る前に小さい揺れが記録されてたんだって。でも道具の誤差かもしれない」
「もう一つは?」
「黒い反応が、魔力を入れた側からじゃなくて観測板の真ん中から出てた」
エリオットが眉を寄せる。
「それって変なの?」
「普通の属性は入口側から連続して変わったらしい。でも漆黒魔力は中央に黒い点が出て、そこから広がった。でも観測板の中央が一番感度高いから、そのせいかもしれないって」
「じゃあ、まだ分からないんだ」
「うん」
シュウは笑った。
「でも、何が分からないかは前より増えた」
「増えたの?」
「細かくなった、かな」
「ああ」
エリオットも納得したように頷いた。
「昨日ユリウスが言ってたやつだ」
「そう。最近そればっかりだね」
「北の調査も?」
「うん」
「漆黒魔力も?」
「うん」
「シュウの人生、分からないこと増えてない?」
「言わないでよ」
二人で笑った。
◇
夕食後、シュウは授業用の小さなメモを机へ広げた。
北方調査ノートは今日も引き出しの中に入れたままにしている。昨日は一日休むと決めたが、今日も北方調査へ戻る必要はないと判断した。
代わりに、漆黒魔力について今日説明されたことだけを整理する。
『前回観察記録・一次確認』
『通常六属性――本人の変換開始と観測反応が概ね連続。』
『漆黒魔力――本人の変化開始感覚の後、黒色反応顕在化前に総魔力量の微小な揺れあり。ただし誤差・供給揺れ・機器要因を除外できず。漆黒魔力の変化とは断定不可。』
『黒色反応――観測板中央部から最初に顕在化。その後、範囲が拡大。通常属性の入口→出口方向の連続変化と異なる。ただし中央部の感度が高いため、検出器側の特性で説明できる可能性あり。』
『次――研究側で観測板・記録補助器を再確認。通常魔力・既知属性・無入力状態等で同様の揺れや中央先行反応がないか確認。』
『追加試験は未定。必要な場合も事前相談・同意。出力増加予定なし。変化開始〜黒色顕在化前の範囲を優先検討。』
『通常闇属性時の「隣の道」感覚――自然に気づいた場合のみ記録。意図的探索禁止。漆黒魔力との関係未確定。』
書き終え、シュウは一度全体を読み直した。
以前なら「普通と違う」という部分ばかり気にしていたかもしれない。
けれど今日の説明で強く感じたのは、違いそのものより、その違いが本当に漆黒魔力由来なのかを確かめる必要があるということだった。
観測器が原因なら、漆黒魔力の謎ではない。
自分の魔力供給が揺れただけなら、それも漆黒魔力特有とは言えない。
まず、余計な可能性を減らす。
(北の調査と同じだな)
白材という名前だけで白樹と決めない。
四角い記号だけで北の封所と決めない。
漆黒魔力だからといって、変な反応を全部その力の特性だと決めない。
《マスター》
(何?)
《非常に研究者らしい思考になられました》
(そうかな)
《かつては「未知の現象は全て我が力の伏線」と記されておりましたので》
シュウは机へ突っ伏した。
(比較対象が酷すぎるんだよ……)
《なお、「偶然など存在しない。全ては漆黒王たる我へ収束する因果である」とも》
(もういい!)
向かいで本を読んでいたエリオットが顔を上げる。
「今度は何?」
「昔の俺は、偶然を認めなかったらしい」
「それは大変そうだな」
「本当にね……」
「今は?」
聞かれ、シュウは少し考えた。
「偶然もあるし、分からないものは分からない」
「普通になった」
「普通でいいんだよ!」
思わず声が大きくなり、エリオットが笑った。
◇
それから少しして、二人は翌日の授業準備を始めた。
エリオットが時間割を確認している途中で、ふと手を止める。
「明日、実技あるよ」
「何だっけ?」
「属性変換の基礎実技。前に観測器使ったやつの続きじゃない?」
シュウも時間割を見る。
確かに午後に合同実技が入っている。
「闇属性も使うかな」
「使うかも」
今日セレナから言われたことを思い出す。
通常の授業や普通の属性魔法は制限されていない。
闇属性を使うこと自体も問題ない。
ただし、隣に感じる別の道を意図的に探らない。
「普通に授業受ければいいか」
「何かある?」
「前に普通の闇属性へ変換したとき、漆黒魔力とは別にちょっと変な感覚があったんだ。研究員の人から、授業で自然に気づいたことがあったら覚えておいてって言われた」
「わざと試すんじゃなくて?」
「そう。探さなくていいって」
「なら普通にやればいいな」
「うん」
それで話は終わった。
以前なら、明日の授業が待ち遠しくて仕方なかったかもしれない。
今も興味はある。
けれど、それ以上に「普通にやる」ということの意味が分かるようになってきた。
自分から結果を出そうとしない。
何も起きなければ、それも結果の一つだ。
◇
消灯後、シュウはベッドの中で今日の説明を思い返していた。
黒い点が現れる前の、小さな揺れ。
観測板中央から始まった黒色反応。
どちらにも、まだ理由はない。
それでいい。
グレイもセレナも、分からないことへ無理に名前を付けなかった。
漆黒魔力が普通の六属性とは違う可能性はある。
だが、「違う」ことと「特別な何かだと分かった」ことは同じではない。
(俺も、そこは間違えないようにしないとな)
《マスター》
(今度は黒歴史いらないからね)
《では真面目な確認を》
(珍しい)
《明日の通常闇属性実技において、私から隣接経路について積極的な報告は行わない方がよろしいでしょうか》
シュウは少し考えた。
アルカディアは自分より細かな魔力挙動を感じ取る場合がある。
だからこそ、アルカディアが先に何かを言えば、自分がそれを探してしまう可能性もある。
(うん。危ない変化がない限り、俺が自然に感じた後で聞くことにしよう)
《承知しました。安全上の異常を感知した場合のみ、即時警告いたします》
(お願い)
《かしこまりました》
これなら、意図的な探索にはならない。
シュウは少し安心して目を閉じた。
明日は通常の授業だ。
普通の闇属性を、授業で求められた範囲だけ使う。
何も感じなければ、それで終わり。
何か感じても、その場で深く追わない。
今の自分に必要なのは、答えを急ぐことではない。
観測できたものと、まだ分からないものを混ぜないことだった。
夜の寮は静かで、遠くの部屋から聞こえていた学生たちの話し声も少しずつ消えていく。
シュウは眠りへ落ちる直前、明日の授業で何が起こるのかを一度だけ考えた。
けれど答えを予想することはせず、そのまま意識を手放した。




