第43話 調べない日にも、学院では新しいことを覚えます
翌朝、シュウが目を覚ましたとき、最初に視界へ入ったのは机の端に置かれた北方調査ノートだった。
昨夜、今日だけは図書館へ行かず、新しい資料も調べないと決めた。その決意自体は眠ったからといって変わっていないのだが、机の上にあるノートを見ると、昨日確認した東部旧所と巡検所の位置関係が自然と頭へ浮かんでくる。
(北部の記号も管理施設だとしたら、やっぱり次は――)
そこまで考えたところで、シュウは布団の中から片手を伸ばし、自分の額を軽く押さえた。
(いや、今日は調べない日だった)
《おはようございます、マスター。起床直後から昨日の資料について思考を開始されておりますが、これは調査に含まれますでしょうか》
(含まれない。たぶん)
《判定が曖昧です》
(考えるだけなら仕方ないでしょ)
《では、私から「四方封界大陣」の追加設定を――》
(それは明確にいらない)
寝起きから危険な話題を持ち出してくるアルカディアを止め、シュウはようやく上半身を起こした。
窓の外は今日も晴れている。昨日ほど風は強くないらしく、木々の枝は朝日の中でゆっくり揺れていた。寮の外からは朝食へ向かう学生たちの話し声が聞こえ始めており、廊下でも何人かが行き来する足音が重なっている。
向かい側では、エリオットがすでに制服へ着替え終えていた。
「おはよう」
「おはよう。早いね」
「シュウが起きるの待ってた」
「何で?」
シュウが首を傾げると、エリオットは机の上を指差した。
「今日は図書館に行かない日だったよね?」
「起きて最初に確認すること、それなの?」
「昨日あれだけ言ったから」
「行かないって。ちゃんと覚えてるよ」
「じゃあ、そのノートは?」
「置いていく」
答えながら、シュウは少しだけ迷った。
授業中に何か思いつくかもしれない。昨日の資料について、ふと整理できることがあるかもしれない。
そんな考えが頭をよぎったのだが、エリオットが黙ったままこちらを見ている。
「……置いていくよ」
「今、持っていこうか考えた?」
「ほんのちょっとだけ」
「やっぱり」
エリオットは呆れたように笑った。
シュウは北方調査ノートを机の引き出しへ入れ、その上から普段使っている小物入れを置いた。
「これでいい?」
「そこまでしなくてもいいけど」
「エリオットが疑うからでしょ」
「俺のせいになった」
そんなやり取りをしながら部屋を出る。
今日は北の森も、古い地図も、保持用白材も調べない。
漆黒魔力についても、グレイやセレナから連絡が来ない限り自分から試すつもりはなかった。
ただ授業を受け、友人と食事をし、学院で過ごす。
考えてみれば、それこそシュウがこの学院へ入る前から望んでいた生活の一つだった。
◇
午前最初の授業は王国基礎だった。
教壇に立つリディア・フェルンが今日取り上げたのは、王国内における主要都市と地方行政の関係である。地方によって領主管理と王国直轄管理の比率が異なることや、街道、河川、鉱山、森林などの管理主体が歴史の中で何度も変わってきたことが説明された。
普段なら何気なく聞いていたかもしれない内容だった。
しかしローデル林区について調べ始めてから、シュウには以前と違って聞こえる。
「現在の行政区分だけを覚えて終わりにしないでください」
リディアは王国全体を描いた壁掛け地図の一角を指しながら、生徒たちを見渡した。
「例えば、現在は一つの領に見える土地でも、百年前には複数の領地や王領へ分かれていた場合があります。反対に、現在は複数の行政区へ分かれていても、過去には一つの管理区として扱われていた地域もあります」
シュウのペンが自然と止まった。
ローデル林区も、現在は存在しない。
今のアルヴェイン家の領地境界を基準に昔の施設を考えれば、見落とすものが出てくる。
(だから東側も比較できるのか)
現在の領地や役割が違っていても、ローデル林区だった時代には同じ管理体系の中へ含まれていた可能性がある。
そこまで考えたところで、シュウは少し笑いそうになった。
(調べない日に限って授業の方から関係ありそうな話が来るんだよな)
《学院とは学ぶ場所ですので》
(それはそうなんだけど)
リディアはそのまま説明を続ける。
「もう一つ注意してほしいのは、行政上の管理と実際の役務が必ずしも一致しないことです。ある地域が新しい領へ編入された後も、以前からその土地を管理していた家や組織が、一部の仕事だけ継続することがあります」
シュウは今度こそペンを止めた。
ハーゼン家。
ローデル林区がなくなった後、北方管理がどのようにアルヴェイン家へ移ったのかは、まだ分かっていない。
以前確認した資料には「従前の担当へ継続を命ずる」という記述があった。
ただし、それがハーゼン家を指すと確定したわけではない。
さらに、その後アルヴェイン家へどう繋がったのかも分からない。
「先生」
前方の席にいた男子生徒が手を挙げた。
「領地が変わったのに前の管理者が仕事を続けるなら、その人は新しい領主の部下になるんですか?」
「場合によります」
リディアは即答せず、少し考える時間を置いた。
「正式に新しい領主へ雇用される場合もありますし、王国から特定役務だけ委任される場合もあります。また、土地に付随する古い権利や義務として家単位で継続される例もあります。ですから、古い役務記録を読む場合は『誰の領地だったか』だけでなく、『誰から何を命じられていたか』を見る必要があります」
シュウはその言葉を、そのまま授業ノートへ書き留めた。
『土地の所有者と役務担当者は一致しない場合あり。』
『誰の土地か/誰が管理したか/誰が命じたかを分ける。』
北方調査ノートではない。
これは授業で学んだことだ。
けれど、いつか資料を再び調べるときには役立つだろう。
隣ではエリオットも真面目にノートを取っていたが、ふとシュウの書いた内容を見て、僅かに口元を緩めた。
「何?」
シュウが小声で尋ねる。
「いや。今日は調査しないんじゃなかったかなって」
「授業だよ!」
「分かってる」
「絶対からかってるよね?」
「少しだけ」
リディアがこちらを見る気配を感じ、二人は同時に口を閉じた。
◇
次の授業は基礎計算だった。
こちらは北方調査とも漆黒魔力ともほとんど関係がなく、シュウは久しぶりに完全に授業だけへ意識を向けることになった。
魔石を購入する際の単価計算、複数人で依頼報酬を分配する場合の比率、荷物の重量と輸送費の算出など、冒険者を目指す者にも実用的な内容が多い。
「これ、冒険者になったら絶対使うよね」
演習問題を解きながら、エリオットが言う。
「依頼料の分配とか?」
「うん。四人で均等なら簡単だけど、消耗品を誰かが先に買ってた場合とか、馬車代を引いてから分ける場合とか」
「そういうの適当にしたら揉めそう」
「かなり揉めそう」
シュウは問題用紙へ視線を戻した。
冒険者になりたい。
学院へ入る前から考えていた目標だ。
最近は北の森や漆黒魔力について調べる時間が増えていたため、目の前の謎へ意識を引っ張られることが多かった。それでも、卒業後に仲間と旅をしたいという気持ちは変わっていない。
(こういうのも覚えないとな)
強い魔法だけでは旅はできない。
食費も宿代も必要で、依頼料の計算も必要になる。
中学時代の自分なら、そんな現実的な部分は全部「配下が管理する」と設定していた気がする。
《正確には「帝国財務院が管理するため、王たる我が金銭など数える必要はない」です》
(思い出させなくていいよ)
《なお帝国財務院の構成員は未設定でした》
(じゃあ誰が管理してたんだよ)
《当時のマスターかと》
(結局俺じゃん)
危うく吹き出しそうになり、シュウは慌てて口元を押さえた。
「どうした?」
「昔の自分が、金の計算から逃げてたことを思い出しただけ」
「何それ」
「知らない方がいい」
エリオットは不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
◇
昼休み、五人はいつもの席へ集まった。
今日の食堂は焼いた白身魚と野菜のスープが主菜で、厨房から香草の匂いが広がっている。昼時の混雑で周囲はかなり賑やかだったが、最近では五人とも互いの声を聞き取ることに慣れていた。
「シュウ、今日は図書館行かないんだって?」
席へ着くなり、ダンが尋ねてくる。
「何で知ってるの?」
「エリオット」
シュウは隣を見る。
「何で広めてるの?」
「朝、ダンに聞かれたから答えただけ」
「俺は昨日、シュウが『明日は行かない』って言ってたから、本当に行かないのか気になったんだよ」
ダンが悪びれもせず答える。
「みんな俺が図書館行かないだけで気にしすぎじゃない?」
「最近よく行っていましたから」
セシリアが柔らかく笑う。
「研究棟にも行っていましたし、授業以外の予定が何もない日は少なかったように思います」
「俺、そんなに忙しそうだった?」
「本人だけ気づいてなかったんだな」
ダンが呆れたように言う。
「ダンに言われると納得いかない」
「何でだよ!」
ユリウスはスープを一口飲んでから、静かに口を開いた。
「でも、整理する日を入れるのはいいと思う。昨日の地図だけでも、情報はかなり増えたから」
「ユリウスまで」
「俺も今日は図書館へ行かない」
「え?」
シュウが顔を上げる。
「調査関係は、だけど」
「何するの?」
「普通に課題」
「……そうだよね。課題あるもんね」
「忘れてた?」
「忘れてないよ」
一瞬の間を置いて答えたため、四人の視線が集まった。
「本当に?」
セシリアまで確認してくる。
「忘れてないって!」
五人の間に笑いが広がった。
少しして、セシリアがシュウへ視線を向ける。
「漆黒魔力の方は、その後どうですか? 体調に変化はありません?」
彼女が知っているのは、研究員と教師の立ち会いで魔力の追加観察を行い、普通の属性変換とは少し違う反応が確認されたという程度だ。詳しい性質や観測結果までは話していない。
「今のところ何もないよ。頭痛もないし、疲れ方も普通」
「なら良かったです。でも、研究員の方から次の連絡が来るまでは、自分で試さない方がいいですよ」
「うん。そこは約束してる」
「本当に?」
ダンが疑わしそうに見る。
「何でダンまで疑うの?」
「シュウって気になったら試しそうだから」
「試さないよ!」
「昨日も地質資料まで調べようとしてた」
エリオットが追加する。
「結局調べなかったでしょ!」
「そこは偉かった」
「だから何で子供を褒めるみたいになるの!」
笑い声が再び広がる。
シュウ自身も最後には笑っていた。
こういう時間は嫌いではない。
むしろ、学院へ来てから好きになったものの一つだった。
何か大きな目的がなくても同じ机へ集まり、授業の話や失敗した魔法の話をして笑う。中学時代の黒歴史ノートには「孤高」という言葉が何度も書かれていたが、今のシュウには一人でいることより、こうして誰かと食事をする方がずっと自然になっていた。
《なお、当時のマスターは「孤高なる王に食卓を共にする者は不要」と――》
(知ってる。それはもう聞いた)
《成長を確認いたしました》
(何目線なの?)
◇
午後は魔法史だった。
オルド・カーヴェルが教壇へ立ち、今日の題材として取り上げたのは「失われた術式と、失われた理由」である。
「古い術式が現代に残っていないと聞くと、多くの人は何を想像しますか?」
教室の前方から質問が飛ぶ。
何人かの学生が手を挙げた。
「使えなくなった?」
「もっと強い術式ができたから?」
「戦争で資料がなくなったとか」
それぞれの答えを聞き、オルドは頷く。
「どれも実際にあります。ただし、それだけではありません」
黒板へいくつかの項目が書かれていく。
『材料の消失』
『維持費の増大』
『制度の変更』
『用途の消滅』
『安全基準の変化』
『技術の代替』
『継承者の断絶』
「古い技術が失われたからといって、それが必ずしも現代より優れていたわけでも、逆に未熟だったわけでもありません。その時代には必要だったが、社会の変化によって使われなくなった技術もあります」
シュウは静かに板書を写した。
白樹。
保持建築。
継ぎ。
封所。
頭へ浮かんではくるものの、今日はそこから調査へ踏み込まない。
オルドは生徒たちの様子を見ながら説明を続ける。
「例えば、ある地域で特殊な木材を使った魔力保持施設が存在したとしましょう。後の時代に安価な魔石式設備が普及すれば、古い施設は使われなくなるかもしれません。しかし、それだけを見て『古い方式は劣っていた』と考えるのは早計です」
シュウのペンが、また少しだけ遅くなった。
(例が近いな……)
《非常に近いですね》
(先生、俺の調査知らないよね?)
《少なくとも、マスターが私へ共有された情報上ではご存じないはずです》
もちろん単なる授業例だろう。
保持建築そのものは、北部だけに存在した特殊技術ではない。以前読んだ資料でも、地域や年代によってさまざまな保持建築が存在したことは確認している。
「先生」
別の学生が手を挙げる。
「古い技術が使われなくなった理由って、どうやって調べるんですか?」
「一冊の資料では難しいですね」
オルドは少し嬉しそうに笑った。
「設計書だけを読めば構造は分かるかもしれませんが、なぜ使われなくなったかは分かりません。行政記録、支出台帳、材料価格、事故記録、法改正、場合によっては個人の日記まで見る必要があります」
教室の何人かが露骨に嫌そうな顔をした。
その反応を見て、オルドは肩を竦める。
「歴史研究は地味ですよ」
小さな笑いが起こる。
「ただ、その地味な記録を積み重ねると、一枚の設計図だけでは見えなかったものが見えてきます。技術そのものだけでなく、その技術を誰が維持し、誰がお金を払い、誰が必要としていたのか。魔法史とは魔法だけの歴史ではありません」
シュウは最後の言葉を、少し大きめの字でノートへ残した。
『技術だけでなく、維持した人・費用・必要とした理由を見る。』
ハーゼン家が何をしていたのか。
アルヴェイン家がいつ引き継いだのか。
魔石は何のために運ばれたのか。
なぜ「継ぎ」が必要だったのか。
調べたいことはまだ多い。
それでも今日は、資料を探しに行かない。
授業で得た考え方だけを覚えておけばいい。
◇
放課後になると、シュウは本当に図書館へ向かわなかった。
中央講義棟を出たところで、エリオットがわざわざ進行方向を確認する。
「寮?」
「寮」
「図書館はあっちだけど」
「知ってるよ」
「研究棟は向こう」
「行かないって!」
シュウが笑いながら返すと、エリオットも楽しそうに笑った。
今日はそのまま寮へ戻り、課題を片づける予定だった。
ところが、第一男子寮の玄関へ入ったところで、受付担当の寮職員から声をかけられた。
「シュウ・アルヴェイン君」
「はい?」
「君宛てに学院内便が届いているよ」
差し出されたのは、小さく折られた一通の紙だった。
家からの手紙ではない。
封筒の表には、見覚えのある筆跡で名前が書かれている。
差出人を確認した瞬間、シュウは足を止めた。
「グレイ先生?」
隣にいたエリオットが、封筒そのものではなくシュウの表情を見て尋ねる。
「たぶん」
シュウはその場で開封せず、317号室へ戻ってから確認することにした。
◇
部屋へ入ると、シュウは鞄を机の横へ置き、椅子へ座った。
エリオットは自分の机へ向かったが、こちらを気にしているのが分かる。
「開けてもいい?」
「俺に聞くの?」
「いや、何となく」
「シュウ宛てなんだから、シュウが決めればいいだろ」
「それもそうか」
封を開く。
中には一枚だけ紙が入っていた。
『シュウ・アルヴェイン君へ。
先日の観察記録について、ヴァイス研究員との一次確認が終わりました。
現時点で危険性を示す新しい所見は確認されていません。
一方、通常属性の変換記録と漆黒魔力の記録を比較したところ、追加で確認したい点が二つあります。
ただし、すぐに再実験を行う予定はありません。
まず観察結果の説明をしたうえで、次に何を確認するかを相談したいと思います。
明日の放課後、都合が悪くなければ中央研究棟一階・第三観察室へ来てください。
今回は説明と相談が中心です。実験を行う場合も、その場で君の同意を確認してから決めます。
体調に変化がある場合は、来室前に知らせてください。
グレイ・ハルバート』
シュウは最後まで読み、もう一度最初へ戻った。
「どうだった?」
エリオットが尋ねる。
「危険性を示す新しい所見は、今のところないって」
「それなら良かった」
エリオットの肩から、僅かに力が抜ける。
「ただ、追加で確認したいことが二つあるらしい。明日の放課後に説明してくれるって」
「実験?」
「説明と相談が中心。すぐ再実験する予定はないって書いてある」
「なら、ちゃんと話を聞いてから決められるな」
「うん」
シュウは手紙を机へ置いた。
漆黒魔力を出したと自分では感じていたのに、観測板はしばらく通常魔力として反応していた。
一定段階へ達したところで、黒い点が現れ、そこから急速に黒色反応が広がった。
あの記録を、グレイとセレナが詳しく確認したのだろう。
(追加で確認したい二つって何だろう)
気になる。
ものすごく気になる。
けれど、今ここで予想しても答えは出ない。
《推測候補を列挙いたしましょうか》
(しなくていい)
《十七項目ほどございます》
(多いよ!)
エリオットがこちらを見る。
「またアルカディア?」
「十七個も予想があるって」
「聞かない方がいいんじゃない?」
「俺もそう思う」
シュウは手紙を丁寧に折り直した。
明日になれば分かる。
それまでは待てばいい。
◇
夕食後、シュウとエリオットは317号室で課題を進めた。
今日の基礎計算で出された問題は、五人組の冒険者が依頼料から宿代と消耗品費を差し引き、さらに事前に立て替えた費用を戻したうえで報酬を分配するというものだった。
「これ、地味に面倒だな」
シュウが計算用紙を見ながら言う。
「さっき冒険者に必要だって言ってたのに」
「必要なのと面倒なのは両立するよ」
「それはそう」
二人で答えを確認する。
途中、エリオットの計算とシュウの計算が一致せず、最初から見直してみると、シュウが馬車代を二重に引いていた。
「シュウ、ここ」
「あ」
「旅に出たらお金の管理、俺がやろうか?」
「まだ一緒に旅するって決まってないでしょ」
「そうだった」
エリオットは笑う。
シュウも笑ったが、その言葉は少しだけ心に残った。
一緒に旅する。
まだ何も決まっていない。
卒業まで何年もあるし、エリオット自身の進路も分からない。
それでも、そんな未来を冗談として自然に口へ出せるくらいには、二人の距離は近くなっていた。
(もし本当に一緒に旅できたら、楽しそうだな)
直接口には出さず、シュウは計算用紙へ視線を戻した。
「でも、お金の管理は任せるかも」
「急に乗ってきた」
「俺、二重に引いたし」
「じゃあシュウは?」
「戦う」
「雑だなあ」
「料理も覚えるよ」
「それなら助かる」
「エリオット料理できる?」
「簡単なのなら」
「じゃあ二人とも覚えた方がいいね」
いつの間にか、課題から卒業後の旅の話へ変わっていた。
どこへ行きたいか。
馬車を買うなら何人くらいで使うのがいいか。
依頼を受けながら旅するなら、都市間の移動費をどう考えるか。
まだ遠い未来の話だ。
けれど、黒歴史ノートに書いた壮大な世界征服より、今話している旅の方がずっと現実味があり、シュウにはずっと魅力的に思えた。
◇
課題を終えた頃には、窓の外はすっかり暗くなっていた。
シュウは明日の授業道具を確認し、最後にグレイから届いた手紙を教本の上へ置く。
北方調査ノートは、朝にしまった引き出しの中から一度も出していない。
「本当に開かなかったな」
エリオットが気づいた。
「当たり前でしょ」
「朝はちょっと怪しかったけど」
「結果的に開いてないからいいの」
「じゃあ調査を休むの成功?」
「成功って言われると変な感じだけど……まあ、成功かな」
授業では北方調査へ繋がりそうなことをいくつも学んだ。
土地の所有者と役務担当者を分けて考えること。
古い技術が失われる理由には、材料や制度、費用、継承者などさまざまな要因があること。
それでも、自分から新しい資料を開いたわけではない。
明日以降に使える考え方が増えただけだ。
(調べなくても、進むことってあるんだな)
《当然かと》
(またそういう言い方する)
《マスターはこれまで、行動し続けなければ進んでいないと感じる傾向がございましたので》
シュウは少しだけ黙った。
(……そうかもしれない)
何もしないと不安になる。
調べられるなら調べたい。
練習できるなら練習したい。
それ自体が悪いわけではない。
けれど今日のように、一度手を止めても、授業や友人との会話から得られるものはある。
「シュウ?」
「何でもない。今日は早めに寝ようかなって」
「明日研究棟行くんだろ?」
「うん。でも実験するかはまだ決まってない。まず説明を聞く」
「体調は?」
「問題なし」
「頭痛は?」
「ない」
「疲れは?」
「普通」
「ならよし」
「セレナさんみたいになってきたね」
「誰?」
「あ、そっか。会ってないもんね」
エリオットはセレナの名前こそ聞いたことがあるかもしれないが、研究室で直接会ったことはない。
「漆黒魔力を見てもらってる研究員の人。毎回すごく細かく体調確認してくれるんだ」
「じゃあ、その人は信用できそうだな」
「うん。勝手に実験進めたりもしないし、分からないことは分からないって言う人だよ」
「それなら安心した」
エリオットはそれ以上詳しく聞かなかった。
シュウも必要以上に説明しない。
互いに知っている範囲と、話していい範囲が自然にできていた。
◇
消灯前。
シュウはベッドへ入り、天井を見上げていた。
明日は中央研究棟へ行く。
前回の観察結果について、グレイとセレナから説明を受ける。
追加で確認したいことが二つ。
何なのかは分からない。
漆黒魔力が普通の六属性とは違う変化をしているのか。それとも、観測器が変化の途中を捉えられていないだけなのか。
考え始めれば、いくらでも可能性は浮かぶ。
(でも、今考えても仕方ないか)
明日、記録を見ながら説明してもらえばいい。
《良い判断です》
(今日はずいぶん素直だね)
《では、ご褒美として過去設定を一つ》
(いらない)
《まだ内容を申し上げておりません》
(内容を聞いたらもっといらなくなる気がする)
《「我が魔力は測定不能なのではない。測定する側の世界が未熟なのだ」》
シュウは布団の中で両手を顔へ当てた。
(何で昔の俺、測定される予定まで想定してたんだよ……)
《正確には、その後に「数値という檻へ神を閉じ込めることはできない」と続きます》
(続けなくていい!)
向かいのベッドから、エリオットの声が飛んでくる。
「また?」
「昔の俺が、測定結果に納得いかなかった時用の言い訳まで設定してた……」
「準備いいな」
「褒めないで」
暗い部屋の中で、エリオットが小さく笑う。
シュウも枕へ顔を押しつけながら、結局少しだけ笑った。
今日一日、北方調査は進めなかった。
新しい古文書も読まず、地図も開かなかった。
それでも学院で学び、友人たちと話し、卒業後の旅を少しだけ想像した。
そして明日には、止まっていたもう一つの調査が動き出す。
漆黒魔力。
自分が中学時代に「最強だから」という理由だけで作ったはずの力が、この世界では普通の魔法と少し違う反応を見せている。
何なのかは、まだ分からない。
だからこそ、勝手に答えを決めない。
今日学んだことも、これまで調べてきたことも、その一点では同じだった。
シュウは目を閉じる。
明日はまず、説明を聞く。
それから考えればいい。
窓の外を通り抜けた夜風が、閉じた窓を僅かに鳴らした。静かな寮の夜の中で、その小さな音だけがしばらく残り、やがてシュウの意識もゆっくり眠りへ沈んでいった。




